はてなキーワード: 学校とは
最近の世の中では、発達障害の診断を早期に受けることや、早期教育を推奨する風潮が強いけれど、私はそれはあまり良くないのではと考えている。
私が理想だと思うのは、発達障害かどうかに関わらず、困ったときにサポートを受けられる環境が整っていること。
診断の有無やタイミングを本人が自分で選べる自由も大切だと思う。
でも、これが効果を持つのは、本人が違和感を自覚できる年齢になってからだと思う。
幼い頃に診断されると、こんな影響が出ることがある。
療養施設は、自分の課題を理解し、自分の意思で向き合う人のための場所だと思う。
「将来困りそうだから」という理由だけ、通わせる場所ではない。
私は親が幼稚園教諭だったこともあり、幼い頃から病院を回された。
家族や周囲の扱いに違和感があり、自分で調べて、高校1年で自分の診断名に辿り着いた。
心理士になって、人を支えたいとも思った。
それを話した時に、両親が「向いていない」と一刀両断していたのは、「私だから」じゃなくて「発達障害だから」だった。
自分の両親は「自分の娘」ではなく「障害者」として認識していた。
私のアイデンティティや自己肯定感がボロボロになり、自分の見ている世界の何もかも信じられなくなった。
そこから私は、いち早く親元から離れて「発達障害者」というフィルターが外れた世界に行きたくて、
クラス1位の成績を取り、親元から離れ、東京の大学に進学した。
30歳になって自分を客観的に見ると、私は他の人より扱いにくい人種だと思う。
私は常にどこかしら「私は異常者である」自覚を持っているから、自分の意見に自信が持てない。
だから些細なやり取りでもChatGPTで意見を固めてから、相手に相談する。
躓くと「自分は向いていない」と切り捨ててしまい、別の道を模索してしまうため、人の話が素直に聞けないし、素直に実行できない。
それがコミュニケーションに亀裂を発生させる自覚もあるが、これまでの経験から、他の人の話を信頼していい方向に行った試しがない。
人の話を素直に聞ける人が羨ましい。
私は今、「自分が発達障害だと思われているな」って感じると、過呼吸になってしまう。
それで何度か休職→退職を繰り返しているが、誰にも相談できずにいる。
結婚して5年目になるが、私の過去の話や実際に診断を受けていることは、怖くて旦那にはまだ話していない。
SNSなどに投稿されている発達障害の多くが、発達障害を子どもに持つ親か、大人になってから発達障害と自覚した人だ。
だから、幼少期に診断されるデメリットについて、そこまで深く議論されていない。
もちろん、「自分に向いていない職業に就いて苦労する」という意見もわからなくはない。
でも、得意不得意は人によって違うから、挑戦してみないとわからない。
発達障害だから鬱になるような職場があるとすれば、それは職場環境そのものに問題があることが多い。決して当事者のせいではない。
健常者だって、仕事をしていて「自分に向いていない」と感じることはあるのに、障害者だからと挑戦する前に諦めざるをえない環境は、残酷だと思う。
私の経験を通して思うのは、発達障害の診断や早期教育がすべての子に必要なわけではない、ということだ。
寝つきも寝起きも尋常じゃなく悪くて、何をしても泣き叫ぶし、おそらく夜驚症もあって夜中に大暴れすることも多かった。
言葉が出るのも遅かったから、何して欲しいかもわからなかった。
夜中の2時とか3時まで起きてるみたいなことも多かったし、車に乗ってれば泣き止むから延々と夜中に車でドライブしたこともあった。
保育園に行ってからは23時には寝られるようになった。3歳過ぎたら言葉もよく喋るようになっていて、眠れない眠れないとよく言っていた。
寝かしつけに2時間かかるみたいなのもざらだった。
保育園で昼寝があったのも影響してると思う。
そんな長男が今小学生になって毎日早寝早起きできるようになった。
21時に消灯すると21時30分には寝て6時前くらいに起きてる。
学校の後、週に3回プール教室に行って週1でサッカー教室、それ以外は校庭に遊びに行って、やっとこれだ。
私は超インドア派だから、1日1回公園で1時間くらい遊ばせれば十分だと思ったいたんだ。
でも違ったんだな。
長男は牧羊犬みたいな感じで毎日がっつり運動させないといけなかったんだって今更わかった。
申し訳なかったな。
よく女は男がどれだけ食うかわからないから食事が少なくて食いつくし系とか騒ぐとか言われるけど、運動量もそれあるんだな。
もっと早く気づけば良かった。
まあ4歳くらいでプール教室体験に連れて行ったら怖いって号泣して断念したんけどね。
悪いことしたな。
もうシーズンが終わった頃だろうか。娘の運動会に行くわけなんだが、運動会を見ていて、ふと気づいたことがある。
これって、ウマ娘と同じじゃね?
個性を出しながら同級生と走る徒競走はまさしくレース。ほんの一瞬で終わるので、見逃せない。
低学年は低学年らしいかわいいダンスだし、上級生は名曲に乗って全員が揃ったダンスを踊るのは、ウイニングライブである。
ちなみに去年の2年生のダンスは、「しかのこのこのここしんたんたん」で、今年の3年生の徒競走は、もちろん「ウマ娘」メドレーだった。
学年の担任団の誰かがオタクに違いない。なお、2年生のこしんたんたんはめっちゃかわいかった。
年1回しか見れないし、一人につき10回も見れないウイニングライブだぞ。とありがたく楽しんできた。
子供推し活に必要な金額は、22年で平均1,800万らしいので、月額7万円のサブスクと考えると、どうだろう?ちと高いか。
Q.
special week
A.
はい、英語話者にとって Special Week という名前は確かに独特でユーモラスに響きます。その主な理由は以下の通りです。
英語圏では「Special Week」は学校や教育機関で頻繁に使用される一般的な用語です。例えば以下のようなイベント名が実際に使われています:
National Coding Week(プログラミング週間)
Healthy Eating Week(健康的な食事週間)
Arts Week(芸術週間)
これらは学校のカレンダーに組み込まれた定期的な教育イベントとして認識されているため、競走馬の名前として「Special Week」を見ると、まるで「読書週間」や「科学週間」という学校行事と同じカテゴリーに聞こえてしまうのです。
競走馬の名前は通常、創造性や威厳、独特さを持つものが好まれます。例えば Tokai Teio(東海帝王=東の海の皇帝)や Symboli Rudolf、Gold Ship などは英語話者にも印象的に聞こえます。一方で「Special Week」は「特別な週」というあまりに文字通りで平凡な表現のため、競走馬の名前としてはユーモラスに感じられるのです。
日本の競走馬の名前は英語話者にとって時に予想外の響きを持つことがあります。実際の競走馬スペシャルウィークの名前は、父馬のサンデーサイレンスの「Sunday(日曜日)」にちなんで「Week」を使い、そこに「特別な」という意味で「Special」を加えたものですが、英語話者には学校のイベントポスターに書かれているような事務的な響きに聞こえてしまうのです。
つまり、日本語話者にとっては格好良く聞こえる名前が、英語話者には「今週は特別週間です!」という学校の掲示板のような親しみやすく、少しコミカルな響きを持つということです。
子供の通う学校で、学校の先生の顔をfaceswapして作ったエロ動画が流れて大騒ぎ。妙齢な先生ならともかく中年の生徒指導のおじさん先生がこれまたfaceswapされた教頭先生にバックからやられる動画だそうである。すまんけど笑った。
スウェーデン(ストックホルム)でもベルリンでもマドリードでもヘルシンキでもリスボンでも普通に歩けた
スペイン人男性とドイツ人男性には「ここは歩いてはいけない地域だ」を教えられた
昼だろうが夜だろうがまともな女も男も歩いてはいけない危険地域はある
避けるべき人は見ればわかる
日本は通勤電車、オートロックマンション、学校内で昼だろうが女性女児を狙った一般市民男性加害者による性犯罪が起きる国
男性にはとても安全な国だろう。性犯罪を犯しても捕まらない。どころか被害者の非を探され冤罪だと他の男が守ってくれる
恥ずかしいという認識を持った方がよい
子供ができたらどんな習い事をさせたいか、受験はさせるべきか、治安の良い地域に住みたい、と明るい未来の話をしている。
でも、自力で生きられず学校にも行けず、24時間介護が必要な子供だったら一体どうすればいい????
先天性の重度障害児(身体、知的どちらも)を産んだ母親のブログを読んだ。障害は突然変異で現れ、中絶は間に合わなかったらしい。
手術をしなければ死んでしまう状態でも、手術の拒否は難しいんだって。実親が拒否した場合は親権が取り上げられるが、医療費は払い続けなければいけない。とにかく延命。一度産んでしまったら、親の権限で医療を止めることは出来ないようだ。
私は自分の仕事が好きだし、これからも正社員として働きたい。恋人も同じ考えだ。
健常児や、後天的な障害児ならまだしも、医療の発展によって生かされているような障害児を介護するために、仕事を辞めて人生を捧げることはできない。
という言葉は至極最もで、私は重度障害児を母として愛する覚悟は全くできないので、恐らく子供を産む資格は無いのだろう。
恋人は多分、障害児が生まれるリスクをあまり勘案していない。子供好きで、よく子供がいる未来について語る。自分の子供が欲しいんだと思う。
でも、私は産めない。リスクがデカすぎて、あまりにも理不尽で、どんな子供でも愛し、自分の人生を捨てる覚悟がない。
恋人のことが好きだ。恋人が子供と幸せに暮らして欲しい。だから、私じゃない人と将来を共にした方が良いと思う。もっと楽観的で、もしくは障害児でも愛せる覚悟があって、子供を作ることができる人と。
最悪の可能性を受け入れることが出来ないから、私はいつか、将来像の不一致で恋人と別れると思う。
悲しい。どうしようもないね。
子供ができたらどんな習い事をさせたいか、受験はさせるべきか、治安の良い地域に住みたい、と明るい未来の話をしている。
でも、自力で生きられず学校にも行けず、24時間介護が必要な子供だったら一体どうすればいい????
先天性の重度障害児(身体、知的どちらも)を産んだ母親のブログを読んだ。障害は突然変異で現れ、中絶は間に合わなかったらしい。
手術をしなければ死んでしまう状態でも、手術の拒否は難しいんだって。実親が拒否した場合は親権が取り上げられるが、医療費は払い続けなければいけない。とにかく延命。一度産んでしまったら、親の権限で医療を止めることは出来ないようだ。
私は自分の仕事が好きだし、これからも正社員として働きたい。恋人も同じ考えだ。
健常児や、後天的な障害児ならまだしも、医療の発展によって生かされているような障害児を介護するために、仕事を辞めて人生を捧げることはできない。
という言葉は至極最もで、私は重度障害児を母として愛する覚悟は全くできないので、恐らく子供を産む資格は無いのだろう。
恋人は多分、障害児が生まれるリスクをあまり勘案していない。子供好きで、よく子供がいる未来について語る。自分の子供が欲しいんだと思う。
でも、私は産めない。リスクがデカすぎて、あまりにも理不尽で、どんな子供でも愛し、自分の人生を捨てる覚悟がない。
恋人のことが好きだ。恋人が子供と幸せに暮らして欲しい。だから、私じゃない人と将来を共にした方が良いと思う。もっと楽観的で、もしくは障害児でも愛せる覚悟があって、子供を作ることができる人と。
最悪の可能性を受け入れることが出来ないから、私はいつか、将来像の不一致で恋人と別れると思う。
悲しい。どうしようもないね。
おい駄々っ子呼ばわりとは随分だな。
学校は未熟者を社会化するための訓練所だが、企業は成果を生み出す装置だ。
リモートが向かないのは、行動様式をまだ自己管理できない層、つまり義務教育段階の子供だ。
家でサボるような奴は、リモートのせいじゃなく自制心が欠陥品なだけ。
成果を最大化するために、無駄な移動や無音の会議を切ってるだけ。
それを夢と呼ぶなら、お前が生きてるのは悪夢のほうだ。
リモートにいるやつに教えるのが効率いいなら、学校なんて全部リモートになっとるわ。
教える以外の仕事が無い専業教師でも対面でなきゃダメだと結論したのが見えてねえのか。
お前は『学校も塾も行かずに理想の教師のリモート授業を受けられれば3倍の能率で勉強できる。出来なきゃそれは教師が無能だからだ』といってるガキだ。
そういう奴ほど家でサボるんだよ。
昭和の男版西野カナみたいなものでもう全編キモい。特に「出来る範囲で構わないから」の部分、結局こういうのが好きなんだろ?みたいなおっさんのドヤ顔が浮かんできて非常に腹立たしい。
2番の「私が本当に好きなのは昨日のテレビじゃない」ってさ、みんなそうだから!みんなそれぞれ独自の“好き”を抱えながら、学校の友達相手じゃそれを全開で話せないから共通の話題になる昨日のテレビの話してんだろうが。自分だけが特別と思うなよ。
ただ曜日言ってるだけ。
恋人さん、毎回毎回「いいえ」って否定から入るのやめた方がいいよ。都会行っちまった男は奴なりに成長したとこを褒めて欲しかったりしたんじゃない?やっぱ遠距離恋愛って難しいからしゃあないかもしれんが。
多分学校では使ってないと思うし、使ってたとしたら放置していても高校生くらいになったら普通の女子らしい言葉遣いに直すよ。
逆に言うと思春期通っても直らないタイプはベースになにかしらあるってこと…。
あと増田の観測してきたまともな女子とやらは、家と学校での口調を使い分けているか、わんぱくな男兄弟がいない女子だと思う。
女子という生き物はわりと複雑で繊細で多面的に器用に生きてるから、あまり心配しなくていいと思うよ。
荒い言葉や暴言の応酬とかになったら双方に注意すればいいだけ。
むしろコイツは女だけに、女だから言ってるなっていうのは敏感に感じ取るからね。父親、及び男がちょっと嫌いになる第一歩だよ。
うちはシャープペンシルをシャーペンって言ったりジーンズのことをジーパンというだけで何故か全力で揶揄されてたから学校では普通に話して家では最低限の内容をアナウンサーのように話すようななってたよ。
子供の頃上の兄弟の真似して小学校中学校全然行かなかった。高校は通信で出た。
時間だけ有り余ってて漫画とか小説読んだりとか、同人活動みたいなものが好きで漫画家とかになりたかったけど、学校行かなかったから共感できる学校生活とか青春とかわからないしプロになるのは諦めて就職した。
アマチュアも今は「普通こんなことあり得んだろ」とか「中の人の異質さが滲み出てる」みたいに晒し上げられてるのをよく見るようになったし、自分には普通なんてわからないからアマチュアも自分には場違いだなと思ってやめた。
なるべく「男らしく」「女らしく」みたいな旧世代のジェンダー観を再生産しないように意識して子育てしてたつもりだったんだけど、
最近、下の子が兄の口調を真似して「〇〇するんじゃねーよ」とか「おもしれー」みたいなことを言うことがあって、
やんわり「丁寧な言い方しようね」みたいな注意をしているんだけど。
一貫性で言うなら上の子にも同じことを注意しなきゃいけないよなとは思うんだけどさ、
小学生の男子に、「おもしれー」って言うのやめて、「おもしろい」って言おうね、って注意するの、現実的に意味ないというか。
自分も小学生男児だった者として、親からそんなこと言われたらウザすぎるし。
じゃあ逆に、5歳女児も「やっべー、おもしれー」と言うことを看過すべきなのかもしれないけど、
正直!嫌なんだ!そんな言葉遣いしてほしくないんだ!娘には!息子は全然いい!でも娘は嫌なんだ!
ああ、これがジェンダー観の押しつけなのか…と自覚しつつ、もうここはエゴに従うことにしている。
こういうの、どうなの?俺、ダメかな?
【追記】
「どっちも注意すべき」と「どっちも注意しても無駄」が6:4くらいか。
男子で「〇〇するんじゃねーよ」とか「おもしれー」くらいは正直汚い言葉にも入らないレベルという認識で、
むしろ上記レベルで汚いとか言ってたら友達の輪に入れないと思ったから。
でも、女子でそういう言葉遣いをしていたタイプは自分の時代で言えばいわゆるギャルとかその手前くらいの認識で、
まともな女子は(少なくとも学校では)使ってなかったと思うし、ぶっちゃけ俺自身がギャルとか嫌いだから。
最近、女子でもスラックスを選べる学校が増えてきてるみたいだけど、もうスカートは全面廃止で良くないと思うのは私だけ?
「スカートが可愛いから穿きたい女子もいる」と言うけど、それって身の安全や機能性より大切なこと?
「スラックスでも痴漢は防げない」って言うけど、スカートの中の盗撮は明確に防げるよね
看護師も警察官もスカートは廃止されてるというのに、未成年にスカートを穿かせる文化はいつまで経ってもなくならないのが違和感しかない
仙台育英学園が「体育会サッカー部における構造的いじめ」を認定し、12月末までの対外活動停止を発表しました。
学校の最終報告では「部全体・顧問団の人権意識が不十分で、構造的にいじめを生じさせる体制だった」としています。
もし本当にいじめがあったのなら、関係者が責任を負うのは当然です。
しかし、現状の学校対応には、保護者として強い疑問を感じます。
焦点は「被害者」ではなく、「学校の説明責任と判断の妥当性」です。
聞き取り調査の中で明らかになった内容は、次のようなものでした。
ただ、遅刻・居眠り・無断欠席はいずれも本来してはいけない行為であり、それを同級生が強い口調で注意したことまで「いじめ」とされている点に、強い違和感を覚えます。
これはどこの学校や部活動でも見られる“注意・指導の一場面にすぎません。
本人が嫌な思いをしたとしても、
それだけで「いじめの構造」と結論づけるのは、教育的にも慎重さを欠いています。
保護者の証言によれば、当時のサッカー部には「罰則が厳しい雰囲気」があったのは事実です。
試合で負けると「坊主にする」空気があった(ただし明確な強制ではない)
寮では遅刻やお菓子の持ち込みに罰則があり、当時の1年生が“お互いを監視し合う”ような状態が生まれていた。
厳しすぎる規律が子どもたちを息苦しくさせていたのだとすれば、
それを是正すべきは指導者であり、生徒全体を処分する理由にはなりません。
今回「構造的いじめ」とされたのは、学校発表によると2024年5月までに発生した出来事。
つまり、それは現3年生が1年生だった頃の話です。
しかし、実際に活動停止の影響を受けているのは、当時まだ中学生だった現1・2年生です。
彼らは、問題の経緯も知らず、被害を訴えた生徒の顔すら知らないという状況です。
それでも学校は、「構造的いじめのあった部として再発防止を徹底する必要がある」として、学年を問わず全員を対外活動停止としました。
過去の体制で起きた出来事を理由に、関係のない生徒たちまで処分対象にするのは、あまりにも乱暴です。
個人の行為ではなく、組織の過去の文化を理由に“無関係な世代まで罰するという構図は、
学校の報告では、「冗談やいじりであっても、相手が不快に感じたらいじめに該当する」と記されています。
しかし、意図や関係性を一切考慮せずに「不快=いじめ」としてしまえば、
生徒たちはお互いに何も言えなくなります。
教育現場で求められるのは、断罪ではなく“線引きを学ぶ機会”です。
部内で上下関係が固定化し、強すぎる規律や連帯責任があったなら、
生徒たちがその環境でどう育ったのかを丁寧に振り返り、
誰がどのような指導方針をとっていたのかを明らかにすることこそ、
具体的な事実認定を示さず、“構造的いじめ”というレッテルだけが独り歩きしていることです。
誠実に努力してきた選手たちが、何の説明もないまま大会出場を奪われ、
精神的に追い詰められている。
「人権」を守るための対応が、別の子どもたちの人権を奪っているという矛盾が起きています。
本当に苦しい思いをしていたのなら、支援されるのは当然です。
しかし、その結果として関係のない生徒たちまで活動停止に追い込まれ、
これは本当に、被害者本人が望んだ形だったのでしょうか。
もし今、学校の対応によって新たな分断や不信が生まれているのだとしたら、
誰も救われていないということになります。
守るべきは「誰が悪いか」ではなく、「どうすれば皆が尊重されるか」ではないでしょうか。
いじめは決して許されません。
遅刻・居眠り・無断欠席を注意するような、ごく普通の場面までも“いじめ”と認定されている。
結果として別の理不尽や二次被害を生んでいるのではないでしょうか。
被害者を叩きたいのではありません。
本当に問いたいのは、学校の説明責任と、教育機関としての姿勢です。
生徒ではなく、学校です。