はてなキーワード: 駄作とは
オタクは特定の狭い範囲のものだけを愛する性質を持つ人達の集まりで、それは博愛主義とは真逆の偏愛主義。
自分が好きになるもの、自分が肯定できるもの、つまり自分の心の一部になるものへの興味が強すぎて、そうでないものを無自覚に否定してしまう。
なんで絵師だけああなんだ、じゃないんだよ。
大なり小なりオタクと呼ばれるような人はそういうもんなの。
どいつもこいつも、自分が好きなものは正しいもの、自分が好きになれないものは間違っているもの(つまり好きになれない自分の判断は正しい)だと思ってんの。
遊びもしないゲームをクソゲー呼ばわりしたり、見もしないアニメを駄作呼ばわりする奴なんていっぱいいるだろ?
あれはそれがとことん過激になっただけだよ。
だってあいつらAIがどういうものなのかなんて一切考えてないじゃん?
自分がよく知らないものはこの世から排除しなければいけないってオタクが考えるのは今に始まったことじゃないんだから、今更どうにもなんねーよ。
人気漫画やアニメやソシャゲや歌手やドラマには、まあ悲しいかな相応にアンチがいるわけだけど、そういう作品を口汚く罵る人って、その作品が多くの人に受け入れられてることをなんで無視する・無視できるんだろう?
人気作じゃなかったらどうなんだという話はおいといて、ここでは人気作に対しての話。
「あれを遊んでる奴ら頭おかしい、どうかしてる」
「こんなもん面白いと思う連中はまともじゃないんだろうな」
みたいなこと言うのが全く理解できない…だって実際その作品は好きで遊んでいる人がいて、特に人気作は文字通り人気があるわけで…
その作品を嫌悪する自分1人に対して、その作品を楽しんでる人が数万、数十万、数百万人いるのが客観的な数字として表れてるわけでしょ? 何をどうしたら「面白いと思う奴おらんやろ」になるの…?あれはどういう発想なの?
好き嫌いと人気規模は別。そこは分かる。
どれだけ大ヒットしてたって個人として好きか嫌いかは別の問題。
私だって誰もが知る大人気作品の1つに大嫌いなものがある。絵柄もキャラクターデザインも気持ち悪くて生理的にどうしても受け付けない、見るだけでウエッてなる、ストーリーもいまいち面白いと思えない、価値観が根本的に噛み合わない。
私は体調を崩すほど嫌いでも、一定の人気があって多くの人が受け入れてるんだから標準から価値観がズレてるのは私の方であるはず。そこは数字が表してるんだから感情で否定しようがない。一般的な価値観はあの作品を面白いと思っているらしい。はず。自分の好みとは別に、世間的な価値観と言う軸を手放してはいけないと思う。
だから「俺は」嫌いだ、「私は」あれを駄作だと思う、なら分かる。自分の言葉を自分で引き受けるのも偉い。
でも「あれやってる奴ら何が面白いか解ってないんだろうな」みたいな楽しんでる人を否定できる理屈はどこからでてくるの?だって数字で出てるじゃん、数字に表れるファン人口のほぼ全員がどうかしてるってこと?現実的にそんなことある?
私が絶対の正解だとは思わないけど、単純に疑問でならない…。
これが更に進むと、周りの実在を疑い始めて「まあユーザー数は金で買ってるだけだろうな」「金で買える数を喜んでるアホなユーザーしかいねえよな」などとしきりに言いだす印象だけど、こうなると…難しいですね色々と…
ちむどんどんは実は1週目は本当によくできてた
・主人公が初めて洋風レストランに行って感激して料理メモを取りまくる(今後の展開への布石)
・夜に戦時の話になって涙を流す母親を寝床から見る主人公(戦争の痛みを描写する布石)
・仲良くなったヤマトゥーとの切ない別れ
・飼ってるアグーを食べるかどうかで揉める話(食べ物テーマの朝ドラとしていい題材)
なお1週目がピークでここから絶え間なく右肩下がりを続けて無事最低駄作になった模様
ちむどんどんエアプを許すな
こちとら完走勢だぞ
上京編〜恋愛編〜義母に結婚説得編と加速していく主人公の倫理崩壊、
絶え間なく周りに迷惑かけ続けまくる頭のおかしいきょうだいたちのサブストーリー、
もはやテーマの沖縄料理も何を作ってるのか説明がなくなる独立編、
そして主人公がちむどんどんしたから周りに多額出資してもらった店を突然放りだす沖縄移住編、
全話意味不明、新キャラ生えまくり、スピリチュアル要素あり、時間ワープ、バカみたいな老けメイクと怒涛のラスト5話!
これら全てに耐えられるのであればな!!!
暇空茜は「仁藤夢乃著「難民高校生」」を世界で一番がっつり読み込んでいるひとだと思う。
暇空茜は難民高校生を分析して仁藤夢乃のひととなりを詳細に分析しプロファイリングを実施した上で、難民高校生を真筆であると断じている。
ちなみに仁藤夢乃が書いたとされる「難民高校生: 絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル」「女子高生の裏社会~「関係性の貧困」に生きる少女たち~」を一瞥する必要もない駄作であるとし、おそらく仁藤と数回あっただけの3流と結論づけている。
「難民高校生」を読んだことが暇空先生の「ネトゲ戦記」「高崎物語(執筆中)」を著す原動力になっていることは明らかである。
「難民高校生」「ネトゲ戦記」「高崎物語」は立場の大きく異なる著者が執筆したフィクション文学であるものの、成立の過程は深く深く絡まり合っており、これらはいわば三つ子の兄弟作品と呼んでもいいのではないだろうか。
仁藤先生はゴーストライターを使うのをやめて、ぜひ自分の力で本を書いてほしい。
3巻出ましたね。
たくさんの魅力がある本作だが、私はなにより厘ちゃんさんこと、幸山 厘のファンだ。
この前なんか、ちょっとウザいだけで何ら悪いこともしてないヨンスに対して実害ある接し方をする厘を糾弾(アホなんであのエントリをそんな解像度の低い解釈しちゃってます)するブログがホッテントリに上がり、一理を感じたものの、キイッ厘ちゃんさんはそれぐらい無糖ビターチョコでいいんじゃ!となったものだ。
ただ、読み進めるうち、何やら厘ちゃんさんに対する不穏なものを感じたので、未来に答え合わせするために、ここに疑問を残すものである。
厘はその神略によりラチッタデッラを解散に追い込み、はとっち神と二人からはーとぶれいくを立ち上げたメンバーである。
というかそもそもラチッタデッラだって鳩野とバンドを組むための布石に過ぎなかった。
その厘が、未だに表紙に出てこないのである。
バンドメン最新の彩目が最新刊3巻の表紙を飾ってでも、である。
しかし確かに、3巻は彩目の物語と言っても良いし、内田 桃が表紙の2巻は桃が鳩野の洗礼を沐してバンドに入る巻である。
すると4巻目はさすがに厘が表紙で厘の巻、となるはずだが、ジャンプ+で見る限り、山場は文化祭になるであろうし、確かにはーとぶれいく文化祭デビューは厘の策によらしむるところ大であるが、厘という人そのものにフォーカスされていないのだ。
ただ、その文化祭までの間に、少しだけ厘の過去にフォーカスされる回がある。
正直4巻で厘がクローズアップされるのは34話の田口とのやり取りだけではないかと思われる。
なぜあそこまで田口に反目しているのか、
その田口をして「やっぱり変わったよなあ…」と言わせるだけの、どれだけの変化が過去からあったのか、
そして、ゲームやってる田口の横で膝を抱えて伏し目がちの、少女時代の厘の過去描写の意味は…?
こうなってくると、「ふつうの軽音部」連載開始当初からの厘の行動がさらに不思議になってくるのだ。
「ふつうの軽音部」は、鳩野の癖は強いが声量がバカでかい直情的なボーカルにより、先に書いた「洗礼」に近い形で聴いたものの過去を抉られ鳩野に魅了されていく、いわゆる水戸黄門でいう葵の御紋で物語が進むスタイルだ。
そして、はーとぶれいくの中で唯一、この「洗礼」が加入理由になっていないメンバーがいる。
そう、それが厘なのだ。
1巻を読み返していただければわかるが、厘は鳩野のことを何も知らない段階で、矢賀ちゃんを通して鳩野とバンドを組みたいと申し出る。
夜の誰もいない校舎、視聴覚室でandymoriの「everything is my guiter」の洗礼を受けるのは、その後のことなのである。
なぜ、なぜ厘は洗礼を受ける前に鳩野にすり寄ってきたのか。
1.鳩野も覚えてないようなプロローグが存在する(面白いかも)
2.鳩野がギターボーカルのバンドを結成させることで策は成り、厘は去る。そのため表紙には未来永劫出ない。(バッドエンド)
策を弄したすべての罪を背負ってはとっち神の大成の芽吹きを熱狂のオーディエンスの中で確信しながら、厘は陰腹から滲む紅い温かさを感じながら無音の中オーディエンスの雑踏に沒
私が推したいのは、
昔、「チェンソーマン」というアニメが炎上したことがあった。炎上と言ってもごくごく一部の人間しか知らないのではないかと思うが、有り体に言えば原作ファンがアニメの演出に不満を持った、という話だ。
アニメの作画は非常によかったし、ストーリー改変と呼べる部分もほとんどなかったので、自分としては何故批判されているのかがよく分からず、戸惑ったのを覚えている。
どうやら、アニメの演出がアクションらしさに欠けあまりにも淡々としていたのがよくなかったようだ。
なんでも、その監督がインタビューで、「アニメっぽくない、映画のようにしたい」と言ったらしく、その点が反感を買っていた。
監督がアニメを私物化しており、よりにもよって原作付きの作品を台無しにしてしまったというのだ。
当時配信で見ていた私は、アニメそのものは配信サイトで評価も良く、再生数も多いのを知っていたし、切り抜きなどもよく回ってきた。
周囲で原作を読んでいる友達にも聞いたが評価は大体良かったと思う。
Blu-ray、いわゆる円盤の売れ行きが良くなかったそうなのだが、それも配信勢が多いならあまり関係ないだろう。
とにかく不思議であった。
いつしか監督は諸悪の根源に仕立て上げられ、あだ名をつけられ、まとめ動画を作られたりして徹底的なバッシングを受けるようになった。
その中には制作会社であるMAPPAの労働環境に対する非難や、内部告発じみたものまであった。
とにかく、何かとぐろを巻いていたものが一斉に暴れ出したような、何か祟りに触れたような、そんな感じで、炎上は瞬く間に広まっていったのだ。
私はその時どうしていたかというと、そんな状況に腹を立てていた。
そもそも監督なぞ制作会社の下働きであり、いかに原作が素晴らしかろうと重責をになっていようと、「駄作」を作ったごときでバッシングされるべきとは思わなかったからだ。
それは大体のバッシングに同様のことが言えると思う。
バッシングはそもそも個人攻撃を目的とするものだが、個人を攻撃して何かがよくなったことなどあったのだろうか?
責任者をというなら、監督を任命したMAPPAを非難すればいいだろうと思う。
しかし、彼らはあくまで監督個人を攻撃すれば気が済むと考えているようだった。
私はこういったことは不正義だと思うが、炎上に参加した人間はそうは言わないだろう。
「私たちの大切なものを汚された気持ちがわかるのか?」「不公正な扱いを受けて怒りを感じないのか?」と。
私たちの本当に大切なものは商業作品の中に見出すべきではない。商業作品は私たちを楽しませてくれるが、決して対等に扱ってくれているわけではない。
確かに、私にも大切な記憶として残っている商業作品がいくつもある。エヴァンゲリオン、物語シリーズ、まどマギ、ガルパン…数えればキリがないほどだ。
ただ、それらはすべて私に寄り添うために作られたのではなく、商業化するために世に出されたものだ。
アニメに限らない。ゲームも、アイドルも、VTuberもすべてそうだ。
商業作品から商業性を抜いたら、産業として成り立たなくなってしまう。
確かにアニメは素晴らしいと思う。アニメから人生に大切な教訓を得たことも多い。
だが、それらは私たちに「供給」されている以上、私たちはそれを「消費」しなければいけない立場である。
アニメチェンソーマンではそれに対する不満が爆発してしまった。
だが、駄作かどうかに関わらず、アニメとは最初からそういうものなのである。
原作改変の例としてセクシー田中さん問題を持ち出す人もいるかもしれない。
一言言っておくが、原作を改変されて怒る権利があるのは原作者である。
いかに原作者が権利関係で雁字搦めにされ、発言権がないからといって、第三者が勝手に火をつけて回る権利はない。
その上で、義憤にかられるというのなら、それはやはり原作者と自分を同一視しすぎである。