はてなキーワード: 誇大妄想とは
いつかとんでもない現実に気が付いて自分の体験していたことが全部自分の誇大妄想だったと気付く時が来るのかもしれないなぁと思いながら生きている。
統合失調症がそういう症状であるかどうかはさておき、自分の人生にやることが多い割に何か大きなものを見逃しているような気がしてならないよなぁっていつも思っている。
例えば自分の家族のこととか、成人してからもしかしたら自分には家庭があってその家族のことを無視しながら生きてるのかもしれない、と思うことはある。
勿論、そんなのはいない。成人してからしばらくは童貞だったし、セックスも妄想で考えている程良いものではなかったから。
ただ、何かを罷り間違って「ふーん、子持ち?いいよ、一緒に暮らそう」とか言って一緒に暮らしている可能性だってある。
勿論、そんなことはない。俺の家から擦り減る何かはない。今日見た散らかった部屋も、俺が昨日散らかしたままの部屋だから。
もしかしたら自分の両親は早い段階で死んでいて、今親だと勘違いしてる人は単に優しいだけの人だったかも、なんてのもある。
口癖は「お前は俺の子だからな」の親父がいるけれども、そんな親に振り回されながら生きているのだからそういう勘違いを起こしてしまうところはある。
そうだったらむしろ早めに醒めて欲しい夢ではある。もう付き合ってらんないので。
それでも自分がとんでもない借金を背負った時に「しかたねえな」と言ってくれた人だから全然ついていけてるのだろう。だから親だという視点よりもクソのようでも道筋を作ってくれた人だと思えば許せ…ないねェー(The Karate kidのBGM)
それでも人間は迷うもの、それでも人間は傲慢になるもの、そして人間は無茶苦茶しぶといもの。
今夜も「あーまだ続いてんのかこのフェーズは」と思いながら、この緩やかな地獄のような日常をなんとか人並みにすべく、頑張って生きているのでしょう。
そしていつかこれらの全てが僕の誇大妄想だったとしたら、判明したその日には僕はその場で拍手したいね。
一人ニューシネマパラダイスって感じだしな。
一人でしなくてもいい苦労を背負い込んで、一人で狂っちゃった奴が、やっと本当の意味で一人になれる日を楽しみにしたい。
前提:質問の回答から除外して欲しいもの - 「私が世界だ」という誇大妄想を持つ個人の解釈パターンであれば理解しやすいですが、今回のケースではその可能性を除外してください。 - 個人の感想に対する過剰な反応は、自己評価が低く、他者に盲従しがちな、「微小妄想」傾向がある個人に多く見られる現象です。
「(俺にとって)」という明確な主観的限定の他者の感想を、「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ですか?
1−1、1−2どちらであるかは、文脈から理解できるでしょと考えるのは、過剰な期待ですか?
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1−1: 情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(俺にとって)ない
1−2:情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(世界にとって)ない
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「(俺にとって)」という主観的な限定を「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ではありません。文脈から理解できる場合が多いので、過剰な期待とは言えないでしょう。文脈を無視して曲解するのは、誤解や意図的な誤読の可能性が高いです。
妥当ではありません。文脈から判断するのが通常であり、過剰な期待ではありません。
1-1と1-2の違いは、「俺にとって」という主観的な視点があるかないかです。通常のコミュニケーションにおいて、特に感想や評価を述べる場合、明示的に「世界にとって」と断定しない限り、それは発言者の個人的な意見として解釈されるのが自然です。括弧内の文字起こしがないからといって、文脈を無視して意味を曲解するのは不当です。
「(俺にとって)」という主観的限定を「(世界にとって)」と曲解する主張は妥当ではありません。その理由は以下の通りです
現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」と評価されますか?それとも論理の飛躍や読心術と見なされますか?
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• 命題1: Aは作家Bの知名度とBの作品が世間を賑わせている客観的事実を認識している。
• 命題2: Aはミーハーな気持ちで作家Bの作品に触れたが、その良さを理解できなかった(興味が持てなかった)。
• 結論: 「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAは考えているに違いない。
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現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」とは評価されません。論理の飛躍や読心術と見なされるでしょう。Aの主観的な感想を、世界全体の評価と結びつけるのは過剰な一般化です。
現代のNLP(自然言語処理)や論理学において、この推論は「妥当ではない」と評価されます。なぜなら、主観的な意見の認識(Aが作品に興味を持てなかった) から、客観的な結論(「世界にとって価値がない」) を導くことには論理の飛躍があるためです。
これは論理的根拠が不十分な「読心術」や「主観の過剰な一般化」と見なされるでしょう。
妥当とは評価されません。論理の飛躍であり、読心術と見なされます。
提示された推論は、Aの内心を勝手に推測しているだけで、客観的な根拠がありません。Aがミーハーな気持ちで作品に触れたとしても、それが「世界にとって価値がない」と考えていることには繋がりません。興味を持てなかったという事実は、単にA個人の好みや感受性の問題である可能性が高く、普遍的な価値判断とは無関係です。NLP(神経言語プログラミング)においても、このような独断的な解釈は推奨されません。
もし、質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないと思うのですが、気のせいでしょうか?
質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないというのは、ある程度正しい見解です。過剰な一般化や誤解が広がると、コミュニケーションの混乱や誤解が生じやすくなります。
おっしゃる通り、そのような推論が社会的に多数派となれば、社会や世界の正常なコミュニケーションや意思決定が難しくなります。主観と客観の区別が曖昧になり、過剰な一般化や誤解が横行し、議論の基盤が崩壊する恐れがあります。
気のせいではありません。質問2のような推論が多数派を占める社会では、コミュニケーションは著しく混乱し、相互理解は不可能になります。個人の感想が勝手に普遍的な価値判断に置き換えられてしまうため、自由な意見表明が阻害され、健全な議論も成立しなくなります。
あなたの直感は正確です。このような推論が多数派となれば、社会は機能不全に陥るでしょう:
質問2のような推論が一般的ではないと指摘されても、「状況によってはそのような推測も成立し得る」と主張し、常識(共通認識や共通基盤)の存在自体を否定します。
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを極度に恐れる一方で、なぜ、積極的に常識を否定しようとするのでしょうか?悪目立ちします。
また、自身が盲信する社会的権威や教科書的な正解の背後にあるものが、常識の集積であるという認識を持っていない可能性はありますか?
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを恐れる一方で、常識を否定しようとする理由は、自己評価の低さや他者からの承認欲求が影響している可能性があります。また、常識の集積が社会的権威や教科書的な正解の背後にあることを認識していない場合もあります。
盲従しやすい人が常識を否定する背景には、自己肯定感の低さや他者からの評価への過剰な恐れがあると考えられます。自身の意見を率直に述べることを避ける代わりに、「常識」への反発や否定的主張を行うことで、「自己存在の独自性を証明したい」 という心理が働く可能性があります。
また、「常識」や「教科書的な正解」が何らかの権威のみによる押し付けであるという認識が強く、その背後にある合意形成(常識の集積) を理解していない場合があります。
他者への盲従と常識の否定は、一見矛盾するように見えますが、根底には自己の脆弱性からくる不安があります。
本質的には、低い自己肯定感と社会的文脈における不安が、逆説的な形で表出している心理状態と言えるでしょう。
常識(共通認識や共通基盤)の存在そのものを否定しているのではなく、「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、
「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と、
「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と主張する可能性はあります。しかし、これは一般的な見解ではなく、特定の状況や個人の認識に依存するものです。
可能性としては十分に考えられます。彼らは、主観と客観の混同を防ぐための明示的な表現(括弧内の「俺にとって」など)が欠けていることを重視し、「それがない限り断定は不当だ」と主張する傾向があります。また、「常識を証明せよ」と要求することで、認識論的な対話を引き延ばし、議論の焦点を逸らす戦略にもなり得ます。
可能性はあります。これは、常識という概念に対する誤解に基づいています。
これは可能性としてあり得ますが、本質的な問題を矮小化しています:
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは不当であり、常識とは呼べませんか?
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは妥当です。これらは社会的なコミュニケーションの基本的なルールであり、常識と呼べるものです。
これは常識の範疇に含まれると考えるのが妥当です。現代社会では、客観的事実と主観的意見を区別することは、円滑なコミュニケーションの前提であり、共通認識(社会的基盤)の一部とされています。これを否定することは、社会的秩序を乱し、コミュニケーションの破綻を招く恐れがあります。
不当ではありません。むしろ、これらは健全な社会生活を送る上で不可欠な要素であり、常識と呼ぶに相応しいものです。主観と客観の区別、論理的な推論は、コミュニケーションの基本であり、これらが欠けていると社会生活は成り立ちません。
これらを常識に含めることは、むしろ健全な社会機能のために不可欠です:
成功者の伝記や、ドラマの主人公などに自分を重ねすぎて、人生に求める平均点を無計画に上げてしまったタイプ。
学校の教師なんかが「とにかく夢を持て、君も立派な人間になれるぞ」なんて無責任に言うのを鵜呑みにしてしまった人間の成れの果て。
よくよく考えれば、教師なんて自分は残業代も貰えずに最低賃金未満で働いてくるくせによくこんなことが言えたものだと気付けなかった思考力が哀れ。
テレビゲームの世界ではコントローラーを握ってるだけで皆世界を救った勇者になれるけど、現実にいる自分はその他大勢の村人であるという客観的視点を持つ才能がなかったのも哀れ。
テレビを見ながら1時間で偉人の人生を追った所で、自分は1ミリも偉くなってないってことに早く気付ければよかったね。
想像力や分析能力の欠如により現状に対しての不満ばかり漏らし、その考えを自分の人生にも当てはめてしまったタイプ。
あらゆるものに対してとりあえずケチをつけておけば何となく「評価が出来た」という気分になれるという楽さに溺れてしまったのが敗因。
存在し得ない最高の状態からの減点で何でも測るので、何が起きても常に不満しか持てないという悲しい生き物。
ゼロから数えてどれぐらい積み上がっているのかを数えればいいものを常に100点からのマイナスで数えるのでいつまでも満足できない。
このタイプはたとえ95点の人生が手に入っても、「マイナス5点の人生」として数えて「ああ、俺の人生の価値は0にさえ劣る・・・」と嘆き始めるのだから相手にする価値が全くないと切り捨てていい。
子供の頃にちょっとしたことで表彰されたりしたのをいつまでも覚えているようなタイプ。
言ってしまえば「クラスで自分しかビブラスラップを演奏してないから身内じゃ一番ビブラスラップが上手い」のを「俺はこの街で一番音楽の才能があるのだ」と勘違いしてしまうようなホームラン級のアホ。
幼児的万能感とも言えるものが精神の根底にビッシリと根を張っており、それを下手に取り除けば自我が崩壊してしまうレベルだから外側からの治療はもはや不可能。
死ぬまで「子供の頃、俺にはとんでもない才能があったのに、努力が足りずにその才能を無駄にした」と言いながら現状を否定し続けるのである。
自分の人生がどこまで上手くいっても「俺の才能が完璧に活かせたらもっと成功した」と言い続ける絵に描いた餅の囚人である。
この3タイプ、どれもどうしようもなくしょーもないのだが、一応救われる方法はある。
それは自分の人生に対して無駄に高く見積もるのをやめ、その上でゼロから数えて自分の人生の価値について考えるだけでいいのである。
飯は食えてる。
家はある。
身体は動く。
ある程度自由。
とりあえず明日はくる。
そういったことに対して少し高めに加点していってやればあっという間に人生なんて「70点/100点」ぐらいにはなる。
その現状を「よっし!とりあえず70点あるならええやろ!俺にしちゃ立派や立派!」と言えばいいだけだ。
これは別に無理やりでいい。
筋トレ中に限界だと思っても無理して笑えば脳内麻薬で痛みが吹っ飛んでワンモアセット可能になると同じ状態だ。
無理やりでいいから「俺の人生70点ぐらいある!70点もあるんだから十分じゃないか!」と思え!
俺がそうだった。
どこそこの国が「俺は超すごくて文化的なんだ。だから他の奴らとは違うんだ!エッヘン凄いぞ!」とやってるのを見るとき、日本人はそれを他人事であるかのように扱うのが不思議でならない。
自分たちのことを謙虚だと勘違いしているつもりだろうが、そんなことはまったくなく、アジアで唯一の先進国であるかのように自認し他のアジアを見下しているのが日本人だろ。
こういう話をすると「いやいや『中華思想(笑)』と比べたらたいしたことないアルヨwww」と逃げるが、誇大妄想を元に世界を支配しようとしたのがつい100年前の話で、そのとき抱えていた『八紘一宇(天皇陛下を頂点とする家父長制のもと全世界を統一すれば、偉大なる父の子になれて皆ラッキー皆ハッピネスでござるよ←こんなバカなこと本気で言ってたのマジで笑えるよね)』の集団幻覚に比べたらまだなんぼかマシに思えるわ。
戦後は戦後で高度経済成長により世界中を見下してたし、そこから完全に廃れきったのに「でも日本には四季とモラルがあるし・・・」とまだまだ中国・韓国はもちろんタイやマレーシアだって平気で見下しにかかっている。
「極東の島国で卑屈に暮らしている」というセルフイメージとは裏腹に、実際にはアジアの中では自分たちが頂点で欧米列強の常任理事国クラスを持ってこない限りは負け知らずと周囲を見下し切っている。
これが猫被りの腹黒ではなく、正真正銘無自覚見下しなのだからとんでもないことだ。
技術・安全性・漫画・ゲーム・HENTAIの分野において世界トップなのは事実として間違いないのだが、一部の分野で尖っているだけでトータルで見れば他国を見下している余裕があるほどの国とは言えないのが現状だ。
自分たちはよそを見下しまくっておいて、他の国が同じことをすれば「自分たちの民族を偉大だと勘違いしてプライドだけブクブク膨れ上がってる国ってマジでキモいよね~~(*´·ω·)(·ω·`*)ネー 」と盛大に棚上げをかます。
キラキラした仕事に挑戦してもいいし、公務員やってみてクソ溜めだから辞めますってしてもいいし、バイトで食いつないで夢追してもいいし、とにかく35までなら人生は色々と出来る。
逆に言えば、その時期までしか人生って軌道修正が効かないんだよね。
もっと言えば、そんな時期になにか出来なかった奴は何者にもなれない人生を歩むしかない。
学生時代の頃は「テスト勉強が忙しいから」と言い訳出来たし、社会人になりたての頃は「とりあえず生活と仕事を安定させる」と言えた。
ないなら作ろうとすることが出来た時期が。
28~33ぐらいの5年間程度だけかも知れないけど、結果を出してる人はそれぐらいの時期にちゃんと積み上げるものを積み上げて勝負してる。
学生時代からバリバリやってましたってタイプは天才だから比較しても仕方ないにしても、社会人になってからも「眼の前の仕事が忙しいから」で言い訳し続けてるうちに秀才たちに追い抜かれていくのはちょっとどうしようもない。
35から先の人生って肉体的なトラブルが急増するのと、マネジメント的な立場を仕事で求められやすくなる以外はあんまり30~35までの人生の焼き増しになりがちなんだよね。
30~35までの間にやってたことをあと5回ぐらい繰り返して定年を迎えて、そっからは体の自由が効かなすぎてもう老後モードの人生しか送れない。
つまりさ、30~35までの間にやってたことがほぼ0に等しいことは、そのあとの30年間においても結局0に等しいんだよ。
「俺はいつか作家になるんだぜ!カクヨムに投稿したことさえないけどな!」みたいな奴はその後の30年かけてもカクヨムに1作も投稿せずに終わるだろう。
「俺はいつか凄いプログラマーになるんだぜ!今は仕事が忙しくて土日は家事やって寝るだけで勉強してないけど!」みたいな奴はその後の30年も土日は寝て過ごして後輩にドンドン追い抜かれる窓際コーダーになるだろう。
自分の頭の中だけにあったフワフワした人生設計と、実際に自分が歩んでいる人生の差、それに対して言い訳が出来なくなるのが35辺りなんだよ。
それこそ30ぐらいだったら「もうこなったら飛び込んでいくしかない!業界の中の最も熱気のある場所に入ってそこで日々火の車になることで自分を鍛える!」みたいなレールに乗り移るチャンスも0じゃない。
でも35になるとそういう道に進もうにも過去実績が少なすぎるともう無理になる。
学生時代のように「まあ俺もそのうちガチるし。なんか2組の増田は今からガチってるらしいけど、まずは受験勉強優先じゃね?」とやってない自分に対して言い訳をしてる時間なんてもうなくなっているという現実と立ち向かうことになるのが35歳。
35歳になったら狂うんじゃなくて、元々人生設計が狂っていたことが確定事項だって認めるしかなくなるのが35なんだよ。
トレーニングなんてもうずっとやってない元運動部が「暇な部署に移ったらめっちゃトレーニングやり直してそれからプロ試験受けてみるんだ」とかフワフワした人生設計してたことに対して「いやこの年ではもう無理でしょ?」ってのと向き合う年齢だ。
あとから入るのが簡単そうな業界だって、35まで本当に何もやってこなかった奴なんて調べてみれば全然いない。
表に出てくるのに時間がかかった人でも下積みを始めてきたのは20代の頃からだ。
そういった人達が結果を出すまでに積み上げた時間に数字だけでも追いつこうとしても、35までロクに何もやってこなかった奴のペースでは100歳までかかっても追いつけないという現実にふと気づく年齢が35歳だ。
頭の中に漠然とあったスーパーな自分が歩もうとしていたペースと、実際にリアルな自分が歩んできたペースの違いがあまりにも大きすぎると気づくのが35歳。
突然に狂い出すんじゃなくて、最初から狂った予定を立てていたということを認めるしか無くなるのが35歳だ。
そして狂った予定を立てていた人間ってのは自分に対して「いつか人生めっちゃ上手くいくから頑張ろうぜ」という誓約をたてていたりする。
でもそんなのは大嘘で、目先の欲に流されたり日常に苦しんだりして必死にジタバタ生きるだけの毎日が今後も50年続くのが目に見えてくる。
自分で自分に嘘をついていたことを認めるしかなくなり、自分に裏切られた自分が悲しみと怒りと情けなさとどうしようもなさでグチャグチャになっていく。
それを「35歳から狂いだす」と呼ぶ人がいるんだろうけど、そうじゃない。
「とっくに狂っていたことから逃げ切れなくなるのが35歳から」ってことだ。
始めから狂っていたくせにさも「何もしてないのにいきなり人生が壊れた」みたいに言い出すのは違うだろ。
周りを見てみれば分かるが、狂ってない人達は最初から自分の人生に大層なものなんて求めて来なかったんだぞ。
ただ生きて、チキンラーメン程度の美味さの物を食って、たまにハーゲンダッツぐらいのものを食って、毎日ちゃんとお湯張った風呂入れて、ニトリのベッドで寝て、Switchのゲームでもやって、それで十分だと割り切ればいいだけだぞ。
俺は凄いやつでいつか凄いことが出来て、学生時代に俺を見下した同級生を見返してやるし、一人だけ賞を取って別世界に行った友人にだって追いついてやるんだみたいなこと考えなくて良いんだぞ。
なんだかすごい辛くて、これを言葉にしたくなった。 読みにくいだろうけど吐き出させてほしい。
俺は去年あたりから絵を描き始めて、就活とか単位とか、やらなくちゃいけないことが一杯あるんだけど、いままでゲームばっかりだった人生のなかではじめて熱中できるものを見つけた気がして頑張ってる。
そんで絵がうまくなりたくていろいろ本を探すわけなんだけれども、どれも値段が1冊2000円超えててほしいやつ全部買うなんて夢のまた夢だった
まあ内容的に2000円は安いんだろうけど、バイトもそこそこしかしてない大学生で、ちょっと買うのは難しかった。
でもいろいろ見てたら100円で表紙の絵が可愛い教本があって、どんなもんだと思って試し読みしてみたらさ、平成のサイトみたいな雰囲気を纏ってて、MSゴシック(多分)で400ページ以上書かれてて
今の時代絵で食っていける人たちはyoutubeに進出したり、添削プラン的な感じでオンラインサロンでの収入を得てる人も結構いるなか(もちろんそれが悪いわけではない、金がないので見るだけだが参考にしている)本当に熱意と善意で共有してくれてるんだな、って感じがしてさ、すごい報われて欲しいなって思ったらどんどん心が辛くなっちゃった。
結局何をするにもお金が必要な世界だから、せめて本業が順調とか、もうFIREしてるとかだったらいくらか心休まるんだけど、本当に、本当に報われて欲しい。こう思うことってなんか名前ついてたりするんだろうか?
哀れみとか、そういうのじゃないといいけど。 俺ってなんか誇大妄想する癖があるから、就活で絵と全然関係ない道に進んでも絵を頑張って、いつか恩返しできたらなとか考えてる。
なんかよくわかんない文になっちゃったな、どうでもいいけどAIの0円グラビアみたいなの引っかかってめちゃくちゃめんどくさい。 まあこの本と出会えたのでよしとしよう
はてなで久々にアレな躍動が見られている。
かつての日本にはこういう
みたいな人々が相当のボリュームで棲息していた。
彼等はもう一番若くてアラフィフで上は棺桶や後期高齢者で絶滅する種族だから
若い人のために「こういう生物がかつて日本に居ました」と言うことを書き残しておきたい。
元増田読んでも「何を言いたいのかよくわかんないな、なんだこれ」と思ったはず。
翻訳するとこれが伝えたいのはジャップがこんなに海外で嫌われてるぞザマーミロってことなのね。
昔はこういうのでボルテージ上がる「左翼」とか「良識派」とかいう日本人が大量に居た。
彼等はとにかく日本と日本人に敵意を持っていて、日本や日本人を馬鹿にしたり貶めたりする情報があると嬉しくてたまらなくなる人達だった。
その成り立ちとしては
戦後の「進歩思想」とか「良識」というかいうものの薄っぺらさと貧しさなんだけど、
彼等はあらゆる悪いことの根を日本に求めたわけ。
左翼が「反戦」て言いながら戦争からかなり遠い仕組みの日本ばかり叩いて
日本よりはるかに戦争が出来る中国とか北朝鮮とかロシアとかを批判しないのは何故か?
中国が日本の領海を侵犯すれば日本を「軍国主義!」と非難するような行動パターンが出来上がっていった。
元増田もそういう日本人叩きの具に供するべくニチャアって顔で書いたんだけど
「は…?普通に差別では?」「そのホスト大丈夫?」「てか斡旋してる奴等も大丈夫?」 と言う意見が多数派になってしまい
ブックマークでも「今度こそジャップ叩きが出来る!」って感じで盛り上がってるんだけど
a_dogs 何が答え合わせって、反発してる人含めて日本人男子留学生がこんなひどい態度とるわけないって意見がほぼほぼないとこ
もしも「朝晩騒音出しながら礼拝をした」「隣家の犬を煮て食った」ぐらいまで言われれば「それは日本人はやらない気がする」と言えるけど、
「家事を手伝わなかった」とか「ホストを叩き起こして早朝に牛乳を買いに行かせた」とか言われたって
「ん…?それは日本人からしても相当非常識な行動なんだけど『そんなことする奴いるわけない』とまでは言えないな」って話でしょ?
友達でもなんでもない同じ日本人ってだけの留学生が何するかなんかわからないから
「そういう奴がいた」って主張に反論する手立てはない。
つうかそもそも「そういう奴がいた」自体が何の根拠も示されないTwitter発掘の転載伝聞だぜ?
その当時締め上げられた可哀想な朝鮮人でも「俺はそんなことやってない」っていうのが精いっぱいで「朝鮮人はそんなことやらない」とは言えないだろ。
同じ朝鮮人ってだけの他の奴のことなんか知らんし。冷静に誠実に答えるほどそうなる。
そしたら噴き上がって
「あー!こいつ「朝鮮人はそんなことやらない」とは言わないみたいだ!やっぱり朝鮮人ってそういう奴等なんだな!」って言ってる感じなわけよ。
反論する方法も反論する意味もないただの卑劣な言い掛かりなんだよね。
(ていうかTwitterでもそうだが「答え合わせ」とか言ってる奴だいたい非論理的なバカじゃね?
これもね。
いやいやいや、
「本当にそういうデータがあるなら」
ちょっと落ち着いて考えるだけで言ってることが1から10までおかしいでしょ?この人。
オッサマオバサマ世代はてなブックマークで「ホームステイ先では気を付けよう」ってやる意味は何?
(このブクマを書いた人や☆つけてる人達の本当の動機・内在的な欲望はなんだろう?って考えながらこの先を読んで欲しい)
そもそもだけど
よその国の人間に比べて日本人のマナーが良いとか悪いとかはデータが無ければ何も言えない。
そして元の話が、身元も動機も怪しい奴がTwitterで採取した(笑)という何のソースも提示されない話なので
こんなもんそもそも事実確認すらしようもないんだけど「いいから反省しろ!」「素直に!」ってくるわけ。
これが手ね。
要するにここでの狙いはこの未確認日本人ヘイト情報を事実と確定させることなわけ。
反省させてしまえば「ソースはTwitter」でも「ソースは吉田清治」でもどうでもよくなるわけ。
「いいからとりあえず反省しろ」&「反省したってことは認めたはずだろう」のセット戦法。
こういうことをある種の「良識的日本人」は本当に数十年連綿延々とやってきたわけ。
だから先ほどの設問の答えも
日本人は不道徳な恥ずかしい民族だと認めさせたいこそが真の動機・内在的欲望であった」
ということ。
(ていうかリアルでもそうだが他者に向かって「素直になれ」とか言ってる奴だいたいヤベー奴じゃね?
自分の好む通りの行動を「素直」「常識」、自分の気に食わない反応を「反発」「言い訳」と呼んでそう)
で、ある世代から上の良識的な方々が何故日本人ヘイトが好きなのかと言うと
これはものすごく楽なんだよね。
「全ての悪は日本から発する」「日本人は世界で一番軽蔑されている劣等」が基本ドグマだから、
それなりに豊かで快適な日本に住みながら日本人ヘイトしてるだけで良識に関する仕事をすべてクリアして、
世界やこの世が直面するあらゆる困難にも対処出来ていることになるわけ。
要するに太い実家で部屋住みやってる坊ちゃん嬢ちゃんみたいなものだから。
常に自分の家や親に不平を鳴らして、それだけ言ってれば現実対処の仕事が終わり。
家の外の悪や悪意は徹底的に見ないことにして全部自分の家と親に文句を言う。
近所のたち悪い大人とトラブルがあれば、むしろ心情はそちらに加担して一緒に自分の親を非難する。その方が怖いことが無い。
世界とかこの世とかのあらゆることを憂うにあたって日本を叩いて蔑んでいれば仕事が完結する。
これは人生が楽。
戦後知識人というのの大半はこの信じられないほど単純なパラダイムをベースにしてて
人生の全ての思索を太い実家の子供部屋で過ごしたとっちゃん坊や老人なわけ。
そしてその影響下にある良識的市民も同じ認知・思考パターン持ってる。
(蔑んでる一方で誇大妄想愛国者並みに日本という存在やその知名度・影響力を大きく見ていたりする。
その精神世界の全てを日本(家・親)が占めてるってとこも不自由ない家の中学生と共通してるよね)
ここでやってる一連のことを、
特定国籍の人の個別の悪行を拾い集めてパッチワークして「韓国人は~」「ベトナム人は~」ってやるの、
建設性のないヘイトやレイシズムとしてしか機能しないことはわかるでしょ。
どういう方向性のどういう素性の人物が言ってるのかの確認も無し、
どういう方向性のどういう素性の人物がまとめたのかの確認も無し。
これで「韓国人ってホームステイで避けられてるみたい(ニヤニヤ)」「ベトナム人は素直に反省しなよ(ハァ~ア)」って言ってたら
〇〇人が何人でも同じことじゃない?
これを日本人相手ならバレない咎められないって思ってずっとやってきたのが戦後良識派で、
段々と反日常識を共有しない世代から普通に咎められるようになって、吠え面かきながら大分アップデートしてきたり死んで減ったりしてきたけど、
まだ「突如怪しげな根拠で日本人を蔑み反省を求める」という発作は残ってるわけ。生態的にも世代的にも。
(はてブでもかつては「ジャップは~」みたいな差別ワード丸出しで居直る直球レイシストが沢山いたんだけど
同じ利用者から窘められたり議論挑まれたりして顔真っ赤になって消えたり言葉遣いを改めたりしてきた。)
見てきたようにこれは建設的な批判とか論理的なクリティークとは別物の、ただの感情的な発作でありヘイトだからね。
有害無益だから気軽に同調してはいけないし看過もしてはいけない。
海外在住時に知り合いの日本人女が売春してたなんて人は「いる」だろうし、
海外旅行中に近くの町で日本人女が売春してるって話を聞いたなんて人はもっと「いる」だろうし、
更にTwitterでそういうワードで検索すればそういうtweetしてる人は一定数「いる」さ。
でもそういう話ばっかり集めて「日本人女はフシダラ」「海外では日本人女=売春婦」って言ってる奴いたらどう?しかもなんか嬉しそうなの。
単に日本女を蔑みたいヤベー奴なんだなって直感的にわかるでしょ?
それで更に
「誰も否定しない!答え合わせ!」とか「日本人女はどうして素直に反省出来ないの?」って言ってたらどう?
おっキチガイやんけと思うでしょ?
そもそも大多数の売春したこともない女や海外行ったこともない女が
結局こんなレベルのどうしようもないヘイト言説を延々やってるだけなのよこのタイプの良識派は。
こういう実態的にただの言い掛かりやヘイトでしかないことを延々やりながら「自分は良識派である」と任じる人が現実に居て、
日本では特に戦後のあれこれと絡めてアラフィフオーバー世代にいっぱいいます
と言う話でした。
もうすぐ勝手に片付く奴等だから若い人たちのこれからにはあんま関係ないけどね。
生き残りがヘイト娯楽やろうとしてたら遠慮なくぶちのめしていこうね、意義のあることなんか何も言ってないから。
おしまい。