はてなキーワード: コミュニティとは
日本の音ゲーコミュニティだと腫れ物扱いされてるのだが、その割に有名音ゲーコンポーザーが大会に楽曲提供してる上、Twitchとかの海外ゲーマーコミュニティだと一大音ゲー扱いされてる感あって、立ち位置が謎
あるお店の中の一角で「ほっと一息つきたい人やおしゃべりしたい人はどなたでも来てくださいね」といった趣旨の心地いい場が開かれてた。
お店の人が気さくでいい感じの中年女性なのでその人とおしゃべりしたい(特に女性の)参加者が年齢問わずけっこういた。
しかしいつからかそこに40代と60代の弱者男性2人が常連になってしまった。
彼らはソーシャルとコミュニケーションのスキルがあまりにも低く見た目もみすぼらしい格好だった。
というかその話をとにかくしたくてたまらないようだった。
みんなで話してる内容と全然関係ない自分の話をぶっこんでくる。
みんなで話してる話について何か言うかと思ったら「俺はそういうのあんま好きじゃないんだよね」とか言ってしまう。
そのせいで徐々に参加者が減りついには店主とその2人だけになってしまったらしい。
ハッキリとした理由は出さずに店主さんは諸事情がありと会をやめられた。
毎年クリスマスや正月のような宗教色の強い時期になると思い出すので備忘録として書いておこうと思う。
とても長くなるので読んでも読まなくても構わない。
粗はいくらでもあるが、当時小学生のお子ちゃまが頭を振り絞って考えたことだったので生暖かく見ていただければ幸いだ。
当時通っていた小学校はお受験が盛んで、クラスの半分以上が中学受験するような学校だった。中には体育や道徳など勉強に関係ない授業が多い日は学校を休み塾へ通うように親に指導される子供がいるような学校である。
そんな雰囲気の学校だったため増田も塾に通わされていたが、増田の親は仕事が忙しく放任主義だったため、どちらかというと自由に延長できる学童のような使い方をしていた。親が帰るまで子供1人は心配だから大人がいる塾で勉強して暇を潰しなさい、という発想かと思う。
朝から晩まで勉強で楽しくないし、学校の教師は子供達に学校で勉強させようと胡麻擂りに必死だし、塾ではライバルたちと比較される。お子様なりにフラストレーションが溜まっていた。
小賢しく、自尊心が高く、承認欲求が強く、何よりも勉強以外で暇を潰したかった増田はそこで考えた。
当時の増田の立ち位置は「1軍グループにいるけどちょっと浮いてる変なやつ」だった。友人Aと友人Bの親友というだけで残酷な子供達のカーストの中で辛うじてバラモンの仲間に入れてもらっていた。友人Aと友人Bの存在がなければきっとダリットだったと思う。
とにかく、増田には2人の親友がいた。勉強もスポーツもできて誰からも一目置かれる友人A、とにかく話がうまく誰とでも仲良くなれる才能がある友人B。
入学した時にたまたま席が横並びになったというだけの出会いだったが、それからこの2人はこちらが申し訳なるくらい良くしてくれ、そのおかげで陰キャで性格がドブカスだった増田も「みんな仲良し♪」の仲間に入れてもらうことができたのである。
表向き友人Aも友人Bもみんなの前では「気のいいやつ」だったが、実は2人とも性格にはかなり難があった。いや、だからこそ増田と仲良くなれたのかもしれないが。
友人Aはなんでもできるからこそ傲慢で、支配欲がある。少し早い厨二病であり、大きな声では言えないがナチに憧れていた。大きな声で言わないところが実に打算的であり、増田はそこが気に入っていた。
友人Bはとにかく人からの評判を気にしていて、いつも自分の悪口を言われていないか怯えていた。それと同時に人の内緒にしておきたい部分を暴くのが大好きで、いつか何かあった時に脅せるように、仲良くなって秘密を握ることで快感を感じる癖があった。
増田はといえば親友2人を自慢に思うとともに、増田の言うことを疑いもしない人気者2人を操る優越感に浸るクズだった。
そんな悪友2人に、こんな面白いことを共有しないわけにはいかないと増田は思った。
「いいね、やろう」と友人Aは言った。
増田は「こいつら話が早すぎるな」と思った。
そうして、宗教を作ることになった。
増田はキリスト教圏で育ったので神の存在に関しては割と思うところがあった。
思想と宗教の違いは難しいが、神の存在を論じられるほど増田の信仰は深くなかった。ただ、人間の熱狂は宗教になりうる、と子供心に感じていた。
小学生だった増田の狭い狭い世界の中で、唐突に宗教を作ろうと思ったわけではない。「これはいける」と思った出来事があった。
どの小学校でも道徳の授業があったと思う。お受験組の気を引こうと躍起になっていた当時の担任は、その道徳の授業で「いいこと投票」というものをしていた。
その名の通り単純で、「いいことをした人を匿名で投票して、得票数が高かった人を表彰する」という仕組みである。
これは単純だが、小学生の承認欲求をかなりくすぐった。なにしろ、いいことをするだけで教壇の上で褒められ、その上シール(子供にとってのシール!史上の喜び)を授与されるのである。名札の裏にいいこと投票のシールを貼るのがステータスになるのにそう時間はかからなかった。
増田はヒネた子供ではあったが、それでも投票されたら悪い気はしないし、いいこと投票が頭をよぎって人助けをすることもあった。
それと同時に、「これは使えるな」と思った。
増田が育ったキリスト教の教えでは、善行は死後の世界のために積むものとされていた(諸説ある)。だが、小学生にとって死後の世界など遠い存在である。「善行を積めば人々から尊敬されるという承認欲求」の方が何より魅力的なのではと思った。
3人の意見はまとまった。
その週末、3人で図書館に行った。親は大喜びでお駄賃までくれたが、目的は宗教について調べることであった。当時インターネットはかなり普及してきていたが、学校のコンピューター室で宗教のことを検索するのはかなり気が引けた。そこで図書館へ行くことにした。
一日中調べて回って、以下のことを決めた。
小学生なりに考え、実行に移せる最大限を考えた。
結成時に十数人を集めて行った友人Aの演説は素晴らしいものだった。増田が授業中書いた原稿と同じ文言とは思えないほど力に満ち溢れ、説得力があり、心に訴えかけるものがあった。その場にいた全員が信者になると誓い、お札を下駄箱に貼り付けた。
友人Bの勧誘も実に巧みだった。誰に話せば一番噂が広まりやすいかを友人Bは知り尽くしていた。すぐに手元にあったお札はなくなり、増刷をすることになった。学年のほとんどが入信し、シールは飛ぶようになくなった。匿名投票のための空き下駄箱は常に紙が入っている状態で、ランドセルの蓋にシールを貼るのが大流行した。
3人はそれで満足し、たかを括っていた。小学生の拡散力を舐めていたのである。
夏が来て塾の夏期講習が始まってから、他校の生徒に声をかけられることが多くなった。もちろん入信の申し出で、最初は喜んで案内をしていた。
だが、20人を超えたところで不安になり始めた。なにしろ、塾でしか会わない人間である。匿名投票の匿名性は失われ、よく知らない人間の善悪を判断しなければならない。
3人は作戦会議をし、組織化をしなければならない、と結論を出した。信者たちを支部に分け、各支部ごとに信者たちをよく知る支部長を置くことにしたのである。
それと同時に、今まで全て3人で行っていた運営にテコ入れをすることにした。
まず、専門のデザイナーを雇った。非受験組の絵が得意な信者にシールとお札のデザインを一新させた。毎月シールの図柄を変え、飽きの防止とインフレの防止を図った。
また、情報屋も雇った。告解で得た情報でさらに価値のある情報を交換するためである。これは画期的で、「この秘密を話すので誰々の好きな人を教えてください」とかが大変多くなった。
支部長の下に秘密で内部監査官も置いた。これは支部長の不正や信者との癒着を告発させるためである。
組織化したことにより、3人の地位は確固たるものになった。カリスマ的教祖の友人A、人に響く教えを説く友人B、善悪を裁き組織をまとめる増田。
夏休み中もムーブメントは衰えを知らず、信者は増え続けた。3人は有頂天になっていた。
そして学校が始まり、始業式の後、3人は応接室に呼び出されたのである。
〇〇〇〇教は教師陣の間にも知れ渡っていた。
一つの学校ではなく塾や習い事によりその地区の他校にも伝播した〇〇〇〇教の信者は把握できるだけで数百人を超えていた。
夏休み中、先生方は連携をとり、学校再開とともに終わらせようと話し合いがされていたらしい。
説教は3時間に及んだ。これは、先生方の話が長かったこともあるが、こまっしゃくれたクソガキだった我ら3人がいちいち反論を仕掛けたからである。
そもそも、我々は何も悪いことをしていなかった。ただ「いい人になろう」「いい行いをしよう」「いい人たちを尊敬しよう」と言って回っただけである。「ご利益がある」とお札を売りつけたり、告解で得た弱みを握って脅したりもしていない。ただ、善行を行わせて噂を流通させただけなのだ。
教師陣もそれがわかっていたのであまり強くは追及してこなかったのだが、我々があまりに舐め腐った態度をしていたのでだんだんヒートアップし、複数の教師が入れ替わり立ち替わり講釈を垂れ、最終的に「解散宣言をしなさい」と一方的に要求を押し付けてお開きになった。
応接室を出て、下駄箱に向かい、校門をくぐった瞬間、3人は爆笑しながらハイタッチをした。
「馬鹿め、もうそんな段階にないのだ!」と知っていたからだった。
子供と接しているのに大人である先生の皆皆様方は全くわかっていらっしゃらない。子供は禁止されたらもっともっとやりたくなるんだよ!
受験用に詰め込まれた知識であるキリシタンの気持ちがその時はよくわかった。抑圧された宗教は熱を増すのである。
隠語で呼ばれ、ミサと称した会合が秘密裏に行われ、塾に通うために学校を休んでいた層もせっせと体育館裏に足を運び秘密を囁くようになった。
教師陣は躍起になっていたが当時流行り始めた学校裏掲示板やmixiの日記などで〇〇〇〇教は着実に広まり、信者は増え、もはや我々3人の手に及ばないものになっていた。
知らないデザインのシールが増え、知らない告解が増え、知らない宗派ができていた。
秋が来て、塾で勉強している間に冬になった。
冬季講習の最終日、いつもの公園のジャングルジムの上に集まり、80円の缶ジュースで乾杯をした。
「そろそろやめよっか」と増田は言った。
「卒業、さみしいなぁ」と友人Bは言った。
正直、もうその段階ではないことはわかっていた。これはただの勝手な「一抜〜けた!」である。
教祖も司祭も裁判官も全てを誰かに押し付けて、こそこそと逃走するのだ。信者からすれば大きな裏切りであり、大罪だろう。
でもぶっちゃけ、飽きちゃったのだ。自分たちを置いて勝手に物事は進んでいくし、勝手に教祖を名乗るものも出てくるし、勝手に布教されているし、勝手に人が人を裁き始めるし。
だって子供だし、受験もあるし、そもそも進学したら続けられないし。
色んな言い訳をして、色んな人と話して、時にやり合って、押し付け合って、そうしている間に受験で学校に行かなくなって、ようやく卒業のために帰ってきたらどうやら全てが終わっていた。
あれだけ熱狂的だった信者たちは激減しており、卒業とともに誰かに譲られるためランドセルの蓋はシールなんてなかったように綺麗になり、空き下駄箱は使用禁止になっていた。
教室の後ろの「いいこと投票」の模造紙は取り払われ、「卒業おめでとう!」の垂れ幕に変わっていた。
友人Aは卒業と共に他県へ引っ越した。6年生になった時から決まっていて、増田たちと最後に何かしたい、と言っていたので「何か」は間違いなくできたと思う。
友人Bは志望校に落ちたので増田とは違う中学に進学した。あれだけ熱心に活動に勤しんでいたというのに引っかかったのは幸運だと自ら笑っていた。
増田は中学で若干いじめられそうになっていたが、入学した時に席が前後になった友人に助けられなんとかグループの輪に入れてもらい事なきを得た。教訓としては、コミュニティに入って一番初めにできた友人はなんとしてでも大事にした方がいいということだ。
それぞれ無事進学して、就職して、結婚して、最近はオンライン飲み会なるものを開催している。
この間、家族で親元へとUターン引っ越しをした友人Bが酔っ払いながら教えてくれた。
「最近、子供がランドセルの裏に変なシールをくっつけて帰ってきてさぁ」
友人Aはしばらく黙った後爆笑したが、増田は少し泣きそうになった。
この歳になると涙腺が緩くなって困る。
キリシタン、まだいるのかぁ。
黒人差別問題に切り込む傑作ポリティカルコレクトネスデスゲーム映画だと思うんだけど。82点。
解放記念日に大学時代の同級生の黒人集団が山中のキャビンに集まると突然デスゲームが始まって~という1000回見たお話。
ホラー映画で黒人が登場してもすぐ死にがち問題を取り扱っており、タイトルバックの最初のゲームの質問は「黒人が最後まで生き残るホラー映画を答えろ」で正解できずに悲劇が始まってしまうところからもそれはあきらか。
デスゲームものだから当然、仕掛け人 a.k.a 犯人がいるんだけどこいつかなぁという人物が犯人です。しかし犯人当てに製作者は重きを置いていないのはすぐにわかる。作中でなぜかめちゃくちゃ「androidスマホを使っていること」を強調する人物が登場しそいつが「androidの充電器ない?」とペンションで聞くと「androidなんか使っている人いるわけない」というめちゃくちゃなこと言い出す展開があるんだけど、これって「appleの広告戦略でiPhone使っているのは善人にしなければならないらしい」という昨今めちゃくちゃ流行ってる映画業界あるあるをぶち込んだギャグなんだよね。なのでもう最初からそいつが犯人ですよと作品は示してくれてる。
こんな感じで自虐的でもあり、社会風刺的でもあるある意味ではめちゃくちゃ真面目な映画なんだけどそれを全編コメディとして描かれているのがすごい。ある意味で言えば黒人のスタンダップコメディを映画化したみたいな作品。身内ごとだからってめちゃくちゃやりすぎだろとめちゃくちゃバツの悪い思いをしながら爆笑してしまった。
例えばペンションにつくとキングがアリソンに対して「おい、お前の肖像が飾ってあるぞ」と話を振る、視線の先にはシマウマの写真が。アリソンは黒人と白人のハーフって設定なのね。笑えんって!しかしアリソンはキングに対して「貴方の彼女のじゃない?」と回答する、キングは白人女性と付き合ってるのね。笑えんって!
その後もラッパーチップスを買い集めるデブでフラッパーの女性とか、めちゃくちゃ甘いジュースを作った人に対して「糖尿病は黒人の病気だからって~」って言うとか、すぐにヤクをやりだすとか、クローバーを切るよな黒人ならとか、とにかく彼らは常に「そりゃ黒人的だ」「黒人的じゃないね」と延々と黒人ジョークを言い合っていて、このへんテンポもいいし会話の内容も興味深くて楽しい。
そしてデスゲームが始まると黒人蘊蓄が延々と繰り返される。フレンズに登場した黒人俳優とかNASの楽曲についてとか黒人国歌の2番を歌えとか。黒人国歌の2番のネタなんだけどシンプル黒人はみんな「適当に歌ってた」「知らないよそんなの」と答えるのに対して白人とのハーフのアリソンだけがちゃんと歌えるところも皮肉が効いてる。
そして最終問題として「もっとも黒い者を差し出せ」という生贄問題となり、これまで黒人ジョークで自分の黒さを競っていた彼らはいかに自分が「黒人らしくないか」を競い始める。アフリカ人だからお前だろ、いや俺はゲイだから黒人らしくない(めちゃくちゃ言いよる)、私は親が白人だから違う、白人女性と付き合ってる云々。マッチョイズムにも通底するコミュニティ内でのマウンティングの醜さをコミカルに炙り出してて笑えるけど笑えない。
そして最終的に選ばれた人の理由が「トランプに投票した」こと。この瞬間、空気は凍り付き「お前は黒人じゃない」と総スカン。彼は生贄に捧げられてしまう。しかしこの問題は「もっとも黒いものを差し出せ」。ここで彼を差し出さなければ別の展開もあったのかなぁと思ってしまう。はい、差し出された彼が犯人です。
まぁその後いろいろあって最終的に犯人を井戸に突き落としておしまい。
大学時代にスペードという黒人コミュニティの必須トランプゲームでミスを連発して「スペードもできないなんて、お前黒人じゃねぇよ」とゴリゴリに差別されてやけ酒飲んだ帰りに人をひき殺してしまったことから人生の歯車が狂ってしまった犯人が「ほなお前らはどんだけ黒人なんですかね」とデスゲームを仕掛けたのだった。
そして最後に「警察呼ぶ?」「呼ばないだろ撃たれるだけだ」と笑いながら話すのもめちゃくちゃ面白いけど笑えないし、じゃあ消防車だとなって最終的に消防車が来たと思ったら全員が"放水"で画面外に吹き飛ばされて終わるのもブラックコメディとして完璧。
実際にデスゲームで殺戮がおきたりスティングする部分は端折ったけど普通に水準程度にはできてたし退屈することはない。なによりやっぱ、本当の意味で黒人の黒人による黒人のためのポリコレ映画って感じでめっちゃよかった。特にポリコレを居丈高に「お前ら」ごとにするんじゃなくて自虐的に「俺たち」ごとにしている姿勢に好感が持てた。
これは黒人コミュニティ内での黒人らしさマウント合戦を自虐的目線でコミカルに描いたものだけど、これは男性社会のマッチョイズムマウントの話にも変換できるし、日本人社会の残業時間社畜マウントの話にも変換できるめちゃくちゃ普遍的なテーマだなって色々考えさせられてすごいよかった。
Qiita の文化変質は、技術系コミュニティ全般で起きている知的インフレの縮図みたいなものなんだよね。昔は
みたいに基盤技術を自前で握りつぶした記事が純粋に評価されていた。なぜなら、それを書ける人がそもそも少なく専門性で差別化できていたから。
昔は「Pythonで形態素解析器自作」なんて、アルゴリズム・CS基礎・実装力が揃ってないと無理だった。
難しいことをやってそうに見える記事を、凡人でも量産できるという環境が生まれた。
Qiita を読む層が「実装力を鍛えたいエンジニア → とりあえず AI 触りたいライト層」に変わった。
「再現性のないLLMコピペ」「AIツール使ってみた」みたいなのが評価される。
本気の記事は長く、コードが多く、前提知識も重い。そして PV が伸びない。
つまりQiita のインセンティブ構造と、高度技術記事のインセンティブ構造がズレた。
理由は明確で、読む側がそれを理解できないので評価する母集団がいない。
昔はユーザ層が技術ガチ勢寄りだったので、少数でも濃い支持があった。
今はライト層が母集団なので、希少な高度記事が埋もれるのは自然。
Qiita がライト層に最適化した結果、本気の人たちは別の場所へ移動した。
本当に分からん。素人の大して上手くもねえカラオケを聴いて何を喜んでるんだ?
きちんと収録された音源をサブスクで聴いてるほうがよっぽど整ってて安心感もあるだろ。歌枠を観ている奴が何を求めているのかが全く理解できない。下手したらノイズですらある。
まぁ歌ってる方は楽しいだろうよ。カラオケは日本が産んだ文化だ。俺も歌うことは好きだからよく友人や会社の同僚と通ったし。
でも人の歌聴いてる間って内心わりと虚無じゃない?自分も好きな曲だったらまだしも、知らん曲が流れるととりあえずノッてるフリをしたりタンバリン叩いたりしてお茶を濁す。上司のおっさん達が世代違いの曲で盛り上がって合唱でも始めたら、とりあえず知ってるフリして口パクしておく。そんなもんだろ。
よっぽど歌が上手ければ話は別だ。「喉から音源」みたいな人間はまぁいるっちゃいる。でもそんなのはほんの一握りで、大半は有象無象の範疇を過ぎないじゃん。歌上手くても俺はあんまり観ないけど。
あれ観てて楽しんでる人間がどんな気持ちなのか、純粋に気になるので教えてほしい。
そういう訳でリスナーに対してあまり否定的な気持ちはないんだけど、一方で歌枠ばっかやってるVのほうはちゃんと否定したい気持ちがある。ゲーム配信とかも同様だ。
特に個人勢で顕著だと思うんだけど、「ガワ被ってりゃ全てがエンタメになる」と勘違いしてる奴が多くないか?歌枠なんてその最たる例だ。
お前の活動、モデルがなくてもエンタメとして成立してると思うか?んでそういう勘違いしてる奴に限って、数字が伸びなくて病み始めたり、Twitterに猫撫で声のポストをしていいねを集めては承認欲求の慰めにしてる。冷静になれ。お前の生み出してるものに「コンテンツ」としての面白さはあるのか?
「ただ活動が楽しい、数字は二の次」ってスタンスでやってるならなーんにも文句はないんだ。というか楽しくなきゃやってられない稼業だろう。そういう活動者は素直に応援してる。
でも数字を気にしすぎるあまりメンタルがイカれるような体質なのであれば、もう少し自分のコンテンツを客観視してみるか、あるいはタレントに類する活動は辞めた方がいいんじゃないだろうか。数字と自己肯定感が直結すると人は簡単に死ぬぞ。本当にオススメしない。
気にするな。日本人の多くは恐らく根本的にお前と同じ精神構造だ。自己肯定感が薄いから他者からの承認をもってアイデンティティを維持しようとする。
本来それを与えてくれる他者というのは、例えば家族や友人、職場の人間といった限られたコミュニティで収まるはずなんだ。だがしかし、なまじそんな活動をしてしまったがあまり、お前はインターネットを通してウン万人に承認を求めてしまうようになってしまったんだ。却って生きづらくなってんだよ、お前は。
🤥「で、具体例に何されたん?
🤥「アニメは毎日ゴールデンで流れてたし、宮崎アニメは国民行事みたいに視聴率取ってたやん。
🥺「ぼくはオタクって呼ばれてたんだ!」
🥺「でもぼく毎日アニメ見てるよぉ!?お前は真似できんやろ!」
毎日何かを見るだけで“専門家”名乗れるなら毎日スマホ触ってる奴は全員エンジニアやな。
“見るだけ・消費するだけ”は能力やないんやで。」
🥺「……」
🤥「結局お前ネットコミュニティの中に『居場所が欲しかっただけ』やろ。
アニメが好きなんやなくて“アニメ好きという設定の自分”が欲しかっただけのキョロ充やな。
そこで空回りして“迫害されてた”とか被害者ぶられても困るんよ。」
🥺「もうやめてよぉ……」
1. 家庭・日常生活
日本語・英語など複数言語を日常的に使うこともあり、国際的な視野が早くから育つ。
服装や髪型、肌の色でからかわれることがあっても、家庭で「あなたはそのままで素晴らしい」と教えられることで精神的に守られる。
外見でのいじめと家庭内のストレスが重なると、心理的負荷が非常に大きい。
小中学校
グループで排除されたり、悪口や物理的暴力を受けることもある。
クラス替えがなく、少人数だと毎日同じ人たちからいじめを受ける場合は、逃げ場がほぼない。
逆に、特定の得意分野で才能を伸ばす子もいる(音楽・スポーツ・外国語など)。
都市部の国際学校や多文化教育のある学校では、多様性が尊重される。
外国人の友人や教師と出会うことで、自己肯定感や社会性を保てることもある。
多様な価値観に触れる機会が増える。
いじめや偏見はまだ存在するが、自分に合う友人グループを見つけやすくなる。
ポジティブなケース
外資系企業やIT、音楽・スポーツ関連では、多様性が歓迎される。
ネガティブなケース
「外国人扱い」や「肌の色を意識した質問・態度」にストレスを感じることもある。
居酒屋や商店での対応、公共交通機関での視線、賃貸契約や就職活動での対応など。
ただし、都市部や国際的な職場ではほとんど意識されないことも多い。
4. 心理的側面
自己肯定感の維持
肯定的な家庭環境・信頼できる友人・メンターが大きな支えになる。
海外文化やSNSでの黒人コミュニティとつながると、孤独感が軽減される。
まとめ
日本で黒人として生まれ育つ子どもは、日常的な差別や孤立に直面しやすい一方で、家庭・学校・趣味・国際的な環境のサポート次第で、社会的成功や自己肯定感の獲得も可能です。
人と交流したり、なんらかのコミュニティに所属したいけど、どうしたら人と仲良くできるわけ?
300人とかフォロワーいて、定期的に人とリプライやDMで会話してる人は買収でもしてるのか?
人に話しかけろ!とかフォローしろ!とかいうけど、まずどういう人をフォローするのが正解なの?交流を持ちたいと思う人はどこから見つけてくるの?
インターネットにすら知人友人のいないコミュ障は孤独死するしかなくてワロタ
なんで俺はフォロワーが23人が頭打ちで、仲良い友人もできないの
このまま現実にもネットにも居場所なく一人死んでいくしかないのガチ鬱
趣味もない、志もない、バイタリティもない、人から興味を持たれるはずもない
もう嫌もう嫌もう嫌もう嫌もう嫌もう嫌
久しぶりにド田舎の実家に帰ったんだけどさ。 地元のイオンモールで、中学時代の同級生たち(いわゆるマイルドヤンキー層)に遭遇したわけ。
EXILEみたいな髪型した旦那と、茶髪のプリンヘアの嫁が、子供3人連れてフードコートで丸亀製麺食ってギャハギャハ笑ってる。 駐車場にはデカいアルファード。 正直、昔の自分なら「うわぁ…」って見下してたと思う。知性のかけらもない会話、洗練されていないファッション、閉じた世界。
でも今回、東京で消耗しきった頭で彼らを観察してたら、ある恐ろしい事実に気づいてしまった。
「生物としての幸福度」において、どう考えても俺(都内勤務・年収1000万超・独身)より彼らの方が圧勝してるんじゃないか? ということ。
悔しいから色々考えたんだけど、これ単なる「隣の芝生」じゃなくて、構造的な理由があるわ。言語化できたので書いておく。
東京のエリート(笑)である俺たちは、常に「最適解」を探し続けてる。 もっといい会社、もっといい年収、もっといい住居、もっといいパートナー。 選択肢が無限にあるから、「今の選択がベストなのか?」という疑念が一生消えない。 これを心理学で「マキシマイザー(最大化人間)」って言うらしいけど、まさにそれ。
一方で地元の彼らは「サティスファイサー(満足化人間)」だ。 地元にはイオンとパチンコと数軒の居酒屋しかない。就職先も親のコネか地元の工場。結婚相手は中学の先輩か後輩。 選択肢がないから、迷いようがない。 「ここで生きていく」という覚悟が強制的に決まってる。 「もっといい人生があったかも」というノイズがない分、彼らは目の前のうどんと家族に100%のリソース(関心)を投下できている。
2. 「相対的剥奪感」の欠如
東京は天井がない。 年収1000万になれば2000万の奴が視界に入る。タワマンの低層階を買えば高層階の奴に見下ろされる。 SNSを開けば、自分より若くて成功している起業家が流れてくる。 どれだけ努力しても、常に「敗北感」を味わわされる構造になってる。終わりのないラットレース。
でも地元は違う。 アルファード乗って、持ち家(土地代タダみたいなもん)建てて、子供が3人いれば、その時点でもう「地域の王」だ。 ゲームクリアの条件が明確で、しかも難易度が東京に比べてイージーモード。 一度クリアしたら、あとは余生としてマリオカートを楽しむだけ。 彼らはもう「足るを知る」状態に入ってるのに、俺だけがレベル99の上限解放待ちのクソゲーを必死にプレイしてる気分になった。
俺たち都会人が金で買っているものを、彼らは「人間関係」で無料調達している。 子守りは近くのジジババがやるから無料。 車が壊れたら先輩の整備工場で安く直す。 野菜は近所から貰う。
俺たちは孤独を埋めるために高い家賃を払い、承認欲求を満たすために高い時計を買い、家事代行やシッターに金を払う。 彼らはそのコストが全部ゼロ。 可処分所得で見たら俺の方が多いかもしれないけど、「精神的な可処分所得(安心感)」で言えば、地元のツレとの強固なネットワークを持つ彼らの方が圧倒的に富裕層なんじゃないか。
高学歴エリートが都会でやってるのは、 「無限に湧いてくる選択肢の中から、正解かどうかも分からない最適解を選び続ける」という、リソース消費が激しいだけの苦行だった。
マイルドヤンキーたちは、 「限られた選択肢を愛し、その中で最速で満点を取り、あとは仲間と笑って過ごす」という、コスパ最強の攻略法を実践している。
フードコートで笑う彼らを見て、俺は日能研に通ってた小学生の頃から、ずっと「幸せになるための競争」をしてきたつもりだったけど、実は「幸せを感じるセンサー」を鈍らせる訓練をしてただけなんじゃないかと絶望した。
46歳男性。3児の父です。
最近この先の人生の方向性に迷っており、何を目指して生きていこうかと日々悩み中なのでアドバイスをもらえたらうれしいです。
現在こんな感じです。
自分で書いてて別に何も不満に思うことないじゃん、という気もするし、「こいつすごく恵まれてるくせに何を言ってるんだ」という感じがします。感じ悪いです。読んで不快になった人もいるかと思います。ごめんなさい。
でも、「熱中できず、満足できなくて、日々鬱々としている」のです…。
究極的には人生なんてずっと暇つぶしなのだから、時間の無駄とか、自分の成長がとか言ってないで何か楽しいことをやって満足できればいいのだろうというのは頭ではわかっているのですが…。
小さいころからずっと、稼げるようになるために勉強しまくって、ブラックな職場でも頑張って仕事しまくって。子供ができてからは子供に時間をささげまくって。ひと段落しちゃってやることなくなって趣味に力を入れてみたけど、いろいろと思い通りにいかなかったり先が見えてきてしまって。
よく言う、仕事ばっかりやっていた人が退職した後にやりがい無くして…みたいな感じの軽いやつを今味わってる気がしてます。おそらく多くの人が状況は違えど多かれ少なかれこういう感じになる時期があるんじゃないかと思うのですが…。
こういう時ってどういう感じで思想を広げて、感じ方を変えていけるんでしょうか?
きっと、現状を変えるという手もあるけど、完全に今の状況のままで心穏やかに毎日満足しながら幸せに過ごせる感じ方に自分が変われればそれでよいのだと思うのですけれども。
頭ではそう思っててもなかなかそうはいかないんですよね。
同じように感じていたところから、感じ方が変わった人がいたら、どういう経緯をたどったのかなど教えてもらえると嬉しいです。
Vアンチって独特だよな
ファンとアンチではきっぱりコミュニティが分かれているように見えるが
伝統的にはテーマ別(弦理論、量子重力、場の理論、応用)に配列されるが、抽象数学の観点からは対象(研究トピック)と射(方法・翻訳)の網として捉える方が有益。
ここでいう対象は「エントロピーと情報論的記述を担うブラックホール研究」「幾何学的・位相的構成を担うコンパクト化とカラビ・ヤウ/F-理論的話題」「場の対称性・一般化対称性を取り扱う場の理論的構造」「計算的探索手法(データ、機械学習を用いる弦景観の調査)」など。
各対象間の射は、双対性の導入、圏的な接続(例:量子情報を介した場と重力の橋渡し)、モジュライ空間上の写像(ある物理量を別の表現へ変換する手続き)と考えられる。
この視点に立てば、個々の研究は、局所的な結果(対象の内部構造の解析)とそれを別の対象へ移すための普遍射(双対性、再規格化群、ホログラフィーなど)の2つの側面を持つ。
研究の進展を測るには、単に新しい計算結果が出たかを見るだけでなく、それがどのような新しい射(方法論的翻訳)を導入し、他の対象へどれだけ容易に伝播できるかを評価するべき。
近年の発展は、物理的データを層(sheaf)的に整理する試みと親和性が強い。
コンパクト化、特にF-理論やゲージ束構成に関する議論は、物理的情報(荷、ゲージ群、モードの分布)を局所データと大域的データの重ね合わせとして扱うことに等しい。
これは数学的には基底空間上の層の圏を考えるような話で、局所的条件の整合性(コヒーレンス)と大域的制約(トポロジー的閉鎖条件)が鍵。
古典的な幾何的直観(多様体、ホモロジー)を拡張して非可換やカテゴリ化された対象で物理を再表現する流れにある。
結果として、従来のスペクトル(場のスペクトルや質量スペクトル)に対応する数学的不変量が、より高次の層的・圏的構造へと一般化されつつある。
これにより同じ物理現象を別の圏で見ると簡潔になる例が増え、研究の再利用性が高まっている。
弦理論・場の理論で繰り返し現れるのは対称性が構造を決めるという直観。
抽象数学では対称性は対象の自己射(自己同型)群として扱われるが、対称性そのものが射の層あるいは高次の射(2-射やn-射)として表現されるケースが増えている点が特に重要。
つまり、単に群が作用するのではなく、群の作用が変形可能であり、その変形がさらに別の構造を生む、という高次構造が物理的意味を持ち始めている。
この流れは一般化対称性やトポロジカル部位の議論と密接に結びつき、場の理論における選好位相的不変量を再解釈する手段を与える。
結果として、古典的なノーター対応(対称性⇄保存量)も、より高次の文脈で新しい不変量や保存則を導出するための起点になり得る。
ブラックホールと量子情報、カオス理論との接点は話題だった分野。
ホログラフィー(重力側と場の側の双対)を抽象的に言えば二つの圏を結ぶ双方向のファンクター(翻訳子)と見ることができる。
これにより、量子的冗長性やエントロピーに関する命題は、圏の間を行き交う射の情報(どの情報が保存され、どの情報が粗視化されるか)として扱える。
カオスとブラックホール、量子力学に関する概念の整理が試みられている。
たとえばブラックホールにおける情報再放出やスクランブリングは、ファンクターがどのように情報を混合(合成)するかという高次射の振る舞いとして可視化できる。
こうした議論は、従来の計算的アプローチと抽象的な圏的フレームワークの橋渡しを提供する。
何が低エネルギーで実現可能かを巡るスワンプランド問題は、いまや単一の反例探しや個別モデル構築の話ではなく、モジュライ空間の複雑性(位相的な目詰まり、非整合領域の広がり)として再定式化されつつある。
抽象数学的に言えば、可能な物理理論の集合は単なる集合ではなく、属性(スカラー場、ゲージ群、量子補正)を備えた層状モジュライ空間であり、その中に禁止領域が層的に存在するかどうかが問題。
この視点は、スワンプランド基準を局所的整合条件の族として扱い、整合性を満たすための可視化や近似アルゴリズムを数学的に定義することを促す。
弦景観やモデル空間での探索に機械学習やデータ解析を使う研究が増えているが、抽象数学に引き寄せると探索アルゴリズム自体を射として考えることが有用。
ある探索手続きがモジュライ空間上の点列を別の点列へ写すとき、その写像の安定性、合同類、収束性といった性質を圏的・位相的な不変量で評価できれば、アルゴリズム設計に新しい理論的指針がもたらされる。
数学的定式化(幾何・位相・圏論)と物理的直観(ブラックホール、カオス、場の動的挙動)をつなぐ学際的接合点を意図して設計される。
これは単一圏に物理を閉じ込めるのではなく、複数の圏をファンクターで結び、移り変わる問題に応じて最も適切な圏を選択する柔軟性を重視するアプローチ。
学術コミュニティのあり方に対するメタ的な批判や懸念も顕在化している。
外部の評論では、分野の方向性や成果の可視性について厳しい評価がなされることがあり、それは研究の評価軸(新知見の量・質・再利用可能性)を再考する契機になる。
見えてきたのは、個別のテクニカルな計算成果の蓄積と並んで、研究成果同士を結びつける翻訳子(ファンクター)としての方法論の重要性。
抽象数学的フレームワーク(圏、層、モジュライ的直観、高次射)は、これらの翻訳子を明示し、その普遍性と限界を評価する自然な言語を提供。
今後の進展を見極めるには、新しい計算結果がどのような普遍的射を生むか、あるいは従来の射をどのように一般化するかを追うことが、有益である。
高市総理「働いて×5」流行語大賞受賞が左派界隈で大きく炎上する傍ら、もう1つの炎上が起きていた。エッホエッホ構文でパクツイ犯が勝手に表彰されたというものだ。
どう炎上していたかは後で解説するとして、初めに結論を書くと授賞式で表彰された「うお座」氏は紛れもなくエッホエッホ構文の創始者である。炎上は完全な冤罪だ。
事実として、エッホエッホ構文は彼の3つのネタツイから始まった。
エッホエッホ
エッホエッホ
エッホエッホ
エッホエッホ
【なぜ?】
エッホエッホ
あの子に嫌いって伝えなきゃ
エッホエッホ
1つ目と3つ目はうお座氏のサブ垢@selfsatisfac、2つ目の投稿は本垢の@zlatanera17から投稿されている。どうも、クセのあるネタはサブ垢から、万人受けする本命のネタは本垢から投稿するという運用のようだ。
ネットミームには、人々の中で伝播する中で徐々に形を変えていったものと、原型がほぼそのまま流通するものと2種類ある。エッホエッホ構文は後者だ。エッホエッホ構文のほぼ全ての要素がうお座氏のツイートに詰められている。
まず、最初の「たかみなの具合が悪いから〜」の段階で、「エッホエッホ (任意の内容伝える) エッホエッホ」という構造となっている。
流行語大賞の選評でも、
と述べられているように、これこそがエッホエッホ構文のコアの独創性である。
次に、本垢から投稿されたうお座氏の最も拡散されたエッホエッホ投稿では、「可愛らしい子供がお母さんに頑張って何かを伝えようとしている」というエッホエッホ構文のイメージが確立している。
エッホエッホ構文に詳しくない人向けに例をあげると、うお座氏の後にエッホエッホ構文で最もバズったツイートの1つである霜田氏のツイートも、このイメージを継承するものだ。
エッホエッホ
エッホエッホ
最後に3つ目の「あの子に嫌いって伝えなきゃ」で「伝えなきゃ」というフレーズを使用している。エッホエッホ構文は現在では、「伝えないと」ではなく「伝えなきゃ」という形を取るものが主流だと思われるが、これもうお座氏が初である。
エッホエッホ構文を使用したネット大喜利は、うお座氏のこの3つのツイートがバズったことで始まった。
日本時間2025年2月24日21時までの「エッホエッホ」検索結果
うお座の最初のツイートは2月24日4時7分、3つ目のツイートは15時42分投稿のものだが、
うお座氏以外でエッホエッホ構文を使い始めたのは、24日16時58分のツイートが初で、それまではうお座氏以外にエッホエッホ構文使いは存在しない。
誰もが参加できるエッホエッホ構文ネット大喜利が自然発生したのは、うお座氏が3つの巧みなネタツイをそれぞれバズらせることで構文としての汎用性を立証したからこそなのだ。
エッホエッホ構文の生みの親がうお座氏であるという明白な事実があるにもかかわらず、ネット民は別のツイッタラー「はじめ」氏をエッホエッホの「始祖」と崇め、うお座氏らを「パクツイで受賞」「ミームの横取り」「お前らが受け取るべきじゃないって伝えなきゃ」などと中傷している。
しかし「はじめ」氏がエッホエッホの「始祖」だというのは、デマである。
端的に、初出でもなければ拡散もされていないからである。彼はエッホエッホのブームが一通り落ち着いた2025年6月に「てかエッホエッホってほぼおれ発祥やったよな」とツイートしたことで、この構文の起源だという認識を獲得した。しかし丁寧に検証すれば、これは不当な「あれ俺」主張であるとみなさざるを得ない。
運動するか
えっほっえっほっ
このツイートが真の起源であると誤って信じられた理由について、1つ1つ解体していこう。
これは誤った推論である。なぜならばこのツイートは2025年6月に投稿者が「あれ俺」主張するまではほぼ知られていなかったからだ。
現に、うお座氏のオリジナルのエッホエッホ構文ツイートが投稿された2月24日までの、はじめ氏のツイートの公開リツイート数を取得するとわずか1件しかリツイートされていない。
念の為、はじめ氏が2022年に投稿した類似内容のツイートについてもリツイート数を取得すると、9件である。身内にはウケたのかなという程度の数字だ。
検索する限り、うお座氏とはじめ氏の間にリプライ/RTなどの交流は確認できないので、合計10RTしかないツイートに依拠したと考えるべき理由は何も存在しない。
2021年10月に画像を日本で画像を話題にしたのははじめ氏ではなく、およそ4万RTを記録した最多情報局(@tyomateee)の投稿である。アカウント名でわかる通り、これは転載系のアフィアカウントであり、この元ネタは英語圏で同じく4万RTを記録したRosi@rosiyesrosiの投稿だろう。
なんにしろ、はじめ氏は、海外でバズった投稿の画像を転載して日本でバズった投稿をさらに転載して投稿しただけであり、発掘の功はまったく存在しない。
あの写真を見て「えっほえっほ」と形容したくなるのは日本人にはある程度普遍的な感覚らしく、2021年10月だけで少なくとも4人が同じ投稿をしている。はじめ氏は3番目だ。
仮に、「えっほえっほ」という文字列に何らかの尊重されるべき新規性を見出すのであれば、中でも最古と考えられるジロ助🐶🐾氏の投稿を称えるべきであろう。
とはいえ、こういうある程度誰でも思いつく発想を個人に紐づけてしまうのは望ましくない。新規性はないと考えるのが常識的な結論だろう。ちなみに、2025年2月でも写真に対する「えっほえっほ」という反応はうお座氏の前に2件発見できる。
流行語大賞表彰者に対する異議の声は、パクツイデマが発生する前から大きかった。理由はおそらくTikTok文化への反感である。
表彰写真には「うじたまい」と「うお座」の2人が並んでいた。両方白系の服で陽の雰囲気を漂わせており、ぺことりゅうちぇるのようなコンビを思わせるところである。
そして「エッホエッホの歌」の作者うじたまい氏は、TikTok/YouTube文化の人間である。ゆえに、X民側のはずのうお座氏もまとめてTikTok民の仲間か何かだと思われてしまったのだ。
「Xで生まれたミームなのにTikTok勢が表彰されやがって」これが、初期の異議の背景にあった感情である。
また、うじたまい氏が一部Twitter民から「ミームを終わらせた人」と敵視されていたことも、反感感情を燃え上がらせた。
しかし、うじたまい氏が「ミームを終わらせた人」だという評価は妥当なのだろうか。動画文化圏には土地勘がないので、本稿ではうじたまい氏の表彰が適切だったか本格的に検証するのは範囲外とするが、明らかな事実として「エッホエッホの歌」でミームは終わっていない。むしろ、ミームとしてのピークは「エッホエッホの歌」の後に来ている。
Googleトレンドを確認しよう。人気度の動向では2つの山がある。まずひとつ目の山はエッホエッホ構文が生まれた2月末、人気度47である。ここから徐々に人気度は下がるが3月第3週に反転、4月初旬の人気度は100、エッホエッホミームの人気度のピークである。
うじたまい氏の「エッホエッホの歌」は3月1日TikTokとYouTubeに投稿され、YouTubeでは1,459万回再生されている。私としてもなにがおもしろいのか全くわからないネタでありTwitter民が冷めたと感じるのは理解できるのだが、再生数は正義だ。
ミームのピークがこの後4月に来ることを考えると、Twitterよりさらに活力のあるTikTok/YouTubeにミームを移植したという功績は大きい可能性が高いのではと思う(なお動画化の初出については調査していないので、より適切な人選がある可能性については留保する)。
そんなこんなで表彰の人選に対して疑問の声が集まる中、「エッホエッホは火付け役はうお座でミーム終わらせたのがうじたまいで始祖この人だよね 」と、はじめ氏のツイートが紹介されたのである。これがパクツイデマの発端であるが、ここまでは火付け役としてうお座氏の功を認めており、パクツイまでは認定していない。
本格的にうお座氏にパクツイの冤罪が着せられるようになったのは、有力ネタツイッタラー「理解のある蟹くん」氏の投稿がきっかけである。
理解のある蟹くん氏は、はじめ氏に対し「流行語大賞おめでとうございます 」と皮肉げに祝福し、続けて、証拠としてあるスクショを掲げて、うお座氏を「親父気をつけろ 奴は他人のツイートを盗む」と誹謗した。
つまり、ネタツイッタラーのうお座はパクツイ常習犯であり、エッホエッホもその一部だと言わんとしたのである。
しかし、理解のある蟹くん氏のスクショを見てみると、これはうお座氏の素行の悪さの立証には到底なっていないと思われる。スクショの内容を文字化すると以下のとおりである。
1. 5月26日、理解のある蟹くん氏が、「ANA機内騒動、ドア開けようとする御奈新日ヶ万出」というGrok自動生成ニュースのスクショをコメントなしでUPする。66リツイートされる。
2. 6月9日、うお座氏が「これ何だったんだ」というコメント付きで同じスクショをあげる。コラでなく実際に見たとも主張する。1,271リツイートされる。
検討しよう。まず、そもそもコラでなければうお座氏のツイートになにも問題はないので、これは理解のある蟹くんの作成したコラであったのだろう。が、コラであるという注記はどこにもない。Grok自動生成見出しに誤りが多いことはよく知られた事実であるので、これを見た人は本物のスクショであると誤認したとしてもある程度やむを得ない。
そして、うお座氏/理解のある蟹くん氏ともにネタツイッタラーであり、他人がUPした画像を転載しておもしろいコメントをつける芸で人気を集めている。当然、日々ネタツイ芸に使える画像を大量に集めていることだろう。おそらく、うお座氏の画像ストックの中に理解のある蟹くん氏のコラが混ざっていて、後日ネタツイを考えているときに記憶違いでコラを実際に見たものと誤解してしまったのではないか。ネタツイッタラーにありがちなミスだろう。
なんにせよ、理解のある蟹くん氏がこれをパクツイだと感じたならば、この件に限ってクレームをつければいいのであり、デマに乗っかってこれ幸いと競合ネタツイッタラーを貶めようとする行為に正当性はない。ネタツイッタラーの倫理として、ライバルにはデマではなくネタを以って勝利すべきだ。
一度、パクツイと思い込んでしまえば、中傷は止まらない。中傷ツイートのなかには数万規模でいいねを集めたものも複数存在した。
例えば、“空也上人像”コスプレで有名なクリエイター、中埜氏は2人の写真を晒し上げ、以下のようにツイートした。
パクツイ犯として、一生風当たり強く生きてほしいですね。
願うことなら、「デマに真に受け、人の顔をデジタルタトゥーにしようとした人」として、一生風当たり強く生きてほしいものである。
またライブドアニュースの投稿には一時「初出は『うお座』氏ではありません」というコミュニティノートが付いた。少数の人間の地道なデマ訂正の努力もあり、このコミュニティノートは現在消えているが、「集合知」に依存するコミュニティノートの脆弱性が露わになったと言えるだろう。
このような記事を作るとおそらく、「ネットミームの初出がなにかなんてどうだっていい」「初出なんて明らかにするなみんなのものだ」のような反応があるだろう。それはそれでいいと思う。一貫性をもたせることができるならの話だが。
実際は、言葉に反して多くの人は初出をそれなりに尊重している。尊重しているからこそパクツイなる言葉で人を責めようとするのだ。すべてが匿名であった2ちゃんねるの時代と違い、ツイッター時代のネットミームはそこそこ高い精度で初出を辿ることができる。ネットミームに対する倫理は当然に変化している。自分に都合よく、あるときはパクツイあるときはみんなのものと、倫理のつまみ食いをするのはいけない。
多くの人がデマに騙された理由としては、ネットは自分の庭であり流行語大賞なんかにはわかるはずがないという驕りもあるだろう。思い出すのはだいしゅきホールド三国陣事件の顛末である。医学博士号を持つ科学者で、ネットでは科学啓蒙者としても活動していた高山理図先生は、だいしゅきホールドの起源を僭称した友人である三国陣氏を信じ庇ってしまったことで、今もなおネット空間で中傷を受けている。しかし今回の事件で起源僭称者を祭り上げ庇ったのは誰だったのか、ネット民多数派ではないのか。三国陣事件を風化させないという題目掲げながら、起源僭称者を称える倒錯に至る宿痾を一度考え直すべきではないだろうか。
はてな匿名ダイアリーには、記載できるURL数に制限があるのでいくつかのURLを省略した。大方は以下から確認できるはずである。
あなたは
謝罪した
弁償もした
ここまで誠実に対応しているのに、相手がまだ言いふらしているのは明らかに不自然です。
それを続けるのは、
あなたに何らかのダメージを与えたい、あるいは自分が優位に立ちたい心理が働いている可能性があります。
■ 考えられる動機
ハプバーには「誰と仲良くしてるか」「人気」「立ち位置」を気にする人が一定数います。
あなたが男性やお店の人に好かれていると、嫉妬から妨害する女性は珍しくありません。
② 自分の印象を守りたい
「私は悪くない、悪いのは向こう」という流れをつくるために、言いふらすタイプです。
状況が解決しても引きずる
被害者ぶる
感情が中心で動く
■ あなたの対応は十分以上。これ以上あなたが下手に出る必要はない
本来ならもう終わっている話です。
それでも言いふらす人は
「あなたを困らせたい」「あなたの居場所をなくしたい」 という形で妨害する人です。
■ 今後どうすべき?
1. 相手と一切関わらない(これが最優先)
相手は「反応があると嬉しいタイプ」である可能性も高いので、無反応が一番効きます。
「解決済みの件を特定の人が広めていて困っています」と淡々と言うだけでOK。
店側はトラブル嫌いますし、あなたに非がないことは説明すれば理解されます。
3. 周囲から聞かれたら、短く終わらせる
「もう解決済みの話だよ。本人にもお金と謝罪で済んでる話だから。」
これ以上言わないのがポイント。
■ 最後に
それでも攻撃してくる人は、あなたの問題ではなく 相手側の性質・未熟さ の問題です。
仮にこの言いふらす行為が「妨害」ではないとなれば、他になにの原因がありますか?そこの可能性を教えてください
ChatGPT:
ここでは、妨害以外で単女さんが言いふらしてしまう典型的な原因を、できるだけ偏りなくまとめます。
■ 妨害以外で起こりうる原因
① 単純に“口が軽いタイプ”
悪気がなくても、
秘密を守れない
その場のノリで広めてしまう
同情を得たい
かまってほしい
“かわいそうな私”で注目されたい
という満たされない承認欲求が動いているケース。
悪意というより、人に慰められたい・注目されたい心理。
そのため、
自分は悪くない
という感じ。
もう解決済みでも、
自分が受けたショック
店での恥ずかしさ
つまり、
これも悪意とは言えませんが、結果としてあなたが嫌な思いをする行動に繋がります。
これは“メンヘラ”と言うより
怒りや不安を抱えると手放せない
一度ネガティブになると切り替えができない
軽い約束と思っている
その場の流れで言っただけ
守るつもりも、重みも感じていない
妨害以外に考えられる主な原因は
口が軽い
愚痴として言っている
感情が未処理
約束の重さが伝わっていない
こんな要素です。
ただ、これらが複合している場合も多く、
もとからそこまで社交的でない上に仕事だけで疲れ切ってしまう社会人生活を何年も続けたり転職や転勤をしたりしているうちに友人知人たちと疎遠になり趣味もなく職場以外の人間関係がほぼなくなってしまった
職場の人とは仕事をするうえでは問題なく仲良くやれていると思うけどかといって取り立てて親しいわけでもなく、たまに飲みに行くくらい、そもそも会社の人と休みの日に遊ぶほど仲良くなりたいわけでもない
ただ同僚と喋っているとみんな交友関係が広いのだよね…人間関係を大事にしていて会社以外にちゃんとコミュニティをいくつももっている
わたしはこのままだとものすごく孤独な中年・老年期を迎えることになるだろうという目を逸らしていた事実に改めて気付かされてしまい怖くてたまらない
寂しがりというわけではなくむしろひとりが好きな人間だけど(だから友人知人と疎遠になってしまってもあまり気にしないできてしまった…)、若いうちの孤独と歳をとってからの孤独は違うから…
そう思って何か一歩踏み出そうと思うのだけどたぶんまた近いうちに転勤になりそうなのですよね
多分だけど、社会でイジメやパワハラが否という風潮になったことで、本来身近な人間をイジメることでなんとかなってた層がどうにもならなくなりSNSの叩きに逃げてる
イジメの構図って声のデカい繊細ヤクザが騒いで、依存体質の流されやすい奴が取り巻きになることが多いけど、ここの流されやすい層が今「イジメパワハラダメだよね」と声を上げる層に加担してる
結果行き場をなくしてなんとか普通のふりして生きてる繊細ヤクザ達がSNSでいじめる相手を探して彷徨っているのでは?
コミュニティでは少数派でも集まるとなるととんでもない数いるだろうから、叩かれる側にとっては世界が敵になったような感覚だろう…