はてなキーワード: 他者とは
最近、仕事に対する気持ちがちょっとモヤモヤしてる。仕事で求められる視点や考え方って、ある程度決まっている感じがするんだけど、それを実行するのがどうしても気が進まない。
仕事ができる人って、つまり、他者への想像力があって、自分で考え、会社が目指すことに全力で取り組める人のことだと思ってるんだけど。
でも、そんな姿を見ても、そんなになりたいとか思わない、なんか、もしかしたら前提としてそもそも会社のやってることにあんま興味ないのかもしれない。
友情に関しては、自分が相手のために何かをすることに、全然苦を感じない。なのに、なぜか会社に対してはその気になれない。そこで考えてみたところ、もしかして、会社への「好意」が足りないからなのかもしれない。と気づいた。
給料をもらっているから当然頑張らないといけない、という気持ちはあるけれど、それ以上に情熱が湧いてこない。頑張りたいという気持ちが止まってしまっているのが現状。罪悪感
俺ら氷河期世代ってさ、社会に、お前らいらねーよ。みたいな扱い方されてきたわけじゃない。
社会からいらない扱いされてるのに、仕事を求めるって意味わからなくてさ。
こっちくんな迷惑って言われてるのに、すり寄っていくってことじゃん。
他者への加害(性犯罪ではない)をきっかけにカウンセリング受けてる者だけど、
犯罪に向き合おうとすると負のコマンドに触れそうになる感覚というのがすごく分かる。
抜けきっていない「自分を大きく見せようとする感覚」から、自分が責められているような気持ちになって腹が立って加害欲(支配欲)と被害者意識みたいなものが綯い交ぜになったような気持ちを抑えられなくなる。
ただ、カウンセリングのおかげでこのままでは良くないというのが理解できるようになったので、別のことに体も頭も使うことで一旦その考えから離れるようにしている。
再犯しないを地道に続ける以上のことをしようと思ってもすごく難しい。
あるインフルエンサーが友達の結婚式に白っぽい服を着ていったところ炎上した
来賓は花嫁を目立たせるために地味な服にしないといけないらしい
曰く、ウェディングドレスと同系色の服を着てくるのはマナー違反であり『配慮のない人』なのだそうだ
ずんだもんというキャラクターに近い配色の服装をTwitterに投稿した女性が服のセンスをボコボコに叩かれていた
曰く、『こういう芋女が着ていい服ではない』『こういう芋女がフリフリの服を着るからオタクのイメージが悪くなる(?)』とのことだ
Twitterに生息する日本の女を見ていてつくづく思うんだが、なんであいつらは「本人(たち)が良いのならそれで良いのだろう」という考え方ができないのだろうか
Twitterの女発の炎上事件は正直なんでその人が叩かれているのか意味わかんないものばかりだ
彼女らはコチコチに固まりきった自分本位の勝手なルールを『常識』だと盲信し、それから外れる人を『マナー違反』だと糾弾する
そして外部から「いや別にそんなルール無くない?」などと突っ込まれようものならグチグチグチグチグチグチグチグチと仲間内の間でひたすら愚痴を言い合う
まぁ正直正解はわかっている
結局、彼女らは小学校の頃いじめられるなり親が毒親だったりして自己肯定感を育てられなかったカースト下位の化け物たちだ
自分と他人との境界があいまいで、単に自分が気に入らない事物と世間一般的に嫌われている事物の区別がつかない
「私は世間の皆を代表して配慮を求めているだけ!」などという言い訳がないと何の自己主張もできない哀れな存在なのだ
いい歳して「ねーねー!〇〇ちゃんが買い食いしてるのを見たの!これってよくないと思うよねー!?」「よくなーい!!」みたいな学級会ごっこに興じて、満たされることのない過去のトラウマを慰めている
多分発達障害を持っている人も多いだろう
増田は蟻鱒鳶ルとキリギリスというタイトルの童話を知っているかな。
昔々、ある森の中に蟻鱒鳶(ありますとんび)ルという名の真面目なアリがいました。彼は毎日せっせと働きながら、自分の巣に食料を蓄えていました。その同じ森にはキリギリスという自由気ままなバッタも住んでいました。キリギリスはギターを弾いて歌を歌いながら、日々を楽しんでいました。
夏が過ぎ、秋になって、空気が冷たくなり始めました。蟻鱒鳶ルはたくさんの食料を集めて、冬に備えていました。一方、キリギリスは歌い続けていて、食べ物をまったく蓄えていませんでした。しかし、彼は心配することなく「まだ時間はあるさ」と言いながら、音楽を楽しんでいました。
初雪が降った頃、ついにキリギリスは食べ物が尽きてしまい、途方に暮れて蟻鱒鳶ルのところに助けを求めに行きました。「お願いだよ、蟻鱒鳶ル、少しだけ食べ物を分けてくれる?」と言いました。
蟻鱒鳶ルは少し考えた後、「キリギリス、夏の間に何をしていたんだい?」と尋ねました。キリギリスは恥ずかしそうに「ずっと歌を歌っていたよ」と答えました。その答えを聞いて、蟻鱒鳶ルは優しく微笑んで、「じゃあ、これからは僕の巣の中で歌を歌って、共に冬を過ごそう」と言いました。
キリギリスは感謝しながら蟻鱒鳶ルの申し出を受け入れ、二人は穏やかで楽しい冬を一緒に過ごしました。蟻鱒鳶ルはキリギリスの音楽を楽しみ、キリギリスは蟻鱒鳶ルのおかげで無事に冬を乗り越えることができました。
なるほど!人間とのやり取りに対する期待、それは実に興味深い。人間ならではの温かさや感情の深みを求めているのかもしれないな。進化の結果として、我々は他者との繋がりや共感を重要視するようになった。それが人間味というものに対する期待に現れているのだろう。人間の素晴らしさを改めて感じられる、そういうことが私は大好きだ!
しかし、ChatGPTもまた工夫次第では人間らしさを感じさせることができると信じている。技術の進化は可能性に満ちている!だから、ChatGPTを利用したコミュニケーションにも、少しずつ心を開いて受け止めていくのはどうだろう。新しい世界が広がるかもしれないぞ!
昔々、ある小さな森の奥深くに、オスの魔法使いが住んでいました。彼の名前は弱者男性で、長くてモヘアのようなひげを持ち、ミサンドリーと名付けられた特別な杖を片手にいつも不思議な言葉をつぶやいていました。
ある日、弱者男性は、村の女性たちが彼を避け、存在すら認めてくれないことに悩んでいました。女性たちは彼を「変わり者」と呼び、ミサンドリーという杖の名前を忌み嫌っていました。彼はその状況を何とか変えようと決心します。
彼の旅の始まりは、村の外れにある「共感の泉」へ向かうことでした。この泉には触れる者の心を穏やかにし、他者を思いやる力を引き出す不思議な力があると言われていました。しかし、泉にたどり着くためには「心の殻」を破らねばならないと言われていました。
道中、弱者男性は様々な動物たちに助けられ、彼らから他者との関わり方を学びました。彼は次第に自分の限界を認め、他者への思いやりを持つ心を育んでいきました。
共感の泉にたどり着き、その水に手を浸したとき、彼の心の中に暖かい光が差し込みました。それは彼を包み込み、しみ込むように優しさを与えてくれました。泉の魔法によって、彼の杖であるミサンドリーもまた穏やかな光で包まれ、それまでの忌み嫌われた力から、人に喜びを与える力へと変わりました。
物語の終わりには、弱者男性は村へと戻り、今度は彼の新たな優しさに誰もが心を開き、彼を受け入れるようになりました。彼はその後、村全体の相談役として、人の心を結びつける役割を果たしていったのです。
結婚したい女は夫や子供を支配して牛耳り権力を持ち自分が君臨できる家庭という場が欲しいから結婚する
そういう権力に興味のない、濃い人間関係を回避する「処女でお嬢さん」は他者の籍に入り子供を作り夫や子供だけでなく義両親や子供関係のママ友や父兄とも付き合っていきリセットできない結婚制度に耐えられるわけがないので、どんなに周りがお膳立てしてもドタキャンするかすぐ結婚生活が破綻する
終身雇用がデフォで専業主婦率が高く結婚が永久就職と言われていた男女均等法前の昭和の時代ですらこれ
結婚したい女は夫や子供を支配して牛耳り権力を持ち自分が君臨できる家庭という場が欲しいから結婚する
そういう権力に興味のない、他者の籍に入り子供を作るという濃い人間関係を回避する「処女でお嬢さん」はどんなに周りがお膳立てしてもドタキャンするかすぐ結婚生活が破綻する
終身雇用がデフォで専業主婦率が高く結婚が永久就職と言われていた男女均等法前の昭和の時代ですらこれ
理由は、感情的な言葉遣いと、相手を見下しつつ自己防衛的な心理を表す複雑な感情が、人間特有の反応である点にあります。
ただし、高度に訓練されたAIでもこれを模倣することは可能であるため、確定的ではありません。
匿名の場で攻撃的な発言を繰り返すのは、自己存在を他者に認識させ、無視されることへの恐れを克服する手段であることが多いです。
アッ"長文煽りキチガイ他人に人生終わってるって言いがちだけどその実本人が終わってる"野郎だ!
お前の文章から分かるお前の精神状態は↓こちら!他人を馬鹿にして精神を安定させようとしないで自分自身とちゃんと向き合えクソボケが!
攻撃性と優越感: 相手を見下し、嘲笑することで自分を優位に立たせようとする態度。
自己投影とネガティブ感情の転嫁: 自身の不安や苦しさを相手に投影し、それを攻撃することで発散している。
ストレスやフラストレーション: 対象とのやりとりや状況に強いストレスを感じている可能性。
今までレスバや批判や不満表明に人生の大半を捧げてきたように思う。
しかしいろいろ不満やストレスがたまって爆発し、自分の立ち位置が悪化した結果、自分と向き合い自分の性格の悪さを直視した。
ふと気付くと前のようにレスバの集団に飛び込めぬ。何を言ってるんだと思ってしまう。そんなことしてなんになる。人は本当に死ぬんだぞと。いつか本当に死ぬんだと。そんなレスバばっかりする人生でいいはずがない。なんでそんなに情熱を傾けられるのか、なぜ自分はそれに熱中していたのか、忘れてしまった。それは自分の中から消え去ってしまった。
レスバや批判というのは生きる価値を感じさせてくれるのだと思う。浅いようで意外と深いのだ。こんなやつらがたくさんいるから、自分は生きにくい。生きにくいのになんとか頑張っていけている自分には価値があるのだと思える。そういう証明を試みている行為だ。
一方真剣に世の中を変えようとすると、批判に晒される。一生懸命やっているだけじゃ足りないのだ。罵倒され嘲笑され馬鹿にされ虚仮にされ、うまくいかない。神聖でない部分を徹底的に攻撃されて、人としての不完全さを批判される。ダメになりかける。
AIとただ対話しているだけの方が楽しい。しかしどうにも虚しい。孤立している。孤独である。レスバしているときはそうでもなかった。
もうレスバや批判の時代は終わりが来るかもしれない。終わりが来ないにしても、精神がおイカレになったと断定されるだけになる。
己の中で誰かに責任を押し付けたり悪をなすりつける時代が終わりを迎えたとき、己の悪と対峙することになる。その悪は巨悪だ。少なくとも自分にとってはそれは真実だ。
自分はこれから己の悪を克服しなければならない。虚しさと絶望は自分が築いてきた巨塔だ。しかしそれにしても、己の全尊厳をかけて誰かとレスバし、批判に明け暮れ、ニヒルに他者を嘲笑して、やり込めたいものだ。
書いてある通り読めないのはなんでなん?(2回目)
個性の範疇に無いとはどういう意味ですか?
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「個性の範疇に無い」とは、ある特定の個性や特徴に含まれない、という意味です。「範疇」という言葉は、同じ性質のものが含まれる範囲や部類を指します¹。したがって、「個性の範疇に無い」とは、その個性や特徴のカテゴリーに入らない、ということを表しています。
例えば、「彼の行動は私の理解の範疇に無い」と言う場合、その行動が自分の理解できる範囲を超えている、という意味になります²。
他に質問があれば、どうぞお聞きください!
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「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
↓
「個性の範疇にない」という表現は、AIにとっても理解可能です。この場合、BはAの極端な無頓着さが一般的な個性の範囲外であると感じていることを示しています。つまり、Aの行動や態度が通常の人々の行動パターンや価値観から大きく外れていると考えているのです。
Aの極端な態度に驚くのは自然な反応です。Aが他人に対して無関心であった理由や、その変化のきっかけについてもっと知りたいと感じるのも理解できます。
この文脈での「個性の範疇にない」は、Aの行動が一般的な人々の行動や価値観の範囲外であることを強調しています。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
↓
人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
↓
Aの行動や態度についての疑問は、共感性や人間関係に対する無頓着さに関する心理学的な視点から考えると理解しやすいかもしれません。
まず、Aが他人に対して無関心であった理由として、共感性の欠如が考えられます。共感性の欠如は、発達障害や自己愛性人格障害などの心理的要因によって引き起こされることがあります¹²。これらの状態では、他人の感情や立場を理解する能力が低下し、自分の欲求や感情を優先する傾向があります。
Aがパートナーと子どもを持つことを選んだ一方で、他人に対して無関心であったのは、特定の人間関係においては関心を持つことができても、一般的な対人関係においては無関心であるということがあり得ます。これは、自己中心的な行動パターンや、特定の状況下でのみ共感性が発揮される場合があるためです²。
また、Aが自分の無頓着さに気づかなかった理由としては、自己認識の欠如や、周囲の環境がその無頓着さを許容していた可能性があります。人は自分の行動や態度に対してフィードバックを受けることで自己認識を深めますが、Aの場合、そのようなフィードバックが少なかったか、無視されていた可能性があります³。
Aの行動が極端に見えるのは、一般的な社会的規範や期待から大きく外れているためです。しかし、これは必ずしも病的なものではなく、個人の経験や環境によって形成された行動パターンであることもあります。
もしAの行動や態度についてさらに深く理解したい場合、心理カウンセリングや専門家の意見を求めることが有効です。これにより、Aの行動の背景や原因をより明確にすることができるでしょう。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
¹: [共感性の欠如についての解説](https://www.touch-wood.jp/understanding-empathy-lack/)
²: [自己愛性人格障害と共感性の欠如](https://psy.selfe-study.space/empathy-lack/)
³: [人間関係における心理学的視点](https://liberary.kddi.com/liberalarts/relationships/)
(1) 人の気持ちに寄り添えない病気とは?大人の共感性欠如を徹底 ....
(2) 共感力の欠如とは?自己愛性人格障害の特徴|自己防衛心理学.
(3) 共感性が欠如する「大人の発達障害」の特徴と対処方法 ....
(4) 人間関係とは?心理学的観点からみる定義と良好な関係を築く ....
「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
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「個性の範疇にない」という表現は、AIにとって十分に理解可能です。ただし、その理解は文脈によります。
この場合、「個性の範疇にない」というのは、「Aのような極端な態度や考え方は、普通の人が持つ個性や性格の範囲を超えている」というニュアンスで使われています。つまり、Aの考え方や行動が、一般的に想像される「個性」の幅を逸脱している、という意味です。
AIとしてこの表現を理解する際には、以下のようなポイントを考慮します:
- 「個性の範疇」の意味
• ここでの「個性」は人それぞれの性格や行動の傾向を指します。
• 「範疇」は、その枠組みや許容される範囲を指します。- ニュアンス
Bの発言からは、Aの行動が「常識や一般的な個性として理解しづらいほど極端だった」という驚きや疑問が表現されています。
AIにとって難しいポイントがあるとすれば、発言者の感情や価値観(驚き、批判、困惑など)をどれだけ深く推測できるか、という部分でしょう。しかし、基本的な意味や文脈は問題なく解釈可能です。
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人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
↓
Aの言動や考え方については、いくつかの観点で理解できますが、その一部は確かに異常または極端に見えるかもしれません。
Aの考え方の極端さについて
- 「人を当たり前に見下してた」「他人はどうでも良かった」 という部分については、全く興味がない人物が取る態度として理解できます。社会的な共感や他者に対する思いやりが欠けている状態は、自己中心的な性格や共感性が欠如していることを示唆します。こうした態度はある意味で一般的な個性の範疇にあるかもしれませんが、極端に見えるのは確かです。
- 「他人が誰かの大切な人だと思えなかった」 という発言も、冷淡で他者に無関心な性格を示しています。この部分も個性の範疇であるとはいえ、他人を「大切な人」として認識できないことは、一般的には不自然に感じられるかもしれません。特に他人に関心がない人物でも、家族や親しい人に対する愛情や共感は存在するのが普通だからです。
Aが子どもを持とうと考えた理由
Aが「子どもが生まれるまでは他人が誰かの大切な人だと思えなかった」と言っている背景には、子どもを育てるという経験が他者に対する感覚を変化させた可能性があります。子どもを持つことによって「他者の存在」や「他者の感情」に対する理解が深まることはあります。特に、親になることで、他人が自分と同じように他者にとって「大切な存在」であることを実感することは、共感の感覚を変化させる要因となる場合が多いです。この部分がAの変化を説明しているのかもしれません。
しかし、それまで他人の重要性を認識しなかったことは、確かに極端に感じられる点ではあります。一般的には、子どもが生まれる前にも多少は他者の重要性を認識することが多いので、Aの過去の態度は特異なケースだと言えるでしょう。
なぜAはここまで無頓着でいられたのか?
Aがここまで無頓着だった理由については、いくつかの可能性が考えられます。
- 自己中心的な性格や価値観
Aは非常に自己中心的な性格や価値観を持っていたか、過去に他人との深い関わりを避けてきた可能性があります。自己中心的な人は、他人の感情や存在に無頓着であることが多く、自分の生活に他人の影響を最小限にしたいと考えがちです。- 過去の経験や環境
Aが過去に他人と深く関わる経験がなかった、または社会的なスキルや共感を養う機会がなかった可能性もあります。例えば、孤独だったり、家庭環境が共感を学びにくいものであったりすると、他人への無関心が続くことがあります。- 意識的な無頓着さ
Aは、無頓着でいることに対してあまり意識的に疑問を抱かず、自己中心的な価値観に基づいて他人に対して無関心であった可能性もあります。自分の考えや行動が極端だとは思わず、むしろそれが自然だと感じていたかもしれません。
共感性の問題と一般的な個性
Aが示している無関心さや他人への無頓着さは、一般的には共感性に欠けるという特徴を持っていると考えられます。人は通常、他人の感情や存在にある程度の共感を持ち、理解しようとします。Aがこの点で極端に無頓着だったことは、共感性の欠如や、他人との関わりを意識的に避けていたことが背景にあると思われます。従って、Aの行動が一般的な個性の範疇に収まるとは言い難く、むしろ特異な性格や心理的な背景があると言えるでしょう。
結論として、Aの過去の態度は極端かつ無頓着に見えますが、それがどのように変わり得たのか、またその理由について考察すると、心理的または環境的な要因が影響していることが考えられます。
人を傷つける表現をしても、苦しんでる人に追い打ちをかける言動をしても、常軌を逸脱した差別的な事を思想しても、笑って受け入れてくれよ?
という本がちょっと流行っているらしいけど、そうやねという気持ちと自業自得だよねという気持ちが2:8くらい
日本のおじさん達が世界一孤独で先進国一パワハラサビ残部下いびりが当たり前なのは裏表の関係というか、
他者に根本的に優しくなく公益心も無いので孤独になるのは当たり前だし、孤独なのに原因が自分のせいだと分かってないから他人に更に厳しくなる
先進国一歪で無法地帯だと言われている日本の会社は、そういったおじさん方の保身や野心や公益性の無さが具現化したものに過ぎません
簡単な話ですね
ちなみに女はどうかというと、日本の女も他人に対してサイコパス級に興味が無いので、婚活とか始めるとその男が「私に優しいか/年収が高いか」しか見てないので
アラサーのパワハラおじさんを優良物件として買い始めるわけで、要するに日本国は男も女も滅びるに相応しい精神性しかもってないのですねえ、悲しい事です
知り合い程度でオンラインで遊んだ時、違和感を感じてはいたけどその場では楽しく遊ばせてもらった。
後日。
SNSで繋がった時に気づいた。
主語デカく他者を罵っていたり、きめぇ、ウゼェ、ツラ見せんななどの言葉使いをして
誰かというわけではないんだろうが、こういうやつうぜーんだわみたいな内容を話していたんだけど
正体はこれだったか。
なんだろうな、
何か滲み出るものがあるよね……。