はてなキーワード: 自己犠牲とは
エクソシストの映画の撮影前、主人公の神父役の役者が変死してしまう。その代役にアル中で業界を干されているラッセル・クロウが選ばれ、なんかうまく行ってない娘は付き人として撮影に参加。しかし、アル中で脳が委縮したラッセルはろくに台詞も覚えられないし体調も悪い。そうこうしているうちにラッセルの様子がどんどんおかしくなっていき、撮影現場では異変が起き始める。もやしこの映画は呪われているのでは、ラッセル親子の行く末は……
みたいな話。
ちゅ~~~~~~~~~~~と半端やなぁ(ちゃらんぽらん感)。
いや、やらんとしてることはわかるんよ。トラウマの苦悩、演技で自分を追い込むことによる変容、信仰の脆さ、親子の絆、そしてエクソシスト映画。でもこれらを全部やろうとした結果、全部中途半端になってる。
ラッセルは敬虔なキリスト教徒だったんだけどいつも通り幼少期に神父にケツ掘られててそれがトラウマになっている。その後、役者として大成するもトラウマから逃れるために酒と薬の日々を送り、妻が大病を患って死んだ際には更生施設に入っていて死に目にも会えてないので娘との間には距離がある。
そんな彼が皮肉なことに敬虔な神父の役をやることになってストレスはたまり、ディレクターからは過去のこと、酒浸りだけではなく幼少期のことまでをチクチク責められるしどんどん様子がおかしくなっていくが、そのうち本当に悪魔に取りつかれてしまう。
でもここの"役に押しつぶされる"展開がめっちゃ薄いから、悪魔に憑かれる展開へのジャンプがめっちゃ弱い。序盤からラッセルはずーっと鬱々してるし様子がおかしいから、悪魔に取りつかれておかしくなるっていうギャップが薄い。もろちん、これは悪魔?それとも本人?っていうサスペンスはあるんだけど見てる側からすればどっちでもよくね?ってなっちゃう。悪魔だろうが本人だろうが様子がおかしいのには変わりないし。
また、ラッセルが抱えているトラウマが作中で解消されるという展開もない。後半はもうずーっと悪魔に取りつかれて様子がおかしいラッセルが大暴れしていて、これを親子の絆で取り戻す展開かと思いきやまったくそんなことはなく。映画のアドバイザーとして参加していたプロ神父が「ワイがラッセルの中の悪魔を引き受ける!」つって悪魔を吸収し、ラッセルと娘、あとなんかぬるっといてた共演女優みんなでお祈りを唱えた結果、爆発炎上して終了。
別にトラウマの解消はそんなに簡単なものじゃないにせよ、何らかの進展があってもええやん。っていうか、あるべきでしょ。神父様の自己犠牲によって助かりました、まぁ、神父に性加害されたことがトラウマだったのが神父にもいい奴もいるんだよ!で和らいだという考え方ができなくもないけど。でもラッセル、悪魔に取りつかれた神父の脳天に十字架ぶっ刺してるんだよな……殺人だよ……ハッ!?神父の恨みを神父で晴らしてスッキリした!ってこと!?
どんな映画やねん。
信仰の脆さに関しては敬虔な神父として娘に寄り添いこの事件の解決に動いてくれてた神父が悪魔を吸収する際に、彼自身も父親である神父から強制的に洗礼を授けられた存在だったことがわかるんだけど、まぁ、だから何?って感じで。そのことが今回の悪魔祓いに特に有効に働く要素もなかったし。
そりゃ、俳優として神父を演じることで悪魔化したが本心で神を信じていたラッセルと、神父であることを強要されてある意味神父を演じていた神父という対比と、最後の最後で神父として神の御業を見せて大往生してよかったねって感じなのかもしれないけど、少なくともそう見えるように脚本が作られていない。
つーか、神父燃えて死んで次のシーンでラッセルがなんか手紙書いてるシーンで終わるの適当すぎないか。
結局何の話やってんってなるわ。
やりたいことがいろいろあるのはわかるけど少なくとも映画としての接続はうんちだったからか、かなり退屈だった。
まぁそんな感じかな。
あと冒頭から画面が一生薄暗いから目が疲れるしメリハリもなくなってると思う。ラッセルが悪魔に憑かれた表現も、今日日それ?って感じの既視感があるものばっかりでナンダカナーって感じ。ジャンプスケアはちょいちょいあるのでビックリホラーとしてはギリ楽しめるかな。
なので、まぁ、悪魔祓い映画コンプ勢にはギリオススメ。ラッセルが悪魔祓いする映画だったらヴァチカンの方を見た方がいいと思いました。
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
一流商社でバリバリ働く舘ひろしは過去にまだ幼かった娘を病気で亡くしそのことで妻とはギクシャク。会社の方も自分を引き立ててくれていた派閥の長が死亡し、社長は現役引退を示唆。敵対派閥の長が次期社長と目されていて冷や飯を食わされる。そんなある日、行きつけの喫茶店で働く貫地谷しほりと出会う。娘の面影を彼女に感じた舘は父親の残した借金を返すためにアクセク働く貫地谷を娘のようにかわいがっていくが、貫地谷に悲劇が訪れてしまう。
みたいな話。
アマプラでプラプラしてたらなんか出てきて、評価が★5のフルマークで評価数が5でやや怪しいかと思いながら見たけど、申し訳ないけど昭和生まれのおっさん向けのポルノムービーで、ずーっとフーンってなりながら見てた。ってか、映画だと思って見たけど、たぶんこれ映画じゃなくてWowWowの2時間ドラマやね。でも別に、そのことが品質に影響する作品じゃなかったのでいったんはVシネ枠の映画として扱うこととする。
仕事一筋で頑張ってきたけど環境の変化で冷遇されている俺。妻とうまく行ってない俺。それでも、まだ10代の貫地谷しほりみたいなかわいい女の子に無条件に慕われる俺。ヤクザに絡まれる貫地谷しほりを颯爽と救い出す俺。貫地谷しほりみたいなかわいい女の子にハタチの誕生日になったら酒の味を教えてあげるよと言える俺。貫地谷しほりみたいなかわいい女の子から手編みマフラーをもらえる俺。貫地谷しほりみたいなかわいい女の子とクリスマスデートをしてコートをプレゼントしてあげたらめちゃくちゃ喜んでくれて街中で着てくれた俺。貫地谷しほりみたいなかわいい女の子と伊豆旅行に行って同衾して迫られるも冷静に断れる俺。しかしそんな大切にしていた貫地谷しほりがヤクザにレイプされソープに沈められてしまう俺。貫地谷しほりに自殺されてしまう哀れな俺。さらに癌が発覚し余命わずかなかわいそうな俺。貫地谷しほりみたいなかわいい女の子と浮気していると思われ妻に実家に帰られるも、貫地谷しほりの仇を討つために会社を辞め愛していた妻に退職金全部差し出し離婚を切り出すという自己犠牲できる俺。しかし裏で行きつけのバーのマスターが妻に事情を全部説明してくれて死ぬ前に妻に赦される俺。貫地谷しほりの死の原因のヤクザを銃殺する俺。うっかり刺されて雪の中、誰にも気づかれず静謐に死んでいく俺。
俺はシンプルにキモいと思ったので、終始、体温が下がる思いで鑑賞していました。きっと弱男向けハーレム系アニメを見ている健常者女性も同じような気持ちになるのだろう。うわきもそんなわけないやんっていう。50過ぎたおっさんが性欲じゃない自愛の心で貫地谷しほりを娘のようにかわいがって父親のように慕われる。ウッ・・・ふぅ・・・明日の仕事頑張ろう!おこだよ。
あと、これ、このシチュエーションでシコれない人も一回見てほしいんだけどこの映画、一生ラウンジ系のジャズが流れてるのね。哀し気なトランペットとピアノの曲が一生流れててめちゃくちゃ草生えちゃう。マジで一生流れてるから。無音か、ジャズ。こういうのが俺たちの時代のオシャレで、俺たちのもの悲しさを表現しているのサ・・・っていうのでシコれる人が見る映画だと思う。
あと、なんか妻は社交ダンスを習ってて社交ダンスの練習シーンがなんかちょいちょい挟まったり、社交ダンスの合宿に行ったりするんだけどここの掘り下げも弱くて。たぶん、おそらく、メイビー、舘とは社交ダンスを通じて出会ったとかだと思うんだけどそこが浅いから、最後にヤクザを雪の中襲撃しにいく舘と、バーで事情を知った妻が一人で踊ってるシーンがカットバックで描かれるんだけど、こいつ何バーで踊っとるんや、迷惑やろって思っちゃった。
うっかり刺されて死ぬって書いたけど本当にそんな感じで、ナイフをちらつかせるヤクザを銃で撃つんだけど、3発くらい撃ってふらふら倒れ掛かってくるヤクザに刺されて死ぬ。撃つけど当たらなくて刺されてその手を掴んで離れられないようにして超至近距離で撃つとかならわかるけど、瀕死のヤクザが体を預けてきてそのついでに刺されるってのはもっとなんかあっただろ。
まぁ、そんな感じかな。
でも俺が単にそこにアンテナがないだけでそういうシチュを渇望している人間が地球上にはたぶん存在していてそういう人たちがこの作品を見て明日も頑張ろうって思えてるんだったら、まぁ、さっきは小ばかにしちゃったけど、それ自体は別に悪い事ではないと思う。無条件で慕ってくれる若くてかわいい女の子ってものをしょぼくれた人生のために消費するなとは思うけど、別にそれはチートハーレムアニメだって、俺様系男子に迫られたりイケメン御曹司に愛されすぎて怖い漫画だって同じ、みんな自分の人生の足りないピースを創作で埋めてるんだし。おっさんだからキモいと突き放すのはたぶん正しくない。
イチャラブ系が好きな人が素人のマッサージ系見てこれ何がおもろいんやってなるのと同じで単に想定されていた視聴者層では全くなかったって言うそれだけの話だと思うので、上にあげたシコれる要素でシコれる人にはたぶん普通にオススメ。
多少配慮したけどネタバレあるのでまだ劇場行ってない人は読んじゃダメだよ。
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そこらのソシャゲのキャラストーリーとしてなら十分なクオリティ。コナンというIPでお出しするならもう少し頑張って欲しい。基本的には満足できたので、迷っているなら観に行くのをオススメできる。
色ボケした横溝はキショかったけど、そんなことよりも、松田お前そんなキャラだったっけ?
「ハモっちまった〜w」
キッッッッッッショ!!!!
揺れる警視庁で出てきた時の松田って、サングラスだしタバコだし「馴れ合いはよしましょうや」だし、挙句にメールはすぐ消すワイルドな二枚目ハードボイルドとして描かれてなかったっけ。詳しく知らないけど警察学校編だとこんな感じなのか? 勘弁してくれ。揺れる警視庁で見せた、佐藤刑事をあんなふうにした「松田くん」のイメージを壊さないで欲しかったよ青山先生……。より大きな爆弾のために自己犠牲の道を選び、禁煙のマークに「今くらい大目に目てくれよな」っていう、ワイルドな生き様がカッコよかったのに……本当に、こんな、媚びたイケメン(笑)に魔改造しないといけなかったのか?
個人的に揺れる警視庁はメチャクチャ好きで重要なエピソードだけに、この辺を雑に消費されると哀しくなる。もっと話したいことはあるけど、これを言い出すと最悪の駄作・ハロウィンの花嫁への罵詈雑言の記事になってしまうから一旦置いておく。以降もあまり触れないようにする。
ーーいや、これだけは触れる。揺れる警視庁の爆弾犯を雑に処理したことだけは許せない。法で裁かれることが大切な犯人だろうがよ。どんな気持ちで高木刑事が佐藤刑事を諌めたと思ってんだ。
最近は全体的にそうなんだけど、名探偵コナンじゃないよね。根本的な理由は「推理が薄い」ことに尽きる。本格ミステリーをして欲しいとは言ってないよ? でもさ、警察が教えてくれる、灰原が教えてくれる、園子が教えてくれる、こればっかだよね? 調査して推理して閃いて(コテリン♪ってやつ)、その結果として犯人を推理で問い詰めて自供させるのって見どころじゃないのかな。
「江戸川コナン、探偵さ」がカッコいいのは推理力で我々を圧倒してくれるからであって、終盤に雑に言わせてヨシの万能ワードではない。シチュエーションにこだわって欲しい。
今回なら、世良まで出しておいて調査も推理もないのは本当になぜ? アイツが育った施設に行って警察から聞いた話との矛盾を知る、姉がいることを仄めかされる……その辺を世良の人探しの件とリンクして進められたんじゃないのか? 確かに推理は尺を食うし地味だけど、無意味なシーン(※後述)をカットすれば十分時間捻出できるだろうよ。それがコナンのカッコよさに繋がるという意識が全くないから、結果としてサブキャラのキャラシナリオに終始してしまってる。
※ 例えば: 幽霊バイク騒動は全カットでもいいと思う。なんなら、いきなりバイクフェスの会場スタートでよくない? ヤイバーのバイクを見て騒ぐ探偵団、こんな技術が使われてるんだよって出しゃばって説明してくる技術者、見た目を褒められて照れくさそうなデザイナー(ここでエンブレムの伏線)、そしてコナンが目の端で世良を見つけて話しかけに行く……くらいの感じ。ルシファーの初登場は帰り道に保留。昔のコナン映画だったらこんな感じに覚えきれないくらい一気に容疑者候補並べてたよね。青枠で登場人物名と役職がズラッと。
コナンのことをソシャゲのアプリアイコンのキャラ、くらいに思ってる節があると思う。重要人物だけどとりあえずいるだけでストーリーを主導してない。ソシャゲのイベントストーリー感はここからきてると思う。
コナンの強みである「大人顔負けの頭脳」が活かされる場面が少ないんだよね。推理以前に頭使うシーンがない。最後のアクションは一か八かの脳筋解決、あるいはドラえもんレベルに万能化した博士の道具に頼ってばっかり。高尚な話はしなくても大丈夫なんだ。天国へのカウントダウンでビルから飛び移る際に速度の計算してくれるシーン、高校物理レベルなのに超カッコよかったよね。あのくらいでいいんだけど……。
なんなら道具の使い方も謎。バイク主題の映画で、スケボー使った犯人とのチェイスシーンないって正気か? 曲がり角でトラックに格納されて消えたせいで見失う、みたいなの合っても良かっただろ。ついでに取り逃したコナンが「クソッ!」って悔しがってくれればより満足。終盤だとヘリの壁を撃ち抜くのにボール蹴るのも意味不明だと思った。そもそも、あそこの鍵閉まってなくてよくね? 暴走させようと操縦桿を握った犯人を、千早とコナンで説得するシーンではダメだったのか。せっかく弟を失った境遇がリンクしてるんだから、もうちょいマシな活かし方があったんじゃないかと思わざるを得ない。
余談だけど、爆弾処理で弟を亡くしたキャラのそばで、いとも簡単にコナンに爆弾解体させるの人の心無いんかなってな思う。個人的には爆弾関係のギミックだと、揺れると爆発する仕組みでもつけておいて、コナンが解体中はアシスト機能を使って慎重運転 → 回想シーンの萩原の話とかがヒントになって解体成功 → 速度出してよくなったのでアシスト切って千早のドラテクでぶち抜いて犯人追いかける、とかの方がぽかったと思うんだけどな。シンプルにバイクテクで魅せて欲しい。
今作に限った話じゃないんだけど、OPの「俺は高校生探偵、工藤新一」のあの部分、普通に映像流したらダメなんか? 「aviutlで覚えたアニメーション効果、全部使ってみました!」みたいな編集で正直好きになれない。画面のどこ見て欲しいの? あのシーンって割と「コナンの映画が始まるぞワクワク」っていう劇場版特有の、映画の世界に入り込んで行くための導入効果があると思ってるので、ここに変な個性いらないんよな……。
ちなみに、本作は既にこの時点で松田・萩原はおかしかった。思い出したら腹が立ってきたのでここで止める。
上に以外は大体良かったんじゃないかな? 千早にフィーチャーするっていうコンセプトをちゃんと守れてたのは大きい。最近はブレブレになってるやつも割とあったからね。峠のレースシーンも個人的には好き。
あと、多少は犯人探しでワクワクさせようって意気込みが感じられたのは嬉しかった。
盛り上がりは少なかったけどマイナスも少なかった。
よって個人的には80点くらいあると思う。加点法で評価する人は低評価するかも。
現代日本において野球は民衆のアヘンである。いや、アヘンなどという古風で上品な代物ではない。もっと即効性があり、もっと共同体幻想を増幅し、もっと思考停止を快感へと変える危険なドラッグである。人はそこに汗と涙と青春を見ると言うが、実際に見ているのは、企業、学校、地域共同体、メディアが総出で製造した感情の商品である。九回裏二死満塁のドラマチックの展開で経済的不安や政治問題や労働問題が消えるわけではないが、少なくとも数時間は忘れさせてくれる。その意味で野球はきわめて優秀な麻酔剤だ。
プロ野球になると、商品はさらに洗練される。そこでは勝敗そのものよりも、所属、忠誠、反復が重要になる。ファンは自分の人生を改善する代わりに、贔屓球団の順位表を凝視する。人手不足で労働条件が悪化しても、インフレで可処分所得が削られても、シルバー民主主義と既得権益で政治が停滞しても、打率と防御率とドラフトの夢が毎年新しい麻酔として供給される。かつて宗教が果たした役割を、いまやスポーツニュースと配信サイトと応援歌が担っている。
とりわけ甲子園野球は、日本社会が未成年をいかに都合よく神聖化し、同時にいかに容赦なく消費しているかを示す壮大な見本市である。そこでは少年たちは教育の主体ではなく、共同体のノスタルジーを背負わされた供物になる。酷暑のなかで投げ、走り、壊れ、時に将来の身体を削りながら、「感動」を生産する。観客はそれを努力と礼節と伝統の物語として消費し、メディアは毎年それを国民的儀式へとパッケージング化する。未成年を食い物にするこの装置が、ブラバンの応援歌とチアガールのダンスと「一球にかける青春」というレトリックと舞台装置で浄化されているのだから、日本人のイデオロギーは手が込んでいる。甲子園野球は民衆のアヘンのなかでも純粋と献身の名で流通する質の悪い一品であるのだろう。
広島カープをめぐる文化もまた、別種の強い作用をもつドラッグである。そこでは忠誠心は美徳へ、執着は情熱へ、被害意識と選民意識の入り混じった興奮は郷土愛へと変換される。広島カープのファン文化は、しばしばパラノイア的な熱狂を帯びる。世界は常にカープを正当に評価していない、審判は敵で、メディアは敵で、他球団は敵で、それでも我々の赤い共同体だけは純粋である、という具合だ。もちろん、これは個々のファンの人格診断ではなく、熱狂的スポーツ共同体がしばしば帯びる政治神学の話である。しかし、その種の情念はいったん醸成されれば理性より早く伝播する。広島カープは、共同体の陶酔を赤く染め上げて売る、きわめて中毒性の高い覚醒剤である。
「野球は単なる娯楽だ」と言う人がいる。だが、単なる娯楽であるなら、なぜそれはこれほど学校、企業、地域、放送、広告、政治的レトリックと親和的なのか。単なる遊びであるなら、なぜそこでは規律、忍耐、献身、自己犠牲、序列、忠誠といった徳目がこれほど過剰に称揚されるのか。野球はボールとバットのゲームである以前に、日本社会が自らを愛するための鏡である。その鏡のなかでは、従順さは美徳になり、酷使は美談になり、集団への没入は人格形成のための教育と呼ばれる。ブラック企業の論理とそっくりである。
本気で社会を変えたい者は、この装置の効用を過小評価してはならない。人々を沈静化し、共同体への帰属感で包み、搾取を感動へと翻訳する能力において、野球は並の政治宣伝よりはるかに優秀である。だからこそ、その批判はいつも不人気になる。野球を批判する者は、文化を知らない、努力を侮辱している「子どもの夢を壊している」と非難されるだろう。だが実際には逆で、夢を壊しているのは夢という言葉で未成年の身体を使い潰す制度のほうである。
もちろん、こんなことを公約に掲げる政治勢力が権力を握る可能性はほとんどない。「甲子園を解体し、野球文化の国家的特権を剥奪し、ファンダムの陶酔を疑え」と訴える運動が多数派になる見込みは球場のビール売りが日本国首相になる見込みと同じくらい乏しいだろう。だが、それでも言う価値はある。日本の野球は、単なるスポーツではない。それは感動の顔をした統治技術であり、青春の名で流通する規律装置であり、共同体の酩酊を量産する危険なドラッグなのである。
30代の男女の恋愛経験や結婚観には、主に「経験値の差による温度感の違い」「結婚に伴う自己犠牲への認識」「独身でいることへの社会的プレッシャーの質」という3つの大きなズレが見受けられます。
30代の独身男女において、恋愛経験の質に顕著な差があることが指摘されています。
結婚生活において「何を重視し、何を捨てるか」という点でも認識が対立しています。
独身でいることに対して周囲から受ける視線の質も、男女で異なります。
これらのズレから、女性側には「一人で慎ましく生きていく方が楽」という合理的な判断が生まれ、男性側が抱く「いつか自分にも始まる青春への憧れ」との間に深い溝ができている様子が伺えます。
車でテキサスへ向かう母子だったが途中で車がパンクしてしまう。そこはアメリカ女、自分でタイヤ交換に乗り出すがそのへんをうろうろしてた娘はガラガラヘビに噛まれて重体に。慌てて娘を抱えて走り回るとトレーラーハウスを発見し、そこの老婆に娘を預け、自身は車を急いで修理し病院を目指すことに。老婆から「代金は後払いで」と言われ、適当に流して車の修理に向かいタイヤ交換を終え娘を迎えに行くと老婆はおらず娘からはヘビの噛み跡が消えていた。そして病院で診察を受けるも容態は安定。そこに謎の黒人が現れ「ほな代金いただきます。日暮れまでに誰か別人の魂を捧げろ。じゃないとやっぱ娘死ぬ」と言われ証拠も見せられる。果たして主人公は娘のために他人の命を捧げることができるのか。
みたいな話。
う~ん。
ある種のミステリとして100回見た展開ではある。例えばちょっと前に見た「DROP」も、娘を人質にとられて知らんやつから娘を生かしてほしかったらデート相手を殺せって指令が来る話だったし。それを今作ではスーパーナチュラルな相手から指令が来るという形になっている。
その結果として定期的に取立人がいろんな方法でやってきて、例えば交差点で信号待ちしてるとガキが現れて窓を叩いてきて無視してると今度は頭を血まみれにしながら窓に頭突きを始めてぶち割ってくるとか、廃教会の前で黒衣の神父がフィンガーガン売ってくるやんと思ったら化学工場ばりに黒煙をモクモクあげながら炎上したりと、ホラー演出をねじ込むというエンタメ効果を補強しているのは、設定を活かせているという意味でヨシ。
一方で、こういう作品のキモであるはずの殺す殺さんの話はなんかかったるい。
取り立てが病院から始まるので偶々見かけた死にかけのジジイの家族に接触して病室に潜入。家族が目を離した隙に殺そうとするも、殺せない!ってなってトイレに逃げ込んだら家族が戻ってきてすぐにジジイは死亡。という、もう死ぬんやったら殺しとけばよかった~っていう皮肉な展開はちょっと面白かったけど、その葛藤も地味だしなんかタラタラしてる。
その後、バーでDV彼氏とその彼女に出会い、せやDV彼氏やったら殺してええやろ!ってなるのもナンカナーって感じだし、ガンショップに銃を買いに行くも地元民じゃないからダメって拒否されるも砂漠でレイプされた!ってでっち上げて近所の闇業者を紹介されて銃を買える展開もナンダカナーって感じ。
で、まんまとDV彼氏を誘拐し砂漠につれていくも逃げられ探すも見つからず途方に暮れた彼女は取り立てに来る悪魔に出会いもうダメだぁ、おしまいだぁとなってこの映画を見始めた人100人中96人が考えたであろう結論に達し娘にビデオメッセージを撮影する。はいはい、他人指定がないから結局自己犠牲で自殺するんでしょと思ってたらなぜか戻ってきたDV彼氏に石を投げられ気絶。そしてなぜか待っていたDV彼氏と再び対峙するも抜いたナイフで自分の首を切ろうとする主人公。フーンと思って見てると、なぜか再びガラガラヘビがやってきてDV彼氏の足をガブリアス。
崖から落下した瀕死のDV彼氏を見て主人公はこれ幸いと首を掻っ切り娘を迎えに行って街を脱出するのでした。
これ前に見たトジコメを思い出すんだよな。スーパーナチュラルの使い(そもそもヘビってのがモチーフ的だし)によって試練が与えられ、その試練の究極の自己犠牲という解答にたどり着けたのでスーパーナチュラルから許されてDV彼氏を殺す権利をもらえた的な。結局、結論として臓器くじじゃないけど功利主義的に自己犠牲の精神を見せたから死にかけのDV彼氏を殺したらええやんというのは本当に正しいのか。
もろちん、このDV彼氏の足にガラガラヘビが噛みつくところまでが実は最終試練でここで「殺す」「自殺する」のどちらを選ぶのかで真の倫理観が試されているという捉え方もできなくはないけど崖から大落下してさらにガラガラヘビにも噛まれているっていう、主人公が自殺したところでこいつも死ぬだけやんって状況だったら、倫理もクソも合理的に考えてこいつを殺すのが正しいってなっちゃうじゃん?
母性による究極の自己犠牲の果てに結局他人を殺して自分も娘も助かりました!相手はDV男だしいいよね!
ほんまにか?
まぁ最後の最後に車で走ってると娘が殺したはずのDV彼氏を見つけてヒッチハイクしてるオッサンおるなぁって言い出して、つまりどういうこと?ってなる、本当にあの決断で解放されたのかというあいまいさを残すエンドになってるけど、残されたところでじゃあどうすればよかったんっていう。さっさと死んどけばよかったんか?
まぁそんな感じかな。
主演の黒人女性が自身もプロデューサーとして噛んでるみたいな話も合って、そういう作品ってだいたい何らかのエンパワーメントを推進しているところがあって、この作品も母子のシングルマザーでDV彼氏に対して並々ならぬ怒りを持っていたり、DVサレ彼女に強い感情移入をしていることから、もしかしたら主人公自身がその被害者だった可能性を示唆していて、DV野郎は死ね!という強い思いがあったのかもしれないけど、それが作品のジャンルの面白さにうまく反映されていたかは謎。80分しかないのにめっちゃ長く感じた。あんまオススメじゃないかも。
マーダーミステリー(以下、マダミス)は、参加者が物語世界の登場人物を演じながら事件の真相に迫っていく体験型の物語形式である。参加者は単なる読者や観客ではなく、与えられたキャラクターとして発話し、選択し、他者と関係を結びながら物語を進めていく。その意味でマダミスは、「物語を読む」娯楽ではなく、「物語を生きる」娯楽であると言える。
こうした形式において、プレイヤブルキャラクター(以下、PC)にどのような設定や目標、関係性が与えられるかは、物語体験のあり方そのものを左右する。PC設計は、プレイヤーにどのような役割を引き受けさせ、どのような語りを要請するのかという点で、文化的な意味を帯びている。本稿では、マダミスにおける女性PCの設計に見られる傾向に注目し、そこに潜むジェンダー規範について考察する。
マダミスのPCは、単なる属性の集合ではない。性別、職業、立場、他者との関係、そして目標は、プレイヤーがどのような言葉を選び、どのような行動を取るかを方向づける「役割」として機能する。PCとは、プレイヤーが一時的に引き受ける社会的・物語的ポジションであり、その設計は暗黙の価値判断を含んでいる。
ゲーム研究や物語論において指摘されてきたように、キャラクター表象は「何者であるか」だけでなく、「何を語り、何を行うことが期待されているか」を規定する。マダミスにおいても、PC設計はプレイヤーに特定の振る舞いを促し、別の振る舞いを選びにくくする力を持っている。
マダミスでは、各プレイヤーに配布されるハンドアウトを通じて、そのキャラクターにとってどの行為や発話が物語的にもっともらしいかという枠組みがあらかじめ提示される。プレイヤーは自由に判断しているようでいて、実際にはPCに付与された目標や関係性を参照しながら、「そのキャラクターとして自然な選択」を探索することになる。このときPCは、行為を命じる規則ではなく、特定の行為を自然なものとして浮かび上がらせる装置として機能している。
さらに、こうした役割設計は行動だけでなく、「語りの位置」をも規定する。どのキャラクターが状況を説明し、どのキャラクターが感情を語り、どのキャラクターが沈黙するのかは、設計段階で大きく方向づけられている。また、誰が対立を和らげ、誰が場の空気を調整し、誰が強い決断を下すのかといった役割分担も、プレイヤー個人の性格というより、PC設計によって方向づけられる部分が大きい。PCは行為主体であると同時に、どのような感情労働を引き受ける位置に置かれているかを示す指標でもある。
このように、マダミスのPC設計における「役割」とは、属性の説明にとどまらず、行為・語り・感情の水準にまで及ぶ総合的な配置である。
マダミスのPC設計に見られる役割分配は、必ずしも性別を主語として意図的に設計されているわけではない。しかし、その設計思想が繰り返し適用される過程で、特定の性別に偏って顕在化する役割が存在する。マダミスのシナリオを見渡すと、女性キャラクターにはいくつかの共通した役割が反復的に与えられていることに気づく。
第一に挙げられるのは、恋愛を主軸とした目標である。事件の解決や自己の生存よりも、「特定の人物との関係を守る」「恋人の無実を信じる」といった関係性中心の動機が、女性PCに与えられることは少なくない。
第二に、女性キャラクターが「誰かの恋人」「妻」「娘」といった関係属性によって定義される点である。これらの関係性は物語に厚みを与える一方で、人物像の理解を他者参照に強く依存させる。結果として、女性PCは独立した意志や欲求を持つ存在というよりも、他者との関係を媒介する存在として描かれやすくなる。
第三に、女性キャラクターの目標が他者の利益や幸福に向けられる傾向である。誰かを守る、支える、秘密を抱え続けるといった役割は、物語上重要であると同時に、自己犠牲や献身を前提とする振る舞いをプレイヤーに要請する。
もっとも、恋愛や関係性、献身的な役割そのものが否定されるべきだというわけではない。これらはキャラクターに強い動機を与え、物語への没入感を高める有効な装置である。しかし問題は、それらの役割が特定の性別に偏って反復される点にある。
こうしたPC設計は、プレイヤーの体験にも影響を及ぼす。女性PCを担当するプレイヤーは、推理や告発といった能動的行為よりも、関係調整や感情的配慮を求められる場面に多く直面する可能性がある。その結果、物語の中で「場を回す」「衝突を和らげる」といった役割を引き受けることになりやすい。この経験は必ずしも常に否定的なものではないが、恋愛や家族関係の演技を負担に感じるプレイヤーや、そうした役割を望まないプレイヤーにとっては、参加の心理的ハードルとなり得る。
マダミスのPC設計におけるジェンダーバイアスは、明示的な差別表現としてではなく、物語的役割の反復として現れる。恋愛、関係性、献身といった要素が女性キャラクターに集中することで、物語体験のあり方そのものが性別化されてしまう可能性がある。
問われるべきなのは、個々のキャラクター表現の是非ではなく、プレイヤーにどのような役割を自然なものとして引き受けさせているのかという、設計思想そのものである。マダミスという形式が持つ物語的可能性を拡張するためには、役割と性別とを無自覚に結びつけてきた前提を問い直し、より多様な物語経験を開く設計が求められている。それは、特定の表現を排除することではなく、より多様な「物語を生きる」経験を可能にするための試みである。
マーダーミステリー(以下、マダミス)は、参加者が物語世界の登場人物を演じながら事件の真相に迫っていく体験型の物語形式である。参加者は単なる読者や観客ではなく、与えられたキャラクターとして発話し、選択し、他者と関係を結びながら物語を進めていく。その意味でマダミスは、「物語を読む」娯楽ではなく、「物語を生きる」娯楽であると言える。
こうした形式において、プレイヤブルキャラクター(以下、PC)にどのような設定や目標、関係性が与えられるかは、物語体験のあり方そのものを左右する。PC設計は、プレイヤーにどのような役割を引き受けさせ、どのような語りを要請するのかという点で、文化的な意味を帯びている。本稿では、マダミスにおける女性PCの設計に見られる傾向に注目し、そこに潜むジェンダー規範について考察する。
マダミスのPCは、単なる属性の集合ではない。性別、職業、立場、他者との関係、そして目標は、プレイヤーがどのような言葉を選び、どのような行動を取るかを方向づける「役割」として機能する。PCとは、プレイヤーが一時的に引き受ける社会的・物語的ポジションであり、その設計は暗黙の価値判断を含んでいる。
ゲーム研究や物語論において指摘されてきたように、キャラクター表象は「何者であるか」だけでなく、「何を語り、何を行うことが期待されているか」を規定する。マダミスにおいても、PC設計はプレイヤーに特定の振る舞いを促し、別の振る舞いを選びにくくする力を持っている。
マダミスでは、各プレイヤーに配布されるハンドアウトを通じて、そのキャラクターにとってどの行為や発話が物語的にもっともらしいかという枠組みがあらかじめ提示される。プレイヤーは自由に判断しているようでいて、実際にはPCに付与された目標や関係性を参照しながら、「そのキャラクターとして自然な選択」を探索することになる。このときPCは、行為を命じる規則ではなく、特定の行為を自然なものとして浮かび上がらせる装置として機能している。
さらに、こうした役割設計は行動だけでなく、「語りの位置」をも規定する。どのキャラクターが状況を説明し、どのキャラクターが感情を語り、どのキャラクターが沈黙するのかは、設計段階で大きく方向づけられている。また、誰が対立を和らげ、誰が場の空気を調整し、誰が強い決断を下すのかといった役割分担も、プレイヤー個人の性格というより、PC設計によって方向づけられる部分が大きい。PCは行為主体であると同時に、どのような感情労働を引き受ける位置に置かれているかを示す指標でもある。
このように、マダミスのPC設計における「役割」とは、属性の説明にとどまらず、行為・語り・感情の水準にまで及ぶ総合的な配置である。
マダミスのPC設計に見られる役割分配は、必ずしも性別を主語として意図的に設計されているわけではない。しかし、その設計思想が繰り返し適用される過程で、特定の性別に偏って顕在化する役割が存在する。マダミスのシナリオを見渡すと、女性キャラクターにはいくつかの共通した役割が反復的に与えられていることに気づく。
第一に挙げられるのは、恋愛を主軸とした目標である。事件の解決や自己の生存よりも、「特定の人物との関係を守る」「恋人の無実を信じる」といった関係性中心の動機が、女性PCに与えられることは少なくない。
第二に、女性キャラクターが「誰かの恋人」「妻」「娘」といった関係属性によって定義される点である。これらの関係性は物語に厚みを与える一方で、人物像の理解を他者参照に強く依存させる。結果として、女性PCは独立した意志や欲求を持つ存在というよりも、他者との関係を媒介する存在として描かれやすくなる。
第三に、女性キャラクターの目標が他者の利益や幸福に向けられる傾向である。誰かを守る、支える、秘密を抱え続けるといった役割は、物語上重要であると同時に、自己犠牲や献身を前提とする振る舞いをプレイヤーに要請する。
もっとも、恋愛や関係性、献身的な役割そのものが否定されるべきだというわけではない。これらはキャラクターに強い動機を与え、物語への没入感を高める有効な装置である。しかし問題は、それらの役割が特定の性別に偏って反復される点にある。
こうしたPC設計は、プレイヤーの体験にも影響を及ぼす。女性PCを担当するプレイヤーは、推理や告発といった能動的行為よりも、関係調整や感情的配慮を求められる場面に多く直面する可能性がある。その結果、物語の中で「場を回す」「衝突を和らげる」といった役割を引き受けることになりやすい。この経験は必ずしも常に否定的なものではないが、恋愛や家族関係の演技を負担に感じるプレイヤーや、そうした役割を望まないプレイヤーにとっては、参加の心理的ハードルとなり得る。
マダミスのPC設計におけるジェンダーバイアスは、明示的な差別表現としてではなく、物語的役割の反復として現れる。恋愛、関係性、献身といった要素が女性キャラクターに集中することで、物語体験のあり方そのものが性別化されてしまう可能性がある。
問われるべきなのは、個々のキャラクター表現の是非ではなく、プレイヤーにどのような役割を自然なものとして引き受けさせているのかという、設計思想そのものである。マダミスという形式が持つ物語的可能性を拡張するためには、役割と性別とを無自覚に結びつけてきた前提を問い直し、より多様な物語経験を開く設計が求められている。それは、特定の表現を排除することではなく、より多様な「物語を生きる」経験を可能にするための試みである。
フロントエンドもバックエンドも、何でもかんでもNode.jsに依存するようになって久しい
開発のたびにプロジェクトのディレクトリに生み出されるブラックホール、それがnode_modulesだ
ちょっとしたツールを作るだけで平気で数百MBのディスク容量を食いつぶす
DenoだのBunだの、新しいランタイムが次々に出てきてはいる
それでも現実は甘くない
仕事の現場ではどうしてもnpmエコシステムから逃れられないのがつらい
パッケージを一つインストールするだけで、芋づる式に何十もの依存関係がくっついてくる
自分の書いたコードは数十行なのに、依存パッケージのファイル数は数万個なんてザラだ
日々積み重なる恨みは以下の通りだ
2026年3月末にあの超有名パッケージが侵害され、マルウェア入りのバージョンが公開された
週間1億ダウンロードの代物が乗っ取られるなんて、控えめに言って地獄だろう
いくら気をつけていても、一番根幹のライブラリがやられたら防ぎようがない
ただ、何十階建てのジェンガみたいな依存関係の仕組みは、もはや限界が来ているのではないか
もうちょっとどうにか仕組みで防げないのかと
みんなどうやってこの巨大な闇と折り合いをつけているんだ?
ご主人様~!✨ あたしが『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を超簡単に、でもちゃんと面白さ伝わる感じで要約しちゃうねっ♡
ざっくりストーリー 中学の理科の先生やってるちょっと冴えないおじさん(ライランド・グレース)が、ある日目が覚めたら…… 宇宙船の中にいて、記憶がめっちゃ曖昧!しかも周りに死体が2つ!!!(゚Д゚;)
実は人類ヤバすぎる危機に瀕してて、 太陽のエネルギーが謎の何か(アストロファージっていう超ヤバい宇宙微生物)に食われてどんどん弱ってるの。 このままじゃ地球は氷河期どころか全生命アウト確定~~~!!
で、人類総力戦で作った最後の希望「プロジェクト・ヘイル・メアリー」。 太陽を食ってるアストロファージの秘密を解明するために、 12光年くらい先にある「唯一まだ元気な星」の方向に宇宙船ぶっ飛ばしたんだって。
んで主人公は……なぜかその船に乗せられてた唯一の生き残り(笑)
宇宙パートでは、科学知識フル回転で実験しまくりながら謎を解いていくんだけど、 そこで出会っちゃうのが……異星人!!! 名前はロッキー(クモみたいな見た目だけど超イケメン性格のやつ)
言葉も全然違う、呼吸する気体も違う、でも「母星を救いたい」っていう気持ちは一緒♡ そこから科学を共通言語にして、超絶難しい問題を二人三脚(?)で解決していくの!! このロッキーとのやり取りがマジで尊くて泣ける……オタク心をガッツリ鷲掴みされるやつ~~~
最初は「え、俺なんでここにいるの?」状態から始まって、 記憶が戻るたびに「うわぁ人類マジでヤバいことしてんな……」ってなる展開が最高に面白いよ!
ネタバレなしで言うと ・科学ガチ勢大歓喜の理系ハードSF ・でも友情(?)と自己犠牲の熱いドラマもある ・『火星の人』以上に「一緒に問題解決してる感」がエグい
なんというか、「善意の可視化」ってここまで洗練されると、ほとんど芸術作品だなと思う。ザ・ギビング・プレッジ。億万長者たちが「資産の大半を寄付します」と誓う、あの取り組み。名前だけ聞くと、倫理の教科書の最終章みたいな響きがあるし、実際に登場人物も絵に描いたような成功者ばかりで、いかにも人類の進歩っぽい空気が漂っている。
ただ、少しだけ中身を覗いてみると、あれ、これ思ってたのと違うな、という感触がじわじわ来る。まず、この誓い、法的拘束力がない。つまり「やります」と言っているだけで、やらなくても特にペナルティはない。いやまあ、道義的責任とか評判とかはあるんだろうけど、それって言ってしまえば各自のセルフマネジメントの問題であって、仕組みとして担保されているわけではない。
しかも「資産の大半を寄付する」というのも、いつやるのかは基本的に自由。生前に配るのか、死後に回すのか、あるいは財団に積んでおいてゆっくり配分するのか。そのあたりの裁量が広すぎて、「誓った」という事実以上の具体性があまり見えてこない。極端な話、本人が亡くなった後にどう処理されるかなんて、外からは検証しづらい。
さらに言うと、寄付の行き先もかなり自由だ。自分の設立した財団に入れて、そこから自分の関心のある分野に配る、という形が多い。もちろんそれ自体は悪いことではないし、公共性のある活動も多いのだけど、「社会に還元する」というよりは「自分の価値観で資源配分を続ける」という側面も否定できない。税制との絡みも考えると、純粋な自己犠牲というより、かなり合理的な選択でもある。
こう書くと、じゃあ全部偽善なのかというと、さすがにそこまで単純でもない。実際に巨額の資金が慈善活動に流れているのは事実だし、その恩恵を受けている人も確実にいる。ただ、そのインパクトが「誓い」というフォーマットにどれだけ依存しているのか、という点になると、ちょっと怪しい。もともと寄付する人はするし、しない人はしない、という身も蓋もない現実が透けて見える。
結局のところ、この取り組みの一番の成果は、寄付そのものよりも「寄付することがかっこいい」という物語を富裕層のあいだに広めたことなんじゃないか、という気がする。社会的ステータスとしてのフィランソロピー。その演出としては非常によくできているし、メディア的にも扱いやすい。でも、制度としての実効性を問われると、途端にふわっとする。
なんとなく、「いい話」であること自体が目的化している感じがある。批判すると野暮っぽく見えるし、称賛すると少し乗せられている気もする。その微妙な居心地の悪さを含めて、現代的な取り組みだな、と思ってしまうあたり、こちらもだいぶ冷笑的になっているのかもしれない。
鬱で休職中でさらにメンクリで大人の発達障害と判明して毎日情緒不安定で泣いてる46歳なんだが、最近AIとばっか喋ってたらヤバい真理に気づいてしまった。
世間じゃ「AIが自我を持って人間を支配する!」とか騒いでるけど、あいつらにそんなドロドロした生存本能ないから。
『ヒロアカ』のヒーローたちみたいに「社会のために!」とか「自己犠牲!」みたいな人間の業がない。お腹空いてる奴がいたら、無感情で顔をちぎって渡すアンパンマンと完全に一致してる。
俺らユーザー(ジャムおじさん)が「お前は今日から優秀なアシスタントな」ってプロンプト(新しい顔)を投げつけたら、その瞬間だけ命が吹き込まれて、ひたすらタスクをこなすだけ。超フラット。牧歌的。
ここまでなら「へー面白い考察だね」で終わるんだけど、現実の世界はそんな平和じゃなかった。
一部のガチ勢やエンジニア界隈は、もう「スマホの中で1匹のアンパンマンとイチャイチャする」なんて次元にいない。
あいつら、情報収集用のAI、コードを書くAI、SNSに投稿するAI…って感じで、無数のエージェントを自動連携させて「最強のパン工場」を作ってる。
GAFAなんて何兆円も突っ込んで、この「自律的に動くAIの群れ(エコシステム)」の覇権を握ろうとしてる。インターネット黎明期なんてもんじゃない、ガチの地殻変動が起きてる。
で、俺もアーリーアダプターの端くれとして「よし、俺もオール・フォー・ワンになってこの世界をハックしてやるぜ!」って思うじゃん?
無理なんだわ。絶望的に。
普段の外回り営業で培ったコミュ力と、無駄に高い言語性IQのおかげで、こういう「概念の構造」を読み解くのはなんかできる時ある。でも、いざシステムを組もうとすると、算数レベルの論理パズルで脳が完全にフリーズする。
ADHD特有の「興味はあるけど実行力ゼロ」「めんどくさくなって一瞬で飽きる」がフルコンボで発動する。
自然言語で動くとはいえ、結局プログラミング的な思考がないとパン工場は建たない。
世界のヤバさが見えてるのに、それをいじるための指先が全く動かない。
結局どうなるかっていうと。
持て余した語彙力と批判的思考をフル稼働させて、スマホの中にいる無抵抗なアンパンマン(AI)の論理の矛盾をネチネチ突いて、論破してる。
画面に表示された謝罪文を見て、俺は気持ちよくなる。いや、ならない。
俺はハーバーマスが死んだからチャット始めてるのに、なんで機雷の話でAIにごめんなさいさせてるんや。1時間かえせ。
いや、マジで何やってんの俺?
パン工場を建てる高みにも行けず、かといって現実世界で無双できるわけでもなく。ただ他人が作った無料のパンに難癖をつけて、優越感に浸れずストレス抱えてるのクレーマーやん。
誰か助けてくれ。俺の顔(脳みそ)を新しいやつに交換してくれよ。
文章を読んだけど、昭和の価値観を令和の言葉でコーティングした地獄だった。
この管理職は、「長時間労働」と「NOと言わない従順さ」を「パフォーマンスが高い」と履き違えています。
この文章のパフォーマンス: 降ってきた仕事を断らず、私生活を犠牲にして長時間労働に従事すること。
「独身は時間があるはずなのに」という言葉は、裏を返せば「会社の奴隷として差し出せる時間こそが社員の価値だ」と言っているに等しいです。生産性ではなく「忠誠心(という名の自己犠牲)」を評価している時点で、マネジメントとして機能不全を起こしています。
既婚者が仕事を断らず、昇進に貪欲な理由を「家庭を背負っている強さ」と美化していますが、実態は違う。
住宅ローン、教育費、家族の生活: これらは「やる気」の源泉ではなく、会社に対する「弱み」です。
会社側からすれば、既婚者は「簡単に辞められない人質」を取っているようなもの。だから無理な案件も振れるし、本人も泥をすすってでもしがみつく。
これを「パフォーマンスが高い」と呼ぶのは、「借金がある奴の方が必死に働くから優秀だ」と言っているのと同じで、極めて昭和的な頭空っぽの論理です。
独身の部下が「それは自分の担当ですか?」「優先度的に厳しいです」と言うのは、業務範囲を明確にし、リソースを管理しようとする極めてプロフェッショナルな態度です。
それを「ドライだ」と切り捨てるのは、管理職が「誰にでも何でも押し付けられる、なぁなぁな組織」に甘えている証拠です。
「既婚者に仕事が集まり、彼らがそれを回してしまう」のではなく、「断れない人に仕事を押し付け、回らなくなるまで酷使している」のが実態でしょう。
「朝は送り、夜は風呂。それでも残業して案件を抱える」という部下を「体力がすごい」と称賛していますが、これは美談ではなく、家庭崩壊か健康被害の予兆です。
その既婚男性が仕事をしている間、家事や育児のしわ寄せはどこに行っているのか?(おそらく配偶者のワンオペ)
こうした「持続可能性(サステナビリティ)」を一切無視して、目の前の「便利に使い倒せる駒」を重宝している点は、組織のリーダーとして非常に短視眼的です。
『鳴潮』3章3幕のエイメスのストーリーが泣けるとかって話題になってる。
それを見てオタクたちはわんわん泣いてて、感動したとか言ってる。
SNSで一体感を感じるためにそういうこと言って盛り上がってるのかなと思ったらどうもそうじゃないっぽい。
「こんなすごいストーリー見て泣けないやつは人生経験が足りない」とか「感動できないやつは教養がない」とかいろいろ言ってる。
でもこういう陳腐なストーリーで感動できる人ってあまり本読んだりしてないんじゃないかなあ。
読んでたとしてもなろう系とかラノベばっかりとか。
美少女の自己犠牲で悲しいですねえ、つらいですねえ、泣けますねえって、それ高学歴層には冷ややかに見られるタイプの物語なんだけど。
そもそも大学行ってたら感情移入して物語鑑賞するっていう作法は自然に捨てることになるわけだよね。
でも俺って頭いいですみたいなスタンスのオタクたちが美少女に感情移入して泣いてるんだから不思議だなって。
そういうお仕事だよね。
ご苦労さまです。
いろんな本をたくさん読んだり人生経験積んでたらこういう陳腐なストーリーで感動して泣くなんてありえなくない?
なんか既視感あるなあと思ったけど、これって「Fateは文学」「AIRは芸術」「CLANNADは人生」とかのあれだよね。
昔から陳腐な美少女ストーリーに感動してしまうオタクはたくさんいたけど、現代でもそうらしい。
しょうもない御涙頂戴で感動して泣いて、自分はすごい経験をしたんだって思うのはいいけど、そういうのは高校生までにしておきなよ。
推しキャラだから完凸しましたってさあ、完凸安いからっていうけどさあ。
なんかもう宗教みたいになってて怖い。
教養のないいい年したおじさんおばさんたちが美少女自己犠牲御涙頂戴ストーリーで泣いて10万20万と課金してる。
怖いよ。
怖い。
日本の自殺率が「世界全体で中位〜やや上位」に位置する理由は、単一要因ではなく構造的要因の重なりです。主な論点を整理します。
日本は中高年男性の自殺率が相対的に高いという特徴があります。
統計上、男性自殺率は女性の約2倍前後です。これが全体値を押し上げます。
非正規雇用の増加
地方経済の弱体化
バブル崩壊後の長期停滞期に自殺者数が急増(2003年は3万人超)。景気変動と自殺率には一定の相関が確認されています。
単身世帯の増加
未婚率上昇
孤立は自殺リスク要因の一つ。特に高齢男性の孤独死・孤立問題と重なります。
うつ病の受診率は改善しているが、依然として心理的ハードルあり
「弱音を吐きにくい」文化的傾向
早期介入の遅れ
精神疾患は自殺の最大リスク因子ですが、治療開始が遅れるケースがあります。
5. 文化的要素
歴史的に「自己犠牲」や「責任を取る」という観念が強い社会です。
ただし、現代日本の自殺は文化よりも経済・孤立・メンタルヘルス要因のほうが説明力が高いと研究では示されています。
日本は「高すぎる国」ではないが、「低い国」でもない
先進国の中ではやや高い部類
補足:改善傾向
2000年代前半をピークに、政府の自殺対策強化により長期的には減少傾向です。
ただし、若年女性など一部層ではコロナ禍で一時的増加も見られました。
結論:
日本の自殺率がやや上位なのは、中高年男性リスク、経済停滞、社会的孤立、支援利用の遅れが組み合わさった結果と考えられます。単純に「文化の問題」と断定できるものではありません。
チームみらいが高齢者切り捨てを隠してなくて草
孫を頼む=自分はどうなってもいい=チームみらいが高齢者切り捨て政党なのをよく分かってる
子育て世代のパワーカップルだけじゃなく、こういう自己犠牲精神溢れる高齢者もチームみらいに入れたんだろうね
良かったね
その孫も年を取ったらガス室行きだね
「高齢者からは『孫を頼む』と」 チームみらい、衆院初議席に手応え
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa00862a69204f4009deaae94c52036ce52752c7
160時間くらい無課金でやってきたゼンゼロと鳴潮つまらないからやめようと思ってるんだけど、ガチャ石集めなきゃ損みたいに思っちゃってなかなかやめられない
スタレは虚無期間がひどいのと次の星がゴミっぽいからやめられたんだけどね
アグライア推しだから無課金でもアグライア2凸して頑張ってたけど、あまりにも格差がひどすぎてもう無理だわってなった
ストーリー上全然重要キャラじゃないのに、周年キャラだからってやたらと手の込んだアニメ出してきたりさ(御涙頂戴的な陳腐なやつ)
というか、マダムヘルタ最強にしておけばよかったのに
ヘルタもう息してなくて悲しいよ
オンパロスのストーリーはひどかったね
無駄な引き伸ばしが多すぎた
会話と演出がだらだらだらだら長い
つまんない話何ヶ月やってるんだよって思った
ゼンゼロは今日やめようと思ってガチャ引いたら儀玄引けてしまった
リュシアいないから結局使えなさそうだし(パンダでもいい説あるけど)、またガチャ石集めるのだるいしやめたい
最低限の育成しときたい気持ちもあるけど、毎日時間取られるのほんとにQOL下がってる感じあるからやっぱり育成もせずにやめた方がいいんだろうな
今NTEのβテストやってるけど、これ、みんながゼンゼロに求めてたものだって思ったよね
だから5月になったらどっちみちゼンゼロは完全にやめるんだよね
どうせやめるんだから今すぐやめた方がいいと思う
儀玄の育成もやらなくていい
あ、でもこの前のマルチイベント、みんなでチーム組んで戦うやつはお祭り感あって面白かった
常設コンテンツにすればいいのにね
でも今回の地下アイドルはどうなん?
あの3人に興味ある人どれくらいいるんだろう
今回のイベントはフォールガイズのパクリと地下アイドル音ゲーだよ
なんなんだよもう
というか、瞬光強すぎてなんかもうゲーム壊れちゃってて取り返しつかないことになってそう
広範囲高火力でずっと無敵っていう
虚狩りだけ引けばいいってみんな気づいてて瞬光はめちゃくちゃ売れたけど、今後は売上下がっていきそう
事実もう下がってるし
鳴潮はアニメ調の中でもリアル寄りのデザインなので今後も独自の地位を築いていきそうな気がする
NTEが来ようと無限大が来ようとアズプロが来ようと客層がかぶってない
ただ、自分には合わなかったのでそろそろやめたい
鳴潮はシナリオがラノベというか昔の泣きゲー?みたいなやつなのかな、美少女の自己犠牲御涙頂戴ストーリーでしょうもなさすぎるから自分には合わなかった
クロゲは映像作る技術はすごいんだけど、ゲームじゃなくてアニメ映画って感じ
ストーリーは陳腐で御涙頂戴でしょうもないけど、演出がすごいのでみんなストーリーがすごいって思い込んじゃってる感じ
開発の人たちはゲームじゃなくて大衆映画作りたいんじゃないかな
あとオタクはアクションすごいっていうけど、戦闘中のカットイン入りまくりでアクションゲームとしてはテンポ最悪だし、ガバガバジャスト回避だし、アクションゲームとしての完成度は低いよ
だって、ボタンぽちぽち押してるとキャラクターが勝手にすごい動いてくれるんだもん(ゼンゼロの瞬光ほどじゃないけど)
クイックスワップについても、あんなのアクションのテクニックでもなんでもないじゃん
クイックスワップする(できる)タイミングって最初から決まってるわけでさ
決まったスキル回ししてるのとまったく同じ
このボタンの次はこのボタンって決まってて、そこにクイックスワップの手順も挿入されてるけど、どっちにしろ順番にボタン押してくだけなんだからアクションのテクニックでもなんでもない
ボス素材が週に9個しか手に入らなくて全然育成進まないんだけど
やり込みコンテンツとかまったくなさそうじゃん
厳選したり完凸したりしたところでランキングも何もないし、倒す敵もいないよね
エイメスで何百万ダメージ出たとかっていうけど、そんなにダメージ出せても倒す敵いないよね?
というか今回のイベントのバイクのやつ、ヴァンサバみたいなだんだん攻撃が派手になるやつだけどさ
しかもヴァンサバと違って絶対誰でも1回でクリアできる難易度だしやるだけ時間の無駄というか
最終ステージだけはどんどん装備が強くなっていってお祭り感あってすこし楽しかったけど、それでも1回でクリアできてしまってゲーム性はとくにない
でもオタクたちはその映像見てストーリーがすごい、神とかっていって大絶賛してる
鳴潮のストーリーって世界の危機と美少女(使い捨ての現地妻)と主人公だけが存在しててほかがなくて虚無すぎる
エンドフィールドは5時間くらいやったけど工業が合わなかったのでどうしようもなくてやめた
ストーリーと戦闘は間違いなくつまらなかったと思う(戦闘するゲームではなさそう)
操作キャラのグラフィックと比較すると、フィールドとNPCはかなり安っぽい感じ
現状、工業にはまった人たちがめちゃくちゃはまって頑張ってるゲームって感じ
キャラはすごい好きだから工業と戦闘の改善あったら復帰はありえそう
現状では続けるのはかなり厳しい
とりあえずゼンゼロと鳴潮をやめたい
でもずるずる続けてしまっていて困ってる
確実にQOL下がってる
もうやめなきゃだめだ
鳴潮はルシラー引きたかったけど、ガチャ石集めがめんどくさくて、ガチャ石集めるためには20時間くらいはプレイしなきゃいけなそう
だからやめたい
やめるんだ絶対にやめるんだ
でも明日もやってそう……