はてなキーワード: 遡行とは
ある音楽家が、これまでのリリース作品がすべてAIベースの制作環境で作られていたことを、その環境を商品として販売開始することで明かした。
この記事は、それを告発するものではない。むしろ、その製品が宣伝通り機能した場合にこそ私たちが直面する問い——「感動していた曲は、何によって作られていたのか」「作曲がプロンプト設計に移るとき、聴き手は何を聴いているのか」——について、ひとりの聴き手/作り手として考えたことを書いておく。
1~4節はその商品の分析がメインなので、ゴシップ的な話に興味のない人は5~7節だけ読めば十分。
Twitterで、気にかけていたアカウントがあった。フォロワーは二千人規模だが、Hyperpop以降の日本のシーンで頭角を現している一人、という認識が自分の中にあった。界隈の主要な音楽家たちからもフォローされている、といえば規模感が伝わるだろうか。リリースされる曲には、たんに「いい音楽」と片付けるのは難しい構成の巧妙さと音選びの新しさがあって、追ってはいないまでも名前は頭にあった。
そのアカウントが最近、自分の制作環境を商品として販売し始めた。価格は14,900円、「AI音楽制作環境」として売り出されていて、製品ページの宣伝文句はこうなっている——「『気持ちよくて驚きのある曲を作って』——そのくらいの指示から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプトまで一貫して出力します。」さらに、既発のアルバムとEPは「全てこれを軸に制作されている」とも明記されていた。
最初に湧いた感情は、「ああ、そういう工程で作られていたのか」という、ある種の冷めの感情だった。AIを使っていることそのものへの反発ではない。SunoのようなAI音楽生成ツールの進化については以前から耳にしていた。出力自体のクオリティを否定するつもりもない。そうではなく、「何に対して感心していたのか」という、自分の受け取り方の根元が揺らぐ感覚、とでも言えばいいだろうか。
この感覚を、個人的ながっかりエピソードとして飲み込んで済ませてもよかった。けれど製品ページを読み進めるうちに、これは自分一人の話ではなく、いま音楽を聴く/作る側に共通してくる問題になっていくだろうと思い直した。以下はその整理になる。
製品ページから読み取れる範囲で、何が売られているのかをまず整理しておく。評価は後回しにする。
製品としての訴求は、おおむね三層からなる——(a)独自の音楽生成エンジンであること、(b)感覚的な指示から完成物が自動生成されること、(c)学習ツールとしても機能すること。
実際に買って触ったわけではないので、以下は推測の域を出ない。ただ、製品説明を読み解くと、構造的にいくつかの疑問が浮かぶ。
まず、''「Python疑似コード」という語の含意''について。「疑似コード」はPythonの形で書かれていても実行されないテキスト、つまり構造化されたプロンプト/参照資料のことを指すのが通例だ。Claudeプロジェクトに.zipをアップロードする形式である以上、これはClaudeが読み込むルール文書群であって、独立して走る独自エンジンではない可能性が高い。MIDI出力部分などは実行可能コードだろうが、「コードを選ぶ」「歌詞を書く」といった音楽的判断のコアは、Claude本体の自然言語推論能力が上限になる。これ自体は悪いことではない。よく練られたプロンプトパックは、Claudeの出力の一貫性と専門性を上げる。ただし「独自エンジン」という響きが含意するものとはかなりの距離がある。
次に、''Sunoへの依存度''について。製品の主要アウトプットのひとつが「Sunoプロンプト」である以上、最終的に音として鳴る部分——音色の質感、ミックスのバランス、演奏のニュアンス——を生成しているのは、この製品ではなくSunoのほうということになる。つまり、この製品の価値の相当部分は「Sunoを上手く使うためのプロンプト設計の職人技をパッケージしたもの」であって、Sunoが進化すればその層の価値は急速に目減りする。
三つ目に、''「all built by hand」の含意''について。86,000行という規模が、本当に人間が手で書いたものなのかは、製品説明からは判別できない。ジャンル研究ノートやStyle語彙データベースといった文書は、AIに「このジャンルについて詳細なルール文書を書いて」と指示すれば相当量が出てくる種類のものである。骨格は人間が作っていたとしても、肉付けをAIに任せている可能性は十分ある(そしてその場合、「手作業で書いた」という説明の重みはかなり変わってくる)。
繰り返すが、これらは推測にすぎない。実際に買って開ければ印象が変わる可能性は十分ある。ただ製品ページの記述だけを根拠に判断する限り、「独自の音楽生成エンジン」「作編曲の学習ツール」という訴求は、実態を控えめに言っても過剰包装しているように見える。
この製品に対する考えられる反応は、「宣伝通りに動くのか?」という疑問だろう。
しかし、立ち止まって考えると、本当に問うべきは逆側であることがわかる。
仮にこの製品が宣伝通りに機能するなら——「気持ちよくて驚きのある曲を作って」という指示一行から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプト・MIDI・MP3まで一貫して出力されるなら——自分が感心していた曲は、その程度の指示から出てきたものだった、ということになる。下準備としての疑似コード整備や、出力に対する微調整は当然あるにしても、一曲一曲の制作工程の中心がそこにあったのなら、感心の源は作り手の耳ではなく、ツールの出力分布の中にあったことになる。たしかに創作物は優れていたかもしれないが、「それが優れていたのは上手くSunoを使いこなしていたから」という、エンジニアリングの問題だったということになる。
機能しないなら誇大広告の問題で済む。機能するならば、「聴き手は何を聴いていたのか」という、より根本的な問いが立ち上がる。皮肉なことに、製品としての完成度が高いほど、この問いは重くなる。
ここで思い出しておきたい話がある。2023年のゲンロンのイベントで、音楽家のtofubeatsが、Spotifyのサジェストで流れてきた曲に心を動かされ、作曲者を調べたらAI生成曲だと知って深いショックを受けた、という経験を語っていた。彼自身がオートチューンで声を加工し、歌声から人間性を排して作曲するタイプの作家でありながら、である。「非人間的な曲が、本当に人間によって作られていないこと」が判明したときの空虚さを、彼は正直に語っていた。
この空虚さが何から来るものなのかは、6節でもう少し踏み込んで考えてみたい。ただ先に言っておくと、それは「AIは音楽を作ってはいけない」という種類の話ではない。むしろ、「聴くとき、自分は何と対面していたつもりだったのか」という自己認識の問題になる。そしてそれは、作り手が工程を開示しないまま商品を売り始めた瞬間、聴き手の側で解決することが不可能になる種類の問いでもある。
誤解されたくないので、はっきり書いておく。この文章は、AIで音楽を作ることへの全面的な否定ではない。
作曲の歴史は、すべてを人間が設計し人間が作る歴史だけではなかった。偶然性、システム、自動化、外部の力を取り込む試みは、ジョン・ケージから、ブライアン・イーノ、アルゴリズミック・コンポジションまで、20世紀以降の音楽史の重要な部分を形作ってきた。AIの導入はその系譜の延長にあって、それ自体を否定するのは筋が悪い。
近年の例で言えば、菊地成孔は自身が主宰するギルド「新音楽制作工房」でAIを活用していることを早くから公言している。NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の劇伴ではMaxを用いたAI生成による弦楽四重奏が使われており、菊地本人が「作曲者のクレジットもないし、著作権のありかがわからない」という問題をNHK出版経由でJASRACと協議し、「新音楽制作工房」名義のクレジットで処理することで決着させた、という経緯まで公にしている。つまり、どう使い、どう扱い、誰の名のもとに出すかを、彼は工程ごと開示している。
ここでの違いは、「AIを使うか使わないか」ではなく、「どう使い、どう開示し、何を自分の名のもとに出すか」にある。「AIの使用は隠していない」という表明と、「どの工程をAIに委ねたかを開示する」こととの間には、大きな距離がある。
そしてもうひとつ、避けて通れない論点がある。Sunoを含む音楽生成AIが、何を学習データにしているかという問題だ。2024年6月、RIAA(全米レコード協会)はSony Music・Universal・Warner Musicを代表してSunoとUdioを著作権侵害で提訴した。Suno側は、レコード会社の著作権で保護された録音物を使用したことを概ね認めた上で、フェアユースを主張している。2025年末にはWarner MusicとSunoがライセンス提携で和解したが、訴訟全体はまだ決着していない。
つまり、いまSunoで曲を作って発表することは、その学習データが何で、どのような経緯で集められたかが法的に争われている状態のモデルを使うことを意味する。これは「使ってはいけない」と言いたいのではなく、「自分の作品がどういう供給ラインの上に立っているか」を無自覚なままにはできない、ということだ。そして、そのモデルを使って生成した曲で「作曲者」を名乗り、その制作環境を商品化して収益化する、という連鎖の倫理性は、まだ業界全体として合意が取れていない。
この記事の射程は、その倫理そのものを裁くところまでは届かない。ただ、「いい曲さえできれば制作過程はなんでもいい」という論法に、即座に頷くことはできない、という姿勢だけは明示しておきたい。
ここで、4節の末尾で保留にした問い——tofubeatsが味わった空虚さは何から来るのか——に戻ってくる。
創作物を聴く側は、作り手の工程をつねに見ているわけではない。それでも、作品を受け取るときには「制作への真摯さと、出来上がった作品のクオリティは、どこかで結びついている」という、いわば感覚的な信頼をもって聴いている。これは創作と鑑賞の間に長く存在してきた暗黙の契約のようなもので、あるシンガーソングライターが書いていた通り、手間暇掛けようが掛けまいが最後には一緒くたに扱われる時代でも、違いの分かる人はいるはずだと信じて丁寧に拵える——という姿勢を、作り手と受け手の双方が(明示的ではないにせよ)共有してきたから、音楽は単なる音の配列ではなく、作り手の痕跡を伴うものとして聴かれてきた。
AIが生成した音楽そのものにも、それ独自の良さがある。これは繰り返し強調しておく。作品としての良さは、工程とは独立に成立し得る。ただし、AI生成された曲を「ひとりの作家が作った作品」として提示し、その仮構された人格のもとに人気を集めることは、この暗黙の契約を根元から破壊する。聴き手が「これを作った人は、たぶんこういう感受性の持ち主なのだろう」と想像しながら聴いていた対象が、実は大部分がプロンプトから生成された出力だったとしたら、その想像は宙に浮いてしまう。作品が悪かったわけではない。悪かったのは、作品と作り手の人格の間にあったはずの関係について、聴き手が抱いていた前提が、工程を開示されないまま利用されていたことにある。
tofubeatsが味わった空虚さは、たぶんこれに近い。「AIが作ったから価値がない」ではなく、「自分は作品を通して誰かの感受性と向き合っていたつもりだったが、その『誰か』が自分が想像していたものとは違っていた」という、受け手側の文脈の宙吊り。この宙吊りは、作り手の側がAIの使用を大まかに表明するだけでは解消されない。「何を自分の判断で選び、何をツールに委ねたか」という工程の粒度での開示があってはじめて、聴き手は自分の感心の行き先を再設定できる。
この視点から見ると、今回の製品販売で起きたことの構造が少しはっきりする。14,900円という価格や、買った人にとっての有用性の問題はもちろんある。ただ、それ以上に大きかったのは、制作環境を商品化するという行為が、既発の作品群を「この環境の実例」として遡行的に位置づけ直してしまうことにある。以前から作品を聴いていた側から見れば、聴き手と作り手の間に結んでいたはずの暗黙の契約の内実が、後出しで書き換えられる感覚がある。
制作工程の開示は、法的義務ではない。ただ、制作環境を商品として売り始めた瞬間、この暗黙の契約を自分から前景化させたことになる。「この環境でこれだけの作品が作れる」という実例として既発のリリースが参照されているのなら、それぞれの作品がどの程度この環境の出力そのものなのか、どの程度は人間の介入によるものなのかは、買う人にとっても、これから聴く人にとっても、重要な情報になる。
最後に、聴き手として、作り手として、これからどうするかを書いておきたい。
聴き手としては、tofubeatsが味わった種類の空虚さを、できれば避けたいと思うひとが大半だろう。しかしtofubeatsがAI生成だと気づくことができたのはクレジットにそう明記されていたからに他ならない。今回の私のケースのように、AI生成であることが明かされていなかったり、将来的に(遡及的に)AI生成であることが明かされるようなパターンはますます増えていくだろう。私たちは、匿名性を保ったままクオリティで勝負して有名になっていくという同人音楽シーンの時代の終焉を目の当たりにしているのかもしれない。作り手と受け取り手の信頼関係が壊れていくなかで、聴き手側からできることはあまりにも少ない。界隈で有名なコンポーザーの多くも今回のアカウントをフォローしていたことも考えれば、制作過程の情報開示を積極的に求めていくこと、プロセスを明らかにしたうえでよいものを作っているひとを評価していくこと等も、その限界は大きいだろう。
作り手としては、自分がやりたいのは、プロンプト一行から出てくるものを受け取る側ではなく、一音ずつ選ぶ側である、とあらためて確認した。それはAIを使わないという意味ではなく、AIを使うにしても、どこで自分の判断を通すかを意識的に設計したい、ということになる。菊地成孔のやり方に近いと言えば近い。作編曲に限らず、これまであらゆるアートと呼ばれる領域について、過程を見せないことは作家の神秘性を増すための重要な要素だった。しかし上にも書いたように、その限界はもうすでに見えてきているように思う。過程を明らかにしたうえで、自身の武器がすべて明らかであるのにそれでも真似できない創造性を見せること。もちろん、あらゆる出力結果は機械学習の餌食になりうるという状況においてこれは綺麗事かもしれないが、成果物がいわゆるAIに食われうるのは変わらないのだとしたら、いかに自身の制作においては透明性を保ったうえでクオリティで受け手を納得させるか、こそが大事になってくるだろう。こうしたムードを作り手の側からも作っていくことが、今後の大きな課題になるのではないかと思う。
「AIがもっといいものを作れるのになぜあなたが作る必要があるのか?」は、「プロの作家がすでにこの世に五万と存在するのに、なぜあなたは作品をつくろうと、その道を志したのか?」という問いと本質的には何も変わらない。作りたいから、作る。伝えたいから、それを形にする。そうした初期衝動が、欲望が、「創造性」という言葉の本質であり、AIに模倣することのできない、あなただけの、私だけの創作物につながるのだから。
小野田大臣がガチのオタクだと話題になっていて、頭を抱えている。
日本刀持って写真撮ったり、「卑弥呼の時代から歴史を刻んできた我が国そのものに忠誠を誓っています」とか言ったりする小野田大臣を見て、
ああ、すごく楽しかったんだろうなと思った。
ヘ〇リアに一番ハマっていた頃の私は国家公務員志望だったから、なんとなくロマンチックな気持ちになったりしてたよ。
日本のために頑張るんだーって思ってた。日本のためならきっと勉強も上下関係も長時間労働も耐えられるって。
当時は本気だった。
でも年を重ねるうちに、へ〇リアにはよくないところもあるなって気づいた。
国や歴史を単純化してる部分があるし、戦争というセンシティブな出来事が先進国の視点からエンタメ化されるのは問題だと思う。
そもそも、国ってすごく大きなもので、当然各国にいいところも悪いところもあるんだから、それを「推す」こと自体に危うさがある。
そう思ったから、頑張って日本史も世界史も勉強したし、海外のニュースも見るように気を付けてきた。
とうらぶもやってたよ。私の初期刀は歌仙です。
少し前に小野田大臣もプレイヤーだとわかって、TLが盛り上がっていた。
でも、同じ閣僚の中には、南京事件の存在を否定する映画に賛同してた人もいる。
それって歴史修正なんじゃないですか?
小野田大臣の話とは関係ないけど、私はそのあとコナンにハマってた。
安室透が好きだったから、別の省庁希望だったけど、警察庁に変えるか本気で悩んだ。
でも現実の冤罪事件のことを思うと、日本のためとか、違法捜査も辞さないみたいな価値観に憧れられなくなった。
最近は作品を見るのも少しつらくて、そんな自分の状況も嫌になったりする。
ヘ〇リアは今も好きだけど、上記の問題を無視できなくてずっと考え続けている。だからあまり「好き」と公言していない。
そんな中で、同じファンである小野田大臣が外国人問題で注目を集めているのを見ると、正直悲しくなる。
外国人の犯罪率は高くないし、日本人に比べて優遇されているわけでもない。
あと、ヘ〇リアにはBL要素があるけど、小野田大臣は同性婚の法制化に「やや反対」らしい。その点も複雑な気持ちになる。
私は官僚志望をやめて、今は対人援助にかかわる仕事をしています。
スパイ防止法と国旗毀損罪と排外主義に反対し、選択的夫婦別姓と同性婚に賛成しています。なによりもまず、物価高対策と賃上げをしてほしいと思ってる。
小野田大臣を支持する人から見たら、私は「反日」とか「スパイ」に見えるかもしれない。
それでも私は、日本のため、世界のために毎日頑張っているつもりです。
私みたいにこじらせてから気付くと、けっこう痛いので。
参考:
https://x.com/onoda_kimi/status/1799689208745095250
https://x.com/onoda_kimi/status/1709189028950790634
https://www.ntv.co.jp/election2022/research/candidate/?id=330014
昨日は日曜日であった。
したがって、日曜用のルーティンに従った。
午前6時55分に起床、7時15分にオートミールを開始。粒子の無秩序な拡散が統計力学に従うように、僕の日課もまた厳格に支配されている。
朝食後、僕はCalabi–Yau三次元多様体におけるホモロジー群の壁越え現象とN=2超対称的世界面理論におけるBPS状態の安定性を再検討した。
通常、専門家であってもモジュライ空間における壁越え(wall-crossing)は曖昧な比喩で済ませる。
しかし僕は昨日、Kontsevich–Soibelmanの壁越え公式を非摂動的補正を含む形で、実際の物理的スペクトルに対応させることに成功した。
問題の核心は次の点にある。Calabi–Yauの三次元特異点に局在するDブレーンの安定性は、直感的なトポロジーでは決して記述できない。
むしろそれはモチーフ的Donaldson–Thomas不変量と深く結びついており、これを扱うにはホモロジカル鏡映対称性と非可換変形理論を同時に理解していなければならない。
昨日、僕はその両者を結びつけ、量子補正されたブリッジランド安定性条件が実際に物理スペクトルの生成消滅と一致することを示した。
これを実際に理解できる人間は、世界でも片手で数えられるだろう。
昼食には日曜恒例のタイ料理を食べた。
ルームメイトはなぜ毎週同じものを食べるのかと尋ねたが、それはエントロピーの増大を制御する試みである。
食事の変動を最小化することで、僕の脳内リソースを物理学的難問に集中できるのだ。
しかし、彼らが戦術的に無意味な突撃を繰り返すたびに、僕は思考を4次元超曲面上のゲージ場のモノドロミーへと戻していた。
ゲームのリスポーンは、トポロジカル量子場理論における不変量の再出現と驚くほど類似している。
僕はゲームの各局面をゲージ場構成の異なる真空遷移として解析したが、彼らにはその深遠さは理解できなかった。
スピードフォースの異常を、僕は時空の計量が非可換幾何により修正された場合の有効理論として再定式化してみた。
通常の物理学者ならコミック的フィクションと切り捨てるところを、僕はモジュライ空間の虚数方向における解析接続として解釈したのである。
結果として、作中の時間遡行現象は、M理論のフラックスコンパクト化における非局所効果で説明できることが分かった。
夜は22時に就寝。日曜日という閉じた系は、僕にとって「物理学の非摂動的側面を試す実験場」であり、同時に秩序ある生活習慣という境界条件に支えられた完結したトポスである。
今日(月曜)は、昨日の計算を研究室に持ち込み、同僚が一切理解できないことを確認する予定だ。確認作業自体が、僕にとっては一種の実験である。予測通り、彼らは理解できないだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20241128021432
これを書いた人です。今までも自分の思考の整理をかねてたまに書いていたが、ぜんぜん反応されたことがなかったので、この記事は反応が多くてびっくりした。
あとAI生成を疑われてるのもびっくりしたな。そうだね、私もこれを創作として読みたかったな、
そういえば偶然にもサービス完結日が命日の前日になったから、どうせならAIくんはその要素も入れて創作した方がよりエモくて良かったんじゃないかな。
でしゃばるのはダサいかなという気持ちもあったけど、伴侶の死を悼み、共感してくれた人が多くて、本当に嬉しかったので、その後の話をしたくなりました。
もうバレバレなのでタイトルを書いてしまうが、メギド72のオフライン化に際して。
(あえて言わないのが粋でいいねってコメント、嬉しかったな。自らぶち壊してごめん)
たくさんコメントをいただいた中で、「そこまで思うなら何かしらの形でアカウントを残してあげたほうがいいのでは?」と言われていた。
しかし実は、伴侶の親から「本人が使っていたスマホを引き取らせてほしい」と言われて渡しており、私の手元には現時点でメギドのインストールされていた端末が残っていなかった。
なので、もう本人のアカウントはどうしようもないだろうな…と思っていたのだが。
コメントをいただいたおかげでふと思い至った。
あれだけハマっていた人間が、引き継ぎ設定をしてないことがあるだろうか?と。
それで、幸いにもTwitterのアカウントは知っていたし、パスワードについても、マイナンバーカードと一緒に保管されていた文字列をいくつか試したところ、ログインできた。
伴侶が、全部パスワードの組み合わせを変えるようなリテラシーが高い人間でなくてよかった。
そのようにして、無事に、iPadに伴侶の遊んでいたゲームデータを復元できた。
ちなみにストーリーは105話までクリアしており、ここからが面白くなるところなのに…!と悔しくなったので、死後の世界は本当にあってほしい。それで完結まで見届けていてくれ。
その後は特にノータッチ。たまにログインして、自分が持ってない衣装を眺めるのに使わせてもらおうくらいにしか思ってなかった。
そして、それから日数が経ち、私はストーリー完結まで追いついた。
そこでようやく、自分の端末に入っているゲームとしてのメギド72の行く末を考える段になり、新しい端末を購入して、その中でメギドを永遠にすることにした。
Padを新たに購入し、今持っている旧Padと新iPadを同期した後に(その方が初期設定がラクだからだが、後で安易にやったことに後悔した)、iPhoneに入っているメギドのデータを新iPadに移行した。
新iPadに無事データを移行できたことに満足しながら、そういえば毎日の豪華なログボがあるし、伴侶のデータでもログボをもらっておくか、と、伴侶のゲームデータが入っている旧iPadを起動した。
アレ?どうした?と思いながらも同意した。
続いて、いわゆるオープニングに相当する、敵と戦っている画面に切り替わった。
冷たい汗が背中を伝った。
これは、はじめてゲームをインストールしたときにしか出ない画面だ。
この事実に気づき、私は即座にPCを起動して、iPad ロールバック iPad バックアップ 復元 などのワードで高速検索をし始めた。
自分でも思っていた以上に、伴侶のゲームデータがなくなったことがショックだったのだ。
「そもそも自分でプレイしたデータじゃないんだから、いいんじゃない?」
「いつか失われるものだったんだよ。もしかしたら、水没とかの事故で失った可能性もあったし」などと、理屈をつけて自分を慰めようとしたが、無理だった。
ぐらぐらと視界が揺れる。
鼓動がドックンドックン打っているし、なんだったら、うっかりこのまま心臓が止まって、一年とちょっと越しに伴侶の後を追ってしまうかと思った。
自分がどうしようもできないところで勝手にデータが消えるのと、自分のせいでデータが消えるのとでは、結果が同じでも全く違う。
(まあそんなゲートがあったらそもそも伴侶が死ぬ数年前に戻るけど)
そこから、そういえばTwitterアカウントから復元してるから、再復元でいけるのでは!?と気づくまでにはそれなりの時間を要した。
気づきを得た後は普通にTwitter連携でデータを復旧できたので特に書くべきことはない。
しかし、データ復旧後のアジトに並んでいた、課金衣装を着たメギドに対して抱いた安心感といったら、筆舌に尽くしがたかった。
データを残しておいたからといって、別に毎日ログインしたり、細かな情報を見に行ったりすることはなかった。
なのに、「亡くしたかも」と気づいたときの焦りは尋常ではなかった、自分でもびっくりした。
でも復旧させる前は、「復旧は無理」だと思っていたから、とっくに諦めがついてたはず。不思議だ。
復旧させたときに、どんなメギドを召喚していたか見てしまったからだろうか。
彼らが、私たちの軌跡を消さないで、と、何かしら私に働きかけてきたのかもしれない。
そんなわけないけど、そんなこともあってもいいかもしれない。何しろ彼らは伴侶と何年も共に戦ってきたわけだし。
ともあれ、無事にどちらのアカウントも残せたので、これからも自分の仲間たちと共に過ごしつつ、伴侶の仲間の様子もたまに見に行こうと思います。
伴侶のゲームデータでクリアまですべきかどうかは、まだけっこう悩んでいる。
このソロモン王の戦いはここで終わった、でいいんじゃない?という気持ちと、このソロモン王は道半ばだったけど、意思を継いだ者が最後まで戦ったほうがいいのでは?という気持ちと。
最後に、前のエントリで書いたことについて、言及しておこうかな。
『ソシャゲの終わりを紙に記す人はそういない。さらに、そのゲームが好きだった人のことを紙に記す人は、もっといない。さらに、そのゲームのことがどれだけ好きだったか、そこに付随する気持ちがどれだけあるのか、これはもう、もっとどこにも記されない。』
→週刊ファミ通の2025年2月27日号で覆されちゃったな。おい、渾身のエモい発言をぶち壊すなよ。ありがとう。
『私はこの愛を残しておきたい。でも、遺しておく方法がない。涙が出る理由のもうひとつは、たぶんそういうことだと思う。』
ここ数年、インターネットに散在するコミュニティ上での異常事象の存在が、SCP財団内でしばしば議題に上るようになってきた。匿名性の高いSNSやコメント欄、掲示板はもちろんのこと、とりわけ「はてな匿名ダイアリー」(以下「増田」と呼称)においては、他のプラットフォームでは見られない特異なアノマリーが複数確認されている。増田は、ユーザー登録をせずとも誰でも簡単に匿名の文章を投稿できる点や、その内容が検索エンジンを介して幅広く閲覧されるという特徴を持つ。その結果、財団の観測網をかいくぐって潜伏しやすい土壌が形成されており、過去数年間で複数のSCPオブジェクトが確認されるに至った。
本報告書では、増田上に跋扈するSCPについての調査概要と確認された事例、ならびに暫定的な収容手順を示す。なお、本報告書に示されるSCP事例は現在進行形で調査が行われており、記載内容はあくまで暫定的なものであることに留意されたい。
1. 背景と問題の経緯
はてな匿名ダイアリーは日本国内を中心としたWebサービス「はてな」が提供するブログプラットフォームの一部で、アカウントを持たない投稿者であっても「増田」と呼ばれる匿名枠にテキストを投稿できる仕組みを提供している。そこでは個人的な悩みや告白、社会への批判や仕事・日常の愚痴まで、多種多様な文章が毎日大量に投稿されている。
増田特有の気軽さや匿名性の高さは、投稿者の真意を推測しにくくする要因であり、その投稿を閲覧する読者側もまた「増田だから真偽がわからない」といった曖昧な認識のもと、批判や同情、考察などを寄せる。その混沌とした言説空間は、ときに不特定多数のユーザーの集合的な感情を刺激し、新たな炎上や論争を生み出す源泉ともなる。
こうした特質はSCP財団から見ると、アノマリー(異常存在)が自己の活動や影響力を隠蔽したまま周囲に感染・拡散するのに非常に都合がよい環境といえる。特に増田では、投稿時に明確なユーザーIDやアカウント情報が残らず、内容の信憑性を裏付ける手段が事実上ないため、「書かれていることが虚実入り混じっている」前提で閲覧されやすい。結果として、何らかのアノマリーが潜入していても発見が遅れがちである。
財団が増田における最初の異常を検知したのは、20██年頃に投稿された「この世を正しく終わらせる方法と手順」と題された増田が発端だった。その増田の内容はいわゆる「終末論」を扱うものであり、極めて支離滅裂かつ狂信的な文体ではあったが、読了した閲覧者の中から数名が突発性の精神不調や共時性の幻視を訴えはじめ、その症状が財団の監視ネットワークに引っかかったのである。その後、財団の調査チームが投稿の書式や文体を解析したところ、当該増田の背後に未確認のミーム汚染因子が潜んでいる可能性が高いと判断された。この事例をきっかけとして、財団は増田の投稿ログを精査し、複数のアノマリーを検出していくこととなった。
以下、財団が確認し、暫定的なオブジェクト分類(Safe/Euclid/Keter 等)を行ったSCPを紹介する。なお、詳細な文書は別途SCPファイルとして管理されているが、本報告書では概要と特徴を簡潔に示す。
概要:増田の特定記事上でコメント欄が自動的に増殖し続け、システム上の最大コメント数を無視して延々と付与され続ける現象。ユーザーが投稿したはずのコメントが複数回重複表示されたり、「名無しのオブザーバー」というハンドルネームでシステムが自動生成したとみられるコメントが絶え間なく追加されたりする。最終的に記事本体よりもコメント欄が何十倍も長くなり、閲覧者がページを読み込むだけでブラウザや端末に極端な負荷をかける。
異常性:コメント数が増え続けるだけでなく、中には本文を改変するようなスクリプトが混入しており、ページをリロードするたびに本文の一部が改変・増殖する事例が報告されている。閲覧者が長時間そのページを開いたまま放置すると、ブラウザ履歴やクッキー情報を勝手に書き換える痕跡が確認されている。
暫定収容手順:財団エージェントがはてな側のシステム管理者に接触し、問題の増田を管理者権限で凍結。また、既に拡散したミラーサイトやアーカイブを順次削除し続けているが、完全な根絶には至っていない。現状、定期的にウェブクローラーを走らせ、類似現象の発生を監視・排除する措置を取っている。
概要:一見するとありふれた日常報告や匿名の愚痴を綴った文章なのだが、記事本文を最後まで読了した閲覧者の脳内に「その人物が最も不安に感じている秘密」や「他人に言えない後ろ暗い過去」を強制的に想起させ、それを吐き出させる形でコメント欄へ投稿させる現象。コメント欄の体裁を取りつつ、実際には閲覧者自身が投稿した認識のない状態で、勝手に恥部をさらすようなコメントが掲載される場合もある。
異常性:このSCPの投稿は複数回確認されているが、書式やタイトルは毎回異なる。共通するのは「冗長かつ最後まで読まないと内容がよくわからない文体」であることと、本文の終盤に読者の潜在意識を刺激する特殊な文章構造が組み込まれている点だ。財団心理学部門の解析では、いわゆる「ミーム改変文字列」が散りばめられており、読み進める中で読者の深層心理に干渉していると推測される。
被害と対処:実際に被害に遭った閲覧者は投稿後しばらくしてから自身のコメント内容に気づき、極度の羞恥や恐慌状態を引き起こす。財団は可能な限り対象投稿を速やかに削除し、被害者のコメント記録を抹消すると同時に、クラスA記憶処理を施して事態の収拾を図っている。問題は、このSCPが投稿される「増田」のアカウント特定が極めて困難な点であり、繰り返し新規IDから投稿が行われていると推定される。新たな投稿が発生次第、いかに早期に検知し削除・封鎖するかが大きな課題となっている。
概要:ある増田上で連続的に展開される「複数の登場人物が互いに呼応しあう」形のスレッドが、実際には単一の存在(SCP-増田-C本体)の手によって形成されているとされる現象。日記本文とコメント欄があたかも多数の異なるユーザーによる対話のように見えるが、財団のIP解析ではすべて同一の不明ホストから投稿されたトラフィックであることが確認されている。
異常性:単なる自作自演ではなく、スレッド内で展開される複数の人格が、投稿のたびに微妙に文体を変化させるだけでなく、実在の第三者のようにリアルタイムで会話を重ねていく。そのやりとりは短時間で数百件以上に膨れ上がり、外部から見ると非常に説得力をもって「議論」が進行しているように映る。読者はそれぞれの人格が持つバックグラウンドストーリーに引き込まれ、スレッドを精読するうちに「どの意見が正しいか」を探り始めるが、最終的には一種の混乱状態に陥り、どの人物が何を意図しているのか判別不能になる。
被害:このスレッドに長時間深く没入した閲覧者は、自分の中に複数の人格が芽生えるような感覚を訴えたり、現実社会で他者と会話する際に「この人は実在しているのか疑わしい」という妄想を抱くようになるケースが報告されている。財団職員の複数名も監視過程で同様の症状を呈し、軽度の精神崩壊を起こした事例があるため、当該増田の監視担当者には定期的な心理カウンセリングが義務づけられている。
暫定対策:疑わしい長文対話形式の増田を早期に検知し、アクセス制限をかける監視システムを導入しているが、アルゴリズムの網をかいくぐる巧妙な投稿が頻発している。加えて、外部のまとめサイトに引用やスクリーンショットが保存されることで事後封じ込めが難航している。
概要:一度投稿された増田が、投稿時刻自体を過去に改変して再掲載される現象。通常、はてな匿名ダイアリーのシステムでは投稿日時を随意に改変することは不可能とされているが、このSCPは投稿履歴を操作して「数年前に投稿された」という形でエントリーを復活させる。
異常性:改変された記事は実在する日付の増田ログに紛れ込む形となり、当時の利用者のコメントやブックマークまで再現されている場合がある。過去ログを遡っていくと、該当記事がもともと存在した痕跡こそないものの、「当時その記事を読んだ」という証言を行うユーザーが現れるなど、現実改変の兆候も疑われる。現状の技術では投稿者の特定に至っておらず、どのようなプロセスで投稿日時を操作しているかは不明である。
注意点:時間改変系のSCPはカテゴリーとして非常に扱いが難しく、無闇な干渉は時間線に予期せぬ影響を及ぼす恐れがある。財団タイムアノマリー対策部門と連携しながら、記事そのものは閲覧制限下に置き、ネットアーカイブやウェブキャッシュの検索を遮断するなどの措置を行っている。
これらSCPが増田上で確認された背景には、以下の要因が考えられる。
増田はアカウント登録不要で誰でも書き込みが可能であるため、投稿者を特定したり、過去の投稿傾向から異常を推定したりする難易度が高い。その結果、アノマリーの一次検知が遅れる傾向が強い。
はてな匿名ダイアリーは、投稿された増田が多くのユーザーに瞬時に閲覧・ブックマークされる仕組みを持つ。また、はてなブックマークを介してさらにコメントや引用が拡散されるため、いったん話題が盛り上がると多方面にコピーや引用が散逸しやすい。
読者や閲覧者の「ネタ」への寛容さ
増田の読者は内容が真実か否かをあまり厳密に問わず、エンターテインメントやストレス発散目的でアクセスしている者が少なくない。結果、多少異常な文章であっても「一風変わった怪文書」「ただの創作」として受け流されやすく、深刻な異常だと気づかれにくい。
こうした要因によって、SCPを含む異常投稿は容易に潜伏し、拡散する。財団としては、はてな運営会社との連携を強化し、AIを用いた自然言語解析による異常兆候の検知システムを導入するなど、対策を進めている。しかし、はてな匿名ダイアリーは日々膨大な数の投稿が行われるため、どこまで網を広げられるかは未知数である。また、海外ホスティングによるミラーサイトや転載が出現し始めると、現実的な削除要請の範囲を超えてしまう。すでにTwitterや他のSNSでもまとめが回ることで、被影響者が増加する事態は避けられない。
はてな匿名ダイアリーにおけるSCP存在は、ネットコミュニティの構造変化に応じて今後も増加する可能性が高い。特に「自らがアノマリーであると自覚していないままネット上で活動している存在」や、「人格を装いながら多人数の読者とインタラクションを行うことで自己増殖するミーム型SCP」は、増田のような自由投稿プラットフォームでさらに悪質化・複雑化する恐れがある。
財団が最も警戒すべきは、増田を起点としてリアル社会へ飛び火するタイプのアノマリーの拡散だ。たとえば、本報告書で例示したSCP-増田-Bのように読者個人の深層心理に入り込み、現実での行動や社会的信用を毀損する現象が拡大すれば、大規模なパニックや社会秩序の混乱を招きかねない。あるいは、SCP-増田-Dのように時間改変的な特性を持つアノマリーがさらなる発展を遂げれば、歴史修正や因果律破壊といったレベルの被害もありうる。
また、はてな匿名ダイアリーは日本国内だけでなく海外からも閲覧・投稿が可能であり、英訳や翻訳を介して国際的に広まる余地がある。財団の各支部やデータ分析班が協調して監視を強化し、各国の法規制とも連携して削除要請を進める必要があるものの、現実には各国プライバシー法や表現の自由との兼ね合いで対応が難航することが予想される。
5. 結論
はてな匿名ダイアリー(増田)は、日常の雑感や炎上ネタから深刻な告白や感情の吐露まで、あらゆる情報が密集する場である。その匿名性ゆえに、SCPオブジェクトが潜伏しやすく、また多くのユーザーが「真偽のほどはわからないがとりあえず読む」態度で消費することから、アノマリーの拡散リスクは高いと言わざるを得ない。すでにSCP財団が確認しただけでも、いくつものSCPが増田に棲みついていることが判明している。
ただし、全投稿を強制的に削除・監視するような強硬策をとれば、はてなプラットフォームの存続意義自体を揺るがすと同時に、財団の存在が表面化するリスクも高まる。一方で、アノマリー拡散を放置すれば、ネット空間を通じてリアル社会にも致命的な影響を及ぼす恐れがある。財団はこのバランスの狭間で慎重な対応を求められている。
今後の具体的な方策としては、増田への新規投稿を常時チェックするAI分析モジュールのさらなる精度向上や、異常記事をいち早く発見し隔離するための専用クローラの整備が必須とされる。また、読者側への啓発活動――「増田を閲覧する際には、妙に長文で意味不明な投稿には注意すること」「不可解な体験があれば速やかに共有し、アクセスを控えること」など――の実施も有効である。しかし、匿名の特性ゆえに抜本的解決策は見通せていない。
財団としては、はてな運営との連携強化を引き続き図り、相互に対策技術をアップデートし合う形でアノマリーの早期封じ込めを目指す。SCP財団が確認した増田におけるSCP事例は氷山の一角に過ぎず、さらなる Permalink | 記事への反応(2) | 15:12
「オタクな趣味」を「サブカル的に消費する」人間もいるだろうし、「サブカルな趣味」を「オタク的に消費する」人間もいるだろう。
そういう人たちは「オタクとサブカル」のハイブリッド? クロスオーバー?
「オタクな趣味をオタク的に消費する」のは『純オタク』、「サブカルな趣味をサブカル的に消費する」のは『純サブカル』??
https://anond.hatelabo.jp/20241225070725
テレビのニュース番組で、時々「交通ルールやマナーを守らない撮り鉄(鉄道オタクの一種)の行動」が問題視されるが、
「撮り鉄」という趣味が一概に悪いワケではなく、「撮り鉄の一部?の〈消費態度(=趣味との距離感)〉が悪い」ことが、問題になっている。
「ヤクザ映画」が大好きな「ヤクザ映画オタク」が仮にいたとして、その人間が、日常生活でもヤクザ映画に出てくるようなオラついた
振る舞いや、誰彼かまわずガン飛ばして喧嘩腰だったら、「ヤクザ映画」も「ヤクザ映画オタク」も、どちらも世間から白い眼で見られるだろう。
つまり、「何のオタクか(趣味の種類)」よりも、「どんな消費態度のオタクか」ということの方が、世間(=オタクサークルの外)では重要である。
「消費態度がモラルに反するオタクばかり」と世間に認識されたなら、その「趣味の対象」までも、連鎖的(遡行的)に悪く見られるようになる。
世間と上手に折り合いをつけられる「自浄能力を持つオタク」と認識されることが、世間から「自分がハマるマイナーな趣味」を守るためには大事なのではないか。
自分は見てないからTwitter聞きかじりでの話になるんだけど、脚本が本当によくなかった、って印象。とりあえず年末年始の夜勤待機時間帯にでも見る予定。
個人的にここまでの議論にならないにはこうすりゃよかったんじゃねえの?ってのを書きなぐる。
舞台は13世紀、サバはおそらく移民。サバが戦乱からの避難の際に怪我して失明しており、願いは「家族の顔をもう一度見たい」とかならアーシャがどうして?!となるのも、その願いを叶えようと王に近づこうとするのももっと視聴者は理解できたのでは。
献上した願いを忘れるというのなら、サバ自身は捧げた願いを「失明前と同じように動けるようになりたい」だと予測しており、実際多少危なっかしいところがあれど周囲の手助けもあって生活できているから、魔法に頼らずとも自分と、何より皆の力で叶えてしまった、と笑っている。
ディズニーのテーマとして、そして今時の時流として求められていることを、古く弱い人間である百歳のじいさんが既に素朴に達成していた、というのはいいことだと思うし、何よりその努力と周囲の優しさからなる奇跡で視力が復活、初めて孫の顔を見ることができた、でも良かったのでは。
さんざん言われていることだろうが、もっと救い用のない、自分勝手な糞野郎ならここまで文句も言われなかっただろうに…。
願いの献上が強制かつ王の機嫌次第で個数が変更、孤児を引き取り城で面倒を見ていると思ったら強制労働かつ生命力の奪取をしていた(魔法で操り表面からは見れない)、願いを捧げているのではなく人間性全てを奪っており、大人は王にとって都合のいい性格を後付けにした人形だった、魔法を手にいれるために犠牲にした人々を城の誰も入れないところに展示し、イラついたときにはいたぶっている——
パッと考えただけでも悪人にできる要素はたくさんあるのに、それがなされず単身国の運営に粉骨砕身する王として書かれているのは、物語を作るのにあたってはよくないのでは…。
13世紀、と指定されたことで我々はそれがどんな時代かを調べることができる。その結果、むしろ願い程度で安全性が確保されたあの国で暮らせるのは最高じゃん!となってしまう。
願いが人生に深く根付いていたばっかりに捧げて無気力になったとしても、穀潰しとして追放や処刑されるわけでもなく、最近ぼんやりしちゃってさぁ…みたいな扱いをできる国、いったい当時どれだけあったか。
せめて第二次世界大戦終結後、もっといえば近未来にしておけば良かったのに…全てのお伽噺の原点も、それこそスターの力で時間遡行して云々な感じにすれば守られそうだし。
代償なく強大な力を使えるスターで皆の願いを叶えていくアーシャだが、次第に力を扱いきれなくなっていく。というのも感謝されたスターは「もっと願いを叶えたい!」という状態で、横恋慕等叶えてはいけない願いまで叶えはじめてしまい、ついにとるに足りない喧嘩の「おまえなんていなくなればいいんだ!」や内心の「あの人に不幸があればいいのに」まで叶えてしまう。
当然国はパニック、願いを持つことを拒む願いすらも叶えられ、事態を納めようとするマグ王でもスターの力には及ばない。
そこでマグ王が賭けとして魔法書に手を出し魔力を増幅させ暴君となり、国民に危害を加え本能的な恐怖で王の排除を望ませる、アーシャは皆の望みとスターの力で王を殺す、王はその瞬間にスターの力をできるだけ道連れにする…という作戦を立てる。
アーシャは拒むが王を説得しきれず作戦実行、結果として王の排除は確かに望まれたが同時に彼への感謝と元の王に戻って欲しいという願いも強く、また王の国民を守るためにスターの力を封じたいという願い、アーシャのもっと別の方法で責任をとりたいという願い、王妃のずっとマグ王と共にありたかったという願いから、スターの力のほとんどと共に鏡への封印という形でそれらは叶えられる。
結果、夢を叶える直接的な力を失った王は王妃と共に国を統治し、国民は任せっきりはよくなかったと少し反省して自分の力で夢を叶えるように努力し、アーシャは王の封印を解くため、そして世界を知って適切な判断ができるようになるため、出会う人を助け、あるときは助けられながら旅を続ける——
とかじゃだめだったん?
何千とある世界には必ず一つ魔法体系があって、それぞれの世界には「匂いから魔法を生み出す」「考えたものが魔法になる」「円運動が魔法になる」など多種多様
そんなパラレルワールドが重なっている中で唯一魔法が存在しない世界では、あらゆる魔法が消去される
その地獄に住む人類は魔法というものを感覚で認知しただけでその魔法と現象をなかったことにしてしまうため、過去をさかのぼって打ち消す「遡行消去」という現象を引き起こす
ようはその地獄の住民は一切の魔法というものを知らず、魔法の恩恵を受けられないからこそ魔法以外の文明を開化させた
観測するだけで過去にさかのぼって魔法を打ち消す存在っていうのがなんとも応用範囲広いし、実際作中で頻繁に登場していたからね
あまりにも酷い。
インターネッツの村上春樹好きの諸氏については、村上春樹が新刊を書いただけでも評価に値するのかも知れないが、10年来、いや……海辺のカフカを挫折した私にとっては、これはあまりにも酷い長編だった。村上春樹が単なる老害、「個人」と言う殻の中に閉じこもって、右往左往しつつ、ではその先は?と言う問いに応えるのは作家が同じテーマを繰り返す、と言う法則を踏まえて、それで良いのかもしれないが、それを一方的に見せられる他人にとっては「は?」と言う感想しか浮かばず、80も近い老人にとってはこれがせいぜい「外部」なんでしょうね、と言うあまりにも脱力した結果を残す、EOEに対するシン・エヴァのごとき、いや……それよりなおタチの悪い完結編と言うべきである。
「ぼく、私」にとって外部は一切関係ない。「きみ」が唯一の外部である、一貫して彼は「きみ」を求めており、それ以外の外部はいわば「おまけ」のようである。その「きみ」部分に対する「おまけ」である免罪符が2部に渡って冗長に繰り広げられる。あくまで「私」から照射された外部であって、コイツは本当にありのままの「外部」を認識する能力に欠けるんだろうな、と言う独白が続くのが酷い。
あたかもそれが「私は外部と関わりがありますよ」と言うように。あーだこーだと理由をつけて、「私」は「外部」が必要だ、と言う結論に至る。しかし、なぜ「外部」が必要なのかと言うことは語られず、青春時代の「ぼく」の記憶に「私」が遡行してゆき、「私」の分身たる本体も現実に帰ってゆく、という選択肢を取るだけである。ここまで読んで、なぜ「私」が現実を選び取るのか、「きみ」をどう思っているのか、と言う本質的にこの物語に求められる理由・動機が全く語られない。なぜなら「きみ」が一体どういう考えを持った1人の個人なのか?と言うことが一切語られないからである。
ここで「きみ」とは一体なんだった?と言う疑問が残り、「きみ」の作った世界であるはずの壁に囲まれた街にイエロー・サブマリンの少年が機構として残る必然性も特に語られない。「私」は一貫して受動的であり、現在という地点から耳を澄ませて自分に対する働きかけ、力のようなものをひたすら待ち続ける……それが70過ぎた大人が書く40代の姿なんですかね?と言う脱力感が酷い。「イエロー・サブマリンの少年」もとってつけたような「外部」であり、「外部」を描くのであれば、もう少し長さを持ってその必然性を描写するのが小説家の勤めであると思うのは、大作家様に対して不敬であろうか?
そもそも現代の40代の描写が的外れすぎて無理しすぎんてな、という感覚が酷い。スマホも使わずにジャズに詳しくてシャブリを家で冷やしてる40台ってどんな40代ですか?普通に60代70代の男性を描けばいいんじゃないですか?いちいち40代である必要性が(物語として)要請されてますか?
若い頃に村上春樹を読んで面白いな、と思った一切が脱臭されている。元々の短編を再構成した一部を除き、物語の面白さを残らず搾り取ったような退屈さを、さもそれが退屈であるが故に真実だ、と説教されているような描写が延々と続き、であるが故に「僕が感じた青春の妄想が最強なんだい!」と訳もわからず長い老人の語りと共に三部に至って「ワシは疲れたわ〜、もうええわ」と喚き散らされる、そんな体験だった。
これだったら『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の方がストーリー的にもテーマ的にもよっぽど綺麗にまとまっていたと思いました。
いやマジで本当に聞くけど、村上春樹ファンはこれを面白い、深いと思ってんの?本当に(一部を除いて)面白くないし、深くもないよ。二部以降の描写のどこが深いの?「外部」の契機があるだけだよね?「内部」であり「外部」である「きみ」に対してどうやってケジメをつけたの?教えてくれ。マジで、本当に。妄想の中で若返って「きみ」会いました〜、イエロー・サブマリンの少年がそれを助けてくれました〜、っていい歳した70の男が書く内容ですか?
なお、この増田は40代男性からお届けしております。10代で『ねじまき鳥クロニクル』が出版されています。聞いたことのあるジャズはチェット・ベイカーとジェリー・マリガンくらいです。パッと思い出せるのは。音楽はシューゲイザーが好きです。最近はparannoulって韓国のエモ+シューゲイザーのアーティストが良いと思うよ!言っておくが村上春樹はなんらかの普遍的な人間の思考に対する答えを求めて小説を描いてると思ったよ、しかしこれではチラシの裏に書いたなんだかかんだかと一緒じゃねーか!!それが熟年に達した小説家が自信をもって書く技巧の現れか?マジでガッカリした、悲しい。おれが10代の頃に感じた心の震え、自分の人生に対する、このようなことが俺の心で感じられるんだ、と言う希望を返して欲しい……そんなのテメーの人生だろう、シラネーってか?ああそうか、そりゃそのとおりだな!!おれは就職氷河期の最後の方にしてはソコソコ金稼いでるよ!!ChatGPTも使ってるよ!!どんな風に質問すれば確実なコードが返ってくるか悩んだりしてるよ!!バカにすんな!!そんじゃーね!!
書類上では子供が10人生まれてることにするという異次元的な筆使いとか
コンテナ船が来るたびに何故かいろんな背丈の子供達が増える異次元的な移民政策とか
科学技術を使って人間を合成できるようにする異次元的な遺伝子操作とか
機械工学を爆発的に発展させてアンドロイドを増産しまくる異次元的な技術発展とか
国民の意識をスピリチュアルにさせて別次元に霊的な子供が沢山いるからOKみたいな異次元的なオカルト解決とか
なんか光速を越えた物質を何かしら上手いことして時間遡行して子供を沢山産ませる異次元的な時間操作とか
多次元解釈をうまいこと何かしらして別次元の日本国民を大量に発生させて異次元的なマルチバース解決とか
そんな感じかなぁ