はてなキーワード: 欲望とは
表現の法規制は、一度導入されると対象が拡大する傾向がある。 これは歴史的に繰り返し確認されてきた事実である。
この構造を理解せずに「嫌いな表現だけ規制してほしい」と主張することは、自らの首を絞める行為になりうる。
以上の諸問題を貫くのは、「自分(たち)の表現・欲望・不快感は正当であり、他者のそれは不当である」という非対称的な自己正当化の構造である。
| 自陣営の行為 | 自己正当化の論理 | 他陣営の同種の行為に対する態度 |
| 未成年キャラのR-18 BL | 「フィクションだから問題ない」 | 「ロリコンは犯罪予備軍」 |
| 男性キャラの性的客体化 | 「女性の手によるものだから搾取ではない」 | 「女性キャラの性的客体化は性差別」 |
| 実在男性のRPS | 「愛情表現の一形態」 | 「実在女性の性的画像は性的暴力」 |
| コミュニティ内の嫌がらせ | 「自浄作用」「マナー違反への指摘」 | 「男オタクのハラスメント文化」 |
この表が示すのは、同一の行為を自陣営と他陣営で正反対に評価するダブルスタンダードである。
本稿で検討した問題群は、いずれも「自分の欲望に対する無自覚と、他者の欲望に対する不寛容」という同じ根から生えている。腐女子文化には豊かな創造性と共同体的な連帯があり、それ自体は文化的に価値のあるものである。しかし、その内部に存在する暴力性・排他性・ダブルスタンダードを直視しなければ、自らが攻撃してきた「不寛容な社会」の鏡像になるだけである。
そして何より、性的表現の法規制という刃は、一度抜けば自分にも向かう。この認識なくして表現規制を軽々しく求めることは、腐女子文化を含むオタク文化全体の存立基盤を自ら掘り崩す行為であることを、すべての当事者が理解すべきである。
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
現代日本の政治・経済議論が根本的に終わってるのは、それがすべて「推し」思考に支配されていて、性悪説を全く欠いているからだ。
民主主義も資本主義も、海外では規制ありきの性悪説に基づくのが当たり前。
企業は疑って当たり前。政治家は疑って当たり前。でも疑うというのは、何も期待せず全否定して絶望するということじゃない。
人間なんて最初から身勝手で自分中心だと理解するからこそ、お互い様で理性の縛りをシステムに求める。
政治家でも市場でも、信じて任せていれば良いなんて言説はすべて責任逃れのための屁理屈だ。
信じるならばこそ監視し、疑うならばこそ「改善のための」考え方に注力する。それが責任のある大人のものの考え方だ。
これを本当に理解できていないと、欧州が何にでも「規制」を科しながら、日本とは比べ物にならない「資本主義」絶対の社会であるということがわからない。
それは資本主義の否定じゃない。資本主義を貫く気が満々だからこそ、安全な市場のための規制を徹底する。
グリーン経済もデータセンターも、欧州は「何を規制すれば、デメリットを最小にして安全に儲けられるか?」を考えるために国も民間も全力を注いでいる。
日本の右翼や左翼が、否定したり理想化したりするような、社会主義のために欲望を犠牲にする高潔なヨーロッパ人なんてものはどこにも存在しない。
2026年に日本で、さなちゃん一人旅(プチ一人旅)が密かにブレイク。長距離遠出をしなくても、複雑な行程を計画しなくても、短距離、軽量、気ままな一人旅は、日本人の最も好きなレジャー方法となっている。背後には趣味の変化だけでなく、生活心理状態と社会環境の共同推進がある。
1.1定義と特徴
多くは日帰りか1、2泊の短距離コースで、近郊の町、ラブグッズ、温泉、海辺、小人数の観光地を選び、簡単で自由なコースで、観光地に間に合わず、にぎやかではない。
若者から中年サラリーマン、定年層まで参加し、年齢を問わず、低負担、高治癒の一人時間を追求している。
日本の職場と日常生活のリズムが引き締まり、人間関係が煩わしい。小型一人旅は他人のリズムに乗る必要はなく、通勤、仕事、人情の付き合いから一時的に離れ、静かな息抜きの空間を得ることができる。
高額な予算を必要とせず、長距離走り回らず、すぐ近くで出発でき、時間が柔軟で、現在の日本人の低欲望、軽消費の生活観念に合っている。
現代の日本人は一人でいることを孤独と見なすのではなく、ディルド、一人で旅行することは自由に決定し、好きなように食べたり飲んだりして歩くことができ、自己治癒し、気持ちを整理する最善の方法だと考えている。
人々はカード遊びを追求するのではなく、スローテンポでまじめな短距離の一人旅を好むようになり、外的ではなく心のリラックスを重視するようになった。
3.2自分と付き合うことを学ぶ
「小さな一人旅」の流行は、現代人が自分を大切にし、生活に白を残し、忙しい日常の中で心に静かな隅を残すことを学ぶことが本質だ。
性に関する欲だもんね
そして母性、父性、性欲、全てに共通するのは「それを求めていない他者に一方的に向ける姿が気持ち悪い」こと
ぬい活女性のぬい活姿が気持ち悪いのもぬいぐるみという無機物、つまり確実に母性など求めていない対象に一方的に母性を向けているから
オタク男性が二次元キャラクターという架空の存在に性欲を向けている姿と同種なんだよね、気持ち悪さが
赤の他人の赤ちゃんに母性を向ける老婆も、若い女性アイドルに性欲を向ける中年男性も、ホストに性欲を向ける容姿の劣った女性も、Vtuberに父性を向ける弱者男性も、全て同種の気持ち悪さを持っている 欲を向けられている対象がそれを求めていないであろうことが想像できるから
例えば母性でも自分の子供はもちろん関係性の近しい子供、愛を渇望している孤独な子供、犬猫鳥などの家族的な感情交流のあるペットに向けている姿は気持ち悪くない でもハムスターなどの感情交流が極端に少ないペットに強い母性を向けている姿は正直気持ち悪い 明らかに一方的な自己満足の欲だから
ただ、ぬいぐるみや架空のキャラクターは生きてないし人権もないので、法律と公式や店が提示したルールに従っている限りは何にどんな欲望を向けようが別に無害なんだよね ただ気持ち悪いだけで
ただ気持ち悪いだけの無害な人間を関係のない第三者が叩いて潰そうとするのって普通にいじめだから本当に良くない ぬい活女性も萌え絵オタクも無機物に一方的に性欲の一種を向けていて気持ち悪い 気持ち悪いけど、気持ち悪いことは罪ではない ぬい活女性をお店が出禁にするのは当然自由だけど、迷惑を被ってない第三者が他の店でもやる権利がないと断言するのは理不尽だ 人には気持ち悪いまま生きる権利がある
汚言症について、「本当に思ってないこと・欲望してないことは言わない」みたいな批判があるが、社会的な禁止自体がある種の享楽を作り、それを僅かに侵犯することが一時的な緊張の緩和をうむ構造だとしたら、そのブレーキが壊れていることは本人の嗜好・欲望の善悪の問題と言えるのだろうか
釈迦(ブッダ)は、諸行無常・一切皆苦・諸法無我を喝破し、輪廻そのものを「苦のバリエーション」に過ぎないと断じた。六道のいずれに生まれようと、天界の神々でさえ天人五衰の恐怖に襲われ、再び堕落する。
ブッダは、死体を穢れとし、僧侶が葬送に深く関わることを避けさせた。遺骨を塔に納めることすら、在家信者の世俗的習慣に過ぎなかった。死後の「マシな世界」を求める俗人の欲望に、決して迎合しなかった。
釈迦入滅後500年経って、大乗仏教が現れるや否や、事態は一変した。
これは原始仏教には一切存在しない、明らかな後付けである。方便(upāya)の名の下に、民衆の「死後の安寧を求める弱い心」に迎合した結果に他ならない。
極楽浄土は確かに「悟りへの通過点」と理論上は位置づけられるが、実際の民衆信仰では「死ねば安らげる」安寧の場として理解され、原始の「一切皆苦」の洞察は骨抜きにされた。方便の名を借りて、ブッダの厳しい実践を希薄化させた典型である。
中国に伝わると、祖先崇拝や民間信仰と結びつき、死後の世界を「安寧」と見なす俗人の欲求にさらに深く迎合した。唐代の善導らが体系化した浄土教は、現世の苦しみと末法の不安を前に、「他力一本」で救済を約束する甘美な教えとして広がった。
日本では鎌倉時代に法然・親鸞がこれを継承し、江戸時代の檀家制度で決定的に俗習化した。幕府の統制道具として寺院が葬儀を独占し、戒名授与・読経・高額布施をセットで「極楽往生」を売るビジネスが成立した。ここに至って、ブッダの教えは完全に裏切られた。
死体を防腐し、化粧を施し、数日間安置し、重い棺を霊柩車で運び、骨を割り折って壺に納める煩雑な儀式――これを「極楽への送り」と称するなど、ブッダは激しく非難するだろう。
原始仏教では僧侶が金銭を受け取ること自体が律蔵で固く禁じられていた。金銀は「毒蛇のごとし」。
極楽浄土という方便は、方便の域を超えて、仏教を「葬式屋」へと堕落させる最大の原因となった。
ブッダの見地から見ると、極楽浄土の導入とそれに伴う死後の安寧信仰は、俗人の弱さに迎合した明らかな堕落である。輪廻からの完全脱出を理想とした教えを、「死ねば極楽」という安易な安心にすり替えた。結果、仏教は祖先崇拝と金銭取引の道具と化した。現代の葬式仏教は、ブッダの教えから最も遠く離れた姿と言わざるを得ない。
紀元前5世紀、クシナーラーの沙羅双樹の下。80歳を迎えた釈迦(ブッダ)は、右脇を下にした「ライオンの臥姿」で静かに横たわっていた。弟子のアーナンダが悲しみに暮れる中、ブッダは最後の言葉を残した。
これがブッダの入滅(パリニルヴァーナ)のシーンである。火が完全に消えるように、欲望と無明の炎が尽き、輪廻の連鎖が断たれた瞬間だった。死後、遺体は7日間、在家のマッラ族の人々によって花と香で供養されたが、それはあくまで簡素なもの。特殊な防腐処理も、死化粧も、豪華な棺も、念仏の繰り返しもなかった。在家の人々が香木で火葬(荼毘)を行い、遺骨(舎利)は8つに分けられ、ストゥーパ(記念塔)に納められた。僧侶(比丘)たちは遺体の供養に煩わされず、ただ修行に励むよう指示された。これが、原始仏教における「死」の扱い方である。
一方、今日の日本で「仏教式」と呼ばれる葬儀は、まったく異なる様相を呈する。
死後すぐ、遺体には防腐処理(ドライアイスやエンバーミング)が施され、死化粧で生前より整えられる。棺に納められ、通夜・葬儀の間、数日間安置される。僧侶による念仏や読経が繰り返され、家族・親族が交代で付き添う。儀式が終わると、重い棺を男手で担ぎ、霊柩車という特別に装飾された車に詰め込む。火葬後、骨が残る。骨壺に入りきらない大きな骨は、骨折りと呼ばれる作業で割り、小さくして納める。
原始仏教の視点から見れば、これは明らかな矛盾である。ブッダは「諸行無常・一切皆苦・諸法無我」を喝破した。
長期間保存し、化粧を施し、特別な車で運び、骨を丁寧に折って壺に納める行為は、むしろ「死への執着」を増幅させる。ブッダ自身は入滅後、弟子たちに「私の遺体にこだわるな。法(教え)を守れ」と諭した。火葬も、在家信者が行う世俗の習慣に過ぎず、僧侶が主導する儀式ではなかった。
大乗仏教の「方便」が日本独自の家制度・祖先崇拝と結びつき、江戸時代の檀家制度で「葬式仏教」が完成した結果である。
釈迦(ブッダ)はバラモン教の階級制度・有料儀式・神々への依存を徹底的に喝破した。
金銭で功徳を買う行為など、想像すらしていなかったはずだ。それが特に日本では、死後の戒名授与や高額お布施を伴う「葬式仏教」として定着した。なぜ、輪廻からの完全脱出を理想とした教えが、死者供養のビジネスに変貌したのか。原始仏教の思想と大乗仏教の展開、そして日本独自の歴史的必然を、独立した視点で整理する。
紀元前5世紀頃のインドで、釈迦は当時の宗教界を根本から批判した。バラモン教は祭祀・呪術・金銭による功徳取引を基盤とし、永遠の魂(アートマン)を前提に輪廻を語っていた。これに対し、釈迦は諸行無常・一切皆苦・諸法無我の四法印を掲げた。世界は瞬間ごとに生滅し、固定の実体(我)はなく、生老病死は避けられない苦である。
出家者(比丘)に対する戒律は厳格だった。律蔵(Vinaya Pitaka)では、金銀の授受を明確に禁じている。「比丘よ、金銀を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。これを破れば捨堕の罪である」(Nissaggiya Pācittiya 18)。布施は自発的な喜捨でなければならず、対価としての儀式販売は許されなかった。葬儀自体も、僧侶の直接関与を避ける傾向が強かった。死体は「穢れ」とされ、修行の妨げになるとされたからだ。
「完全な消滅」(無余涅槃)が理想で、永遠の魂を前提とする常住論も、すべてが無になるとする断滅論も、ともに「中道」から逸脱した邪見とされた。
神頼み・儀式依存・金で救済を買う商売を、毒矢の譬え(矢が刺さったまま原因を詮索する無益さ)で一蹴した。目的は個人の解脱であり、組織化された宗教団体すら、釈迦自身は最小限に留めた。
釈迦没後約500年後、インド北部で大乗仏教が興った。「小乗」(上座部)と自らを区別し、「大いなる乗り物」として一切衆生の救済を掲げた点が決定的だった。原始仏教の個人解脱に対し、大乗は菩薩道を理想とする。菩薩は自らの涅槃を遅らせ、衆生を救うためにあえて苦行を続ける。
衆生の能力や文化に合わせて教えを柔軟に変容させる手段だ。これにより、厳格な出家戒律や無神論的性格が緩和された。
中国に伝わった大乗は、現地の祖先崇拝や道教的儀礼と融合。死後供養・功徳回向が積極的に取り入れられ、在家信者向けの浄土信仰(阿弥陀仏による救済)が拡大した。戒律も大乗戒(梵網経など)として再解釈され、菩薩の利他行を優先するようになった。
この方便は、仏教の「生存戦略」でもあった。民衆に広まるためには、現地文化に適応せざるを得なかった。しかし同時に、原始の精神を薄め、儀式・供養・経済的布施への依存を許す土壌を生んだ。インド・中国ではまだ「死後ビジネス」までは発展しなかったが、日本への伝播で決定的な変化が起きる。
仏教は6世紀に日本へ伝来したが、当初は国家鎮護・貴族の氏寺として機能した。飛鳥・奈良時代、僧侶は葬儀に直接関わらなかった。死の「穢れ」を嫌う神道的な観念が強く、官僧(国家公認の僧)は死体に近づくことを避けた。
転機は鎌倉時代だった。遁世僧(とんせいそう)と呼ばれる民間僧が現れ、死の不安に苛まれる庶民のために葬儀・供養を積極的に担った。
1630年代、幕府はキリスト教禁制のため寺請制度(檀家制度)を全国に施行した。全庶民をどこかの寺院の檀家に強制登録させ、寺が戸籍(宗旨人別改帳)を管理。出生・死亡・婚姻の証明を発行し、死体検分まで行った。結果、葬儀・法事・戒名授与が寺の独占業務となった。戒名(死後与えられる仏弟子の名)は、元々出家者の生前名だったが、日本では位階付き(信士・居士・院号など)で一般化し、「長い戒名=高額お布施」という金銭取引が生まれた。
荘園崩壊後の寺院経営危機も、檀家からの継続的布施を必要とした。こうして、原始仏教の「金銀は毒蛇のごとし」という戒律は、遠い過去のものとなった。
江戸幕府は仏教をキリシタン摘発の道具に利用した。信仰の自由などなく、寺檀関係は義務だった。
大乗の方便が、日本古来の祖先崇拝・家制度と結びついた。死後の供養は「家」の存続を象徴し、戒名は家名を仏教的に昇華させる手段となった。
少子化以前から、寺院は布施に頼らざるを得なかった。方便の名の下に、原始の喝破精神は置き去りにされた。
浄土真宗のように法名を簡素化・生前授与する宗派もあるが、多数派は戒名料を伴う葬儀中心だ。
今日、寺離れ・直葬(火葬のみ)の増加は、この歴史的矛盾を浮き彫りにしている。原始仏教の視点から見れば、戒名料や葬儀独占はブッダの教えに明確に反する。金で徳を買う行為は、貪欲を増長させるだけで、涅槃の道ではない。
大乗の方便は、仏教を世界に広めた功績がある。しかし、少子高齢化で檀家減少が進む今、僧侶自身が「生活仏教」への転換を模索している。生前からのつながり、戒名なしの俗名供養、原始の喝破精神への回帰―これが、本来の仏教が「葬式屋」から脱却するための道かもしれない。
アンチ宗教の精神を忘れたとき、仏教は単なる葬儀屋となる。2000年の歴史を振り返り、私たちは再び「中道」を問う時を迎えている。
BL無罪論の面白いところは、最初から一貫した理論があるというより、反論されるたびに後付けで理屈が増えてきたように見える点だ。
最初の頃は、単純に「BLはファンタジーだから現実とは別」「女性向けの内輪文化だから問題ない」という擁護が多かった。
「フィクションと現実は別」と言うなら、男性向けエロや萌え絵にも同じことが言えるからだ。
そこで次に出てきたのが、「男性向けは現実の女性差別や性的搾取と結びついているが、BLは女性の性の解放である」という理屈。
だがこれも、BLにおける男性キャラや同性愛男性の性的消費はどうなのか、という反論を受ける。
すると今度は、「女性は構造的弱者だから、女性の性的表現は加害性が低い」という方向に移る。
さらに、それでも「弱者なら何を描いてもいいのか」「男性同性愛者や未成年男性の表象はどう扱うのか」と突かれると、最近は「現実に性犯罪を起こすのは男性が多い。だから男性向け表現と女性向けBLではリスクが違う」という犯罪統計ベースの理屈が出てくる。
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というふうに、反論されるたびに防衛線が後退しながら増築されている。
公共空間の表現と内輪の表現は違うし、現実の性犯罪率に男女差があるのも事実だろう。
男性向けを叩く時は「フィクションでも現実に影響する」と言う。
結局これは、最初に「BLは守る」「男性向けは叩く」という結論があり、その結論を維持するために時代ごとの言葉を足してきた歴史に見える。
日本の一部の表現規制派(特に非実在青少年描写や萌え系創作への厳格規制主張勢力)と現実の性産業の間には、表面的な敵対を超えた構造的共犯関係が存在する。仁藤夢乃氏(Colabo代表)を象徴とする支援・フェミニズム系活動家は、現実の女性性商品化を「男性の構造的搾取」と糾弾しながら、フィクション規制に殊更熱心だ。
自らの商品化行為を「被害」として聖化し、他者(主に創作者・消費者)の参入を排除することで道徳的・政治的優位を独占する。その結果、女性の性産業への流入が促進され、搾取の悪循環がかえって強化される。
性産業従事者やその支援者は、需要(男性の欲望)と供給(女性の性的商品化)の相互作用の当事者である。キャバクラ・風俗・パパ活で男性の歓心を買い、金銭を得る行為は明確に自発的な換金選択だ。
「私たちは『買われた』展」(Colabo主催、2016年開始)は、その典型例である。少女の主体性を極力薄め、買う男性の責任を最大化する演出により、換金事実を「完全被害」に転換する。
現実の自発的商品化(加害的側面:市場を維持・拡大する供給者)は「生存戦略」や「エンパワーメント」として相対化され、外部(男性全体やフィクション)に全責任が投影される。クソ客エピソード、男性性欲の構造批判、DV・パワハラの一般化が、性産業従事の導線として機能する。仁藤氏の場合、高校時代にホストから「救われた」「話を聞いてくれた」と語り、女性が金を払う側(ホスト需要)を肯定的に位置づける一方、男性が金を払う性産業は徹底非難する。この選択的二重基準は、女性もまた性的搾取の加害者である事実を隠蔽するための、心理的・戦略的方便である。
この責任転嫁が可能になる背景には、女性の性を「本物の被害者」だけが管理・語るべき聖域にしようとする独占志向がある。
この独占のインセンティブは明確だ:
• 自らの加害性(需要を満たし市場を活性化する供給行為)を認めれば被害者アイデンティティが崩壊するため、フィクションを攻撃することで責任を外部化する。
• 萌え系表現は「無抵抗な少女像」を低コストで大量供給し、現実の性産業従事者の相対的価値を低下させる競合である。女性の性商品を自分たちだけで「本物」として独占することで、表現市場での優位を確保し、寄付・行政委託・メディア露出を守る。
男叩きで共感を集め、「夜職で自立」「強い女性は性産業で勝てる」と募集・斡旋へシームレスにつなげる。
この独占志向は、現実の性市場変化でより露骨に現れる。国内性産業需要(特にキャバクラ・風俗)の減少傾向に対し、供給側は強い主体性を発揮して適応した:
• キャバ需要の減少 → 「港区女子」として高所得層の飲み会を自ら漁り、潜在客を積極的にスカウト(パパ活化)。
• さらに低迷 → 海外ブローカー斡旋による出稼ぎ風俗・売春(東南アジアなど)へ移行。借金漬け、強制リスク、違法滞在を伴うケースが後を絶たない。
女性の性商品独占志向は、かえって性産業参与を促進する。男叩きで不満を煽り、「復讐としての夜職」を肯定すれば、需要減少下でも女性は「主体的に」市場に留まり、より危険な選択を行う。支援団体はインセンティブ構造(女性側の主体的適応と加害的側面)を直視せず、被害者の聖性維持と表現規制に注力する。結果、本質的支援は後回しになり、搾取が再生産される。
真に女性を守るなら、性市場の需要供給の両面是正、リスクの徹底開示、現実的自立支援に集中し、性的搾取者が表現市場規制に介入するインセンティブを断つ必要がある。
以前ガシャ中毒者が課金を劇的に減らす方法https://anond.hatelabo.jp/20260417215652を書いた者だが、ここ最近Playstation Storeのセールでゲームを買いまくってる。
「キャラ1体1万円なんてばからしい、フルプライスのソフトが買える」
こういった五億年前から五千億人が言ってるようなソシャゲのガシャと買い切りゲームのコスパ比較は極めて正論である。ただ正論ではあるが、ソシャゲーマーには響きにくい。ダイエットに悩む人に対して「ダイエット?食事制限と適度な運動でしょ」というようなものだ。
なのでこの正論をガシャ課金に沼ってまた買い切りゲームに戻ってきた人間独自の視点で翻訳したい。ソシャゲをやらないか、あるいは健全な課金・もしくは無課金で通してる人間には決して言えない、わからない感覚をお伝えしたい。それは
ということだ。これは沼ったことがない健全な人にはわからないだろうし、自分もやめてからようやく気付いたのだけど、課金しまくってる人間はとっくの昔にガシャで「脳汁」なんてでなくなっていたのだ。
よくガシャはギャンブルだと言われるけど、確かに当てた時の「脳汁」を求める(パチンコだろうと競馬だろうと、金が増える可能性を言い訳にしても結局はこれだろう)という点ではそれに近い。しかしガシャには欲しいキャラなりアイテムなりを手に入れるという一応のゴールがある。そして今はそのゴールに大抵6万くらいの天井が用意されてる。そうなると確かに少ない回数で引けたときは瞬間的に脳汁のようなものは出るが、その量は課金しまくる人間ほど少ない。結局溜息つきながら課金して回して叩く気のなかった天井叩いて、はーまたやっちまった、来月は課金減らそう、で減らなくて来月に続く。
結局金を払えば払うほど「脳汁」からは遠ざかっているのだ。これは当たり前の話でガシャは一般的なギャンブルと違って金が一切増えない。金をつぎこみ続けた先に、それまでの投資が戻ってくるようなパチンコ・競馬・最近はやりのオンラインカジノ(儲けた人いるんか?)のような一発逆転は一切ない。ただ粛々と負けを積み重ね、負け金が少なければ喜び、負け金が大きくても一応ほしいものが手に入ったと言い聞かせて終わる非常に起伏に乏しい作業なのだ。強烈な刺激を求めて大金を投じるどころか、むしろ金で刺激を薄め続けているから「脳汁」のコスパは壊滅的なレベルに悪化している。
神引きの脳汁に大した価値はない、というかそもそも神引きできる機会が少ない、じゃあなんで課金して引き続けてしまうのか?その正体は特定のキャラ・アイテムが欲しいのではなく実は「今の環境に飽きたからなんか新しいものが欲しい」というシンプルな物欲に過ぎなかったのだ。そう、ガシャ欲ってただの物欲なんですよ。これは現役で自分をギャンブル依存症だと思いながらぶん回しまくってる人も、そういう人を冷ややかな目で見てる人も勘違いしている。ガシャというのは非常に刺激的で中毒性の高い娯楽であり、さながら違法薬物のような力があると「勘違い」している。これがよくない。
ガシャというかソシャゲをやめた今の私は禁断症状に苦しんだりせず、とても満たされている。それはなぜか?多額のガシャ課金という悪習を断てたからか?それによって今後貯金が増えるからか?もちろん、その二つもあるが最大の理由はソシャゲに課金してた時よりもはるかに物欲の赴くままにガシャをまわしまくれているからである。自制心を鍛えてガシャをやめたのではない、自制心を必要としない安いガシャを回すようになったのだ。
ソシャゲをやめた私のいう「自制心を必要としない安いガシャ」とはPlaystation Storeのセール対象のゲームをあさる事を指している。これがなかなかに脳汁が出る。かつてのデレステの水色のダウンロードバーが出た瞬間みたいな瞬発的な脳汁はないが、引いた後のご機嫌の余韻みたいなものはセールのゲームを買うだけで十分に再現できる。セールでどのゲームにしようか吟味する過程が非常に楽しいし、もちろん買ったゲームをプレイして面白ければいうことない。そしてこれはガシャに狂わされた金銭感覚の功罪の唯一の功といっていいのかもしれないが、2000円とか3000円のゲームに対して非常に寛容になれるというか、極端な言い方をすると出費ととらえないくらいの感覚で買えてしまう。
その結果どうなったかというと、来月のクレカの請求のうちPlaystation Storeであさったゲーム代がざっと2万円ほどになる。ここまで読んでくれた方ならこれまでのガシャ課金が到底月2万で済んでないことは察せるにせよ、趣味・娯楽に使う金として安いとまでは言い切れない金額になってはいると思う。
しかし、私はこの金額に満足している。ソシャゲ課金と比べれば少ないという理由もあるがそれだけではない。この2万円は本当に「ほしいと思ったものを一切我慢せずに欲望の赴くままに買った結果」だから。物欲を一切抑えず、すべて解放しきった結果の2万なのだ。この満足感がすごい。
ソシャゲに課金しまくってた頃は矛盾するようだが大金を使いながらも「我慢」していた。さすがに全部引くわけにはいかないし、5千円や1万円で引けたらガッツポーズだが3万4万となるとやはり心にしこりが残るし、天井は言わずもがな。せっかく大金を使っているのに大金を使ったことに対するストレスを感じるという負のマッチポンプ、それで手に入るのは月に2~3体の新キャラ。
「あ、これ良さそうだな、買おう。ついでに前から気になってたこれもセールの期限が近いし買っておこう」みたいな感じで買える。大人なので1日にゲームを2本買ってもいい、なんなら3本買ってもいい。ちなみに今月は9本(プラスDLC)買っているが、それで2万円強である。ソシャゲ時代とは比べ物にならないほど物欲を好き放題解放して満足しつつ、支出は激減している。こんなに都合が良いことがあるだろうか。
というわけで課金しまくってる人、というよりそれに悩んじゃってる人、大丈夫!あなたは後戻りできない深刻なギャンブル依存じゃない!あなたの欲求はただの物欲だから買い切りゲーム買うようにするだけで安く満たせるぞ!ついでに言うとそんだけ好きに金が使える身分ならこの時期はめんどくさい税金もたくさん降ってくるだろ、今が辞め時だ。ソシャゲをやめると言っても別にやってたゲームを嫌いになれってんじゃない。私もやめたゲームのファンアートをいいねブクマしまくってるし、コミケの現地でもDLsiteでもエロ同人も好きに買ったらいい。あ、ウマのエロ同人はねえか。ただ単に「セールの買い切りゲームを買うだけで脳汁もでるし、支出も減るぞ」というだけの話だ。
前の記事でも言った通りやめたゲームに後ろ足で砂をかけるつもりはないので強くは言わないが、今の自分の好き放題に物欲を開放しつつ、金がたまる満足感をより多くの悩めるソシャゲーマーに体験してほしくてここに描き散らさせていただいた。
圧倒的にメス。
「トロフィーワイフ」だの「みせびらかし」だのの神話を作りがち。
でも配偶者の学歴だの収入だのステータスだので同性と張り合うのは圧倒的にメスの習性。
いい加減ここは受け入れてほしい。
もちろんそんな下品なことしないメスはたくさんいる。
ていうかもっと言えば
恋人に対して「友人の輪に私を紹介しろ」みたいな要求をするのもメスの方が多い。
もちろんそんなんウゼ―って思うメスは沢山いるが、その欲望を持ってるのはメス。
オスでそんなのまずいない。
紹介された先で恋人の手下を自分の手下と思い込んじゃうのもメスにありがち。
オスでそんなのまずいない。
あれはかなり善意でやっている。
見せびらかしではなく「妻子に新しい人脈を与えよう」みたいな意図。
もちろんそれがうぜーってメスは沢山いる。
オスとメスでは利害や本能が異なる。
お前も同じぐらい間抜け。
彼について考えるとき、僕はいつも少しだけ居心地の悪いカフェの隅に座っているような気分になる。窓の外では、理由もなく風が吹いている。カップの中のコーヒーはもう冷めかけているのに、なぜか飲みきるタイミングがつかめない。
ゴッホという画家は、どうやら僕らが教科書で習ったような純粋な芸術家というより、もっと生々しくて、手触りのある存在だったらしい。デッサンの練習には女性モデルを選びたがり、ときにはその境界線を曖昧にしてしまう。若い頃には娼館に通い、絵を描くという行為と、欲望とが、うまく分離できていなかったようにも見える。
それはどこかで、現代の映画監督のスキャンダルを思い起こさせる。創作と権力と欲望が、同じテーブルの上に並べられているような、そんな感じだ。
でも同時に、彼の中には奇妙なほど強い宗教的な情熱もあった。神に近づこうとする衝動と、地上的な欲望とが、同じ身体の中でせめぎ合っている。そのアンバランスさが、かえって彼をより現実的にしている気もする。
彼は生涯、家族に頼り続け、うまく人と折り合いをつけることもできなかった。人から好かれるタイプではなかったのだろう。むしろ、周囲を少しずつ疲れさせてしまうような人物だったのかもしれない。
そして結局のところ、彼は明確な成功を手にする前に、自分自身の内側で何かが壊れてしまった。
もし彼が生前に大きな成功を収めていたら、それはそれで、どこかしっくりこない気もする。成功した彼の姿を想像すると、なぜだか物語のバランスが崩れてしまうのだ。まるで、最後のページだけ誰かが書き換えてしまった小説みたいに。
AIの進化により、文章・画像・動画・音楽と、あらゆるデジタルクリエーションのハードルが一気に下がった。
それと同時に、「どうやってやるのか(HOW)」ばかりがあふれる時代になった。
確かに、AIツールやプラットフォームが次々登場し、早くから情報をキャッチできる人にはアドバンテージがある。
でも、その裏で「楽して稼ぎたい」という欲望に応える形で、情報商材のような“HOW至上主義”コンテンツも乱立している。
そして、みんなが同じような情報をコピー&ペーストしながら発信し、似たような記事や動画が大量生産されていく。
それって、本当に意味ある?
例えば、「note」なんかがいい例だ。
今や「副業で稼げる情報発信の場」として、一部のプレイヤーたちに“ハック”されてしまっている。
…でも、それで何が生まれる?
メモが取れるようになったからって、誰もが革新的なサービスを生み出せるわけじゃない。
本当に問うべきは「WHY」だ。
情報の海に溺れるな。
そこから、自分なりの問い(WHY)を立てて、世界と対話することが重要なんだ。
「なぜ自分はそれをやるのか?」
「なぜ、その技術を使いたいのか?」
「なぜ、今それが必要なのか?」
この“WHY”を深く掘り下げることこそが、
HOWを真に活かせる力となり、あなた自身の道を切り開く鍵になる。
AIで映像が作れても、それをビジネスや作品に昇華させるには、情熱が必要だ。
えー、これはですね、まず、まさに申し上げておきたいのはですね、お二人とも、少し、少しですよ、冷静になっていただきたい。冷静になっていただきたいのであります。
いま皆さんがやっておられる議論、これはですね、一見すると政治の議論のように見える。
しかしですね、よくよく聞いてみますと、これは、いわば、相手をどうやって言い負かすか、相手をどうやって嫌な気持ちにさせるか、そういう、まさに、不毛な、意味のない、意味のない議論だよ、と、こう申し上げざるを得ないのであります。
まずですね、「なぜ貧しい人が富裕層優遇政治の自民党を支持するのか」と。
これはですね、えー、まさに、典型的なレッテル貼りなんです。レッテル貼り。
国民の皆さまはですね、それぞれの生活があり、家族があり、地域があり、仕事があり、将来への不安があり、その中でですね、いわば総合的に判断をして、一票を投じておられるわけであります。
そこをですね、「強者と同一化したい欲望だ」とか、「強者にこびへつらう根性だ」とか、そういうふうに決めつける。これはですね、まさに、私は、極めて失礼な話だと思いますよ。
えー、失礼なんです。
国民を見下しているんです。
そういう姿勢からはですね、残念ながら、建設的な議論は生まれないのであります。
これもですね、まあ、言いたいことは分かりますよ。言いたいことは分かりますが、これもまた、あまりにも単純化された議論であります。
地理的条件がある。
島しょ県としての物流コストがある。
そうしたものをですね、全部、全部ですよ、全部横に置いてですね、「左派だから豊かにならないんだ」と言う。これは、いわば、まさに、乱暴な議論であります。
そしてですね、「韓国に一人当たりGDPで抜かれたではないか」と。
これはですね、えー、厳しいご指摘であります。厳しいご指摘でありますから、これはもう、真摯に受け止めなければならない。
しかしですね、同時にですよ、同時に、為替の問題、人口構造の問題、生産性の問題、賃金の問題、産業競争力の問題、社会保障負担の問題、こうしたものをですね、丁寧に、丁寧に、丁寧に見ていかなければならないわけであります。
そこでですね、「兄の国韓国に抜かれてどんな気分?」と。
これを言ってですね、何か一つでも良くなるんですか。
消えないんですよ。
まったく消えない。
いいですか。
政治というものはですね、右が勝った、左が負けた、韓国に抜かれた、日本がどうだ、沖縄がどうだ、そういう言葉でですね、相手を殴るためにあるものではないのであります。
所得を上げるためにある。
雇用を守るためにある。
地方を元気にするためにある。
えー、まさに、そこなんです。
そこを議論しなければならない。
ですから、お二人に申し上げたいのはですね、相手を「貧乏人」だとか、「左派」だとか、「右派」だとか、「媚びている」だとか、「負けた気分はどうだ」だとか、そういう言葉でですね、相手の人格を傷つけるのではなくて、政策の中身を議論していただきたい。
どうすれば所得が上がるのか。
どうすれば韓国とも、あるいはアジアの国々とも、健全に競争し、協力していけるのか。
そこをですね、丁寧に、丁寧に、さらに丁寧に、丁寧の上にも丁寧に、議論していく必要があるのであります。
まあ、こう申し上げますとですね、また、「答えていないじゃないか」と、こう言う方がいる。
しかし私はですね、今まさに答えているんです。
お二人の議論は、政策論争ではなくて、えー、感情のぶつけ合いになっている。
そのことを、私は、申し上げているのであります。
日本社会では、「BL無罪」という主張が性的表現をめぐる議論の中心となっています。女性主導のボーイズラブ(BL)市場が巨大化する一方で、そこに存在する性別による明確なダブルスタンダードは、深刻な人権問題を生み出しています。
この問題の本質は、BL愛好者側のアカウントから日常的に発信される発言に、はっきりと表れています。以下に典型的な主張を取り上げていきます。
この論理は非常にシンプルです。消費者の性別だけで判断を下しています。女性が消費するBLは「完全なファンタジーだから無罪」とされ、男性の性的嗜好は「現実の搾取に結びつきやすいから有罪」と位置づけられます。刑法上の「未必の故意」の有無すら、性別という属性で一方的に決めつけているのです。
ここでは「女性=構造的弱者・被害者」というステレオタイプを前提に、女性の男性モノ化(BL)を「抵抗行為」として正当化しています。一方で男性の性的表現は「強者による搾取」とみなされ、道徳的価値が性別で二分されています。
さらに、ゲイ当事者に対する直接的な無視を正当化する発言も少なくありません。
この発言は、ゲイの現実の経験や多様性を単なる「娯楽」の対象として消費することを肯定し、当事者の批判を「女性の主体性」として肯定的に評価する姿勢を示しています。
こうした発言の根底には、BL愛好者による性別を理由とした差別の内面化があります。彼らは「女性=弱者=被害者」という固定観念を無批判に受け入れ、自分の性的欲望を「抵抗」や「自由」として聖域化します。
ここに甘えの構造が見て取れます。「ゲイは男性だから性的消費されてもよい」という傲慢な論理です。ゲイ男性は「男性」という属性でひとくくりにし、女性の性的ファンタジーの対象として消費しても問題ないと位置づける一方で、「女性は被害者だから主体性を尊重しなければならない」と主張します。
弱い立場の男性マイノリティに対する配慮を欠いた、典型的な二重基準と言えます。数においても市場規模においても圧倒的なBL愛好者が、より弱い立場の声を圧殺しているのです。
現実のゲイ男性の多様性(年齢・体型・生活の苦悩など)を無視したイケメン中心のファンタジー消費が、マイノリティの自己表象空間を奪っているという批判です。
しかしBL愛好者側は、これを「ほっといてください! 女の欲望の自由だ!」という性別を盾にした言葉で、30年以上にわたって黙殺し続けてきました。
権力者による脆弱な少年の搾取構造を知りながら、それに加担し、声を上げた被害者を集団で誹謗中傷する「ジャニーズ信者」の存在は、日本最大の性加害組織の存続を可能にした要因でした。「女性=被害者」というステレオタイプが優先され、男性マイノリティの苦痛は無視され、「二次加害」とみなす点が共通しています。
このような価値観は、自由主義と根本的に相容れません。自由主義の核心は、個人の尊厳と法の下の平等(日本国憲法第14条)を、性別に関係なく保障することにあります。「自分の性的欲望のみに道徳的優位性を認める」主張は、生まれ持った性別で道徳的価値を二分する属性差別です。表現の自由(憲法21条)も、人権も、性別というフィルターで恣意的に扱われることになり、理念は形骸化します。特定のものの権利のみが「人権」として保護されるに至っているとさえ評価できるでしょう。
BL市場の野放図な拡大によりゲイ向け媒体が衰退し、当事者の声が希薄化している現状は、こうしたダブルスタンダードがもたらした結果です。
性別という属性で他者の尊厳を踏みにじる論理が、当たり前のように語られている——それが「BL無罪」が引き起こす人権問題の本質です。
日本社会において、女性主導のBL(ボーイズラブ)文化は巨大市場を形成し、性的表現の自由をめぐる議論を長年続けてきた。しかし、その根底にある「BL無罪」という思想は、深刻な人権問題をはらんでいる。
「BL無罪」とは、主に女性の性的ファンタジーとして描かれる男性同士の恋愛・性愛表現(やおい・BL)を、
として無条件に擁護する立場を指す。対して、男性向け表現(萌え絵、異性間エロなど)や現実のゲイ表象への批判は厳しく行われる。この性別による二重基準こそが問題の本質である。
• 「ゲイの経験を勝手に商品化・美化・ステレオタイプ化するな」
• 「表象の横奪だ」
• 「女性のファンタジー空間に口出しするな」という反論に対し、ゲイ側は「現実の多様性や苦悩を無視した消費」を問題視した。
現在、商業BL市場は180〜200億円規模(同人含め300億円超)と推定され、年間1,400冊以上の新刊が刊行される。一方、ゲイ向け商業雑誌はほぼ壊滅状態だ。老舗誌が次々と廃刊し、当事者による自己表象の場が激減した。女性消費者主導の巨大資本が、ゲイ表象を「イケメン同士のエロティックファンタジー」として独占的に消費する構造が定着したのである。
特に悪質なのは、弱い立場のマイノリティを対象化している点だ。BLの定番テンプレートである「強い攻め×弱い受け」の力関係・歪んだ支配関係は、現実のジャニーズ性加害事件(権力者による脆弱な少年の搾取)と構造的に重なる部分が多い。それを知りながら、または薄々気づきながら「女の欲望の自由だろ!」と擁護する姿勢は、傲慢そのものだ。
この問題を象徴するのが、東京大学大学院情報学環教授・田中東子氏である。公的立場では、宇崎ちゃん献血ポスターなどの女性モノ化を「ジェンダー規範の再生産」として批判し、表現規制的な議論を展開。一方で、黒澤多香子名義で脅迫・SM・心理支配を主題とした過激BL作品を商業出版していたことが2024年に暴露された。
• 男性のモノ化(特に歪んだ支配関係) → 正義・性的主体性
東大教授という公的権威を背景にこうした二重基準を提示することは、知的誠実性を大きく損なう行為だ。
日本国憲法第14条は明確に定めている。
「女性の性的ファンタジーだから無罪」という主張は、生まれ持った性別を基準に表現の許容度や道徳的価値を分ける属性差別である。表現の自由(憲法21条)も、人権も、性別フィルターをかけるべきではない。最高学府の教授がこれを繰り返すことは、人権侵害的主張を公的に容認するに等しい。
BL市場の拡大は女性消費者の満足度を高める一方で、ゲイ当事者の疎外感、一般男性への表現規制圧力、社会的分断を増大させている。性別で「勝ち組/負け組」を決めるゼロサム的論理だ。
「BL無罪」というスローガンは、表面的には「表現の自由」を掲げながら、実際には人間の尊厳を性別で二分する。 弱い立場の男性マイノリティの経験をファンタジーとして食い物にし、その苦痛を「ほっといてください」で片付ける構造は、人権の選択的擁護といえる。
というわけだ。
真の平等とは、性別問わずオブジェクト化の害・表象の権利・表現の自由を同じ基準で評価することである。最高学府が性別ダブルスタンダードを擁護し続ける現状は、看過できない人権問題である。
地方の夜は、静かすぎる。
ネオンは薄く、
風はどこか遠くの海の匂いを運んでくる。
触れたくなった夜——
その衝動は、都会みたいに一直線じゃない。
ホテルを選び、
電話をかけ、
まだ見ぬ誰かを待つ。
時間が一枚ずつ剥がれていく。
ドアの向こうに立つ影に、
金額と体温を預けるみたいにして、
ようやく夜は動き出す。
風呂の湯気の中で、
柔らかさに触れた瞬間、
ここまでの距離を、少しだけ恨む。
——遠いんだよ、すべてが。
東京なら、
たぶんそんな前置きはいらない。
もっと雑に、
もっと速く、届くんだろう。
同じ夜なのに、
同じ身体なのに、
この距離は、なんだ。
見えない差。
地方の夜は、静かすぎる。
そして、少しだけ長い。