はてなキーワード: クレしんとは
最近ほんとそう思うんだよ。
この前も職場の若いやつとアニメの話になって、推しのキャラの母性がどうこうって熱く語ってたんだが、いやお前、自分で子供育てたことあんのか?って言いたくなる。
昔のオタクってのはさ、物語の奥にある哲学とか社会の仕組みまで読み解いて、人間の営みにまで思いを巡らせてたんだよ
エヴァ観たら心理学やら宗教やら、果ては親子関係まで掘り下げる。
でも今のノリはどうだ?ちょっと子供が出てきただけでロリ枠ですねとか、はいママ属性とか、そんな軽い言葉で済ませる。
家庭を持ったこともないのに、親子のドラマを語るなって話だ。わかってないんだよ、本当の愛ってやつをさ
だから言いたい。本気でオタクを極めたいなら、結婚して子供を産め。育ててみろ。
夜泣きで眠れなくて、保育園の送り迎えして、運動会で必死にスマホ構えてみろ。
そうやって初めて、推しの子でアイやルビーの物語を親目線で受け止められる。ブルーロックを観ても、ただのサッカーじゃなく未来を託す世代の物語として胸に響く。
知識なんて今はSNSで拾える。でも本物の教養ってのは、自分の人生で体感して、血肉にしたものからしか生まれない。人生は一人では完結しない。伴侶がいて、子がいて、そこにドラマが宿るんだ。
その経験を持たないまま家族もののアニメ好きですって言うのは、正直ちゃんちゃらおかしい。
だからオタクよ、婚活に行け。愛を学べ。命を育てろ。その上でもう一度アニメを観てみろ。世界の見え方が変わる。そこからがオタクの本番だ。
なんかこいつずっと喋ってるんだよ
心の声とかじゃなくて、延々と声に出して喋ってる
試し読みで読める範囲で書くとこうだ
「こんな時はガッツリ食べたいぜ」
「ガッツリといえば…」
(カツ丼だろ!!) ←突然の心の声
「カツ丼が食えそーな店は…」
「おおっ、発見だ!」
「よし!あそこで決定…」
「ん?」
「なら当然カツ丼もあるはず」
「やっぱり!」
「懐かしいなぁ」
(さぁどうする!?) ←突然の心の声
(どっちで食う!?) ←突然の心の声
以下心の声が続く
一瞬、漫画的に吹き出しで喋ってるけど心の声なんじゃないかと思うんだけど
それとは別に明確に心の声でしゃべってるシーンもあるので、
つまり吹き出しは完全に声に出して喋ってるこってことなんだと思う
いや、さすがに一人でこんだけ喋ってるやつ異常者だろ
しかも微妙にTPOわきまえてるかと思ったらガバってるのも気持ち悪くて
上記のシーンの後にヒロシはソバ屋に入ってカツ丼を食うんだが、
カツ丼食い終わるまではずっと心の声で喋ってる
やっぱり作者的にも店の中で延々としゃべってると異常者に見えるってのは自覚的なんだと思う
店の外でも異常者だろ……
かと思ったら急に
「あまりのうまさに夢中で食っちまったな」
「だいぶ腹も満たされたぜ」
「そーいやーミニざるがまだだったっけ」
とか喋り出すんだよ
いや、こんな事一人で喋ってる奴見たことねーよこえーな
盆休みの間ずっとkindleultimateでグルメ系漫画読んでたんだけど
「これからはどうしていくか」を面白興味深く提示してくれるのを
メインターゲットがファミリー層のしんちゃん映画に期待しすぎだよな…
ごめん…
・亭主関白 家父長制の加害性と同時に
家族のために頑張って働いてるのにおざなりにされてつれえわ…としての
加害者性と被害者性の描写はトントン→それでも加害に振り切ってしまった
人間の心の機微→「気の毒さは共感(わか)るけどやっぱり加害側を選択するのは
よくないよね!」→加害者の心のケアもしつつその問題構造自体を解体していこうな!
一気に改善する問題ではないけど、一歩一歩「今」をやっていこうね!
という社会問題いっちょひと噛み系の物語構造が…でえすきだから…!
・五木ひろしロボ→こぶしで蕩けちゃう〜のくだり、わけわかんなすぎて
思ったより長く笑った
・ガンマ博士、なんか良すぎる
眼球がギョロギョロ動くところとか喋り方、すごいよかった
コロッケの演技、良すぎる
何のためにTVerがあるねん
見逃しだと30分遅れだろ
何でゴールデンタイムやプライムタイムはリアルタイム視聴出来るのに朝や夕方は出来ないんだよ
いっつも関西ばっか影響受けるねん
何で見たくもないクソ暑い中での甲子園で高校球児見ないといけないんや
アルプス席のチアリーディングも年々エロいの禁止になってきてて見る価値もなくなってる
プリキュアもクレしんもドラえもんもリアルタイムで見たかったわ。特にプリキュアなんてここ数年は重要回やるようになってて腹立つわ
みんな口を揃えて面白いって言ってるし、ネットミームになってる有名なセリフがいっぱい出てくるらしいし、連載再開を喜ぶお祭りムードも味わってみたい!!
そう思ってアマプラでアニメ見始めたら、もう面白いのなんのって、、
まっさらな状態でハンターハンターの面白さを味わえるのがうらやましいと言われまくった意味がよーーーーーくわかった!おもしろすぎ!!
「クセになってんだ、音殺して動くの」とか「おそろしく速い手刀…俺でなきゃ見逃しちゃうね」とか「感謝の正拳突き1万回」とかこれぜんぶハンターハンターのやつやったんか!という感動!!すごい!!
一気に駆け抜けて今日やっとキメラアント編を見終えて、もう、ありえんぐらい泣いた、、、、
途中からどっちが善でどっちが悪なのかわかんなくなっちゃって、ていうかどっちが善で悪でとかなくて、クレしんにでてくる「正義の反対は別の正義」ってやつそのものやないかいと、、
まずキメラアントの設定がおもしろすぎるし、心理戦や駆け引きメインのバトルもおもしろすぎるし、ゴンたちのすれ違いや成長のみならず、王が王として成熟していく変化もおもしろすぎる。
起承転どこをとってもありえんぐらい面白いのに、それを差し置いて結末があまりにも良すぎる、、、
最後の勝負、てっきり念願かなって王が勝って、お願いを聞いてもらうのかと思った私が浅はかでしたわ、、
大切な人に名前を呼んでもらうために条件なんて必要ないものね。
暴力でもなく、心理戦でもなく、駆け引きでもなく、幸せは愛と敬意によって手に入れられるというわけですわ、、、、
https://anond.hatelabo.jp/20250505054200
バチボコに叩かれまくってるけど、セックスしない彼氏というか夫は珍しい話でもない。
女が拒んでるとは限らない。男もセックスしたくなくなる。
初期のクレしんだって、みさえはノリノリなのにひろしは嫌々とかよくあったし。
「娘はセックスしなくていい恋人」みたいな言葉もあって、裏を返せば娘がいる段階だと男もそれほどセックスしたくないってことだ。
https://dogdogfactory.blogspot.com/2020/03/satsujinsyussan.html?m=1
そうなんだよ。夫婦って恋人と家族を両立させなきゃならないんだけど、それってすごくしんどいんだよね。
それが苦にならない人もいるんだろうけど、ぼくにとってはけっこう負担が大きい。
ぼくは結婚して九年だけど、もうすっかりセックスレスだ。というか九年中八年半はセックスレスだ。でも仲はいいほうだとおもう。
だってぼくにとって妻は家族であり、子どもたちのおかあさんであり、経済的パートナーであり、愚痴をこぼしあえる仲間であり、くだらない話題で盛りあがる友人であり、ときには利害が対立する交渉相手だ。
そんな人といちゃいちゃしたいとおもわない。
夫婦間の性交渉を続けている人はすごいなあとすなおに感心する。
うちは子どもをつくるときは「そろそろ子どもつくるか。よしっ!」ってな感じで一念発起してがんばった。情動に動かされて、みたいな感じではぜんぜんない。むしろ本能が拒むのを理性で押さえつけて事に及んだ。
だから『清潔な結婚』で描かれる、性的な関係を完全に切りはなした「兄妹のような夫婦」はぼくの理想かもしれない(それぞれ家庭の外に恋人がいる、という点には共感できないけど。めんどくさそうだもん)。
無料娯楽が山程出てくると長期休暇が始まったのを感じる。
コミックバンチkaiの連載ほぼ全作品全話無料とかに至っては「狂気か?」としか思えん。
ヤンマガWEBのパリピ孔明やファブルなんかはたまに全話無料になる作品の定番って感じさえ出てきたなあ。
最新話追いつけた作品は連載追ってこうかなって気になるからそういうの狙ってんだろうな。
Abemaもガンダムとかクレしん映画とか色々あるし、無料娯楽縛りなのにほんま忙しいねえ。
どうなってんだろうな。
GジェネエターナルやってたらガンダムXの内容いまいち覚えてなかった所にAbemaで一挙放送をやっているのを知ったので視聴。
ガンダムXは局の都合で打ち切られて39話しかないことが有名だけどそれ以外の部分も凄い個性的なんだよな。ZZや鉄血が全然マシに見れるレベルで荒廃しきった治安、天才でこそあれずっとオールドタイプの主人公、ソーラーレイに匹敵するほどの必殺武器、ガンダムX以外だと珍しい要素モリモリ。GとWがヤバすぎるせいでコレが地味にさえ思えるんだから平成ガンダムはほんまヤバイで。
クレヨンしんちゃんやドラえもんのような2Dアニメ作品が3D化されると、視覚的・感情的に「異様な違和感」が生まれる。
それは単に描画スタイルが変わったというレベルの話ではない。もっと根本的に、作品世界の物理法則や倫理観、視聴者との距離感が崩壊することに起因している。
まず第一に、キャラクターの「質量」が突然現れる。2Dのしんちゃんが父ちゃんを投げ飛ばしても、視聴者はそれを冗談として受け取る。
なぜなら、あくまで絵としての情報量が少なく、質量も痛覚も曖昧で、物理法則もアニメ的デフォルメの中で処理されている。
しかし3D化された途端、しんちゃんの腕には筋肉の動きが、父ちゃんの体には重力と衝撃の反応が付随し、そこに「本当に痛そう」という現実味が乗ってしまう。
こうなると、ただのギャグではなく、家庭内暴力のような印象すら帯びてくる。
次に、道具の矛盾が露呈する。ドラえもんの「タケコプター」や「どこでもドア」は、2Dの記号的表現であれば「そういうもの」として納得される。
だが、3Dの質感で表現されると、プロペラが頭皮に食い込まないのはなぜか、あんな小型ドアが空間をどう切り取っているのか、といった疑問が急激に現実の物理に引き寄せられる。
視覚のリアリズムが、ファンタジーの成立条件を崩壊させてしまうのだ。
さらに言えば、キャラクターの「眼差し」すら問題になる。2Dでは記号としての目、口、手足が描かれており、それは視聴者にとって安全な距離を保った対象だ。
しかし3D化されたキャラの瞳は、光を反射し、瞬きし、皮膚は毛穴を持ち、唇は質感を伴う。その結果、我々の脳はそれを「生物」として処理し始める。
そして「なぜこんな生物が存在しているのか?」という、存在論的な不安が生まれてくる。
最も深刻なのは、こうした不安定な「準リアリズム」によって、作品が持っていた倫理や空気感が全く異なるものになってしまうという点である。
しんちゃんがしつけのために怒られる場面が、突然リアルな大人の暴力に見えてしまったり、ドラえもんのひみつ道具が軍事転用可能なテクノロジーにしか見えなくなったりする。
要するに、3D化とはただのビジュアルの進化ではなく、作品の持つ意味体系そのものを根底から書き換えてしまう行為であり、それが結果として「地獄感」を生み出す。
血の気が引くような違和感、目を逸らしたくなるような不自然さ、そして「これは観てはいけないものではないか」という倫理的ざわめき。