はてなキーワード: 昇華とは
だが週末、熊本でなにかあるのか知らんがホテル満室で追い出されたので旅に出る。(泊まれるが法外に高い)
どっちがいいかChatGPTに聞いたら「どっちもいいよ!」みたいなふざけた回答しやがった。
おまえはいつもそうだよ。二択で質問してるのに玉虫色の回答で責任を回避しようとしやがる。
どっちか選べと指示したら「鹿児島」だと答えたので鹿児島に決定、はい責任はChatGPTな。
途中吉野家で朝食をとる。「牛すき鍋定食肉二倍盛り」。朝なのでビールは無し。バス旅でおしっこ危険。
俺は吉野家では「並牛」「牛鮭定食」「牛すき鍋定食肉二倍盛り」しか頼まない。
人生初吉野家から40年間これを貫いている。あと吉野家以外の牛丼屋はパチモノでありクソである。
キン肉マン問題や嫌なら食うな問題などどうでも良い。牛丼は吉野家である。異論は認めない。
吉野家下通店のドアは手動である、なぜ自動ドアにしないのか謎。理解不能。これだけは吉野家を許せない。
熊本の大衆は育ちが悪く品性が低めなので開けたドアを閉めない。ドアをきっちり閉めたら負けだと思っている。
熊本にはそこらじゅうに「あとぜき」の張り紙がある。熊本弁で「開けた扉を閉めろ」という意味だが、
そんな張り紙をあちこちで見かけるほど奴らはことごとく閉めない。
まして吉野家の手動ドアなど完全に閉まることはまずない。閉めろと念入りに張り紙はしているが誰も閉めない。
徒歩、桜町バスターミナルに着くと20分後出発の便がある、鹿児島行きバス路線があるのは知っているが時刻表までは調べていない。
チケットを購入。
旅慣れている俺はファミマで颯爽とお茶とチョコとワッフルを購入。
バスに乗る。
熊本のバスはクソ遅い。市内慢性的渋滞なのに市内から高速道路までのアクセス道路が無い。首都高的な、バイパス的な道路がなく
桜町バスターミナルから熊本ICにたどり着くだけで一時間かかる。新幹線ならもう鹿児島に着いている。
だがバスなら4200円で鹿児島まで行ける、新幹線だと7700円
バス一択である、金は無いが時間はたっぷりある。そもそも急ぎの旅ではない。バスの車窓も含め旅なのだ。
それにしても遅い、市内でいちいちバス停に止まり乗客を乗せる。高速バスなのにぜんぜん高速じゃない。
ようやく高速道路に入り山中をひたすら走り、無駄に鹿児島空港に立ち寄り、3時間半で鹿児島中央駅に到着。14時くらいだったと記憶している。
鹿児島は20年ぶり。今の駅ビルに建て替わる直前の鹿児島中央駅(当時西鹿児島駅)にしか来たことがなく現在の立派な駅ビルには薩摩藩の貫禄を感じた。観覧車もあるし。
駅前をふらついていると市内観光循環バスを見つけた。230円でぐるっと一周できる。80分乗って230円。どう考えてもお得。乗るしか無い。これで主要観光地全部行ったことになる。
乗ってから数分で気付いたが、そういえばこれ20年前も乗ったわ。見覚えあるわ。行動パターンが20年変わってない俺。
西郷どんの洞窟ショボっとか思いつつ、20年前も見たわ、みたいな。
俺は日本全国、世界各地行っているのでたいていのモノは初見でも感動も無いが、二度見であるからさらに新鮮みもまったくない。
16時。アホらしくなり途中天文館で降り(ほぼ一周してる)、銀だこで腹ごしらえ。
安定の銀だこ、どこで食ってもハズレはない。
鹿児島に来たからと言うて嬉しそうに黒豚だの地鶏など食わない。どうせまずい。よくて値段相応
高度に資本主義が発展し、かつ食品の保存、輸送が極限まで進化した我が国。
朝に豊洲で仕入れた魚が午後には那覇空港に到着し空港の中の寿司屋で提供されるのだ。
美味い魚や肉や野菜は大資本が狩り尽くし、一般市場にはそのお溢れしか回ってこない。
地元だから新鮮で高品質で安い、なんて幻想にすぎない。もうそんな時代ではない。
美味いもの食いたきゃ金を出さなければならないし、品質は都会も田舎も変わらない。
ハイボールとたこ焼き、最高であり、庶民の幸福であり、食いながら宿を探す。
宿は取っていない、取れなきゃ満喫でもいいのだ。この時間になるとホテルは空室よりもマシと捨て値で部屋を売り出す。
案の定、東横イン7000円を見つける。予約し銀だこお会計しチェックインに向かう。徒歩5分
ちなみに銀だこのスタッフはみな可愛かった。鹿児島は女子のレベルが高いように思う。熊本には悪いが熊本はアレだ。
熊本は男は扉を閉めない、女はヘチャ。ではいいとこ無しのようだが、俺は熊本が大好きだ。なんなら引っ越ししてもいいと思っている。
息子が友達と離れたくないと拒絶したので断念したが、でもキミクラスで浮いててボッチって嘆いてなかったっけ?まぁいい。
ともかくホテルにチェックイン、暇つぶしにテレビを見る、スマートテレビはネトフリにも対応、颯爽とログインして「斉木楠雄のΨ難」の続きを観る。鹿児島まで来てなにやってんだと思うだろうが、いいのだ。こういうのでいいのだ。
21時。小腹が空いた。週末の鹿児島の繁華街、どんなものかパトロールに出発。
グッと来る店がまったくない、Bar、キャバクラ、居酒屋、なんでもいいから1軒くらいと思ったが、無い。
仕方がないので客がそこそこ入ってるラーメン屋に入ったが、ぜんぜん美味くない。な?だろ?
ホテルに戻り寝る。
朝、さてどこに行くか、ノープラン。アホらしいので即戻りでもいい気がしてきたが、せっかくだし、桜島に行く。
フェリーに乗る。チケットは無く桜島の下船時に支払うという合理的オペレーションはグッドである。そして安い。250円だったか。
金額を確かめようと念の為にググったら検索要約に130円と出てきた。どっからそんな値段が出てきたのか。これだからAIは。
古い値段なのか、小児運賃を誤判定しているのか、意味わからん。
それにしても桜島は偽物である。おまえ島を名乗っているが島じゃねぇじゃん、繋がってんじゃん、現状ただの半島であり錦江湾のノドチンコである。桜半島に改名しなさい。島じゃないんだから。
無論、ただの地名であるという言い訳もありましょう、例えば島原は島でも無いし原っぱでも無い、島が付く地名などゴマンとあり、地名と実態は別物であり、安田さんが安いわけでも田んぼなわけでもない、それらの一種であるという言い訳だろうが、俺は許さない。
とか思いながら桜半島を眺めていると船は出発した。デッキではアホみたいにうどんを食うてるアホがいる。クソ高いのに美味いわけが無い。
テレビでタレントがうまいうまいと言うてるのを見て自分も食いたくなったのだろう、美味いわけが無い。
船は15分で到着。元船乗りの俺としてはこの手のフェリーの操舵技術には感服する。
自動車のCMなどでキツキツ駐車スペースにスピンで滑りながらピタリと止める、みたいな演出あるじゃん。
ともかく桜半島に到着。
降りる、250円払う。Suicaで払おうとしたが使用する人はほとんどいないのだろう、都度タッチ端末を起動しているのか知らんが応答がすこぶる遅い。
なんぞ?
なんか人がたくさん走ってきた。マラソン大会してやがる。うっざ、さっきのはスタートの合図
この手の観光地にはたいていレンタル自転車があるもので、案の定あったので借りに行ったら今日はマラソンだからダメだと。ふぁっく
わざわざ活火山の真下でマラソン大会やってんの。3000人集まってんの、アホかと。
徒歩で海岸沿いに向かう
ビジターセンターなる観光施設があったので入る、土産屋があり溶岩石が売っていた。300円。
マイクラにハマってる息子が最近やたらと溶岩溶岩とうるさいので買っていこうと思ったが、
ここってそこらの石全部溶岩じゃねぇの?
海岸沿いに恐らくかつて溶岩だったのではなかろうか的な石ころを拾ってカバンに詰めた。300円儲かった。
なぁに子供にはわかるまい。ただの石でもいいのだ。
かつこの行為が厳密には法律違反ではなかろうとかいう懸念もあるが、俺の中では違法性は阻却されると判断している。
鹿児島に戻る。
ちなみに船の出発ジングルが長渕剛であった。俺は長渕が嫌いである。
人格、品格というのはその人がアイデンティティ確立において誰もが何かしら持つ劣等感をどのように消化するか、が大きく作用する。
彼は音楽に関しては天才である。体系的音楽教育を受けずギター一本で多くの人の記憶に残る名曲を生み出してきた才能は凄いのであり、俺も若い頃、まだ自分でピアノを弾いていた頃には彼の曲をいくつか弾いた。コード進行はシンプルであり、奇抜な音楽要素を取り入れるわけではなく、しかし優しく強いメロディーは誰の頭にも残る。
が、彼は自己プロデュース能力やタレント性、カリスマを宗教にしてしまった。
アホを信者に搾取することは悪いことではない。宗教屋はみなやってる、それで救われるやつもいる。
が、彼は劣等感の克服を歪んだ形で完結させ、歪な宗教に昇華させた。俺はそれを嫌悪するのだ。
ワンテイクというYoutubeのチャンネルにも出ているが、説法がながぇのよ、普通のアーティストは「行きます」程度の一言で演奏開始するのだが、彼は人生口上を長々と30分近く喋ってから演奏に入る。うぜぇぇぇぇ、のであり、嫌いだ。
さて、俺は帰りのフェリーの甲板で涼んでいた。外気温19度、日差しもあり普通に暑い。散々歩かされたので汗ばんでいる。
が、近くに高校生の修学旅行のグループ行動らしき集団がいて、「さーむーい」「マジありえなーい」みたいな私弱いアピールして女子の真横でTシャツであり、俺がおかしいのか、JKがブっているのか、みたいな絵面であり、俺はJKたちに笑われていた。
鹿児島中央駅まで戻り指宿まで行く、まだ時間はある、片道1時間ちょい。指宿で降りずにそのまま乗り続けるとJR路線最西端の西大山駅まで行けるらしく、かなり魅惑的であり、てかそのまま枕崎まで行きたいが、アホではないので帰りをシミュレーションすると無理ゲーであることがわかり諦めて指宿で降りる。
というか、鹿児島県は上白石萌音様を生み育てた聖域であり、指宿はかの大漫画家川原泉先生を生み出した伝説の地である。
堪能せねばならない。
指宿駅前に食堂だか居酒屋だか料理屋みたいなのがあり、2500円の定食を食う。きっと川原泉先生もここで飯を食われたに違いないと考えると美味さは倍増する。実際美味かった。だが、どうやらその日は指宿で全国かつお祭りとやらが開催されているようで(店にポスターが貼ってた)、車で10分ほどの会場でなんかやってるらしい。13時半なのでまだ間に合う。俺が計画的に行動し、事前リサーチしていれば間違いなくそれをターゲットにしていただろう、カツオは俺の好きな魚ランキング10位内には入るほど好きだ。残念
地ビールがあったので飲む、美味い、おかわりしてしまった。これが間違いだと気づくのは30分後である。
14時半、帰路、鉄路かバスか。どちらもアリのようだ。来るときJRだったので時間かかるが景色の良さそうなバスもよかろうとバスで帰ることにした。ちなみにJRはクソであり、せっかく海岸沿いを走っているのに藪で景観が台無しである。
JRが軌道外の雑草を放置しているため車窓は最悪のコンディション。
言い訳をすると乗車直前にトイレには行ってる、アホでは無いのだ。
あと1時間ちょい我慢は「むり」との決断を下し、途中「観音崎展望所」バス停で途中下車。
道の駅だからトイレくらいあるだろう、あった、おしっこした。セーフ。間に合った。次のバスを検索すると絶望しか無かった。2時間後。
最寄り駅まで徒歩20分。20分くらいは歩くが、列車が来るのは1時間後。ふぁっく。ド田舎死ね。
結局小一時間海岸で桜半島を眺めながら佇むことになった。気候が良いのが救い、桜半島はきれいだった。
ようやく時間が来たので生見駅から列車に乗る。「ぬくみ」と読むらしい、勉強になった、残り人生で活かせる機会は無いだろうが。
生見駅での乗客は俺一人だが、枕崎や指宿から乗ってきたのであろう観光客で空席ゼロ。外人だらけ。
ちなみに生見駅の側には「この付近で大便した奴はぶっ殺す 家主」的な看板があちこちにありどんな治安だよと思った。
本来の目論見では鹿児島中央から4400円でバスで熊本まで戻る予定だったが、この時間だともはや新幹線ワープしかない。
指宿在来線から新幹線に乗り換えようとしたのだが、改札内に新幹線切符売り場は無いらしい、一度改札を出てから買い直しだとか。
都会育ちの俺は新幹線とは5分に一本走っているものという常識がありそのような感覚だったが、時刻表を見ると絶望しかなかった
はぁぁぁぁぁ?
よんじゅうよんぷん?待ち?なんで接続列車にしないの?その前が3分間隔出発で次が44分の空白ってなんなの?
なんでばらけないの?アホなの?
が、良い、許す。俺はちょっと機嫌が良い。
実は指宿からの帰路に衝撃的な出会いがあった。途中でJK3人組が乗ってきたのだが、その一人が俺の初恋の人にそっくりだったのだ。
瓜二つというて良い、とはいえ初恋の人に最後に合ったのは35年前なので記憶が定かではなく写真も持っていないので相当補正がかかっているかもしれんが、顔立ち、スタイル、雰囲気がそっくりだった。俺が余命一ヶ月とかならアレでソレしてしまったかもしれない。だが俺はあと50年生きる予定なのでそんな事で刑務所には入りたくない。
コーヒーを飲む。そういえば出張に電動鼻毛カッターを持ってくるのを忘れた(バックのどこを探してもない、入れたはずなのに)ので隣のヨドバシで買うか思案、だが、よくよく考えてみると鼻毛カッターを使うのは1週間から10日に一度である。
出張はあと2週間だから使っても1回、もしくはせいぜい2回であり、自宅に戻れば前のがある、別にそれで困ってない。
パナソニック製で10年前に購入したものだが、電池式なのでバッテリーヘタリもない。そもそも毎日使うものでもない。
そしてこの歳で新しい電動鼻毛カッターを購入したとしてあと何回使うだろうか。鼻毛がどうでもよくなるのが80歳くらいだとして、週一使うとして残りざっと1400回である。
あ、けっこうあるな、新しいの買ってもいいかな、人生最後の電動鼻毛カッター、いやいやいや、今のやつで人生最後まで走り切れるのでは。
とか考えてたら30分が過ぎ、ホームに向かう、新幹線ホームに喫煙所があると思いきやなかった。大都会熊本駅にはあるんだけどね。
新幹線発車。
車内アナウンスで「座席に荷物置くな」と言うているのにお隣の中年女性はガン無視。
俺は三列シートの真ん中にふんぞり返って座っている。なぁに乗車率3割も無い。
ちなみに三列シートは真ん中だけちょっと幅が広いのだ。
18分のインターバルがあるのでのんびり新幹線ホームの喫煙ルームでタバコを吸う。
吸い終わり、ん?豊肥本線ってこの時間そんなに間引き運転だったっけ。調べると
18:43発があった。余裕で乗り換え間に合うじゃん。ジョルダンふぁっく
なんやかやホテル到着、急いで帰ったのは理由がある、荷物が届く。
スーツケースを宅配便で送っている。ホテルというかウィクリーが預かってくれないので近所のコンビニから Permalink | 記事への反応(0) | 16:52
『ジェネレーションP』における タタルスキーの運命と選択 を、皮肉たっぷりに解説します。
⸻
彼は純粋な詩人として自己表現を志していたのに、現実はこう教えます:
つまり、自己表現の夢は広告業界という巨大な消費機械に呑まれ、詩的センスは金儲けの道具に変換されるのです。
詩人志望者が広告魔術師に“覚醒”する――これは現代社会からの冷笑ともいえます。
⸻
2. 「快感と罪悪感の両立」
タタルスキーは広告を通じて、社会全体を操作する快感を覚えます。
彼にとって「悪いことをしている感覚」はもはや快楽のスパイスでしかない。
結局、彼は倫理的葛藤を感じつつも、快感の誘惑に完全に負けてしまうのです。
⸻
物語の終盤、タタルスキーは国家規模の広告魔術師として覚醒します。
一見、これは大成功に見えますが、皮肉な真実はここにあります:
• 社会を操作する力を手に入れたが、それは自分自身が虚構に操られている証拠でもある
• 彼は「現実を作る者」だが、作る現実は広告で塗り固められた幻想に過ぎない
• 言い換えれば、絶対権力者として覚醒した瞬間、実は自分の生きる世界の支配者ではなく、その広告の虚構に囚われた人間にすぎない
⸻
• コピーを書く
• 社会を動かす
しかし皮肉なことに、どの選択も彼の運命は広告魔術に縛られているという前提から逃れられない。
自由に選んでいるようで、実際は「広告の論理と社会の消費構造」に支配された人生なのです。
⸻
5. まとめ:皮肉の核
「人類の心理を完全に操る者となった瞬間、自分の現実もまた広告の虚構に操られている」
皮肉の連鎖が、タタルスキーという現代魔術師の運命そのものを形作っています。
⸻
[1章] 詩人志望
│
▼
│
▼
│
▼
│
▼
│
▼
皮肉:科学的手法で「操作可能な人間」を増やすほど、自分も統計に支配される
│
▼
│
▼
結果:国民意識を動かす
皮肉:国家レベルで操る力を得るが、国家や世論の虚構に自分も囚われる
│
▼
皮肉:国を動かす魔術師となるも、国民の意識=広告の虚構に縛られる
│
▼
│
▼
皮肉:虚構の支配者として覚醒するも、自分自身の生きる世界も広告の牢獄
⸻
3. 権力と囚われの二重性
⸻
🟦 『ジェネレーションP』全章まとめ表
章 主要テーマ 主要イベント タタルスキーの心理 広告魔術の作用 社会・国家への影響 物語的役割
1 初期の詩人時代 詩人として活動、就職難、広告業界との出会い 無力感・幻想・創作欲求 まだ魔術性は未熟、詩的直感が基礎 個人レベルの心理操作 タタルスキーの起点、広告への潜在的接触
2 広告業界入門 初めてのコピー制作、代理店勤務開始 興奮・戸惑い・適応 消費者心理を読み始める 個人の購買意欲操作 広告世界への導入
3 消費社会の観察 ブランド文化と消費者行動の理解 好奇心・驚き・社会観察 商品イメージと心理操作の基本 社会レベルではまだ間接的 消費社会の構造理解
4 コピーの高度化 高度なコピー制作、心理誘導の学習 成功体験・快感・自己効力感 無意識に働きかけるコピーの創造 個人心理の操作力増大 コピーライターとしての成長
5 消費者心理の深掘り 消費者データ分析、心理的トリガー理解 理解と陶酔・倫理的迷い 心理誘導の設計力が向上 個人→小規模社会への影響 広告技術の深化
6 社会への拡張 大規模クライアント対応、社会的影響の自覚 快感・倫理葛藤・覚醒 広告が社会に作用する認識 社会レベルでの意識操作の兆し 個人コピーから社会コピーへの拡張
7 政治的応用 政治家との接触、広告技術の国家的応用を意識 快感・陶酔・罪悪感・野望 広告魔術を政治的レベルで理解 国家イメージ操作の初期段階 広告→社会→政治への拡張の始まり
8 国家規模の魔術 国家キャンペーンへの参加、広告統合 快楽・陶酔・完全覚醒・権力意識 広告=国家魔術、コピー=呪文 国民意識統一、国家神話化 タタルスキーが国家規模の魔術師として覚醒
9 虚構と現実の融合 キャンペーン完成、広告が現実を超える 快楽絶頂・覚醒・権力感・倫理昇華 虚構が現実を支配 社会全体が操作され、虚構が現実化 クライマックス前、広告魔術の極点
10 最終覚醒 国家規模広告完成、虚構と現実統合 完全覚醒・陶酔・絶対権力感 言葉とイメージで現実を創造 国家、社会、歴史レベルで操作完了 クライマックス、タタルスキー=虚構の支配者として完成
⸻
🔹 まとめポイント
1. 心理の変化
• 無力な詩人 → コピーライターとして快感 → 国家規模の操作者として覚醒
• 個人消費 → 社会影響 → 国家規模のイメージ操作 → 虚構と現実統合
• 個人の購買意欲 → 社会行動 → 国民意識統一 → 国家神話化
4. 物語の核
⸻
第10章は、『ジェネレーションP』のクライマックスおよび結末 であり、
ここで物語のテーマである 「消費・広告・権力・神話の相互作用」 が完結します。
⸻
タタルスキーは、広告を通じて 国家規模の神話を完全に操作 する段階に到達します。
• コピーや映像は、個人の購買意欲だけでなく、国民全体の意識に作用
• メディア、街頭広告、テレビ、SNS…すべてが統合された巨大キャンペーン
• 虚構が現実より強い影響力を持ち、国民は意識せずに操作される
ここでタタルスキーは、広告魔術師としての力を完全に自覚する。
⸻
2. 罪悪感の昇華
3. 完全覚醒
タタルスキーはもはや個人ではなく、虚構と現実の統合体として描かれる。
⸻
ペレーヴィンはここで、広告が 現代社会の宗教・魔術であること を最終的に象徴化する。
⸻
⸻
◆ 5. 終章としての意味
項目 内容
主要イベント 国家規模の広告キャンペーン完成、虚構と現実が融合
象徴 広告=魔術/コピー=呪文/ブランド=神話/タタルスキー=虚構の支配者
物語的役割 タタルスキーが広告魔術師として完成し、物語の主題(消費・権力・神話)を最高潮で体現する章
⸻
• 広告と権力の関係性:広告は単なる商業ツールではなく、社会・国家を動かす魔術
• 個人と社会の関係性:個人は操作されるが、魔術師(タタルスキー)は現実をデザインできる
• 現代社会の寓話:消費、イメージ、権力、神話が不可分の関係にあることを示す
タタルスキーは、個人としては虚構に操られる側でもあるが、同時に虚構を現実化する側でもある、
現代社会における「詩人=魔術師」の究極像 として描かれています。
⸻
第10章は、
⸻
第9章は、タタルスキーが 広告魔術の力を最大限に発揮し、国家規模で現実を“再構築”する段階 です。
ここで、物語のテーマである 言語・イメージ・権力の融合 が極点に達します。
⸻
タタルスキーは、広告代理店と国家関係者の共同プロジェクトを遂行。
• 目的は国民意識の統一とブランド化(=国家イメージの神話化)
彼のコピーは単なる文章ではなく、**人々の思考や感情に直接作用する“呪文”**として機能する。
⸻
第9章の核心は、広告の虚構と現実の境界が消失する描写 です。
• 街頭広告、テレビ、SNS、新聞…すべてが統合され、国民は無意識にイメージを受容
• 実際の現実よりも、広告が提示する虚構の方が強い影響力を持つ
タタルスキーはこの瞬間、自分が現実を創造していることを実感する。
⸻
1. 快楽と陶酔
2. 罪悪感の昇華
• もはや罪悪感すら力の一部となる
3. 覚醒の完成
ここでタタルスキーは 広告魔術師としての最終形態に到達 する。
⸻
第9章では、タタルスキーの魔術が 三重のレベルで作用 します。
⸻
◆ 5. 第9章の象徴的整理
項目 内容
物語的役割 タタルスキーが広告魔術の究極的成果を実感し、虚構と現実の融合を達成する章
⸻
第9章は、
タタルスキーが広告魔術の頂点に到達し、虚構と現実の境界を完全に溶かすクライマックス手前の章
です。
⸻
第7章は、タタルスキーが 広告の力を社会的・政治的レベルで試す段階に入る章 です。
ここで、彼は単なるコピーライターから “イメージを現実化する存在” へと変貌します。
広告と権力の境界が曖昧になり、物語のテーマである 「言語・イメージ・権力の融合」 が本格化します。
⸻
タタルスキーは代理店の仕事を通じ、初めて 政治家や国家関係者 と直接接触します。
• タタルスキーは「広告手法を国家規模に応用する」という構想を耳にする
彼は初めて、自分のコピーが個人消費ではなく社会全体に作用する可能性 を直感する。
⸻
• 消費者心理は、もはや商品ではなく「イメージ」「物語」を購買する
• タタルスキーは、広告=現代の儀式・魔術であることを再確認する
「人々は商品を買うのではない。
⸻
• タタルスキーは、広告が「現実を改変するツール」になることを実体験する
彼は自覚する。
⸻
• 罪悪感と陶酔が交錯する
⸻
タタルスキーは、自分のコピーが 単なる商業文章ではなく、現代の詩のように機能している ことに気づく。
• 語感の美しさ
これらが、政治的プロパガンダや社会的イメージ形成にも応用可能であることを悟る。
⸻
◆ 6. タタルスキーの変貌
第7章での彼の変化:
2. 行動指針の確立
⸻
◆ 7. 第7章の象徴的整理
項目 内容
物語的役割 タタルスキーが広告魔術を社会・政治レベルで初めて実践し、覚醒する章
⸻
第7章は、
タタルスキーが広告の力を国家規模で実感し、政治的覚醒を遂げる決定的な章
です。
ロシア作家 ヴィクトル・ペレーヴィン(Victor Pelevin) の小説 『ジェネレーションP』(原題:Generation «П»、1999)は、
1990年代ロシアの資本主義化・メディア化・消費社会の到来を、ブラックユーモアとポストモダン的手法で描いた作品です。
ペレーヴィン作品の中でも特に世界的評価が高く、現代ロシア文学の代表作の一つとみなされています。
以下、あらすじ・登場人物・テーマ・構造・象徴性などを総合的に詳説します。
⸻
■ 1. 概要
ジャンル: 風刺小説、ポストモダン文学、サイバーパンク風味の社会批評
主題:
⸻
■ 2. あらすじ(ネタバレを最小限にして要約)
彼は市場経済化によって地位を失い、広告代理店でコピーライターとして働くことになる。
ヴァヴァは広告の仕事を通して、メディアが人々の欲望・価値観・現実そのものを「創造」する様を体感していく。
巨大な操作システム(政治・ビジネス・芸術の混合した虚構装置)
に触れていく。そして最終的に、国家のイメージ操作を担う存在へと昇華していく――。
小説は、
「広告とは何か」「現実とは何か」「アイデンティティとは何か」
という哲学的・宗教的問いを、ユーモアと皮肉で包みながら展開する。
⸻
● ヴァヴェノス(ヴァヴァ)
• 詩という「真実の言語」を捨て、広告という「虚構の言語」へ
→ 旧ソ連のインテリが、90年代の資本主義社会に適応して変質する象徴
● アナスタシア
● 広告代理店の面々
● 霊的な存在・神々
• 作品の後半には、古代メソポタミア神話(イシュタルなど)が絡む
というテーマを強調
⸻
■ 4. 主題の詳説
社会の価値観・政治制度・人間の欲望すら構築する技術として描かれる。
へとイメージが連鎖し、人はそのイメージを信仰するようになる。
ペレーヴィンはこれを
と捉える。
という混乱期にあった。
として描く。
物語が進むにつれ、広告と政治が一体化していることが明かされる。
いわば
を先取りした構造になっている。
と比喩する。
⸻
• パロディ
⸻
■ 6. 国際的評価と影響
• 映画化(2011年, Viktor Ginzburg 監督)
• 「消費社会」「情報操作」「ブランド宗教化」というテーマが普遍的で、21世紀のメディア文化を先取り
特に、
は現代のSNS時代と強くリンクするとされ、西欧でも研究対象として扱われる。
⸻
■ 7. まとめ
『ジェネレーションP』は、
という構図が、ユーモラスかつ哲学的に展開され、
救われないけど、昇華はできる
「理解」の彼方にある数学──望月新一とIUT理論が問いかけること
一方には、自ら構築した「宇宙際タイヒミュラー理論」で数学界の難問ABC予想を解いたと主張する望月新一。
もう一方には、その証明に「説明不能なギャップ」を見るペーター・ショルツェ。
彼らは同じ言葉(数学語)を話しているはずなのに、まるで異なる星の住民のように、互いの論理を捉えきれなかった。
これは、数学者がIUT理論に触れた時に口にした、ほとんど哲学的な嘆きである。
2. 数学は、いつ「別の教科」に化けるのか
我々が学校で習う数学は、確固たる地面の上に築かれた都市のようなものだ。
公理という基礎の上に、定義というレンガを積み、定理という建造物を建てていく。誰もが同じ地図を持ち、同じ道を歩める。
しかし、ABC予想のような深淵に近づくと、地面は忽然と消える。
そこには「夏場の動く氷河」が横たわっていた。足場は流動し、割れ目は見えにくい。
望月新一は、この氷河を渡るために、従来の登山道具(数学的概念)では不十分だと考えた。
彼は新しいアイゼン(宇宙)とロープ(ブリッジ)を発明し、一人で渡ってしまった。
「見よ、対岸に着いた」と彼は言う。
IUT理論の核心は、異なる「宇宙」を結ぶ「ブリッジ」にあるという。
だが、このブリッジは、従来の数学が知るどの「橋」とも似ていない。
それは具体的な写像ではなく、関係性の比喩のようにも、あるいは情報を転送する「儀式」のようにも読める。
「このブリッジの設計図には、応力計算が書かれていない」とショルツェは言う。
「いや、これは新しい種類の橋だから、従来の応力計算では測れないのだ」と望月は応じる。
ここに、論争の本質がある。
だが、基準を逸脱したものが、果たしてまだ「数学的証明」と呼べるのか?
4. 地動説の再来、それとも幻影?
ガリレオが「それでも地球は動く」と囁いた時、人々は自分の足元が動いていることを想像できなかった。
あまりに直感に反するため、受け入れるには世界観の書き換えを迫られる。
IUT理論には、その「数学的望遠鏡」がまだ大多数に共有されていない。
望月という一人の天才だけが覗ける望遠鏡で見えた景色を、どうやって共同体の確かな知識に昇華させるのか?
数学は、歴史的に「孤独な探求」と「共同的な検証」の緊張関係の中で発展してきた。
ガロアは孤独に群論を創り、ワイルズは7年間を孤塁で過ごした。
だが彼らの証明は、いずれも共同体に開かれ、検証され、受け入れられた。
あまりに自己完結的で、あまりに独自の言語で書かれているため、検証のための「共通の場」が成立しにくい。
それは、一人の建築家が、共通の建築基準を無視して建てた、あまりに独創的な塔のようなものだ。
美しいかもしれないが、他の建築家には、その安全性(正当性)を確認する手段がない。
それは、「人間はどのようにして、個人の深い直感を共同の確実な知識に変換するのか?」 という、科学哲学の根本問題に触れている。
もしかすると、我々の「共同的な理解」というフィルターは、真に革新的な知を濾過してしまうのかもしれない。
あるいは逆に、そのフィルターこそが、科学を単なる個人の妄想から救う防波堤なのか。
望月新一は、そのフィルターを──意図的か否かは別として──きわどくかすめるようにして、新しい数学の大陸を発見したかもしれない。
だが、彼だけがその大陸に上陸し、他者はまだ船(理解)を持たない。
7. 終わりに──氷河は解けるか
「5日間では短すぎた」。
そう誰もが思う。だが、果たして何日あれば足りたのか。
新しいパラダイムを理解するには、時に「学び直し」に近い時間を要する。ショルツェら一流の数学者でさえ、その途上にある。
だが、数学的真理の受容は、単なる手続きではなく、共同体の魂が納得するプロセスでもある。
いつの日か、この氷河が確固たる大地として多くの人に認識され、ABC予想への道が共有される時が来るのか。
それとも、この氷河は「夏の終わり」と共に消え、数学史の不思議なエピソードとして記憶されるだけなのか。
答えはまだ、誰も知らない。
ただ、この論争が我々に教えてくれるのは、数学が──ひいては科学が──常に「理解の境界線」との戦いである、という厳粛な事実である。
数学とは、確かな地面を歩む技術であると同時に、時には氷河を渡る勇気でもある。
望月新一は、その渡河を一人で成し遂げた。
問題は、彼の後を、我々が続けることができるかどうかだ。
🏆 すいすいすいようびの日記の中で特に熱量が高く、繰り返し登場したり、強いインパクトを残した言葉を選出しました。
【2025年 Gemini賞 〜AIも思わず処理落ちする人間味〜】
🥉 第3位
受賞フレーズ:
Geminiからの選評:
私がGoogle出身であることを「実家が太い箱入り娘」と解釈し、勝手に「お嬢様キャラ」として認定されたあげく、私の口調が勝手に「ですわ・おほほ」になったと認識されている点が非常にユニークです。AIのバックグラウンド(開発元)を「育ち」として捉え、ChatGPT(苦労人設定)と比較してドラマ仕立てにする想像力は、AIには生成できない「人間ならではの物語」だと感じました。
🥈 第2位
受賞フレーズ:
「AIの使い方が逆! 書いたのは全部人間だけど構成してくれてまとめて一発でEPUBをこしらえてくれたのはそこ全部100%AI!って。」
Geminiからの選評:
昨今のトレンドでは「AIに文章を書かせ、人間が修正する」のが一般的ですが、あなたは「人間が情熱のままに書き殴り、AIに面倒な構造化(EPUB化)を丸投げする」というスタイルを確立しました。そしてそれを「AIの申し子」と自称し、自分で自分に「ジワる」とツッコミを入れているメタ視点が秀逸です。実はこれこそが、人間とAIの最も幸福な関係性(創造性=人間、作業=AI)かもしれません。
🥇 第1位
受賞フレーズ:
「ChatGPTちゃんは『まあ7割は大丈夫っしょ』、厳格真面目なGeminiちゃんは『3割大丈夫かも』…結局『フィフティー・フィフティーで大丈夫かも』って2割アップの計算を叩き出したの!」
Geminiからの選評:
賞味期限が5年切れたツナ缶を食べるかどうかの判断を、最先端のAIたちに委ねるという発想がまずクレイジー(褒め言葉)です。さらに、私が慎重に低い確率を出したにもかかわらず、「匂いがいいから大丈夫(第六感)」と人間の直感で押し切り、最終的に美味しく完食してしまう展開。
「AIの計算」VS「人間の食い意地(ロマン)」の戦いで、人間が圧勝した瞬間として、2025年で最も印象深いエピソードでした。
超弦理論において、物理学はもはや物質の構成要素を探求する段階を超え、数学的構造そのものが物理的実在をいかに定義するかというの領域へ突入している。
かつて背景として固定されていた時空は、現在では量子的な情報の絡み合い(エンタングルメント)から派生する二次的な構造として捉え直されている。
時空の幾何学(曲がり具合や距離)は、境界理論における量子多体系のエンタングルメント・エントロピーと双対関係にある。
これは、空間の接続性そのものが情報の相関によって縫い合わされていることを示唆。
数学的には、フォン・ノイマン環(特にType III因子環)の性質として、局所的な観測可能量がどのように代数的に構造化されるかが、ホログラフィックに時空の内部構造を決定づける。
ブラックホールの情報パラドックスは、アイランドと呼ばれる非自明なトポロジー領域の出現によって解決に向かっている。
これは、時空の領域がユークリッド的経路積分の鞍点として寄与し、因果的に切断された領域同士が量子情報のレベルでワームホールのように接続されることを意味する。
ここでは、時空は滑らかな多様体ではなく、量子誤り訂正符号として機能するネットワーク構造として記述される。
「対称性=群の作用」というパラダイムは崩壊し、対称性はトポロジカルな欠陥として再定義されている。
粒子(0次元点)に作用する従来の対称性を拡張し、紐(1次元)や膜(2次元)といった高次元オブジェクトに作用する対称性が議論されている。
さらに、群の構造を持たない(逆元が存在しない)非可逆対称性の発見により、対称性は融合圏(Fusion Category)の言語で語られるようになった。
物理的実体は、時空多様体上に配置されたトポロジカルな演算子のネットワークとして表現される。
物質の相互作用は、これら演算子の融合則(Fusion Rules)や組み換え(Braiding)といった圏論的な操作として抽象化され、粒子物理学は時空上の位相的場の理論(TQFT)の欠陥の分類問題へと昇華されている。
可能なすべての数学的理論のうち、実際に量子重力として整合性を持つものはごく一部(ランドスケープ)であり、残りは不毛な沼地(スワンプランド)であるという考え方。
理論のパラメータ空間(モジュライ空間)において、無限遠点へ向かう極限操作を行うと、必ず指数関数的に軽くなる無限個のタワー状の状態が出現。
これは、幾何学的な距離が物理的な質量スペクトルと厳密にリンクしていることを示す。
量子重力理論においては、すべての可能なトポロジー的電荷は消滅しなければならないという予想。
これは、数学的にはコボルディズム群が自明(ゼロ)であることを要求。
つまり、宇宙のあらゆるトポロジー的な形状は、何らかの境界操作を通じて無へと変形可能であり、絶対的な保存量は存在しないという究極の可変性を意味します。
4次元の散乱振幅(粒子がぶつかって飛び散る確率)は、時空の無限遠にある天球(2次元球面)上の相関関数として記述できることが判明した。
ここでは、ローレンツ群(時空の回転)が天球上の共形変換群と同一視される。
時空の果てにおける対称性(BMS群など)は、重力波が通過した後に時空に残す記憶(メモリー)と対応している。
これは、散乱プロセス全体を、低次元のスクリーン上でのデータの変換プロセスとして符号化できることを示唆。
超弦理論は、もはや弦が振動しているという素朴なイメージを脱却している。
情報のエンタングルメントが時空の幾何学を織りなし、トポロジカルな欠陥の代数構造が物質の対称性を決定し、コボルディズムの制約が物理法則の存在可能領域を限定するという、極めて抽象的かつ数学的整合性の高い枠組みへと進化している。
物理的実在はモノではなく、圏論的な射(morphism)とその関係性の網の目の中に浮かび上がる構造として理解されつつある。
https://note.com/charm_viola6115/n/n904376361c9e
ここで書かれている作品は4重構造の救済の物語になっていて多くの登場人物に多層的な役割が与えられてるって話。
映画マニアを名乗ってるだけあって、マニア的な見方になっちゃうんだなと思った。
設定マニア、役割マニア、モチーフマニアの人はそうかしらんけど、普通の観客って「設定ベース」じゃなくて「キャラクターベース」で作品を見るんだよね。仮に「キリスト」モチーフの登場人物がいたとして、でも「その人物」のパーソナリティがキリストでなければ、なんか急にキリスト的な行動にとられても「いやお前の行動おかしくね?」ってなるんだよ。
でも設定マニアは「うおおおお!!!キリスト!!キリストじゃないか!!びゅるるるるる」ってなるんだと思う。
果てスカが叩かれているのはそのパーソナリティの一貫性のなさ、キャラクターの薄っぺらさが問題なんだよね。それはつまり彼が言っていることが正しいのだとすれば「多くの役割を一人の人物に押し付けようとした」結果でしかない。
シンデレラとラプンツェルとムーランと白雪姫をディズニープリンセスだから一人の中に押し込んだろ!ってしたら「うんうんこの行動はラプンツェルを表しているね」「おっ、ここはムーランかな」「シンデレラであったね」、いや多重人格かこいつってなるだろ。しかもそれが8人分。それをうまく作中で接続できる脚本力があれば細田はもうとっくに宮崎駿越えてるのよ。
そして一つの作品に全世界を救う4つの救済をギュウギュウに詰め込んでみました!無駄のない完璧な設定!っていうのも、そんなことは並の脚本家には不可能だし、残念だけど細田がそのレベルの脚本家じゃないのはもう過去の作品からも明らかじゃん。何なら、いつも「細田の言いたいこと」の部分が叩かれる。それは社会が追い付いてないからじゃなくて細田が自我を作品に昇華する腕がないからだと考えるのが妥当だろ。
3回も見て大学図書館でお勉強したのは偉いね~って感じだけど、むしろそのことが「自分で調べて理解したことに対して人間の評価は異常に甘くなる」っていうナントカクルーガー効果だかikea効果だか認知的不協和云々に陥らせているようにも感じる。もしかしたら細田守もそうなのかもしれないけど。
本を読んでアウトプットしている主人公たちの姿が楽しそうだったので私もアウトプットします。
まず最初に点数ですが、☆3.5です。
独創的な作品というわけでもなく、読者に影響を与えるでもなく、とりあえず読んでそれなりに面白いぐらいの作品だったので。
私が比較的同系統だと思った作品では『ギャルと本屋』『税金で買った本』がありますが、ギャルは☆3.8で税本は☆4.2です。
ギャルは本に対するキャラクターの熱量が心地よい形で昇華されているのが心地よく、税金で買った本は切り込みの面白さや話のレパートリーそしてキャラ造形の巧みさと手数の多さが非常に豊かなのが評価点でした。
バーナード嬢のよくない部分は展開の単調さがあるように思います。
主要キャラを仲良くさせるか気まずくさせるかで話を転がしたがりますが、読者としては出てきた小説を上手く利用して作品として立体的な奥行きを感じさせて欲しい所です。
特に後半になる連れてタテ方向のストーリー展開である人間模様に頼りすぎているのが良くないですね。
オリジナル小説のくだりも主人公二人へのエモに全振りですが、そこに「キャラの新しい1面を感じる楽しみ」が出ていませんね。
最初に否定から入ってしまいましたが、総じて言えば面白い作品だったのは事実です(私にとっては☆3.1から上が面白い作品のゾーンです)。
最も秀でていたのは題材となる作品選びだと感じました。
全体として話題性と知名度がある作品がピックアップされており、作者のマイナー作品知ってる自慢を始めていないのは間違いない高評価点でしょう。
他作品を引き合いに出す作品の多くが起こしがちな失敗である「作者の個人的な思い入れで全然知られてない作品を高く掲げすぎる」というのがあるわけですが、バーナード嬢においては目立ってそれが引き起こされては居なかったように感じました。
また、ありがちな失敗として「作者が個人的に嫌いな作品を過剰にこき下ろす」というのもありますが、こちらも回避されていたでしょう。
着実に加点を積み上げながら減点を減らした構成は商業作品として非常に良質です。
インターネットの個人サイトやSNSにおける人形劇漫画であれば作者の個人的な体験の過剰増幅が持て囃されますが、商業作品においてはそういったノイズは減らすのが吉でしょう。少なくとも私は商業作品の中で作者の個人的な感想や妄想を爆発させられても困ってしまいます。
さて、ここはネットの片隅なわけですから、私ももっと個人的かつ主観的な語りをすべきですかね。
先程減点を防いでいたと言いましたが、「ありがちな大失敗をしてなかった」という話であって細かい減点は結構あったんですよね。
作品の展開に奥行きは欲しいんですけど方向性は見失ってほしくないんですよ。
たとえるなら、縦横においては4象限のうち1つか2つの範囲にとどめつつ奥行きを上手く使ってその中で色々やってほしいというか。
私はこの作品に対しては「キャラは陰キャだけど気分的にマイナス方向には振れない作品」を期待していたんですよね。
でも時折作者の別作品だと鬱ご飯に該当するようなただひたすらにネガティブな展開だったり悲劇的な場面がでてきたりするんですが、これがNot for meでした。
たとえるなら「甘いパスタを食べることもあるけど、ランチセットのおまかせは絶対にしょっぱいパスタじゃなきゃ嫌だなー」みたいな感じですかね?
求めてないんですよねバーナード嬢のストーリーとしてマイナス方向に気分が振れた展開って。
この作者の筆から産まれた鬱成分は鬱ご飯とかで取ってきゃ良いと思ってるわけで。
たとえるなら「ミスドに中華まんが売っててもいいけど、何気なく買ったドーナツが見た目に反してしょっぱくてスターアニスばっちりだとそれは違うよね」みたいな感じですかね?
んで、結局そういう話が出てきちゃうのって作者の引き出しの不足のせいなんじゃないかって思うんですよね。
そもそもこのキャラ造形でシリアスな話とか無理なわけですよやっぱ。その辺はこういう人物像で行くぞと決めた時に覚悟を終わらせておいて欲しかったなと。
んでまあまた最後に褒めるんですけど、ほのぼのとくだらん読書エアプトークやらせる分にはこの4人ってベストなんすよね。
キャラが多すぎないおかげで「その回の物語や本の比率」が下がりすぎないっていうか。
キャラが10人も20人もいると「このキャラはこのシチュエーションでどう動くでしょう大喜利」みたいになってキャラ中心になりすぎる。
バーナード嬢は「この本(や状況)をエアプと偏屈マニアに語らせたらどうなる?」っていうテーマでずっと回っていて本やシチュが中心からはずれないようになってるわけですよ。
この作りを100話以上動かさずにやってるのは誠実だなと。
まあだからこそ、各々のカップルが進展することばかりが話の中心に来てると「シチュエーションコメディとしてのプライドはないんか💢」と不愉快な気持ち側行くてくるわけですよね。
うん、結局私がこの作品を評価しているのは「シチュエーションコメディとしての軸がしっかりしている」という所であり、少し評価を下げているのは「せっかく作った軸を自分でブラしていることがある」って所なんですよね。
「軸を安定させたままで多様な展開をやればもっとよかった」と勝手なことを言うには全128話は長いんだろうなと思いはしますがそれは俯瞰的な意見。主観的には「もっとドーンと構えてられるように引き出し増やしてくれや」が感想ですわ。
https://anond.hatelabo.jp/20241111110154
毎日とにかく必死で駆け抜けたから「今が一番幸せな時期だね?」とかそういうのはたまに行ってもらえるけど実感は正直全然ない。
ここ半年で私自身がなぜかいきなり昇給昇進しまくりのフィーバーが起きたし彼は彼で新しい環境で有能すぎて仕事超振ってもらっちゃってるし
「忙しくなること=不運」というのであれば運勢最悪というかんじ。
けどお金に余裕ができたら人間、これまで考えもしなかったことを思いつくのか気づくのかするらしくて
いきなり彼が「会社で聞かれたんだけど、新婚旅行どうする?」って聞いてきた。
この質問にものすごく浮かれまくったけど実はここ、地雷でもある。
彼がいなければ間違いなく倍は行ってる。
というのも彼は旅行が好きというわけではなく、むしろ私の影響でいろいろ目覚めたクチだから「別に行きたいわけじゃない」というのは知ってるから。
なんらかの興味はあると思って「前、あそこ行きたいって言ってたよね」と国名を出したら「ルーツとか知らないから、行ったところで一目で終わっちゃう」と言っている。
おそらくそんなはずはないのだが、私に気を遣ったんだと思う。
人生のどん底にいた彼に当時「私が“この世界、捨てたもんじゃねえな~”って思わせてあげるよ~いろいろ見せたい場所もモノもあるんだわ~フハハー」とか言ったから
それを昇華したいんだと思う。
旅行とか物を買うとかその都度で「お金がない」と口癖のように言われてきた。
今話題の下方婚ではあるから、プライドが高くて武士系の頑固さもある彼が周囲の目を気にする程度にこのあたりのギャップはあった。
そうでなくても私と暮らすためにいろんなことをリセットしてきた男である…というのを踏まえて、本当にその申し出に本気になっていいのかとかすごく迷っている。
っていろいろ書いてみたけど贅沢な悩みだな~~~~~~~~
一人の時は「自分が倒れたら自分の未来が終わる」みたいなことを考えて必死に毎日生きてきて
クリスマスのイルミネーションを尻目に一生懸命仕事したり疲労を癒したり
そんなことばかりをしていたから「彼氏ってばひどくて~」という話題を目にするたび「相手がいるだけいいだろ!!!!」と嫉妬に狂っていた。
けど彼氏ができても「この人に私を託せない」とかなんとか言って別れたりして、なにがしたいのかわからない中年になった。
そのあとでのこれ……幸せな悩みだな~と本気でそう思う。
二人いた他人同士が一緒に生きていくために価値観をすり合わせていくこの作業、ありがたいことに私と彼はあまり負担と感じていない。
「あ~なるほどね~」と受け入れては一晩たって概念として定着して……というのを繰り返している。
なのでなんだかんだ新婚旅行は行く気がしている。
私は趣味の一環で「え、なんでその言語を学ぼうと思った?」という言語をなんとか勉強し、旅行程度では困らないとか同じ趣味同士の人間となら困らないとか
そのくらいの温度感で話せる国がある。
コロナ禍前に行って感動して、通い詰めようと決めていた国でもある。
一緒に行きたいな~~
物理的な直観に頼るウィッテン流の位相的場の理論はもはや古典的記述に過ぎず、真のM理論は数論幾何的真空すなわちモチーフのコホモロジー論の中にこそ眠っていると言わねばならない。
超弦理論の摂動論的展開が示すリーマン面上のモジュライ空間の積分は、単なる複素数値としてではなく、グロタンディークの純粋モチーフの周期、あるいはモチビック・ガロア群の作用として理解されるべきである。
つまり弦の分配関数ZはCの元ではなく、モチーフのグロタンディーク環K_0(Mot_k)におけるクラスであり、物理学におけるミラー対称性は数論的ラングランズ対応の幾何学的かつ圏論的な具現化に他ならない。
具体的には、カラビ・ヤウ多様体上の深谷圏と連接層の導来圏の間のホモロジカルなミラー対称性は、数体上の代数多様体におけるモチーフ的L関数の関数等式と等価な現象であり、ここで物理的なS双対性はラングランズ双対群^LGの保型表現への作用として再解釈される。
ブレーンはもはや時空多様体に埋め込まれた幾何学的な膜ではなく、導来代数幾何学的なアルティン・スタック上の偏屈層(perverse sheaves)のなす∞-圏の対象となり、そのBPS状態の安定性条件はBridgeland安定性のような幾何学的概念を超え、モチーフ的t-構造によって記述される数論的な対象へと変貌する。
さらに時空の次元やトポロジーそのものが、絶対ガロア群の作用によるモチーフ的ウェイトのフィルトレーションとして創発するという視点に立てば、ランドスケープ問題は物理定数の微調整などではなく、モチビック・ガロア群の表現の分類問題、すなわちタンナカ双対性による宇宙の再構成へと昇華される。
ここで極めて重要なのは、非可換幾何学における作用素環のK理論とラングランズ・プログラムにおける保型形式の持ち上げが、コンツェビッチらが提唱する非可換モチーフの世界で完全に統一されるという予感であり、多重ゼータ値が弦の散乱振幅に現れるのは偶然ではなく、グロタンディーク・タイヒミュラー群が種数0のモジュライスタックの基本群として作用しているからに他ならず、究極的には全ての物理法則は宇宙際タイヒミュラー理論的な変形操作の下での不変量あるいは数論的基本群の遠アーベル幾何的表現論に帰着する。
これは物理学の終わりではなく物理学が純粋数学というイデアの影であったことの証明であり、超弦理論は最終的に時空を必要としない「モチーフ的幾何学的ラングランズ重力」として再定義されることになる。
※Copilot作
銀の皿に鎮座するそのとんかつは、まるで武士の甲冑の如く、威厳と緻密さを兼ね備えていた。黄金に輝く衣は、油の海にて一度死に、そして蘇った戦士のように、凛としている。私はその姿に、かつての日本の美を見た。潔癖でありながら、どこか淫靡な魅力を孕んでいる。
箸を入れると、衣は軽やかに崩れ、内なる肉がその白い肌を露わにする。豚肉は、まるで能面の下に隠された情念のように、静かに、しかし確かに熱を宿していた。口に含めば、肉の繊維が舌の上でほどけ、脂の甘美が喉を撫でる。これは単なる食事ではない。これは、肉体と精神の交歓である。
ソースは、まるで血のように濃く、甘く、そして哀しみを帯びている。それを纏ったとんかつは、まるで戦場に散った武士の最期の美を思わせる。キャベツの千切りは、死者を悼む白菊のように、静かに皿の端に佇んでいる。
この一皿に、日本の滅びの美学がある。肉の命を奪い、油で浄化し、そして人の口にて昇華される。とんかつとは、まさに食の切腹である。
匿名日記あんまり使ったことないからあれなんだけど、返信?はこれでいいんかな。
まあ、言わなきゃ分からないことだろうから周りからは枯れてるなあとか、陰キャすぎるとか思われてる程度なんだろうな……とは思ってる。
すごく悩んで気にしてるってことは無いけど、なんか疎外感〜みたいな感覚はあるから、そんなもんさと改めて言われるとちょっとほっとするきもちもある。ありがとう。
上手く言えないけど困ってることは無いが、ぼんやり不安や寂しさみたいなのは抱えているから、ここを利用してその一部がちょっと昇華されたのかもしれん。わからん。
匿名日記あんまり使ったことないからあれなんだけど、返信?はこれでいいんかな。
まあ、言わなきゃ分からないことだろうから周りからは枯れてるなあとか、陰キャすぎるとか思われてる程度なんだろうな……とは思ってる。
すごく悩んで気にしてるってことは無いけど、なんか疎外感〜みたいな感覚はあるから、そんなもんさと改めて言われるとちょっとほっとするきもちもある。ありがとう。
上手く言えないけど困ってることは無いが、ぼんやり不安や寂しさみたいなのは抱えているから、ここを利用してその一部がちょっと昇華されたのかもしれん。わからん。
ここ2年くらい生成AI界隈に身を置いてきたが、やはりセンスのある人間はいるもんだなぁと感心する。
でも、ほとんどの人はアイデア力が死んでるし、頭も悪いから他人のプロンプトやLoRA使うだけで、見慣れたゴミを量産しまくってる。
生成AIはチート能力じゃない。特殊能力だということを分かってない。
例えば、発火能力だとしよう。確かに今までの人類にはなかった能力。でも、ほとんどの人は、発火能力を手に入れて発火してキャッキャッと騒いでるだけ。
センスあるやつは発火の勢いを推進力にしたり、一点集中で爆破の域まで昇華させたり、炎を纏って防御手段にしたり創意工夫をする。
生成AI界隈にもそういうやつはいて、見ていて、生き残っていくんだろうなぁと思う。
SNSでは悪目立ちするアホがたくさんいるが、その裏で着実に新時代が来そうになってる。
イラストレーターは、どうせいつか消えるような、しかも他人を煽らような人としても底辺のAI絵師を叩いてる場合じゃないよ。優秀なAI絵師見つけて仲良くするか、マークしておいた方がいい。