はてなキーワード: 解説とは
こういうイメージだけでデマを流す、自分が善良だと勘違いしてるデマ生産害悪インターネッターよりはタイミーの方がさすがにマシだと思う
ちゃんと労働条件通知書または雇用契約書が必要である事を雇用主に対して明示しているし、それを守らなければ当然違法です
何ならタイミー関係なく田舎の零細企業とかは守ってなさそうだよね
あと、まるでタイミー経由なら法のルールを抜けられるかのように喧伝するのはむしろそれこそ違法行為を幇助しているんじゃない?
なんとなく
youtubeのボリュームを最大にして、スピーカーのボリューム操作で音量調整する
のがいいかなと思ってそうしているけれど、みんなそうしてるのかな?
youtubeのボリュームを半分くらいに下げた状態を通常にして、スピーカーのボリュームをあげると、元ソース側をスピーカーであげることになって音質が悪くなったりする?
社会保険関係の質問に対する回答はどれも丁寧でわかりやすく、皆親切な解説をしてくれる。しかも最初の回答つくまでのスピードが10分とかそこらで異様に早い。それにもかかわらず内容が非常に詳しいので、投稿された質問を発見するやいなや、即座に記述開始してるようにすら思える。
法律なんかは初手でイライラ感丸出しで説教してくるヤバいのが高確率で湧く(元銀行員の開業司法書士のジジイとかよく登場してウザイ)。
英語に関しては、全く間違ってる内容を専門家然として回答する人とか、「調べればわかるはずです」とだけわざわざ回答してくる奴とか(これやられると、こいつのせいで「回答が付かなかったことによる自動再投稿」がなされなくなるからマジで嫌がらせでしかない)平気でいる。
社会保険関連ってスペシャリスト界隈にしてはまともな人、人格者多すぎじゃないか?と本当に驚かされる。
そんだけ長期見てきた人らにめっちゃ後足で砂かけてくやん
4年間いろんなVを並行して見漁っていたんだろうけど
結局キミですら愛想つかすような人間がゴロゴロいたってことでしょ
だったらその4年間毎日原神にログインしてフレーバーテキストの隅々まで読み漁って考察やらキャラ解説やらの動画見て自主研究する時間のためにYouTubeを使っていた方が豊かな娯楽体験が得られたんじゃないか?
似たようなアニメ顔キャラクターを日々眺めるならさ、こうした高予算の上澄み系ゲームは公式からのコンテンツ供給が膨大だから、日々中身の薄いゲーム配信をだらだら繰り返すVよりも濃度は高いと思うけどね
属人的な魅力頼みのエンタテイナーであるVをハシゴするよりは、ウン十ウン百億かけて大規模に製作されてる大型アニメ調運営型ゲームを数本並行して4,5年ハシゴしてたほうが普通に充実する気がしない?
どうしても疲れた脳と体で何も考えず画面を眺めながらゲラゲラ笑う昭和のテレビっ子みたいな娯楽消費スタイルしかする余裕ないんだっていうなら仕方ないけども
もしVというエンタメ形態そのものに飽きてきている節があるなら今は有力なオタクゲーマー向けタイトルが両手で数えられるくらいある恵まれた時代だから趣味をシフトさせるのは難しくないっピ
スター時代の曲がちょっと寂しいので、リストの超絶技巧を味わう作品のみで七選を組んでみようと思う。既に出したのは除外。あとブコメ。
推奨録音にkyushima氏みがあって大変共感できる増田。次世代を引っ張っていくであろうユンチャン・リムの超絶全曲や、彼に影響を与えているニレジハージの伝説(波)あたりを加えても良いかもしれない。
kyushima氏(http://kyushima.web.fc2.com/cd/index.html)に言及する人が現れた(笑)もう更新が止まって久しいけど、ここの御陰で知らない演奏にいくつも巡り会った(オフチニコフとかベルッチとかロルティとかハフとか)。
ユンチャン・リムの超絶を挙げてくださったのも感謝する(未視聴/クライバーンコンライブ https://amzn.to/4iwxti2)。自分のCDボックス漁ったりして、未視聴盤はたくさんあると実感した。ニレジハージは海賊録音でしたっけ? 聞いて確かめなきゃ
1. ドン・ファンの回想 S.418(1843年)
モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」からメロディーをとってアレンジしたもの。ノルマの回想に次いで(それ以上に?)取り上げられていると思う。騎士長のテーマ(ドン・ジョヴァンニに警告するシーン)から始まって重苦しいのだが、そんな嵐が去ると「お手をどうぞ」の主題に基づく変奏が現れ、最初の技巧的な見せ場になる(この主題はかなり人気があり、ショパンも編曲していたはずだ)。後半は「シャンパンの歌」の変奏が騎士長の動機を挟みながら繰り返され、繰り返しの度にどんどん華やかになっていき、終幕を迎える。
私はマッティ・レカリオ(Ondine/ブゾーニ編なので一部カットがある)が好き。新旧あるアムラン(Music&Arts/Hyperion)も恐ろしく安定した演奏(新録の方が音は良い。あとハン狂2が入ってる)。クズミン(Russian Disc/ブゾーニ編)も強烈だが廃盤倒産(激怒)。ペトロフ(Melodiya)は持っているが、遅っ!と思って合わず(食わず嫌い・・・)。ロルティ(CHANDOS)もきれいな演奏だけどのんびりした感じ。この曲はノルマほど聞かないのでそんなに思いつかない。誰か教えてくれ。あとフィリペツが録音してくれないかなぁ・・・。
廃盤になっているレカリオのCDにはタウジヒ編の「ワルキューレの騎行」なども入っているし、ブゾーニ編のフィガロ&ドン・ジョヴァンニ幻想曲もある(リストが途中放棄した作品)。本当に再版してほしい。配信はある。
2. 「ユグノー教徒」の回想 S.412(1837年出版/第2稿1842年)
ジャコモ・マイアベーアは、パリで19世紀前半に大成功を収めた作曲家。サン・バルテルミの虐殺をモチーフにしたオペラ「ユグノー教徒」は何度も再演され続けていたが、20世紀には忘れられた(今また再評価されているらしい)。音楽史的にマイアベーアの影が薄いのは、彼が展開したオペラ書法の多くをワーグナーやヴェルディといった後発者たちが更新して塗り替えていったからかなと思っている。もちろんリストのピアニスト時代に人気だったマイアベーアを編曲していないはずがない。ゲレリヒの本にも、レッスンでマイアベーアを弾く弟子が出てくる。ハワードもライナーでとても強く推している※。あまり録音は思いつかない(申し訳ない)。NAXOS全集の第1巻にコーエンの演奏が収録されているが未視聴。フィリペツ、録音してくれ。
この曲はユグノーであるマルセルのライトモチーフとして「神はわがやぐら」を使っているのだが、それってルター派じゃ・・・?(カルヴァン派でも使われていた??)
第1稿ではラストに原曲通り第5幕カトリック兵士の合唱の主題(この歌詞がまたやばくて・・・異端を殺せ!神がそう望んでおられる!という血なまぐさい中身)が入ってとても雰囲気があったのだが、別稿では「神はわがやぐら」の変奏を強化する対応になっていた・・・と思う(ハワード聞き直さないとなぁ)。ただ、あの狂気の合唱が魅力だと思っている。第1稿では合唱を遮って「神はわがやぐら」が入ってくるのだが、これが幅広いアルペッジョで一掃され、再び合唱に戻るという原曲ラストの射殺シーンを思い出させる流れ。
※オペラの方も20世紀にも再演されてきたが、特定の歌手たちのための舞台に過ぎなかったけど、今や再評価の時だということが熱っぽく語られている。特定の歌手って多分サザーランド?
気分転換。後期の出版になるが、実はこの曲のおおもとはスペイン公演時の印象を書き留めた45年の「スペインの旋律に基づく演奏会用第幻想曲」にある(ハワード全集に当然ある)。今のスペイン狂詩曲の形になってのはヴァイマール時代らしいので、超絶や巡礼同様、前期に作られ、中期に改訂されて充実した曲の一つだ。
前半ではフォリア、後半ではアラゴンのホタという舞曲から成る。どちらも華々しい技巧で彩られ、最初から最後まで魅力的で見せ場が多い。
名盤としては、エフゲニー・キーシンの録音(RCA)があるだろう。彼もすっかりトシだが、これは子どもの頃のもの。恐るべき完成度。日本公演の映像があるが、すごい演奏(https://www.youtube.com/watch?v=Lb6EzTpGv3s)。
スティーヴン・ハフの録音(Virgin)も非常に良い(kyushima氏のサイトで◎だった上、入手性が良くて最初に聞いたので、完全に嵌まってしまっている。ただフォリアが盛り上がるところで、楽譜にあるシではなくドの音を弾いているのはなぜ?)。ぶっ飛んだ路線としては、ポリーナ・レスチェンコ(https://www.youtube.com/watch?v=3EB0f-ra9Eg)。
4. ギョーム・テル序曲 S.552(1842年出版)
世に名高いロッシーニ最後のオペラの序曲である。どう考えてもおうまさんのテーマ。
このオペラが出たのは1829年以降ロッシーニは完全に引退状態になるのだが、亡くなるのは1868年。引退には政治情勢が大きく影響している。ロッシーニの滑稽な作風は、明らかに復古的なウィーン体制下の小市民の楽しみに合致したもの。それでも、このオペラは再び騒乱の時代が訪れることを予感させる緊迫した作品(題材自体が既にそうだ)だったが、これが最後になった。
中々演奏がない(ハワードはもちろん、NAXOS全集にゲキチ)。デュシャーブルのCD(EMI)が良いと思う。割とセカセカ弾くタイプのピアニストだと思うけど、後半はそれがすごい追い込みに繋がってる。ただ、まだまだこの曲のポテンシャルはあるんじゃないかと。フィリペツ(ry
コメント返信の時に出した、以前コンクールライブでたまたま見た映像が凄かった(https://www.youtube.com/watch?v=GRYLy8O3VIQ)。
中国のピアニスト牛牛のCDはまだ聞いていない(MV:https://www.youtube.com/watch?v=ed9nRoFyDIw)。彼は小学生の頃から有名で、ピアノの森(二期)でパン・ウェイの「中の人」(あるいは「手」?)を務めた人。
文字通りベートーヴェンの交響曲の編曲(本編での落選から復活)。出版は後期にあたるが、「幻想交響曲」の編曲同様、ピアニスト時代から既に手がけており、部分的には出版されていた。リストはベートーヴェンの布教にかなり熱心に取り組んだピアニストだが、これがドイツ・ナショナリズムの高揚を抜きにしては考えにくいことは既に述べた。
以前に医師の夏井睦氏が運営していた超絶技巧ピアノ編曲のホームページに3・5番だけだがすごく詳しい解説が載っていて、当時からピアノ好きだった人は見ていたんじゃないか、と老人会発言(Web Archive/ https://web.archive.org/web/20090104102239fw_/http://www.ne.jp/asahi/piano/natsui/Beethoven.htm)。ところでブコメにバッハ=リストのBWV543を挙げている人がいたけど、あれは原曲の良さに甘えているだけの手抜き編曲だと夏井氏はバッサリ斬っていたなと思い出しておっかねえなあ・・・と。
カツァリス(Teldec)とコンスタンティン・シェルバコフ(NAXOS全集)の全曲録音が有名(その後も全曲でなければちょくちょく録音例は見る)。やはりフィリペツ(ry
部分録音だと、kyushima氏はグールドの6番をかなり評価していた気がする(私はよく聞かないのでわからない)。牛牛のギョーム・テルが入ってるCDにも5番がある(未視聴)。以前ロルティが5番を弾く映像がYouTubeにあったと思うけど、削除された? それとも記憶違いか。
6. シューベルト編曲もの(超大雑把な紹介になっててすいません)
リストはシューベルトの歌曲の多くを編曲している。「セレナーデ」も「ます」も「エレンの歌 第3番(アヴェ・マリア)」もあり、至れり尽くせり。リストは生前「魔王」(S.558/4)の編曲者として一番知られていたらしい(ゲレリヒの訳書32頁。自虐的なセリフとして出てくる)。ハワードのライナーには、フィッシャー=ディースカウが、変なのと思われてるけどリストが編曲してくれたおかげでシューベルトの歌曲が今日まで生き残ってきたんですよと発言したというコメントが引用されているが、出典が分からない。ご存じでしたら教えてください。
ウィーンの夜会も絢爛豪華。特に6番が有名。本編での落選を残念がっている人がいた。
個人的にはキーシンのリスト録音集に入っている演奏が好き。他の演奏をあまり聴いたことがない。フィリペツ(NAXOS全集)が新録を出したようなので聞いてみるつもり(コンソレーションの初版とセットだとか)。
前期作品。この手の超絶技巧を見せびらかすための精神性のかけらもない曲は当時のはやり。でもとっても楽しい曲で大好きである。シフラの演奏が有名だが(Hungaroton/映像あり https://www.youtube.com/watch?v=tmq5JBpFf9w)、今聞くならフィリペツ(NAXOS全集)が良いと思っている。余裕綽々で本当に惚れ惚れする。
以上である。いやいやなんでシューベルトこんなひとまとめなのとか、忘れられたワルツとか愛の夢はまた落選かとかリゴレットとかまだオペラものあるだろとかショパンの歌曲とか「献呈」とか色々納得はいかないところもあるだろう。でも一旦ここで締める。どうもお付き合いありがとうございました。
一人プレイのオンラインRPGって性質上、取り返しつかない要素がほぼ存在しない(最初の主人公の男女選択くらいだ)し
ターン制の観念を覆すくらいよく練られた戦闘システムだから解説動画とか漁って研究するのも楽しいぞ
まあ中国メーカーの無料ゲーだから舐めてかかって雑に遊ぶくらいでも構わんし、JRPGよりJRPGしてるとこあるから親しみやすいはずだ
https://www.youtube.com/watch?v=qeEnSoAJ7no
YouTubeで、ゆっくりやずんだもんを使って世界の風俗について解説しています。
僕の名前はズンだもん今日はロシアのサンクトペテルブルクに来てるのだ街並は最高に綺麗戦争の影響で観光客が少ないからストレスフリーで観光できるサンクトペテルブルグは今遊びに来るには最高の街なんだよね
でもなんと言ってもこの街の素晴らしいところは住民がめちゃくちゃ可愛いロシア人ばかりってことモデルみたいなスタイルの女の子がワンさか歩いてるから大通りを歩くだけで可愛い子に目移りしちゃって目が疲れちゃうレベルなのだ
でもせっかくなら可愛いロシア人を見てるだけじゃなく話したり触ったりしたいよな正直触るだけじゃなくてあんなことやこんなことだって
よしそれじゃあ今回はサンクトペテルブルクの風俗に潜入してこの町の風俗について解説していこうと思うのだ
anond:20241209190903 の表題が混乱を招いたので解説
元増田表題は後述するように広義の山梨県下は富士五湖周辺などで観光経験があること、および甲府市内限定で巡ったわけでもないことから、
山梨県の中心部の(山エリアではない)市内観光という意味合いを手抜き的にまとめた結果
諸般の事情でブチっとなって中央線に飛び乗ってから泊まれる安宿を検索した
ブチっと泊ったはいいがどうしたものかと考えあぐねた末、上記スーパー銭湯での欲求の不充足を埋めるべく
ゆるキャンの地に行くことにした
電車で最寄り駅まで移動したあと黙々と歩いて到着
一人で浸かって、なんか色々と落ちるものが落ちた
終始、見晴らしがいい上に一度登ってしまえばひたすら下るだけなので
展望台のレストランはカロリー消費後なこともあり、とても美味しい
上記1回目は山梨を全く意識しておらず、観光目的でもないためノーカン
この公園なら高低差があるため紅葉が見れる帯域があるのではと川口湖畔から強行
結果は外れ
当初は箱根で紅葉狩り予定だったものがズルズルと足を伸ばしたものなため
笛吹川フルーツ公園に対する家族の印象が良くないものに終わったことに懸念を抱き
長野旅行に行く途中でほったらかし温泉の来迎を組み込んでのイメージアップ作戦を図る
そこそこ成功
長野旅行の立ち寄りという体裁のため山梨観光という認識がなくノーカン
観光目的で立ち寄ったという認識からことごとく外れているという結果だった
今後軌道修正を図っていきたい
ある人がエンジニアには学位がいるといったが、ITは必ずしも必須ではない。
アルゴリズムとデーター構造の本は腐るほどあるし、競技プログラミングの問題を解く過程でも勉強できる。
ただ、githubのコードでK1,K2…Knみたいな説明をしてるところがあって、そういうのを理解するのに学位がいる。
正確に言うと学位をとる過程で身に着けた数学の知識やイロハが必要で、ここら辺に関するものを勉強するのは大学じゃないと結構難しい。
(プログラマーのためのわかりやすい数学の本というのもあるにはあるが、コンパイラーの本や量子コンピューターについて解説してるウェブサイトは数学の知識がある人向けに書いてあるので、学位がないものにとってはマジで地獄でした)
ただ、学位を取るには大学受験を突破しなければならず、情報系の大学はそこそこ偏差値が高いので、いわゆるまじめ系くずだと難しい傾向にある。
すまん。
俺には何を言ってるのかさっぱり分からないんだが。
そりゃまあ共産党が与党になったりしたら何か大きな変化は起きるかもしれんが、民主公明維新の連立政権が生まれたとして、それで財務省の役人が首切りにあったりするとはとても思えないんだが?
誰か解説して?
元のイラストを見てきたが、普通に絵が上手い。明らかな創意性があった。あれが二次創作ではないのなら、Pixiv の みんなの新着 のほとんどは二次創作ではなくなってしまうよ。
二次創作であることは必ずしも 絵の上手さ・創作の楽しみ を必要としないと思う。
特殊なファンアートであるという説明にはなってるが、ファンアートの一種であることは否定できてない。
二次創作はしばしば著作権侵害になりうる。塗り絵でも創作性が認められる場合もある。今回のイラストは元絵があるが直ちに著作権的な問題があるとは言えないと思う。
修正した(fixed)と宣言していようが、そこに創作性があるなら二次創作だ。原作の著作人格権を主張してるわけでもなし、歴史修正などは誰もしてない(できない)。
定義に照らしても今回の作品は、二次創作ではある、と言えると思う。
にじ‐そうさく〔‐サウサク〕【二次創作】 の解説
既存の作品をもとにして、新たな作品を創作すること。特に、マンガ・アニメなどの登場人物や世界観を流用して独自の作品を創作すること。また、その作品をいう。二次創作物。→二次的著作物
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%89%B5%E4%BD%9C/
筑波大の推薦入試は、非常に厳格な選考基準を設けた試験だ。皇族だからと特別扱いするというのは非常に考えにくい。経験ある人なら分かると思う。
仮に筑波大学の学長が「特別配慮をせよ」という指令を出したところで、それに生物学類の入試担当教員全員が従うというのは現実的ではない。これらの教員はそれぞれ生物学に関する一流の研究者だ。こうした指令で別配慮を強制するのはまず不可能だ。指令したところで、内部や外部にリークされるのは時間の問題だろう。
推薦入試の小論文は、生物学の専門知識や論理的思考力が問われるそれなりの難易度の試験だ。それは過去問を見れば一目で分かる。相応の能力がないと合格レベルの得点は獲得できない。教員側の採点も厳格に行わざるを得ない。おそらく受験者匿名で採点しているはずで、これも特別配慮はあり得ない。
個別面接は、親王が顔が売れている方なので面接官も意識せざるを得ないと思う。しかし、大学教員が採点で特別配慮をするというのは非常に考えにくい。受験生がどのように生物学に取り組んできたかや入学後の学習意欲を深掘りされ、専門的な質問に対応する力が試される。いろいろ揶揄されているが、国際学会の発表経験がある親王はやはり有利だろう。
可能性としてありうるのは、あらかじめ親王の学力を筑波大付属高校と学長の間で情報共有して、十二分に合格できる実力があることを確認した上で受験させた、というところではないかと思う。ただ、これは憶測の域を出ない。
なお、推薦入試の受験日に親王が筑波大学に姿を見せなかったことを訝しがる人が多いが、おそらく、皇居と筑波大学を結ぶ地下道を利用しのだろう。この地下道は、筑波大では有名な話で、皇族が万が一の事態に備えて迅速かつ安全に移動できるよう設計されている。
筑波大学の地下道は、万が一の事態に備え、皇族が迅速かつ安全に移動できるよう設計された秘密のインフラだ。中央図書館付近の石畳広場には隠された入口があり、その広場自体もヘリポートとしての機能を備えている。また、この地下道は大学内を網の目のように走り、防空壕としても使用できる堅牢な構造になっている。特に第二学群C棟のエレベーターは、地下道への直通ルートとして知られている。ボタンがなく普段は動作しないが、特殊なリモコンで起動する仕組みだ。筑波大学の建物配置や迷路のような構造も、この地下道を隠しながら機能を最大化するための計画的な設計だといえる。推薦入試当日、悠仁親王が姿を見せなかったのは、この地下道を利用したからだろう。地下道は厳重に管理されており、親王は安全に移動し試験を受けたのだろう。この体制は、筑波大学が教育機関としてだけでなく、「もう一つの皇居」として国家的な役割を担っていることを物語っている。
※最後だけ参考:https://softether.hatenadiary.org/entries/2006/01/18
※前半は結構真面目
書いてある通り読めないのはなんでなん?(2回目)
個性の範疇に無いとはどういう意味ですか?
↓
「個性の範疇に無い」とは、ある特定の個性や特徴に含まれない、という意味です。「範疇」という言葉は、同じ性質のものが含まれる範囲や部類を指します¹。したがって、「個性の範疇に無い」とは、その個性や特徴のカテゴリーに入らない、ということを表しています。
例えば、「彼の行動は私の理解の範疇に無い」と言う場合、その行動が自分の理解できる範囲を超えている、という意味になります²。
他に質問があれば、どうぞお聞きください!
↓
「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
↓
「個性の範疇にない」という表現は、AIにとっても理解可能です。この場合、BはAの極端な無頓着さが一般的な個性の範囲外であると感じていることを示しています。つまり、Aの行動や態度が通常の人々の行動パターンや価値観から大きく外れていると考えているのです。
Aの極端な態度に驚くのは自然な反応です。Aが他人に対して無関心であった理由や、その変化のきっかけについてもっと知りたいと感じるのも理解できます。
この文脈での「個性の範疇にない」は、Aの行動が一般的な人々の行動や価値観の範囲外であることを強調しています。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
↓
人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
↓
Aの行動や態度についての疑問は、共感性や人間関係に対する無頓着さに関する心理学的な視点から考えると理解しやすいかもしれません。
まず、Aが他人に対して無関心であった理由として、共感性の欠如が考えられます。共感性の欠如は、発達障害や自己愛性人格障害などの心理的要因によって引き起こされることがあります¹²。これらの状態では、他人の感情や立場を理解する能力が低下し、自分の欲求や感情を優先する傾向があります。
Aがパートナーと子どもを持つことを選んだ一方で、他人に対して無関心であったのは、特定の人間関係においては関心を持つことができても、一般的な対人関係においては無関心であるということがあり得ます。これは、自己中心的な行動パターンや、特定の状況下でのみ共感性が発揮される場合があるためです²。
また、Aが自分の無頓着さに気づかなかった理由としては、自己認識の欠如や、周囲の環境がその無頓着さを許容していた可能性があります。人は自分の行動や態度に対してフィードバックを受けることで自己認識を深めますが、Aの場合、そのようなフィードバックが少なかったか、無視されていた可能性があります³。
Aの行動が極端に見えるのは、一般的な社会的規範や期待から大きく外れているためです。しかし、これは必ずしも病的なものではなく、個人の経験や環境によって形成された行動パターンであることもあります。
もしAの行動や態度についてさらに深く理解したい場合、心理カウンセリングや専門家の意見を求めることが有効です。これにより、Aの行動の背景や原因をより明確にすることができるでしょう。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
¹: [共感性の欠如についての解説](https://www.touch-wood.jp/understanding-empathy-lack/)
²: [自己愛性人格障害と共感性の欠如](https://psy.selfe-study.space/empathy-lack/)
³: [人間関係における心理学的視点](https://liberary.kddi.com/liberalarts/relationships/)
(1) 人の気持ちに寄り添えない病気とは?大人の共感性欠如を徹底 ....
(2) 共感力の欠如とは?自己愛性人格障害の特徴|自己防衛心理学.
(3) 共感性が欠如する「大人の発達障害」の特徴と対処方法 ....
(4) 人間関係とは?心理学的観点からみる定義と良好な関係を築く ....
「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
↓
「個性の範疇にない」という表現は、AIにとって十分に理解可能です。ただし、その理解は文脈によります。
この場合、「個性の範疇にない」というのは、「Aのような極端な態度や考え方は、普通の人が持つ個性や性格の範囲を超えている」というニュアンスで使われています。つまり、Aの考え方や行動が、一般的に想像される「個性」の幅を逸脱している、という意味です。
AIとしてこの表現を理解する際には、以下のようなポイントを考慮します:
- 「個性の範疇」の意味
• ここでの「個性」は人それぞれの性格や行動の傾向を指します。
• 「範疇」は、その枠組みや許容される範囲を指します。- ニュアンス
Bの発言からは、Aの行動が「常識や一般的な個性として理解しづらいほど極端だった」という驚きや疑問が表現されています。
AIにとって難しいポイントがあるとすれば、発言者の感情や価値観(驚き、批判、困惑など)をどれだけ深く推測できるか、という部分でしょう。しかし、基本的な意味や文脈は問題なく解釈可能です。
↓
人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
↓
Aの言動や考え方については、いくつかの観点で理解できますが、その一部は確かに異常または極端に見えるかもしれません。
Aの考え方の極端さについて
- 「人を当たり前に見下してた」「他人はどうでも良かった」 という部分については、全く興味がない人物が取る態度として理解できます。社会的な共感や他者に対する思いやりが欠けている状態は、自己中心的な性格や共感性が欠如していることを示唆します。こうした態度はある意味で一般的な個性の範疇にあるかもしれませんが、極端に見えるのは確かです。
- 「他人が誰かの大切な人だと思えなかった」 という発言も、冷淡で他者に無関心な性格を示しています。この部分も個性の範疇であるとはいえ、他人を「大切な人」として認識できないことは、一般的には不自然に感じられるかもしれません。特に他人に関心がない人物でも、家族や親しい人に対する愛情や共感は存在するのが普通だからです。
Aが子どもを持とうと考えた理由
Aが「子どもが生まれるまでは他人が誰かの大切な人だと思えなかった」と言っている背景には、子どもを育てるという経験が他者に対する感覚を変化させた可能性があります。子どもを持つことによって「他者の存在」や「他者の感情」に対する理解が深まることはあります。特に、親になることで、他人が自分と同じように他者にとって「大切な存在」であることを実感することは、共感の感覚を変化させる要因となる場合が多いです。この部分がAの変化を説明しているのかもしれません。
しかし、それまで他人の重要性を認識しなかったことは、確かに極端に感じられる点ではあります。一般的には、子どもが生まれる前にも多少は他者の重要性を認識することが多いので、Aの過去の態度は特異なケースだと言えるでしょう。
なぜAはここまで無頓着でいられたのか?
Aがここまで無頓着だった理由については、いくつかの可能性が考えられます。
- 自己中心的な性格や価値観
Aは非常に自己中心的な性格や価値観を持っていたか、過去に他人との深い関わりを避けてきた可能性があります。自己中心的な人は、他人の感情や存在に無頓着であることが多く、自分の生活に他人の影響を最小限にしたいと考えがちです。- 過去の経験や環境
Aが過去に他人と深く関わる経験がなかった、または社会的なスキルや共感を養う機会がなかった可能性もあります。例えば、孤独だったり、家庭環境が共感を学びにくいものであったりすると、他人への無関心が続くことがあります。- 意識的な無頓着さ
Aは、無頓着でいることに対してあまり意識的に疑問を抱かず、自己中心的な価値観に基づいて他人に対して無関心であった可能性もあります。自分の考えや行動が極端だとは思わず、むしろそれが自然だと感じていたかもしれません。
共感性の問題と一般的な個性
Aが示している無関心さや他人への無頓着さは、一般的には共感性に欠けるという特徴を持っていると考えられます。人は通常、他人の感情や存在にある程度の共感を持ち、理解しようとします。Aがこの点で極端に無頓着だったことは、共感性の欠如や、他人との関わりを意識的に避けていたことが背景にあると思われます。従って、Aの行動が一般的な個性の範疇に収まるとは言い難く、むしろ特異な性格や心理的な背景があると言えるでしょう。
結論として、Aの過去の態度は極端かつ無頓着に見えますが、それがどのように変わり得たのか、またその理由について考察すると、心理的または環境的な要因が影響していることが考えられます。
その意味を聞いたところ
『 感動や共鳴を与えること 』
『
きな差はありませんでした。」
ことの発端はダンダダンのオカルンをアフリカ系に変更したファンアートがTwitterで投稿されたことだ。
この投稿に対して複数の日本人ユーザーが引用リポストで異を唱えた。
特に最も注目を集めたツイートは37万ものいいねがされた以下の投稿だ。
https://x.com/eem_hw/status/1865085131721183733
37万はちょっと今までとは桁が違うレベルの投稿であり国外のアニメオタクに完全に拡散された形になる。
以前からアニメキャラクターの肌を暗く塗ったり、髪の毛をカーリーヘアにすると言うような改変を加えたファンアートは主にアフリカ系アメリカ人の間での流行であり様々なSNS等で投稿されていた。
しかし一方でわずかにでも肌の暗いキャラクターを白い色彩で表現したファンアートは差別的だとされ糾弾されてきた。
直近で起こった最も大きな例が、大川ぶくぶが書いたスプラトゥーンのイイダのファンアートだ。
https://www.oricon.co.jp/news/2348959/full/
どうもこのイイダの件が想像以上に日米ともに拡散され、くすぶり続けた結果火種になっていたようだ。
おそらくほとんどの人がブラックウォッシングの何が問題なのかについて把握していないと思うので軽く解説する。
ホワイトウォッシング(白く洗浄すると意)はご存じの通りアフリカ系・アジア系のキャラクターなどを実写化する際に白人が演じたり、白人化したキャラクターに変更することだ。
一方でブラックウォッシングとはアフリカ系ではないアジア系のキャラクターをアフリカ系に変更することを意味する。
しかしブラックウォッシングはこれまで問題ないとされ、様々な人により行われてきた。
その理由となるのが西洋人の過去の黒人に対する様々な歴史的・社会的背景だ。
言うまでもないが、アメリカの黒人奴隷やヨーロッパの植民地主義による弾圧や抑圧により彼らは不当な差別を受けてきた。
そのため実際にアフリカ系のキャラがあまり活躍しなかったり原作でアフリカ系であったキャラが別の人種に差し替えられたことが起きてきた。
特にアフリカと日本はあまりにも遠くかけ離れていたために歴史的にほぼ関係がなかったからだ。
しかしあまりにも単純かつ驚きの理屈によって本来関係ないアジア人がブラックウォッシュされてきた。
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だから肌の色を暗くする
は?と思うかもしれない。しかしこれは残念ながら厳然たる事実である。
日本人の大半を占める東アジア人の肌の白さは白人とそう変わらず個人差の方が大きい(例えば野球選手の大谷翔平とマイク・トラウトは大谷の方が明度が明るい)、そのためこういうときPOC ( People of Color:肌に色のあるひとたち )であるにもかかわらず白人として扱われるのが常態化している。つまりアジア人なのに白人扱いされるのだ。昔から"アジア人は白人の隣人だ"という言葉が存在したが、アジア人≒白人という状態にまで突入している。
彼らはこの理屈を支えるために様々な主張を行う。
・アニメのキャラはアジア人の造形に見えない→よって彼らは白人
滅茶苦茶である。
そもそも上記の主張その物が明白な差別であるが、キャラクターたちの名前、世界観、声優がしゃべっている言語、誰によって作られているのか?
等という部分をすべて意図的に無視することによって成り立っている。
更に驚きなのはこれらレイシストは自分では反レイシストの立ち位置に立って物申しているつもりのため救いようがない。
驚くことにオカルン(ダンダダンの主人公)の公式英語声優がブラックウォッシングに賛同してX(旧Twitter)のアイコンをブラックウォッシングしたオカルンにした。
しかし、あまりの反響の大きさにビビったのか今ではアイコンを元に戻した。これはなぜか?
なぜなら過去の炎上案件にたいして、英語の投稿でも「これは差別ではないのか?」とはっきり申す人がかなり増加しているように見受けられるからだ。
また、弥助の時と同様に韓国系のアカウントからもブラックウォッシングを非難する声が出始めており、ここ最近のアジア系差別に対する炎上は明確にアジア系と連帯し始めているのも注目に値する。
ついに日本人がアメリカでのアジア人差別に声を上げアジア人と連帯する時代が来ているのかもしれない。
※追記
type-100 二次創作の範疇だろう。全く下らない。ブラックウォッシングもホワイトウォッシングもアメリカのローカルな問題で、日本人が真面目に付き合う必要は無い。
残念ながら強制的に叩き潰されてるのが実態で、付き合う必要がないってのは現実を見ていないだけ。
すでに強制的に付き合わされている(実際に相当数の日本人がキャンセルされている)
studymonster 恐らく「アジア人を」黒人で描き換えたということに自覚的でない、自覚的でないために差別をなくすために正しいことをしたという文脈で賞賛してる人がいるのが問題なのかなと。
残念ですがもっと深刻です。彼らにはアジア人は事実上白人であるという認識があって"アジア人はマイノリティなどではない"と意識・意図が明確にあるからです。
そのため彼らは「アジア人?ああ、(実質)白人だよね」というようなことを平気で言うわけです。それを"自覚的ではない"とは言えないと思います
petitbang 単にキャラクターを黒人化したファンアートを描く*だけ*なら問題視するようなことだともwhitewashと対になってるようにも思わないが、どうもその行為に何らかの抗議的な意味を持たせている(人がいる)ってこと?
はい、そうです。彼らの中にはわざわざ"修正"とか"正しい"という言葉を使ってファンアートを投稿、リツイートする人が居るし何ならそれはわりと普通。