はてなキーワード: シオランとは
反出生主義を信じるようになったのはなぜ? すごく苦しい経験をしたから? 悪徳にあふれる世界を見て? それともベネターやシオランとかの哲学書を読んで? 同じ本でも小説で?
(ちなみに俺が最初に明確に反出生主義に触れたのは芥川龍之介の「河童」だな)
→理由は沢山あるけど、モテない、仲良い両親(家庭)を見たことがない、出産でババひきたくない・ひかせたくないの比重が大きい
友人・知人に反出生主義を広めようと思ったことはある? どうだった?
→ない
安楽死ってどうよ? 反出生主義そのものじゃないけど、増田で話題になるから聞いてみた。
→身内がいない人生になるだろうから、人の邪魔になる前に苦しまずに死にたい
反出生主義者がアニメなんかで悪役にされがちなの、どう感じてる?
それこそ人殺しがバンバン出てる推理小説だって面白けりゃいいし
出生主義者、
→子供かわいいよね、分かる。(友達の子どもはめっちゃかわいい)
→よ!
今の気分はどう?
→そろそろ寝た方がいいなぁと思ってる
趣味は?
ちなみに俺は久しぶりに食った牛肉が旨かったので嬉しかったぞ。
→職場のエアコンが壊れてて、暑い中汗かきながら(物理)働いてたら楽しくなってきた
南国の国の人は陽気って言うけどこんな感じでなんかわからんけど楽しくなってくるのかな?と思ってる
早よエアコン直してほしい
→色々あるよね。夢と出会ったあの日とか、うまい唐揚げ屋と出会ったあの日とか
これからどんな風に生きていきたい?
きっかけはこの国の将来を悲観して、かなぁ。出生率低下や高齢化、国際的地位の低下。いっそのこと国民に出産を禁じて、それでも生まれた子供は家族で海外に移住してもらって、日本という国を滅ぼすべきじゃないかと思った。この頃はどういう施策を立てれば実現できるか妄想して遊んでいたという感じ。
一年位経ってからネットで反出生主義という言葉に出会った。その頃はだいぶ精神を病んできてて、他人に勧めるわけではないけと、論理的に反出生主義に反論できなくなっていた。今もそう。
シオランの本(正確にはシオラン思想を解説した本)は読んでみた。笑っちゃうくらい今の自分が考えているのと全く同じことが書かれていた。
何かの参考になれば幸いです。
終わった。
休職して3ヶ月。普通の人なら分かることが何か分からない。小さい頃は「KY(空気読めない), KY」と言われ、いじめられてきた。アドラーがいうところの、共同体感覚がない。
5年くらいまともな社会人のふりができてたのに、異動のタイミングで今まで無理していたのか壊れてしまった。病院に行ったらうつ病との診断。
幸にして休みを頂けたが、何もしたくない。いまま趣味だと思っていたことも楽しくない。行ったことない所に行ってみた。買ったことのないゲームも買ってみた。何も楽しくない。すぐ飽きる。
生ききてても面白くない。何もやりたいことはない。ただ早くこの人生を終わらせたい。シオランの本を読んだ。自分が思っていることと大体同じことが書いてあってつまらない。
死にたい、死にたい。口で言ってるだけだと、「じゃあなんで死なないの?」とニコニコしながら行ってくる人たちがたくさんいるから死ぬ準備だけは進めている。完全自殺マニュアルで一番苦痛のない方法を調べた。死んだら親族が部屋を片付けに来るだろうから見られたくないものは全部捨てた。職場の先輩から借りていた本があったので、誰に返すのかメモを書いた。
あとはどうすればいい?
俺自身は反出生主義がそこまでヤバい思想だと思ってない。苦しみを絶対悪としてそれを避けようとするなら、最初っから生まれなきゃいいじゃんって理屈になるのは筋が通ってる。俺自身も、最大の苦痛である死がいずれ必ず訪れると知った七歳のときの絶望感を覚えている。あの時はどうして俺は生まれてしまったんだと叫びたかった。
なぜ生きている/生きてしまっている/生かされてるのかって驚きこそが、哲学の始まりだ。
それに野良犬なんかの管理で「不幸な犬を増やさないために」って去勢するのと理屈とどう違う? あるい出生前診断や重い障害を持つ人々を重荷とみなす世間のまなざしなど、生命が完全に平等で尊いという考えに疑いをさしはさむ発想は結構身近だ。実は言語化されてないだけで、今まで多かれ少なかれ反出生主義的な発想はあったはずだし、自分は出生主義者だと思ってても、反出生主義的な考えをまったくしたことがないってことはないだろう。ちょっとくらい「なんで生まれたんだろ」「生まれさえしなければ」と考えたことくらいあるんじゃない?
ときどき反出生主義主義者がやべーやつ扱いされるのは、興味ない人を無理やり説得しようとするやつがいるからなんじゃないかって推測してる。
で、当の俺自身は生まれる事の善悪を判断する能力を、そもそも人間は持っていないと思っているんだけど、反出生主義者に聞いてみたいことは結構ある。だからまとめてみた。
古典という語は曖昧なので、ここでは古代から中世にかけて書かれた文章や詩ということにしておく。したがってここにシオランやユルスナール、ソンタグは含まれない。古典を読んでも日常生活が便利になるわけでも、金が儲けられるようになるわけではない。しかしながら古典を読む意義は大いにある。第一に自国の古典、日本であれば徒然草や源氏物語、を読むことで自分がどのような人間であるかについて理解を深められるからである。第二に格調高い透徹した文体によって、煩わしい時事問題や人間関係をBGMにしてしまうことができる。ただしこれは厄介ごとを完全に蚊帳の外に置くということではなくて、古典を味わうためにこうした出来事を利用してしまうということだ。またイタロ・カルヴィーノが指摘したように古典を読むときはできるだけ注釈書なしに読まなければならない。確かにそれなしで古典を理解することは難しい。しかしそれが古典というものだ。注釈書が原点よりも多くのことを語り得るはずがない。教養を深め人生経験を積んで初めて、若い頃に読んだ古典の見えなかった部分が見えてくるという文句はよく聞かれるもので、原典を何度も人生において読み返してこそ価値があるというものだ。
価値観を持つ存在を仮定しなければ同意を考慮することは不可能ではありませんか?」
これで価値観をもつ存在を仮定しなくても同意を得られ「無い」ことはご理解いただけるかなと
原理的とはいえ同意を得られ無いなら、そのまま=無にすべきだと思います
そして、原理的に同意を得られ無いのですから、子どもを作るべきではないと思っております
「無が最上であればすぐに死ぬこと、周りにも死ぬよう働きかけることが理想的ではありませんか?
今すぐ死ねば子供を生む心配はありませんし、自分が死ねば人が子供を生むことを知覚する心配もありません。」
私は人類絶滅至上派の反出生主義ですが、同意を重視しますので実行力があっても行使することはないでしょう
反出生主義を薦める、働きかけることについては、比較にならないほど優秀な先人がいるので(アルトゥル・ショーペンハウアー、エミール・シオラン、ディヴィッド・ベネター等)
私の出る幕などありません
自死に関しては何度も考えたことがありますが、本能的な死の恐怖、死に至るまでの苦痛に対する恐怖、この2つも生きる上での苦痛になっている派ですので、実行できない状態です
意気地なしと言われれば、その通りとしか言いようがないです
>「マイナスは確実にあるが、もしかしたらプラスもある」より「確実にマイナスはない」のほうが合理的
というところに引っかかった誤解が多いみたいだ。
おそらく、苦痛は-5あるけど幸福が+10ある場合、-5+10=+5の幸福な人生というイメージをしている。
そうではない。
生まれないことは0。
幸福が+10あっても苦痛が-5あるなら苦痛は確実に存在している。
だから子供を産むことは苦痛を産み出すことなんだ(だから産まないほうがいい)、というのが元増田の論理。
でもこれは論理的に弱い(状況次第で覆しうる)んじゃないかな。
たとえば苦痛も不幸もない状況。
遺伝子操作で痛覚をなくし、洗脳と薬物で強制的に幸福にする、というように。
オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』をさらに推し進めたディストピア的な状況(『すばらしい新世界』は培養ビンで生まれた子供が睡眠時教育で疑問を持たないよう教育され、少しでも不快な気分になるとドラッグで「楽しい気分」になる)
「幸福」「不幸」「苦痛」その他もろもろを感じる主体自体を産み出すことの是非を問題にしたほうがいいと思うな。
この点はベネター『生まれてこないほうが良かった~』もシオラン『生誕の災厄』もいまいちで、ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』の方がいいような気がする(よく理解できていないのでわからないが……)
子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
はじめに言っておくと全面的に同意する。
ずっと自分も考えてきたことだった。
そのうえで、この「生まれない方がマシ」というこの主張は時代性というか、現代を体現しているように感じる。
なお、他の「生まれない方がマシ」言説として、学術レベルではこんなのがある。
http://www.amazon.co.jp/Better-Never-Have-Been-Existence/dp/0199549265
この人は比較的最近知ったのだが、2ちゃんねるでもスレが建てられるなど、徐々に認知度は上がってきているらしい。
あとシオランは有名だよね。
話を戻すと、はっきり言って,少しも異常な議論だとは思えない。
快を善とし苦を悪とする功利主義的前提を徹底すれば不可避的に行き着く結論だからである。
そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代のスタンダードだからである。
他者危害原則は、普通は愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である。
すでにその一部を書いたところだが、根本的には「ネオリベ」。これに尽きる。
話は簡単である。
現代とは、社会の改良(福祉的な方向での)に対する希望がまったく失われた時代である。
というか“社会は存在しない”ので、そもそも改良することも、異議申立てをすることもできない。
こうして一切が「自己責任」となるなか、昨今の科学的知見は、遺伝子・幼少期の環境といった本人にどうしようもないレベルで「人生は運ゲー」というミもフタもない事実を、私たちに突きつけてくれる。つまり「自己責任」とは自由意志がどうのといった話ではないのである。
しかし、唯一これだけは私の責任ではないと主張できることがある。
もちろん、生まれたことである。
まずはこれがひとつ。
(なお、これに対し、「現に生きていることをもって出生の事後承諾とみなす」という主張が考えられる。裏を返せば「生まれたくなかったんなら、死ねば?」というわけである。しかし、自らの意志によって生まれたのでない者が、自らの意志によって死なねばならないとは甚だ不条理である。というか、この場合、死に方については論議できない。つまりその人が「大量殺人を犯して死刑になる」という死に方を選んでも文句は言えない。実際、この種の通り魔たちは<生まれない>という行為?に及んだのだと私は考えている。私のいう<生まれない>とは、あらゆる自発性・主体性・能動性の拒否であり、したがってその者は「生かされる」か「殺される」しかない)。
これはさまざまな要因が絡んでいるが、ぱっと思いついたものを挙げるとこうなる。
①個人化
③生活の具体性の消滅
最後のものだけ説明すると、人類は生まれてこの方、空間・時間を縮めることに専念してきたといえる。
少しでも速い移動手段を求めた。空間を均質化し、通信技術を発達させ、どこにいても同じように振る舞えるようになった。
あらゆる場所は「ここ」になり、あらゆる時は「いま」になった。
「いま、ここ」とやたら耳にするように、実のところ時と場所とが極限までに抽象化されてしまった。
ところがこの「私」とは主観的には唯一存在だが、客観的には「いま」「ここ」と同じくらい抽象的なものである。
つまり「私」にも何ら内実は伴わない。
自我の内実を埋めてくれる具体的な生活空間や経験は、多くの現代人には得がたいものになった。
やがて人々は「私」にウンザリし始めた。
思えば、多くの娯楽作品が「私の抹消」を描いてきたのは、偶然だっただろうか?
このテーマは近年になって伊藤計劃『ハーモニー』が完成させたのだが……私自身の話をすると、自分のなかの「モヤモヤした気持ち」を「生むという鬼畜外道の所業の発見」にまで至らせてくれたのは、ほかならぬこの小説であった。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
http://anond.hatelabo.jp/20080123062439
元増田です。
> わからないことがあったら聞いてみなさい
> 動いてみなさい
> というのは
> 本人は苦しいのだろうね
こういうことを誰かに話すと、相手を困らせてしまうだけだろ、って躊躇してしまう。他人からもらえる答えなんてなくて、自分で見つけるしかないってこともわかっているから、尚更です。結果がわからなくても、とにかく動いてみるしか、やはり道はないのでしょうね。ありがとう。
> 何をすればいいのか知っている人と、何かに熱中している人を分けて考えると安心するかもしれません。
それは結構わかっているつもりで、せめて「やりたいこと」が自分にあれば良いのに、と思います。それもなくてただ日々を暮らしているから。
ただ苦しいだけでそう考える余裕はなかったな。その視点を与えてくれたことで、少し気が楽になりました。ありがとう。
> そうした日々、私は、古い墓場を巡って歩いた。後にシオランもそうだったと知った。墓碑も読めなくなった墓を丹念に読んで回った。
そうか、死者に「相談」することも出来るんですね。シオラン、はじめて聞いた名前だけど、今度著作を読んでみます。ありがとう。