はてなキーワード: 原理とは
スレッタ:水星での経験に基づく価値観、社会への考えを回想等で明確に。恋愛・友情・家族重視の背景を描き、行動原理に説得力を。周囲からの酷い仕打ちに耐えたり流されるだけでなく、意思を持って状況打開。母親の真意に疑問を持ち、自分で考え行動する場面を増やし、成長を描く。
ミオリネ:ベネリットグループ総裁の娘としての立場、地球との格差への問題意識を行動・葛藤を通して描写。父親への反発理由、理想の社会像を明確にし、「籠の鳥」脱却。父親の過去の罪への苦悩、答えを出す過程を描き、深みを。
シャディク:戦災孤児としての過去、スペーシアンへの複雑な感情を回想シーンで丁寧に。テロリストへの道を選んだ動機・苦悩を掘り下げ、共感・理解を得る。ミオリネへの恋愛感情以外に、掲げる理想、社会変革への想いを明確にし、「百合の当て馬」脱却。
ラウダ:愛人の子としての境遇を描き、グエルへの依存と劣等感、内面を掘り下げ、行動原理に説得力を。殺人未遂後に平然とするのではなく葛藤し周囲との関係修復することで「小物」脱却、成長を描く。
社会的弱者のステレオタイプ化を回避。個性、状況への葛藤を丁寧に。特に体制反抗キャラの内面を掘り下げ、行動に説得力、共感を得る。
グエル優遇によるアンチ増加のバランス悪い脚本脱却。各キャラに均等にスポットライトを当て、成長・葛藤を描き、バランス良い物語に。
シュバルゼッテ: 「噛ませ犬」脱却、性能を活かした活躍の場を用意。開発経緯・機体特性を説明し、メカとしての魅力を。
デミバーディング: 「輸送機」脱却、戦闘・救助等、多用途性を活かした活躍を。ニカとチュチュの関係性深堀りで、存在意義向上。
敵メカ: 個性的なデザイン、印象的な活躍で、「やられ役」脱却、魅力的に。
クワイエット・ゼロ: 目的、仕組み、影響など物語の根幹に関わる設定については明確な説明を。ノートレットの理想、デリングの思惑、プロスペラの目論見、動機・目的を明確にし、深みと説得力を。現状は無責任。
罪と罰: 罪を犯したキャラには償いの過程を。特にプロスペラやデリングやペイル社CEO等、殺人の罪を犯した大人キャラの責任を曖昧にしない。ラウダの殺人未遂も「無罪放免」でなく、成長する過程を描き、納得感を。
宇宙議会連合: 雑な悪役脱却、成り立ち、内部権力闘争、スペーシアンとアーシアンの関係性掘り下げ、深みとリアリティを。
SF設定: リプリチャイルド等、ご都合展開でなく、物語のテーマ、キャラの葛藤に深く関わる要素として丁寧に。
格差問題: 「背景設定」でなく主軸に据え、深く掘り下げ。シャディク等を通し、不条理、苦悩を描き、問題提起、共感を。現実の紛争やテロを想起させる描写は慎重に扱うべき。安易な対立は問題を矮小化、偏見助長の危険性。
倫理観: 弱者やマイノリティを「不幸」「ヘイトタンク」扱いでなく、尊厳を守り、明確な倫理観を。「信賞必罰」「勧善懲悪」等、普遍的倫理観を示し、若者に正しい価値観を。
社会問題: 多角的視点を提示、視聴者に考えるきっかけを。各キャラの問題への向き合い、答えを丁寧に描き、深みと説得力を。
関係性: 「別れ」だけでなく「共に歩む」関係性も丁寧に。特にスレミオは「結婚」を唐突に描かず、愛の育み過程を丁寧に描き、納得感を。声優への説明不足解消、制作意図を持って関係性を描き、演者にも伝える。
若者向け: 希望あるメッセージを。抑圧、不条理、差別等、困難に直面しつつ、意思で未来を切り開く若者を描き、勇気・希望を。
普遍的テーマ: 「ガンダム」として戦争の悲惨さ、平和の尊さを現代的視点で。GUND技術を「兵器」だけでなく、医療技術としての可能性、人類の未来への影響を深く掘り下げ、深みとメッセージ性を。
説明・配慮: 視聴者の考察任せでなく、必要設定・情報を明確に説明。特に物語の根幹設定、キャラの行動原理は丁寧に説明責任を。声優・視聴者に制作意図を明確に伝え、共有し、理解を深め、一体感を。
若者: リサーチで関心・価値観を反映。特に倫理観、社会問題描写は慎重検討、専門家の意見も取り入れ、細心の注意を。
「水星の魔女」は多くの可能性を秘めた作品だった。上記の改善で、完成度高く、多くの視聴者に愛される作品になったはず。「若者向け」なら、身近な問題、共感できるメッセージを丁寧に、希望を持って描くことが重要。制作側は視聴者への丁寧な説明、明確なメッセージ発信で、理解を深め、多くの共感を得られたはず。批判を真摯に受け止め、より良い作品作りに活かすことが、制作陣の責任。
ある日、ふと周囲を見渡すと、世の中がなんとも不可思議な装置のように感じられることがある。装置──それは生き物ではなく、人間を歯車として組み込み、回し続ける巨大なシステムだ。システムは常に成果を求め、誰もが計測可能なアウトプットを求める。声をかけてくるのは、行動経済学をよく知った巧妙な営業マンのような存在で、やんわりと「もっと頑張れ」「もっと資格を取りなさい」「もっと社会に貢献しなさい」と囁いてくる。
しかし、そうした声に合わせて踊らされるほど、私たちは疲弊する。「人間」はいつしか「成果製造装置」に還元されているかのようだ。何が悲しくて、無理やり筋肉を緊張させ、呼吸を速め、わけの分からない新しいツールや流行のスキルに追われ続けなければいけないのか。これが「社会」なのか。もはや社会とは、精神異常なまでに強制的で、我々を常に駆り立てる、巨大な指示装置になってしまったかのようだ。
奇妙なことに、その歯車たちは自らの苦しみを自明として受け入れているようにも見える。苦痛を疑問視せず、「これが普通だ」と言わんばかりの表情で、生産性向上のためのセミナーや自己啓発の指南書に群がる。彼らは、社会という名の機械の油となって働くことを強いられ、その行為を“正常”と呼ぶ。
一方で、そんな「正常」な行動原理が受け入れられない者たちがいる。社会のペースに乗れず、目的不明なランニングマシンを降りたいと思う者たちだ。全員がアウトプットしろと責め立てられるなか、インプットだけで満足し、自分の内部で静かに知識を発酵させたいと願うような人もいる。彼らはこの世界に息苦しさを感じ、巻き込まれたくないがために距離をとる。すると、周囲は言う。「あの人はおかしい」「社会不適合者だ」「精神疾患なのでは」と。
その瞬間、明らかになる事実がある。社会が「正常」と呼ぶ基準は、歪んだ標準でできている。何が美徳か、何が正解かを不気味なほど確信的に決めているシステムが、少しでも違ったリズムをもつ存在を病的な異端者として処理してしまう。その価値観がいかに偏った「精神異常」を孕んでいるか、本人たちは認めようとしない。
こうして、“まとも”な人々──つまり、自らの意志で学びたい時に学び、出力したい時に出力する、主体的なペースを大切にする人々──が、「精神疾患扱い」されてしまう不条理が生まれる。実際には彼らこそが人間的な感覚を保ち、理性やバランス感覚を持ち合わせているにもかかわらず。
もちろん、「社会を変えよう」と躍起になることは、別の苦痛を生む。社会装置は巨大で、簡単には方向を変えない。ではどうするか。彼らは社会の強制に巻き込まれないよう、自分で生存圏を確保し、好きなときに好きなことを学び、必要なときだけ少量のアウトプットで最低限の関係性を維持していく。たとえ「精神疾患扱い」されようとも、そのレッテルに価値を与えなければよい。彼らは静かな反抗の中で、自分の精神世界を豊かにし、社会の狂った価値観から距離をとるのだ。
不条理な世界で、「まともな我々」ができるのは、狂気を狂気と見抜き、自分なりの生き方を守ること。つまり、偽りの正常性を求める精神異常強制圧力社会に膝を屈せず、内側で燃える知的好奇心や創造的エネルギーを、ほんの少し外に漏らす程度で満たす戦略を取ることだ。結果として、その小さな自由と抵抗こそが、彼らの心を健やかなバランスに保っている。
意思決定の権利は有権者にあり、意思決定の結果は絶対的に正しいものである。
この世に絶対に正しい真なるものがないと思ったら大間違いだ。意思決定は絶対的に正しいものなのである。
例えば斎藤知事の再選について、アンチの方が言うのが、SNSにはデマも多く、斎藤信者and支持者はそのデマ情報に影響されて投票行動をしたという「アンチ型の紋切型の固定観念」だ。
だが、例えばアンチをテレビメディアに影響を受けた人物だとすれば、これもまたテレビの発するデマ(偏向・『偏情』報道)を信用していたがために、アンチ行動に走っている者だという事になる。
何が言いたいかといえば、どちらも共通点は自分では意思決定をしたと思い込んでいるが(何かある否認すべき)メディアの情報に乗せられている典型的な人物像だという事だ。
だが、この主張自体に問題点があって、それはそれがどちらであるにせよ主張者の想像上の話でしかないという事だ。メディアに現れた結果に対する解釈でしかない。
しかし、実際の民意はそんな所で動くのでは無い。メディアの情報が事実だろうがフェイクだろうが、その情報を元に判断をするのは有権者である。情報の信ぴょう性を判定する訳でも、与えられた情報により何かを選択する訳でもなく、有権者自身がそうした情報環境の中で意思決定をする。
何が正しいか考えた結果が常に意思決定の答えである。それなら間違える事はあるだろうか?無い。無いと断じて言おう。ここに信を置かないことが間違いで不信の始まりである。それにそのプロセスは永続的に展開するのだ。
だから、間違いなんてものもなく、正しいものがあるなんて事もない。存在するのは常に疑問と肯定だ。
この基本状態をまず徹底的に民主主義者の腹の底まで沁みつけること。
会話はそれからよくやく成り立つ。
この成人たちの政治的な意思決定の方法に現在民主主義的形式を用いている(他の方法でも構わないが、これは神の用意した器みたいなもので変えられず、変えることに意味がない公式的なもの。自然の変動により変化する。)とすれば。
そう、目的は方法の千差万別に依らず原理的に一つであり、同じなのだ。
それは意思決定である。究極根底的、そして普遍的に意思決定のプロセス自体が目的であり、常に意思決定は下される。意思決定の永劫回帰が人類的な目的であって、社会的な各制度はその都度の決定の方便たるに過ぎない。
だから、何にせよ肯定的であるはずの意思決定の結果を、その意思決定性の時点から否定すると反発が生まれる。それは人格否定と同等だからだ。
それを前述の考えは犯している。もしメディアが反感を生んでいるとすれば、そのような態度を取ってはいやしないだろうか。
特定の方向に何かを引っ張ろうとしたり誘導したりするような事は役割とも違えば、健全な世論形成に寄与する目的に適った事でもないのだと思う。
お前やってないだろ
知らなくても一番わかってそうに出すように原理的に作られてる
例えば今ワイが適当に考えた「クシャナ風オムレツのレシピ」で出るのはこれや
映画『風の谷のナウシカ』で登場するクシャナのオムレツを再現したイメージで、シンプルながらも濃厚な味わいのオムレツを楽しむレシピです。
材料(2人分)
• 卵:4個
• 塩:ひとつまみ
• コショウ:少々
作り方
1. 卵液を準備する
ボウルに卵を割り入れ、牛乳、塩、コショウを加えてよく混ぜ合わせます。ふんわりと泡立てるように混ぜるのがポイントです。
2. 具材を用意する
トマトを薄切りにし、チーズも使いやすいサイズにカットまたはスライスします。
3. オムレツを焼く
フライパンにオリーブオイルまたはバターを中火で熱し、卵液を流し入れます。
全体が少し固まってきたら弱火にして、中心にトマトとチーズを乗せます。
4. オムレツを仕上げる
具材を包み込むように卵を折りたたみ、ふっくら仕上がるように形を整えます。焼き加減はお好みで、半熟でもしっかり焼いてもOK。
5. 盛り付ける
焼きあがったオムレツをお皿に盛り付け、バゲットを添えて完成です。
• トマトの代わりにパプリカやズッキーニを加えると、クシャナの世界観を感じる野菜たっぷりのオムレツになります。
「この、昭和の時代に置いて行かれた感を笑い飛ばしてくれたのが金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』。昭和の主人公が令和の社会で堂々と昭和のルール、人の道の原理原則を貫いて令和のルールに疑問符を投げかけながらも、対話することで物事を解決していく道を探る。時代がいつであれ、不適切なことは不適切なのだと教えてくれる」とし、「10月に行われた衆議院選挙、自民党の選挙公約が“ルールを守る”。国権の最高機関で法律を制定するセンセイ方の公約がこれ。不適切にもほどがありませんか?」と“皮肉”で締めくくった。
うーんこれは左翼賞
何日も前から飯島、下新城、追分のあたりに出没してたでしょ。その状況で有効な対策を何かしているんだろうか?気を付けてくださいとアナウンスするとか?あとはパトロールくらい?なんともなあ。最悪こういうケースもあり得ると想定できるだろう。抜本的に法律とか変えないと機動的に対応できなくて経済、人命ともにダメージが大きすぎる。まずね、安心感がないのよ。凶器もった犯罪者がうろついているようなものよ。そういやこないだ警察が調達した対クマ装備は役立ってんのかね。
テレビの報道だと山から5キロもあるんです・完全な市街地でクマなんか出るわけない場所です・驚きですね、みたいな論調で意外性を強調する演出に嫌気がさすが、山からの距離の半分は田んぼだし去年は野村交差点で熊出てたし新屋の一件も怖かった。つまり市街地内部への侵入はもはや意外性は薄れつつある。もちろん驚きもあることはあるし、信じたくない感じもあるが。
それにしてもヤフーのコメント等を見ていると過激な意見が散見される。あれはなんだ。
クマは徹底的に殺せ、絶滅させろなどという意見まで目にした。一方、とにかくクマを保護すること、野生生物の保護を強調するコメントもある。こちらは気持ちは理解できるが、住民の安全を考えると最低限の処分はせざるを得ない面もあろう。
冷静に考えれば絶滅なんてさせる必要はないし、その手間とお金も掛けられないし、生態系に不可逆の変化を起こして影響が計り知れない等を思えばそんな意見なかなか出てこないはずだが、こういう過激コメントしている人たちは何か別の精神性と原理でコメントしているようでちょっと理解できない。
地元民でもないクマ被害が身近でもない人たちが頭の中だけで噴きあがって、ただただ有害な存在は排除しろという過激さに酔っているようにも見える。暴力、徹底、排除、それら自体が目的化しつつある負の永久機関、みたいな。勿論、自分の身近ではない問題について考え意見するのは自由だし、むしろ社会全体のために大切だ。しかしそういう公益性からこぼれちゃってる感がある。それともただ一番過激なこと言ったやつが優勝みたいなアソビのノリなんだろうか。
『メタ認知能力が極端に欠けている人』って表現は、"自惚れていてる"とか"井戸の中の蛙"みたいな評価に限定して使われているイメージがあります。
けど、ここで言いたいのはそういうことじゃなくて、エラー処理とか停止処理みたいな超基本的な考え方すら持ってなくて、それに気づけないままでいられる人のことです。
具体的な方法を知らないとかじゃなく、そもそも「そういう発想自体がない」って話で、これは単なる知識不足や視野の狭さ以上に、認知の仕組みそのものに問題があります。
時間が自然に解決してくれるようなものじゃなくて、かなり厄介な問題だと思います。
エラー処理とか停止処理って、ITだけの話じゃなくて日常でも必要なスキルです。
たとえば、「お目当てのプリンが冷蔵庫にないことを確認」(エラー検知)したら、フツーは「今日はプリン食べるの無理だな」って切り替えるじゃないですか。
冷蔵庫を何度も開け続けるのはちょっと変で、フツーは「開けるのをやめる」(停止する)って行動に移りますよね?
仮に、寄生獣に取り憑かれたために、冷蔵庫を開け続けちゃうのだとしても、「右手が勝手に動いてる?」って気づければ、他の方法を考えることができます。
けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
メタ認知は知識の応用力、いわゆる"知識移転(Knowledge Transfer)"にもめちゃくちゃ重要です。得意分野や好きなことだと、この力が特に発揮されやすいですよね。
たとえば、熟練プログラマーが別の言語でもスキルを応用できるのも知識移転の力があるからです。
でも、興味が薄い分野や苦手分野だと同じ力を発揮するのは難しい・・・それは自然なことではあるのですが、基本スキルや共通原理くらいはちゃんと押さえておくことが期待されます。
たとえば、プリウスの運転手が軽トラックをまったく運転できなかったら、それは個性とかそういう話じゃないですよね?致命的に知識移転能力が欠けてるってことです。大きさや操作性が違うにしても、ハンドル操作とか交通ルールみたいな共通点を活かせないのは深刻です。
仮に、共通点を見出せ無くなったのは異世界おじさんに「記憶消去魔法(イキュラス・キュオラ)」をかけられたからだとしても、「もしかして、記憶を消されてる?」って気づければ対処方法を考えることができます。けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
知識転移がうまくいかないのは、異世界おじさんに記憶を消されて気づかない以外にも、その対象の理解がそもそも極端に浅いことも大きな原因になっていそうです。
たとえば、『りんご=赤』って覚えるのは、学習コストを下げるためによくあることです。この簡略化を意識できる人は、この情報がいろんな側面の一つにすぎないってちゃんとわかっているので、黄りんごも青いりんごも許容します。りんごの品種や生育環境、熟成度みたいな要素が色に影響するんだろーなとか、味とか他の特徴も多次元的に捉えています。さらに、必要があれば「なんで赤いんだろう?」とか掘り下げて学ぼうとするオープンな姿勢もあります。
多次元的に対象を見れる人は、『見たままをありのままに受け入れて、自分の直感を大切にできる人』と言い換えても良いかもしれません。
だってりんごは、どう見たって単色の赤じゃないですからね。視覚的にも直感的にもそう感じるはずです。
一方で、こういう視点や意識(見たまま受け入れる、自分の五感や直感を信じる)がない人たちがどうなるかというと、
『りんご=赤い』っていう単純な答えでテストに合格して、「自分の理解は完璧だ!」って思い込みます。
現行のシステムでは、ぶっちゃけ深掘りする必要性がないので、結果として表層的な学びに終始してしまうのです。
で、こういう表層的な学習パターンが続くと、やがて複雑な問題に対処できなくなります。
同世代と話してもピントがずれた会話をしたり、科学、医療、社会問題、仕事の議論でトンチンカンなことを言ったりしてしまうわけです。
違う文脈で知識を応用するなんて、そもそもの理解が浅いと到底無理な話です。
新学習指導要領のSelf-Regulated Strategy Development (SRSD :自己調整型学習)って『自分で考えて学ぶ力』の改善策としてまあまあ良さそうだけど、
現状の受験システムとか評価基準が表層的な学びを助長するままだと、限界はある気がします。
それなら、メタ認知がないAIが多次元的に学んでいくプロセスを観察して、新しい教育のヒントを探すほうが面白いかもしれません。
増田のタイトルの通り、学歴があっても、長文を読んで理解するどころか、単純化された動画の内容さえ把握できなかったり、同世代との会話がどこまでも噛み合わなかったり、仕事の指示が通らなかったり、そんな人っていますよね?
これって、上記に書いてきたように、メタ認知能力が極端に欠けてることや、知識移転能力の欠如、表層的な学習が積み重なった結果なんじゃないかと確信を持っています。
大卒以上であっても、こういう人が無視出来ない数いるのは、正直「なんで?」って思う人が多いんじゃないでしょうか。でも、この「なんで?」の背景には、「勉強やデスクワーク=知的で選ばれたもの」っていう妙な誤解がある気がします。この固定観念が、現代社会における知性や労働の本質を見誤る原因になってるんじゃないかなと思います。
しかし、その一方で、社会の基盤を支える多くの職種が軽視され、不当に評価されている現状があります。
なぜかというと、"知識労働者(Knowledge Worker) "ではなく、"知的労働者" って呼称が使われたりすることからもわかるように、肉体労働者は知能を使わないみたいな妙な誤解を悪用し、仕事の複雑さや多様性を極端に単純化し、賃金差別(経済格差ではなく差別が適切)を正当化する輩がいるからです。
実際は、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
例えば、エラーを検知し、適切なタイミングで作業を中止し、問題を解決する–これらは、メタ認知能力と深い経験に基づく高度な知的作業ですよね?プログラム組んだことなくてもロボットを作ったことなくても、誰しも直感的に知っていることです。
障がい者雇用に最適化された職場を除けば、こうした能力に欠ける人がフィジカルワークに適応することは非常に困難です。その理由は単純で、迅速に適切な判断ができなければ、事故や怪我を招き、最悪の場合、死人が出るからです。
フィジカルワークが出来そうもない人は、なんとなく知識労働を選ぶことが多いです。必ずしも自分の適性を十分に理解しているわけではなく、「選択肢の中で最も受け入れられる道」として選んでいることが多いです。でも、極端にメタ認知や応用力がないと、どんなに学歴があっても知識を活用できず、「結局この人は何ができるの?」って評価に甘んじちゃうことになります。たとえば、エラーメッセージに明確な解決方法が書かれているにもかかわらず、それを読み取れず(一応、読んではいる模様)、ただそのまま誰かに転送するだけの技術者とか、その典型ですよね。
もう一度言いますが、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
それがある前提で、重要視されるのが、物理筋肉(運動能力)なのか、論理筋肉(知識)なのかって違いだけです。
1つ前でも少し書きましたけど、知識って筋肉みたいなものだと思うんですよね。鍛えればどんどんムキムキになるけど、筋肉単体ではその魅力をフルに発揮できない。
物理筋肉も論理筋肉も、それをうまく使うスキルが必要です。データベースが単体ではただの情報の塊で、システムと連携して本来の力を発揮するのと同じです。
で、そのシステムを設計するには、基本的なエラー処理や停止処理の考え方は欠かせません。そして、エラー処理をするためには、知識を他の文脈で応用する力、
つまり『知識移転能力』が必要です。それを支えるのが、メタ認知能力なんですよね。
国の競争力を維持する上で、論理筋肉マッチョを育成することは非常に大切ですが、その筋肉を有効活用するためのメタ認知能力がないと、いくら筋肉がついてもリソースの無駄になってしまいます。
というか、論理筋肉マッチョに限らず、どんな分野でも同じことが言えます。リソースの無駄遣いを避けるために、筋肉の活用法を理解する能力を養うことは、なによりも優先されるべき取り組みだと思います。
(長文が読めない、動画の内容すら理解できない、仕事や科学や社会問題の議論でトンチンカンな発言をする、仕事の指示が通らない、でも広範囲に知的な課題は持っていない、なんなら大学も卒業している――そんな人たちの姿を見ながら書いてます)
強姦したい ← 一回の快楽のために人を殺す倫理観の無さは驚くが欲望は理解できる
誘拐しようとしたけど失敗した ← アホすぎるんだが何がしたかったのかは伝わってくる
人を殺してみたかった ← え?どゆこと?
生成AI推進側も変なこと言ってるやつはいるが、そういう一部のおかしい発言だけ取り上げて仲間内で盛り上がってる反対派いるけど内輪ネタにしかなってないこと分かってるんかな。
twitterに流れてくる主張を見ると情緒的、感覚的、奇妙な比喩で構成された意見が多いように見えて、仲間内で共感得るにはいいかもしれないが外側に理解されるとは到底思えないものが多いのよね。
あと深層学習の原理とかは大学で取り扱うようなものだし完全に理解するべきとまでは思わないが、的はずれな指摘をしないためにもある程度は勉強すべきだろうし、現状の政府への生成AIへの認識に関する資料は普通に日本語で書いてるのだから読むべきだろう。当然やってる人はやってるのだが一部な印象が強い。