はてなキーワード: 生命とは
さて、保険金殺人未遂犯と思われるひき逃げドライバーとその周辺(病院や東京都や国や保険会社)を訴えた民事裁判は、裁判官忌避申立や書記官忌避申立の甲斐も虚しく口頭弁論が終了し、判決は2月後半となりました
ドライバー本人の証人招致が却下されたことを考えて、判決は「訴えの利益がない」として棄却となる可能性があります
今回は5年前にワタシが訴えられて一部和解し、改めて訴え返す形の裁判だったので少しマシですが、私はうっかりS弁護士の懲戒書を証拠に出したので、工作員団体(裁判所と検察と弁護士の一部)に敵視されている可能性が高いです
なせなら郵便物の化学物質汚染があったのは、今回訴えたときではなく、裁判官を忌避したときです。なので担当裁判官が工作員であることはほぼ間違いありません
相手方弁護士らは控訴の準備で既に担保による仮執行差止めを主張していますので(私を油断させる目的もあると思われますが)、被告が控訴するに至る判決になる可能性もある
いずれにせよ二審に至るであろうし、全員が控訴するなら、裁判所には裁判手数料が入ります(あと4万8千円×当事者8名)
2審のシナリオももう描かれていると思います(第1回口頭弁論で終結。手間はかけない)
したがって、いかに当事者に控訴させるかが、一審工作員裁判官の腕の見せどころです
これは以前、S弁護士の裁判資料横領未遂等を訴えたときと非常に状況が似ているのです
(このときの横領は裁判所が指示していたと見られます。なぜかというと、かの無責任な東弁ですら、私の代わりに横領物を本人から取り戻すという、稀有なサービスをしたからです)
これは私の祖先が損保大手の工作員で一家殺人のうえ資産乗っ取りをした(明治の背乗り)ため私に不承諾の生命年金保険をかけてあったから、軍人教授の孫だから、原発安全事業に関わった人の娘だから、という3つの説があります
いかがでしょうか?
イスラエルによるハマスへの攻撃は、ハマスがイスラエルの民間人を標的とした一連のテロ攻撃に対する正当な報復行為として位置付けることができます。一方で、ハマスの行動は、いかなる立場からも正当化することはできません。以下にこの立場を説明します。
イスラエルは、国民の生命と安全を守る責任を負っています。ハマスによるテロ攻撃では、民間人が標的となり、多くの命が奪われました。このような攻撃に対して反撃し、テロの再発を防ぐ行為は、国際法上の自衛権に基づいて正当化されます。
ハマスは、意図的に民間人を標的とし、社会に恐怖を広げることを目的とした行動を取っています。これに対処しないことは、さらなる暴力を助長するリスクを伴うため、国際社会もイスラエルの防衛行動を支持することがあります。
ハマスの攻撃は、明らかに非戦闘員である民間人を標的としています。これは国際人道法(ジュネーブ条約)に違反する行為であり、いかなる状況でも正当化できません。
多くの国や国際機関は、ハマスの行動を「テロ」として非難しており、これを抵抗運動ではなく犯罪行為として見ています。特に民間人の大量殺害や人質の利用は、国際法上重大な戦争犯罪に該当します。
ハマスの攻撃は、意図的に民間人を標的とした無差別テロであり、どのような文脈においても正当化できません。一方、イスラエルの行動は、自国民の安全を守り、テロ行為を防ぐための自衛措置として正当と見なされます。しかし、報復の過程で民間人が巻き込まれるリスクを最小化する努力は、イスラエル側にも求められるべき課題です。この立場は、国際法と人道の観点からも支持されます。
なるほど。いいことだ。私はそう思った。
否定的な人は「分岐を否定するならもう映画でいいじゃん」と語っている。
なるほど。典型的な中身空っぽのスノビズムだな。相手にする価値がない。
そんなはずはないだろ。
選択肢排除モード否定派はもうちょいまともな論客を連れてきてくれ。
相手側のレベルが低すぎるとアウフヘーベンに至れないからこっちもいい迷惑だ。
なぜ私が選択肢廃止に肯定するのかといえば、今までのアサクリシリーズにおける選択肢のあり方に不満があるからだ。
過去作のネタバレはしたくないからどれのどれかはボカすが以下のような状況が出てくる。
「追いかけていた仇敵をぶっ殺す機会が遂に到来したぞ!どうする!」
B 殺さない。我が刃が断ち切るは生命ではなく憎しみの連鎖也。
ここでAのような選択肢を選ぶと因果が血の海に染まり相応の報いがやってくる。
Bの選択肢だとちょっと釈然とはしないが色々なあなあな感じでそこそこ平和な終わりを迎えられる。
これを「プレイヤーが自由に道を選べる自由な物語」だと捉える人はいる。
でも私はそう思わない。
なぜならAのエンディングが明らかに「お前の間違った選択によって主人公は不幸な人生を送ることになった。正義のアサシンの心を持たなかったお前のせいです。あ~あ」といった空気で展開されるからである。
は?アサシンのゲームでボスをアサシンしたことを咎めてくるなら題名を「正義マン・クリード」にでも変えろって話じゃねーんですか?だよなぁ?
でもこれが最初から選択肢一切なくていきなり「お前を許そう。俺は正義のアサシンマンだから」といきなり主人公が口にしたらその場ではクソゲークソゲー連呼するかも知れないが、エンディングで感じる不快感に比べればまだ許せるレベルだろう。
結局のところ、何が一番気に食わないかと言うと、さも当然のように「正義のアサシンとして振る舞うゲームの時間だ。ちゃんと選べよ」という態度を取られることが気に食わないのだ。
アサシンクリードは結局のところは、刃に血を吸わせることを楽しむ猟奇殺人犯ごっこのゲームなのに、いきなり真面目ぶって「いい子ちゃんクイズ」を始められるのは鬱陶しすぎる。
その選択肢の影響がその直後のムービーにだけ影響するならまだしも、何十時間も先のエンディングでいきなり「お前は本当に正義のアサシンじゃないなあ。これはその報いだよ」と言われるのでは慎重に選ぶしか無い。
でも待ってくれ?
道中でさんざん殺してきた何百人のモブキャラ達にもそれぞれの家族や人生があったのに、それに対しては何のお咎めもないとはどういうことだ?
一貫性のない倫理観に対しての強烈な違和感を感じながら、これまで殺してきたモブキャラと眼の前に居るネームドとでは命の重さが違うのだとばかりに「許そう。俺は正義マンクリードだから」といきなり偽善を振りかざせと?
繰り返すが、この選択をムービー中にキャラが勝手にやるのならば、それについては「私のコントローラーを離れた状態で勝手にやったこと。これはアニムスの記憶が見せるムービーであり、私は介入できないなら仕方ない」と割り切れる。
コントローラーを握った状態、さっきまでバシバシ殺しを繰り返してきた手でストーリー上の正解選びをやらされ、それが終わったらまた殺しを楽しむ血みどろの殺人鬼に戻れという仕組みがごっこ遊びとして実に違和感がある。
トゥルーエンドというご褒美のためにその違和感をグっと堪えさせられることに私は強烈な「不自由さ」を感じてしまうのだ。
私だって2周目はそのモードで遊ぶかも知れないし、配信者達がIFモードでどういう選択を選ぶかには興味がある。
単に私が嫌なのは「私がコントローラーを握った状態で、正解あてクイズをさせらる」ということだけだ。
私がやらされずに済むならそこには何の問題もない。
もしもここで「でも実はですね。選択肢なしモードで見れるエンディングは正解じゃないんですよ。本当の正解は攻略情報を検索して選択肢ありモードを遊んでみてくれよな」と言ってくるようならもう呆れるしかない。
その時はもうどうでもいいか、自分がコントローラーを握って辿った一本道とは別のルートにUBIの考える「正しい歴史」があるというだけならまあ許そう。
本当にただただ私がいい加減つきあいたくないのは「さあ、正義のアサシンマンタイムだ。お前の偽善を見せてくれ」という態度で選択肢を委ねられることだけなんだから。
そういう状況であえて「ヒャッハー!」するのが好きな人もいれば「うんうん。正義マンボタンは自分で押したいもんね」って人もいるのは別に否定せんよ。
私がやらずに済むという選択肢を与えてくれたことに感謝しよう。
いやどうだろう?
連綿と歴史が連なっていく設定のアサクリシリーズにエンディング分岐なる意味不明な不純物をいきなり突っ込んできたことに対しての憤りはやっぱ消えない感じはあるぞ?
子供、さらには赤子の声なんかもそういうところはあるんだろうな
高い声というのは注意を促しがち
それは生命の仕組み上なのかもしれんが
あー勿体ない
違うと思う。
どちらも支持する連中が馬鹿になったから結果的に優秀な彼らがターゲットを意図的に質を落としたんだ。
俺みたいなプライドだけ高い馬鹿には実感がなかったが、人間社会である程度勝ち残れる人間は感情コントロールがそれなりにできる。
少なくともそれなりの母数から勝ち上がってテレビやYoutuberとしてファンを獲得しているのだ。
政治家だってそうだ。学歴はよくネタにされるが、完全でないにせよ俺はそれなりに正しい指標だと思ってる。
つまり、低賃金または仕事もなくのうのうと文句だけ垂れる俺とは相対的に質も高く、質が高いと見込める。
「俺は馬鹿です」
もちろん、賢い彼らを全肯定し、信仰するわけではない。賢い部分、手段や考え方だけを尊敬する。他は好きにしろ。
そして悔しさ惨めさを実感して、どうすればクソ馬鹿から脱却できるか考えて、目標、計画、実行しろ。反省とか細かいテクニックは好きにしろ。
このハングリー精神が俺を賢く、そして強くする。
BRIGADOONまりんとメランは今見るとロリコン臭が強いけどやはりいい作品だ
1969年から1970年のきっかり1年間が描かれ、戦争で実子を失った老夫婦に拾われ育てられるようになった捨て子の少女まりんと、異世界ブリガドーンからやってきた人造生命体の少年メランの恋物語だ
当初はのび太とドラえもんのような関係性であったが、「ちょっとラブの雰囲気してきたぞ…」と思っていたら愛し合ってディープキスしあう関係にまで発展してしまう
まりんは中1の12歳で胸も平らなので、幼いのにやってることがだいぶ大人でええんかこれ…となる
最初はパンツ見せてもエロのかけらもないまりんがどんどん色っぽくなっていく
大塚芳忠といえば渋いおじ様ボイスの人でありやはりメランの声は渋いのだが、精神年齢17歳ぐらいというメランの演技は次第に少年ボイスに聞こえてくる摩訶不思議
メランには手指がない
右手は銃で左手が銃の戦闘兵器であり、戦いで負傷して折れてもしばらくすれば爪が伸びるようにまた武器が生えてくる
指切りができない代わりに、いつもポニテのまりんは時たま髪のリボンをメランの腕にはめて、約束を果たしたら返してねと言う
まりんは次々と不幸な目に遭う
ただでさえ孤児として嘲笑される上に、世界の鍵を握る存在としてわけのわからん異世界の化け物に襲われ、巻き添えに死者を出し、多くの恨みを買い、遺族には「お前がいなければよかった」と首を絞められる
大阪万博のあった時代なので、太陽の塔が敵に寄生されて人間を虐殺しまくるシーンは中々冒涜的だ
まりんは世界が壊れて混乱に陥る中で飲まず食わずでひとりぼっちで彷徨い、物価の高騰の中で何千円もするパンを盗もうとして折檻され、ついには倒れ、目覚めたときには全盲になっていた
けなげに耐え続けるいい子ではなく、追い詰められるとメランやら周囲の人にすごい八つ当たり暴言をする醜さもある
まりんは当初はメランを感情のないロボのように思っていたが、実際にはメランには最初から情緒があり、ただ使命のために異世界から追ってくる同胞を殺し続けれなければいけないことへの苦しみを押し殺して無感情のごとく振る舞っていた
「メランにはどうせあたしの気持ちはわからない」と癇癪を起こしがちだったまりんだが、
「仲間を殺し続けることが辛かった、僕も寂しい」と本音を打ち明けられメランの心を知る
売れっ子大塚芳忠に比べるとまりん役のKAORIは消えた人なのだが、演技も歌も上手い
放精:水生動物の雄が、媒精(授精)のために精子を水中に放出することをいう。
増田は単体では作品たりえない。ブコメやトラバがつくことにより初めて作品となる。それはまさに水生生物の放精に似ている。電子の海に放流する胡乱な情報の種、それらは結びつく先を求めて宛度なく彷徨う。
増田を書くという言葉が縮んで「マスをかく」、増田でのイノベーションを略して「マスターベーション」という言葉が生まれたことは言うまでもない。増田とは情報生命の放精なのだ。
「o1が"意図的にユーザーを騙す"ことがある」という記事へのコメントを読んで、LLMへの幻想をぶち壊す感じの何かを真面目に書こうかなと思ったんだが、
順を追って列挙していくほど「これ…なんだかんだ言って人間も変わらんよな…」となったので、AIに突っ込んで人間に置き換えてもらったのが下。
うむ。文脈を考慮し、意図を捉え、関連する知識を活用して返答できてるな!
萎えるわー
https://anond.hatelabo.jp/20241210123324
https://anond.hatelabo.jp/20241210180013
この辺のエントリに「単なる二次創作じゃん。スルーしとけばいい」みたいなこと言ってる人達見ててこないだホッテントリに入ってた「舐める・舐められる」についての話を思い出した
あの時のトップブコメが「そんな舐めるとか舐められるとかいう土俵に乗りたくない。自分が一方的に舐められても構わない」みたいな内容で、これがトップに来るって大層寛容で結構な精神をお持ちの方達だけど、こういうの言える時点で「舐められが深刻な被害に繋がらない、強い属性の人」なんじゃないのって思ったんだよね
例えば「痴漢は大人しそうな人間を狙う」っていうのも相手を舐めているからなわけじゃん
そういうので心身を傷付けられる経験に晒されてきた人間ってそう軽々しく舐められても構わないとか言えないんだよ
そういうことを言えてしまう時点で、舐められる=ちょっと嫌な思いをする程度にしか捉えてない、舐められることによる実害を回避できる人達なのでは?と思った
ブラックウォッシングの話も同じだと思う
見えてる現象としては単なる絵の話だけど、「日本人には何しても構わない」という意識が表れた結果だから問題なんじゃないの
そして「何しても構わない」という「舐め」は在米日系人の生活・生命などに直結する話
単なるファンアートじゃん、スルーしとけばいいじゃん、なんも実害ないんだからという寛容な態度は実害が発生しにくいところに居るから言えるだけで、その「寛容」は「舐め」を加速させて誰かに実害として降りかかるんじゃないの
描くのやめろとは言わないし言いたくないけど、不快を表明した日本人に「どうせこいつ白人のなりすましだろ」の反応が殺到する現状はさすがに放置したらマズいと思うよ
さっきBMIを計算したら17だって。筋肉も落ちて、クソバカ拒食症ダイエットインフルエンサーかよっていう体重になった。細身でも、何一つ良いことないです。
本当に怒らないで欲しいんですけど、今まで太ったことが無いから太り方がわかりません。すき家に行ったら3種のチーズ牛丼大盛りを食べるし牛角ではご飯特盛りを食べるし、丸亀製麺ではうどん大盛りに天ぷら4つくらい乗せちゃうし、かといって普段の食事が少なすぎるということも無いはずなのに。怒らないで下さい。自慢とか言わないで下さい。リアルではこんなこと誰にも言えないし(それこそ、自虐風自慢とか嫌味とか言われる)、本当に困っているんです…
有識者の方々(?)、どうか体重の増やし方を教えて下さい。お金はぜんぜん無いので、外食に行きまくるとか牛ステーキ肉を買って食べるとか毎日ラーメンを食べに行くとかはちょっと難しいです。本当に都合が良すぎる自覚はあるんですけど、なるべくお金をかけずに手っ取り早く体重を増加させる方法はありますか?
「ネトウヨはすぐに他国の軍事弾圧を肯定するくせに、なぜ天安門とか六四天安門とかbioに書くのか」という話をしばしば見かける。何か妙な勘違いなのだが、ネトウヨの連中は「敵国に迷惑がかかる行為を称揚し、自国に迷惑がかかる(と思い込んでいる)行為を批難する」という点において一貫しているだけであり、何も矛盾はない。中国の現体制に対して何かしら迷惑やダメージがある現象なら何でもいいのであり、つまり軍事弾圧の是非や民主主義イデオロギーは最初から問題としていない。要は一昔前の、自由と民主主義の国アメリカがその辺の独裁国家を支援していたのと同じである(ピノチェトとかフセインとか)(パフラヴィー朝なんかは話がちょうど良い具合にややこしくなると思う)。
軍隊による民衆弾圧に親和的なのもある意味当たり前の話で、むしろ「軍人は何のために銃を握るのか」という議題に対し、少なくとも日本人の歴史観においては「国民を守るために銃を握ることはありえない。それは異常である。国体または軍隊自身を守るために銃を握るのが一般的であり、その目的達成のために国民に各種の危害を加えるのは比較的当然のことである」という認識のはずだ。そもそもそれこそが日本国憲法第九条の前提そのものではあるまいか。恐らく「普通の日本人」とやらにとって、軍隊が自国民を守るために存在し行動する、という「印象(コンセンサスと言い換えてもよいだろうか)」そのものが存在しないはずだ。それは案外、「普通の」どころか左右両翼の共通認識ではないだろうか。
確かに、明治以降の旧軍は侵略戦争か、なんとなくその場のノリでその辺の戦争に参戦するか、いずれかの経験ばかりだったわけで、直接的に国民を守るための軍事行動というのは教科書に載るレベルでは存在しない(占領地に住んでる人を守るというのも、そりゃまず占領してんだし……という話が先に来る。まあスタコラサッサと逃げた関東軍は流石にちょっと凄い気はするが)。当然、ここで元寇や災害救助の話をしても仕方ない。それは過去の話ではないのか、現代にあってミャンマーやシリアと同レベルで恥ずかしくないのか、ではない。軍隊とは本質的に恥ずかしくて危険なもの、できればこの世に存在しない方がいいものなのだ。繰り返すが9条はそういう話のはずで、ここに論理の飛躍は一切ない。
話をあえて脱線させるが、日本人は恐らく「尊敬に値する軍隊」を近現代において認知したことがなく(自衛隊は日々努力し結果も出しているものと思うが、まあ個人単位で時々変なの沸いてはいるしなとも)、また「軍隊に対する正しい尊敬の仕方」も習得していない。これらは良い手本となる先達国があるのか、またそこから学ぶだけでどうにかなるものなのか、は良く分からないが、これからでも議論はあっても良いと思う。国民に銃を向けない軍隊や近似組織は当たり前ではなく、どうにかして作り続けなければいけないものではなかろうか。「デモ中に鉄砲を掴んだら危ないぞ」ぐらいは正直それはそう程度の反射的感想でもありえるところで、大事なのはわざわざそこを起点にしてまで危険な発言をすること等を阻止することであろう。
また別の方向に脱線させれば、日本人はまた「イデオロギーの基に生きて、時々うっかりイデオロギーのために死ぬ」という生活を想像できないのではないか。国益になるなら自他のイデオロギーを問わない、というのはネトウヨの根底の(ごく一部ではあろうが)どこかにあるし、本来それ自体はあまり頭ごなしに否定するものでもない気がする。
逆に言えば、日本国民はネトウヨの「9条のせいで日本が駄目になる」という妄言を、妄言ではなく実際に真剣に実現する義務を怠っている。9条を守って国体の崩壊や日本国民の財産、生命が著しく損害を受ける事態になれば、それは国際社会において極めて重宝される歴史や教訓となるはずであり、「お国のために死ぬ」より数十段もマシな「お世界のために死ぬ」が実現するにはする。これは割と皮肉や冗談ではなくて、一国の利益がために他国を侵略するという不正義の対極である以上、国際社会はそこに何らかの価値と教訓を見出し称揚する責務が存在するはずだ(責をさぼる可能性は大分あるが)。国際社会への貢献とはそのようなものであり、できないのであれば素直に「すみません終戦時点ではアジア諸国をマジで見下していて方々に攻め入るだけの国力を持つに至るとは思っていませんでした。完全に大東亜共栄圏脳のまんまでした。これからは行きすぎない程度の暴力装置で自由と民主主義のために集団的自衛権とかPKFとかぐらいはします」と謝罪したうえで改憲議論でもしたほうがよろしい。
話をタイトルに戻せば、価値観を共有できない国とどう向き合うのか、というより「友好的に向き合ってはいけない」という、普通は世界各国と仲良くするのは良いことでは……?という直感に反するイデオロギー準拠の行動指針にどう向き合えばいいのか、(すぐ撃てばいいという話では断じてないことこそをも含め)考えなければいけない訳である。もちろん「考えなければいけない」などというみっともない文末はよろしくないのだが、これはもう完全にしようがない。
なんや、内面曝け出した人間にワナビーとかレッテル張って、つまるところ酔狂で本質の伴わん半端者扱いして貶しとれば、自分が本質をわきまえた強者のように見えると思ってるんちゃうか?
なーに人を踏みつけ合戦にいざなっとんねん、ワイは最初から腹を見せて寝転がっとるやろ?
自分のことは何も明かさずに匿名性を最大限守って茶化すに徹するチキンムーブするのはそんなに爽快なんかしらへんけどな
ワイなんか逆にすごい!とか褒めたい!と思ったものをことごとく言及していきたくてしゃーないわ
それで通ぶった茶化しマンにケチつけられたとしても共感してくれるROMが1人でも2人でもいればハッピーやと思ってな
そんで日々ネットを探索して得たおすすめ情報を無償でばらまいてるんや
これが無産ワイ流の社会貢献やな
TEDもいうてるやん
ideas worth spreadingて
ワイはideaやなくてワイが選別したワイの思う情強ムーブを広めるミーム生命体なんや
ワイの体裁なんかどうでもええねん
国内における市民と兵士の関係において、兵士がどのように行動すべきかについては、国の法律、治安維持のルール、そして状況に依存します。ただし、以下のような観点で整理できます。
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原則的には、国内で兵士が直接市民に関与するのは例外的な状況です。たとえば、以下の場合が考えられます:
これらの場合でも、兵士の行動は厳格に法律や規則に従わなければならず、武力行使には非常に高いハードルが設けられています。
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市民が兵士から武器を奪う、あるいは奪おうとする行為は極めて深刻であり、兵士にとっては「一線を超えた」と判断される可能性があります。しかし、対応には以下の基準が重要です:
(1) 即座の脅威がある場合
市民が奪った武器を使用して兵士や他者に危害を加える明白な意図を示している場合、兵士が武器の使用を含む行動を取ることは正当防衛として認められる可能性があります。
(2) 脅威がない場合
市民が単に武器を奪ったが、即座に降伏の意図を示している場合、兵士がその市民を殺害するのは過剰な力の行使と見なされる可能性が高く、不適切です。
武器を取り返すか、拘束するための非致死的な方法を優先するべきです。
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日本の例では、自衛隊が国内で武器を使用することは非常に制限されています。自衛隊員が武器を使用できるのは、基本的には自身や仲間の生命が危険にさらされている場合に限られます(武器等防護措置や正当防衛など)。
海外の例でも、軍が市民に対して武器を使う際には、明確な法的根拠や命令が必要です。独断で武力行使をすることは重大な法的問題を引き起こします。
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武器を奪われた状況そのものが、兵士側のリスク管理の問題でもあります。市民に武器を奪われることを防ぐことが最善策です。
武力行使は最後の手段とされ、過剰な力を用いると市民の信頼を損ない、兵士自身や組織の立場を悪化させる可能性があります。
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国内において兵士が市民に対して武力を行使することは、法律や倫理的観点から非常に制約されています。
「武器を奪った市民を殺す」ことが正当化されるのは、生命の危機が差し迫った状況に限られます。それ以外の場合には、適切な手順(拘束や非致死的な対応)を優先すべきです。
これはそうしす🛡29 Advent Calendar 2024の 4 日目の記事です。
前日(3日目)は hoshi さんによる『プログラミングの基本その1【dllについて】』という情報提供でした。
Windows の基本は DLL であり、この基本概念はほかのプログラミングでも同じだよ~という理解を得ました(合ってるかなぁ?)。
Python や JavaScript とは違い、OSが持つ組み込みAPIに近い部分を触るのでセキュリティ的にも怖い部分がある一方で、うまく使えるようになればとっても強力な武器となりそうですね。
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人間の記憶力は年齢とともに衰えるとされているそうですが、本当なのでしょうか?
私自身も歳を重ねる毎、体感的には短時間で記憶するという事がやり辛いと感じてはいます。
知っている方は多いと思いますが、記憶には短期記憶と長期記憶に分ける事ができます。
短期記憶として海馬に収納された物事は、時間とともに大脳皮質に配布されて長期記憶に変化していきます。
短期記憶は思い出しが容易だが覚えられる量は少なく、長期記憶は長い間覚えていられるものの、思い出したくても上手くいかない事や、そもそも思い出せない事を経験した方は多いと思います。
この短期記憶で覚えていられなかった事や、長期記憶で思い出せなかった事を我々は「忘れる」と表現します。
忘れるという行為は、人間の脳を健全に保つためには必要な事だと言われています。
記憶の中で必要な事と不要な事を判断し、必要な事は覚え、不要な事は忘れるようにしているというのが一般的な考えのようです。
一方で、忘れる事が出来ない超記憶症候群と呼ばれる方々もいます。
一度見たり聞いたりした物事を生涯忘れず覚えていられるという羨ましいとも思える能力を持っています。
しかしながら、嫌な記憶も決して忘れる事ができないので、一概に良いとは言えないところです。
超記憶症候群の方々は症例が少ないため研究が進み辛いそうですが、健常者と比して脳の何が違うという点は見受けられないそうです。
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話は変わって、脳の働きについて作業療法(リハビリテーション)の観点から興味深い話があります。
脳は飽くまで臓器の一部であり、思考や記憶をはじめ、あらゆる行動に優劣を付ける事無く、ただ単純に効率化し続けているというものです。
観測された事象で、脳に損傷を受けた方がお腹が空いているにも関わらず、目の前に配膳された食事を食べられない事があります。
ご飯・おかず・小鉢・飲み物が同時に目前にあると、どれから手を付けて良いか分からなくなってしまうそうです。
その方に対し、ご飯のみの単品で配膳すると普通に自分で食事を取る事ができるというものです。
単品での食事に慣れてきたら、2品、3品と徐々に品数を増やして食事をするトレーニングをします。
当初は複数品目から食べるものを選択しなければならない事に脳がオーバーフローを起こすのですが、まず自分で食べるという動作に慣れ、徐々に食品を選ぶという事に慣れさせていきます。
少々強引ではありますが、この事から生命の維持に必要な食事よりも、選択できないという脳のオーバーフローが優先される事、慣れという効率化の結果が選択という判断に反映される事が垣間見えるのではないかと思います。
ここまでで、脳の記憶に関する機能に大きな差はなく、効率化するだけというならば、我々の持つ記憶力は効率化の結果の差異でしかないと言えるのかもしれません。
また、年齢による記憶力の減衰というのは、結果だけ見ると正しく見える気はしますが、長年の慣れや習慣を変えたりすることが不要であるとして、脳が忘れることを選択しているだけではないかと思います。
まだまだ脳の仕組みは解明されていないものも多いですが、原因と結果をロジカルに考えて今までの思い込みを排除できれば、案外簡単に良い結果を得られると思いますので老若男女問わず、色々と考えてみて下さい。
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本稿はそうしす🛡29 Advent Calendar 2024 - Adventarの 4 日目の記事です。
5 日目の記事は どうやって文書を書く/残していくのがいいのかな - 構造化文書とWYSIWYG となる予定です、お楽しみに!
(´へωへ`*)