はてなキーワード: 身体とは
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
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その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
吐き出させてほしいのよ。
夫婦子一人。嫁さんとは仲がいい。一緒にご飯を食べ、三交代で休みがあった日は二人で出掛ける。
お互いそれなりに年を取り、友達付き合いは以前に比べかなり減った。でも、二人で過ごす時間が充実してるし、なんなら友達付き合いの方が煩わしいとさえ思うようになった。
嫁さんがフルタイムの仕事を始めた。子供も大きくなり、時間を持て余すのもアレということで。
話だけ聞くに、やばそうな会社ではあるが、社長の人柄と数少ない良心をもったベテランのおかげでなんとかなってるイメージ。
そんな会社での勤務がなんだかんだで3年目を終えようとしている。
嫁さんの勤務先はこの飲み会のほか、様々な社内イベントが行われているらしい。
ただ、小さい会社なもんで、年齢層も高ければ参加者も減少傾向。
なので企画の度に声をかけられていたそうだが、すべて不参加を決め込んでいた。
しかし今回はなぜか、はてどうする、となったようで、私としては好きにしたらいいじゃん、行くんなら送り迎えするよ~ってスタンス。
結局参加したのがつい先日。
嫁さんを会場に車で送り、いったん帰宅。子供のご飯作ろうとすると、バーキンで食ったとのこと。いいですね。その後迎えに行く。
終了の予定の時間を聞いていたが出てこない。
そりゃそうだ、飲みが時間通りに終わって、時間通りに出てくるなんてありえない。という事でアイコス吸いながら待つ。
予定時刻から1時間弱、にぎやかな声が聞こえてきて、わらわらと人が出てくる。
さっぱり分からんがこの人たちが社員?、と遠目に眺めていると嫁さんも出てきた。
はいお疲れでした、じゃあ帰りましょか。と様子を見ていると嫁さんは方々に笑顔で挨拶。
おっさん連中の肩をたたき、頭を下げて回る。
この辺まではまだ何も思わなかった気がする。
嫁さん車に乗り込み一路帰宅。
車内で会話をぽつぽつ。酒くせえ。というかいろんな匂いが混ざってくせえ。そりゃ飲みだから当たり前なんだけど。
家に着く。会話は常時と比較し1割5分程度。
何故か?
何故なんでしょう?なんなんでしょうこの感情?記憶を反芻する。何が気に食わない?何かが気に食わない。
嫁さんがおじさまと触れ合っていたところを目にしたから?おじさまから(性的な意味ではなく)かわいがられている姿を見たから?
でも考えてみろ。自分が飲みに行った時、おねえちゃんと接触してないか?接触しまくってます。
おじさんへの嫉妬なわけない。嫁さんが200%浮気をするわけもない。私も浮気をしないように努力、というかすでにそんな気力はないし、絶対ばれる自信がある。
じゃあこの感情は何なんですか?
自分が理解していると勝手に思っていた人の知らない部分を見たとき、こんな感情になるんでしょうか。
器の小さいおっさんは救いようがないですか。
結論として、既存の研究や批評を総合すると、「美少女」は①男性視線に最適化された性的商品、②従順で反論しない“理想の女”の疑似身体、③オタク男性の欲望と被害者意識を同時に投影できる象徴として位置づいており、そのため現実の女性への敵意(ミソジニー)を表現する際の“旗印”として選ばれやすいと説明できます。
美少女キャラは「見る側=主として男性」と「見られる側=若い女性」という権力関係が前提化された表象として理解されます。
そのため、美少女キャラを掲げて女性を罵倒する行為は、「女の身体は男の消費物であり、評価・侮辱する権利は男側にある」というヒエラルキーを視覚的に再演するジェスチャーになりやすいと考えられます。
VTuber・VRChat・ゲーム配信のアバターデザインを分析した Noel Brett は、「なぜ結局いつも“アニメ美少女アバター”になるのか」を検討し、その多くが巨乳・細腰・大きな目・揺れる胸や尻といった“ハイパー女性的な身体”に収斂していく過程を描いています。
この過程では、配信者と視聴者が「もっと胸を大きく」「もっとお尻を強調して」といったフィードバックを通じて、セクシャルで従順な“理想的女性身体”を共同で作り上げ、異論や拒否の声はそもそも存在しない前提で進むことが示されています。
つまり、アニメ美少女は「反論しない、怒らない、ただ可愛く性的でいてくれる女」の擬似身体として設計されがちであり、現実の女性の主体性に対して苛立ちを抱く人ほど、その対極としてこのイメージにしがみつきやすい構造があります。
日本のオタク文化研究では、「二次元美少女」への没入が、支配的な“モテる強い男”像から外れた男性層にとっての逃避先でありつつ、同時に女性を一方的に消費する権力感覚を与える場にもなっていると指摘されています。
前之園やフェミニズム系の批評では、美少女キャラを巡る炎上が「表現の自由 vs フェミニズム」という図式で語られる一方、実際には“若くてかわいい女性だけが価値を持つ”というルッキズムとエイジズムを極端な形で増幅していることが問題視されています。
一部の論考は、「男性キャラには商品価値が乏しく、オタク市場は構造的に美少女偏重である」と指摘し、どのコンテンツでも“女子高生がやるから面白い”という前提の上で商品設計が行われていると述べます。
心理学的な実証研究で「女叩きアカウントは美少女アイコンばかり」という因果関係を直接示したものはまだありませんが、アバター研究や美少女キャラ批評を組み合わせると、少なくとも次のような理屈が見えてきます。
以上をまとめると、「なぜ美少女が女性嫌悪の表現に選ばれるのか」という問いに対しては、「美少女キャラが、男性の欲望・支配欲・被害者意識を一度に表現でき、かつ現実の女性の声を完全に排除した“理想の女”の記号だから」という形で、既存の関連研究からかなり一貫した説明が組み立てられると言えます。
simple1500 the チー牛みたいな顔してる俺だが需給調整的なチンポジションを任されてしまっているのだが
この見た目と陰キャで当然舐められまくっていてあらゆる部署からその変更ヤダヤダというクレームが殺到
俺としても営業が無理くり案件をねじ込んでこないなら月初の見込み通り作っていきたい気持ちなのだが
俺が営業に計画変えるのヤだから案件ヤダヤダというわけにもいかずペコペコしながら仕事してたんだけど
時代が変わって全体の仕事量も増えてきたので最近、補助スタッフを入れたんだけど
そいつが元工場の営業職のめちゃめちゃ強面のスキンフェード茶髪マッチョ
そいつに計画変更箇所と理由を伝えて入力と対外対応を全部任せたらめっきり苦情が減った
そいつに常々感謝してたら身体鍛えたら全部解決するッスよ!って言われて
何年も前に、アンビリバボーかなんかで、「男性の体に違和感を覚え、性転換をした女性」の話を見たのをずっと覚えてる。今みたいにLGBTが流行り出して一般的にも知られるようなる、それよりも前のこと。
まだ幼稚園くらいの少年が、男性器に強い違和感を覚えて、風呂場で爪切りで切り取ろうとしたのを親が発見したみたいな話だった。すごく衝撃を受けた。子のそんな姿を目撃してしまったら、親はそれが気の迷いや趣好ではないと認めざるを得ないと思う。
近年、トランスジェンダーが話題に上がるようになって、「心の性は存在しない」「その性としての規範を押し付けられる苦痛から逃げたいだけ」「ただの性癖」みたいな意見をよく耳にするようになった。
確かに、「性自認というのは生まれつきの体で生きることによって形成される後天的なもの」と聞くと、そんな感じもしてくる。でも、そういう意見を聞く度、いつかテレビで見た少年のことが思い浮かぶのだ。
未就学児の、まだアイデンティティも確立しきらない年齢で、他人からの扱われ方などではなく「自身の身体」に強烈な違和感を持った少年は、なんだったんだろう。
調べてみたところ、心の性は生物学的にも存在する可能性があるらしい。正確に言えば、脳にも男性らしい形、女性らしい形があり、ホルモンや遺伝子の関係で身体は女性なのに脳は男性、と言ったチグハグが生じてしまった際に、性自認と実際の体にギャップを感じるという仕組み。(明確に判明しているわけではなく、可能性があるくらいなのは分かっていてほしい)
そういう人が本物のトランスジェンダーなのでは、と思ってしまう。
ただ、今の世の中では、環境によって後天的に得た「性自認もどき」でトランスジェンダーを自認し、女子トイレに入りたいだとか、女性として競技に出たいだとか無茶言っている人が多いのも事実だと思う。
そういう人を非難するために、「トランスジェンダーなんて存在しない」みたいな論調が拡散されるのを目にすると、本物のトランスジェンダーが可哀想だ、という気持ちになってしまう。これはこれで一種の差別な気もするが。
今Twitterで話題になってるノンバイナリーに対する非難とか、すごい気分悪い。当事者の声を無視して、女性として嫌な気持ちになったことがあるだけの人たちが、「女性として差別されるのが嫌だから女性から逃げた」とか言ってるの吐き気。分かんないなら黙ってればいいのに。
昨年の今頃何やってたんだろうって振り返ってみれば返るページもないって言うけれど、
私はちょうど一年前に、
ってちょうど一年前にって言うとザ虎舞竜さんのロード256章の話になっちゃうけど、
そっちのちょうど一年前にはなにやっていたんだろうって。
そしたらNIKKEのことが書いてあって、
その時はみんなレヴェルが160!
アリスって言うニケだけが199になってわーいって大騒ぎしている様子が描かれていたわ。
当時はそれ以上160超えるとかさらに200レヴェル超えるにはどうやったらいいんだよ!って
そんな私もステラーブレイドとのコラボ企画以外では無課金のところ、
トルコの射的の無課金おじさんのゲットワイルドどころではないのよ。
わーい!
どんどんひゅーひゅーぱふぱふ!
ってもう往年の國府田マリ子さんとかヒュージャックマンさんぐらいしかどんどんひゅーひゅーぱふぱふって言わないけれど、
そこを気をつけないといけないわ。
そんで私はニケたちがレヴェル360!を超えるは超えるけれど、
上がったとて
そんなに進められずに相変わらず敵ラプチャーの強さに手を拱いているのよ。
まんべんなくニケたちを強くさせなくちゃ!
あと、
ニケたちがそれぞれ持っている例えば炎とかって属性があるのね。
敵にその属性が合致して攻撃すると与えるダメージがより大きくなるの!
ここら辺のレヴェルに達成すると
何も考えずに好きなニケ達で編制していても勝てないのよね。
特にトライブタワーっていうニケの製造されたメーカーごとで編制する縛りのミッションがあるんだけど、
そこも、
ちゃんと真面目に炎とか水とか風とか鉄甲とか電撃のコードとかあうように編制しないと勝てないのよ。
そこに気付いちゃったわ!
そうしたら行き詰まっていて煮詰まっていた鍋の底に一欠片のおでんの牛スジを見付けた感じのラッキーをとは裏腹に、
勝てるようになってきたのよ!
あと始めたときは「オーバーロード」ってなに?って全く意味分からなかったけど、
今はもうそこまでやってオーバーロードして武装を改造してさらに強くしなくては話にならないので、
オーバーロードってなに?それ美味しいの?って
鍋の底に一欠片のおでんの牛スジを見付けたと同時に味わうあのなんとも言えない味わい深い煮え切ったとろける牛崇神もきっとお喜びになるぐらいのトロトロの牛スジなのよ。
私がNIKKE始めた頃
よその舞台のニケを見ているとなんでマシンガンで300発以上弾数あるの?って謎過ぎて謎過ぎて謎だったけれど、
オーバーロードして弾丸装填数を改造してアップさせていたのね!って気付いたのはそれから随分あとのことよ。
あの、
アリスダイヤリーって言うのはアリスってニケをいろいろ強くしていくと物資がもらえるミッションがあって、
オーバーロードって項目があり、
これってどうやってやるの?って皆目見当もつかないあの頃が懐かしいわ。
山崎まさよしさんが桜木町で見付けられなかったものを見付けた感じなのよ!
だからアリスダイヤリーを全部まさか自分でコンプリートできただなんて!って思い出すわ。
その時はメインストーリーのキャンペーンも全然進められてなく、
とはいえ、
はて?このニケだれ?っていうのが多かったけれど、
今はみんなもう分かってるわ!
見た目が派手で何このアホっぽいニケは?って言葉を選ばずに言ってあんまり苦手だったニケも
アーカイブの私が何度もここで言って泣いている「ミラクルスノー」のイベントはとても良い話よ。
だから、
なんかアホっぽいバカっぽいニケもいるけど、
みんないいニケなのよね。
それを知った瞬間になんかじーんとくるの。
最近はイヴみたいにバトルバトルした強そうで美しい新ニケの登場が少ないんだけど、
私はカッコよくて強くて美しいニケの新SSRだったら回しちゃうけど、
カウンターズっていう、
いわば主役級のニケたちがいるけれど、
ラピはレッドフードラピになって強くなったでしょ?
いずれなりそうで機会を伺っているのかもしれないわ。
量産型だけでずんずんストーリーを進められるようにって思うけど、
結構倍以上話されているでしょ?
今年の流行語大賞の
はらたいら、はらたいら、はらたいら、はらたいら、はらたいら。
合計で15000点!ってワオー!
そのぐらいの開きなの。
ちょちょっと、
到底全部のニケたちまで最強に仕上げる作業と物資は無課金ではゲットワイルドなのよ。
とても難しい挑戦ね。
2軍がどんどん追いついてきていて、
3軍もまた力を付けてきているから、
地味に強くはなってきているのよね。
だけど、
いまだにみんなと高いレヴェルに揃えられるシンクロデバイスってのがあるんだけど、
そこに装着させられてないニケのレヴェル1のニケたちもたくさんいて、
追いついていないところもあるのよね。
NIKKEの過去のイベントストーリーを見るだけのモードもあって、
そのフィルムのアイテムも36個とかたくさん持ち過ぎちゃって、
全部のアーカイブを見れちゃうかも!って見尽くせないところもあって、
やることたくさんあんのよね!
懐かしさを感じるために、
その頃見ても全く意味が分からなかった文脈もあるかも知れないわね。
今観たらまたより楽しめるかも~。
メインストーリーのキャンペーンとハードモードのキャンペーンと全然戦闘力が足りなくて足りなさすぎて、
レヴェル360なのによ!
弱くて進めないの。
苦手なパズルステージのロストセクターのミッションもこなしたり出来るから
見付けたらやることはたくさんあるのよ。
私が見て見ぬ振りをしているだけ。
でもステラーブレイドとのコラボ企画ではちょっと散財だったので、
ちょうどいいでしょ?
売上には貢献しているので無課金プレイヤーでも見逃して欲しいわ。
ステラーブレイドとのコラボ企画のリバイバルは来年6月にきっとありそうよ。
それまでに
強くてカッコよくて美しくしい新SSRニケが新登場しちゃったらまた変わってくるかもね!
なにがやってくるやらで。
うふふ。
レモン炭酸水2ケースが未だに届けないのは大丈夫かしら?ってちょっと心配にあるというか
他で買ってきちゃおうかしら、
どんどん発送予定があとの日にちに変わっていくのよ!
ふーふーしながら飲みーの朝の暖を暖かく身体の中から温めるのよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(Embodied Cognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、Cold Intelligence(処理能力)から Warm Intelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
まず世の中のものすべては「太陽」と「月」の属性を持っているのね。
で、身体にいい栄養価が高いとされているものは基本的には太陽の属性を持ってる。
太陽の属性を身体に取り込むことで体内で燃えてエネルギーに変換される。
またポジティブシンキングや社交的な態度というものも太陽属性のエネルギーの発露と言える。
でも太陽にあたりすぎると身体も悪くなるように、体内に取り込んだ太陽も同じように
常に煌々と燃え続けているのは体にとってよくないことなんですね。
身体を動かす原動力として覚醒効果をもたらすけれど属性が薄まると急激に倦怠感に襲われる。
なので月の属性を持っている水を夜に取り込むことで、
外部から月の光を取り込んで内部からも水という形で月の属性を呼び込むことで
体内の太陽の属性を中和して体内の属性を均衡状態に持っていくことができるんです。
太陽の属性が体内でエネルギーを燃やした残りの心身的なドロドロを融解して
そして同時に部屋を静かにして瞑想を行うことで精神的にも月の属性に傾けることで
再び翌日から太陽の属性を最大限輝かせるための燃料を内部に作ることができる。
そして最大の月の属性の行為の睡眠。その質を上げるために文字通り「呼び水」として
肌の色が目立つため目立ちますが、日本での偏見や差別は黒人に比べると比較的軽度な場合が多いです。
メディアでも白人はポジティブに描かれることが多く、外国人のステレオタイプ(親しみやすい、賢い、文化的に優れている)として扱われやすい傾向があります。
小中学校
「外国人扱い」や「英語ペラペラ?」などの好奇心からの質問はあるが、身体的暴力や強い差別は黒人に比べて少ないことが多い。
クラスでの目立つ存在にはなりますが、必ずしも孤立するとは限らない。
英語や外国文化に強い関心を持たれやすく、教師や友達から注目されることもある。
肌の色や見た目での深刻ないじめは少なめ。
白人として目立つことはあっても、友人関係で排除されることは少ない。
部活動や趣味を通じた肯定的な経験が得やすく、自己肯定感を維持しやすい。
外資系企業や国際的な職場で優遇されることがある(英語や外国文化への期待)。
「外国人枠」として扱われる場合があるが、黒人ほど偏見や嫌がらせは少ないことが多い。
ただし、田舎や保守的な地域では、やはり「目立つ存在」として視線を浴びたり、期待や質問を受けることはある。
4. 日常生活での目立ち方
街中で注目されることはある(外国人観光客として見られるのと似た扱い)。
店員や公共機関での対応は比較的穏やかで、差別や無視は少なめ。
メディアに出る白人像が好意的であることも多く、心理的負担は黒人より少ない場合が多い。
5. 心理的側面
「異なる見た目」という意識はあるが、差別的暴力や嫌悪感は黒人ほど経験する可能性は低い。
海外文化への関心や語学力、国際的ネットワークを活かしやすい環境に育つことが多い。
まとめ
白人として日本で生まれる場合、見た目の違いで注目されることはあっても、黒人に比べていじめ・差別・暴力のリスクは低めです。
肌の色や文化的背景は日本で目立つ要素ですが、ポジティブなステレオタイプの影響も大きく、自己肯定感や社会参加には比較的有利なことが多いです。
1. 心理・心の影響
長期的な虐待やいじめは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や慢性的な不安、抑うつを引き起こす可能性が高いです。
自尊心の低下、対人関係の不信感、人との距離感の問題などが成人後も残ることがあります。
一方で、心理療法や支援者との出会いで回復する人もいます。サポート次第で大きく変わる分野です。
幼少期〜思春期のトラウマは、就職・学業・人間関係に影響しやすいです。
大人になってからも「人に心を開けない」「職場での衝突や過剰な自己防衛」といった課題が残ることがあります。
しかし、強靭な回復力やスキルを身につけることで、普通に社会で活躍する人もいます。
3. 健康面
長期的なストレスや虐待は、身体的健康にも影響します(免疫力低下、睡眠障害、消化器系の不調など)。
精神と身体は連動しているため、ケアが遅れると慢性疾患につながることがあります。
30歳過ぎであっても、心理療法(認知行動療法やEMDRなど)、カウンセリング、信頼できる人間関係の形成で回復や自己肯定感の改善は十分可能です。
逆に、支援がなくトラウマを放置すると、対人関係の問題、依存症、引きこもり、感情コントロールの困難などが長期化することもあります。
一般論として、30歳過ぎていまだにトラウマを抱えたまま苦しんでいる人もいれば、心理支援や学びの経験を通して過去を乗り越え、自立して生活している人もいるという二極化が多いです。
特に黒人として日本で育った場合、社会的偏見も加わるので、回復には自己肯定感を高める環境や国際的なネットワークが重要になります。
つまりタルムードでは、身体の素材は親が与え、生命・魂・意識は神が与えるという明確な二元構造です。
親は自分の遺伝を伝える、しかし生命力そのものは神が注ぐという構造を示します。
したがって、「親がDNAを一から設計した訳ではない」という主張はタルムード的にも特に矛盾しません。
ただし、親の役割を小さくするような言い方はタルムードの精神とは一致しません。
タルムードでは、
「親を敬うことは、神を敬うことと並ぶ」(キドゥシン30b–31a)
親は神と共に人間を創造した共同パートナーであり、そのためカバド・アヴ・ヴェエーム(父母尊敬) が十戒に入るのです(出エジプト記20:12)。
2. 親が生命の神秘を完全に理解していなくても、身体の供給源である。
4. よって「体を与えたのは親ではなく神」はタルムード的には 正確ではない。正しくは、親と神の両方が与えた。
日本の男が仕事を理由に私生活や家庭を投げ出すのは、会社の仕事は社会的な決まりと分業があってそれに従えばいいからです。
私生活や家庭は、自分や自分たちで決まりを作ってトータルで自律運営しなければならない。
それができない・したくない・能力がないのいずれかで言い訳し、長時間決められた労働してでも逃げたい。
繰り返しますが、私生活をママがお世話してくれると考える幼児のまま。
ガキと子づくりしたい無責任男はたくさんいますが、ガキと子づくりしたい女はそういません。
子供を産めば自動的に経済機会損失が起こり、生涯賃金が減り、自らが損をするうえ夫はそれを理由に私生活を丸投げし、侮辱してくる。