はてなキーワード: オリジナリティとは
日常生活のことを書く → 誰も俺に興味がない
プログラミングのことを書く → そんなものはQiitaで書くかGitHubにアップロードしろ
アニメのことを書く → 画像の場合は著作権侵害、テキストの場合はネタバレなので却下
キラキラ写真(人生の充実感を示す画像)のアップロード → そんな写真を用意するのが面倒
ミームを投稿 → 他人のネタをパクって何が楽しいの?オリジナリティがあるとしても、下水道っぽい
AIアートを投稿 → 誰でもできることをやって何が楽しいの?
数学, 物理学のことを書く → 他人の定理,理論の引用、楽しい?
哲学のことを書く → お前が考えつく程度のことは出尽くしてる
自己啓発系のことを書く → 他界系みたいなことを書きたくない
福音館書店で200刷超えた絵本が、ぐりとぐら、ねないこだれだ、おおきなかぶの3冊だそうだ。
ぐりとぐらは絵本史に残る傑作だし、ねないこだれだも申し分ないと思う。
でもおおきなかぶって大したことなくない?絵のオリジナリティ薄いし、ストーリーも普通の昔話だし、うんとこしょどっこいしょそれでもカブは抜けませんの繰り返しが子供に受けるのは解るが、どこにでも存在しているレベルまで売れた理由がよく解らない。
花は美しさや喜び、愛情などの象徴として描かれることがあります。キャラクターの心情が高揚した時や、恋愛感情が芽生えた時などに、背景に花を咲かせることで、彼女たちの内面を視覚的に表現する効果があります。
花は華やかで明るい雰囲気をもたらします。特に、恋愛シーンや楽しい場面で花を背景に描くことで、よりロマンチックで魅力的な雰囲気を演出することができます。
少女漫画では、キャラクターの美しさや可愛らしさを引き立てるために、背景にも様々な装飾が施されます。花は、その中でも代表的なモチーフの一つであり、少女漫画独特の美的表現として定着しています。
花の種類や描き方には、作者の個性やこだわりが現れます。背景に咲く花を見ることで、作者の表現意図や世界観を感じ取ることができます。
花は様々な意味を持つため、読者は背景に咲く花を見て、キャラクターの心情や物語の展開を想像することができます。花は、読者の想像力を刺激し、物語をより深く楽しむための要素の一つと言えるでしょう。
もう数年描いてないな
描く意味が分かんなくなった
二次創作で、一次創作でやりたかったことが全部出来てしまっている気がする
どちらも趣味だしその時の楽しさを重視した結果、二次創作に比重が偏っていった
オリジナルやってた時楽しかったことって何だったっけ?って考えた。
世界で自分しか思い付かないような素晴らしい作品を作りたかった。
見識が広がった結果、オリジナリティなんてこの世にはなくて、誰かが大体すでにやり尽くしているということに気付いた。
自分で素晴らしいアイディアを思いついても、最終アウトプットまでは非常に、とても、ありえないくらい時間がかかる。
アイディアに対して、これは私だけの特別な考え・視点であるという情熱を持ち続けることが不可欠だ。
今はそのことに自信が持てない。
どこかで被っている。誰かがすでにやっている。
描いている途中で、筆が進まなくなる。
まだ誰も描いていないものを、私自身が新しくて素晴らしいと思えるものを描きたい。
二次創作といってもマイナージャンルで、そもそも二次創作をしている人が少ない。
素晴らしい原作がある。この世界観をもっともっと深掘りして、広げて、その世界の中で新しいものを描きたい。
今はこれをやるのがとても楽しい。
脳から汁が出る。
テレビのバラエティに夢中になって学校でみんなで真似をしたりして笑い合う。
大人になってからも、しんどい時にお笑いを見て元気をもらったりしてきた。
お笑いが大好きだったけど、もうそれで笑いたくないなという気持ちが強まっている。
面白いと感じるものが、あまりにも「お笑い」的になってしまってる自分が嫌になったのだ。
ハッキリと笑えなくなったのはドッキリ番組などだ。
ドッキリをしかけられた人を見て笑う感覚が失われてしまった。そしてそれは良いことだと感じる。
別にかわいそうとか思ってるわけではない。
ただそういった構造は日常の中でなくなるものではないとも思ってる。
たぶんどちらかというと、それを武器にして笑わせようとしてくる感覚が嫌になったんだと思う。
なにかで令和ロマンのくるまが「友達なんかと楽しく笑って過ごせてる人にはお笑いなんかいらない」という感じの事を言っていた。
確かに自分も高校~大学にかけてめちゃくちゃリアルが充実してた時期があり、その時期はテレビもほとんど見なかったしお笑いを見たいと思うこともあまりなかった。
逆に言うと、世の中なんて毎日楽しく過ごせてない人のほうが圧倒的に多いはずだ。だからお笑いはあったほうがいいと今も思う。
ただ自分にとっては、結果的にそれで救われることがあってもいいが、自分から求めすぎるのはよくないと考えるようになった。
日常での笑いなんてほんとにささやかなものだ。爆発的に大笑いなんてしないし、せいぜい「ふふ」って小さく声に出るくらいの笑いしかない。
ただそのオリジナリティ、ユニークさ、誰にも分からない自分だけの面白さ。
そういったもので満たされる感覚というのは、すごく潤いがあって愛おしいのだ。
普段は部活動を楽しんでいるが時折落研に嫌気がさして落研の悪口を言いたくなるので吐き出し。
落研に所属する人間はどこか痛い。いや私が他の部活に身を置いていないから、大学の自己表現系のサークルは大体同じ感じかもしれないけど。
私の落研の一部の人間に嫌気がさすのは古典落語を誰か有名なプロの落語家の動画からコピーしといてさも自分は面白いかのように錯覚しているところ。他の自己表現系部活と比較して落研ってあった圧倒的にオリジナリティないよな。
自分でネタ書いて新作作る人も中にはいるけど、大体過去のプロの遺物に依存する存在でしかないよな。
面白いことしたいけど、お笑いサークルに所属してネタを書くのはしんどいって人が所属する場所なんじゃないかな。
まあ上に書いた悪口全部自分のことなんですけど。落研では古典落語の劣化コピー生産機だし、他でやってる演劇でも何も生み出さずただ役者やってるだけだし。
落研は好きだけど自分のオリジナリティコンプレックスを結局増幅させてしまった。
というか落研似た属性の人間が多すぎる。落語やって他の活動で演劇系やってみてる人大量にいる。その中で自分が最低限しかやってなさすぎてネガティブに突き進んでしまう。
2024年6月に電子書籍を出した人からしばらくずっと煽られ続けてまして。
ぼくに10年ぐらい粘着したある人物や、悪い意味で言及した人物が読むことを想定して
「重箱の隅をつつくことぐらいなら言えるかもしれんよ?」
「でも、本の内容をちゃんと論破しようと思ったら、ぼくよりも幅広い知識と、オリジナリティの両面がある人じゃないと無理(そんなに能力があるならもうお前が電子書籍出せばいいし、俺の論破とかやる暇があったら、もうお前本書いて自分の人生変えたほうがよくね?)」
という内容になっとります。
「粘着してる人がどうせ批判記事書くだろうけど、みんなが納得行くような批判記事を書こうとするとこの本はとても大変だから、まぁがんばってね。」
「そもそも批判してないで、俺の批判する能力があったらがんばったら本書けば?」
とか書いとくね。
私が本を出す準備をしてる時に、彼は私を「消費者」と揶揄しましたが、
「作家という本質の前には、無名の執筆期間という実存がある」「変わった自分を見せつけて、アンガージュマンするんだ」と言って、執筆をやり抜きました。
私がサルトルの話を実践しながら話たのは、彼が読むのを想定してのことでもある。
彼ぐらい自分が言うような実力があるなら「私にガーガー言ってる時点で、自分の人生に退屈してるんだから、大きな目標持って頑張れ」と言いたいわけ
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DTGFZXY7/
Kindle Unlimited対象なのでUnlimitedの人は軽い気持ちでお読みください。
B'zダサい論争が一部で話題になっていたが、主に90年代サブカルとか渋谷系からの視点で語られているようなので、90年代当時のハード・ロックとヘヴィ・メタル(HR/HM)好きから見た当時の状況を交えて今思うことを殴り書きしてみる。
本題の前に殴り書きの趣旨を書いておくと、唐突だがみうらじゅんは昔から「キーポン」、つまり「keep on」が重要だと主張している。そして「keep on」の次に何が来るかは重要ではないともいっていた(と記憶している)。「マイブーム」を一般名詞にまで浸透させ、一大産業に発展した「ゆるキャラ」の名付け親でありながら「ゆるキャラ」にとどまることなく意味のない「マイブーム」を続けているみうらじゅんが主張していることだから説得力があるともいえるが、個人的にも今強くそう感じるようになっている。学生時代から主に音楽の面でサブカル界隈をそれとなくフォローしてきた身として、今現在そう感じている内容を整理してみたい。
兄が学生時代にハード・ロックのコピーバンドをやっていてそのコピー曲を聴いていた流れで、『Burrn!』誌で酒井康の紙面アジテーションに感化されてヘヴィ・メタルにハマり込んでいた。酒井康がしきりに「世界で最も売れたアルバムはビートルズでもなくディープ・パープルの「Machine Head」だ」と連呼するのを真に受けていたし、ディープ・パープルのライバルであり洋楽ロックが専門の渋谷陽一が好きなレッド・ツェッペリンはヘヴィ・メタルとは違う「軟弱」なハード・ロックに思えた(なお「Machine Head」は80年代当時最も売れていたかもしれませんが2020年代の歴代アルバム売上ランキングではトップ100にも入っていないようですね)。
その一方で『Burrn!』誌創刊とほぼ同時期に刊行された伊藤政則『ヘヴィ・メタルの逆襲』を繰り返し読みながら、(まあ当然の話ではあるが)ビートルズやローリング・ストーンズなどの有名どころのほかに80年代には名前も聞いたことのないバンドが60年代から70年代のブリティッシュロック興隆期に活躍していたことを知った。
そうして大まかな流れをつかみながら実際に曲を聴いたりしてみると、80年代当時の音楽シーンから見るとメロディー、音質、演奏テクニックも古臭くて長く残るようなものじゃないなと納得することが多かった(これはもちろん80年代当時の感覚であって、80年代の音楽はまた別の意味で古臭くて長く残るようなものはむしろ少なそうですけどね)。
その後90年代に大学のHR/HM寄りの軽音サークルに入り、幅広く音楽を聴いているサークル仲間に教えてもらって普段テレビやラジオで流れる以外の音楽の世界にも触れようになると、音楽性もさることながら長く音楽活動を続けることこそが一番の評価軸になるのではないかと思うようになった。もちろん、長く続けてればいいということではなく、当時の社会、文化情勢で受容される音楽が変わる以上長く続けるかどうかは結果論でたまたまかもしれないし、今聴いている音楽も後世に残るのはわずかなのだろうなどとも思いながら、結局同じスタイルやコンセプトで続けることがその音楽性を唯一無二のものとしていくのだなと実感するようになったのである。
その時期はまた、80年代にHR/HMのギタリストとして『Young Guitar』誌にも登場していた松本孝弘がB'zというよくわからないユニットを結成し、その曲がテレビ主題歌やCMでバンバン流れるようになっていて、軽音サークルでは総じて「松本孝弘が魂を売った」と批判的だった。一方で「イカ天」からイロモノ的にデビューした人間椅子は地道にアルバムを出し続けていて、サークルの後輩がコピーバンドを組んだりしてライブでは大いに盛り上がっていた。
長く音楽活動を続けることこそが一番の評価軸になるというのを身にしみて感じるようになったのはアラフィフになったここ数年である。そのきっかけはいくつかあるが、音楽でいえば人間椅子が2010年代にSNSで海外からも評価されるようになり、オズフェストに出演したり海外でツアーを実施したりするまでにブレイクしたことである。少しずつ変遷しつつもコンセプチュアルなルックスや江戸川乱歩や太宰治を強く意識した歌詞と3ピースのハードロックという音楽性は一貫しており、海外から高く評価されるようになっているのを知ったときはなんとなく嬉しい気持ちになった。個人的にそこまで熱心なファンではないが、「ヘヴィ・メタルの逆襲」といえば伊藤政則ではなく人間椅子というHR/HM好きも多いだろうし、青森のローカルテレビ番組で披露していたキング・クリムゾンの「21st Century Schizoid Man(21世紀の精神○常者)」や「Lark's Tongues In Aspic Part2(太陽と戦慄パート2)」の完コピには感動したものである。
なお余談だが、人間椅子の曲がディープ・パープルではなくブラック・サバスに影響されたものであることも長く活動を継続できた理由のひとつであろう。個人的な感覚ではあるものの、ディープ・パープルは今となっては古いロックの定番としてなら聴けるが70年代という時代でしか通じない遺物に感じてしまう。奇しくも酒井康が80年代中ごろにディープ・パープルの影響を誇示していたように、同時代とそのフォロワーにのみ影響を与えたバンドだったのではないかと思われる(重要なバンドではないということではなく時代によって評価が変わりやすいという趣旨です。為念)。
そして人間椅子とは対照的だが、2024年の紅白歌合戦でサプライズゲストとして登場したB'zもまた、活動を継続することで唯一無二のポジションを獲得している。2024年放送のNHK「Songs」で松本孝弘自身が語った話では、80年代から浜田麻里やTM Networkなどのサポートギタリストとして活動しながら、その活動に限界を感じて自分のバンドを結成しようとメンバーを探していたところ、所属事務所のボイトレに通っていた稲葉浩志を紹介されて88年に結成したのがB'zだった(大意)とのこと。
松本孝弘が感じた「限界」がどのようなものかまでは深く語られなかったが、80年代中盤以降アメリカではLAメタルが全盛期でトップチャートを賑わせていて日本からもラウドネスが進出する一方、国内では聖飢魔Ⅱがテレビの歌番組で活躍していたり浜田麻里がソウル・オリンピックのNHKイメージソングを歌っていた時代である。あくまで個人的な記憶だが、もしかすると日本でもHR/HMからメジャーバンドが生まれるのではないかくらいの勢いはあったと思う。
しかし松本孝弘は、NHK「Songs」で子供のころに聴いていたテレビ主題歌や歌謡曲が好きだったとも話しており、その勢いそのものに「限界」を感じていたのだろう。つまりガンズやメタリカのようにHR/HMをそれとして打ち出すのではなく、テレビ主題歌や歌謡曲としてテレビで普通に流れるものに落とし込まなければメジャーになれないと考えていたのではないか。そしてその目論見は、現在まで長く活動を続けて唯一無二のポジションを獲得した松本孝弘にとって正しかったというほかない。
(というと「日本HR/HMのモンスターバンドならX Japanがいるだろ!」との意見もあると思いますが、HR/HM好きからするとX Japanはドラムとベースは申し分ないもののボーカルとギターの要素が不足していて、ルックスからもビジュアル系と認識してしまうんですよね。)
B'zのモンスターぶりは特に売上で際立つ。それはやはりB'zの所属事務所ビーイングによるところが大きいと思われる。ビーイングを創設した長戸大幸は吉田拓郎に憧れて上京し、歌謡曲でヒットを連発していた阿久悠とも交友関係があったとのことで、その事務所の方針と松本孝弘の考えがあいまってB'zは着実に売上を伸ばしていった。
B'zはボーカルとギターという最小限のユニットを活かしてデジタルな音源を取り入れ、洋の東西を問わずその時々のヒットチャートや古いロックを取り込んだものとなっている。たとえばツェッペリンやエアロスミスなどの洋楽ハードロックをモロパクリするところなどは、同じく洋楽を強く意識してパクリも辞さなかった(というより積極的にパクった)昭和歌謡曲の路線を忠実に踏襲していることが伺われる。当時から「パクリではなくオマージュだ」という擁護はあったものの、現在では結局それも擁護というよりB'zのテクニックや解釈への正当な評価と認識されるようになっている。これもまた長く活動を継続したことの成果である。
ただし、人間椅子もいわばブラック・サバスのパクリだし、アメリカ、イギリスを中心とした洋楽への憧れがあって独自に解釈した結果が音楽性に反映しているという点はほぼすべての日本(というより非アメリカ、イギリス圏)のバンドに共通しているだろう。B'zがほかのバンドより批判されやすいのは、良く言えば今風のフレーズに古今東西のメロディーを織り交ぜる昭和歌謡曲路線を踏襲しているから、悪く言えばほかのアーティストの有名フレーズのみならずあまり有名じゃない曲のメロディーまで一部ではなく全編に隠すことなく入れ込みながらも知っているとニヤリとするどころかなんでそこまでまるまる?と思うくらいパクり方に節操がないと感じられる(※個人の感想です)からという程度である。
HR/HMのギタリストだった松本孝弘を知っているHR/HM好き(自分もその一人)からは主に昭和歌謡曲的パクリについて反感を買っていたが、ミリオンセラーの前にはそんな一部のマニアの批判など無力である。むしろそんな批判を松本孝弘が聞いても「だからHR/HMでは限界なんだよ」という思いを強くしただけだろう。その意味では、人間椅子とB'zを比較すること自体がHR/HMの限界を如実に表しているともいえる。人間椅子がブレイクしたといってもB'zのように単独アリーナツアーをすることはないし、和嶋慎治がギブソンからシグネーチャーモデルのSGを送られることもおそらくない。売れるバンドになることが目的ならB'zの方向こそが目指すべきものであり、人間椅子の方向は長く困難で実入りの少ないいばらの道が続く。
さらに余談だが、ブリティッシュ・ロックを出自としながら時代に応じて曲調もルックスも変えて長く活動を続けているのがローリング・ストーンズである。ストーンズもまたデビュー当時からパクリとの批判が大きかったが、次第にオリジナリティが認められていった。B'zはローリング・ストーンズの手法にも学んでいるのかもしれない。
もちろん、この文章には若干の皮肉を込めている。ただしそれはあくまで若干であり、残りの大部分は長く活動を継続したことに対する私なりの敬服である。
音楽マーケットはあくまで「市場」であり、売上こそが正義である。パクリでもなんでも売れ続けることによって批判は称賛に変わり、その音楽性や演奏力といった音楽という表現方法が内包する軸とは別に、売上という別個の軸が評価基準として自己実現する。B'z以前から日本の歌謡曲は洋楽のパクリとして始まっており、これは日本のみならずアメリカ、イギリスの影響を受けた音楽マーケットを持つ国でも同様であろう。なんなら上記のとおりローリング・ストーンズに限らずアメリカ、イギリスでもパクリ(盗作)をめぐっては訴訟だらけである。ここで「パクリ」の定義に踏み込む余裕はないが、どのように定義するにせよパクリを否定することは売上によって成り立つ現在の音楽マーケットそのものを否定することになり、現実的ではない。
ここまで読んでいただければお分かりだと思うが、この文章は人間椅子の方向に面白さを感じる人間が書いている。「keep on」の次に何が来るかは重要ではないかもしれないが、それによって得るものは時代や人間関係などの環境や運によって大きく異なり、おそらくそれは本人が意図的に選ぶことはできない。その現実のどうしようもなさに対して諦念するほかないのである。
人間椅子とB'zは個人的に対比しやすいから取り上げただけであり、売上がギネス認定されたB'zを一方の頂点とすることはできるかもしれないが、人間椅子はその他のバンドの一つに過ぎない。売上ではB'zに及ばずとも単独でアリーナツアーできるバンドやミュージシャンはそれなりにいるし、人間椅子のような活動の積み重ねを前提として運よくブレイクしたバンドも探せばそれなりにいるだろう。明確な売れ筋狙いが功を奏した場合もあれば、愚直に一つのスタイルを貫くことが評価される場合もあるというだけの話である。いずれの場合にせよ長く続けて評価されるためには、その水準を満たす表現力や演奏力などの本人の能力はもちろん、各関係者との良好な協力関係などの制作体制、そして固定ファン層を安定して構築することこそが重要である。
長く続けること自体が本人や関係者、ファン層のそれぞれの厳しい条件をクリアしてようやく成立するものであり、さらにそれが売上などで評価されるかは時代や社会情勢によって変わってしまうという現実に対しては諦念するほかはないが、それを実現したB'zとその関係者、さらにファン層にもやはり敬服するほかないというのがとりあえずの結論。
参考
https://yamdas.hatenablog.com/entry/20250106/being-sibuya
近所の西友、なんか雰囲気暗いというか物理的にも一昔前の建築にありがちな無駄に天井高い造りだからなのか照明の光が発散しすぎて薄暗くてどんよりしてて
商品もこれといってオリジナリティない割にはそこまで安くもないのが大半でたまに安いやつはあからさまな地雷臭醸してて
特にみなさまのおすみつきとかいうPBのラインは本当に本当にハズレが多かったりして(セメダインみたいな臭いの焼き肉のタレとかあった)
今にも潰れそうな要素満載な感じがピシピシ伝わってくるんだけど
もうその状態で何年も維持してるのでそれらは逆に潰れない要素だったのかもしれない
経営がどんどん変わるのも有名だけどそれにしても売られたり買われたりしすぎでもしかしたら西友の一番の売れ筋は自社そのものなのかもしれない。
母親が駅伝好きで毎年正月になるとテレビで流れてるんだけど全く興味が持てない。
何故なのか少し考えてみたんだけど、コンテンツとしてエンタメ性に欠けるんだよね。
ずーっと走ってるだけ。そんでたまに抜いた抜かれたが起こる。楽しそうに入ってる子がいたり、苦悶の表情を浮かべる子がいたり、その程度。画面にも展開にも変化がなさすぎる。
それぞれの選手も大学も私にとっては情報量に差がないから、どの大学が優勝しても「へー、◯◯が優勝したんだ」の◯◯に入る単語が変わるだけだし、抜いた抜かれたも同様だから、すべて同じ事象としてしか捉えられないんだよね。
「今年は第4区間で沿道から乱入した佐藤さん(52)が優勝しました!」ぐらいの波乱が起きないと面白くない。
あとはそうだな、衣装にオリジナリティがあったり、キャラがめっちゃ強かったりもしないし。少なくとも走ってる姿からは知り得ない。
もっと沿道から邪魔が入るなどSASUKE的な要素を取り入れたらどうだろう。
知らない人たちが、自分が楽しいと思わないことで盛り上がってるのって、近所の居酒屋で見ず知らずの大学生集団が内輪の飲み会して盛り上がってるのを見せられてるのとなんら変わらないんだよね。
おい、中国人、並びに共産党に与するパヨクとブルプロアンチ。よく聞け。ブルプロを舐めるな、日本を舐めるな。
ブルプロをパクったゲームが流行っても日本人はやらないからな。ゲーム市場2、3位の日米が降りたらチャンコロは終わりなんやで。
https://x.com/Futats_ubik/status/1872997381106745493
Ubikiのメンバーはブルプロ随一のセンスなんよ。オシャレな男女チームなんよ。だからブルプロは決して国産おっちゃんゲーじゃないんよ。
みんな優秀で美男美女なんよ。リーダーであるフタツさんのセンスに集まった人たちなんだから当然なんよ。
ブルプロは夜勤や接客業で頑張ってる人が多いんよ。みんな頭がいいからこそあえてそういう業種を選んでるんよ。エッセンシャルワーカーは必要な仕事だからこそ有能な人がやるって考えなんよ。ブルプロを支える心意気にも似てるんにょ。
https://x.com/suzuBlueProtoco/status/1829530354048471357
署名活動頑張ってる人もいるんよ。署名はパヨクっぽいけど、それで復活する大日本帝国があるならそれは右翼なんよ。
この人はブルプロチームのSSも撮影してるんよ。なんだか卒業写真作るみたいな試みが最高なんよ。
そして中国人、ブルプロアンチ、パヨク、お前ら反日非国民どもが味わえなかった学校生活のような空気感がブルプロにはあるんよ。だからこそ忌避してるってことに気づくべきなんよ。
お歌を公開したり生足を魅せたり姫ちゃん活動してる人もいるんよ。MMOらしく彩りを与えてくれる存在もまた最高なんよ。
のあーるちゃんは今鍵かけちゃってるけど(´・ω・`)
根気よくアクセスしてお歌を聞いてほしいんよ。
まず一例として、「食パンを口にくわえた女学生が『遅刻、遅刻』といいながら走っている」シーンを考えてみましょう。
これは少女漫画における典型的な出会いというイベントを連想させますね。
ここでは、もし食パンをくわえているのが下の口だったらどうなるか考えてみましょう。
このような些細な変更によって、読者が女学生に抱く印象を操作することが出来ます。
一見、これは誰でも思いつく非常に小さな変更点のように見えます。
しかしながら、増田の知る限り、このようなバージョンの登場シーンを見たことはありません。
Q.
コラージュはアートとして認められている ファンによるアートはファンアートである ファンが他人の著作物をコラージュして作った作品はファンアートである 異論はありますか?
A.
はい、その結論にはいくつかの異論があり得ます。特に、著作権や作品の定義に関する議論が絡んできます。以下にいくつかの観点を挙げます。 1. コラージュはアートとして認められているか コラージュは20世紀初頭からアートの一形態として認められています(例:パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックによるキュビスム作品)。しかし、アートとして認められるかどうかは、文化や文脈、評価者の価値観に依存します。 「認められている」の範囲が曖昧であるため、場合によっては議論の余地があります。 2. ファンアートの定義 ファンアートは一般に「特定の作品やキャラクターへの愛情や敬意を示すために、ファンが独自に作成した作品」とされています。 重要なのは、元の作品の要素をどのように使用するかです。ファンアートは多くの場合、元の著作物を直接再現するのではなく、オリジナルのアイデアを加えています。 3. 他人の著作物を使用したコラージュはファンアートか 法的観点: 他人の著作物をコラージュする場合、著作権法が関係します。特に、日本や多くの国では「著作権者の許可なしに著作物を使用する」行為は、たとえそれが非営利目的のファンアートであっても著作権侵害と見なされる可能性があります。 芸術的観点: たとえ著作権を侵害していない場合でも、他人の著作物を使ったコラージュがファンアートに分類されるかどうかは、作成者の意図や作品の文脈に依存します。たとえば、元の著作物に対する敬意を示す意図があればファンアートと見なされるかもしれません。 異論の可能性 ファンアートの範囲 他人の著作物を使用した作品すべてがファンアートに該当するわけではありません。敬意や愛情がない場合、単に「盗用」とみなされる可能性があります。 オリジナリティの欠如 ファンアートとして成立するには、一定の創造性や独自性が求められると考える人もいます。コラージュ作品がオリジナリティを欠く場合、単なる「再利用」として評価される可能性があります。 法的問題とファンアートの混同 ファンアートはしばしば非営利目的で制作されますが、それでも法的には著作権侵害となる場合があります。そのため、「コラージュ=ファンアート」と断定するのは、法的な誤解を招くかもしれません。 結論 「他人の著作物をコラージュして作った作品はファンアートである」と断定するには、意図、文脈、法的条件を考慮する必要があります。そのため、場合によっては異論が生じる可能性があるでしょう。