はてなキーワード: 独身女性とは
https://anond.hatelabo.jp/20250303114828
私はモテない。
今まで自分よりモテない女性に会ったこともなければ、ネット上でも見かけたことはない。
そんな非モテ女からしてみても、世の女性達は非常に羨ましくある。
普通の女の人って、男性から何らかの恋心を抱いてもらったり、性的な目で見られたりって経験何かしらあるんだろう。
しかし私はない。
まるっきりない。
全然ない。
44年間なし。
ただ、性欲はある。
めちゃくちゃある。
しかし…
やはり男性と色々な事をしてみたい。
なので、10代の頃からありとあらゆるアプローチを繰り返して男性に突撃してみた。
そうやって10代、20代、30代と過ごし、立派な40代のキモくてカネのないBBAへと進化したわけだ。
30代の頃はよく男性をデートに誘い、誘った方が払うべきだと思い何度もご馳走した。
そして、デートの後は「今日は帰りたくない」とか「泊まっていく?」とか、
まあ、色々頑張ってみた。
自殺は何度も試みた。
首吊り、OD、リスカ、他にも色々やったが人様に迷惑をかけるような事もやってきたのであまり詳細は書かない。
性被害関連は一切無縁。
痴漢、セクハラ、性的な嫌がらせみたいなもの(具体的に何があるんだろう)の類に遭遇したことは一切なし。
18歳から東京に住んでいるので、田舎だから人が少ないとかそういう理論は成り立たない。
ちなみに田舎に住んでいた頃も知り合いの女子はほとんど痴漢とか変質者とかそういうのに遭っていたらしい。
私には一切誰も何もしてこなかった。
44年間性被害関連に一切無縁という事は、単に運が良かったとか隙がなかったとか、そういう理屈で片付けられるものとは思えない。
明らかに、私が世間から「女性」というカテゴリに入れて貰えなかったのだと思っている。
でも、私がモテないのは私に女としての魅力とか価値とかそういうのが一切無いからであって、
男性が悪いとは思っていない。
男さん好きだよ。
でもまあ、もう44歳だからな。
それでも、多分、ずっと、男さん好きだよ。
キモくてごめんな。
タイトル通り。マチアプでぼったくりに遭った…というか遭いかけた。
素人の文章よりこっちのほうがわかりやすいと思うので、この記事を読んでもらったほうがいいかも。
マッチングアプリ利用「ぼったくり」 被害者が語る手口とは | NHK
相手の女とマッチ成立。アプリ内でメッセージをやり取りする。互いのプロフィールを話のネタに、5往復くらいしたはず。
渋谷に軽く飲みに行こうという話になる。
今思うと、合う前から連絡先交換を提案してくる時点でおかしいと思うべきだった。
こちらはネットでググったマチアプ相手向けのちょっとオシャレな店を考えていたが、女から「職場の友人から勧めてもらった店がいくつかある」と提案された。
女の提案した店は2つで、1つ目は自分も知っているチェーン店の店。もう一つは「名前が思い出せないが場所はわかるダイニングバー」らしい。
そして、1つ目の店には事前に予約の電話を入れたが満席だったとのこと(今思うと実に巧妙な嘘だ)。
それならそのもう一つの店に行こうか、という話になり、店に向かう。
道中では現在の生活など他愛のない話をした。やたら饒舌でこちらに質問ばかりしてくるなと思ったが、こちらの警戒を解くための戦略だったのだろう。
個室と言っても普通の飲食店の個室のようなものではなく、カラオケ屋みたいな部屋。ソファの上には男の画像が貼られたシャンパンが並んでいる。
飲み放題が5000円。小さい文字でサービス料+20%、ショットは別料金(伏線)などの文字がメニューに踊る。フードは800円から2000円程度で、一人2品の注文が必要らしい。
注文が届いたが、ビールは明らかに安価な発泡酒の味で、フードもスーパーで買ってきたものをそのまま出したような味だった。
枝豆に至っては冷凍焼けしており、ほぼ腐りかけのような匂いがした。
この時点でこの店はヤバいと思ったが、女を信用しきっていたこともあり、「お前の友人よっぽどセンス無いな」くらいにしか思っていなかった。
雑談をしていると、途中で店員がトランプを持ってきた。女からブラックジャックで遊ぼうと提案される。そして、負けたら酒を一口飲もうとも。
そうこうしていると、女が酒のおかわりのために店員を呼んだのだが、これまで飲んでいたカクテルに加えて、ショットを30杯(!?)追加注文しようとした。
いやいや、流石にそれは頼みすぎだと制止し、一旦二杯だけ頼むことに。
この時点でも、俺はまだ女が店とグルだとは思っていない。アホ。
その後もブラックジャックを続けていると、女が電話に出るといって部屋を出た。
その隙にこの店について調べようとする…が、スマホの電波が入らない。
地下一階とはいえこんなに繋がらないことがあるだろうか(これももしかしたら、店内からネットにアクセスできないようジャミングとかしてたのかもしれない)。
しばらくすると女が戻ってきた。急用ができたので帰らないといけないらしい。自分もこのクソ店を早く出たいと思っていたので好都合だ。
お会計は22000円。支払いは現金のみ。サービスに対してあまりにも高いが、まあ渋谷だしそういうこともあるよなと思って支払うことに。
なお女は現金の持ち合わせが無く、半額をPaypayで送るとのこと。
自分もそんな現金は持っていないのでおろしてくると言うと、店員が最寄りのコンビニまで着いてきた。
支払いを済ませ、女と次に会う予定を決めて解散。
その後、やっぱりあの店おかしかったよなと思い調べるが、Google Mapに情報が無い。女に送ったPaypayのQRコードにも既読がつかない。
そしてマチアプのトーク画面からも女が消えている。おそらく相手からブロックされたのだろう。
ぼったくりに遭ったのかなと思い調べたところ、冒頭の記事が見つかった。
あまりにもそのままの手口なので、ここでようやく店と女がグルであったことを悟った。
流れとしてはこの記事で紹介されている手口と全く同じだったが、幸いなことに俺はショット30杯の注文を制止することができた。もしそうなっていなければ、俺も40万円を請求されていたのだろう。
が、それに失敗したことで、「こいつはカモにできねえ」と損切りモードに入り、ギリギリ常識の範囲と言えそうな22000円を請求してサッサと帰す方向に切り替えたのだと思われる。
マチアプ経由でそういう被害に遭うことがあるとは聞いていたが、まさか自分が被害者になるとは思ってもみなかった。
店は色々と雑で怪しいポイントが満載だったものの、最後まで女と店がグルだという発想に至れなかった。
俺がアホだというのはもう前提としてもらっていいのだが、にしても手口の巧妙さに驚いた。
もし俺が酒に弱かったら、あるいは女がもっと可愛かったら、ベロベロに酔っ払ってしっかり被害に遭っていたと思う。
22000円で済んで本当に良かった。勉強代としてギリギリ許容できる。
冒頭の記事と全く同じ手口だったが歌舞伎町ではなく渋谷での出来事だったので、俺の知らない世界で広く普及しているやり口なのだと思う。
女同士でぞろぞろつるんでる女相手に手出しは難しいし、何かしたら言いふらされて高速で女子ネットワークで伝達されてしまうからね
アンチフェミおじさんの私女だけどネカマ作文は基本女から孤立してる女設定
腐女子やジャニーズヲタとかツイフェミなどSNSで多数派でクラスタや派閥作る女が嫌い
昔はTwitterのフェミは少数しか存在しなかったが、現在は普通に過激フェミのポストが万バズしている状況
逆に表現の自由戦士の派生として存在していたアンチフェミの女性は姿を消した
男と無縁のミサンドリーフェミだったけど実在男性に触れて更生()しましたという設定に固執する
実際はネットやリアルで男に付きまとわれたり、相手してやったら増長される、自分を無条件で受け入れて奉仕しない女をネットリンチする等の言動にうんざりしてフェミ化というケースなのを受け入れられない
いやはてラボでクリックして流れてくるテキスト群見ても殆どがアンフェとかオタク男性の投稿だもの
嫌儲より女いない
そのせいで、30代独身女性くらいのマンスプレイニングしやすそうな女性を自称することによってバズる、というテクニックもあるんだよな
男や恋愛と無縁のオタクでオボコ娘なんだけど寂しいから結婚したい!でも男の人も結婚もよく知らないし怖い!はわわ…常にこんな感じのアラサー女設定
女だけど恋愛にもイケメンやBLに興味なくて孤立してるパターンと
去年の秋から家庭の事情で実家住まいのまま一人暮らしになった。
それまでは母ちゃんのつくってくれるお弁当を持って働きに行き、
食後には母ちゃんが買っておいてくれたシュークリームとかのおやつを週2ぐらいで食べていたが
できるだけ母ちゃんがつくってくれてたのと同じような料理をつくって
「そんなにできる子だったとは思わなかった」
と言われるぐらいにはレトルトなどを駆使して自炊している。おやつは食べなくなった。
(おやつは母ちゃんが私とティータイムしたさに買っていたもので、私はすごく食べたいというほどではなかったため)
お米は毎日1合~1合半炊いている。
昨日の晩ごはんは回鍋肉(クックドゥ使用、3~4人前の半量弱の分量)と味の素の冷凍餃子6個と茹でた南瓜2かけ(大葉入りマヨネーズを添えて)と白菜と卵としめじの中華スープと作り置きナムル少量とご飯1杯です。
結果、毎月1キロずつ痩せていき、
秋に61キロ(身長は160センチ)あった体重が今56キロしかない。
大丈夫でしょうか?
独身女性が自宅で「今日は忙しかったから帰宅したらすぐ赤いきつね食べちゃおう。気になってた動画見て泣いちゃったな。はふはふ、ずるずる、おいしっ」は想像できるが
元増田の論旨は別として
こういう共感を求めたCMなんじゃねぇの?みたいなのはあるんだよね
ぶっちゃけ、ゆるキャン△のカップヌードルカレーと比べて、飯テロだ買いに行かなきゃってCMじゃない
直接的CMじゃないんよ
けど男の方は直接的CMなの
あぁ、小腹空いたなに響く奴
でさ、女向けコンテンツって、男だしたらキラキラしたのになるじゃん
ヒロインにしたって、普通の狸顔って書かれてても美少女なわけよ
でも、自分らのそういう嗜好は、さて赤いきつねを攻撃するぞとなるとすっぱり忘れられてさ
「赤いきつね」CMへの批判は「性的だから」だけが原因で起きてるんじゃないよねという話
https://note.com/onomiyuki/n/n86698ec7fd05
女性たちから見たら全くもってリアルではない非実在女性が描かれていて、かつそれが「一人で『赤いきつね』食べる時のリアルを追求しました!」とでも言いたげな演出と共に提示されている。特に、対となる男性版のCMが、ある意味で「リアル」を追求しているように見えたため、その落差が際立ち、多くの女性たちが「こんな女いねぇよ」とツッコんでいるわけです。
みたいになるんだよね。
もう、女を出すだけでなんらか炎上させられるんだよ
キラキラしてなきゃ、キラキラしちゃだめなんですかって言えるし
キラキラしてたら、こんなキラキラしてるのおかしいって言えるし
どんな表現にどんな難癖をつけていたって、最終的にここまで撤退できる
【じょせいのえがきかたがうけいれられなかっただけ】
東洋水産の「マルちゃん赤いきつね緑のたぬき」アニメCMが軽く炎上した
それについては多くの意見があったが比較される男性側CMについて解析が足りない気がした
残業中の男性教員が暗い職場で仕事をしながら緑のたぬきを食べている
これに対して「男性は仕事」という古いステレオタイプだと批判があったが、そう単純だろうか
より正確にいうと「男性の衣食住マネジメントという私生活にポジティブなステレオタイプがない」という
「男性」には「独身男性」と「既婚男性」がいてCMの男性はおそらく「独身男性」だ
「忙しい独身男性が家で”緑のたぬき”を食べるシーン」を作り手が広告として表現できなかったのはなぜか
独身女性が自宅で「今日は忙しかったから帰宅したらすぐ赤いきつね食べちゃおう。気になってた動画見て泣いちゃったな。はふはふ、ずるずる、おいしっ」は想像できるが
独身男性が自宅で「今日は忙しかったから帰宅したらすぐ緑のたぬき食べちゃうか。気になってた動画見て泣いちゃったな。はふはふ、ずるずる、おいしっ」を想像できなかった
想像できてもそれをCMとして魅力的にできるという想定ができなかった
「頬を上気させ口元をクローズアップしシズル感たっぷりに表現」
が性的かどうかはおいて、シチュエーション自体はCMとして成立した
しかし、男性が自宅で一人で緑のたぬきを食べるシチュエーションは描けなかった
なぜか
もっと言うと「忙しい男性が食事など衣食住マネジメント=日常セルフケアを男性自身でする状況が
広告的に成立しないわびしさやみじめさのイメージという古い感覚が浸透している」からだ
お一人様丁寧な暮らしや友人近居で楽しく暮らす独身女性のイメージはポジティブに表現される だが
独身男性の日常家庭生活のポジティブなイメージはドラマ・アニメ・広告・その他メディアで共有されていない
「セルフケアを男性自身でする」というのは頭痛が痛いみたいでおかしいが
「男性の私生活ケアは女性がするものとされてきた」という背景があり、男性が自分の面倒をみる=
ケア担当の女性がいない=生活が不完全な状態、というイメージになる
実際は料理ができて家を綺麗にして自立した一人暮らしをしている男性は大勢いるのだが
マニュアル的で保守的な日本マスメディア界隈で描かれることは少ない
描かれるとしたらこだわりの強い特殊な男性としてで、一般人の代表ではないだろう
孤独のグルメ的な男性が自宅で緑のたぬきを食べて含蓄のある感想をいう広告の想像はできるが一般男性では難しい
一般男性が暗い部屋で一人、動画を楽しみ緑のたぬきを食べている、は
学生なら許容される未熟な状態で、社会人男性のイメージではない
そうやって作られたイメージが男性の生活を貧しくしているからだ
「女性は家でも綺麗にして衣食住マネジメントをしっかりしているもの」
「男性は女性が家にいないと衣食住マネジメントができず淋しくわびしい生活をしているもの」
そこから
「男性が衣食住マネジメントをできないのは仕事を頑張っているからだ」という転換がされ
そのイメージを守るため一部の長時間拘束や非生産的な労働が解消されず家庭生活を圧迫する
「女性が頑張って仕事をした結果衣食住マネジメントができないのはちょっとだらしない」けれど
「男性が頑張って仕事をした結果衣食住マネジメントができないのは仕方がないのでケア担当の女性がいないと」になり
「既婚男性が自宅で緑のたぬきを食べるのは妻が忙しくて夫の面倒も見られない手抜き」だし
「既婚女性が自宅で緑のたぬきを食べるのは(フルタイムや子育て中だろうが)自分の問題だが、夫はなに食べてるんだ?」になってしまう
「男性の衣食住マネジメント係として人生を消費されたくない」という女性の声が上がり負のループも生じる
ところで、CMには絶対にできないが男性が一人で自宅で緑のたぬきを食べる状況がわりと男性にポジティブに共感されそうなイメージがある
これだと「一人でも笑えるわびしさだし女性がその場にいないのは当然」だからですね
AVの中の女性が「男性にあてがわれた女性」として衣食住マネジメント担当女性の代わりにいるからです
家で男性の衣食住マネジメントをする女性は性的ケアも含む場合が多いので
本来は全く別である「セックス相手になる女性」「男性自身の衣食住マネジメント」が脳内で一つになり
「セルフケアできない男性」「ケアしてくれない女性を憎悪する」までいってしまう
「AVと緑のたぬき」と同ベクトルで無意識に女性は衣食住マネジメントおよび性的なケアをするものという男性目線を内包してしまったのが
「女性の私生活における赤いきつね」でもあると考えれば女性の不快感もわかる
男性が家での生活を女性抜きで成立させるポジティブなイメージがない、というのは男性自立における大きな問題だと思う
広告業界は卓球をかっこよく見せる、ボーリングをスタイリッシュに見せる、など
既存イメージをひっくり返す戦略を成功させてきたのだから「普通の独身男性の自宅生活を女性やホモソーシャル抜きで楽しくする」も挑戦してみてほしい
Xで文章を見ただけでも、何かおかしな人ってのは不思議と分かるものだな。
この人、おそらくは就職氷河期世代の独身女性で、言っている事そのものは共感できる部分もあるんだが、
とにかく立憲民主党、特にもうとっくに党首ではない枝野に対する粘着が怖いし
自分のポストを何度も何度もRPしているのにも異様な印象を受ける。
「多産」というワードをやたらと用いているが、そこに拘る意味がいまいち分からないというか、当人の頭の中だけで成り立っている理論がありそう。
この人、子供の数が二人の女性の事も「多産」認定しているようだし、
仮に子供の数が一人っ子だろうが子持ちは子持ちだと思うんだが、何故「多産」にそこまで拘るのか。
まぁ自分も人の事は言えないけどさ。
俺が5年位前まで目にしてたのは、
②ドライな独身女性OL(死語)が困ったような困らないような不愉快な体験(たいてい同僚がセクハラにならないようだが無神経な言葉を吐くとかのやつ。雨とか傘とかいうブログ名
③本出した奴(自分がものすごく不細工だったので泥棒とか痴漢とか落とし物をした人とかが逆に逃げたみたいな話をものすごく大げさに書く。書籍化されたとき仲のいい人に絵師をたのんだら編集が悪くてオチにたどりつくまえに挿絵でオチをばらされて読者からの書評が散々だったので②巻からはその挿絵師がはずされた)
有名ブログは最初おもしろいけど作風によっては飽きがくるので、おだやかな私生活ブログがよみたかったんだよ。
私生活切り売りアルファブロガーは大勢居たし今も居るけど、はてなでいえば、
くたびれはてこと障害持ちで警察官になったけどいびりだされた男性がけっこうトップにあがってたな。
結構手ひどくおもちゃにされてた(善意で、同情でアドバイスという名の貶しが山ほど届くやつ)よな。自業自得というよりフールペナルティ社会を感じてあまり……だった。
その理由は以下の通り
一方独身男性の平均寿命は顕著に低く、年金をもらう年齢まで生きることができない。
独身男性はすでに社会保険料が独身税として機能しているが、独身女性は社会保険にフリーライドしている。
独身男性の多くは経済的に余裕がないため独身になっている。わずかに残る高所得の独身男性は、結婚すると相手の女性を不幸にする性格の悪さなので、結婚させない方が女性のためになる。
一方独身女性の多くは経済的に余裕があるため独身になっている。
独身税を通して女性側に結婚インセンティブを作ることで、上昇婚を求めるメリットを消し、本来マッチングできる男女を結婚させることができるようになる。独身男性に独身税をかけることは、より独身男性が結婚できる可能性を減らすだけで無意味である。
特別キャリアアップを目指しているわけではない。ただ、人間らしい生活を送りたいだけだ。
けれど、今の職場ではそれすらも難しいと感じている。
体も心もすり減っていく毎日を送りながら、このままでいいのかと自問する日々だ。
働く中で気づいたのは、企業には確かに加害性があるということだ。
ここで言う加害性とは、過剰な労働を強いたり、労働環境の改善を怠ったりする、いわゆるブラック企業の問題だ。
その加害性が、私のような女性にとって、生きづらさの根本的な原因になっている。
私はただ普通に働いて生活したいだけなのに、企業はそれを許さないかのように、私たちの時間やエネルギーを奪い続けている。
さらに、私は独身であり、家庭を持つ予定も今のところない。だからこそ、職場での理不尽な扱いに一層敏感になる。
「独身だからもっと働けるでしょ」という言葉の裏には、私の生活や人生が軽視されている現実がある。
独身であることが、企業にとって都合のいい理由にされていることが悔しい。
これから独身女性が増えていく中で、女性が生きやすい社会を作るには、「家」の問題だけでなく「企業」の問題にも取り組む必要があると思う。
家庭の中で女性が背負わされてきた負担は、徐々に改善されてきたかもしれない。
しかし、職場ではどうだろうか。ブラック企業の加害性にさらされる女性たちは、誰にも声を届けられず、ただ耐えるしかない状況に追い込まれている。
これは一人ひとりの女性の問題ではなく、社会全体が直視し、変えていくべき構造的な問題だ。
女性が自由に働き、安心して暮らせる社会を作るためには、企業がその加害性を認識し、責任を持って労働環境を改善する必要がある。
才覚でナチスと共産主義の嵐を生きぬいた給仕のお話。経験から相手の本質を見抜き、最高のサービスをする、ってのは序盤だけで、あとは東欧諸国の悲惨な歴史の中で話が進む……はずなんだが、文章全体にユーモアが漂っていて、ナチス政権下でも結構いい思いをしていて、「歴史をこんな風に扱っていいのか?」とその大胆さに驚かされる。当事者だからいいのか? いや、そんなことはないのか? 最近は意外なことで炎上したり叩かれたりするので何もわからん(なんか、アジア人のふりをして小説を書いたらバズって、そのままアジア人のふりをする羽目になる、みたいなキャンセルカルチャーをネタにしたアメリカの風刺文学があった気がするんだが、思い出せない。キーワードで検索しても新しい価値観についていけないで炎上しちゃう六十代教授の出てくるアベル・カンタン「エタンプの預言者」という別の文学しか出てこない。で、pretending to be an Asianでググってやっと見つけた。R. F. KuangのYellowface」。洋書だった。たぶんどっかの文芸評論家が紹介してたんだろう)。
関係ないけど、ナチスが優秀な子孫を作るための女性たちのためのキャンプ、ヌーディストの楽園のような外見を持っていながら(いや、記憶違いかも)発想がそもそも家畜改良みたいで、恐ろしすぎて「これは露悪的なSFか?」ってなる。しかし、殺戮こそしていないものの、今では人権意識の高いとされる北欧諸国でも、かつては平気で障害者や異民族の断種が行われていたのだ。Whataboutismは建設的議論にとっては有害だが、人間の原始的感情に訴えかける強い説得力を持つ。「確かに俺も悪かったけど、お前にだけは言われたくねえよ」的なね。結局、政治は感情で動く。
話を戻せば、この作品は映画にもなっているらしい。というか、このエントリ全体で映像化された作品が結構あるらしいのだが、全然見ていない。
ポーランドとアフリカって接点があると普段はほとんど考えないのだけれど、きわめてよいルポタージュ。こうして独立してから何十年経つのに、アフリカ諸国とひとくくりにされがちな国々の個性を伝えてくれる。
しかし、出来事は基本的に救いがない。人類史の多くは悲惨の連続だが、アフリカで起きたことは桁の振れ幅が一つ違う。世界経済システムとの不幸すぎる出会いから五百年余り、まだ立ち直れていない大陸という印象を持った。とはいえ、暗澹たるルポタージュと言うわけでもなく、人々が村の中心の樹々に集まって生活するところや、市場の活気などは生命力にあふれ、まるでそこで暮らす人々の顔が浮かぶようだ。破綻した国家の状態は目を覆うようだが、そこから復興して何とかやっている人々の姿もある。……と、当時の日記に書いてあった。
ところで、ヘミングウェイはよくアフリカに狩猟に出掛けているけれども、それは所詮旅行者の目で、上っ面でしかないと批判しているのがこの本だった。そう思っていたのだが、日記を読み返すとそれはポール・セロー「ダーク・スター・サファリ」だった。著者はマラウイとウガンダで教鞭をとっていただけあって、アフリカに対して遠慮が無く極めて率直だ。時として情のこもった叱責や、人々へのまっすぐな好意も出る。きれいごとのないアフリカを知りたい人にオススメ。
遅延する電車、かつての豊かな文化と個性を失い広大なスラムと化したそれぞれの国の首都、高い失業率、飢餓、地元民のやる気を削ぐ支援、窃盗や強盗と犯人へのリンチ、放置されて本が残っていない図書館。親切な人や旧友もたくさん出てくるがいささか気が滅入ってくる。……と、当時の日記に書いてあった。
今はスマホも普及していてアフリカの様子も少なくとも都市部では大分違うと思う。ただし高野秀行は今でも地方の市場では窃盗が起きると犯人がリンチされると書いていた。
沈没事故で船を見捨てた船員が、延々と続く良心の呵責に苦しみもがいて生きる話だったはず。
試練に敗れ、卑怯者のレッテルを貼られた人物の独白を、別の語り手を通じて聞くという不思議な構成だけれど、緊迫感が良い。最後には西欧世界の手の届かないところに引っ込んでしまうんだけれど、これって著者の中で「闇の奥」をどのように発展させてここに至ったのだろう。「闇の奥」の内容をあまり覚えていないので困る。語り手が「闇の奥」と同一人物だと全然気づかなかった。やはり覚えていないのは心細い。これは、たとえ敵意ある世界から逃れても……、的な話なのだろうか。……と、日記に書いてあった。「黒檀」と違い、こちらは日記を読み返しても当時の気持ちはほとんどよみがえってこなかった。
この全集では最重要作品かもしれないのだが、実はこの作品だけ読めていない(だからこのエントリのタイトルは「理系が池澤夏樹の世界文学全集を全部読んだから五段階評価する」ではない)。何かで水俣病患者が苦しみながら「これを垂れ流した企業の連中にメチル水銀の汚染水を飲んでもらいたい」と心の底から呪っていたというのを読み、これほどの憎悪を自分の中に受け止めるだけのエネルギーが無いと感じたためだ。もしかしたら社員だけでなく、その家族にも呪詛を向けていたかもしれない。記憶にない。あるいは、これはどこにも書いていないのだが、本当はこうして水俣病にかからなかった全ての人に向いていたのかも。
こういうことを言うと結局自国中心主義なのかと言われるかもしれないが、それをはっきりと自覚したのが石黒達昌「或る一日」を読んだ時だ(伴名練が編集した短編集がある)。戦争か事故かはわからないが、強烈な放射能汚染で次々に子どもが死んでいく話で、読んでいて相当しんどかったのだが、特にきつかったのは名前が「美優」とか「翔」みたいに死んでいくのが現代の日本の子どもの(それとも自分と同世代の人間の?)名前だった点だ。おそらく「亀吉」や「トメ子」だともっと冷静に読めただろうし、「サッダーム」とか「ウルスラ」とかだったらかなり距離ができる。
僕がこうして世界文学を読めていたのも、他人の苦しみが言語と文化の壁によって希釈できているからでは、という疑念を僕に抱かせるに至った。
今にして振り返れば錚々たる作家ばかりだし、気に入った作家の(あるいは、ドナルド・バーセルミみたいによくわからなかった作家の)短編集を借りて読んだりもした(バーセルミは結局全然わからなかった)。一方で、後になって適当に手に取った本の作者だったと後で気づくこともあった。当たりはずれがあるのがアンソロジーの楽しみである。
フリオ・コルタサル「南部高速道路」は東日本大震災の際に、災害時にできるコミュニティに関連して話題になったが、震災を知らない世代にも刺さる普遍性があるコルタサルの作品の中で一番面白いものの一つ。金達寿「朴達の裁判」は前提となる知識をほとんど知らずに読んだのだが、したたかに生きる庶民の話で、吉四六ばなしとひがみ根性のない「阿Q正伝」を足して割らない印象を受けた。官憲に殴られて卑屈に笑ってみせても、決してへこたれることのない強さがある。アリステア・マクラウド「冬の犬」は悲しいけどいい。この人の作品は何を読んでもカナダ東部の寒さが伝わってくる。新潮クレスト・ブックスで出ているので是非読んでほしい。レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」はわざとらしいが嫌いじゃない。村上春樹訳だ。最近の村上春樹は一つの権威になっちゃってとうとう早稲田の名誉博士にまでなって、「俺たちの反体制な村上はどこに行っちまったんだ」みたいな気持ちになるが、翻訳は好きで、いまだに村上訳の本をたまに手に取る。それに、村上春樹の小説は男性中心的でときどきレイモンド・チャンドラーみたいにマッチョだとはいえ、「メンヘラ」という言葉が広まるはるか前にもかかわらず、メンタルの病気で苦しむ人の描写の解像度が、身近にたくさんいたんじゃないかってくらい極めて高い。彼の最大の美点だ。もっとも、今では精神を病んだ当事者の文学が出てきたので、「じゃあ当事者が書いた作品を超えるにはどうしたらいい?」ってのが次の文学の課題だ。ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」は、フランスに移住したアラブ系の青年が、男にとって都合のいい女がどれほど魅力的かを語ってくる叔母の幻影に悩まされる話で(たとえば恋する女性がもう処女じゃないことに苦しむと、脳内の叔母が「かわいくて素直で恥じらいのある処女を紹介するよ」と延々と語る)、あまりに男の欲望むき出し、即物的で笑っちゃうところもあるんだけれど、その都合のいい幻を切って捨てることもできないあたりがリアルで生々しい。男性向け・女性向けのポルノをのぞき見ると、みんな都合のいいことばっかり望んでるよね(だがそれがいい)。
余談だが、自分は恋人の嫉妬深いので恋愛経験はあまり多くない方が好みだが、フォークナーを勧めてくれた友人は、むしろ経験が豊富なほうが面倒くさくなくていいと熱く語っていた。このあたりは好みの問題だ。
閑話休題、しかしこの叔母が独身だってのがミソで、「女の幸せは結婚だ」という社会の独身女性は、こうやって世話焼きおばちゃん的な立場でサバイブしてきたのだ、という指摘をどこかで読んだ。
目取真俊「面影と連れて」は一番面白かった。自分の中では生涯読んだ短編の中の上位十位に入っている。ウチナーグチの語りなのだけれど、ひたすらいじめられ続けて、抵抗もできずにいる女性が、皇太子暗殺事件の犯人と関係して不幸になって、そのまま死んでいくという虚無の話なのだけれど、心が深く動かされる。世間ではタフになれとか戦って抗えとか言うけれど、抵抗するすべを知らず、その体力も能力もなく抵抗できずにそのままの人だってたくさんいる。弱い人間が弱いまま幸せに生きて死んで行けるようになってほしい。
前項は南北アメリカ・アジア・アフリカが中心だったが、こちらはヨーロッパの作品が中心。こちらの巻はやや印象が薄い。
記憶に残っているのはサルマン・ラシュディ(ルシュディ)「無料のラジオ」で、人口対策で断種されてラジオをもらった男の話。どうもラシュディはこの政策に反対だったらしく、「真夜中の子供たち」でも断種・不妊手術を極めて否定的な舞台装置として扱っているし、実行したインディラ・ガンディーを始め、権力を持った女性に対してうっすらとした嫌悪を持っている気がする。「真夜中の子供たち」でもアパートの管理人の意地悪な姉妹とか出てきたし。
あとはミシェル・ウエルベック「ランサローテ」だけれど、ウエルベックはどの作品も人権意識の高まりをはじめとした社会の変化について行けない中年男性の悲哀と愚痴が基本にあって、どれを読んでも感想が大体一緒になる。前にも書いたが要約すると「俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかったし、処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ!」「こうなったのもぜーんぶヨーロッパ文明の進歩に見せかけた自滅のせいだ! みんなカルトに狂って不幸になっちまえ!」「人類は所詮性本能には抗えないサル並みの動物なので、あらゆる不幸はポストヒューマンに進化しないと解決しないんだよ! アヒヒヒヒ!」。これはひどい。もっとも、こういう反動的に見える作品にも賞をあげちゃうフランス文壇の度量の広さはすごいけどね。もしかしたら「セロトニン」はそこから一歩進んだかもしれないが読むのがめんどくさいし、これまた自分にとって輝きを(こんなものを読んでわざわざ憂鬱になりたいという暗黒の吸引力を?)失った作家だ。ウェルベックは悪くない。変わってしまったのは僕だ。
ところで、最後まで読んでみて見て思うのだけれど、このシリーズって表紙に毎回鳥が銀色で印刷されているんだけれど、これってすべてポーズが違うんだろうか。重複したりしていない?
以上。
あとは同じように読んだ人のブログ探して読んでみようっと。
完読総評! 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全冊 - ウラジーミルの微笑
池澤夏樹の世界文学全集は、何が読まれているのか? - ボヘミアの海岸線
余談だけど日本文学全集は第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」だけ読んだ。長いがめっちゃ面白い。
岡田利規「能・狂言」の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「荷六駄」の「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが(たぶん「太郎冠者、あるか」「御前に」あたりが原文だと思う)、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。現代語訳したのが演劇の人なので、声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
同時に収録されている狂言には視覚障害者をおちょくるとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、ただの弱者ではない。だから、近江絵みたいに風刺の対象ともなっているんだろうか。
おしまい。