はてなキーワード: 立ち読みとは
二十代の頃から、焼酎のソーダ割が好きです。そこに梅干しをシュートして、潰して飲むのが至高です。
しかし……若い頃はどの梅干しがいいのか全然わからず、コンビニやスーパーで買った既製品の梅干しを使っていました。
そんな梅干しがおいしいはずがなく、せっかくソーダ割を作っても、数時間後には梅干しの化学成分が溶け出して凄まじいマズさに変化します。
もういい年齢になるので、梅干しはどの会社のどの銘柄がいいとかわかるのですが、若い人にとっては厳しいのでは……と感じて日記を書きました。
ダイレクトマーケティングになりますが、梅干しは……Amazonだと、うめ海鮮の紀州南高梅がいいです。できれば5月~6月に買いましょう。昔ながらの通信販売会社だと『熊平の梅』になります。製品ブランドだと『しらら』といったところでしょうか。
卯月氏がブコメで個人情報の一部を公開されたのには驚きました。
仕事において、人格と能力のどちらが大事なのか? が気になりました。皆さまのご意見をうかがいたいと思いました。今では、どちらも欠かしてはならぬ両輪であり、比較自体が間違っているというものです。
日系企業の場合は、人格や人柄がいいと、能力不足でも生き残りやすいのは確かです。職場に居るだけで周囲にいい影響を与える、というのが理由です。
モデル人物や解説などを期待していた方、誠に申し訳ございません。
自分のことを取り上げました。
さりとて栄養を摂る必要があったため、朝一番でスーパーに行きました。体はだるく、何を買おうか相当迷ったのですが、お刺身&うどんを買いました。
それが……いつも食べている夜の割引ものと比べると、比較にならないレベルでした。凄まじい旨さです。
この時の感動を日記にしたいと思って筆を取りました。
熱はありましたが、布団の中でスマホをポチポチとやって投稿しました。
こちらはけっこう重たいです。
私が未成年の頃にあった出来事です。京都市の北の方にある実家に住んでいたのですが、近くのコンビニに寄っては立ち読みをしていました。
しかし、ある日の夜……私の隣の立ち読み客に、警察官が声を掛けたのです! 最初は「私かな?」と思って大変驚きました。
そのうち、そのお客さんですが……店内で職務質問をされて、パトカーに連れて行かれて、また店内に戻って、最後は店長らしき人から出入り禁止を告げられていました。
その時、下世話にも私は、最後まで状況が知りたくて聞き耳を立てていたのです。
日記の内容は、概ねそんなところです。
未成年ながらに、世の中にはいろんな人がいるものだと感じました(小並感)
昔ガラケーがあったと思います。通信速度は今より遅めで、世代に言うと2Gでしょうか。
まだ大学生~若手社会人だった当時、いろんなブロガーの日記を読み漁っていました。この投稿時は、それらの思い出をどうにかして絞り出し、好きだった書き手を紹介しようと思いました。
若かりし日の自分が好きだったブロガーでも、年月を経るごとに作風が変わっていき、段々と様子がおかしくなり、仕舞いには引退してしまいます。
または、自分自身が年を経るごとに成長しすぎた問題も出てきます。
子どもの頃に見ていたアニメ・漫画を今読むと違う感動があるといった具合で、自分が社会に出て成長したことで、好きだったブログの価値観を卒業(超越)している、ということがあります。
当時よく読んでいたブログの作者様一人ひとりに対し、感謝(ブログの供養)の念を込めて日記を書きました。
いきなり余談ですが、私の投稿日時が偏っているのは理由があります。
例えば偶数月に日記を作り、奇数月に投稿するルールを採用している年だと、このように特定の月に投稿が偏ることになります。
さて、こちらの日記ですが、私はこれまで数多くの官公庁を廻ってきました。
国家も地方も、役場の文化はある程度わかります。この日記は、そのうちの出向制度について思ったことを書きました。
私が役場を退職する前年のことです。ある1人の同期職員が退職しました。総務省に長年出向していた職員です。
普通、国機関への出向というのは1~2年ですが、彼は4年目を迎えようとしていました。
地方自治体→国への出向というのは形式上は立派かもしれませんが、実態は違います。
国機関の中でも、総務省や厚生労働省、文部科学省その他の忙しい省庁の場合、地方自治体の出向者のことを、無料で使える臨時職員として見ています。霞が関では、長時間労働でストレスのある日々を送ることになります。
詳しくは日記をお読みくださいとしか言えないのですが、地方自治体の方も、自分達がそのように利用されていることを知ってか知らずか――あえて不要な職員を送り出して、長期働かせるようなことをしています。派遣職員について、能力は普通以上で、性格や人柄に難がある人が多いです。
「別に辞めてくれてもいいよ、東京なら職がいっぱいあるでしょう」みたいな感じです。
本当に大事な職員は、1年間しか霞が関に送りません。長くても2年が限度です。または、2年間に分けて4人(半年×4)といったペースで送り出します。
「不毛だな」と、当時30過ぎだった頃の私は悲哀を感じました。日記で取り上げられている彼は、本当に不憫でした。
学生時代は、多くのアルバイトをこなしていました。最終的には2つまで絞ったのですが、そのうちのひとつがマクドナルドです。
繁華街のマクドだったので、多様な学生が働いてました。日記に出てくる彼は、私のアルバイト仲間です。年齢は一緒で、学年は彼が一つ下でした。
京都大学法学部に籍を置いていたのですが……いわゆる発達障害というものでした。2000年代前半にその概念は流行っていません。早くても数年後です。
エピソードには事欠かないのですが……彼の名誉のためにやめておきます。
彼は、人間関係では苦労することが多かったのですが、一生懸命に働いていました。私も彼を応援していた1人です。
京都銀行の内定をもらったと聞いた時は、彼に居酒屋で御馳走してあげました。数年後に先斗町でばったり会って、「やめたんだ……」と聞いた時も、やはりレストランで御馳走してあげました。
彼の話を聞いているうち、私の方まで悲しくなってきました。彼の幸せを今でも願っています。願うことしかできないのですが。またどこかで会ったら、食事か飲みに行きたいです。
あの頃は、本当に懐かしい思い出です。彼は頑張り屋です。きっといい就職先が見つかっていると信じています。
『監獄の誕生』という書籍を読むことがありました。ミシェル・フーコーのいわゆる名著です。
読了後に、それらの概念をテーマにした日記を書いてみようと思い立ちました。
内容的には、世の中の残酷な仕組みを取り上げつつ、『監獄の誕生』に出てくる場面で結論にもっていくという流れです。
実際、世の中のルールに従うか逆らうかは、当人に委ねられています。
学校教育では、社会についての基礎基本を教わりはします。しかし、それらを受け入れるかどうかは、あくまで自分で決めないといけません。
私が思うに、成熟した社会というのは、法律に反することまで含めて織り込んでいるのではないかと感じます。
法律や常識に反するのは、よくないことかもしれません。しかし、無秩序もまた秩序のひとつなのでは? と、日記を書いている最中に感じたのです。
ルールに反する行為というのも、人間の生き生きとした力の肯定のひとつにほかなりません。そんな考えを抱いている時点で、私が公務員に向いていなかったのは間違いありません笑
(最後に)
これで終わりです。
ここまでお読みいただいたあなたには、心の中で感謝のスターを上程いたします。
またお会いすることがありましたら、その時は何卒よろしくお願いします。
来年の幸運を願って、20:20(午後8時)に投稿します。余りの20分はスルーしてください…
「インターネット教養」と嘲笑されるものの一つに中島敦の『山月記』があることは、インターネットばかり見ている皆さんはご存知だろう。
教科書に掲載されているという普遍性、中二病心をくすぐる文体、人が虎になるというファンタジー性、そして何より繊細な青年の挫折譚への共感、どれをとっても「インターネット教養」として共有される理由にふさわしいし、もちろん文学作品として完成されている。
しかし、無教養で意地の悪い私はどうしてもそれが気に入らない。
なぜか。それは、インターネット民にとってこの作品のイメージが「虎」として共有されているからだ。
もちろん、「それは中国説話に由来していて~」、「文学的表現として~」とかいう話をしている訳ではない。
「『山月記』に出てくる「虎」は美しい。だからこそ、良くないのだ。
『山月記』が優れているのは、若者の自意識やナルシズムを美しく描き、それらからの解放も描いていることだ。
しかし、それでも「虎」のイメージや漢文調の文体は、最後まで李徴を悲劇の中に美しく取り残す。
結果的に、授業を聞き何となく感動した我々は、いつしかインターネットの中で、自分を李徴に例える。
「俺もこんな時期があったなあ…李徴は若いころの俺だよ」
違うだろ。
お前は今も新たなナルシズムを生きている。
そして、お前は何もなしていないし、何にもぶつかっていない。
そして、李徴は友人袁傪が聞き手になったが、お前の話は誰も聞き手にならない。
お前は虎でもないし、山に帰って一人で生きていくこともできない。
お前は過剰な自意識を過去のもののように言っているが、それは今も同じだろう。
『山月記』を悲劇ポルノとして消化して、ナルシズムオナニーに使うのをやめろ!!!
やめてくれ!!
★★★
中学校で『山月記』並みにメジャーな題材に魯迅の『故郷』がある。
その魯迅の短編『孔乙己』は、中国では教科書にも載っている有名な作品だ。
日本語訳が青空文庫にあるが、訳が古すぎてよくないので、岩波文庫や光文社古典新訳に収録されたものを本屋か図書館で立ち読みしてほしい。10分とかからないはずだ。
「孔乙己」は、汚いおっさんだ。しかし、この時代には珍しく読み書きができる。
それもそのはず、おっさんは科挙のために学問をし、何十年も勉強していた読書人なのだ。
しかし、おっさん、いや、青年孔乙己は科挙の入口の最下級試験にすら受かることはなかった…
それでも、彼にはプライドがある。他人とは違う、俺は勉強もした。読書人だ!
だから知識人の服装をして居酒屋に出向くが、通されるのは労働者が集うカウンターだ。
そこで仰々しく喋る彼は、支払いこそまじめにするものの、周りの労働者、子供、番頭みなに馬鹿にされる。
本を盗むことは読書階級のなせる業で犯罪ではない!というのだ。
しかし世間には通用しない。彼は最終的に袋叩きにされ町を去り、人々から忘れ去られてしまう・・・
冷徹な描写の美しさはあるが、自意識過剰でプライドの高い孔乙己と言う人格は醜く、滑稽で、寂しく、情けないものとして描かれる。
★★★
それは体系的な知識も持たず、ただインターネットの内輪の中で義務教育レベルのものを教養とありがたがるのが滑稽だからだろう。
そうした何者でもないインターネット民は、『山月記』をイメージとして消費し、「自嘲する虎」になったつもりになる。
そして、誰にも顧みられない自分の物語を、袁傪ではなくそこらの関係ない人に押し付けて話す。
実際は、型通りでここにでもいる自尊心の高い汚いおっさんでしかないのに。
誰にも顧みられなく、醜い。
ただ、自分を美化するのはやめよう。これ以上自意識を肥大化させるのはやめよう。
等身大の自分を、等身大に生きて、判で押したようなインターネット教養を離れて自分の人生を生きよう。
自嘲風の自慢をやめよう。こじらせるのもやめよう。
我々は、いや、僕らはこじらせても虎にはなれないし、帰る山もない。盗人になるだけだろう...
ここまで、偉そうに長々と書いたが、ここで私が話しかけていた「お前」は私自身だ。
私の文章に、私の気持ち悪い自意識やナルシズムを感じた人は『孔乙己』を読まなくてもいい。
ただ、それを感じなかった人は、ぜひ、明日にでも読んでほしい。
https://togetter.com/li/2470850
TV、冷蔵庫、洗濯機、ガスコンロはあったが自動炊飯器はなく、ガスコンロにかけた釜でご飯を炊いていた。おこげが多く、こげて固い部分が嫌いだった
旅行は組合の旅行を年1回。駅前デパートに行くのが年に2回か3回の一大イベント。外食はデパートで1時間待って食べるお子様ランチしか記憶にない。
外食にはいかないが出前のラーメンや寿司がいわば外食。マクドナルドが駅前にきたといって大騒ぎ。
家に自動炊飯器が導入される。近所にスーパーマーケットが出来て商店街の店舗が順番に消え、牛乳配達がなくなる。
ファミレスにはじめて行く。ディズニーランドのプレオープンに連れて行ってもらう。
小遣いないので自分で買い食いしたことは一切なし。マンガは親戚の家に遊びに行った時にむさぼり読む程度。
組合旅行で連れてってもらったホテルで生まれてはじめて冷製スープを口にして驚いて吹き出した記憶。
そういえば、旅行ではお握りを包んで持っていた。1度だけおにぎりが傷んで糸を引いてた。
親がコンビニ経営をはじめる。家庭の食事はコンビニの残り物ラッシュ。売れ残ったおにぎりを冷凍保存、解凍してチャーハンその他に加工するのが家の味に。
親が年会費制のホテルグループに加入し旅行が年2回行けるようになったが、コンビニ経営で雇われ店長がいきなり辞めて旅行取りやめ、年末年始を家族で回した記憶。この頃のコンビニはバーコードないので、レジ手打ち、釣り銭も暗算で渡すあたりを覚え、後でまあまあ役立つスキルになった。
ガンプラが流行していたが小遣いゼロなので買えず、玩具屋で毎日ただ眺め続ける日々。商店街の本屋でマンガ立ち読み、はたきではたかれる。
ゲーセンに行くことを覚えるが、やはり小遣いないのでひたすら画面を眺め続ける日々。
コンビニ経営が軌道に乗って人任せになったが、家の冷蔵庫は常時売れ残りおにぎりで埋まってる状態。
中学の弁当もおにぎりをほぐして炒めたチャーハン。帰宅して腹が減ってたら冷凍庫のブリトーを解凍しフライパンで焼き目を付けて食う。
月5000円の小遣いを貰えるようになったが用途はマンガ購入や映画など。外食はめったにせず。家庭に金銭的には余裕があったかは不明。
小学校高学年のときジャンプ回し読みグループに入れてもらえずジャンプを嫌うようになりサンデー派に。タッチやうる星やつらは最終回を迎え世代交代の時期。
40年前というと、だいたいこんな感じか。
ファミレスが流行しステーキハウスが出来た頃で外食が次第に珍しくなくなっていく時代だとは思うけども、個人的にはやはり年に数回程度、特別な時のごちそうという感覚。
自分は駄目な人間だった。小学校の高学年のとき、心因性頻尿になって外に出られなくなった。
金曜の、ピアノ教室の直前だった。その日突然トイレが近くなって、結局家の周りをぐるぐる車で回った挙句に帰った。
それからの日々は地獄だった。家から出ることすらできなかった。私自身自分に何が起こったのか理解できなかった。
学校は、授業は嫌いだったけど友達は好きだった。学年みんな友達だと思っていた。みんなの名前と顔を覚えていた。
学校に行けなくなった。
学歴主義で権威主義の父は、私のことを人間じゃない何かを見る目で見ていた。
私は当時の記憶があまりない。ただ、下手くそに隠された不登校に関する解説本や、
リビングで両親が自分について語り合ってるのを察するのがつらかった。
そのあと数ヶ月してから学校に復帰したけど、結局私は中学校も不登校になって、高校も退学した。
大学受験は当然するものだと思っていたので、高校退学前に高認を取って、
中退後は勉強のやる気が出るまで少し時間をもらった。結果的には一浪という形で
MARCHの少し下くらいの大学に通うことになった。みんなが最初に受験をしていた年は、何も勉強していなかったが。
大学に行き始めて数ヶ月でやっぱり行けなくなって、2年ほど休学した。
自分は何故生きているんだろうとよく思った。死ぬ勇気は無く、事故で死なないかな、と妄想していた。
復学後は配慮申請をして、出られなかった授業のプリントを貰ったりしていた。
私の時代は不登校や発達障害は時代の最先端の社会問題で、まだ数が少なく、学校や大学側も対応に苦慮していた。
体調が悪くなりやすいので、保健室を使う許可をもらい、授業の隙間はベッドで寝るようにしていた。
大学は地獄だった。面白い授業もあったと思うが、何の目的もなく社会学を勉強し、
ヴェーバーやデュルケム、フーコー、マクルーハンなどを習った。個人的にはヴェーバーが好きだった。
大学時代、地元に帰ったときに暇で仕方なく、日経ネットワークの初心者用のTCP/IP解説本を買った。たまたま立ち読みして面白そうだったからだ。
それから何冊か自分でネットワークに関する本を読んだ。面白かったし憧れたが、
自分は文系だし人生に夢も希望もなかったので、これはただの遠い憧れだな、と思いながら過ごした。
しばらくして、最初に買った日経ネットワークの本以外ほとんど捨ててしまった。読んでも意味がないと感じていた。
大学も結局中退した。3年にやっと上がれるという冬の試験で、起き上がれなくなった。
毎日天井を見て過ごした。今日は○○の試験だったのに…と思って、泣きながら過ごした。
ここで単位を落としたことで、卒業まで想定より1年だか2年かかりそうだなと自分で計算し、心が折れた。
何度目の挫折か数えるのも嫌になっていた。
画家さんの絵の手伝いに行ったり、フォトコンに応募したりしていた。絵と写真だけが、自分が唯一続けてきたものだった。
それも当然上手くいかず、暫くして、父から障害年金と手帳をとるように言われた。父には逆らえなかった。
父に逆らえる人は家族の中で誰もいなかった。とても怖い人だったから。
父は節税になる!と喜び勇んで説明し、私は、やっぱり自分は道具なのだなと思いながら、そのまま手帳と年金を取得した。
初めて自由に使えるお金を手にした。20代後半で、初めて自分で家具を買っていいことに気づいた。
家の中を、好きだった祖父母の家を模すような感じに作り変えた。
友人が美術館のバイトを紹介してくれたので、小さな美術館で週3日のバイトをすることになった。
が、その直後にコロナ禍になって、半年ほど美術館は閉鎖することになった。
休業補償?だか何だかで、一応もらえた。その年の秋から再開した美術館のスタッフを少しやって、年末年始は地元に帰った。
両親に、戻ってくるように言われた。
父の会社が上手くいっておらず、母方の祖父母から大変な額の借金をしていた。
利益なんて10年ほど出ていなかったらしい。元々何をしているのかわからない
人に説明するのが困難な父の会社だったが、父はとにかく経営センスがなかったらしく、酷いことになっていた。
私は一度地元に戻る決意をしたが、やはり怖くて直前になって無理だと母の前で泣いた。
地元に戻っても居場所はないと感じていた。東京にもなかったけど…。
すぐに次のバイトを探したが、それも2ヶ月しか続かなかった。秋からまたバイトを始めた。
小さめの不動産会社で事務をしていた。年始にまた、今度は以前より強めに、帰ってくるよう説得された。
私はすぐに市の生活相談窓口に駆け込んで、就労移行支援やギリギリ間に合ったコロナ関連の貸付金を紹介してもらった。
非課税世帯なので、返済する必要はないから安心して、説明された。
自分の決断は、生活保護になってでも東京にい続けるというものだった。コロナの貸付金で一時的に数十万のお金が手に入ったので、
それを使い生活保護でもやっていける物件に引っ越しをした。不動産も一人で回ったし、引越しの手配も手続きも全て一人でやった。
就労移行支援は少し通ったが、この時間でバイトをした方がマシに思え、すぐに辞めてバイトを探した。
並行して勉強を進め、基本情報技術者試験に合格した。その後障害者雇用で小さなコンサル会社で資料作りのバイトをし、
その間にMOSのExcel Expertを取った。お金をかなり切り詰め、貯金を始めた。結局生活保護にはならなかった。
翌年バイトが契約終了になったので、ネットワークの仕事にチャレンジすることにした。
人生で初めてのフルタイムのバイトだった。倒れる前提で、駄目元でやってみることにした。
昔柄谷行人の『探究』で読んだ、暗闇の跳躍だか飛躍だかを思い出した。
価値は、価値がついたあとにしかその意味を読み取れない。価値がつくには暗闇を跳ばなきゃいけない。
薄給の上に業務量がえげつなくて、人がすぐに辞めていく環境だった。
ある程度初心者ができるように自動化されていたので、1ヶ月を過ぎる頃には一通りの業務を覚えていた。
毎日現地作業員と電話を繋げながら、色々な試験をし、NWを開通した。たまに撤去もあった。
障害を隠して仕事をしていたが、ある日電話中にパニック発作が出て、電話を保留にした後しばらくトイレにこもって薬を飲んで休んでいた。
ここでもこうなるのか…、とトイレの中で泣いた。結局その職場も居づらくなって辞めてしまった。
諦めきれずに、次の仕事を探した。ベンチャー企業で、またネットワークの仕事をやることになった。
今度は客先常駐。仕事に出る前に第一級陸上特殊無線技師の資格を取った。
高校数学は赤点だったので、選抜試験も養成講座も地獄だった。何年振りかの座学だった。
そのあと1時間半ほどかかる場所で夜勤をすることになり、私はすぐに壊れた。
夜勤明け、ふらふらになりながら漫喫に入ってひたすら寝続けた。またパニック発作が出て、帰ることができなくなっていた。
大手IT企業の子会社で、採用の仕事をした。面接時はいずれITの仕事を回してくれると言っていたが、
一向に果たされる気配がなく、半年で辞めた。ここまでの失敗で辞めた後に空白期間があるとメンタルに来ることはわかっていたので、次の仕事はすでに探してあった。
障害者雇用の契約社員として、またIT系企業に入った。1ヶ月の待機期間の間にCCNAを取って、
今はそこで仕事を続けている。何故かPython人員になってしまったので、毎日ツールを作っている。
ChatGPTのおかげでなんとか仕事ができている。
今の案件は年内で終了するらしい。
数週間前に正社員登用の話があり、面接を受けた。周りからは多分行けるんじゃないかと言われている。
貯金はやっと130万ほど貯まった。将来は…できれば健常者として生きていきたいが、まだ暫くは難しそうだ。
まだ何も安心できない。実家の父母は離婚問題でめちゃくちゃになっているし、
リモートだから仕事ができているのでは?という懐疑が常にあって、次の案件でどうなるかわからないと思っている。
私は障害について色々思うところがあるが、30ぐらいの時にはっきりと
「自分は才能が無いのだから、せめてコミュ力を伸ばそう。自分は一人で生きていけると思えない。
だから、人から助けてもらえる、助けようと思ってもらえる人間になろう」とずっと考えてきた。
今の時代は障害者健常者に関わらず、みんなにとってつらい時代だと思う。
何かを抱えているのはみんな同じだと思っている。そんな時代に、
マイノリティが自分を救ってくれ!と叫ぶことはとても怖いことだと思っている。
社会に余裕がなくなれば、一番最初に切り捨てられるのは自分たちじゃないだろうか。
今までたくさん人に迷惑をかけたけど、少しでもそうでない自分になりたい。生きていていい自分になりたい…。
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私は今もたくさんの問題を抱えているし、色々上手くいっていない。
人生を呪っているし、楽しくはない。たまに楽しいこともあるが。まあしかし、こうやって足掻いている人間もいるよ、と思って書いてみた。
特定されようが、もうプライドなんて無いからどうでもいいのだ。
私を見下して、自信をみんな持って欲しい。こんな見苦しくみっともなく足掻いてる人間もいるのだから。
…まあ今後どうなるかはまだわからんけど。
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思ったより反響があって驚きました。
タイトルは自分の人生を象徴するような言葉ですが、実際そういう境遇にある人間がどのように生きていくのだろう?という
素朴な疑問から読んでくださった方がいるのかなと思います。あるいは下層にいる人間の惨めな人生を期待した方もいるでしょう。
励ましの言葉やアドバイス、叱咤を下さった方、それぞれありがとうございます。全部読んでます。
わーっと書いてしまったのでちょっと読みにくかったかもしれませんね。申し訳ないです。
障害については一応ASD…ということになってます。診断が下りたのは大学生のときでした。
ご存じの方も多いと思いますが、当時はアスペルガーと呼ばれていて、空気が読めない・人の感情がわからないだとか、まあ散々なことが書いてありました。
カサンドラ症候群の話もありますし、今でもややADHDよりASDの方がイメージは悪いのかも、と思うところはあります。
高校生の頃にWAIS-Ⅲを受けた際には、言語性IQと動作性IQに結構な隔たりがありました。
当時の記録だと言語理解111、知覚統合99、作動記憶105、処理速度84。PARSの結果は幼児期が25点、思春期成人期が34点です。
一昨年だかにWAIS-Ⅳを受けたときは色々マシになっていて、言語理解119、知覚推理107、ワーキングメモリー117、処理速度111という結果でした。
今は人からは障害を持っているようには見えないとよく言われます。体力がないのは相変わらずですが…。
慢性疲労症候群の診断も下りていて、当時医師からは「あなたは将来生活保護か専業主婦でしか生きていけないと思います」という
大変メンタルに来る言葉をいただいていました。それから一気に体調が悪くなり、何も自信が持てなくなった後に
自分はそんな未来を信じないし、絶対にあの言葉を覆してやると決め、もう一度立ち上がりました。
大学でも発達障害で中退した人たちの予後が悪い、まともに働けていないという話を聞かされていたので
これについても、だったら最初の一人になってやる、と思った記憶があります。
自分は女ですが、文章が怖いと言われることもあったので、その辺も徹底的に直しました。
人を観察して、絵文字や顔文字をちゃんと使って明るく取っつきやすいイメージを持ってもらえるよう修正し、
見た目もパーマをかけたりと柔和な雰囲気を心掛けました。そういう仮面は、今は自分の皮膚のようになって
人の気持ちがわからない、共感性がないという部分については、周囲から指摘はそこまでなかったのですが
とにかくできるだけ人のことを想像するようにしました。自分を取り巻く多くの人たちや、ニュースになっているゴシップやエッセイなどからたくさんのことを学べたと思います。
お金があっても、賢くても、健康な体を持っていても、それでもみんな裏では色々あるのだな、と。つらいのは自分だけではないと言い聞かせてきました。
恵まれて見える他者が、実は苦しんでいるという話をちゃんと覚えておくようにしていました。
人生が大変だと、どうしても被害者意識が強くなってしまうものですが
そのように思う瞬間はあっても、絶対に客観性を失わないようにしようと常に思っています。
同時に、自分自身をあまり障害者として扱い過ぎないようにも心掛けました。単純に、心がすり減るので。
A. 「ようし!オレに任せろ!」と意気込む
B. 一応、ジャージを探し始める
D. 家の中で行うスポーツは何か尋ねる
正解: C
A. 魅力的な趣味について語る
B. 謙遜して控えめなところを見せる
D. 人見知りなので黙り込む
正解: D
A. 料理が口に合うかどうか
B. 会話に入れないまま、食べ物ばかり食べてるとバレること
C. 服がダサいと気づかれること
D. 帰り道の交通費
正解: B
A. 「ああ、俺も頑張らなきゃ」と思う
B. 「偉そうに…」と遠い目をする
正解: B
正解: C
正解: C
C. 友人とアウトドアに出かける
正解: B
正解: D
A. 昔の知り合いがうまくいってないと知ったとき
正解: 全て正解!