はてなキーワード: 解釈とは
モンク(monk)とは、主に宗教的な文脈で使われる言葉で、以下のような意味があります。
このように、「モンク」は宗教的な意味合いとファンタジー作品における職業として多様な解釈が存在します。
Citations:
[1] https://chigai.fenecilla.com/namonkne/
[2] https://www.weblio.jp/content/monk
[3] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AF
[4] https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AF
[5] https://kotobank.jp/word/%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%8F-1601442
[6] https://www.ei-navi.jp/dictionary/content/monk/
[7] https://eow.alc.co.jp/search?q=monk
[8] https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AF/
アニメを届ける側が、ネタバレはしないで下さいとお願いしながら劇場でアニメを公開するやり方。
これはスタジオジブリの鈴木プロデューサーが宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」において実施した方法である。
この手法の成否は映画の公開前には、一部疑問視されたものの、結果として「君たちはどう生きるか」は興行的に成功した作品となった。
いや、興行成績それよりも宮崎アニメを心待ちにしていたジブリファン以外の層にも「なにか気になる話題」のひとつとしてリーチして注目を集めることとなったほうが重要であると言える。
すなわちそれは、まさにSNS全盛のこの時代にピタリとハマった戦略であったということだからだ。
「賢い大人たち」がつくったガンダムと揶揄したのはそれが理由である。
最新のアニメの売り方を学習し、手法化し、再生産した、大人たちの大人たちによるガンダムということだ。
宮崎駿の「君たちはどう生きるか」の場合には、
また見る人の解釈が作品の価値を決めるという部分もある作品ということで
そのプロデュース方法と作品の内容、作品の評価と極めてマッチしていたことに注目しなければならない。
果たしてクリエイターの作り上げたものを尊重したうえでの今回の宣伝方法だったと言えるのだろうか?
その評価はしばらく待たざるを得ない。
子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色の不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣に意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たちは真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。
ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキー、スキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通の着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物の動作としか言いようがなかった。
確かに、人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピンの場合、頭の上から足の先まで完璧にシンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間が操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである。
さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンはテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツはスキーやスノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみの構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しかし映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。
その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚を説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然に設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンのパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。
もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンはキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしか「テレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式の発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムックの存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。
さらに子ども向け番組の世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組のマスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。
また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数の人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかしガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間の声優が存在するとしても、そのピッチやトーンを常に一定に保つのは至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人の技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。
その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。
以上のような理由から、私は「ガチャピンに中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情から、ガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキーのジャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである。
では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間の性質によるのだろう。未知や不思議なものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピンの超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈をはるかに凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。
私はむしろ、大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子どもの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険の世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界や常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコと笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルなガチャピン”だったのだ。もし、あのころの私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界はもっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。
思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。
だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピンに中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジーの証明であり、あの緑色の恐竜がいつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋な気持ちは、決して間違っていなかったのだ。
誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たちが大人になるにつれ忘れかけた好奇心と冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつの生命”——それがガチャピンなのである。
きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気と希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たちは子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。
そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実の境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピンに中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。
こうして振り返ってみると、ガチャピンがテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピンに勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たちは自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界はもっと広がるのだと教えられる。
結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割のひとつではないだろうか。私たちに想像の余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘と可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔で私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピンに中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分の世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。
そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントのステージで、そして私たちの想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日の自分を取り戻すためにも。
かなり不謹慎な内容を書く。思考実験としてとらえてもらいたい。
話の内容上、まったく議論ができない人も双方の立場からあらわれると思うが極力無視する方針である。
現代社会では、いつの間にか「貞操」や「性の自己決定権」に対して極めて高い価値が付与されています。
が、本当に「性」というものに、そもそもそこまでの価値があるのだろうか?
この問いは、「暴力」と「性暴力」に本質的な違いがあるのかという問題にもつながります。
まず、暴力そのものが絶対に許容されるべきではないことはよく理解しています。
私は若干の違和感を覚えるということです。
なぜ「貞操」には、単なる暴力を超えた無謬の価値が付与されているのでしょうか?
たとえば、江戸時代の日本(独身者に限る)では、フリーセックスが一般的であったと言われています。
同様に、世界の多くの地域や時代では、現代ほど貞操観念に価値が置かれていなかったケースが見られます。
第二次世界大戦以降、キリスト教的価値観、特にピューリタニズムの影響が広がる中で、「性の自己決定権」が基本的人権の一部として重視されるようになりました。
しかし、これも一つの思想にすぎないはずではないか、という疑問が浮かびます。
性暴力の被害者(多くは女性)が、自らの人生や自己が「不可逆的に毀損された」と感じることが、現代社会では一般的な理解とされています。
しかし、私の考えでは、むしろ「性暴力によって失われる価値など存在しない」と考えるほうが、
被害者が救われるのではないでしょうか。
姦通の有無に価値を見出さなければ、性暴力の被害を「自己の価値の毀損」と結びつける必要がなくなるからです。
ここで誤解しないでいただきたいのは、これは性暴力を容認する考えではないということです。
暴力そのものが許容されないように、性暴力も決して許されるべきではありません。
ただし、性暴力によって失われるものが、単なる暴力以上のものである必要はないのではないか、という視点を提示しているだけです。
風俗業に従事する女性が、現代でも差別や偏見にさらされる背景には、「貞操」に無謬の価値があるとされる社会的認識が根付いていることが挙げられるでしょう。
たとえば、「風俗嬢が性暴力の被害に遭った」という話を聞いて、
「失われたものは一般の女性ほど大きくないのではないか」と一瞬でも考えてしまった場合、
それは貞操観念が議論すら許されない絶対的な価値を持っている証左といえるのではないでしょうか。
「貞操観念に至上の価値を持たせることで、女性が現代社会において経済的利益や権利を引き出そうとしているのではないか」という見方も湧いてきています。
これは批判ではありません。
むしろ、社会で弱い立場に置かれてきた女性が、この価値観を利用して有利な状況を作り出すことは、ある種の合理的な戦略だと考えています。
ただし、貞操観念を社会の大前提として固定してしまうと、むしろ女性の価値が男性より低いまま据え置かれ、
ガンダムシリーズは1979年の『機動戦士ガンダム』放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張、さらに小説や漫画、ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズが長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。
「一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争(宇宙世紀0079年から始まる連邦軍とジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまうタイプのファンを揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しかし問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害な一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。
彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からのガンダムをリアルタイムで経験した世代、あるいはビデオやプラモデル、雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメの常識を覆すようなリアルな戦争描写や群像劇、そしてプラモデル(ガンプラ)文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。
しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さらに宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。
にもかかわらず、「有害な一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野(由悠季)監督が関わってないから駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクやガンダム(RX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。
こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファンの参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダムは一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。
さらに、「有害な一年戦争おじさん」はしばしば他の作品やファン同士の交流の場を“自分たちの思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNSや掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダムは宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的にコミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツの可能性を狭めてしまうのだ。
また、宇宙世紀作品や一年戦争そのものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争を舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害な一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情が排他主義や攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。
さらに、一年戦争の時代考証を「現実の軍事・政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダムの世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み、他人の解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMSは存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。
そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃんと資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダムは多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈やテーマで作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。
では、この「有害な一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのは、ファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品を否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダムは作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体はポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品や意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性がガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。
次に、若い世代や新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ、入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。
また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプなイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争だけが特別なわけではない。むしろ、宇宙世紀とアナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。
さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争を舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点やテーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品は多面的に戦争の悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。
結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身の立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品も尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは、自分の視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまうタイプのファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズのファンダムで起こりうる軋轢と言える。
だからこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメ」であると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点に固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。
以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害な一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者を排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやすい環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ。
結論として、「有害な一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティの健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは“一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダムの世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれからも世代や国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。
Mくんの発言からは、いくつかの認知の歪みが見られます。それぞれ解説します。
1. 個人化
症状: 自分の責任ではないことまで自分に原因があると考える。
例: Mくんは他人の指摘や批判に対して「自分の文章力が劣っているから」「自分が至らないせいだ」と感じています。
解説: 実際には、批判する側の意図や性格、背景も関係している可能性があります。すべてを自分のせいにすることで、不必要に自信を失っています。
症状: 状況や自分の能力を「完全に成功」か「完全に失敗」のどちらかで捉える。
例: 「自分は大学生以下の文章力しかない」と、能力を極端に低く見積もり、他人と比較して落ち込んでいます。
解説: Mくんは「少しでも他人に劣る部分があると全体がダメ」と捉えがちですが、実際には得意分野と不得意分野があって当然です。
3. 被害妄想(過度な警戒心)
症状: 他人が自分を批判しようとしている、悪口を書かれていると考える。
例: 「裏で悪口を書かれているんじゃないか」「何か斜め下のことをするとTwitterやnoteに書かれる」と不安に思っています。
解説: 根拠のない想像や過去の経験に囚われすぎることで、実際には起きていないことに過剰に反応しています。
4. 過度な一般化
例: 「Yさんが過去に他人のことを書いた」という経験を、今も必ず自分に対して行われていると信じています。
解説: 過去の出来事が特別なケースである可能性を無視し、すべての場面で起きると考えています。
例: 「都合のいい人なんじゃないか」と考え、自分の価値を過小評価しています。
解説: 他人にとっての自分の役割をネガティブに捉え、それをあたかも事実のように受け入れています。
症状: ポジティブな情報を無視し、ネガティブな情報だけを取り上げる。
例: 「まともなコミュニケーションがない」「都合よく扱われている」と感じる一方で、Yさんからインフルエンザを心配されたりドリルのレビューを頼まれたポジティブな行動を軽視しています。
解説: 他人が見せている好意やポジティブな意図を認識できず、不安や不満だけを感じています。
症状: 自分を犠牲にして他人のために尽くすべきだと思い込む。
例: 「Yさんに恩義があるからレビューをしている」「家事や忙しいスケジュールの中でやっている」といった発言から、無理をしてでも他人に応えなければならないと感じています。
解説: 他人に尽くすことが当然だと思い込み、必要以上に負担を抱えています。
総括
Mくんの認知の歪みは、自己評価の低さや他者の行動に対する過剰な解釈、責任感の偏りなどが影響しています。このような歪みは、ストレスや自己否定感を増幅させ、現実的な解決策を見つける妨げになります。彼がもう少し柔軟に物事を考えられるようになると、今抱えている不安が軽減するでしょう。
私は漫画が読むのが苦手。
厳密に言えば読めなくはないけど、後述する問題点の影響で疲れるので結果的に読む機会が少ない。
子供の頃から漫画はある程度読んではいるけど、結果的にアニメや映画や小説を見るのがメインで、今までの人生で漫画というものをあまり見たことないなと大人になってから人生を振り返った時に気がついた。
まず1つ目が、コマ割りが作者や作品によって変わるので1ページにおけるコマ割りが多いとどのような順番で読めばいいのか分からなくて混乱する。
台詞も読む順番が入れ替わっても成立するページとかだと、正解の順番が分からなくて困惑する。
2つ目が吹き出しのセリフしか見てなくて絵を基本的に殆ど見てない。というよりも一瞬だけ絵をチラっと見て次のページに移るので、「ドッカーン」とか「ズバッ」みたいなオノマトペというか効果音の文字が目に入らない。
どうも自分の中で、「漫画の絵=挿絵」程度にしか思ってないのか、どんだけ描き込まれていてもページ事にじっくり見ることが無いし、寧ろ情報量が多いと目を逸らしてしまう。
絵も台詞も一緒に見るというのが難しい。無意識に出来ない。字幕映画なら出来て見れるのに。
だから、「このコマに書いてある◯◯って――」という話が出る度に皆そんな細かい所まで一々見ているのかと思う。
なので、例えば独特な効果音で有名なジョジョとか読んでいても「あそこの◯◯って効果音面白いよね」とか言われても全く気がついてなくて、指摘されて読み返して初めて気がつく事が多い。
私は吹き出しのセリフ等の文章を読んでいるだけで絵を含めた漫画を読んではいないんだなと大人になって自覚した。
そういう点では一定方向に進むだけの映像作品や小説は楽だなと思う。
3つ目が絵でしか説明されないシーンだとどういう意味なのかだとか、どう解釈していいのか分からなくて困るという部分。
これは私自身に問題がある部分もあるとは思うけど、作品によっては本当に分からなくて困る。
映像作品なら前後を含めた動きで把握出来るし、小説ならある程度書いてくれるので理解出来るけど、漫画だと一言二言程度の台詞だけで後は絵で説明する感じなので悩む。
場合によっては台詞も無く絵のみのシーンだと何やっているか分からない事が多い。
例えばギャグ漫画はあまり読まないけど、たまに見ても絵で説明するシーンが多いので「これは何がネタで、どこで笑えばいいんだ……?」と困惑する事が多いのでギャグ漫画は読まなくなった。
ここまで書くと無理して読まなくてもと思われそうだけど、気になる作品はあるので読みたくても読むのに問題を抱えているという状況にモヤモヤしてしまう。
漫画好きな人とか見ていると、よくそんなに読めるなと思うし羨ましく思う。
ただ調べると私みたいな人は以外といるみたいなので、珍しい問題ではないのかな。
・マブ(カップリング)
昔に流行った言葉を令和の現代にリバイバルで流行らせてえ!という強いきもちを感じた
・OPからオサレな街並みと「タイクツな毎日…」ってアンニュイに街を歩くマニュ?ちゃんからのスタートを想像してたので出シャアでビビったしシャアの声帯変わってるし「???」ってなった
・シャアパート、「21世紀の日本を生きるオタクなら履修しとかな損やわ」って思い4,5回履修を試み「やっぱ男の子のロマンは理解らんわ…」って挫折してるけど、おかげで単語の意味の端々は理解できたので履修しといてよかった〜ってなった
・シャアパート、意味解ってないけど音声から画面の端から端まで作った人々のこだわりと今までのガンダムシリーズの積み重ねを感じさせて頂き「ようわからんけど他のジャンルのマニアが楽しそうなのはすごい伝わってきてなんか元気になる」という体験をさせて頂いた 思い出泥棒!
・ニュータイプ合体事故のあの「誰だッ?!」のところは…ララァさんなんだよね…?!ララァさんでありますように…!アムロ声優のやらかしからまだ立ち直ってないから声優変更してようとしてまいとアムロさんが出てきた瞬間から凄まじく「無理」になるぞ…ってヒヤヒヤしてたから結局誰かお顔分からずじまいでよかった
・観に来てたおじさんたちがシャアパートで感極まり、マニュちゃんパートでついていききれず、画面への前のめりさへの高低差は感じなかったと言えば嘘になる というかシャアパートの視聴者の温度がアツすぎた
・「ガンダム、出る!!!」滑車をゴーーッって滑って宇宙(そら)へ出る…はすごい男の子のロマンなんやな…って思った 最初はわからんロマンや…ってなってたけど神作画神音楽で3,4回繰り返されると少し理解ってきた
・匂いクンクンはイケメンでも許されることと許されないことがあるぞ!
「最近のアニメはテンポ早いし、1話は恐らくマニュちゃんがガンダムに乗って初勝利を上げるとこまでいくんやろな」とは誰もが予想していたが
実際自分が限られた時間で不自然さを感じさせずにその流れに持ってくのってかなり大変なのにサラッとやってて敏腕〜(視聴者自分の心の中で心のキャッチャーミットを構えていたのもあるかもしれんが)ってなった
・オタクが歩けば米津に当たるはそれはそうだし米津以上の解釈バトル優勝者はいないのはわかるが当たりすぎて「カッコいいシーンにカッコいい曲がかかってキモティ〜〜」って気持ちより「米津さんチーーッス!」って気持ちのほうが強くて逆に作品没入感からスッと冷めたとこある しかし作り手さんからしたらそりゃ解像度200%曲をお出ししてくる米津さんに曲をお願いしたくなるよな…!でもタイアップ曲の多様性、欲しいな…!ってなった
多分そのうち楽曲提供になる
・公開日初日
一組だけ20代くらい?の男性ペアがいたけど喋り方が女オタクに近くて驚いた(「ありがてぇ〜!」とかそんなTwitter仕草) 若いオタクは性差なくそんな感じの男性喋り方なの?
・ポスターと予告の水色〜灰色の背景ビジュアルの美しさから「背景の美しさで魅せて欲しい〜〜 あと大予算神作画確定大画面でガンガン遠心力というか重さを伴った手足の動き・ぶん回しをするガンダム、絶対見栄えして観てて気持ちい確定」と思いBESTIAでみた
・今までスマホとかテレビの画面でガンダムの宇宙戦をみてもピンと来なかったけど「これが…画面の中の空間把握能力レベル100…!」ってなった
作り手、バケモンすぎ
・エンドクレジット、疎い自分ですら知ってるアニメーターの名前が連ってて「ガンダムレベルのレジェンド作品になると、神クリエイターの方から参加希望で集うんかな…」って妄想してた
・ここんとこロボット・ドリームズで脳を焼かれてたから出シャアで「あ〜〜!日本のロボットアニメはコレコレェ〜ッ!」って滋味を味わった
どっちが優れてるとかでなくアニメ表現の幅広すぎ感でもう胸熱だった
・トリリオンゲーム予告編の主人公2人が並んでお座りして相手に向き合うシーンで稲垣キャラクターあるある感を感じてすごいよかった
具体的には「AIイラストリポストした人ブロックするかも」って言ってるくらいにはAI嫌いそうな絵師がいた。でも唐突にAIイラストをリポストした。
しかもそのAIイラスト、背景見ると明らかにAI特有の細部が曖昧な感じがあるし、そもそもハッシュタグでAI明記してる絵だった。
背景やハッシュタグを見ずに反射的にリポストした可能性。これだったら残念すぎる。
細部を見ない雑な消費者によってAIがのさばる〜みたいな話よくあるじゃん?
それを反AIやってる当の本人が実証してしまってどうするのだ。まあ自分は反AIじゃないんで別にどうでもいいんだけど。
2.トラップ説
「AIイラストリポストした人ブロックするかも」って発言から考えたんだが、Xって自分が他人のポストをリポストした後、フォロワーとかがいいねすると通知が来るんよ。それを利用してAI肯定派のフォロワーを炙り出してブロックする魂胆だった説。
仮にそれだったら……うーん、違法とかではないし手段としては否定しないが、そうやって白黒あまりにもはっきりつけようとすると人間関係とかで色々損しそうとは思う……
というよりその人、元々社会生活に難がありそうというか、なんかこだわりが強いタイプだったんよなあ。過去あった創作企画でも、ルールの解釈の話になったときにやけに自分の意見を強く主張してたんだよな……
タイトル通りです、自分の感情の整理のために書きました。フェイク入れまくりです。
かれこれ2桁年くらいの付き合いの友達がいた。めっちゃ仲がいい訳ではなかったが、Twitterは繋がっていて今日も元気にオタクしてるな〜と思っていた、そんな日々だった。たまに会って近況報告したり、そんな感じ。
ここ最近で友達のTwitterの様子が変わった。平和なオタクアカウントだったのに、急にトランスジェンダーの話をRTするようになったのだ。ハリポタをボイコットしようとか、この人はトランスヘイターです、とか。それがいいか悪いかとかではなく、彼女の好きなものを彼女の言葉で語ってくれなくなったことが、私は一番悲しかった。この作品・作者はこういう問題に対してこういう立場だからダメ、とか、この人はヘイターだから関わらないようにしようとか。正しいか正しくないかを語るようになった。テンプレートのような言葉ばかり呟くようになった。賛同しない人を攻撃するようになった。その界隈で反応をもらうことに生き甲斐を感じているようだった。
正しい正しくないではなく、自分の好きな気持ちを大切にしていてほしかった。
明らかにリアルの関わりが希薄になって(人のことは言えないが)、代わりにSNSに傾倒しているのを感じるようになった。仕事とか色々上手くいかないストレスを、SNSで脚光を浴びることで発散してたのだろうか。
そんな中、老婆心ながら行き過ぎじゃないか..という趣旨の連絡をしてしまって、そこから議論に発展してしまって、私とは違う世界に行ってしまったことを思い知った。ヘイターだと言われた。言っている言葉の意味が全く分からなくて、その世界の聖書の言葉をそのまま述べているだけのようだった。
私もヒートアップしてしまった。好きな作品の私なりの解釈を伝えたら、その見方は間違っていると否定されたのだ。それが許せなかった。
そんな訳で絶縁状態になりました。友達が陰謀論者になった人ってこんな気持ちなのかな〜と思いました。
久々に彼女のアカウントを覗いたら、友人と切れてほっとしたというツイートがあって、それは恐らく私のことだろうな。
もしこの声がまた届くなら、お願いだからSNSから一度離れてみてください。もっと目の前の生活を大切にしてあげてください。そして、自分の言葉で語ってください。私のことはトランスヘイターだと思ってもらって全然構わないので、それでも、目を輝かせて好きなものを語っていた頃のあなたに、また会いたいのです。
(追記)
女オタクだけど我々は腐女子ではなかったです。ちょっと特殊な狭いジャンルにいました。
ヘイター認定されたことは全くショックじゃなくて(過去女装男にトイレで遭遇して怖い思いをしてから警戒するようになったので、その界隈からそう認定されるのは自然だと思ってます)、それよりも友達が自分の言葉で好きなものを語ってくれなくなったことに一番ショックを受けていたんだな、と改めて気付くことができました。
300年デンマークに支配され過去には独自文化を弾圧され今でも二流三流の扱いをされてきたと聞くと重なる部分があり、
2週間前は誰も話してなかった独立の機運が盛り上がっている…と聞くと沖縄もこの先分かったものではないと思う。
今は中国が横やりをいれているようだが、むしろアメリカとしても非核三原則やら憲法9条やらがあり活動家がやってくる現状は鬱陶しいだろうし、
いっそ台湾有事への対応として日本から切り離してアメリカの前線基地にしてしまいたいと思っていてもおかしくない。
そうなるとそれに対するカウンターとして今は絵空事の沖縄もとい琉球独立の議論が一気に盛り上がるシナリオもあるのかも。
あと北方領土についても安倍ちゃんが二島返還を提言していた過去や
千島列島に含まれるために日本は所有権を放棄しているという解釈から
認知スタイルとは、個々人が情報をどのように処理し、解釈し、世界をどのように理解するかという思考のフレームワークです。この枠組みが異なることで、同じ事象についても全く異なる解釈が生まれることがあります。
特定分野への強い集中力が、専門性を生む一方で、他者との共通理解が難しくなる場合があります。この場合、対話の困難さは「IQ」ではなく、興味や注意の向け方に起因します。
妄想的思考が、現実認識の共有を妨げるケースが示されているように、対話の困難さは客観的な現実を共有する土台の欠如にあると考えられます。
知識やIQの高さは必ずしも「正しい判断」や「効果的な対話」を保証しません。
この問題に対抗するには、メタ認知能力、つまり「自分の思考の仕方を客観視し、軌道修正する能力」が重要です。
異なる認知スタイルを持つ人々が対話を成功させるためには、共通の前提や目的を共有する必要があります。
認知的柔軟性とは、状況に応じて思考や行動を変える能力であり、対話を成功させるために不可欠です。
これらがあれば、異なる認知スタイルを持つ人々との対話もより建設的で有意義なものになります。
現代社会は高度な分業が機能しており、経営者や消費者は投資判断ができ、一般読者が科学読み物を楽しんでいます。
これらの事例は、知識量の差異だけでは対話の成否を説明できないことを示しています。認知スタイルの違いを理解し、調整する能力は特に重要です。
これらによって、個人間や集団間の溝を埋め、効果的なコミュニケーションを実現できます。
対話の成立には、単なる知識量やIQの高さではなく、認知スタイルの理解と調整能力が鍵となります。具体的には以下の点が重要です:
そう解釈したいんですね
認知の歪みとその指摘
発言例:
「トランプさんの就任前後でまた元に戻ってきそうな気がする。」
指摘:
市場の動きに対する単純な因果関係の結びつけは早計です。株価の変動要因は複数あり、短期的な下落を特定のイベントだけに帰属させるのはリスクがあります。また、「気がする」という感覚的な予測を投資判断に用いるのは危険です。歴史的なデータや市場の構造を分析し、多面的に理解することが重要です。
発言例:
「深いところまで統計見る人は少数派」
「大多数はチャートの乱高下を見て楽しんでる。」
指摘:
確かに個人投資家の多くは短期的な価格変動に基づいた行動を取る場合がありますが、市場には多くのプロフェッショナルな投資家や機関投資家も存在します。こうした参加者は、統計やファンダメンタル分析を駆使して戦略を立てています。自分以外の投資家を一括りにして「浅い」と見なすのは、誤った前提に基づいた市場観を形成する恐れがあります。
発言例:
「中長期的に言えば、下がる要素揃ってるわけです。」
指摘:
株式市場では「正論」や「下がる要素」の存在がそのまま株価の動きに反映されるわけではありません。市場は多くの情報を既に織り込んでおり、短期的な価格変動やトレンドは予測困難です。特定の情報を都合よく解釈し、それに基づいて投資を決定するのは偏った判断につながります。
発言例:
「自分で正論正論・違和感が世の中の意見になるまでは1年ぐらいかかる。」
「若い時はここに気づけてなかった。」
指摘:
洞察力や先見性を自負する姿勢はポジティブですが、過度に自分を「他者より早く気づける存在」と見なすと、過信につながる危険性があります。市場や社会は多様な要因が複雑に絡み合っているため、どれだけ優れた洞察力を持つ人でも予測には限界があります。冷静に自分の知識や経験の範囲を見直す必要があります。
発言例:
「世の中みんなバカなんだ、とか思ってたけど…違うんよ。」
指摘:
市場や社会を「気づける人」と「気づけない人」という二極構造で捉えるのは簡単ですが、現実はもっと多様です。「多数派になるには時間がかかる」という意見には一定の真理がありますが、異なる意見や視点を持つ人々がどのように相互作用して結論に至るのかを考慮することが必要です。
初心者が陥りがちな「単純な因果関係の結びつけ」や「自己過信」、また他者への過小評価が見られます。株式投資では、事実に基づき、柔軟かつ多角的に物事を考える姿勢が大切です。「違和感」や「正論」という個人の感覚に頼るのではなく、データ分析や幅広い視点からの判断を取り入れることで、より良い投資判断ができるでしょう。
筋肉トレーニングってのは原理的には「筋肥大を促進させるための、計画的な筋肉損傷」なわけじゃん?
そこを体と頭に覚えさせているかどうかで筋トレに対する感覚が全く変わると思う。
解像度で言えばファミコンレベルに対してのPS2ぐらい差がある状態。
「筋肉がダメージを受けている状態」をプラスとして捉えた上で、「回復不能なダメージ」は的確にマイナスとして認識するバランス感覚が筋トレの極意であり基礎であり奥義なわけじゃん。
筋トレに慣れてない人は「丁度いいぐらいのダメージ」に対して過剰にネガティブな反応をするからトレーニングが全然進まず、「苦しんでるのに結果が出ない」と悪循環に陥ってく。