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2026-05-01

トランスカルト教祖バトラーさん、ボコボコにされてしま

https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/

バトラーが見なかったもの――書評

リンジージャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論概念的混乱を検討している。

 

1. 導入:性とジェンダーをめぐる古くて新しい論争

著者はまず、1970年代女性解放運動期に、米国マルクス主義人類学イヴリンリードが書いた「生物学女性運命か」という問いを引く。リードは、女性母親であることを理由に、社会的役割限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学人類学は、性役割女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。

今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然文化生物学社会的態度、性とジェンダー関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダーアイデンティティ運動における中心的な学術人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。

ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的ものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である

著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。

2. 極右文化戦争、反ジェンダー運動

書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダー文化戦争の一部となっており、バトラー右派極右による「ジェンダー理論攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプイタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーヴィクトル・オルバーンローマ教皇などである

バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジルコスタリカコロンビアフランススイス英国スコットランドエクアドルドイツハンガリースペインなどが例に挙げられている。スペイン極右政党 Vox は「ジェンダージハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。

著者は、こうした反動的勢力個人的性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家差別執行できる権力を持っているかである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖家族モデルである

しかし著者は、バトラー分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義危機、脱工業化生活水準の低下、反移民感情人種差別政治的動員、米国社会軍事化暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。

まり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理不安」ではなく、資本主義危機社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである

3. バトラーは「ジェンダー」をどう理解しているのか

著者によれば、バトラー実質的に「性/ジェンダー」の区別崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。

著者はこれを、現実身体カテゴリーイデオロギーへと作り替えてしま議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である

さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学事実である人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係依存してきた、というのが著者の主張である

著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然事実のもの存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。

また、バトラースポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセス個人トレーナー存在関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体性差問題を消すものではない、という趣旨である

著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。

4. マルクス主義自然文化をどう見るか

著者は、バトラーが『ドイツイデオロギー』のマルクスエンゲルス引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想人間物質生活過程から生じる。観念イデオロギー現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実のものを作るわけではない、というのが著者の理解である

著者は、バトラーが「phantasm」とマルクスエンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラー議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義唯物論からは遠い、と批判する。

マルクスエンゲルスは、人間自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解放棄することだ、と著者は述べる。

著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性母性役割理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級財産を守る国家装置形成財産継承保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性世界史的敗北」と呼んだ、とされる。

資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内無償労働有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義搾取規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー同調性に適した家族必要とした。そこには性的同調性も含まれ女性子ども男性従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。

この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニスト生物学決定論実証主義よりも優れている、と主張する。

5. 家族社会的再生

著者は、女性再生産における役割は中心的だと述べる。女性人類再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力再生産、つまり養育・ケア社会化・教育にも深く関わっている。家族次世代労働者比較的低コストで育成するため、経済的社会的役割を果たす。

女性母親であること自体不利益でなければならない自然理由はない。しかし、それが資本家階級利益をもたらす社会的経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である

この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である

一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年英国家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しか共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア料理、清掃などの社会的再生労働も、低賃金女性が多く担っているという点である

著者は、自然文化関係は複雑だが、女性生物学役割に色づけられていると述べる。女性けが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性不利益を補強する。

妊娠授乳更年期月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力不利益の多くを取り除けるかもしれない。しか資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。

著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である

6. 階級ジェンダー女性の恐怖の軽視

著者は、バトラー議論女性抑圧という特定問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダー社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実カテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。

また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。

著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダーアイデンティティ理論批判的な人を信用失墜させ、議論沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。

そのような人々まで、極右ファシストの側に客観的に立っていると見なすの馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダー分析にも複数立場がありうる。トランス権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラー理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である

著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力レイプ女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。

特に著者が不快に感じた箇所として、バトラー女性刑務所女性専用空間におけるレイプ性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数暴力男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性ペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性男性男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。

7. グローバルな女性労働階級

著者は、バトラー理論抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化差異だけでなく、物質生活現実も見なければならないと言う。

たとえば、フィリピンスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者女性男性黒人白人性的指向やジェンダー

2026-04-23

Bomb Rush Cyberfunkってなぜ怒られないの?

プレイ動画見たけど、ジェットセットラジオリスペクトどころか丸パクリレベル

普通にレールに乗って三角飛びしてペイントしてる。ネット見ない人に新作って言ったら信じちゃうレベル。やってる事パルワールドより酷い。

AIに聞いても似てるだけだから合法・魂のリスペクトしか言わない。俺が作るって言うと著作法だの何だのうるさく止めてくるクセにな。

なんでこれ怒られないの?ホント不思議なんだけど。

2026-04-18

おまえらってまだ政治やらゴシップ便所の落書きしてんの?

  ∩_∩

 ( ´ー`)<おまえらも暇な奴らだなあ

 (    )

  |  | |

 (_)__)

制作著作/初代モナー

2026-04-13

普通に三島由紀夫小説図書館とか書店にあるのに

三島ですらなんともないのだから当事者以外どうでも良いようなトラブルそいつ著作発禁とか連載中止おかし

2026-04-12

鎖の強さは、一番弱い輪によって決まる

最初は推論の連鎖の話だったのね

 

 

 

“In every chain of reasoning, the evidence of the last conclusion can be no greater than that of the weakest link of the chain, whatever may be the strength of the rest.”

(訳:あらゆる推論の鎖において、最終結論の証拠の強さは、その鎖の最も弱い輪の強さを超えることはできない。他の部分がどれほど強固であっても。)

直接的に物理的な鎖の比喩としてよく引用されるバリエーションは:“The chain is only as strong as its weakest link, for if that fails the chain fails and the object that it has been holding up falls to the ground.”

(訳:鎖の強さは、その最も弱い輪と同じ強さしかない。なぜなら、その輪が壊れれば鎖全体が壊れ、支えていたものが地面に落ちるからである。)

解説

リードはここで、論証や知識連鎖において、弱い部分(前提や論理の飛躍)が全体を決めてしまうことを指摘しています

これが転じて、現代一般的ことわざ「A chain is only as strong as its weakest link」(鎖は最も弱い輪と同じ強さしかない)として広まりました。チームワーク、システム設計品質管理などさまざまな文脈で使われています

物理的な鎖の強度そのものを直接論じたわけではなく、比喩として用いた点が特徴です。



十八世紀のスコットランド哲学者**トマスリード(Thomas Reid, 1710-1796)**が、1786年出版された著作『Essays on the Intellectual Powers of Man』(人間知的能力に関する試論)で用いた比喩が、よく引用される出典です。

2026-03-27

anond:20260327102652

wikipediaストーカーの項目。

1980年代ストーカーは「スターストーキング」と呼ばれる、著名人に対するファン執拗な付きまとい行為を示す言葉だった」

とあるように、元々は有名人に対するファンの付きまといに限定される言葉だった。

接客業店員YouTuber等に対して客が一方的に入れ上げるような事例は入れてもいいけれど

交際相手との痴情のもつれを入れるのはおかしいだろうと思う。

だってそもそも自らの意思で付き合った訳だからね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC

ストーキングで追いかけられる対象動物から人間に明確に変わったのは1970年代で、パパラッチ連続殺人が影響を及ぼした[10]。ロウニーとベスト1995年著作によると、1980年から1988年ストーキング雑誌上で「心理的レイプ」や「度を越えた付きまとい」として扱われていた[11]。ニコルによると、ストーカーが人に追いかけ繰り返し嫌がらせをするという意味合いになったのは、1989年レベッカ・シェイファーがロバート・ジョン・バルド(英語版)に殺害された事件だとされる[12]。この事件アメリカ法律警察機構などに影響を及ぼし、ストーキングモラルパニック対象として扱われるようになった[13]。1980年代ストーカーは「スターストーキング」と呼ばれる、著名人に対するファン執拗な付きまとい行為を示す言葉だった[14]。しかし、この付きまとい行為対象一般人にまで拡大した

2026-03-26

堀元見の著作を強めに批評する動画ってもう出た?やんなきゃじゃない?

2026-03-19

実家にいる時

政治に全く関心がなく、右翼左翼も何のこっちゃやらで、ただ「父親本棚めっちゃ本あるな」とは認識していた

それでいて父親母親特にニュースを熱心に見るとかでもなく、普通に地方新聞を二つ(県の名前が付いたやつと市の名前がついたローカルなやつ)取って普通に読んでいたのだったが

今思うと父の本棚には本多勝一著作が多分全部揃っててズラッと並んでたり(悪魔の飽食とか貧困なる精神とかタイトルだけ覚えていた)、マルクス全集みたいな重厚そうな本があったりしたので、確実にガチ左翼だったんだろう

一方自分中学くらいの頃にゴーマニズム宣言流行った

そもそも戦争のこととかよく知らんかったけど漫画歴史政治のことがなんかわかった気になり、得意げに読んでいた

父親逆張りとかではなく、まじで「流行ってたから」以外のなんでもなく、ああいセンセーショナルなノリがただ面白かったのだ

父親はあまり子供に介入するタイプではなかったので何も言わなかったのだが、もしかしたらずっと父親にうっすら嫌悪されている感じがしていたのは、インテリ左翼的に自分の子供が極右プロパガンダみたいな漫画を好んで読んでるのが意識の低いバカ丸出しで情けなかったのかなと思う

別にそれから右翼に傾倒したということもなく、その後は戦争にも歴史にも政治にも全然興味がなくなり頭スッカラカンで生きていたんだが

家を出てからはどんどん疎遠になり、帰省しても特に会話もなく、気づけばこの十年動向を知らない

父親辺野古抗議活動関係者たちと同世代なんだよな

あの世代の左翼」だから、同じ時代に同じような本を読み、同じような議論をしたり運動をしたりしていたんだろうな

2026-03-18

anond:20260318155518

エミールシオラン思想において「自殺」は、人生苦痛に対する単なる結末ではなく、

生を生き抜くための手段、あるいは最高の精神的な解放として、その著作群で深く考察された。

彼は、「自殺観念がなかったら、私はとうに自らの命を絶っていただろう」という警句を残している。

この言葉は、「いつでも自分で死を選び取ることができる」という自由選択肢意識の中に持ち続けることが、

逆説的に生の重圧を軽減し、日々を生き延びるための精神的な安堵と動機を与えていると考えた。

彼によると、死後は無であり、自殺により暴力的涅槃を達成できると主張した。

2026-03-15

二・二六事件はなぜ起き、何を残したのか 事件研究第一人者らが語る

大正という時代の申し子だった青年将校たち

 

髙杉》軍縮のもたらした影響の一つに、軍隊内での指導者威信が低下したことが挙げられます。具体的に言うと、先ほど申し上げたように軍縮後のフォローが十分ではなかったため、クビを切られる立場軍人たちに「自分たちは利用された。宇垣らは我々を踏み台にして政界進出しようとしたのだ」という疑念が生まれた。そしてそれはある程度その通りでした。結果として軍上層部への信頼や統制力が弱まり青年将校たちが言うことを聞かなくなっていった面もあったのかな、と。

 

 

筒井青年将校運動に関し、三島由紀夫面白いことを言っています五・一五事件から二・二六事件あたりまで、青年将校が上官たちから危険視されつつある意味でちやほやされた局面があるんですが、なぜそうなったかというと「軍隊という特殊一社集団において、その集団モラリティー(士道)を体現するものと目されたかである」と(末松太平『完本 私の昭和史』所収「利用とあこがれ」/中央公論新社)。軍隊の中には階級制度立身出世主義もいろいろあるが、結局本質的特徴としてはモラリティしかないんだというわけです。軍隊に限らず、組織が大きくなるほど上層部では自己疎外が起きて、立脚すべきモラリティーが喪失してしまう。そうなったとき、それを持っている人に対して「利用とあこがれ」の両局面が生じるのだと三島は指摘します。

 

 つまり上層部陸軍大学校出のエリート軍人から見れば、青年将校は愚直で単純で、それゆえうまく利用してやろうと思っているんだけど、自分たちが失ってしまった本来軍人らしさを彼らのみが持っているから、憧れも感じている。髙杉さんが今言ったことは、この三島の指摘と関係しているように感じます

 

 

髙杉》青年将校の動きを上層部が強く統制・弾圧できなかったのは「彼らがやっているのはけしからんことではあるが、本来あるべき軍人的な純真さを持っているのは彼らのほうだ」という後ろめたさがあったからだ、と。たしかに鋭い指摘です。

 

 

筒井軍人というのはどういう内面を持った人々なのかという洞察が、戦後日本では十分なされていません。戦後軍隊存在しないみたいなことになったせいかアルフレッド・ド・ヴィニーの『軍隊服従と偉大』(岩波文庫)のような本がない。これは困ったことで、現在のように安全保障重要になってきた時代であればこそ、軍人をよく理解しなければいけないのですが、石川明人さんの著作のような例外を除き、今参考になる深い本がほとんどない。

 

 私自身は高校生の頃かに、末松の『私の昭和史』を読んで衝撃を受けました。これが非常に人間的な内容でね。末松は軍人テーマにした徳冨蘆花小説寄生木(やどりぎ)』を愛読していたらしく、「バルザックを思わせる」(三島文学者のような文章を書くんですよ。末松の本で、青年将校とは意外にヒューマンな人たちなのだな、と理解しました。

 

 

髙杉》青年将校が書いたものはわりと文学的文章が多いですよね。あまり軍人らしくないと言いますか。

 

 

筒井西田陸軍士官学校で、詩人となる三好達治同級生でしたし、二・二六事件の中心人物となった村中孝次は厨川白村(くりやがわはくそん)やクラシック音楽を好んでいた。大岸はアメリカ思想家エマーソンを愛読していたそうです。大正教養主義が強い時代に育った軍人たちはみんなそういった感じで、それが昭和になってから二・二六事件など、さまざまな事件に反映されていると思います

 

構成斎藤岬

 

 

(『中央公論3月号では、クーデターとして「甘い」理由や、事件を機に政党政治が衰退したとは単純に言えない理由事件後も大衆の「社会的平準化」の希求が続いたことなどを詳しく論じている。)

 

 

筒井清忠(帝京大学学術顧問)×髙杉洋平(帝京大学准教授

 

筒井清忠〔つついきよただ〕

1948年大分県まれ京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学文学博士。専門は日本近現代史歴史社会学京都大学教授帝京大学文学部長などを歴任。『西條八十』(読売文学賞山本七平賞特別賞)、『昭和期の陸軍』など著書多数。

 

◆髙杉洋平〔たかすぎようへい

1979年愛知県まれ海上自衛隊生徒を経て國學院大學大学院法学研究科博士課程後期修了。博士法学)。宮内庁書陵部編修課(非常勤)、日本銀行金融研究所個別事務委嘱)などを経て現職。著書に『昭和陸軍政治』『帝国陸軍』などがある。

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/28016164825dfbb8306bf249db4b558e309f362c?page=2

2026-03-12

anond:20260312060612

とある企業でAさんがそれを実装した”ソースコード(X)”は、多くの場合職務著作として著作権の権利者は”とある企業”になる。

別の会社でAさんがワークフロー実装すると依拠性を満たしうる。類似したコードなら依拠性、類似性両方を満たす。かつ、Aさんはソースコード(X)の権利者ではないのでとある企業複製権などの許諾を得る必要がある。

よって、著作権の問題になりうる。

余談。

アイデア表現2分論てきには、ワークフロー自体基本的アイデア側。ソースコード表現。(複雑かどうかはアイデアかどうかと別)(著作権的にはワークフロー自体はパックてOK.ただ不正競争防止法等の別の問題はある)

ただ、ワークフロー粒度、例えばデータ構造DBスキーマなど詳細になると表現判断されうる。この境界値は最終的には裁判所ガチャ

もっとも、ワークフロー自体表現だと判断されても、とある企業ワークフローと別の会社ワークフローは、Aさんみたいのがかかわっていなければ独立著作として問題ない。

そのうえでとある企業コードを知っているAさんが別の会社でも実装すると先と同じ結論になる。

余談2。

職務著作ではなくソースコード(X)の権利者がAさんの場合(著作権の譲渡契約などしていない)、別の企業実装しても自身権利者の為問題はなくなる。

しかし、職務著作でない場合でもとある企業ワークフローアイデアで無く表現判断されるレベル場合ソースコード(X)は1次著作ではなくワークフローに対する2次的著作物となる。(とある企業ソースコードXに対して原著作者として権利を有する)

結果、先と同じ問題が起きうる。



問われうる、著作裁判を起こされる可能性があるであって、著作侵害であるとは限らない。

スタイルアイデアに属して、プログラマの手癖(やイラストレーターの画風など)は著作権で保護されない→雰囲気が似ていてても侵害にならない。

誰が実装しても同じようなコードになるようなアイデアである表現の幅が狭いのは侵害にならない。

その他いろいろ…

似ていると著作権法上の類似性は必ずしも同じでない。

ので、実際に裁判してみるとセーフだったりすることもある。

2026-03-01

anond:20260301000834

その著作学術界では非常にレベルが低いと批判されており、褒めている人々はアカデミア外の人

しかも褒めている理由は、論述の内容の精緻さや論拠ではなく

結論自分に都合がいいかである

そういうのは学問ではなく政治であり

反知性主義なんですよ

2026-02-28

トランスジェンダリズム」を日本に輸入し広めたのはフェミニストなのになぜ被害者ぶるのか

最近自称ネットフェミニストトランス差別から陰謀論的な思考に陥り

トランスジェンダリズム」の責任を男社会などに押し付けている

はっきり言って異常だ

すこし調べれば分かる通り、日本に「トランスジェンダリズム」を輸入したのは

フェミニスト思想家研究者であり、翻訳理論化・普及に務めた

そのおかげで法制化が急速に浸透し、トランスジェンダー配慮することが

人権擁護の上で必要であるとして、法的に義務付けられたのだ





とくに有力な思想家竹村和子だろう

バトラー/ミンハ/セジウィックなどのジェンダー理論学者著作翻訳しながら

強力な理論を自らも再構成しその正当化につとめた

中でもお茶の水女子大学ジェンダー研究センターでの活動特に日本学問に大きな影響を与えた

この時期は日本大学院法人化21世紀COEなどの研究予算システム変更の過渡期であり

彼女の育てたポスドク日本全国の英米文学ジェンダー理論などの

人気のある分野の教員業界人として各地に就職

構築主義ベースとした社会批評や、クィア理論ジェンダー理論地位は盤石なものとなった

その中に、「トランスジェンダーへの配慮」という社会正義正当化もあるために

法律にも学問倫理にも書き込まれたのである

社会資本主義が主導してやったというのは明らかな間違いだ




竹村和子上野千鶴子の盟友でもある

両者の弟子は強力なネットワークで日本に広がっており

構築主義的な見地から日本社会男性社会への強力な批判を展開し続けている

竹村和子2011年に早逝したが

上野千鶴子地位は盤石であり、何より彼女らが引退したとしても

そのあとを継ぐのもやはり構築主義を前提に研究実績を積み重ねた学者であり

その理論的基盤が構築主義的なものであることはまず変わらないだろう

資本主義も男社会もそこに手を出すことはまず不可能である

トランプのような人間が法を無視して大学に手を突っ込むなどの例外を除く




この状況が男性社会のせいであるというのは明らかにおかしいだろう

しろ男性社会批判する見地から理論化され、徹底的に相互批判が行われ

対立する学者集団勝利し、ヘゲモニー形成するに至ったのだ

間違いなくフェミニズム勝利であり、成果である

それが間違っていると言うならまずフェミニズム歴史批判すべきだ

なのにネットフェミニストはそれらを一切無視して

ゼロから男性社会批判を始めようとする

そこに歴史はなく、学問はなく、正当性はない



別にトランスジェンダー人権擁護をすべて肯定しろと言っているわけではない

批判したいならまず自分たち派閥が積み重ねてきた学問歴史理解して

それを批判するなり、理論修正を行うなどをすべきだろう

現代における責任ある市民義務として

反知性主義者でなければ、当然行うべき手続き

2026-02-23

生成AIに反対してる絵描き、聞け

著作権で戦うな。

他人著作の中で育ったお前らじゃその武器を使っても、向こうに揚げ足取られて勝ち目がない。

お前らの一番の武器は従来の制作過程にあるんだから、それを守るための方法を考えろよ。

2026-02-19

改めて説明するが嫌儲板嫌儲ではない

そもそもなぜ嫌儲板という文化が生まれたかというと、2chまとめコピペブログきっかである

当時有名だったはちま起稿、刃などが、ただ5chからコピペして勝手に儲ける分には、当時の旧速民は寛容だった。

俺の書き込み使われてバズって嬉しいまであった。

事態が一変したのは書き込みの改変が行われたこである

あるがままコピペするのではなく、都合のいい書き込み書き込みを組み合わせて独自面白くしてしまったのだ。

これに旧速民たちは激怒した。

己らの創作を世に広めてもらう点でギブアンドテイクが成立していたはずなのに、その前提が失われてしまったのだ。

その結果としてまとめブログ転載禁止嫌儲板移民が発生し、アフィブログとの敵対路線が始まった。

まり嫌儲板侵略者※たちの文化嫌儲ではなく、嫌儲あくまで結果であり、元は著作人格権の主張からスタートしているのだ。

実際その後もオリジナルコンテンツで作者が儲ける分には至って寛容であり、一方として剽窃者には厳しかった。

のまネコ騒動の振り返りなどギリシャトルコ独立にかけつけた白人義勇兵くらいのノリでしかない。

嫌儲板とはそういう文化の板である

嫌儲板自体はそれまであって、原住民(嫌儲超正統派)、三昧移民(実況禁止の板から実況のためにやってきたアニオタアニソンオタの総称)が先にいた。この騒動でやってきたはちま移民が最終的に最大勢力となり、現代に伝えられる嫌儲板文化形成した。いわゆる安倍晋三時代の始まりである

anond:20260218214100

どっちかというと忘れられる権利(というか名誉権やプライバシー権)ではなく、著作者人格権範疇って感じがある

著作者人格権に含まれる「公表権」は、未公開の著作物を公開にするか否かの決定権だけど、公開された著作を取り下げて非公開にする権利

非公開にしたものを公開されない権利も、一定範囲で認められていいんじゃないかとは思う

2026-02-18

戦後80年に寄せて

はじめに

 先の大戦終結から、80年が経ちました。

 この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界平和繁栄に力を尽くしてまいりました。今日我が国平和繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。

 私は、3月硫黄島訪問4月フィリピンカリラヤの比島戦没者の碑訪問6月沖縄戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問8月広島長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。

 これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣立場については、私もこれを引き継いでいます

 過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。

 国内政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。

 第一次世界大戦を経て、世界総力戦時代に入っていた中にあって、開戦前内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
 政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線見直しができなかったのか。

 戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います

大日本帝国憲法問題点

 まず、当時の制度上の問題が挙げられます戦前日本には、政治軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。

 大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権独立したものとされ、政治軍事関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度存在しなかったのです。
 内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限制度上与えられていませんでした。

 それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交軍事財政統合する役割果たしていました。武士として軍事従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山眞男言葉を借りれば、「元老重臣など超憲法存在媒介」が、国家意思の一元化において重要役割果たしていました。

 元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党政治軍事統合を試みました。
 第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代政府政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
 1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています

 従来、統帥権作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます

政府問題

 しかし、次第に統帥権意味拡大解釈され、統帥権独立が、軍の政策全般予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。

 政党内閣時代政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党立憲政友会立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。

 しかし、1935年憲法学者貴族院議員美濃部達吉天皇機関説について、立憲政友会政府攻撃材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。とき岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部著作発禁処分となりました。

 このようにして、政府軍部に対する統制を失っていきます

議会問題

 本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます

 その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員1940年2月2日衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説陸軍侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています

 議会による軍への統制機能として極めて重要予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院貴族院とも基本的秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
 戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍海軍組織利益面子をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。

 加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
 五・一五事件二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会政府関係者を含む文民が軍の政策予算について自由議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。

メディア問題

 もう一つ、軽視してはならないのはメディア問題です。

 1920年代メディア日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代石橋湛山は、植民地放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃からメディア論調は、積極的戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。

 1929年米国大恐慌を契機として、欧米経済は大きく傷つき、国内経済保護理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
 深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義資本主義時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
 こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。

 日本外交について、吉野作造満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。

情報収集分析問題

 当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月独ソ不可侵条約が締結され、とき平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。

今日への教訓

 戦後日本において、文民統制は、制度としては整備されています日本憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています
 内閣総理大臣が内閣首長であること、内閣国会に対して連帯して責任を負うことが日本憲法に明記され、内閣統一性制度上確保されました。
 さらに、国家安全保障会議が設置され、外交安全保障総合調整が強化されています情報収集分析に係る政府体制改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます

 政治軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくま制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。

 政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります現在文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断努力必要です。無責任ポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持責任感を持たなければなりません。
 自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的説明し、意見を述べることが求められます

 政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります組織が割拠、対立し、日本国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍海軍とが互いの組織論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。

 政治は常に国民全体の利益福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒すには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。

 政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会メディアです。

 国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます政治一時的世論迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。

 使命感を持ったジャーナリズムを含む健全言論空間必要です。先の大戦でも、メディア世論煽り国民を無謀な戦争誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム差別排外主義を許してはなりません。

 安倍元総理尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治蹂躙自由言論を脅かす差別言辞は決して容認できません。

 これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来リベラリズム健全強靭民主主義が何よりも大切です。
 ウィンストン・チャーチル喝破したとおり、民主主義は決して完璧政治形態ではありません。民主主義コスト時間必要とし、ときに過ちを犯すものです。
 だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。

anond:20260218162600 に続く

2026-02-17

ゼレンスキーオフロスキーが交代したら平和になる

オフロスキー「呼んだ?」

プーチン「殺す」


  終

制作著作

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 ⓃⒽⓀ

2026-02-11

学会マニア微塵も信仰心がなくて、ただもう中の人たちをウォチするのが楽しい)の自分にとって今回の選挙はもう最高のイベントでした。

そんなに詳しくなくてもすぐ仏教から来たんだなとわかるあの名称とか、SNSでバズった例のダンスとか。

でも、一マニアとして本当に言いたいことはね。

物凄い欲(いい意味でも悪い意味でも)が強くてどこまでも突っ走るけど、ギリギリのぎりぎりにおける踏みとどまり方と人の心理を読むのに長けた「あの会長」が存命だったら、いや全盛期だったら、あん判断絶対にしない。

まず、今は風向きが最悪だったし、あの名称絶対につけない。

とにかく今回負けたやつらは会長メジャーどころの著作でいいから一通り読み直すのをお勧めする。

方向性はともかく、松下幸之助とか本田宗一郎とかと一緒で、技術的には学ぶところいっぱいあると思うのよ。

2026-02-05

### 画像テキストの逐一ダメ出し

画像テキストは、ある本のページから抜粋で、サルトル哲学引用解釈したものと思われます。以下では、画像内のテキスト自然な文単位で分解し、各部分について「どこが間違っているのか」と「本当はサルトルはどういう話をしているのか」を対応させて指摘します。指摘は画像テキスト順に沿って進めますサルトルの主な参照元は『存在と無』(L'Être et leant, 1943年) で、不安(angoisse, anguish)と自由関係議論した箇所です。画像テキストサルトルアイデアを大まかに借用していますが、用語の置き換え、文脈の歪曲、偽の引用が目立ち、全体として自己啓発的な解釈に強引に当てはめている点が問題です。

#### 1. 「と、こんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。でも、他人人生凝視している間は、自分人生を生きていないということになります。」

#### 2. 「フランス哲学ジャン=ポール・サルトルは、こう言っています。」

#### 3. 「『憂鬱とは、他人人生凝視しすぎた結果である解決策は、他人人生凝視しないことだ。』」

#### 4. 「彼は、人生崖っぷちに例えています。」

#### 5. 「崖っぷちで下を覗き込むと、めまいが起きる。」

  • **どこが間違っているのか**: この部分はほぼ正しいですが、「下を覗き込む」(gazer en bas)とサルトルが述べているのは事実です。ただし、画像ではこれを「他人人生凝視」に繋げるための布石として使われており、文脈が歪曲されています
  • **本当はサルトルはどういう話をしているのか**: サルトルは「めまい」(vertige)が起きるのは、崖の縁で下を凝視した時だと述べます。これは物理的な恐怖ではなく、心理的なものです。原文では「Je suis sur un sentier étroit, sans garde-fou, qui longe un précipice.」(狭い道で、ガードレールなしに絶壁に沿って歩く)という状況です。

#### 6. 「それは、落ちる恐怖からではなく、自分飛び降り自由を持っていることを認識たからだ。」

#### 7. 「つまり他人人生凝視しすぎると、自分自由直視できなくなり、憂鬱になる。」

#### 8. 「だから他人人生凝視せず、自分人生を生きろ、というわけです。」

#### 9. 「本当の成功者たちは、そんな他人人生なんて気にしない。自分人生を全力で生きている。だから憂鬱になる暇なんてないんです。あなたも、そんな人になりませんか?」

全体として、このテキストサルトルの絶壁の例を借用しつつ、「憂鬱」「他人凝視」という独自解釈を加えており、原典から大きく逸脱していますサルトル本質は、自由の重みを直視し、欺瞞なく生きることです。もし本の文脈自己啓発なら、正確な引用ではなくインスピレーションとして扱うべきですが、ここでは誤解を招く表現です。

2026-02-01

ああ、ノビーノビーノビー、安らかに

若くして死んだ私の兄は、あなたのことが大好きだった。

私たち兄弟は、子供の頃、あなた著作を夢中で読んだ。

長じて、あなたが、ああ、なんというか少し、うまくいえないけど、ホラを吹くのがすごく上手な人だ、というのがわかったときには少し、少しだけガッカリしたりもした。

でも、私があなた尊敬するのは、あなたものすごいホラは吹くけど、悪意のある嘘は一つもなかったということだ。

私たちは、あなたの本からスゴイ勇気をもらったのも本当のことだ。

ノビーノビーノビー、どうか安らかに

ありがとうありがとうございました、私が私のガットフィーリングに従って生きてこれたのはあなたのおかげだ。

2026-01-29

なんとかのコインで、初めての体験させて頂きました。的射た感想ひとつ

【ヒドイ!】に尽きます。これでは著者がお気の毒です。通勤などした経験は有りませんので、

「ながら聞き読み」の方は、このような演出過多と言わざるを得ないものでなければ、脳みそ

届かぬものなのでしょうか?。なんですか?このお二人の会話は、演出は。

とくにこの若造が煩過ぎます。答える方も気取り過ぎで不快まりなく、私は挫折途中下車しました。

にゆえに本をそのまま忠実に朗読しないのか?

聴く朗読と云うものは、よほどに緻密なセンスを持って練り上げるか、または単純性に重きをおかない限り、

前頭葉各部位を著しく混乱させるものとなるは必然でしょう。

若いナレーターの世に云う『言いがかり』的理屈が折角に有意義著作をブチ壊しているようにしか思えない。

少くも私はこの本に大変興味がある。しかしまた、このような愚かなコンテンツから去り、紙媒体で読む事にしました。

まり退会です。いまでも腹立たしくなるほどヒドイ『番組』です。

2026-01-27

東浩紀が分からない

私には東浩紀が分からない。

彼は相当頭の良い人だと思う。多分私には計り知れないほど。

著作もいくつか読んだ。現代日本言論人の中では1,2を争うほど頭が良いと思う。

から彼が「リベラル」をネチネチと批判して、現政権に対して無批判なのにも理由があるのだろう。

その理由が分からない。

私は現政権批判的な立場だ。

周りにいる旧来の自民党支持者も高市政権には懐疑的だ。

津田大介ひろゆきも手厳しく批判している。彼らにどれだけ知的権威があるかは知らないが。

ある程度の知識階級高市政権参政党に対して危機感を抱いているように思える。

これこそエコーチェンバーなのだろうが、今どき政権を支持しているのはデマに踊らされる愚民のようにしか思えない。

からといって中道を完全に支持するわけでもないが、現政権を前にして無批判なのはおかしいと感じざるを得ない。

ゆえに、彼が「リベラル」を執拗攻撃し、現政権に無批判理由が分からない。

おそらく彼は頭が良すぎるから我々の知的レベルが理解できないのだろう。

深刻なギャップを感じる。

彼が「分かるだろう」と送るメッセージは我々には分からないのである

だって彼が単純な右翼だとは思っていない。しかしそうとしか見えない。

オタクからネトウヨなのかな?ぐらいの印象しか持てない。

なぜ彼ほどの知識人が権力迎合するのか?

リベラル攻撃する前にやるべきことがあるのではないのか?

私には理解できない。

2026-01-23

「Black Box Diaries」を見た、所感

とりあえず思ったことを書いていく。

ネタバレはある。以降本作を「BBD」と略す。

英語モノローグ

正直、開始一秒で「しゃらくせえ」と思った。

捜査官A、警察のWスパイでは?

立ち回りがやたら小狡い。

そんな捜査官Aに呼び出され、単身Aの車に乗り込む詩織さん。そのまま連れ去られてもおかしくないような状況に見えたのでハラハラした。

というのもこの捜査官A、公の場で証言して欲しいと頼まれるたびに「そんなことをしたら失職してしまう。責任とって結婚してくれるんですか?」「私が無職になって、生活の面倒を見てくれるなら考えますけど」と、2人の共同生活にやたら前向きなことを言ってくる。冗談めかしてはいものの、声だけ聞くに、圧倒的中年男性のそれであるキモすぎやしないか? お上に不利な証言をしたとて、クビになる前に自分で辞めればいくらでも潰しがききそうなものだが、自分証言と引き換えに全力で縋ろうとしてくる姿には違和感がある。とても信用できない人物に見えるが、この人間臭さ(=小物臭)がスパイ疑惑を打ち消す効果として作用しているようにも見える。

捜査官Aのことはどうにもずっと怪しいと思って見てしまっていたが、詩織さんは普通に信頼できる相談者として、常に気遣う言葉もかけてくれるので涙を浮かべたりする。私の心が汚れているだけだった。

この人に比べると、ドアマンはもう少し人が良さそうに見える。

証拠がない

映画の始まり詩織さんは「証拠がないんです」と警察からはっきり言われている。山口DNAが付着したという下着くらいしかなく、それだけではレイプ証拠にはならないのだ。

正直、ここでもう勝敗は決していると思った。過去強姦強制わいせつに関する刑事事件においても「被害者の申告」だけではなかなか起訴まで持っていくことは難しいのはわかっている。

この薄い証拠山口逮捕されていたら、それこそ人権派弁護士不当逮捕と噴き上がっていただろうし、即不起訴になる。安倍友達であろうともなかろうともだ。そのくらい、証拠が弱い。

しかドアマンいくら証言しようとも、密室で行われたことであり、和姦か強姦かを証明することはもっとハッキリした証拠がなければ難しい。世の中では、市長女性が部下の男性ラブホテルに行って業務に関する入念な打ち合わせが行われることもあるのだ。

(登校中の子供の身バレが)危険なカチコ

捜査官Aが語るところによると、山口逮捕を中止するよう指示を出したのは中村格という現・警察庁長官で、当時は警視庁の偉い人だった。真意を問いただすため、詩織さんは仲間たちと共に彼の出勤前を狙って自宅付近に張り込む。

小学生の通学路にもなっている、見通しの良い閑静な住宅街。そこに車で乗り付けて仲間たちと張り込む詩織さん、明らかに不審車両である

案の定、登校中の小学生が車を怪しみ、何度も振り返って確認する様子を見て、彼らはくすくすと笑う。昔のこととはいえ、2人の小学生の顔はバッチリ映っている。もう彼らも成長して顔も変わっているだろうが、親がこれを見たら憤死するのではないだろうか。プライバシー侵害についてよく語られる本作だが、登校中の子供の顔を無断で晒すのはさすがにあらゆる権利侵害しすぎである

弁護士反旗を翻した理由

表向きは防犯カメラ映像無断使用と言っているが、彼らが本当に見られて困るのは終盤に出てくる国会議事堂前抗議活動を行っている高齢女性たちの明らかにアウトな言動の方じゃないだろうか。

普段韓国従軍慰安婦から辺野古基地返還まで幅広く抗議活動を行っている活動家の皆さんである詩織さんの告発は、山口安倍晋三と親密な関係であることも含めて国会で取り上げられる問題になったので、彼女たちはそこに乗じてさっそく詩織さんの名前も挙げてアジりだす。

そこへ詩織さんが通りがかり、声をかけた。

最初不審そうな顔をしていた2人の女性は、「伊藤詩織です」と詩織さんが名乗った途端、態度を一変させた。顔も知らずにアジテーションのネタにしていたとわかる、インパクトのあるシーンだ。詩織さんが去った後、2人はテレビで見るのと印象が違ってすぐに気づけなかった、とカメラの前でしどろもどろになる。

だがまだこの2人はマシである問題はその後、2人と詩織さんのやり取りを近くにいながら関わろうとしなかった女性である詩織さんが立ち去った後、さっきこちらにきたのはあの伊藤詩織さんだよと伝えられた彼女は驚いてこう言った。

強姦された伊藤詩織さん? さっきの、強姦された伊藤詩織さんだったの? もう行っちゃったの、だったら話せばよかった!」

映画では、ここで画面が切り替わる。

映画が公開されるや否や批判的な立場を表明した北原みのり氏によると、彼女らのやりとりには続きがあり、ここで切るのは悪意ある切り取りだという。ここから入れる保険があるって本当ですか?

その後のやりとりとやらを確認したところ、やはりとても入れるような保険ではなかった。「みんなで民事訴訟の傍聴に行って応援しましょう」という意思確認をしただけだった。アジテーションのネタにしたのに本人が来なければ傍聴すら行く気がなかったのか?

なお、さらなる彼女らの擁護者によると「強姦された○○さん」という呼び方は、従軍慰安婦界隈では「売春していた人」と区別するために使う言葉なので、特別に性被害者貶める言葉ではないらしい。つまり売春していた人は区別してもいいようである。それはそれでものすごい職業蔑視をしているように見えるが、自覚は薄そうだ。

しかし、元草津町長(先日の選挙で負けた)には絶対に謝らない北原みのりが、「昔から知っている間柄だから」と無神経な高齢女性たちを庇う姿は、長年親密な間柄故に山口を守ったとされる安倍晋三にそっくりである

ブラックボックスからパンドラボックス

最高裁まで進んだ山口との訴訟の一つは、安倍晋三が撃たれ、その死が公表された日に判決が出た。ただの偶然なのだが、二つのニュースタクシーの中で聞いた詩織さんはある時代の終わりを感じ取り、音楽をかけて友人と小躍りして映画は終わる。この安倍晋三の死によって、もっととんでもない箱が開いてものすごい化け物が飛び出してきたことなど、当時の彼女には知る由もない。監督意図しないところではあるのだが、物語の終わりは、奇しくも新しい物語の始まりを思わせる。

書籍BlackBox」の映像化+正当な続編映画だった

2017年出版された著作「Black Box」を読んでいなければわからないことが多すぎる。

エンドロールも全部英語しか文字が小さく読みづらい。たぶん読ませる気がない。

まり、一つのストーリー性を持つドキュメンタリーとしてBBDだけを見たらちょっとわかりにくい。原作(本「Black Box」)、映画、そして映画パンフレットの3点セットをもって、全ての情報が補完できるメディアミックス作品なのであるチェンソーマンでいうといきなりレゼ篇を見せられているようなものだ。

ドキュメンタリー映画としては、やはりそれ一本だけで完結させて欲しかった。ふらりと映画館に立ち寄って見られるのが映画の良さでもあるのだから

ちなみに強姦した人こと山口現在どうしているのかと思って調べてみたら、元気に参政党の連中と共に陰謀論界隈に出入りしていた。

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