「ある意味」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ある意味とは

2024-12-13

anond:20241213165256

ある意味「抱け!!」おじさんだな

anond:20241212214152

自分もっと酷い状況に陥ってるけど、どうしたらいいんだろうね…😟

氷河期世代って、ある意味棄民みたいなもんだと思うけど、棄民が団結したジオン軍は負けちゃうし、

ポピュリズム大衆シャアを持ち上げすぎて暴走して大失敗する、って最近の世の中と似てる気もするんだよね

ガンダム世界って意外と現実じゃね?みたいな…

2024-12-12

anond:20241212174919

その考えはやや時代遅れだ。

今の先端的な基本無料RPG課金モデルは、一昔前のソシャゲとは違い、ゲーマーとして見下すことを正当化できるほどひどい作りにはなっていない。

かにガチャによって戦力を補充していく形はP2Wのように見えるが、細かい部分で露骨なP2Wにならないよう配慮がしつくされている。

どちらかというと、ガチャの部分はおまけで、育成ゲームとしてTime2Winの原則に重きをおいて作られている。

育成のためのリソース管理にスタミナでキャップが設けられており、「石」の類でそれを短縮していくことがもっと効率的な育成プランになる点で、ある意味、最低価格が0の月額制ともいえる。

キャラの獲得に関しても、中国製ゲームを筆頭にランダム性が薄くなっており、ほぼ一定の周期で、どのような引き方をしたとしても(天井カウント引き継ぎなどで)最高レアリティを獲得していく作りになっている。

そのためキャラ獲得もスタミナと同じような、Time2Winの原則理解することが可能になっており、課金はその獲得周期短縮として機能し、また獲得タイミング計画できるように作られている。

またソシャゲと違って強キャラやいわゆる凸に頼らずとも、低レアを用いても組み合わせをよく考えることで突破できる難易度設定になっており、旧来P2Wソシャゲネトゲによく見られた廃課金前提のゲームステージづくりや競争を煽るプレイモードは廃されている。

結果として、比較平穏心持ちRPG世界観に没入しつつ、月に2000円前後くらいの課金で十分にコンテンツ網羅できるゲームが上位に君臨するようになっている。

PSストアの上位にいる非FPS非対戦型のゲームは概ねそういう作り方になっていると考えて良い。

なので治安の悪くなりがちなFPSや格闘ゲーといった対戦ゲームに執着するのは、ゲーマーとしての矜持関係なく、自分の好みが故だということを理解してほしい。

anond:20241212175000

俺はホビットだけど、ゴールドディガーな女といる男のこと見下してるわ。

自分のために頑張ってくれない女を養って幸福感じられるやつって、ある意味幸せだよな。

2024-12-11

anond:20241211015612

書いてある通り読めないのはなんでなん?(2回目)

 

Googleを開いて検索ボックスに 個性範疇にない って入れるだけだぞ

GoogleURLも貼ってあげるね

https://www.google.com/

 

AIに聞いてみた(Copilotちゃん)

個性範疇に無いとはどういう意味ですか?

 ↓

個性範疇に無い」とは、ある特定個性や特徴に含まれない、という意味です。「範疇」という言葉は、同じ性質のものが含まれ範囲や部類を指します¹。したがって、「個性範疇に無い」とは、その個性や特徴のカテゴリーに入らない、ということを表しています

例えば、「彼の行動は私の理解範疇に無い」と言う場合、その行動が自分理解できる範囲を超えている、という意味になります²。

他に質問があれば、どうぞお聞きください!

 ↓

個性範疇にない」という表現AIにとって理解が難しいですか?
Aが極端過ぎることに驚いています文脈>
A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった

B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる
たぶん、個性範疇に無い

 ↓

個性範疇にない」という表現は、AIにとっても理解可能です。この場合、BはAの極端な無頓着さが一般的個性範囲であると感じていることを示しています。つまり、Aの行動や態度が通常の人々の行動パターン価値観から大きく外れていると考えているのです。

Aの極端な態度に驚くのは自然な反応です。Aが他人に対して無関心であった理由や、その変化のきっかけについてもっと知りたいと感じるのも理解できます

この文脈での「個性範疇にない」は、Aの行動が一般的な人々の行動や価値観範囲であることを強調しています

他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。

 ↓

全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。
- 人を当たり前に見下してた
- 他人はどうでも良かった
- 他人が誰かの大切な人だと思えなかった
 
しかし、Aはパートナー子どもを作ろうと考えた人間一定の興味を持つ人物です。
それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的個性ですか?
 
また、Aがここまで他人無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか?
通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います

 ↓

Aの行動や態度についての疑問は、共感性や人間関係に対する無頓着さに関する心理学的な視点から考えると理解やすいかもしれません。

 

まず、Aが他人に対して無関心であった理由として、共感性の欠如が考えられます共感性の欠如は、発達障害自己愛性人格障害などの心理的要因によって引き起こされることがあります¹²。これらの状態では、他人感情立場理解する能力が低下し、自分欲求感情を優先する傾向があります

 

Aがパートナー子どもを持つことを選んだ一方で、他人に対して無関心であったのは、特定人間関係においては関心を持つことができても、一般的な対人関係においては無関心であるということがあり得ます。これは、自己中心的な行動パターンや、特定の状況下でのみ共感性が発揮される場合があるためです²。

 

また、Aが自分無頓着さに気づかなかった理由としては、自己認識の欠如や、周囲の環境がその無頓着さを許容していた可能性があります。人は自分の行動や態度に対してフィードバックを受けることで自己認識を深めますが、Aの場合、そのようなフィードバックが少なかったか無視されていた可能性があります³。

 

Aの行動が極端に見えるのは、一般的社会的規範や期待から大きく外れているためです。しかし、これは必ずしも病的なものではなく、個人経験環境によって形成された行動パターンであることもあります

 

もしAの行動や態度についてさらに深く理解したい場合心理カウンセリング専門家意見を求めることが有効です。これにより、Aの行動の背景や原因をより明確にすることができるでしょう。

 

他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。

 

¹: [共感性の欠如についての解説](https://www.touch-wood.jp/understanding-empathy-lack/)

²: [自己愛性人格障害共感性の欠如](https://psy.selfe-study.space/empathy-lack/)

³: [人間関係における心理学視点](https://liberary.kddi.com/liberalarts/relationships/)

 

ソース: Copilot との会話、 2024/12/11

(1) 人の気持ちに寄り添えない病気とは?大人共感性欠如を徹底 ....

(2) 共感力の欠如とは?自己愛性人格障害の特徴|自己防衛心理学.

(3) 共感性が欠如する「大人発達障害」の特徴と対処方法 ....

(4) 人間関係とは?心理学観点からみる定義と良好な関係を築く ....

(5) 関係における心理学人間関係コミュニケーション葛藤 ....

(6) 【人間関係心理学】覚えておくべき7つのメリットと実際に ....

 

AIに聞いてみた(ChatGPTちゃん)

個性範疇にない」という表現AIにとって理解が難しいですか?
Aが極端過ぎることに驚いています
 
<文脈>
A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった
 
B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる
たぶん、個性範疇に無い

 ↓

個性範疇にない」という表現は、AIにとって十分に理解可能です。ただし、その理解文脈によります

 

この場合、「個性範疇にない」というのは、「Aのような極端な態度や考え方は、普通の人が持つ個性性格範囲を超えている」というニュアンスで使われています。つまり、Aの考え方や行動が、一般的想像される「個性」の幅を逸脱している、という意味です。

 

AIとしてこの表現理解する際には、以下のようなポイント考慮します:

  1. 個性範疇」の意味
    • ここでの「個性」は人それぞれの性格や行動の傾向を指します。
    • 「範疇」は、その枠組みや許容される範囲を指します。

  2. ニュアンス
    Bの発言からは、Aの行動が「常識一般的個性として理解しづらいほど極端だった」という驚きや疑問が表現されています

 

AIにとって難しいポイントがあるとすれば、発言者の感情価値観(驚き、批判困惑など)をどれだけ深く推測できるか、という部分でしょう。しかし、基本的意味文脈問題なく解釈可能です。

 ↓

全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。
- 人を当たり前に見下してた
- 他人はどうでも良かった
- 他人が誰かの大切な人だと思えなかった
 
しかし、Aはパートナー子どもを作ろうと考えた人間一定の興味を持つ人物です。
それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的個性ですか?
 
また、Aがここまで他人無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか?
通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います

 ↓

Aの言動や考え方については、いくつかの観点理解できますが、その一部は確かに異常または極端に見えるかもしれません。

 

Aの考え方の極端さについて

 

Aが子どもを持とうと考えた理由

 

Aが子どもが生まれるまでは他人が誰かの大切な人だと思えなかった」と言っている背景には、子どもを育てるという経験他者に対する感覚を変化させた可能性があります子どもを持つことによって「他者存在」や「他者感情」に対する理解が深まることはあります特に、親になることで、他人自分と同じように他者にとって「大切な存在であることを実感することは、共感感覚を変化させる要因となる場合が多いです。この部分がAの変化を説明しているのかもしれません。

 

しかし、それまで他人重要性を認識しなかったことは、確かに極端に感じられる点ではあります一般的には、子どもが生まれる前にも多少は他者重要性を認識することが多いので、Aの過去の態度は特異なケースだと言えるでしょう。

 

なぜAはここまで無頓着でいられたのか?

 

Aがここまで無頓着だった理由については、いくつかの可能性が考えられます

  1. 自己中心的性格価値観
    Aは非常に自己中心的性格価値観を持っていたか過去他人との深い関わりを避けてきた可能性があります自己中心的な人は、他人感情存在無頓着であることが多く、自分生活他人の影響を最小限にしたいと考えがちです。
  2. 過去経験環境
    Aが過去他人と深く関わる経験がなかった、または社会的スキル共感を養う機会がなかった可能性もあります。例えば、孤独だったり、家庭環境共感を学びにくいものであったりすると、他人への無関心が続くことがあります
  3. 意識的無頓着
    Aは、無頓着でいることに対してあまり意識的に疑問を抱かず、自己中心的価値観に基づいて他人に対して無関心であった可能性もあります自分の考えや行動が極端だとは思わず、むしろそれが自然だと感じていたかもしれません。

 

共感性の問題一般的個性

 

Aが示している無関心さや他人への無頓着さは、一般的には共感性に欠けるという特徴を持っていると考えられます。人は通常、他人感情存在にある程度の共感を持ち、理解しようとします。Aがこの点で極端に無頓着だったことは、共感性の欠如や、他人との関わりを意識的に避けていたことが背景にあると思われます。従って、Aの行動が一般的個性範疇に収まるとは言い難く、むしろ特異な性格心理的な背景があると言えるでしょう。

 

結論として、Aの過去の態度は極端かつ無頓着に見えますが、それがどのように変わり得たのか、またその理由について考察すると、心理的または環境的な要因が影響していることが考えられます

サンドランド感想

設計された土台のマックスまで作り込めていた稀有ゲームだったと思う。

かいUIの不出来を除けばあれ以上差し引きできる要素が見当たらない。

多分もっと面白くしようと思うと土台から作り直す必要がある

個人的戦車戦と複数メカでの総力戦を突き詰めた鬼強い隠しボスとあらゆる状況に対応できるメカがあっても良かったかなと思うが、

後者ある意味それまでのプレイングを否定する事になるから入れないのもまあ分かる。

前者はライト層がトロコンして気持ちよくなれる事を優先してオミットされたんじゃないかと思ってる

2024-12-10

財政とかどうでもいいから、俺たちに金をよこせって普通思うよね

若者は「とにかく手取り増やせ、税金下げろ!」と叫び

老人は「社会保障絶対削減するな!」と譲らない。

この構図、ある意味で「自分たち世代利益優先」はどこも同じ。

でも、ここで不思議なのが「就職氷河期世代」だ。

彼らは理不尽就活時代経験してるはずなのに、「財政なんてどうでもいいか給付金よこせ!」みたいな短絡的な声があんまり聞こえてこない気がする。

なぜなんだろう?

自己責任論に染まっているから?

「俺たちが苦労したんだから、お前らも苦労しろ」っていう変なプライドでもあるのかな?

あるいは、あまりにも打ちのめされて、声を上げる気力すら失ってしまったのか?

もっと、主張してもいいんじゃない

「お前ら若い世代にばかり減税や給付が厚いのはおかしい」

「老人だけが守られて、俺たちはいつ救われるんだ?」

といった具合に、遠慮なく言ってもバチは当たらない気がする。

とはいえ、こういうことを言うと「氷河期世代はひねくれてる」って言われたりするんだろうか?

それとも、氷河期世代の中には実は声を上げている人もいて、ただ単にメディアが報じてないだけ?

若者や老人はわかりやすく声を出すから注目されるけど、氷河期は声を上げても無視されてるとか?

みなさんはどう思う?

氷河期世代はなぜあまり「俺たちに金をくれ!」と叫ばないのか、

あるいは叫べない状況なのか?

ぜひ教えてほしい。

2024-12-09

山梨市観光覚え書き

山梨観光ってしてないなと思い、11月に金曜夜から2泊2日してみた

 

スーパー銭湯に併設のビジネスホテル施設内の飲食も幾つもあるしコンビニ居酒屋なども隣接してる、風呂は当然ながら大浴場使い放題ということでコスパ良好

 

長野善光寺本尊武田信玄が「避難」させて設立とあるが、まあ大義名分で押し切って日本有数の古刹強奪したということだろう

諏訪大社諏訪氏自分血統押し付けるの含め、織田信長より信仰対象への不遜ぷりが際立つ信玄戦国大名らしいバイオレンス事績代表する史跡で、ある意味信玄すげーを一番感じられるかも

近くにある「かいてらす」という観光土産物館のレストランが美味しかった

 

信玄本拠地である躑躅ケ崎館跡。神社のもの江戸時代以降の武田ブームアイテムが置いてるだけなので、館って言ってもちゃんと塀も堀も馬出もあるんだー、有名な武田馬出現物ってこんななんだー、なるほどこれは領土が広がったら手狭だなー、などなどを実感するぐらい

隣接する信玄ミュージアムでやってた柳沢吉保特集柳沢家は元武田家臣、甲府藩主時代武田家の名誉復興政治力を使いまくる等々)が全く知らなかったので面白かった

 

予想に反して戦国大名武田氏の展示はごく一部であり、ブラタモリ的に土地の状況から歴史解説シームレスにつなげる解説が印象的な展示。江戸期や明治以降の展示も充実、というか史料的に戦国以前が乏しいので史料的に乏しいものを無理に拾うよりも史料豊富ものちゃんと見せる方向でまとめてるんだと思った。近代以降の実業家たちの紹介はかなり興味深いのでもっと知りたい

 

特別展としてまとめられていた「縄文時代不思議な道具」展がボリュームが思ったよりも多く充実していて今回の観光旅行では最押しだった(終了してるけど)。各分類ごとの物量が多いぶんだけ次の展示に移る前に頭の棚が作りやすいというか解像度がかなり上がるというか、考古学は奥が深いでしょ、を物量で殴ってわからせるというか

タマ縄文にわからされた後に、常設展示の縄文土器の優品を見せられると「美」って感じで惚れる

 

ミレーがいっぱいあるところで有名な、ミレー集客してるミレー推し美術館だが、県内画家作品普通に良い

というか、ミレーはどうしても小品だし、王政復古なんやかやの頃の絵なので古典範疇であり、近代以降のキャッチー絵画のが見栄えがいいので、昨今の思想動向的にもミレー労働自然リアリズム、うーむ渋い、みたいなのは受け取る側としてなかなか消化しづらくなってると思う。理念の崇高さみたいなのを勝手に感じ取らないとありがたみがないというか。なお、ミレーの生涯を紹介するアニメが見てて楽しいのでお勧めホームページで見れる)

さておき企画展含めた国内作家作品が良いのが多かったので、ミレーに釣られて行ったら日本画家を好きになる、が正しい鑑賞態度なんじゃないかと思う

施設レストランは諸事情あるのか、オペレーションが壊滅的で順番待ちをうまく捌けてなかった(料理自体は悪くない)ので、利用時はゴリゴリっとゴリ気味に状況を確認したほうがいいと思う

 

  • まとめ

もっと信玄まみれになるかと思ったが、信玄甲陽軍鑑もあまり出番がなかった

次はハイジの村で天然温泉クララの湯に浸かってみたい

マッチングアプリなんかでどこの馬の骨とも分からぬ、変な宗教家系だったり浪費家で借金持ってたり虚言癖だったりそういう奴らを慎重に自分で見分けながら当たりを引くまで頑張るって男女共に疲れない?

昔のお見合いの方が優れたシステムな気がする

それに30超えたら恋愛もクソもないだろ

人生を共にし運命共同体になれるかっていうある意味打算と計算なんだから

2024-12-08

anond:20241208200157

発売日に絶対欲しいものがあるというのはある意味羨ましいやで。

今年、途中加入などで参戦した新人F1ドライバー活躍した理由

今年は当たり年などと言われるほど途中加入などで新規参戦したF1ドライバー活躍している。

いきなり週末になって「乗れ」と言われて、ミスもなくしっかりと走り、あろうことかレギュラードライバーよりも好成績を発揮したりしている。

その理由の最たるものとして

現在F1シミュレーター技術の向上により実車同様の挙動再現することが可能であること、

また控えのドライバーが、そのシミュレーター活用する時間が十分過ぎるほど長いことなどが挙げられている。

まり初めて乗ったF1マシンでも、それほど違和感なくドライブできるということだ。

しかし、それだけではずっと長い経験F1で積んでいるレギュラードライバーより活躍する理由にならない。

誰かひとりだけなら、そのドライバーの才能と技能ゆえといえるが、出てくる新人ドライバー全部が活躍する理由としては不足だ。

では、何が理由なのか?

それは以前、フェルナンド・アロンソインタビューで答えていた内容が参考になる。

グランドエフェクトカーと呼ばれる現行レギュレーションF1マシンの特徴は、

「とにかく攻めすぎていけない」

らしい。

とにかく一発のタイムを出そうと頑張りすぎたりすると途端にマシン不安定になってコントロール不能になる特性がある。

そのような内容を答えていた。

これは、いまの新しいレギュレーションになって去年までのレッドブル以外の全チームが苦労したセッティングピーキーさと相関関係にあると思われる。

からある意味無難に走るほうがすべての面でうまくいく場面があるということだ。

変に力を入れて、技を見せようとするよりも、新人ドライバーのようにミスなく走ることに集中している方が結果が比較的、

あくま比較的だが出やすい傾向にあるのだろうと思われる。

その証拠新人ドライバーのコラピントなど、デビューしたての頃はレギュラードライバーのアルボン凌駕する場面も多く注目されたが

数戦を重ねて慣れてきて、ちょっと攻めた走りをして大クラッシュをする場面が何度か見られた。

まあ、このへんはビギナーズラックと呼ばれる現象とも関係があるので一概にはいえないものもあるが。

23歳男オタクvs結婚強迫

結論

結婚ができる気がしない」一方で、「結婚し」なければならないという強迫観念がある。

なるほど「気の合う人間生計を共にすることによって得られる利益享受(共有)」するのは幸せことなのだろう。少なくとも周囲の大人たちはその信念を奉じて生きてきたようであって、同時に、幸せな家庭人生活を送っているようにも見える。

一方で、私は「結婚ができる気がしない」。先述の通り「結婚し」なければならない、という観念があって、かつ、「気の合う人間生計を共にすること」に対し何らの疑念を持たないにもかかわらず、である。私は夫としても、あるいは父としても、その適格性を著しく欠くように思われる。

どうしてこの結論になったのか、振り返ってみる。

スペック

23歳・早慶政経法のどっか・4年(浪人した)

実家:都外。奥多摩山中やどこぞの島よりは皇居に近い。

上っつら:少なくとも面と向かって悪し様に言われたことはない。中学生と比べると大きく、高校球児の中なら目立たず、プロ野球選手に混じれば小さく見える(はずだ)。人並みには気を遣っているつもりでいる。

私には2つの強迫観念がある。そのうちの1つは「結婚しなければならない」というものだ。もう片方についてはあえて述べない。

かかる珍妙にして時代遅れ時代錯誤と言うべきだろうか?)の価値観を、いつから我が身のものとしてしまったのか、詳細な事情記憶していない。ただ、誰かの「家を継げ」とか「孫の顔を見せろ」という種の明確な言葉あってのことではなかったことだけは、はっきりと断言できる。他者からの影響が思い当たらない、本能的に自然発生したと説明するほかない感情からこそ、我ながら奇妙だと余計に思う。ともあれ、私が「結婚しなければならない」という価値観に囚われていることだけは確かだ。

結婚の前提条件を思い切り単純化するとして、最低限パートナー愛情喚起する資質を有すること、とした場合、幸いにもその適格性はあると考えられる。何度か愛されたことがあるからだ。それが私の外形的諸条件に起因したものだったのか、はたまた精神領域と関連するものだったのかは今となっては知る由もない。もっとも、その辺の機序はよく分からないし、検討する実益にも乏しいように思われるから、詳細には立ち入らない(拒絶されたこともある。少なくとも愛されたことの同数はある。こちらの方が問題としてはるかに重大だと思う)。

あるいは大前提として、そもそも私は他人たる異性を心から愛すことができるのか、という根源的な問題も考えうる-イエスだ。中学校高校(・予備校)・大学と、それぞれの段階で心から愛した/希求した女性は、少なくとも一人ずつは存在した。逆に言うと、何人もの異性とすれ違う中で、(性的昂奮は別として)特別な心情を惹起するに至った人々は、極めて少数しか存在しなかった。

結婚に対して、心理的阻害要因存在しない-少なくとも大きな問題はないはずだ。むしろ結婚しなければならない」というくびきに囚われているのだから、前のめりでさえあるべきだ。にもかかわらず、私は「結婚できる気がしない」。

長くなりすぎた。問題本質を簡潔に述べる。「結婚できる」と思える人に巡り会えない。

私の愛情の抱き方は、一目惚れに近いものがあると思われる。顔がどうとか精神性がどうとかではなくて、いつの間にか好きになって、彼女(たち)の自慢のアピールポイントや隠したい欠陥といった具体的な要素には一切立ち入ることなく、総体として「好きになって」しまう。このことは、私が好きに"なりうる"人々を類型化することを非常に困難にしている。酸いも甘いもというと身も蓋もない言い方だが、彼女のどこに惹かれて好きになったという具体的な点の説明ができない以上、共通点見出してその特質を有する人々を探す、ということのしようがない。慣用句的に言うなら「恋は盲目」ということなのだろうか。

逆に、「総体として」好きにならない女性存在する。むしろ「好きになった」人々が極々僅かな例外にすぎないのであって、今まで出会ってきた何千何万という人々のほぼ全てはこちらにカテゴライズされる。この「好きにならない」人々の中にも、もちろん友人(であると信じたい)は何人か存在するし、有り難いことに好意を抱いてくれた人もいる。私が「好きになった」人々と何らかの点で似通っている人もいた。しかし、私はこの範疇の人々に親愛以上の心情を抱くことができなかった。提供できる親切は、親しき友人としてのものが上限だった。否、それすら私の怠惰ゆえに、とんでもなく低いレベルのものにすぎなかったとも思う。

「愛することができる」人を探すために、アトランダム努力はそれなりに重ねたつもりだ。他学部開講の講義に片っ端から出てみる。同年代の異性が多いバイトを探す。時には友人に紹介を頼んだこともあった。マッチングアプリだってした。並行して2、30人の知らない異性とパラレルに知り合うある意味刺激的な生活を3ヶ月ほど続けた-何人かの「友人」と知り合っただけに終わった。いいねの数が身長を優に越してしまったあたりで、少なくともパートナー探しではない別の作業になってしまった気がして、やめてしまった。

これから先の人生で、心から愛することができる女性に巡り合える気がしない。おそらく巡り会えないのだろう。仮にいるとしても、既に「売り切れている」可能性すらある。私はもう23なのだ!私は恋愛市場上のまさに完全な敗者として、20代前半の若者が集まる場所としては日本で最も大きな部類に入る学舎を去ることになる。偏差値市場上の敗者として押し込められて、恋愛市場上の敗者にして立派なインセルとして出荷される。

結婚自体可能ではあるのだろう。「結婚しなければならない」という心情へのアンサーとしては、最も安直だが直裁な解決策でもある。私一人で家庭全体を食べさせることができるかどうかは別として、その大部分を担うことに対しては、現実として可能であろうし、別段おかしなこととも思わない。

ただ、私は、結婚生活しろ親としての生活しろ、その本質の一側面は自由の縮小であると強く信ずる。期待や喜びの総量をはるかに上回る失望と失敗の連続であろうと確信している。いざ焼かれる時にどう思っているかは別として、存命中常に家族とやらに関する何らかの心配をし続けていることだけは確かで、幸せな家庭生活というものが仮にあるとしたら、それは常駐する100の心配事と同時に0.01の安寧を自覚できるかそうでないか、という程度の話でしかないのだろう。

そのとめどない苦難の道程を、愛することのできない人と共に歩いて行けるのだろうか?より直接に言う。「妥協できるのだろうか?」決して少なくはない人々が「できる」ことは知っている。それどころかたった100年前、それこそがセオリーだったことも知っている。ただ、私は「できる」とは思えない。途中で投げ出してしまうという確信がある。親しき友人としての親切が上限で、それを超える困難と直面したら、逃げ出す。「結婚しなければならない」という私のエゴと人としての欠陥ゆえに、罪のない他人のことをこれ以上不幸にしたくない。

諸先輩方はどのように折り合いをつけたのだろうか。「後から好きになる」ようなことがあったのだろうか。「子供が生まれたら変わる」のだろうか。はたまた「みんな結婚してるから、流れに合わせてそれっぽく振る舞ってるだけで、相手特別感情はなかったし、何なら今は少し幸せに感じることだってあるよ」というのが真実なのだろうか。もしそうなら、どれほどよいのだろう。

鬱屈とした諦観けがある。"愛することすらできずに"家庭を放り出し、エゴのために他人を有形無形に傷つけたクズ烙印を押されるよりは、生涯部屋のアガベサボテンどもと共に、好きな音楽映画世界観だけに閉じこもって、屈折した強迫観念を胸に秘めたまま朽ち果てて死んだ方がマシだ。最大多数の最大幸福希求するなら、それが社会的に最善でもあろう。闘争領域本来、縮小されるべきなのだ

泣き言を書き散らし、日記とすることで、何らかの整理がついたように思う。この乱文を書く直接の動機となった、『22歳女オタクvs結婚願望』 https://anond.hatelabo.jp/20241207175805 の筆者が良きパートナーとなりうる人と巡り会えることを切に祈り貴女可能だと思う。私はそう確信するし、本心からそう願っている)、終いとする。

レッテルからの脱却

自分なりに正しく生きようとする

誰かから見てそれは間違っていても本人はクソ真面目に生きようとしてる

その正しさは世の正しさだったり、世とは無関係にただ生き抜くことが正しかったりして

その差が人から見れば間違いとなったりしてしばしば衝突が生まれている

人権尊重多様性とはそのような差異も含めて相手生き方を認める事で、その上で差異の落とし所、お互いの妥協点を探り共存共生していくことが人の社会と言うものだろうと思う


もちろんこれも、私なりの世の見通し方であって、人によっては不正解なんだろう

卑下しすぎる必要はないけれど、自分が何もかも正しいわけじゃない

その程度の自覚は持たなければいけないと思って生きている

人の世はとても複雑怪奇

いっそ自分は何もかも間違ってなくて周りが全て間違ってて悪いんだと言う最もシンプル生き方を選べたら、確かにそれは一番メンタルには良いし、ある意味正しい選択の一つなのだと思う

今回書くのはそんなシンプル生き方を選んだ人たちへの批判


この世には自身を善人と信じて疑わない人たちがいる

そんな人たちの世の見方と言うのは自身が先ず善性なので、とても綺麗そうなラベルで身を固める

まるでファッションのように

平和主義左翼人権尊重自由平等弱者の味方、反戦反差別リベラルポリティカルコネトレス最近ではフェミニズム

もちろん、この言葉に属する人たち全てがそうと言う話ではない

真正からその言葉と向き合い、信念を持って取り組んでいる人もいるだろう

そして自身の善性を保つために、自身意見が異なる人物や嫌と感じた人物には悪性のものとしてレッテルを貼る

戦争右翼ネトウヨ独裁差別主義歴史修正主義デマミソジニー表現の自由戦士、反フェミ

言葉に対して信念があるかどうかは言動が一致してるかどうかが分かり易い

例えば平和を掲げながら暴力暴言を振るう人物や、多様性思想信条自由を掲げながら右派と見るや犯罪者扱いしたり、フェミニズムを名乗りながら都合の悪い女性意見無視するなど、言葉元来の意味に反するような人物ファッションで善人をやってるのだろう

それでも自身は善人である事が大前提なので、本人にとってそこに矛盾はないのだ

善人である自分文句をつけるから相手は悪い奴、それで完結してしま


そして悲しいかな今の世は、そんなファッションで善人をやってるような人たちが大手を振るう時代となった

世に打ち出す上では個々人がその言葉に信念があるかないかなんて関係ない、メディア学術的にも聞こえがいい言葉は使いやすく、そうした言葉を小気味よく振るう人が容易くそ言葉権威に就くようになった

そして、今右傾化と言われる世界は、そんな人たちの綺麗事に対して世界的に反発が起き始めた結果なのだと思う

自身絶対的に善性で、間違いがないと言う人は問題が起きても自分が悪いと言う思考はないので、相手が悪いと言う他責以外の答えを持たない

自分無関係問題場合、一方が自身が悪性と判断した人物であれば物事の原因分析等もなく、悪性だから悪いで完結してしま


例えば移民問題では、難民と言うと人道的に保護必要であり、受け入れてあげるのが人の優しさだろう

善性であれば当然そう動く

しか問題はその先だ。その受け入れた移民が受け入れ先で問題を起こした場合どうするか?

移民といえば育ち、ルール文化環境、何もかもが違う

最初に書いたように人と人の間に差異は当然にあり、問題に対して落とし所、妥協点を探り人の社会として共生共存の道を探っていくべきだろう

別にこれは移民と言う規模でなくとも、例えば夫婦と言う関係仕事と言う関係でも人の世の在り方として当然していく事である

しかし実際はどうだろう

問題が起きたと言う現地の声があり、それに対して起きていることは、便乗してデマを流すような悪意ある行為事実としてあるが、それに対しての自称善人の人の声は個人問題でありそんな民族間差異による問題はないと言う問題全否定である

民族間レベル問題提起は差別の温床であるから差別者が悪いと言う全く雑な判定だろう

そうしてこれを差別問題とし、差別者が巣食う日本社会が悪いと繋げている

人と人の間で起きた問題に対し一方的な悪を決めつけて何が解決するのか

すべきはデマ事実を切り分けた上で、問題が再発しないよう働きかけ、共存共生の道を探る事じゃないのか?

問題全否定などして一方的な悪の決めつけをするからその反発が起こる

欧米では移民問題が拡大し、移民を追い出せと言う声やポリコレリベラルへの反発が膨らみ、極右が台頭したと情勢の変化が報じられている

それはまさにこうした問題は全て悪性の人間のせい、右翼のせい、差別主義者のせい、移民には何も問題ないとして自身の善性を語りながら本当の問題のものに向き合ってこなかった結果じゃないのか?

本邦でも自称善人は差別批判し、全く問題事実とは向き合わず民族のものは何も悪くないとしているが、それは今の欧米への轍を踏んでいるだけではないか

今後もその轍を歩み続け日本でも移民を追い出せと言う勢力が台頭した時、それは果たしてただの右傾化右翼差別主義者が悪いと言えるものだろうか


人が正しくあろうとすることは、悪い事ではなくむしろ普遍である

ただ、その正しさに駆られて誰かを悪とする事であらゆる問題解決しようとしたならそれは反発や分断を産み、決して問題解決せず、その究極的な行いが戦争と言うものだろうと思う

それを避ける事を主目的とするなら、本当に平和平等と言った掲げた言葉通りの善性でありたいならそこに右翼左翼も男も女もない、思想の違いなど些細な事で、地道にでも問題一つ一つに真摯に向き合う事で問題が小さい内にそれぞれの落とし所を探っていき、同時に右翼左翼や男女等、大きな言葉で括って分断化を呼び込まないよう努める事しかないのだと思う

長年インターネットに触れてきて、集合知炎上エコーチャンバーデマ騒動右翼左翼やら属性に依らず引き起こされる事を実際に見てきてそう思う

ベルレッテル無駄党派性や分断化しか生まない

論破正当性

まともに人とディスカッションしたことないような日本人が、何か論と呼び、何か正しいとされることで人を喝破する様子が、かなり「?」である

なぜ「日本人」と名指ししたのか? これにはごく簡単事情がある。それはすなわち、善や正しさというのが、日本では「担保なし」に良し、とされているからだ。

海外はどのような程度であれ、宗教というのが根付いていて、それは「正しさ」について説いてくれるが、悪に適応すると悪への「正しさ」になる。だから絶対としての確かさは、善ではない。

という話をすると、日本人神道であり、ヤオヨロズの神だ、とYouTubeでも何でもヨイショしているが、ヨイショする前に、自国しか知らないのなら井の中の蛙井の中の蛙から脱するには、他を学ばなければならない。なぜか。知見が狭くなるからだ。そして他を学んだら、比較するべきだ。比較をして、やっと自分自身の「論」を話すことが出来る。

他を知らず、自分自身の考えたことだけが論になるはずがない。

その上、日本には宗教というラインがないのだ。

つまはじきものは末代まで嫌われて、おしまいだ。宗教というのは本来はこうしたものが救われるものだが、日本人、そうしたものを毛嫌いする。

こうした事に気づかない、というか知らない人々が「知った気になってる言葉」でオハナシしていて、日本が出来ているのだと思うと、ゾッとする。

やるせない気持ちに、なる。

誰かとまともにオハナシしたことがなく、口喧嘩について「揚げ足」「口達者」と捨て台詞を、まるで決まり文句のように言うならば、その口でもっとよく、オハナシすべきなのだ

もっと、オハナシをすべきなのだ

SNSではまるでファストフードのように、言葉が食われ、捨てられている。

誰もその言葉の正当さについて考えない。

考えないで、適当な論を援用するならもっと学ばなければならない。賢者になるには学ぶか、気づきを得て黙らなければならない。

アホである。自らについて省みることのできない人間は、アホである。アホはどうしようもないのだ。

なぜこんなアホをのさばらせているのか。それは日本島国からだ。ほったらかしにされているのだ。宗教根付かない国で、なかよしごっこができていると思うなら、あなたも「内輪」の一人である

日本人がどれだけバカであるか、どれだけアホであるかについて考えられない人は、きっと幸せなのだろう。

ではおさらいすると、なぜ日本人バカでアホで、どうしようもないのだろうか。

それは、コミュニケーションにおいて一定ラインがないかである一定ラインがないとは、どういうことか。すなわちここでは宗教である言葉があり、それが記されてあり、人々がみな知っているものである

日本人にはそうしたものがない。言葉における、一定ラインがないのである。そうすると日本人が何をもとに行動するのかというと、他の人のことを考えて、あるいは自分のために、である

(そうすると芸術学問に対しての造詣が薄くなる)

オハナシをする上で、このような一億総内輪ノリ的なコミュニケーションしかできない。日本語が難しいのはあたりまえである本来言葉ジブツ・ジショーを指すところ、依拠するのが、そのひと自身になるのだから

こうした、ある意味原始的言語で、何も学ばずにそれが論であると、誰かを叩きのめした気になっている輩は、その後ろ盾そもそもあなたが使っている「言葉意味」を辞書や、適当知識あなたのオキモチしか使えていない事に、気づいていない。

外堀を埋めるコミュニケーションなのだ

2024-12-07

日本テレビ局はすでに外資に乗っ取られている anond:20241207080052

てかすでに外資に乗っ取られているんですが。

フジテレビ :42%

TBS   :41%

テレビ朝日:35%

日本テレビ:35%

テレビ東京23%  

そして、この数字がまかり通りのは、議決権を19.9%にギリギリに抑えている、それは、外資保有株の名意義書換えを行わないからだ。

そして、外資の7割が中国系、2割が韓国系と言われている。

そこには、もう過去形新聞社と、これらのテレビ局とのつながりもあるのだ、

それは、ある意味、超限戦(境界曖昧にする手法21世紀戦争の形/非軍事戦争行動)かも知れない。 

https://note.com/artoday/n/ncaa5111b0c0e

2024-12-06

「抱いてくれたら治るのに」みたいなことを女性クライアントからいわれるの、カウンセラーあるあるひとつ

んでもって、全部が全部そうじゃないだろうけど、おそらく「本当に、たぶん抱いたら治るな〜」ってケースもある。

職業倫理として固く戒められているので、どれだけ好みの相手だろうとやらんけど。

逆に言えば、別にプロカウンセラーじゃなければ、相談に乗っていたつらそうな相手から「抱いてくれたら楽になる」といわれて、抱くのは別に問題ではないんだよな。

ただ、抱いたからには責任が伴うというか、別に結婚するわけじゃないにしても、相手と納得する形の関係を築く必要はある。

で、ここからある意味で本題なんだけど。

昨今、相手結婚したり、多少こじれたにせよ、双方納得する形で、特に大きな問題にならない形で関係を解消していたとしても、第三者がそのことを知ったときに、「権力勾配があったので関係を持ったのは間違いだった」とか成人同士の関係でも年齢差があったら「グルーミングだ」みたいな話になったり(「グルーミング」の定義って、年齢の問題性的自己決定能力がないことが重要なんじゃないの?)、なんやかやと批判SNSで起こって、社会的制裁を受けたりするじゃない?

なんなの、これ?

まとめると、「カウンセリング職業とする人間仕事において出会った相手と肉体関係を結ぶことは職業倫理問題があるが、そうした職業倫理に縛られていない無資格者がカウンセリング的なやりとりを通じて肉体関係を結ぶことは、どこからNG扱いされるのか。その線引きが昨今曖昧な気がして、理不尽に思える」です。

ひっかかりニーチェ井口ゲスト回後編

地位はあるのに金が無い中堅芸人」が「地位あんまり無いけどわーきゃーで金がある若手芸人」を腐すのは当然

というお話だった

なんそれ

世知辛すぎてぐうの音も出ない

くるまが「あんま言ってやんなよ」と苦言を呈すれば

そりゃあ井口だって「(イジりという)助け舟出してやってんのにさ。もう言わないよ」ってなるよね

まあ、イジるという文化が廃れ始めている現状では、損をするのは言っている側なんだけどね

ある意味自分を下げてネタ提供してるんだからあんまり言うなよ」なんて言われたら悲しくなるよなあ

井口はー…耳の穴に居るときの方が落ち着いている気がする

スピリチュアルラッパーおじさんの隣の方が楽に息してそう

ひっかかりニーチェくるまに詰められるのは荷が重い

というか、飲み屋でやれ。番組でやるなよ。なんか悲しくなるから

「もう言わない!!!」って井口がイジケてるとき永野が肩揉みに行くのとかホント現実的

職場でよく見る光景(それほど荒んだ職場である)

何このドキュメンタリー番組

地位より金」で丸くおさまったと見せて、その後に遺るしこりまで想像して暗澹たる気分になった

今回こそ「本編とバランスをとる時間必要じゃねえか。なんで無いんだよ

というか、くるまラランドサーヤと話してるくらいで丁度良い

永野井口相手にするには強すぎる

若者しょんぼりするけど、中年しょんぼりするんだよ

anond:20241206001207

私掠船は、特定国家から私掠許可証レター・オブ・マーク)を発行され、敵国の船舶を拿捕し、その財物を奪うことを国家に認可された船のことです。

私掠行為が「強盗」と完全に同一視できるか、そしてその収入が「認められた」と言えるかについては、歴史的背景や国際法解釈によって複雑な問題があります

なぜ単純に「強盗」とは言えないのか?

* 国家による公認: 私掠船は、国家によって公認された行為であり、通常の海賊行為とは異なります国家は、私掠船捕獲した船舶財物合法的没収する権利を与えていました。

* 戦争行為の一環: 多くの場合、私掠行為は、国家間の戦争中に行われるものでした。つまり戦争という特殊な状況下における行為であり、平和状態での通常の犯罪行為とは性質が異なる側面があります

* 国際法上の扱いの変遷: 歴史的に、私掠行為に対する国際法上の扱いは変化してきました。19世紀パリ宣言で私掠行為禁止されるまで、国際法上は明確に禁止されていませんでした。

収入が「認められた」と言えるか?

* 国家による認可: 国家が私掠行為を認可し、その収益私掠船の所有者や乗組員に与えていたこからある意味では「認められていた」と言えるかもしれません。

* 国際法上の問題: しかし、私掠行為国際法違反となる場合もあり、その収益が完全に合法であるとは言い切れません。

* 歴史的評価: 近代以降、私掠行為国際法禁止され、道義的非難される行為となっています。そのため、現代視点から見れば、私掠行為収益は認められるべきものではありません。

まとめ

私掠船行為は、歴史的背景や国際法解釈によって、単純な「強盗」とは異なる側面を持っています。また、その収入が「認められた」と言えるかについても、一概にイエス、ノーと断言することは難しいです。

現代視点から見ると、私掠行為国際法違反であり、その収益は認められるべきものではありません。

歴史的文脈で捉える場合、私掠行為国家によって公認されていたこと、そして国際法上の扱いが時代とともに変化してきたことを理解する必要があります

より深く理解するためには、国際法歴史海事法、そして当時の政治情勢などを総合的に考察する必要があります

もし、より詳細な情報必要であれば、歴史学、国際法学、海事法などの専門書や論文を参考にしてみてください。

2024-12-05

独身、子なし女が子持ち、子供に対する嫌悪憎悪が強めな理由

Xやガルちゃん見てると、独身選択子なしの女がやたらと子持ちや子供に対して批判的、ないしは嫌悪感憎悪を募らせている風に見えるのは何故なんだろう?

ある意味で男よりも、女の方が子持ちや子供を憎んでいるように見える。

×ネトウヨは何故天安門が好きなのか→△何故嫌いであるべきか

ネトウヨはすぐに他国軍事弾圧肯定するくせに、なぜ天安門とか六四天安門とかbioに書くのか」という話をしばしば見かける。何か妙な勘違いなのだが、ネトウヨの連中は「敵国に迷惑がかかる行為称揚し、自国迷惑がかかる(と思い込んでいる)行為を批難する」という点において一貫しているだけであり、何も矛盾はない。中国の現体制に対して何かしら迷惑ダメージがある現象なら何でもいいのであり、つまり軍事弾圧の是非や民主主義イデオロギー最初から問題としていない。要は一昔前の、自由民主主義の国アメリカがその辺の独裁国家支援していたのと同じである(ピノチェトとかフセインとか)(パフラヴィー朝なんかは話がちょうど良い具合にややこしくなると思う)。

軍隊による民衆弾圧親和的なのもある意味当たり前の話で、むしろ軍人は何のために銃を握るのか」という議題に対し、少なくとも日本人歴史観においては「国民を守るために銃を握ることはありえない。それは異常である国体または軍隊自身を守るために銃を握るのが一般的であり、その目的達成のために国民に各種の危害を加えるのは比較的当然のことである」という認識のはずだ。そもそもそれこそが日本国憲法第九条の前提そのものではあるまいか。恐らく「普通の日本人」とやらにとって、軍隊自国民を守るために存在し行動する、という「印象(コンセンサスと言い換えてもよいだろうか)」そのもの存在しないはずだ。それは案外、「普通の」どころか左右両翼の共通認識ではないだろうか。

かに明治以降旧軍侵略戦争か、なんとなくその場のノリでその辺の戦争に参戦するか、いずれかの経験ばかりだったわけで、直接的に国民を守るための軍事行動というのは教科書に載るレベルでは存在しない(占領地に住んでる人を守るというのも、そりゃまず占領してんだし……という話が先に来る。まあスタコラサッサと逃げた関東軍は流石にちょっと凄い気はするが)。当然、ここで元寇災害救助の話をしても仕方ない。それは過去の話ではないのか、現代にあってミャンマーシリアと同レベルで恥ずかしくないのか、ではない。軍隊とは本質的に恥ずかしくて危険もの、できればこの世に存在しない方がいいものなのだ。繰り返すが9条はそういう話のはずで、ここに論理の飛躍は一切ない。

話をあえて脱線させるが、日本人は恐らく「尊敬に値する軍隊」を近現代において認知したことがなく(自衛隊は日々努力し結果も出しているものと思うが、まあ個人単位で時々変なの沸いてはいるしなとも)、また「軍隊に対する正しい尊敬の仕方」も習得していない。これらは良い手本となる先達国があるのか、またそこから学ぶだけでどうにかなるものなのか、は良く分からないが、これからでも議論はあっても良いと思う。国民に銃を向けない軍隊や近似組織は当たり前ではなく、どうにかして作り続けなければいけないものではなかろうか。「デモ中に鉄砲を掴んだら危ないぞ」ぐらいは正直それはそう程度の反射的感想でもありえるところで、大事なのはわざわざそこを起点にしてまで危険発言をすること等を阻止することであろう。

また別の方向に脱線させれば、日本人はまた「イデオロギーの基に生きて、時々うっかりイデオロギーのために死ぬ」という生活想像できないのではないか国益になるなら自他のイデオロギーを問わない、というのはネトウヨ根底の(ごく一部ではあろうが)どこかにあるし、本来それ自体はあまり頭ごなしに否定するものでもない気がする。

逆に言えば、日本国民ネトウヨの「9条のせいで日本が駄目になる」という妄言を、妄言ではなく実際に真剣に実現する義務を怠っている。9条を守って国体崩壊日本国民財産生命が著しく損害を受ける事態になれば、それは国際社会において極めて重宝される歴史や教訓となるはずであり、「お国のために死ぬ」より数十段もマシな「お世界のために死ぬ」が実現するにはする。これは割と皮肉冗談ではなくて、一国の利益がために他国侵略するという不正義の対極である以上、国際社会はそこに何らかの価値と教訓を見出し称揚する責務が存在するはずだ(責をさぼる可能性は大分あるが)。国際社会への貢献とはそのようなものであり、できないのであれば素直に「すみません終戦時点ではアジア諸国マジで見下していて方々に攻め入るだけの国力を持つに至るとは思っていませんでした。完全に大東亜共栄圏脳のまんまでした。これからは行きすぎない程度の暴力装置自由民主主義のために集団的自衛権とかPKFかぐらいはします」と謝罪したうえで改憲議論でもしたほうがよろしい。

話をタイトルに戻せば、価値観を共有できない国とどう向き合うのか、というより「友好的に向き合ってはいけない」という、普通世界各国と仲良くするのは良いことでは……?という直感に反するイデオロギー準拠の行動指針にどう向き合えばいいのか、(すぐ撃てばいいという話では断じてないことこそをも含め)考えなければいけない訳である。もちろん「考えなければいけない」などというみっともない文末はよろしくないのだが、これはもう完全にしようがない。

2024-12-04

anond:20241204231927

プリズナートレーニングマジで万人におすすめできる最強トレなのでこれだけやれ

病人からある意味病人まで対応範囲があまりにも広い上にガッチリ全身鍛えられる

費用も10000円程度

本当にやらない意味がないのでやれ

anond:20241204230445

関係ありそうな話題にいっちょ噛みしてミホヨageするマシーンから

ある意味コピペみたいなもんだな

12月に入ってケンタッキーフライドチキンを買う際に

いつまで店員さんにクリスマス意識させずに買うことが出来るだろうか?

さすがに12月20日とか超えると、

おまえクリスマス意識してるよな!ウキウキかよって店員さんに思われるよね。

から結構ある意味中旬ぐらいが今年の食べ納めだよね??

これって

気にしすぎ?

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん