はてなキーワード: 社会とは
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
毒殺事件で無罪判決を出した裁判官がドヤ?って感じの顔してたんだけど、
これって「自分は毒殺される心配がない」からドヤれるのだと思った
日本は性犯罪に超絶ぬるいが、これは男社会で権力者が9割男だから、というのは正解で、
男は性犯罪に合う可能性が無い、むしろ政治家や上級公務員は性犯罪を起こしやすい職業だから、
性犯罪に厳しい国にはならない。
それと似たケースだと思った。
物的証拠が弱いからと無罪判決がまかり通ってしまうと警察が事件化を嫌がり、変死扱いになることが増えると思う。
ウソ発見器の抜き打ち、複数回の使用や、心理の専門家による尋問、
黙秘は認めないなど新しい対応を取らないと、今後「変死」が増える可能性が高い。
でもこういう心根の醜さって後から治るもんでもないしどうしようもないよな
* 無辜の市民の存在を否定: イスラエルには様々な人々が暮らしており、その中には紛争に巻き込まれたくないと願う無辜の市民も数多くいます。この発言は、そうした人々を無視し、一方的な見方をしていると言えるでしょう。
* 特定の集団への偏見: イスラエル国民全体をひとくくりにして否定的なレッテルを貼ることは、ステレオタイプであり、差別につながる可能性があります。
* 複雑な状況の単純化: イスラエル・パレスチナ紛争は、歴史的、政治的な背景が複雑に絡み合った問題です。この発言は、その複雑さを無視し、極端に単純化してしまっています。
* 報道や情報への偏り: この発言は、特定の報道や情報にのみ基づいており、客観的な事実を歪めている可能性があります。
* 人権の侵害: 無辜の市民の存在を否定することは、人々の尊厳を傷つけ、人権を侵害する行為です。
* 対立の煽動: このような発言は、人々の間に憎しみや対立を煽り、平和な解決を困難にする可能性があります。
* 異なる意見への拒否: この発言は、異なる意見や視点を受け入れることを拒否し、自分自身の考えしか認めない排他的な態度を示しています。
結論として、この発言は、事実誤認に基づいた偏見であり、多様な意見が存在する社会においては容認されるべきものではありません。
ことが重要です。
補足:
* このような発言は、特定の集団だけでなく、いかなる集団に対しても行うべきではありません。
* 歴史的な背景や複雑な状況を考慮し、多角的な視点から問題を捉えることが重要です。
* 人々の尊厳を尊重し、平和的な解決に向けて努力することが求められます。
もしよろしければ、イスラエル・パレスチナ紛争について、より深く議論してみたいと思います。
」
優秀な人間は、自分の仕事が誰の役に立ち、どんな幸福を社会にもたらしているか自覚して働いている
バキ童(ぐんぴい)が「親に殴られて育つと怒った時に【人を殴る】というコマンドがわざマシンのようにでてきてしまう」みたいなこといってたな。
をやろうと思ったのですが、私の知識不足で企画倒れが決定しました。
多分、俺以外の誰かがやると思うので期待して待ってます。
直感的にそれがあることは分かっていても知識と検証能力の不足によって尻尾を掴めないのがとても歯がゆいですね。
ある種の前世症候群の如く「そうか!俺は実は発達障害だったんだ!」と「目覚めて」しまっている人達の急増はもはや社会問題と言っていいわけですからね。
この状況に対して何らかの調整弁を働かせなければ本物の発達障害の人達が「発達障害を自称するただのワガママな人」と同列に扱われて苦労するのは目に見えています。
誰かが正義の一石を投じてこのブームの暴走を食い止めて欲しい限りです。
正直、漫画ランキングに対してのツッコミなんかでそんなことをやっても仕方がないのは事実ですけどね。
本当に動き出すべきは「本物の発達障害を診ている精神科医師」達だと思います。
実際どうなんでしょうね?
偽物が次々にドアを叩いてくれるぐらいの方が自分たちの客が増えるからラッキーとか思ってたりするんですかね?
それとも、偽物であるか本物であるかを調べる機会を得るためには玉石混交の状態でいいので篩に一度かけさせて欲しいという感じなんでしょうか?
昔は学校教育の中で「コイツ脳の構造が生まれつきヤバイだろ!病院いけ!」みたいな話をオブラートに包んで親御さんに相談したり、保険医が勝手に病院に連れて行ったりも出来ましたが、今はそういうのは難しいでしょうね。
そうなると自然と発見が遅れるリスクがあるわけですから、「気になった時点で一度発達障害かどうか確かめる機会を増やしたほうがいい」という意味では、この「俺俺発達障害」のブームは結果としてプラスなんですかね?
まあ、単なるワガママによる人格破綻であっても、ある種の思考の癖によって本人や周りが生きづらくなっているなら、そこに精神医学や心理学の技術を介入させて軌道修正を行ったほうがいいわけですから、自称だろうが発達障害を理由に医学的なサポートを必要とする姿勢は正しいんですかね?
確かに、自分が発達障害である可能性を視野に入れたうえで検査を受け、そこで出てきた医者のアドバイスを素直に聞くというのは実際正しい気はしますね。
でもそこで「デパスで元気になるから」と薬に頼る道を安易に選んでしまうパターンもゼロじゃないのが恐ろしい。
マイナンバー保険証の件で再燃しましたが、世の中にはちょっと精神病っぽければいくらでも向精神薬を投げつけてしまうような医者も少なくはないと聞きますからね。
単なる「自称発達障害の普通の人」がそういった医者にひっかかって「薬物の力を借りなければ脳内物質のコントロールが出来ない体になってしまった人」になるリスクも無いとは言えません。
うーん。
私が思うに、単にこれは次なる「社会の闇に切り込み現代社会の生きづらさを描くセンシティブな漫画」の人気ジャンルとして立脚するだけなんじゃないかという懸念さえありますね。
実際、一時期の青春文学などにおいては医者から処方された薬物を濫用するという場面が現代人の闇(ニチャァ)の描写として流行ったことはありましたからねえ。
完全自殺マニュアル後の自殺コンテンツブームの如く、自称精神病薬物乱用コンテンツブームが雨後の筍の如く乱立し、それがこのマンガがすごい!として持ち上げられるという流れもあるかもですね。
まあ、それで一度キッチリ社会問題として顕在化することまで含めてのPDCAサイクルとも言えるんですかね。
ゆとりがあると全員幸せになるお手本みたいなストーリー。本来、人間社会ってこうあるべきだよね。
36協定があるから過労死寸前まで働かされるけど、一刻も早く36協定を無効にして、人間性を取り戻した日本に立ち戻って欲しい
イスラエルによるハマスへの攻撃は、ハマスがイスラエルの民間人を標的とした一連のテロ攻撃に対する正当な報復行為として位置付けることができます。一方で、ハマスの行動は、いかなる立場からも正当化することはできません。以下にこの立場を説明します。
イスラエルは、国民の生命と安全を守る責任を負っています。ハマスによるテロ攻撃では、民間人が標的となり、多くの命が奪われました。このような攻撃に対して反撃し、テロの再発を防ぐ行為は、国際法上の自衛権に基づいて正当化されます。
ハマスは、意図的に民間人を標的とし、社会に恐怖を広げることを目的とした行動を取っています。これに対処しないことは、さらなる暴力を助長するリスクを伴うため、国際社会もイスラエルの防衛行動を支持することがあります。
ハマスの攻撃は、明らかに非戦闘員である民間人を標的としています。これは国際人道法(ジュネーブ条約)に違反する行為であり、いかなる状況でも正当化できません。
多くの国や国際機関は、ハマスの行動を「テロ」として非難しており、これを抵抗運動ではなく犯罪行為として見ています。特に民間人の大量殺害や人質の利用は、国際法上重大な戦争犯罪に該当します。
ハマスの攻撃は、意図的に民間人を標的とした無差別テロであり、どのような文脈においても正当化できません。一方、イスラエルの行動は、自国民の安全を守り、テロ行為を防ぐための自衛措置として正当と見なされます。しかし、報復の過程で民間人が巻き込まれるリスクを最小化する努力は、イスラエル側にも求められるべき課題です。この立場は、国際法と人道の観点からも支持されます。
人体改造当たり前の未来世界を舞台に、改造すればするほど戦闘力は強くなるけど人間性を喪失していくというシステム
ビデオゲームであるサイバーパンク2077ではそういう要素は薄くなった
敵の中にはそうやって頭ぶっ壊れたやつもいたけど、主人公は脳内に宿ったキアヌ・リーブスに魂を食まれつつあるものの、その他の改造によるリスキーさは特になかった
2077よりも、エッジランナーズは改造によるリスキーさをシナリオに取り入れていた
主人公が社会の底辺から成り上がるためにどんどん改造して、勝ち上がるも人間性を失って壊れていきバッドエンドを辿るストーリーだ
結婚しないやつ、できないやつが増えた原因って、女が社会で稼ぐようになってしまったからだと思うんだよ。
働いてそこそこ稼いでる女は、自分より稼いでない男を人間として見ることができなくなっている。
そして男は、自分のスペックが女より上である確信が持てず、自信を伴ったアプローチができないでいる。
子育て支援や賃金アップよりも先に、男と女の役割の違いを義務教育から教えないとピラミッドの下部が増えないぞ。
共働き女性と比べて得していて不公平だから廃止する、という論点なんだよな
これなら高等教育無償化政策の場合、明らかに高校や大学に行かない同年代と比べて得をしていて不公平なんだから、無償化を廃止するか、働く同年代に同額の給付金を与えなきゃおかしいことになる
小売店は、顧客の要望をかなえる責任があり、その地域社会における信頼を築き、継続的な発展を実現する重要な役割を担っています。小売店が提供する商品やサービスは、単に消費者の生活を便利にするだけでなく、顧客が求める価値や期待に応えるものであり、その満足度が店舗の評価を大きく左右します。顧客の声をしっかりと受け止め、迅速かつ適切に対応することは、顧客との信頼関係を構築し、競争が激しい市場環境の中で差別化を図るために欠かせない要素です。
また、小売店が顧客のニーズを理解するためには、商品の販売データやトレンドの分析だけでなく、店舗スタッフが日々顧客と接する中で得た意見やフィードバックを積極的に活用することが重要です。例えば、地域特有のニーズや顧客のライフスタイルの変化を捉え、それに応じた商品ラインアップやサービスを提供することで、より高い満足度を実現することができます。これには、季節や地域性に応じた品揃えの調整や、個別の要望に対応した特注品の取り扱いなど、柔軟で創造的な取り組みも含まれます。
さらに、小売店が顧客の要望をかなえるためには、商品の品質や価格競争力を高めるだけでなく、店舗の環境や接客対応の質を向上させる努力も必要です。快適で清潔な店舗環境の維持、親しみやすく丁寧な接客、さらにはオンライン販売やデリバリーサービスなど、顧客の利便性を向上させる取り組みが求められます。また、近年では、環境意識の高まりを受けて、エコ商品や持続可能な取り組みへの対応も、小売店にとって重要な課題となっています。例えば、地元産の食材やフェアトレード商品を取り入れることで、地域社会や環境への貢献を示し、顧客の共感を得ることができます。
最終的に、小売店が顧客の要望をかなえる責任を全うすることは、店舗のブランド価値や信頼性を高め、顧客が何度も訪れたいと思う「選ばれる店」としての地位を築くことにつながります。この信頼関係は、口コミやリピーターの増加を通じて新たな顧客を引き寄せ、長期的な繁栄を可能にします。そのため、小売店は顧客満足を単なる目標ではなく、日々の運営の中心に据え、店舗全体でその実現に向けた取り組みを続けることが必要です。このようにして、小売店は顧客に愛される存在となり、地域社会や市場全体での重要な役割を果たすことができるのです。
https://anond.hatelabo.jp/20241211175102
身も蓋もないけどまず大前提として大人になって知り合う対象として漫画アニメが趣味っていう男性は絶対避けた方がいい!!!
私自身もオタクなので同族の彼らに対して申し訳ないんだけど、自分を含めてオタク趣味の人って発達傾向があったり社会性に乏しい人の率が跳ね上がると思う。
だから「趣味がアニメ漫画です」って人を最初の母数にしちゃうと、そこからまともな人を選別するのが非常に困難になる。
なのでオタク趣味の男性の中からパートナーを探すのはやめた方がいい。
趣味がスポーツとか音楽とかだとしてもパートナーのオタク趣味に理解がある男性はたくさんいるし、ヘルシーな趣味を持ってる人の方がこっちの好みにとやかく言わなかったりして接しやすい。
将来の家族としてもそういう人の方がコミュニケーション取りやすい。
全く漫画もアニメも見なくてオタクを毛嫌いするとかなら避けた方がいいだろうけど、今時大抵の男性って「趣味はサッカー観戦です。君は漫画読むのが好きなんだ。俺も鬼滅とか読むよ!」みたいな感じで、最低限の漫画とかアニメに理解ある人がめちゃくちゃ多くないですか?
増田さんはパートナーと一緒にオタク趣味を楽しみたいって気持ちがあるのかな〜という気がしたのですが、さほどオタクじゃない男性でも交際していくうちにこちらの趣味に付き合って楽しんでくれたりすることもあるし、その逆もあったりするのがまた楽しいですよ。
そもそも男性って惚れてくれたら大概のことは受け入れてくれますから…。
「オタクである自分」を好んでくれる男性は意外と同じオタクではなかったりしますから。
https://anond.hatelabo.jp/20241211175102
身も蓋もないけどまず大前提として大人になって知り合う対象として漫画アニメが趣味っていう男性は絶対避けた方がいい!!!
私自身もオタクなので同族の彼らに対して申し訳ないんだけど、自分を含めてオタク趣味の人って発達傾向があったり社会性に乏しい人の率が跳ね上がると思う。
だから「趣味がアニメ漫画です」って人を最初の母数にしちゃうと、そこからまともな人を選別するのが非常に困難になる。
なのでオタク趣味の男性の中からパートナーを探すのはやめた方がいい。
趣味がスポーツとか音楽とかだとしてもパートナーのオタク趣味に理解がある男性はたくさんいるし、ヘルシーな趣味を持ってる人の方がこっちの好みにとやかく言わなかったりして接しやすい。
将来の家族としてもそういう人の方がコミュニケーション取りやすい。
全く漫画もアニメも見なくてオタクを毛嫌いするとかなら避けた方がいいだろうけど、今時大抵の男性って「趣味はサッカー観戦です。君は漫画読むのが好きなんだ。俺も鬼滅とか読むよ!」みたいな感じで、最低限の漫画とかアニメに理解ある人がめちゃくちゃ多くないですか?
増田さんはパートナーと一緒にオタク趣味を楽しみたいって気持ちがあるのかな〜という気がしたのですが、さほどオタクじゃない男性でも交際していくうちにこちらの趣味に付き合って楽しんでくれたりすることもあるし、その逆もあったりするのがまた楽しいですよ。
そもそも男性って惚れてくれたら大概のことは受け入れてくれますから…。
「オタクである自分」を好んでくれる男性は意外と同じオタクではなかったりしますから。
家事という大雑把なくくりは止めて、腑分けしてそれぞれ自らの要求レベルに応じて行いましょうってことに尽きる。
幼保の無償化など子育て支援の拡充や、介護保険による介護サービスの普及など、昔は家庭で行われてきたことをどんどん公的サービスとして実施するようになってる。
現実的にはもう外注するのが当たり前の社会になってきてるでしょ。
「コロッケは家庭で作らず買ってくればいい」
この精神よ。
両方働いて、完璧主義を求めない家事をすればいい。技術も使ってね。日本人って何で乾燥機や食器洗浄機、自動調理器、食材の配達使わないんだ?あと、家事だって自分で全部やるのが間違いで、月1、2回くらい外注して、手分けしてやって貰えばいい
教育を受けた女性がずっと自宅に引き籠るのは社会として不健全だよ。あと、パートタイムとして作業だけするのも良くない。時短勤務でもいいけど、正社員として能力に見合った仕事をすべき。