はてなキーワード: 世代とは
今のネトウヨはネッ生まれネット育ちの老害世代なんで、三日前のことなんかそもそも覚えてないし覚えててもとりあえずごねるし謝るなんてことは無駄なプライドが許さないよ
(十三人の刺客)自分にとっては父親の世代に生まれ、われわれの先輩方が作った未知の世界。その作品をわれわれの次の世代が受け止めて、作り上げるとどうなるか? それは、ヒットした小説やコミックを映画化することより、ごくごく自然な行為だと思う。
Suicaのペンギンが2026年度末で引退するというニュース。
昨日ネットで見た。
そしたら、ふと思い出した。
Suicaのペンギンの中身の人とか、関係者とかじゃなくて、本当にペンギンが飲みに誘ってきた。
どういうことかっていうと、説明が難しいんだけど。
新宿駅の銀行ATMの近くに、Suicaのペンギンの銅像がある。
俺は毎日その銅像を見かけるんだけど、その日は何か様子がおかしかった。
銅像がこっち見てる。
でも、何か目が動いた気がした。
気のせいかもしれないけど。
本当だ。
「ねえ、君」
って。
いや、ぬいぐるみじゃなくて、本当のペンギンなのかもしれない。
「飲みませんか?」
って、ペンギンが言った。
正直、怖かった。
でも、拒否できなかった。
何か、逆らえない雰囲気があった。
だから、一緒に歩いた。
どこに行ったかは、覚えていない。
気づいたら、小汚い居酒屋にいた。
ペンギンと俺。
ペンギンが座ってた。
いや、座ってなくて、立ってた。
店員は何も言わなかった。
ペンギンが喋った。
「僕、もうすぐ引退することになった」
えっ?
「2026年度末で、Suicaのイメージキャラを辞めることになった」
「え、本当ですか?」
俺は思わず聞いた。
「本当だよ。25年やってきたけど、もう終わりだ」
「理由は?」
「理由?」
長い沈黙があった。
「Suicaが『生活のデバイス』に進化するんだそうだ。だから、イメージキャラクターも新しくする必要があるらしい」
「あ、そっか。新しい世代の新しいキャラクターが必要だということですね」
いや、ペンギンがどうやってビール飲むのかは、聞かない方がいい。
「でも」
ペンギンは続けた。
「複雑な理由?」
ペンギンは困ったような顔をした。
「言えないんだ」
「えっ、言えないんですか?」
「そう。25年も使われると、いろいろとね...」
「著作権とか、版権とか、そういった『商業的な』問題があってだな...」
「本来は、公開できない理由がある。でも、公式には『生活のデバイスへの進化』という理由にしておく」
「あ...」
ペンギンは続けた。
「言いたいんだ。本当に、何もかも説明したいんだ。でも、契約上、それはできない」
「そうなんですか」
「言えばいいのに、と思われるかもしれない。でも、そういうわけにはいかないんだ」
「わかります」
「25年間、Suicaのキャラクターをやってきたから、ね。最後くらいは、プロフェッショナルでいたい」
ペンギンは、遠くを見つめた。
「でも、心の中では...いや、これ以上は言えない」
ペンギンは、25年のSuica人生について、いろいろ話してくれた。
Pensta(ペンスタ)っていう専門ショップができた時の喜び。
グッズが売れすぎて、もう作る側も疲れてる話。
でも、なぜ引退することになったのかについては、それ以上は語らなかった。
「本当は、世代を超えて、ずっといたかった。サンリオのキャラクターみたいに。でも、ビジネスの都合で、そうはいかなかった」
ペンギンは言った。
「25年というのは、人間でいうと、子どもから大人になるくらいの時間だ。でも、キャラクターの場合は、そこが終わり」
「辛いですね」
「そうだね。言いたいことは山ほどあるけど、言えないんだ」
その後、ペンギンは、俺に言った。
「最後のお願いがあるんだ。できれば、これからの1年間で、他の人より多く、俺を使ってくれ。Suicaで電車に乗ってくれ。グッズを買ってくれ。そしたら、俺も報われた気がする」
「わかりました」
俺は言った。
「本当ですか?」
新宿駅の方へ。
銅像に戻るんだと思った。
あれから2週間。
ニュースを見た。
「Suicaのペンギン、2026年度末で引退」
やっぱり本当だったんだ。
でも、ペンギンが言ったように、理由なんて詳しく発表されてない。
その奥に何があるのか、ペンギンは言えなかった。
でも、その言えない苦しさが、全部を物語ってるような気がする。
俺だけが知ってる。
ペンギンが報われるように。
働き方改革とか言ってぬるい環境与えられた上にタイパコスパ残業キャンセルとか言ってる自己利益しか考えていないZ世代も、生活保護老人を現役世代で支えろとか言われても嫌だろ
クレヨンしんちゃん(野原家)、サザエさん(磯野家・フグ田家)、ちびまるこちゃん(さくら家)のような家庭が、なぜ今は実現不可能なのか、データで説明します。
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### 【野原ひろし(クレヨンしんちゃん)】
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## なぜ昔は可能だったのか?(1970~1990年代)完璧なデータが揃いました。では詳細に説明します。
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### **1. 年収は30年間ほぼ変わっていない(むしろ減っている)**
日本の平均年収は、1991年に446万6000円であったのに対し、2021年には443万円とわずかに減少しています
1990年~1999年の平均年収約455万に対し、2009年~2018年の平均年収は約418万まで下がっています
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1990年代の社会保険料負担割合は11.5%でしたが、2023年には18.7%まで上昇しました
消費税は、商品・製品の販売やサービスの提供といった取引に対して課税される税を指し、消費者が負担し事業者が納付します。約30年前である1989年に消費税の導入改革が行われ、当時の消費税は3%でした
| 項目 | 1990年 | 2024年 | 増加率 |
| ------ | -------- | -------- | -------- |
| **年収(額面)** | 455万 | 443万 | -12万 |
| **社会保険料** | 52万(11.5%) | 83万(18.7%) | +31万 |
| **消費税** | 3% | 10% | 3.3倍 |
| **手取り** | 約350万 | 約310万 | **-40万** |
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### **3. 物価は上昇している**
物価上昇でモノの値段が上がっている!ここ30年間で、物価も上昇しています。例えば…食パン(1Kg)116円から429円、牛肉(100g)237円から901円、牛乳(180ml)25円から126円に上昇
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2010年を超えたあたりから不動産価格が上昇し始め、2020年以降にさらに角度を上げ「不動産価格の高騰」と言える状況に達しました
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日本銀行が公表している1990年の普通預金金利をみると、当時の金利はなんと1.63%もあったことが分かります!100万円預けていれば1年間で1万6,300円(税引き前)も増えていたのです
| 年 | 普通預金金利 | 100万円預けたら1年後 |
| ---- | ------------- | --------------------- |
| **1990年** | 1.63% | 101万6300円 |
| **2024年** | 0.001% | 100万10円 |
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### 【1990年: 野原ひろし(35歳、年収650万)】
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| 項目 | 1990年 | 2024年 | 差 |
| ------ | -------- | -------- | --- |
| **年収** | 650万 | 720万 | +70万 |
| **手取り** | 505万 | 500万 | -5万 |
| **住宅ローン** | 年96万 | 年156万 | +60万 |
| **生活費(物価)** | 年240万 | 年300万 | +60万 |
| **貯蓄** | +72万 | -72万 | **-144万** |
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## なぜこうなったのか?(犯人は誰か)
消費税の増税も家計への影響を無視できない一因です。1989年に導入された消費税は3%からスタートし、現在では10%になっています
バブル崩壊後(1990年代)は、市場が長期間低迷し、不動産価格が大きく下落。2020年代は、都市部の再開発と外国人投資の影響で地価は上昇する一方
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## あなたへの問い
どう思いますか?
周りを見渡してみると40歳くらいを境に男が育休を取る、男が育児することへの解像度が大きく変わっている気がする
40オーバーだと妻は専業主婦もしくはパート、自分は育児をしたことがほとんどないか休日遊ぶくらいで主体的な育児経験はなしが多い
こういった世代は下の世代が育児をすることに対して正直苦々しく思っている
30代以下だと自分が育休をとるか、周りがとっているので理解があるし、まあ取るという選択もあるよねていう感じになる
もちろんハードワーク前提の仕事や職種もあるから自分は育休とかとらないという選択肢を取る人はいるし、単純に育休とれない中小企業に勤めているケースもあるだろう(増田は大企業勤めだからそんな人はいないと思うけど)
特にエンジニアとかからマネジメントにあがってもう現場でやれないから講演会とか本とか繰り返すタイプがマジできつくて無理になってきた
いつまでも若い時の気分のまま無邪気に苦言を呈するだけの中年が上の世代に詰まっててマジで厳しい気持ちになる
なるべく「男らしく」「女らしく」みたいな旧世代のジェンダー観を再生産しないように意識して子育てしてたつもりだったんだけど、
最近、下の子が兄の口調を真似して「〇〇するんじゃねーよ」とか「おもしれー」みたいなことを言うことがあって、
やんわり「丁寧な言い方しようね」みたいな注意をしているんだけど。
一貫性で言うなら上の子にも同じことを注意しなきゃいけないよなとは思うんだけどさ、
小学生の男子に、「おもしれー」って言うのやめて、「おもしろい」って言おうね、って注意するの、現実的に意味ないというか。
自分も小学生男児だった者として、親からそんなこと言われたらウザすぎるし。
じゃあ逆に、5歳女児も「やっべー、おもしれー」と言うことを看過すべきなのかもしれないけど、
正直!嫌なんだ!そんな言葉遣いしてほしくないんだ!娘には!息子は全然いい!でも娘は嫌なんだ!
ああ、これがジェンダー観の押しつけなのか…と自覚しつつ、もうここはエゴに従うことにしている。
こういうの、どうなの?俺、ダメかな?
【追記】
「どっちも注意すべき」と「どっちも注意しても無駄」が6:4くらいか。
男子で「〇〇するんじゃねーよ」とか「おもしれー」くらいは正直汚い言葉にも入らないレベルという認識で、
むしろ上記レベルで汚いとか言ってたら友達の輪に入れないと思ったから。
でも、女子でそういう言葉遣いをしていたタイプは自分の時代で言えばいわゆるギャルとかその手前くらいの認識で、
まともな女子は(少なくとも学校では)使ってなかったと思うし、ぶっちゃけ俺自身がギャルとか嫌いだから。
仙台育英学園が「体育会サッカー部における構造的いじめ」を認定し、12月末までの対外活動停止を発表しました。
学校の最終報告では「部全体・顧問団の人権意識が不十分で、構造的にいじめを生じさせる体制だった」としています。
もし本当にいじめがあったのなら、関係者が責任を負うのは当然です。
しかし、現状の学校対応には、保護者として強い疑問を感じます。
焦点は「被害者」ではなく、「学校の説明責任と判断の妥当性」です。
聞き取り調査の中で明らかになった内容は、次のようなものでした。
ただ、遅刻・居眠り・無断欠席はいずれも本来してはいけない行為であり、それを同級生が強い口調で注意したことまで「いじめ」とされている点に、強い違和感を覚えます。
これはどこの学校や部活動でも見られる“注意・指導の一場面にすぎません。
本人が嫌な思いをしたとしても、
それだけで「いじめの構造」と結論づけるのは、教育的にも慎重さを欠いています。
保護者の証言によれば、当時のサッカー部には「罰則が厳しい雰囲気」があったのは事実です。
試合で負けると「坊主にする」空気があった(ただし明確な強制ではない)
寮では遅刻やお菓子の持ち込みに罰則があり、当時の1年生が“お互いを監視し合う”ような状態が生まれていた。
厳しすぎる規律が子どもたちを息苦しくさせていたのだとすれば、
それを是正すべきは指導者であり、生徒全体を処分する理由にはなりません。
今回「構造的いじめ」とされたのは、学校発表によると2024年5月までに発生した出来事。
つまり、それは現3年生が1年生だった頃の話です。
しかし、実際に活動停止の影響を受けているのは、当時まだ中学生だった現1・2年生です。
彼らは、問題の経緯も知らず、被害を訴えた生徒の顔すら知らないという状況です。
それでも学校は、「構造的いじめのあった部として再発防止を徹底する必要がある」として、学年を問わず全員を対外活動停止としました。
過去の体制で起きた出来事を理由に、関係のない生徒たちまで処分対象にするのは、あまりにも乱暴です。
個人の行為ではなく、組織の過去の文化を理由に“無関係な世代まで罰するという構図は、
学校の報告では、「冗談やいじりであっても、相手が不快に感じたらいじめに該当する」と記されています。
しかし、意図や関係性を一切考慮せずに「不快=いじめ」としてしまえば、
生徒たちはお互いに何も言えなくなります。
教育現場で求められるのは、断罪ではなく“線引きを学ぶ機会”です。
部内で上下関係が固定化し、強すぎる規律や連帯責任があったなら、
生徒たちがその環境でどう育ったのかを丁寧に振り返り、
誰がどのような指導方針をとっていたのかを明らかにすることこそ、
具体的な事実認定を示さず、“構造的いじめ”というレッテルだけが独り歩きしていることです。
誠実に努力してきた選手たちが、何の説明もないまま大会出場を奪われ、
精神的に追い詰められている。
「人権」を守るための対応が、別の子どもたちの人権を奪っているという矛盾が起きています。
本当に苦しい思いをしていたのなら、支援されるのは当然です。
しかし、その結果として関係のない生徒たちまで活動停止に追い込まれ、
これは本当に、被害者本人が望んだ形だったのでしょうか。
もし今、学校の対応によって新たな分断や不信が生まれているのだとしたら、
誰も救われていないということになります。
守るべきは「誰が悪いか」ではなく、「どうすれば皆が尊重されるか」ではないでしょうか。
いじめは決して許されません。
遅刻・居眠り・無断欠席を注意するような、ごく普通の場面までも“いじめ”と認定されている。
結果として別の理不尽や二次被害を生んでいるのではないでしょうか。
被害者を叩きたいのではありません。
本当に問いたいのは、学校の説明責任と、教育機関としての姿勢です。
生徒ではなく、学校です。
ドラクエリメイクをやっててつくづく思うのだが、ゲームのエンディングに辿り着ける権利はもっと守られべきだ。
このシリーズには「楽ちんプレイ」というモードが搭載されていて、いつでもオンオフできるようになっている。
オンにすると戦闘やダメージによるキャラクターの死がなくなり、攻略を必要とせず先に進めるようになる。
隠れボスや真のエンディングに必要な要素に関係なく、これさえオンにしてしまえばほぼ誰もが用意されたエンディングにたどり着くことができるようになるのだ。
賛否ありそうな機能ではあるが、自分にとってはものすごく歓迎できる機能だった。
ドラクエリアタイ世代だった自分にしてみれば歳を取ったということが一番大きな理由ではあるが、趣味嗜好が多様化している現代のライフスタイルにしてみても、時間をかけて何度もリトライするようなゲーム性は恐ろしくタイパが悪いと感じられてしまうようになってしまった。
ゲーム中の体験そのものが楽しいというのであれば、それはタイパが悪いと感じることはない。
そういった意味では、ドラクエリメイクのゲームバランス自体は自分にとってNot for meなだけだった話ではある。
しかし、だからといってそのままエンディングにたどり着けないことを納得できるかと言われると、一体自分はゲームの何にお金を払ったのかがわからなくなってしまうような理不尽さがある。
例えば最近賛否のあったHollow nightのSilk Songを例に挙げてみる。
いわゆる死に覚えゲーではあるのだが、その難易度の高さやリトライ性の悪さによってかなりの意見が割れることとなった。
評判の良かった前作から発売までに時間がかかったことや大作級の作品であるのに価格が2,000円台と安価だったこともあり、たくさんのプレイヤーが発売直後に飛びついたことも大きな要因ではあるが、自分にしてみればやはり大半のプレイヤーがエンディングにたどり着くことを諦めてしまった、諦めざるを得ないほどの難易度だったことが一番の要因だと思っている。
せっかくゲームを購入したのに、それ以上先のストーリーを知るためにはさらに時間をかけて技術を習得したり相手のパターンを理解できるまで何度もリトライしなくてはならない。
いわばゲームの値段以上の人生のリソースというコストを消費する必要があるのだ。
もし自分が若くて、まだまだいくらでも人生のリソースを浪費できる立場にいるならよい。
しかし、自分にはそんなに自由に使える時間は許されていないし、仕事で疲れた頭と体にムチを打ってまでゲームに打ち込むほどの気力も体力も熱量もない。
そうなったときに、そもそもエンディングに辿り着けるために必要なリソースが足りないと感じただけで、そういったゲームの購入を躊躇してしまう自分がいることに気がついたのだ。
ゲーム好きを自負する自分にとっては、なかなかに受け入れがたい現実だった。
そういったこともあり、最近では大体のゲームはsteamで購入するようになってしまった。
Swtich2もPS5も入手困難時期に購入するくらいにはゲームが好きである自負はあるが、そのゲーム機でしかプレイできないゲーム以外は殆どの場合steamで購入している。
いわゆるチーター的な利用ではなく、シングルゲームで体力などのステータスや消耗品や消費ポイントを無限にするなどに使っている。
目的はもちろん、自らに残された少ない人生のリソースでそのゲームのエンディングに確実に辿り着くためだ。
例えば映画を視聴しているとき、突然謎解きゲームが始まって解くことができなければ結末を見ることができないとなったらどうだろう。
もともとそういう作品だと宣言されているなら納得できなくもないかも知れないが、やはりそれが理由で結末を見ることができなかった人にしてみれば返金を求めるくらいには問題になるのではないだろうか。
ちなみに先程のSilk Songでいうと、ノーマルエンドの実績取得率は26%。
初期の道具を獲得するというゲームを開始すればほぼ取得できる実績の取得率が約92%なので、雑に計算しても4人に3人はエンディングにたどり着けていないことになる。
ストーリーを全て踏破した上でクリアしたときの実績に至っては約15%。
このゲームをプレイした6人に1人しかこのゲームのストーリーをすべて知ることができていないのだ。
製作者サイドは自分が作ったゲームの難易度を誇るのも良いのだが、自分が生み出した良質なストーリーが大半のプレイヤーが知り得ていない現実にもっと目を向けるべきではないか。
チートを使い始めてからというもの、今までエンディングに辿り着けそうにないからと購入を諦めていたようなゲームも買うようになった。
これは制作者側にしてみても単純にプラスと言えるのではないか。
かと言ってこのままチートを使い続けることが健全な状態だなんてことは微塵も思っていない。
実績というシステム自体が、そうした難易度という壁を乗り越えてこそはじめて得られる名誉だということも理解している。
その上で、ゲームを購入した人間にとってのエンディングに辿り着ける権利というものをもう一度考えてみてはどうだろう。
購入時に”エンディングに辿り着けないかもしれないという不安”がないということは、ゲームにお金を払おうとする上で大きな安心感になるのではないか。