はてなキーワード: 見方とは
https://3rd.charlie-intelligence.com/posts/32307490
最近知ったんだが、4つ星はプラチナステージ(年間300万円以上の購入)の意味だったらしく、それが今年の02月01日から変わって、中央から最下部のバーコードの上に移動した。
私は「★★★★★★○」(6つ星と白丸)とあり、6つ星はプレミアダイヤモンドステージ(隠れステージ)の意味らしい。
プレミアダイヤモンドを含めてもステージの種類(ホワイト、シルバー、ゴールド、プラチナ)と星の数が合わないので、より細分化したっぽい。5つ星は年間500万円あたりか。
スタッフによると「6つ星より上はない」そうだが、7つ星でグレートブリリアントダイヤモンドステージとか出てきたらオモシロイ(笑)。
9つ星でファンタスティックアメージングダイヤモンドステージとか(笑)。
それぞれ3,000万円、5,000万円、1億円〜あたりで。
ナイものはナイんだろうが、上には上を設けておかないと、簡単に頭を天井に擦ってしまいツマラナイし、いざこれが最上クラスですと言われると、何だそんなに皆買い物してないのねという気になる。
その昔センチュリオンのインビテーションは利用額が年間5,000万円〜なんて噂もあった。真偽はワカラナイが、私が15年程前にインビテーションをもらったのは年間決済額が5,000万円を超えた時だった。
そのくらいのステージを設けておいてもイイんじゃないか。余計なお世話だが。
エムアイカードのポイントが付かないシャネル、エルメス、ヴィトン、カルティエなどのハイブランドはデパートで買わずに本店ブティックでという人も多いだろう。品揃えも豊富だし。見方を変えるとポイントが付くブランドの客をデパート間または店舗間で取り合うことになり、人口減に対応できるのかと不安になる。
これもまた余計なお世話だが。」
https://3rd.charlie-intelligence.com/posts/56688039
「少し前、美容室で豊洲(江東区)のタワーマンションに住む中年女性客の話が聞こえてきた。
女性客は「いろいろとある」格差にどう対応するか悩んでるということを、当たり障りのないよう(後述の自慢話にならないように)遠回しに話していた。
タワーマンションしかないというくらいタワーマンションだらけで、そこで育つ子供世代の公立学校では、タワーマンション以外に住んでる子供の方がマイノリティなんじゃないかというほど。
生まれた時からずっとそこに必ずあるものとして夜景が存在する。空気のように。
↑写真は三井ガーデンホテル豊洲プレミアのホームページから拝借。
格差を語る上で最近再び出番の多い(笑)例えだが、昭和の田舎町では(黒い)ベンツを見かけたらヤクザだと言い放つ文化が根付いていた。取引先の小田原出身の女性が「うちの地元なんてクラウン(トヨタ)でもヤクザ呼ばわりでしたよ(笑)」と語っていたのを思い出す。
要は親達の都合で、自分の稼ぎじゃ買えない車に乗っている人達を見て「とても頑張った人達なのよ」(*1)と言ってしまうと、子供は「何でお父さん・お母さんは頑張らなかったの?」となり尊敬しなくなってしまうので、お金を持っている=ヤクザと決めつけた方が楽で都合が良かったんだろう。特に男の子は車に目が行くことが多いため、昭和世代の一家の主たる稼ぎ頭であるお父さんの立場を保つためにその場しのぎでいい加減なことを言っていたら根付いてしまった的な。
(*1)お金を稼ぐ力とは、遺伝子による才能なのか後天的な努力の賜なのかという話はまた今度にしよう。
お金持ち(資本階級)は他人から搾取していて、自分達は搾取されている(労働者=被害者?)側だと育てられ、お金持ち=悪、自分達達=清く正しく美しく(≒清貧)と刷り込まれると、お金に対する認知が歪んでいく。
200年前の貴族社会や100年前の工業時代は確かに特権階級が支配していた面もあるが(そこで「富の再分配」が生まれたわけでもあるが)、IT時代は人を雇う必要もなければ親の七光りも不要で、誰かを低賃金でこき使ったりすることもなく、1人の才能で大金を持つ人が増えた。
才能の時代。
しかし、IT業界に限らず例えば大谷翔平のような自分の才能だけで大金を稼ぐ人達がなぜ高い税率なのかと考えると、もはや累進課税による「富の再分配」は遺伝子税と化しているのが現状。
小さい頃からお金=災いの元として刷り込まれて育った人は少なくなく、自己啓発・スピリチュアル系の言葉を使うと「お金に対するブロック」を持っている日本人は非常に多い。「宝くじに当たると徳を使い果たし火事になる」とか(笑)。
確かに日本でベンツと言えば高級車ブランドだが、ドイツではタクシーにも使われるし、東京でもMKタクシーが一時期ベンツ車両を走らせていた。レンジは広い。
言うまでもなく、ドイツ人のほとんどがヤクザなのかと問えばそうじゃないことは誰もがわかっていながらも、「田舎の地元ルール」とはそこだけで成り立つ暗黙の了解のようなものとして継承され続ける。外気(多様性)に触れないため、是正機能が働かない。
では夜景の綺麗なタワーマンションで育った子供達はどうだろうか。
ベンツでヤクザなら、もうニューヨーク5大ファミリーの幹部クラスだろうか(笑)。
20年ちょっと前、ある区にタワーマンションを購入した知人が、しばらく経って住民票だけ隣の都心三区(中央・千代田・港)に移そうかと思うという話をしだした。
引っ越すわけではなく、住民票のためにわざわざ一軒安いアパートを借りて。
物件自体にもタワーマンションライフにも満足しているが、子供の学区の悩みということだった。
まだ再開発初期段階にある古い町だったので、工業団地とタワーマンションが混在していて、公立の学校だと“共存”に問題が起きるという将来を見越しての考とのことだった。
「私立に行かせたら?」と言えばもちろんそれも1つの選択肢だが、結局は“所得フィルター”にかけることになる。
「大卒」が学力フィルターとしてよりも、親の所得(すなわち育ち)フィルターとしての機能に変わってきていることと同じ。すなわち「ある一定ライン以上の所得の親の元で育った子供」を選定する材料として使われる。
なぜか。「どこから教えなきゃいけないか」の線引きだろう。すなわち時間的コストとの兼ね合い。
得意先だったり目上の人だったり、お世話になった人と会う時に、白い襟付きシャツとネクタイ、革靴(に靴べらを使う意味も含めて)というセットに上着を着てという“ドレスコード”(マナー)を当たり前に思うか、そこから教える必要があるのかで、かかる手間がまるで違う。
食事の席も同じく、テーブルマナーから教える必要があるのか、家でちゃんと教わって社会に出てきたかで、スタート地点が違う。
最近も書いたばかりだが、10年前、知能のブログを書いていた頃、巷の「IQが20違うと会話が成り立たない」説をよく見かけた。
実際はそんなことなく、頭がいい方が合わせたら済むだけなので、合わせる気があるかないか、すなわち性格の相性(付き合いを続ける魅力があるか)次第。
例えばプロのサッカー選手がちびっ子とサッカーができないかというとそうではない。ちびっ子のボール遊びに付き合う気があるかないか次第。
が、所得偏差値が20違うと、なかなかそうはいかない問題が出てくる。
前述の例で言うと、古い団地に住む子供(A)と、新しいタワーマンションの高層階に住む子供(B)が同じ学校で隣り合うと、Aにとっては何でも“自慢”に聞こえる。広さや物件価格が違えば、家の中にある物も来ている服も生活水準も当然に違う。
話は冒頭の豊洲のタワーマンションに戻ると、生まれた時から夜景があって当たり前の子供達にとって、夜景の話は自慢でも何でもなく「窓の向こうに必ずあるもの」という存在。
朝起きて「空気を吸った」「歯を磨いた」「太陽の光を浴びた」と話すことが自慢でも何でもないのと同じ。
しかし「当たり前」の基準が違うと自慢話に聞こえてしまうことがある。
例えば、空襲警報が鳴り響き、防空壕や洞穴に身を潜めていなければならない環境下にある人にとって、「外の空気を吸った」「日光浴をした」と聞くと、羨ましくて自慢話に聞こえるかもしれない。
学校がない貧困国の子供達から見たら、毎日学校に行くことやテストの話さえも自慢話に聞こえるかもしれない。
酸素ボンベが必要な人からみたら、自力で呼吸し酸素を取り込める身体であるだけでも羨ましいかもしれない。
それら全てに配慮して会話しようとすると、最終的には無言になる。
だから人々は同じ水準の人達と群れをなす。“配慮”していたらキリがないから。
アナログ時代はある程度「人付き合い」という選択によって棲み分けられていたのが、SNSによって子供達は日本中、世界中の同世代の生活を見ることができ、外ですれ違う可能性があるかないか、出会う機会があるか否かという物理的な距離感が全くなく、いつでも誰とでも遭遇する。
レストランのドレスコードのようなものもなく、お互いにお互いを知らないし、第三者が立ち会うわけでもないため、比較され判定・評価をくだされることもなく、突然遭遇し対峙する。
すると、他人のただの日記(旧Twitterで言う“つぶやき”だったり)が羨ましくて自慢にしか見えない人達が量産される。
インスタグラム鬱、その前はFacebook鬱と呼ばれたソレなんかが代表例。
大人同士ならそこはうまく落とし所を見つけていくしかない話なんだが、子供同士のSNS上の摩擦は確かに大変だろうなと思う。
そういった悩みがあることを、冒頭の女性客は「自慢話」にならないよう気をつけ言葉を選びながら美容師に話しているのが印象的だった。
その子供はそういった親の姿を見て育つので、管理職向き、現場向きは社会に出る前に決まっているんだろうなと思う。
「親ガチャ」という言葉はそれを客観的に見事に言い表しているが、感心している場合でもなく、これから少子化・人口減で東京一極集中が進む中で、更に課題・問題が増えるだろう。
と感じることがこの10年日に日に強まっている。」
https://lscharlie.exblog.jp/31824635/
「結果はFSIQ 156(標準偏差15)。読むのが面倒くさい人向けに予め(笑)。
2015年に人生初の知能検査WAIS-III(Ver.3)を受けた。今回は2018年から日本でも運用開始となった新しいバージョンWAIS-IV(Ver.4)の性能(?)を確認したく受けてみた。
※ちなみに本家アメリカでは児童向けのWISC-V(Ver.5)が出ているらしい。ということは成人向けのWAIS-Vもアメリカではそろそろだろう。周回遅れの日本。
※読み方はウェイス・フォー。
グーグル検索でサクッと出てきたところは私には遠く(4km以上(笑))、近場の心療内科や公認心理師(臨床心理士)オフィスなど10軒ほど問い合わせ、WAIS-IVを実施しているところを探した。「WAIS-IIIでしたら」と言うところばかりで、最新版の導入があまり進んでない様子。
前回同様、心身共に健康な私は問い合わせの段階で予め「自費(自由診療)で」と申し出た。
/*
「WAIS-IV」と検索すると真っ先に飛び込んでくる文字が「医科診療報酬点数: 450点 (根拠 D283-3)」で、仮に健康保険適用だと医院に入るのは4,500円であり、2時間ほど趣味に付き合わせるわけにはいかず自費(自由診療)で。場所代もあり医院と折半だとして、病院勤務の公認心理師の時給は1,000円くらいか。歯医者と一緒で保険適用診療は儲からないようにできている。余計なお世話だが。
今回は他の心理検査は省略してWAIS-IVのみ。心理検査(エゴグラムなど)4〜5種込みで36,000円(自由診療)ほどだった2015年とそれほど変わらず、問い合わせたところはWAIS-IV単体検査で27,500円〜43,000円(税込)だった。検査報告書は別途5,000円前後取るところが多くソレを含んだ金額(いずれも自由診療の場合)。
※神奈川県で1万円台後半、首都圏の外では1万円台前半という医院・心理オフィスも見かけた。
2015年と同じく、問い合わせ段階で「1ヶ月以上お待ちいただく場合があります」というところもあったが、今回も申込から一週間以内で受けられた。精神科医に用がナイと早いのだろう。
検査は臨床心理士(民間資格)かつ公認心理師(国家資格)の女性と個室で約1時間半。休憩なし(こちらが希望しなかった)。
結果は全IQ(FSIQ)156(95%信頼区間で149〜159)。
WAIS-IIIでは156までらしいが、WAIS-IVは160まで測定できるそう。実社会における知能格差を踏まえてのことだろうか。IQブームで被験者が増え十分なサンプルが得られたのかもしれない。
フリン効果を考慮すると、全体(世間)が底上げされることで相対的に自分の優位性が下がり、最新バージョンでは低く出ると予想されるがそうはならなかった。考えられるのは下記の通り。
(1)5年前のWAIS-IIIの時は時間を測っていることを途中まで知らず臨床心理士の女性を笑わせることに専念していた(笑)ため、(WAIS-IIIの)スコアが低く出た。
(2)各検査の内容は一通り入れ替わったそうだが、前回検査イメージ(流れ)を知ったため精神的な余裕が生まれ集中できた。
(3)私が時代に適した(または進んだ)頭を持っていて、バージョンが新しくなったことでより高い精度で測定できた。
(4)同年代と比べて経年劣化(笑)が遅いため、偏差値(DIQ)化すると優位性が増した。
(1)は十分にあり得る。当時ブログネタのために(笑)メンサの試験と併せて思いつきで受けに行ったから、時間を測定するなどの知識が何もなく、ずっと冗談を言い続けていて、臨床心理士の女性が噴き出してペンを落としたくらい(笑)。それを拾おうとした時に「時間を測っているので」と言われて知った。だから前半の検査項目の値が低く出た可能性が十二分にある。今回は検査中は黙って集中した。
(2)は初回と比べると遙かに緊張も少ない。医院だと問い合わせただけでも「WAISを受ける(受けさせられる?)=何か問題がある」という前提なんだろうなという空気感が漂い、健常者にとってはアウェー感がかなりある。見方を変えると通院している人は場慣れしていて“ホーム”として挑めるんじゃないだろうか。また「流れ」を知っているか否かは大きい。ボクシングなら蹴ってこない前提で戦えるし、キックボクシングなら寝技はない前提で戦えるが、「ルールなし」だとどう構えていいのワカラナイのと同じで、イメージを掴んでいるだけでも有利に働く。疲れがまるで違う。
(3)かれこれ20年ちょっとプログラマーをやっていて、25年もITビジネスに携わっているから、頭の使い方は他の現代人と比べてもそれなりに進んでいるだろう。検査内容が時代に追いついてきた可能性がある。だとすれば次バージョンではもっと高く出るかもと期待できる。
(4)同年代偏差値から算出されるため、他の人達より老化(機能低下)が遅ければそれだけ高く出る。しかし「2015年にWAIS-IIIを受けました」と伝えたところ、標準化する際の年代(すなわちサンプル集団)が当時と同じ層に収まっているらしく、一般的には加齢に伴う認知機能の低下によって、今回の方が低く出るはずだから1〜3の可能性が高い。
検査が終わった直後「多分151以上でしょう。正式な結果とレポートは1週間ほどで」と言われ解散。レポートを受け取り記載されている用語(資料1、資料2[WISC-IV]、資料3[WISC-IV]、資料4[WISC-IV]、資料5[WISC-IV]を参照)を調べてまとめたのが下記。数値は私の結果。
類似:15
単語:18
知識:19
理解*:19
積木模様:18
パズル:18
バランス*:18
絵の完成*:18
数唱:19
語音整列*:19
▼処理速度(PSI):149
記号探し:18
符号:19
絵の抹消*:17
「*」印5項目(語音整列、バランス、理解、絵の末梢、絵の完成)は「補助検査」と呼ばれ、これは直接は知能指数の算出には使われないらしい。せっかくなので全部受けた。
※料金が異なるかもしれないので、15検査受けたい人は予め「全15検査を」と伝えた方がイイ。
「類似」だけ低いのは多分私がスロースターターだから(笑)。最初の検査項目で、自分で「もうちょっとスマートな表現がありそうだが」と思いながら答えていた。最近は書いて説明することが多いことも影響している(多分)。
WAIS-IVから「言語性知能(VIQ)と動作性知能(PIQ)の区分けがなくなる」とはどこかで読んで知っていたが、
[VCI(言語理解)]+[WMI(作動記憶)]=[VIQ(言語性知能)](聴覚入力)
[PRI(知覚統合)]+[PSI(処理速度)]=[PIQ(動作性知能)](視覚入力)
※上記()内がWAIS-IIIでの呼称。今思うと「知覚統合」は大袈裟で、視覚入力しか測定していない。IVでは「知覚推理」という名称になった。割と良く「空間認識」とか「地図を読む力」といった例えが出てくるのに、なぜ素直に「視覚推理」にしないのか。
しかし分析の際の仕分けが変わったようで、これまでは上記の言語性知能/動作性知能に分けて分析していたところを、
[VCI(言語理解)]+[PRI(知覚推理)]=[GAI(一般知的能力指標)]
[WMI(作動記憶)]+[PSI(処理速度)]=[CPI(認知熟達度指標)]
と見るようだ。
※CPI(認知熟達度指標)は、「成人検査では現時点で研究段階」とのことで数値は算出されないそう。WISC-IVにはあるらしい。
検査方式が大きく変わったわけでもなく分析方法がより詳細になったっぽい。
分析の仕方が変わろうと、私みたいにバラツキのないタイプは分析しようがない。検査項目毎に差があって初めて何に強い・弱いなどの適性が出たり、或いは「発達障害の疑いあり」等と判定されるのだから。
GAI(一般知的能力指標)は知識と思考力(もちろん机上の)、CPI(認知熟達度指標)は実生活で問われる能力と言える。実績(実務)よりカタログスペックにこだわる人はGAIを好みそうな印象があり、「GAIが高いのに実社会で上手く行かない」という場合にCPIを見れば原因が解るといったより実質的な評価が可能になったように思える。
PRIとPSIはCambridge Brain Sciencesのスコア通りな印象。内容は全然違うが、テキパキ度が問われる。サラリーマン社会では最も見た目の印象に関わるところ。時間を測っているものばかりなので、喋ったり冗談を言ったり手を休めていると当然に低く出る。
一方、VCIは知識問題なので、偶然知っている内容が出題されれば高く出るという他の資格試験などと似た性質のもの。WAIS-IIIの時は日本文化に関わる内容が多く出題された記憶がある(私の苦手分野)が、IVは私が良く知る内容ばかりだった。
細かく見ていくと、「類似」は読解力・理解力につながり、「理解」は言葉通りの検査で異議はないが、「単語」と「知識」は“教養”と言えば教養、しかし私はこれらを「知能検査」に含めることに懐疑的な立場であり「長期記憶を問うている」程度に受け止めている。全くもって生得的な知能とは関係ない気がする。それに2020年現在、もっと知ってた方がいい知識は山ほどある。例えば「bit」と「byte」は現代社会において極めて優先度の高い単位だが、他の単位が問われた。冒頭に書いた周回遅れが原因なら(日米差は10年)、2010年頃の偏差値として受け止めるべきか。
WMI(いわゆるワーキングメモリー)は算数と暗唱(数唱)で、私の場合数唱はもともと良いんだが算数は運(笑)。今回の内容自体は即答できる簡単なものだった。
※それでもWAIS-IIIから5年経って加齢に反して向上していることを考えると、サプリ効果ではないかと個人的に思っている。
結局のところ言語性知能とは結晶性知能と呼ばれることもあるように、努力(反復学習)の成果(特に学校時代の)であり(私の場合大人になってから覚えたものばかりだが(笑))、生得的な賢さとは結びつかない。私はまるで努力型ではないので、算数(暗算)などは平均的なビジネスマンと比べて決して速くないんだが、ウェクスラーの場合文章問題を耳で聞いて暗算で答えるので、日頃人の話を何度も聞き直すような人(聴覚入力の機能性が低い人)や、メモが必要な人(ワーキングメモリーの機能性が低い人)は、学校のテストのように紙に書かれた問題の暗算が得意でも上手く行かない可能性があり、相対的に私はよく機能しているという結果なのだろうと理解している。日常生活・業務により近い検査と言える。
※ちなみに遺伝子検査では私の海馬(=記憶力を司る)は小さい傾向と出ている。MRIの画像が3年分あるのでいつか脳科学者に見てもらいたい。一方、計算は速い傾向と出ているが、算数も数学も苦手。多分性格の問題(笑)。処理速度も一部速い傾向と出ていて、これは自分で納得している。スロースターターだが(これも性格の問題)エンジンがかかると処理はかなり速い方で仕事量は非常に多い。
私にとって最も集中力を必要としたのは語音整列でかなり脳に負荷がかかった。10年に1回というくらいの本気を出してみたが、補助検査なのでFSIQの算出には使われないらしい(笑)。
私が受けたところは、検査まで、検査時、検査後の対応も非常に良かった。自費(先方にとって実入りが良い)かつ何かの疑いがあるわけではないので、そもそも“患者”ではなくただの“客”だからというのもあるだろう。
以下はいくつか感じた点をまとめてみた。
その1:ウェクスラー知能検査は常識的なことしか問われないので、小さい頃から発達障害等の疑いで何度も知能検査を受けている人や、ギフテッド・英才教育という名の下に検査に最適化された問題をこなしかつ検査を頻繁に受けている人などは内容を覚えてしまうから、各バージョン最初の1回目のスコアしかあてにならない。特にWAIS-IIIで言う言語性知能(WAIS-IVでは言語理解)の下位検査は記憶力の良い人なら1回で暗記できるものなので、インターネット上で「言語性知能が高く動作性知能が低い」(その差が大きい)という結果をよく見かけるのも、これが原因の1つかもしれない。診断のためだとしても複数回検査しているうちに、暗記によって言語性下位検査のスコアが高くなり、“慣れ”効果は多少あっても暗記できるものではない動作性との差が開き、ますます発達障害判定される可能性が高まるんじゃないかと人ごとながら感じた。
その2:行列推理の問題のうち1問だけ、間違いなくこれが正答と思われる選択肢に色違いがあり、色覚異常の私には識別が難しかった。どうみても答えではない選択肢が何色だろうと構わないが、正答に色違いを設ける場合は赤、青、黄、黒といった間違えようのない色にしてもらいたい。色覚異常が多い白人圏で製作されている割には意外。
その3:凸凹がないのでプロファイリングしようがないのかもしれない。検査報告書は2015年のWAIS-IIIの時と同じく、読んでる方が顔が赤くなる(笑)くらい褒めちぎられていた(とても丁寧でA4数ページ)。しかしこういう横一直線のバランス型は本当に珍しいらしく、一見「特徴がない」印象だが、見方を変えると出現率的には非常に個性的ということになる。矛盾しているようだが統計学的にはそうなる。
そんな感じ。
普段全く不安要素や問題を感じていなくても、経営者や管理職層は一度受けてみることをオススメする。人を雇うまたは採用・管理する際、自分と比べてどういうタイプの人を“優秀”と感じているか(その反対も)を知ることで、自分は“人材”によって何を補おうとしているのか(または相手に何を要求しているのか)が解るから。自己分析。
病院ではいちばん面白くないかもしれない凸凹がない人は、多分器用なバランス型を好むだろうと思う。欠けているものを補おうとするよりも、バランスを崩すことで生じる補填コストがリスクとなるから。
といった特性が見えてくる。
というわけで次に私が受けるのは、日本でWAIS-Vの運用が始まった時。7-10年後くらいだろうか。
と思ったらうっすらわかる分析だった。
「安楽を求める欲求は,人間の条件に備え付けなんだ.このことは,生産側にも当てはまる.」
◇ネットでバズって書籍化されたコンテンツを映画化すれば安心できる。売れてるタレントを出せば安心できる。
「さて,アメリカのコンテンツ生産・流通システムが客たちに注意を払いすぎていることが問題だとしたら,どうだろう?」
◇「さて,邦画の生産・流通システムが客たちに注意を払いすぎていることが問題だとしたら,どうだろう?」
「HoYoverse のアプローチはすさまじく顧客本位に見える.彼らが保有しているユーザーに関する情報,リアルですぐに活用できる情報の量ときたら,盛田昭夫も歴史上の他のどんなプロデューサーも夢にも思わなかったほどだ.そして,HoYovese は,客がズバリのぞむものを与えている.」
◇「邦画配給会社のアプローチは顧客本位に見える.そして,邦画配給会社 は,客がのぞむものを与えている.」
美少年コンテストで入賞したイケメンと女性アイドル主演で少女漫画や本屋大賞受賞作や吉永小百合主演作を毎年毎年実写化してる。(一時期は水谷豊主演作も)
「外野はこのマインドセットを「ガラパゴス症候群」と揶揄してきた.その手の論議はだいたい,こんな風にはじまる――「日本には国内市場が十分に大きいおかげでかなりの利益を上げられた.それは祝福でもあり呪いでもあった.1990年にバブルが弾けると,日本の世界制覇の野望はしぼんでいって,その国境の内側に閉じこもるようになり,世界の趨勢から取り残された.」」
元記事はちょっと見方を変えてガラパゴス症候群という批難を否定し、その意外な⁻良い面に光を当ててるけど、邦画がさえないのはまさに国境の内側に閉じこもっている本来の意味に添っている。
「編集者たちには,データを活用するか軽視するかの大きな裁量がある.これも一種のアルゴリズムではあるけれど,人間中心アルゴリズムだ.そして,それによって人間中心のアートがつくりだされている.だからこそ,日本のクリエイターたち,とくに漫画家たちは,自分自身を第一に置くことで,文化的な観点から見て日本にとってとてもうまく機能してきた.言い換えると,「経済学者と心理学者」ではなくて,クリエイターたちが主導している.」
◇配給会社たちには,データを活用するか軽視するかの大きな裁量がある.それは主に経済学的アルゴリズムから定められ、クリエイターが主導する作品はわずかである。日本のクリエイターたち,とくに映画製作者たちは,自分自身を第一に置くことが困難である結果、そのような作品がシネコンのスクリーンを埋め尽くすことにつながっている
そういう意味で(こっちに書けばよかったが)(『カメラを止めるな!』『鍵泥棒のメソッド』『侍タイムトリッパー』は 日本漫画のシステムに近い良い要素を含んだ作品群なのだろう
https://anond.hatelabo.jp/20250530104711
この文章(以下、「投稿」と呼ぶ)から、投稿者のオタクに対するスタンスを詳細に分析するため、以下の観点から構造的に整理し、考察します:
これらを通じて、投稿者のスタンスの特徴、矛盾点、背景にある価値観を明らかにします。
投稿者は、オタク界隈を「金に余裕がある余暇を作れる層が作り上げた文化」と定義し、特に2000年代のエロゲやラノベ、アニメなどのクリエイター層が「実家が太い」恵まれた環境の出身であると強調します。この観点から、オタク文化は経済的・社会的余裕を持つ層の特権的な領域であり、底辺層には「相性が悪い」と断じています。
階級的な視点: 投稿者はオタク文化を、偏差値の高い進学校や大学進学率の高い環境と結びつけ、そこで育まれた青春や人間関係が作品に反映されていると分析。例として、『俺ガイル』の作者の母校(偏差値60手前の進学校)やヤマグチノボルの明治大学卒などの具体例を挙げ、オタク文化が「高学歴・高収入層」のものだと主張。
排他性: オタク界隈は「底辺層」が入り込むべきではない場所として描写され、彼らが求める「一発逆転」や「キラキラした人生」はこの文化では実現不可能だと断言。オタク文化を、底辺層にとって「叶わぬ夢を見せつける」残酷な場とみなしています。
分析: 投稿者はオタク界隈を、特定の社会階層(中~上流階級)に属する人々が作り上げた閉鎖的な文化と捉え、経済的・学歴的格差を強く意識しています。この見方は、オタク文化を「特権階級の遊び場」と位置づけ、底辺層の参入を異物視する姿勢に繋がっています。
投稿者は、近年のオタク界隈に「反社属性」や「社会不適合者」が増えたと主張し、特に「反社界隈の落ちこぼれ」がオタク界隈に流れ着いていると分析。京アニ放火事件の青葉被告を例に挙げ、彼のような人物が社会不適合者としてオタク文化に非現実的な期待を抱き、結果として破滅的な行動に至ると指摘します。
反社と社会不適合者の混同: 投稿者は「反社」と「社会不適合者」をほぼ同義に扱い、両者を明確に区別しない。特に青葉被告を「社会不適合者」と呼びつつ、「反社ではない」とする意見に反発し、反社の定義を曖昧にしつつも「社会不適合者が反社的な行動を取る」と結びつけています。
具体例の提示: 2008年の「とくダネ!」特集を引用し、秋葉原に集まる若者(専業トレーダー、カルト出身者、反社界隈のヤカラなど)がオタク文化に興味がないにもかかわらず、「一発逆転」を求めて流入していると描写。彼らは「アニメを見たこともない」「オタク文化に興味がない」とされ、投稿者にとって「偽物のオタク」として排除対象。
ネットとリアルの対比: ネット(特にX)ではこうした「反社的な幼虫」が跋扈する一方、リアルな秋葉原や池袋は「治安が良くなっている」と評価。ネット空間が社会不適合者の受け皿になっていると見ています。
分析: 投稿者は、オタク界隈に流入する「反社属性」を、社会不適合者としてのコンプレックスや非現実的な願望を持つ者として特徴づけます。彼らを「オタク文化を理解しない侵入者」とみなすことで、本物のオタクとの対比を強調し、純粋性を守ろうとする姿勢が見えます。ただし、「反社」と「社会不適合者」の定義が曖昧で、感情的な敵視が先行している印象があります。
投稿者のオタク文化への評価は、肯定的と否定的な要素が混在し、複雑です。
オタク文化は「金銭的余裕や学歴を持つ層」が作り上げた高品質な文化としてburu2000年代のエロゲやラノベ、アニメの黄金期を称賛し、クリエイターの才能や作品のクオリティを認めている。特に『グリーングリーン』やヤマグチノボルのような例を挙げ、文化的価値を肯定。
リアルな秋葉原や池袋の治安改善を評価し、オタク文化の物理的空間が「安全」になったと肯定的に捉える。
オタク文化が「社会の格差や階級構造」を突きつける場であり、底辺層にとって「残酷」だと批判。進学校や高学歴層の青春が反映された作品(例:学園モノ)が、底辺層に「叶わぬ夢」を見せつけ、精神的苦痛を与えると主張。
近年のオタク界隈が「反社属性」や「社会不適合者」に汚染されていると感じ、「純粋なオタク文化」が侵食されていると懸念。
分析: 投稿者はオタク文化の歴史的・芸術的価値を認めつつ、それが特権階級の文化であるため、底辺層には「非現実的な幻想」を与える危険なものとみなしています。この二面性は、オタク文化を愛好する一方で、その社会的影響力や階級性を批判する複雑なスタンスを示しています。投稿者の理想とするオタク文化は、90年代後半~2000年代初頭の「純粋な」時代であり、現在のネット中心の文化には否定的です。
投稿者の文体や表現からは、強い感情やフラストレーションが感じられます。以下にその特徴を分析します。
敵視と軽蔑: 「反社属性」や「社会不適合者」に対する強い敵意が顕著。「お前アニメ見たことないだろ?」「ハナクソほども興味ねぇだろ?」といった軽蔑的な表現や、「底辺」「雑輩」といった強い言葉で、彼らを下に見る姿勢が明確。
自己防衛的姿勢: 「誹謗中傷だと言われそう」「アカウント停止要請100連打」といった表現から、投稿者が自身の意見が攻撃されることを予期し、予防線を張っている様子が見える。これは、Xなどのネット空間での反発を意識したものと考えられる。
郷愁と失望: 90年代後半~2000年代初頭のオタク文化(例:デジキャラット、アキハバラ電脳組)を「青臭い願望」の象徴として懐かしむ一方、現在のオタク界隈が「反社的な幼虫」に汚染されたと失望。過去のオタク文化への愛着と、現代の変質への苛立ちが共存。
分析: 投稿者の感情は、オタク文化への愛着と、それを「不適切な層」に侵食されていることへの怒りから来ています。この怒りは、社会的格差や階級への不満をオタク文化に投影する「反社属性」の人々への投影とも言えます。投稿者の過激な表現(「皆殺し」「猿」など)は、感情的な苛立ちと、ネット空間での過激な言論文化への適応を示唆します。
投稿者は、日本の社会構造や格差を強く意識し、オタク文化がその「極北」だと指摘。以下はそのポイントです。
格差と階級: 「建前では平等だが実際は生まれや育ちによる格差が存在する」という日本社会の構造を批判。この格差が、オタク文化に非現実的な願望を抱く底辺層を引き寄せると分析。
メディアの影響: 2008年の「とくダネ!」特集や電車男ブームを引用し、メディアがオタク文化を「一発逆転の場」として誇張したことが、反社属性の流入を助長したと見る。
現代社会の恵まれた環境: 現代日本が「恵まれた」としつつ、22歳を過ぎても底辺にいるのは「自己責任」と断じる。オタク界隈を「サンクチュアリ」とみなす底辺層の幻想を批判。
分析: 投稿者は、オタク文化を社会構造の縮図として捉え、底辺層がその幻想に引き寄せられる現象を、社会的格差やメディアの影響と結びつけています。この視点は、マルクス主義的な階級分析に近いが、個人責任を強調する点で保守的な価値観も垣間見えます。
投稿者のオタクに対するスタンスは、以下のようにまとめられます:
オタク文化への愛憎: 90年代~2000年代のオタク文化を愛しつつ、その特権性や現代の変質を批判。過去の「純粋な」オタク文化を理想化し、現在のネット中心の文化を「反社汚染」とみなす。
階級意識の強さ: オタク文化を中~上流階級のものと定義し、底辺層の参入を「場違い」と敵視。社会不適合者と反社を混同し、両者を排除対象とする。
感情的な表現: 過激な言葉遣いや軽蔑的なトーンで、底辺層への苛立ちを露わにする。これはネット文化(特にX)の過激な言論に影響された可能性がある。
矛盾点:
オタク文化を特権階級のものと批判しつつ、自身もその文化を愛好する矛盾。底辺層を排除したいが、オタク文化自体が格差を助長する構造を持つことを認めている。
反社と社会不適合者を混同しつつ、「反社ではない社会不適合者」の存在を否定する一方で、青葉被告を「社会不適合者」と呼び、定義の曖昧さが目立つ。
ネット空間を批判しつつ、自身もXや増田で発言しており、ネット文化の一部である自己矛盾。
投稿者のオタクに対するスタンスは、過去のオタク文化への愛着と、現代のオタク界隈への失望が混在する複雑なもの。彼はオタク文化を高学歴・高収入層の特権的領域とみなし、「反社属性」や「社会不適合者」の流入を「文化の汚染」と捉え、強い敵意を示します。このスタンスは、社会的格差への鋭い意識と、ネット文化への適応・反発が背景にあり、過去の理想化と現在の批判が混在する矛盾を抱えています。感情的な表現や過激な言葉遣いは、Xなどのネット空間の影響を受けつつ、自身のオタク文化への愛着と、底辺層への排除意識が交錯する心理を反映しています。
狭い世界で生きてきた私ですが、視野を少し広げてみると周りは頭のいい人たちばかりで身震いが止まりません。
自己肯定感が無いというのは一旦置いておいて、私はバカアホマヌケです。それは私の経歴を見ると一目瞭然です。
簡潔に述べます。
まず私は小学校4年生くらいから授業を聞かなくなりました。数学や理科などの知能はここで止まっています。
中学校は親に無理やり連行され全日登校するも、毎日6時間を机に突っ伏して寝、時間を無駄にしました。
適当にバイトをしてみるも半年でクビになりその後も点々とし続けました。
破天荒だった私は当時仲の良かった大人に上京したいと相談し何とか家を貸してもらうことに成功。スムーズに上京の夢が叶いましたが、その先でやりたい事を考えていなかったので知らない土地でやることも無しに毎日を過ごし、徐々に精神を病んで行きました。
苦しかった私は一人暮らしを辞め他人の家に住み込もうとしたのです。当時Twitterで繋がりのあった数人に、泊まらせて欲しいとお願いをして、その中で1番長く泊まらせてくれる人の家に向かうことにしました。猶予は半年間とのことでした。
そこから最初に言っていた半年間の猶予を超え、現在3年目、のらりくらりと居候させていただいている身ですが、私はこの家に来て、この人と居て、だいぶ価値観や物の見方が変わりました。
彼は私の世界を広げてくれました。
そして今、広がった世界から見る過去の私がどうしようもない馬鹿で、今も馬鹿で、苦しいです。
私はこの家に来るまで外見に過剰に気を遣っていました。ルッキズムが蔓延する資本主義社会に呑み込まれていたのです。
この家に来てからはほとんど引き篭っているので私の外見を咎める目が無くなり、気にならなくなりました。
逆に内面を気にするようになりました。
学生時代、皆が毎日6時間座って勉強している間私は寝ていたのでその分ごっそり学力が抜けています。
頭のいい人が横にいて苦しい。私も頭のいい人になりたい。
この家に来て文章を読むようになりました。文を読むにつれて、頭のいい人の書く文章に憧れるようになりました。博識な人にも憧れます。
そうやって世界が広まった結果、自分の不出来に気付き、怖くなっているのです。
殴り書きなので読み辛かったらすみません
Xは難易度高いけど、はてなならいけるんじゃ?どうせならAIにChrome拡張つくらせるのもいいかもね
コメントをどうやって取得するかは考えないとだけど、指定ユーザーのコメント取得して思想分析プロンプト付きでAIに渡すだけ
まぁBraveのLeoみたいに好きなモデルを設定できる、サイドバー常設チャットAIに食わせて動かすだけでも良い気はするけど
gemini-2.5-flash-preview-05-20
このユーザーの思想を、コメント内容から分析してください。
https://hatebupwa.netlify.app/user/Dumeiyouclonefart
(なんで保存してたのかは分からないけど、ブクマにあって結果が面白そうだから選ばれたDumeiyouclonefartちゃんメンゴね)
ここに示されたコメント内容から分析できるユーザーの思想は以下の通りである。 このユーザーは、極めて批判的かつ攻撃的な思想の持ち主である。論理的整合性、エビデンスに基づいた議論、そして社会正義を強く求める一方で、それらに反すると見なす対象には容赦ない嘲笑と罵倒を浴びせる傾向が顕著だ。 批判の対象は多岐にわたる。具体的には、日本のインターネットユーザーの読解力の低さや「インターネッツクオリティ」と揶揄される風潮、規制緩和や民営化への幻想を抱く「日本人の根底にある悪癖」を指摘する。政治的には、トランプ支持者や親露派を「愚行」「デマ」「哀れ」と断じ、自民党の「下野」を主張するなど、リベラル・進歩主義的なスタンスが明確に見て取れる。また、「賢すぎる僕が正論言ったら相手の頭が悪すぎて気分を害させてしまったよ~やれやれ僕またなんか言っちゃいました?」といった自己陶酔的なネットユーザーの態度や、「老害オタク」と化したアニメ漫画オタクが他のオタクを見下す風潮にも強い嫌悪感を示している。特定のユーザー(「-----」「----、-----」)を名指しで批判する点も特徴的である。 -※編注:----はこっちで書き換えた 一方で、安楽死の社会実験を他国に任せる現実主義的な視点や、スラップ訴訟への厳罰化を求める姿勢、そして「推し活」への批判的な見方を「異常極まる」と一蹴するなど、一部の意見には理解を示している。 このユーザーの言葉遣いは非常に直接的で生々しく、「小学生未満か」「大丈夫か」「哀れ」「救えない存在」「いけすかない」「異常極まる」といった感情的な表現が頻繁に用いられる。自らが「理知的」であるという強い自負があり、他者の思考回路を「危うい」と断ずるなど、他者への優位性を前提とした「上から目線」の姿勢が随所に見て取れる。社会の矛盾や他者の愚かさを徹底的に暴き、糾弾しようとする、非常に戦闘的な思想形態であると言えるだろう。
サ終ってなんなんだ
サ終からもう3年経って、今更気づいたけど
わたし、こんなに会えないなんて思ってなかったのかも
本当に一生会えないなんて、本気で思ってなかったのかも
もちろんサ終のときはとっても悲しかった 毎日昼も夜もわからなくなるくらい泣いた
でもどこかでいつかまた会えるって思ってたのかな
なんか 「あれ、もしかして本当にもう会えない?」みたいな
大学卒業したあとにしばらくして貸してた本のこと思い出して「あれ、もう返してもらう機会なし?」みたいな
なんつーか ね
正しいのか正しくないのか分からないが いや、きっと見方によっては正しいことなんだとも思うが
あまりに速く淡々と過ぎ去っていく日常が「やっぱり会えないんだ」というじわじわとした実感となり
夢から覚める
多分、起きたら泣いてるパターンだ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20250522140258
映画館で見た時、エロシーン目当てに来たっぽい高校生くらいの男子達が最後の笑顔のシーンで悲鳴を上げて全員走って出て行ったので、トータルで最高だったよ
2025/05/22
・どんだけアンテナ低かったらアリ・アスター映画をお色気映画と勘違いして映画館まで来るの?
・なんでも無料で見放題の今の若者がよくわからん映画にエロ摂取を期待して映画館まで来ることある?
あてずっぽうにエロシーンを期待して映画館によくわからない洋画を見に行く
今の若者との接点も乏しい。
もし高校生グループが実在したなら勝手に彼らの目的を妄想してる不気味なコメントなんだけど
なんで彼らが悲鳴上げて出ていくのを快事としてるの?普通に気の毒じゃね?高校生に映画代も安くはないし。
ここには「若い男の性欲はバカにして笑いものにしていい」っていう
これに☆つけた人達全員アップデートしよ?もう令和7年だから。
そしてもっと踏み込んで言うと
ここにはなにかおばさん?のねっとりした加害的性欲を感じねーか?
知らん女子高生が映画館に来てるのを勝手に性的関心のためと決めつけたうえ
「性的期待を裏切られたJKが悲鳴上げて出ていくのを見届けました!最高!」
……とか報告してくるおっさんいたらどうだろう?
ねっっっっとりとした性欲を感じるよね?
なんか中高年の一部にさあ
若者の性行動にこういうきしょきしょ視線を向けて嘲けり笑うという変な欲望に目覚める奴らがいるんだよな。
当人は大人ムーブとか保護者ムーブっぽくごまかせてるつもりっぽいけど
湿った性欲丸出しでえぐいっす。ちんまん丸出しっす。
(娘や息子の性行動をからかってくる親とかもこれの亜種)
つまり上映続いてる最中に立って出て行ったの?結構迷惑だね?それも走って?
しかも集団なら「出ようか」って相談してうごめいてから出るので
特定のシーン見てパッと走って出るみたいな瞬発的行動は難しいと思うけどね。
下手な作り話ってディテールが書き手の頭の中で映像になってないんだよね。
それにステレオタイプ返しをぶっかまさせてもらうなら
若い男は女の表情なんか全く注意払ってないし
シンプルにフィジカルなグロシーンに強く反応するよ。(大抵は面白がるんだけど)
(ここに気付いてる女は男を結構わかってる。)
言っちゃ悪いけどミッドサマーの主人公って相当見た目が悪いじゃん。
ちょっと人種的には珍しいぐらい骨格が美の範疇から外れてるというか
顔は平らで頭でっかちで背が低くて尻だけでっかくて脚短くて
これはもちろんわざとそういう趣旨で選んでるでしょ。
こういうのってちょっとでも美女みがあったらラストサマーになっちゃうからさ。
念入りに選ばれたブスだと思う。
ネットの評判も一切見ずにいくつかの画像からダニーは美人でエッチなシーンあると思って映画館に来たわけか?
作り話の設定が滅茶苦茶すぎなんだよね。
ダニーはすげえよ。
容姿もよくなく頭もよくなく
こんなのがジョックっぽい男に捨てられないどころか逆に振り回せるってことある?
彼氏も仲間もこんな女にああも腫れ物触るようにはしないでしょ現実は。勝手にガスホース咥えとけとなる。
特定の男に刺さるある種の媚態やファッションは心得てることが多いけど
ダニーはひたすら塩対応でさしたるおしゃれもメイクもしやしない。
だが周りの男はこんなのを旅行に連れて行ったり振り回されて破滅したりする。
ミッドサマーのお話全体が女性を慰撫するファンタジーなんだけど
接待されてることを自覚しながら見ましたって女性は意外に少ないんだよね。
(そして多くの男はこの映画で快を感じる女がいることに気付いてない)
その見方のときはこんなもん不細工で無能な男が複数の女に惚れられるコンテンツと変わらんというか。
慰撫コンテンツはよいものだけど見る側の脳のどっかに一欠けらの正気、
つまり「現実と大きく異なる設定で自分の中の不満や願望がよしよしされているから気持ちいいのだな」、
みたいな客観が少しもないのはどうなのか。
ミッドサマーの女性慰撫コンテンツ性を鋭敏に受け取って消費したうえで、
その(虚構の中の)女性の全能感が現実の若い男を脅かし震え上がらせたという話をしてるので
コンテンツ消費の仕方がだいぶ野蛮な感じがする。
美少女ハーレムコンテンツ見終えたキモオタがモテモテ気分になって
「現実のJKが俺を見て顔赤らめたぜ」とかうわごと言い出してるのと構造的に変わらないというか。
キモオタ同士からも非キモオタからも社会からも笑われまくって正気を取り戻すわけだし
そのように男性のファンタジーは容赦のない嘲笑を受けることで調教されて安全性が確保されてきた面もあるわけだけど
一方で女性向けコンテンツでラリってる人への笑いというかツッコミ機能がこの社会にはまだ弱いのじゃないだろうか。
しっかり指摘して笑ってバカにしてこそ男女平等であるのみならず
いつもながら正気と親切心が足りない。
近年、米の価格が上昇していることが注目されています。背景には猛暑などの気候要因による収穫量の減少に加え、JA(農業協同組合)による集荷価格の引き上げや、市場供給の抑制といった流通構造の問題が指摘されています。特に、「これまでの米価は適正でなかった」とする主張と、長年にわたり継続されてきた減反政策との間には明確な論理的矛盾が見られます。
減反政策は、過剰な供給を抑えて価格を安定させることを目的にしており、既存の価格を「適正」と見なす前提に基づいています。一方で、昨今の価格高騰を「適正価格への修正」とする見方は、かえって過去の供給制限が市場を歪めていたのではないかという疑念を呼び起こします。
また、米の流通においては、集荷業者と卸業者の分業体制が続いています。これは、地域と都市をつなぐ機能的な仕組みである一方、物流の非効率化や中間コストの増加を招き、価格の高止まりを助長する要因ともなっています。
さらに、日本の米作は年に一度しか作付けできず、自然災害の影響を大きく受ける作物です。このような不安定な農産物を完全に自由市場に委ねることは、生産者の経営や食料の安定供給に深刻な影響を及ぼす可能性があります。とはいえ、現状維持では限界があるため、段階的な制度付き自由化や、価格変動を補う保険制度の整備、大規模経営への移行といった改革が検討されています。
ただし、そのような改革を実現するためには、当面の間、今の高価格を社会全体で受け入れる必要があります。長年価格が抑制されてきた中で、多くの農家は薄利の経営に耐えてきました。今、価格が上がることでようやく経営の立て直しや設備投資、後継者育成が可能になります。これを「過渡期の必要なコスト」として捉えなければ、改革の土台そのものが崩れてしまいます。
もちろん、無条件に価格上昇を肯定するわけではありません。政府や関係機関には、制度改革の進捗と価格形成の透明性を丁寧に説明しながら、段階的に安定価格帯へと誘導する責任があります。
日本の米政策はいま、大きな転換点にあります。市場原理と伝統的な保護政策の両立は容易ではありませんが、いずれか一方を否定するのではなく、互いの長所を活かす「持続可能な制度設計」を目指すべきです。米という、単なる商品を超えた日本の食と文化の象徴を守るために、今こそ冷静な知恵と社会全体の忍耐が求められています。
独身で金が余って、その金に利息がついて増えただけ、って見方もできるよね。
結婚して子どもができると、養育費・教育費でかなり金が消える。
都内で子ども一人を二十歳まで育てたら3000万ぐらいかな?塾だとか受験だとかで、金がどんどん消える。
つまり、子ども育ててる人間から見れば、子どもを諦めるという究極の節約をやって、浮いた金を投資に回してるだけ。
金の使い方として一番下手くそだとも言える。
彼の**政治的発言の曖昧さ**や**パフォーマンス的な行動**、
さらには**父・小泉純一郎元首相の影響下での「二世議員」イメージ**など、複数の要素が複雑に絡んでいます。
ただし、否定的な見方ばかりではなく、**一定の評価や支持も存在する**のが実情です。
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小泉氏はしばしば、「中身のない名言」や「言葉遊びのような発言」が話題になります。たとえば:
「将来のことを今考えるのが未来を考えるということだ」
こういった発言は、インパクトはあるものの具体性に欠け、「結局何を言いたいのか分からない」と感じる人が多いです。
政治的な課題に対して、実務的な解決よりも「絵になる行動」に走りがちだと見なされることがあります。
たとえば:
父・小泉純一郎氏の影響もあり、「持ち上げられたアイドル政治家」「中身より血筋で評価されている」との声もあります。
特に若い頃からメディア露出が多かったため、「実力以上に評価されている」という反発が根強いです。
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小泉進次郎氏は、**言動の軽さや中身の薄さが批判されがち**ですが、
それと同時に、**現代的な情報発信力や、前向きな政治姿勢を評価する声も確かにある**人物です。
ある意味、彼は\*\*「期待されすぎてしまう人」\*\*であり、期待に対するアウトプットが伴わないと、
ジークアクスが2014をテーマに作られたアニメだって騒がれてるけど
俺は露骨にテーマ性でストーリーを作り上げる系の作品好きなんだよな
北朝鮮から来たキチガイサイコ連続殺人鬼が韓国で好き放題して韓国の警官は捕まえようと頑張るんだけど
キチガイサイコ連続殺人鬼は実は中国資金の金庫番で、その資金を手中に収めたいCIAからの横入りがあって日和見主義の政府からキチガイサイコ連続殺人鬼を慎重に扱うように圧力がかかる
それをいいことに好き放題しまくるキチガイサイコ連続殺人鬼を射殺することもできず、
最終的には北朝鮮に送り返して向こうの内内で処理させようという話になるも失敗、警官は処刑される
最後に、生き残った刑事がキチガイサイコ連続殺人鬼を殺害しCIAに引き渡すも
CIAが手に入れたがっていた資金は既に中国の手に渡っており、結局なんのこっちゃねんで話は終わる
キチガイサイコ連続殺人鬼のキチガイサイコ連続殺人鬼っぷりがちょっと常軌を逸していて
見ていて胸糞悪くなる展開しかない作品で好き嫌いは明らかに分かれるんだけど
アクション、サスペンス、(ある種の)ホラー作品として高い水準で完成してると俺は思う
北朝鮮をめぐる国際情勢を映画に落とし込みました!というそんだけの作品なんだよね
・中国を抑えるために北朝鮮に手を出さないように圧力をかけるアメリカ
完全にこれをやりたいだけの作品なんだけど、この構図をうまく作品に落とし込んでいて
テーマを理解して見ると別の角度から作品が輝き出して急に視界が広がる感じが好きなんだよな
もろちん、修羅の獣たちはオリジナル作品で、ジークアクスは長らく親しまれてきた作品だから
テーマを表現したいならオリジナルでやれよ!って意見はよくわかるんだけど
別に乃木坂の話が出る前からジークアクスは面白い作品だったわけで、
いったん乃木坂の話は忘れた上で全編見て楽しんだうえで
乃木坂考察を全部入れた上で見直すことで1回で二度おいしい作品って見方もできるんじゃないかな
おいらもだ~い好きでゲソ
絵が問題というよりも、男叩き憎悪ポルノがどんどん盛んになっていくなかで絵も燃やされてるって見方の方が実態に近い気がする。
ようは、男へのジャッジが厳しくなるにつれて絵に対しても厳しくなった。そういうこと。
もう別に大半の男がエロくもなんとも思わない絵が燃やされてんじゃん。
「それはエロい絵が氾濫して男の感覚がおかしくなってるからだ!」
ストレス発散だか思う通りにいかない人生の八つ当たりだか知らないけど、とにかく男に対する憎悪をSNSでぶちまけて共感し合うことが、一部(いうほど一部か?)女性の主要な娯楽になっちゃってんじゃん。
ドーパミンとかノルアドレナリンとかの過剰放出で頭おかしくなってる人少なくないと思う。
頭おかしくなってる人の基準で物事を測ればそりゃおかしく見えるよ。
こう書いてきたけど、じゃあSNS女性を憎悪ポルノから救う方法があるか?これは自分にはわからん。
そもそも女性自身が、この男性憎悪ポルノから抜け出したいと思わないだろうしなぁ。行くところまで行くしかないんじゃないか。どこだかわからんけど。
今後いろんな要因で社会不安増してくだろうし、そういう空気のなかで不安を紛らわすために男叩きする人は増えていきそう。で、男へのジャッジももっと厳しくなると。
自分の力で人生をなんとかしていくって意識がない人は、とにかく他人のせいにすることで、自分の人生の主導権は自分にないことにして、そういうふうに他人に甘えてないと不安で仕方ないんだろう。
まあなんだ。ガンバ!
A.
ご指摘いただきありがとうございます。前回の回答では、ご指摘の重要な点についての説明が不足しており、申し訳ございませんでした。 日本の財政運営の現実を踏まえると、ご指摘の通り、「国債の利子を歳入(特に税収等)で賄えなくなる」という状況を考える際には、以下の重要な要素を考慮に入れる必要があります。 1. **日本銀行からの国庫納付金:** 日本銀行は、保有国債の利息収入などから経費を差し引いた利益の一部を国庫納付金として政府に納付しています。これは歳入の一部を構成しており、国債の利払い費の一部を賄う形になっています。日銀の国債保有残高が増えれば、理論上はこの国庫納付金も増加する可能性があります(ただし、日銀の収益構造や政策金利の動向にも左右されます)。 2. **日本銀行による国債の大量保有:** 現在、日本銀行は異次元の金融緩和策の一環として大量の国債を買い入れており、国債発行残高のかなりの部分を保有しています。政府と日銀を一体として見なせば、政府が発行した国債の利子の一部は、日銀を経由して最終的に国庫納付金として政府に戻ってくるという見方もできます(いわゆる「統合政府」の考え方)。このため、市場への利払い負担が実質的に軽減されているという側面があります。 3. **借換債による償還と利払い:** 国債の償還費や利払い費の多くは、新たな国債(借換債)を発行することで賄われています。つまり、満期が来た国債の元本返済や利子の支払いのために、新たに借金をしているのが現状です。税収等で直接的に全てを賄っているわけではありません。この借換がスムーズに行われている限り、直ちに資金繰りに窮する事態にはなりません。 4. **通貨発行権と実質的な資金調達:** 日本は自国通貨建てで国債を発行しており、日本銀行は通貨発行権を持っています。極端な状況では、政府・日銀が連携し、日銀が国債を直接引き受ける(財政ファイナンス)ことや、通貨発行によって資金を調達することも理論上は可能です。これにより、名目上のデフォルト(債務不履行)は回避できるという議論があります(現代貨幣理論(MMT)の一部論者が主張する点とも関連します)。 ***ご指摘を踏まえた上での「歳入で利子を賄えない」状況の再検討** これらの要素を考慮すると、ご指摘の通り、「国債の利子を純粋な税収等だけで賄えなくなる」という状況が、即座に国家財政の破綻を意味するわけではありません。特に、日銀が大量に国債を保有し、借換債が順調に発行されている現状では、利払いが滞るという事態は想定しにくいかもしれません。 しかし、それでもなお潜在的なリスクや問題点が議論されるのは、以下のような背景があると考えられます。 ** **借換債発行への依存度の限界:** 現在は低金利環境下で借換債が順調に発行されていますが、将来的に何らかの理由(例えば、インフレ進行、市場の信認低下、国際情勢の変化など)で金利が大幅に上昇した場合、借換債の発行コスト(利払い費)も急増します。これにより、雪だるま式に国債残高と利払い費が増加し、財政の柔軟性が著しく損なわれる可能性があります。 ** **日銀の国債引き受けと通貨価値への影響:** 日銀による国債引き受けや通貨発行による資金調達は、無制限に行えるわけではありません。過度な財政ファイナンスは、通貨供給量の急増を通じて悪性インフレーションを引き起こし、円の価値を大きく毀損するリスクがあります。これにより、国民生活は大きな打撃を受け、経済が大混乱に陥る可能性があります。輸入物価の高騰も深刻な問題となります。 ** **国庫納付金の不安定性:** 日銀の国庫納付金は、日銀の収益状況に左右されます。将来的に日銀が利上げに転じた場合、保有国債の評価損や、当座預金への付利コストが増大し、収益が悪化して国庫納付金が減少したり、あるいは逆ザヤ(赤字)となって政府への納付がなくなる可能性も指摘されています。この場合、歳入の減少要因となります。 ** **財政規律への信認:** たとえ理論上は通貨発行で対応可能だとしても、「税収等で利払いを賄う意思や能力がない」と市場や国民に見なされた場合、国の財政規律に対する信認が失われます。これは、円安の加速、資本流出、実体経済への悪影響など、様々な形で負の影響をもたらす可能性があります。 ** **将来世代への負担先送り:** 現状の借換債に依存した財政運営は、本質的には将来世代への負担の先送りに他なりません。現在の受益に見合う負担を現在の世代が十分に行っていないという構造的な問題は残ります。 ***「質問の前提がおかしい」というご指摘について** 「国債の利子を歳入で賄えなくなった場合」という前提が、上記のような日本の財政運営の仕組みを考慮すると、確かに単純化しすぎている面はあります。しかし、この問いの根底には、「現在の財政運営が持続可能なのか」「どこかに限界やリスクはないのか」という重要な問題意識が含まれていると解釈できます。 仮に「歳入」を「税収および税外収入(国庫納付金を除く)」と狭く定義し、その範囲で利払いを賄えない状態が顕在化した場合、それは以下のような深刻なシグナルとなり得ます。 1. **基礎的財政収支(プライマリーバランス)の大幅な悪化の常態化:** 国債費(利払い費と償還費)だけでなく、政策的経費すら税収等で賄えていない状況がより深刻化していることを意味します。 2. **金利上昇への脆弱性の露呈:** わずかな金利上昇でも利払い費が急増し、財政が極度に圧迫される状況。 3. **日銀の政策修正時のリスク顕在化:** 日銀が金融緩和策を修正し、国債買い入れを縮小したり、利上げに踏み切ったりした場合に、国債市場や財政が不安定化するリスク。 このように、ご指摘の点を踏まえてもなお、日本の財政には様々な角度からのリスク分析が必要であり、歳入(特に税収等)と国債費の関係性は、その健全性を測る上での重要な指標の一つと言えるでしょう。 貴重なご指摘、誠にありがとうございました。より多角的で現実に即した情報提供を心がけてまいります。
そうですね、確かに日本が直ちにそのような深刻な事態に陥るとは考えにくいというご意見もございます。日本の経済には、世界有数の対外純資産や、自国通貨建て国債が中心であるといった強みもあります。
しかしながら、多くの専門家や国際機関は、日本の長期的な財政の持続可能性については依然として懸念を示しており、少子高齢化に伴う社会保障費の増大や、潜在成長率の低迷といった構造的な課題を指摘しています。
楽観的な見方がある一方で、将来のリスクに備えることの重要性もまた議論されているところです。様々な視点から、日本の財政状況を注視していくことが大切だと考えられます。
古典文学が「マウントを取るためのもの」だったという視点、確かに歴史の中でそれが一部の階層にとっては**機能**していたのは事実です。
とくに古代~中世~近世の支配層や知識階級において、文字を読めること、ましてや漢文・ラテン語・和歌・詩文などを理解することは、**選ばれた者だけが持つ資格**として扱われました。
「秘伝」という形でわざと難しく、閉じられた知識体系にしておくのも、その地位を維持・強化するための戦略だったわけです。
たとえば、源氏物語の解釈ですら江戸時代には「特定の家」だけが継承できるようなものとされていたこともあります。
ただ、それだけではないとも思います。
文学は、ある種の「美しさ」や「真理」を言語で捉えようとした記録でもあります。
だから、そうした意図――たとえば**人間とは何か、愛とは何か、死とは何か**――を真剣に追求した書も確かに存在する。
マウント道具として利用された一方で、それを超えて人の心を揺さぶる力を持ち得るのも、古典文学のもう一つの側面です。
でも、それが今に残っている理由が、「単にエラい人が残したから」だという冷めた見方も、やはり拭いきれません。
残す側の「都合」が大きく影響していたのは、どうしても否定できない。
結局、どちらの側面もあるんです。