はてなキーワード: 菊と刀とは
「今昔物語」はここに収録されている福永武彦訳で読んでいる。池澤夏樹の義父だね。僕は結構説話集が好きで、「聊斎志異」や「捜神記」、「デカメロン」やガラン版「アラビアンナイト」なんかも読んでいる。近々「カンタベリー物語」も読む予定だ。
さて、なんで「今昔物語」を全部読まず、部分訳の福永武彦訳にしたのかというと、理由はいくつかあるのだが、気軽に持ち運びのできる全訳が出ていないのが一番の理由だ。また、講談社学術文庫は、天竺編と震旦編、それから本朝世俗編が出ているのだが、なぜか日本を舞台にした仏教説話を収録した巻が翻訳されていない。有名どころの仏教説話は頭の中に入れて置きたいとうっすら考えているのだが、原文を読むのが近頃は億劫なので、早く翻訳が出てくれないかと祈っている。
内容は芥川龍之介が翻案したものを含め、人間心理の観察や奇妙な話、怪異の話や下品すぎる話、それから強烈な個性を持った人間の話など様々だ。一つ一つの話が短いので楽しめるし、芥川龍之介が近代的に翻案する前はどんな話だったか、比べるのも楽しい。ちなみに、水木しげるがインパクトのある話ばかりを漫画化したバージョンが中学高校の図書館にあったが、あれも面白かった。あとは、家にあった子供版に、卒塔婆だか石碑だかに血痕がついたらその土地が水害で滅亡する予言を信じる老婆の話が収録されていた。周囲の人が老婆をからかうためにわざと卒塔婆に血を付けるのだが、その晩に本当に村が滅亡する。世界の民話に似た話があったと記憶しているが、出典が思い出せない。自分はギリシア神話をはじめとした、運命の皮肉やアイロニカルな予言を扱った話が好きである。やっぱり説話集は面白い。
ただし、編集の方針だろうか、「今昔物語」では似たような話が何度か続く配列になっている。だから通読していると飽きる瞬間がある。
これは「聊斎志異」でも同じで、酒を飲んでいたら死んだ友人が化けて出てきたが、酒を飲んでいたせいか死んだことを忘れていて、そのまま話が進むみたいなパターンがかなり多い。他にも幽霊やキツネが化けた美女が出てきて結ばれてハッピーエンドみたいなのも何度も繰り返される。結局みんなモテたいのね。
「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」、これらはすべて未読である。「日本霊異記」は最近になってKADOKAWAが現代語訳を出しているので、積んである本を片付けたら入手予定だ。なお、これは①で述べた雄略天皇のエピソードの出典の一つもである。
「平家物語」は古典の苦手な僕でも原文で読みやすいと感じた。理由は恐らく、口承文学だから声に出したらなんとなくわかるからなのと、敬語が相対的に簡略化されているからなんだろう。それとも、ちょうど「火の鳥」乱世編の舞台で、歴史の流れ的に何が起きるか既に分かっていたからだろうか? それとも、教科書をはじめとして、断片的に名シーンを知っていたからだろうか? バトル物として楽しんだんだろうか?
日記を読み返すと、「古代の貴族世界が音を立てて崩壊していくのがよくわかる」と綴っていたし、「空海と密教美術」展で観た平清盛の血曼荼羅が登場したのに滅茶苦茶興奮していた。
ちなみに、神保町の本祭りで、ちょうど講談社学術文庫版が一巻から十巻までがセットで安売りされていたので、良い機会だと思って購入したのだが、後になって全十二巻だったと気づいた。道理で安いわけだ。このバージョンは解説が丁寧で、「平家物語」かなり京都中心のバイアスがかかっているという指摘がされていた。例えば、平清盛が大輪田泊を建築したことは今でこそ評価されているが、「平家物語」では単に京都の荒廃をもたらした暴政ってことになっている。木曽義仲もただの田舎の乱暴者扱いだ。ちなみに、かつて滋賀県を旅行したときに、彼の没した古戦場・粟津を訪れたのだが、住みやすそうな普通の住宅街になっていたのに驚いた。
「太平記」についてもついでだから書こう。実家が神奈川県なので、鎌倉幕府滅亡まではかなり馴染みのある地名が多かったので楽しんだのだが、南北朝に分かれたままで話が終わるし、明確に「完結した!」という実感を持てる構成ではなかった。明確な善玉悪玉の物語でもないしね。みんな結構幕府側に着いたり朝廷側に着いたり右往左往している。この機を見るに敏なあたりがいかにも中世武士らしいし、おかげで誰が誰の勢力についているか、すぐにわからなくなる(ここまで書いて思ったのだが「平家物語」は平家の滅亡というわかりやすい大きな流れがあるから読みやすいのかも)。
それに、歴史書っぽくいろんな中国の古典から引用するけれども、日付が操作されていたり、複数の天皇を意図的に混同していたりする(光明天皇が即位した個所、太平記ではなぜか光厳天皇の重祚としている)。あくまでもこれは物語なのだ。
そして、物語だから、出てくる辞世の句にすごくいいのがたくさんあった。いま手元に本がないのが恨めしい。メモから見つけたのは「皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり」……なにこれつらい。
なお、各神社仏閣の縁起物語や中国の古典に脱線することが多く、それはそれで非常に面白いのだけれど、「だからこんなに長くなるんだよ……」みたいな気持ちになった。多少は「平家物語」でも登場・退場する人物の背景に脱線するけれどね。「ジョジョの奇妙な冒険」でも敵のスタンド使いの背景が紹介されるシーンあるよね。あのテクニックは話の流れがちょっと止まるので使いこなすのが難しい。ところで、あまりにも歴史書からの引用が多いので、これまた講談社学術文庫版の「史記」を読むに至った。……と、記憶していたのだが、日記を読むと両者を並行して読んでいたらしい。我ながら、なんでそんな無茶をした? 両者とも疑問点が多くて日記にやたらとメモを残している。
ところで、太平記の巻二十二に、相手のことを馬鹿にして「へろへろ矢」と呼ぶシーンがあるが、オノマトペの歴史的に興味深い。
前回も書いたけれども、せっかくなのでもう少し細かく書こう。これはちゃんと池澤夏樹の全集で読んだ。
「能・狂言」には身体障害者に明確な悪意を向け、冗談半分で暴力をふるうとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、だから近江絵などで風刺の対象ともなっているのだろう。岡田利規の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。演劇の人なので、酔っ払いの歌などを声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
現代の第一線で活躍する作家に訳させるってのはかなり贅沢だ。今の言葉で古典に新しい命が吹き込まれるって本当なんだな。
「説教節」は女人禁制による悲劇を描いている。これは父方の祖母からも似た話を聞いた覚えがある。何かウグイスだか何かの鳥に変じてしまう話だったようだが思い出せない。どこかの寺院縁起譚だったと思う。翻訳は伊藤比呂美で、この人は「ラニーニャ」という作品で芥川賞候補になっている。
「曾根崎心中」はいとうせいこう訳。ここからは浄瑠璃。作中の大阪弁が興味深い。大阪が舞台だし、近松門左衛門の作品なのでそれはそうなんだが、江戸時代の大阪ことばがどうだったかってのはすごく面白い。三幕の悲劇でプロットは単純なんだけど、台詞の長さとか掛け合いとかが欧米の演劇とはリズムが全然違っている。そういえば昔、「コメディお江戸でござる」のなかで「七つの鐘が六つ鳴りて」が引用されてたけど、原文って最初から最後まで七五調らしい。この次もそうだが、借金で首が回らないってネタは時代的な物か。
「女殺油地獄」はひたすらダメな人間がとうとう強盗殺人までしてしまう救いのない話なんだが、ここまで徹底した悪人というか堕落して行く過程がすでに文学で表現されていたってのがまず面白い。ダークヒーローとかそういうのではなく、自己弁護と言い訳にまみれた情けない悪人の物語だ。翻訳は桜庭一樹で、ところどころ注釈的に時代背景を地の文で説明しているんだけど、現代語訳っていうのはこういう自由さもある。たぶん池澤夏樹はどう翻訳してほしいか指示を出さなかったんだろう。
殺人の場面は本当に暗鬱。面白いので近松門左衛門の作品はもっと読みたい。江戸時代に実在の事件をモデルにした猟奇サスペンスがあったってのが面白い。ジャーナリズムの発展ってやつだ。ただし、人生がうまくいかない人をすべて発達障害で解釈しようとするのは、否定するだけの根拠はないのだが、多用しすぎるのもどうかと思う(一昔前の「シゾイド的人間」みたいに流行っているだけかもしれない)。
ところで、まったく関係ない作品同士で、源融の庭の話が引用されているのは不思議で、それほどよく知られていた話だったのだろう。また、わからない言葉がちまちまあるので調べながら読むことになるんだけれど、「坊主持ち」って遊びが出てきて、これはお坊さんとすれ違うまで荷物を全部持つ遊びらしい。じゃんけんで負けたら全員のランドセルを背負う小学生の遊びの起源か?
「菅原伝授手習鑑」は牛車を押す場面を浮世絵で見たし、松王丸の部分は新渡戸稲造「武士道」か何かで引用されていたのを思い出した。忠義のために身動き取れなくなる話は「菊と刀」にも通じている。意外と又聞きで歌舞伎の物語を知っているのかもしれない。ところで、学生時代に見た子供が切腹する歌舞伎は何の話だったんだろう。
翻訳は三浦しをんでこれを読んだ昨年当時はは四十七歳のはずなんだけど、「ギッタンギッタンにする」「ニャンニャン」という、古いんだか新しいんだかよくわからない言語感覚が特徴。この作品では道真公の流罪の原因をかなり自由に創作しているようだ。
もう少し読みたいものだと思い、浄瑠璃と加歌舞伎とかの現代語訳はないものかと「弁天娘女男白浪」について調べると、それは一部分を演じるときの題で、本来は「青砥稿花紅彩画」というらしい。
「義経千本桜」はキツネが身代わりになるシーンがあるが、「菅原伝授手習鑑」にも木像が身代わりになるシーンがあり、これはよく見られる演出だったんだろうか? かなり自由に筋が作られている。安徳天皇女性説とか初めて知った。このあたりも「平家物語」の時代を知っていると楽しい。
「仮名手本忠臣蔵」は四十七士全員のエピソードを語る時間はさすがにないが、悪玉は徹底的に憎たらしく描かれており、エンターテインメントの基本が抑えられている感じがする。ここでも入れ替わりの芸がある(上に書いた入れ替わりは、駕籠に乗った九太夫が医師と入れ替わっている個所)。なるほど、日本の演劇のストーリーだけじゃなくて上演時のテクニックについても調べる必要がある。
ところで、解説を読んでいると、「仮名手本忠臣蔵」は仇討ちの物語というよりも恋愛劇だという指摘があった。他にも、どの脚本が伝統を逸脱しているとか細々説明している。
あと、「しんとく丸」の話はどっかで聞いたことがあるんだが、どこでだったのかが思い出せない。
好きとか嫌いとか、こういう本能的な感情の動きは、まったく道徳的でない。
近頃は読みもしないくせに、イケメンが出てくるフィクションに対する独断と偏見が自分の中でどんどん育っていることに、非常に困惑している。他人のプライベートな空想や願望にとやかく言うのはみっともないし、読みもしないのに批判するのは非常にダサいので、こうした非論理的な感情にはいつも戸惑う。逆に、一度きちんと読むべきではないか? それか、徹底的にスルーするかだ。そもそも、フィクションはそもそも他人の頭の中身なので、刺さらないときには徹底的に刺さらないってだけではあるまいか。かつては普通に男性向け女性向けと関係なく小説を楽しめていたのに、こんな人間になってしまったことが極めて残念である。
おそらく、これも僕のイケメン嫌悪と去勢不安がなせる業だろう。まだ四十にならないのに前立腺肥大を患い、ED気味である。
じっくり考えてみたのだが、ジャンルを問わず、男性であることを否定的に書く作品や、男性の苦痛を軽視するものに否定的な感想を持つようだ。昔はジェンダーSFとかを、思考を広げて無意識の前提に気づかせてくれると面白く読んでいたのに、年齢を重ねて頑固になってしまったようだ。困ったものだ。そこのままではさらに年齢を重ねたらどうなることやら。
逆に、自分が性欲を持つ男性であることを肯定するタイプのポルノが大好きだ(具体的なジャンルは揚げてもしょうがないので略す)。この好きと嫌いの両者は僕が自分の性を肯定できるかにかかっている。つまるところ、「僕は男性としてダメじゃないか?」という不安を表裏一体で反映している。自分がヒゲの永久脱毛をする気が全くないのも根底には同じ感覚がある。見境無く散らばっている性癖や文学の好みの背後に、一本の理屈が通っていると気づくと、自己理解が深まったようで、事態が何も解決しなくても、何かすっきりした気持ちになる。
逆に、女性作家ですごく気に入ったものを十作くらい集めて、何が好きだったをまとめてみると、こういう作家の属性で評価するとこから自由になれるかも。今度試みてみよう。偏見から自由になりたいものだ。
それに、偏見に凝り固まった感覚が浮かんでくるのは、人と会わずに孤立している時なのである。そもそも、人との距離を取り、一緒に過ごす時間を奪ってしまうような創作活動は、僕を幸せにするだろうか?
前半では美術を知的にとらえようとした。後半は生物学がテーマ。
平安文学のマイブームが続き、続いて神林長平とヴォネガットを読み始める。
英国の貴族や執事、メイドがテーマ。なぜか田中啓文も読みだす。疲れたので脱力系を。
シオドア・スタージョン「一角獣・多角獣」
奇妙な味シリーズがしばらく続く。たまに古いSFが読みたくなる。
ブラウン神父シリーズは途中で飽きる。「聊斎志異」を読みだす。
冊数が少ないのは、中島敦全集がぶ厚いからだ。ページ数では一冊で実質三冊ほど読んでいる勘定だ。
ひたすら中国の古典を読む。物語としては読みやすいが、脚注について調べていると意外と時間がとられる。
アーネスト・サトウを除いて中国文学が続く。明治維新が一日単位で記録されていると見落としていた事実が多いとわかるし、刻一刻と情勢が変わっていったのも感じられる。。
やっと森薫を読み始める。ハルタコミックス(旧fellows!)ばっかり。
コロナで回数は少なめ。
「パディントン」
「イェスタディ」
「JUNK HEAD」★★
生物学、脳科学、歴史、SF、海外文学が多い傾向は昨年から変わっていない。
社会人大学生として、その大学で知りあった死刑廃止国出身の留学生とたまたま日本の政治の話になり、なぜか死刑の話までひろがったので。その際のメモ。
死刑廃止国では警察官や特殊部隊の人が現場判断で「射殺」することがあるという。
世間的に大きな事件、被害者が子ども、性犯罪、被害者家族が一生悲しい思いをする。
生きて逮捕してしまえば犯人は天寿を全うするのだからはっきり言ってクソだという。でも死刑廃止は賛成しているという。複雑な心境だそうだ。
そのため、現場が忖度して犯人が抵抗したとか、銃を持っていた、攻撃しようとしてきたというテイで射殺しておくそうだ。
なんとも言えない気持ちと本音と建前とはよく言ったものだ。菊と刀という本を読んだことのある留学生は日本のことがそれなりに好きなようで仇討ち制度はいつまであったんだというのも興味津々だった。
を本屋で冒頭数ページ読んだら、「『菊と刀』とは、一見繊細で芸術を愛するように見えるのに、ふとした局面に途端に暴力的で強権主義的になる日本人の、二面性の著しさの象徴である」(要約)と書いてあって、もうそれだけで「この人はわかってるなー」と思って買わずに帰ってきたんだけど。
この、70年前の戦争記録から日本人を分析した論文と、ほぼ同じような感想を、現代日本を観察する欧米人の多くも持っていることだろう。日本に生まれ育った俺でさえ、これがまったく不思議でしかたない。
多くの日本人は、俺やこの種の欧米人にとっては当然のように「あわせて備えているもの」と感じられる性質のセットの、どちらかが平気で欠けていたりする。たとえば理系や芸術分野に携わる人間の、社会的理想像の幼稚さ……なんて言うと文系はてなサヨクは小躍りしてそうだそうだと言いそうだが、逆に言えば、歴史や社会を興味対象にする連中の、創造的活動への関心の低さも異常なのである。
「生まれて初めて料理(ハンバーグ)をするために調理器具から小麦粉から買ってきたら1まんえん以上した!自炊は高い!」なんて、冗談としても発想が小学生レベルで稚拙な記事を、いつもは『吾輩は知的である』なんて顔をしてる連中が「そうだ自炊は高いんだ」と拡散したりする。
まず、こんな記事を書けるような年になるまで、本当に一回も料理をしたことがない人間なんて、その時点でただの教育の失敗とは思わないのだろうか。
良い年して現代史もまともに知らず、ネットで感化されて修正史観にハマってしまうネトウヨと、低レベルさにおいて何が違うんだそれは。
欧米の「リベラル」はこんな中庸に欠ける連中ではない。少なくとも、主流の「スタイル」はこれほど低レベルではない。
人権意識を持ち、環境に配慮をし、知的好奇心に溢れるインテリだからこそ、「自分でやる」ことへの情熱を失わない。下手でもDIYや自炊への憧憬を見せる。
一方で、アーティストや職人肌のギークたちが、社会や環境に配慮したものづくりを意識し、積極的にメッセージを発信することも、ごく当然のように行われる。ギーク系のニュースサイトやブログでも、人道/環境配慮や科学技術政策のあり方(政治議論)に、正面から切り込んでいく。
これらは日本ではほとんどみられないものだが、本当にその理想を追求したのなら、人を知ることはものを知ることであり、ものを知ることは人を知ることであるといずれ繋がるのは、このように論理的には必定に思える。欧米では「当然あわせて備えているべきもの」と(少なくとも至上の理想レベルでは)見なされているこの両輪に、何故日本ではこんな断絶があり続けるのだろう?
『菊と刀』の奇妙な同居は、結局のところ、ものごとを薄っぺらな表層レベルでしか装えない、日本人の精神性の貧しさの現れでしかないのではないだろうか。
仕事がいやなのではない。怒られるのが嫌なのだ。隠さずに言えば、今年で48であるし、一課の長ではあるが、毎日怒られる。社外、社内を問わず怒られるのだ。いい年して、とは思わない。年を取れば怒られなくなる時代は終わったように思う。人は一生怒られ続けるのだろうか。多分、これから生きる人たちはそうなるのだろう。団塊の世代はとにかく怒るように思う。団塊の世代の前の世代がとにかく怒ったからだろうとみている。かといって、私は怒らない。怒られるのとおなじくらい怒るのは嫌いだからだ。私は怒って問題が解決した経験がないからだ。
多分、昔はみんなして怒って、そして、問題を解決していたのだろう。怒りが問題解決手法だったのではないだろうか。だから団塊の世代は、いま、社会の主たる構成員でないとしても、とにかく怒るのだろうと思っている。
最近になって、やっとアンガーマネジメントという言葉が使われ始めた。日本語ではないのだから、非常に格好悪く感じる。私は日本以外ではたらいた経験がないのだが、ほかの国で生まれ育った人間は、日本人ほど怒るのだろうか。また、日本人ほど、とにかく体裁もなく、怒りに身を任せるのだろうか。ネットでいろいろ調べてみたのだが、やはり日本人というか、中華文明の影響が強い国の人は怒りっぽいようだ。
とりわけ日本人は怒りっぽいのではないだろうか。「菊と刀」に言う、恥は死とする文化のため、いったん怒ることで恥を避けているのだろうと今は思っている。
自分は温厚だと思っている人でも、十分に怒ってばかりなので、基本的に自分は短気で怒りっぽくって、プライドが高くて度し難いと思って生きている。でも、怒られるのは嫌だし、仕事は怒りの交換ばかりなので、本当に嫌だ。
痛いニュース(ノ∀`) : 冷蔵庫に入りバイト先を閉店に追い込んだ学生S君 人生に悩み中 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1773273.html
このページを読んだんだけど、S君に同情する意見があまりにも少ないような気がするので愚痴を兼ねて書く
自分にはどうしてもこのスレの雰囲気がS君に対する集団いじめに見えてならない
「こういうやつはロリコン事件起こしていたかも」「幼稚園児冷蔵庫に入れてたかも」
S君みたいなDQNっぽい子はきっと仲間内では良い奴で、優しい奴だったんだと思うよ
ただ、馬鹿だっただけで。
こういうスレに書き込んでる人は、きっとある程度常識と教養があって頭もそこそこいいんだろう
でも、そういう奴こそ、自分より上の存在を知ってるから、自分より弱いやつを見つけるといじめるんだよな
たしかにそうだ
けど、「店や同僚に迷惑をかけた」ことに繋がる最終的なトリガーは、バイトテロ行為そのものではなく、「バイトテロ行為を“拡散”すること」だったんじゃないか……?
こういうことを従兄弟と話していたら、「でも、法律的に拡散することは全く問題ないし、冷蔵庫に入ることは社会通念上良くないじゃん」と言われた
ごもっとも。
でも、どうしてもこの拡散したり通報したりしてる奴って、この「法律」や「社会通念」とやらを隠れ蓑にして、標的を叩いてストレス解消してるようにしか見えないんだよ
たしかに「法律上」はS君を追い詰めることは問題ないかも知れないけどさ
「法律上」問題なかったら何してもいいのか?
そういうことをしている自分のなかに、なにか違和感を感じないのか?
俺はカントの本も『菊と刀』も読んだことないけど、そういう「自分の中で善悪の基準を決めてそれにしたがう」っていう発想はやっぱり大事だなと思った
バレなかったら何してもいいのか?
でもバレたらちょっと恥ずかしいって思うんじゃないのか?
本を読まない人って、ツマラナイ人間が多いです。正直見下しています。
話がツマラナイ、語彙が少ない、「〜だ」と断定するのがクセ、それなのに話の裏付けがない。こんなヤツと一緒に働きたくなんかありません。その上、文章を書かせても全くダメ。報告書もまともに書けない。
本を読まない人の特徴として、私が最も問題だと思うのは、彼ら彼女らはモノの見方が1つじゃないことが分かっていないのです。世の中には、色々な考え方があって、人の立場や状況によってモノの見方が変わるということを理解できないことが多いです。おそらく想像力の欠如が主な原因でしょう。
言い方を変えれば、価値観の相違を認めない人が多い。
国際化が進む社会において、価値観の相違を認めるということは、コミュニケーションの基礎です。それが出来ないのだから、正直言ってバカとしか思えません。
最近ネットを見ていると、批判されている人は本を読む人。批判している人は、本を読まないバカ。そんな構図が多いような気がします。
批判といっても建設的なものならいいけれど(それは色々なモノの見方があることが分かっている人がすること)、誹謗中傷の類をしているのは確実に本を読まないバカ。「自分が正しい、こいつが間違っている」そう思い込んでいるんでしょうね。
こんなことを書くとステマとか言われるけれど、ちきりんもイケダハヤトも本を読んで自分なりの理論を作り上げているのだからすごいと思います。でも、本を読めばあれくらいのことは誰にでもできるのです。
本を読まない人が、イケダハヤト信者、ちきりん信者になったり、誹謗中傷をする人になるのです。
本を読む人は、イケダハヤトやちきりんの言っていることを批判的に見て、いいところだけを自分の中に取り入れていけるでしょう。
つまり、信者と誹謗中傷している人は、本を読め。ただし、ちきりんが勧めている本を読むだけなら、それはちきりんを読んでいるだけだ。みんなが読んでいるから読むのではなく、読みたい本を読んで、自分なりの考えをまとめるクセを持ち、想像力を豊かにしていくことで、価値観の相違への理解もできるようになる。
逆説的ですが、自分の考えがある人は、価値観の相違への理解が深いです。
本を読め。
こんなことを書くと、本を読まない人はダメみたいな言い方をするのだからモノの見方が1つではないことが分かっていないとの批判を受けると思います。私もそう思います。ですが、本を読む以外にいい方法が見つかりません。なにかいい方法があれば、教えてください。
では今日はこの辺りで、ほなさいなら。
誤解されているようなので追記します。
もちろん私は、本を読まない人を理解しようとしていますし、本を読まない人との価値観の相違についても理解を深めようとしています。
しかし、次の点について誰か説明してほしいのですよ。
「本を読む以外にどう学ぶのか」
ということを。
私が思うに、学ぶ方法は、本を読む、人の話を聞く、旅をするの3つしかないと思います。ちなみに、実践するは、学ぶの次の段階だと思います。
この中で、人の話を聞くと旅をするは限界があります。しかし本なら、物理的な制約も、時間的な制約も受けずに学ぶことができます。最高の学びじゃないですか。
その最高の学びを放棄していることを実感しているのでしょうか?
私は、本を読まない人がこの点についてどう思うのか知りたいです。本を読まない人の価値観を知りたいのです。
その説明がないので、見下しています。正直言ってね。
ほな、さいなら。
そうだ、ひとつ忘れてた。
遊んですみません。本当の追記です。
「じゃあ、何を読めばいいの?」「あなたは何を読んでいるの?」との質問が多いので、お答えいたします。
そもそもこの質問を一度に答えることはできません。つまり、私が読んでいる本はあなたが読むべき本とは限らないのです。
あなたが読むべき本とは、あなたが読みたい本です。何でもいいと思います。好きな本を読みましょう。
一例として、私が今日読み終えた本は、『逝きし世の面影 』というものです。その理由は、外国人が日本をどう見ているのか、またはどう見ていたのかということに非常に興味があるからです。
ですので、私はここ最近ドナルド・キーンさんの本や『菊と刀』『日本における近代国家の成立』などを読みました。
少し前は、日本文化についての本を読みあさりました。その結果、禅についての理解が必要だと感じたため、それについての本を読みました。禅について知ると、仏教全体や他の宗教についても知りたくなったので、それに関する本を読みました。その後は、イスラム教に興味を持ち、何冊かそれに関する本を読みました。そして、次はまた日本に戻って来たわけです。
私は、ニーチェを読めとか、プラトンを読めなんて言うつもりもありません。読みたければ読めばいいと思います。
みなさんも興味のある分野があるはずです。例えば、ニュースを聞いていてアベノミクスについて気になったなら、それに関する本を読めばいいと思います。その上で、経済学について興味が出てきたら、更に掘り下げていけばいいと思います。
※ネトウヨの妄言なので、ネトウヨが嫌いなら読まない方が良いと思います。
(追記:当初、私自身が認識していたより、酷いことをいっているようです。ですので、読むと不快になる可能性が高いです。
基本的に、読まないことをお勧めします。削除しても、逃げたということで非難されそうなので、残しておきたいと思いますが)
連中の場合は、"情"が絡んでくるから厄介なんだと思う。
特に韓国人なんかは、"情"によって団結して、日本人を超えるみたいな考えもあるみたいだけど、事実は全く逆だと思う。
韓国人には"恨(ハン)"という概念があるんだけど、単に、"恨み"とかそういう次元を超えているらしい。彼ら曰く。
何が言いたいかというと、彼らは呪縛されている。つまり、呪われている。
具体的には、例えば、朝鮮半島は"半島"という地形が大元ではないかと思う。
三方を海に囲まれ、残りの一方が大陸につながっている。朝鮮半島の場合、日本に海上封鎖され、大陸から攻められたら終了。
同じような例として、スペイン内戦がある。スペインは、自国のあるイベリア半島につながっているフランスから攻撃を受け、イギリスに海上封鎖されるという逃げ道のない状態だった。その結果、血で血を洗う内戦。かなりのトラウマもの。ピカソがゲルニカを描いたり、ヘミングウェイが参戦したりしている訳だが。今だにそのトラウマは残っていて、最近だと、映画のパンズラビリンスはスペイン内戦を扱っていたのではないかな。
だから、"半島"というのは、基本的に呪われた地であり、韓国人は文字通り、DNAレベルで呪われている。<丶`∀´>←2ちゃんねるなんかで使われているこの顔が、その証拠で、大陸人(モンゴル系)に支配された証拠をDNAレベルで刻みつけられた。そう考えると、少し、背筋がゾッとするのではないだろうか。
(追記。上の記述は、一応、撤回しておきます。デリケートな問題ですし。ご不快になられた方、すみません)
ヨーロッパ大陸も、ユーラシア大陸から突き出た"半島"という見方も出来る。シベリアの遊牧民がたびたび攻めてきて、その結果、白人達はおかしくなってしまったという話もある。
映画の300(スリーハンドレッド)なども、白人対ペルシャで、ペルシャを禍々しく、妖怪かなんかみたいに描いている。アレは、白人のトラウマそのものだと思う(アラブ人はそれに反発したみたいだけど)。
それが、大航海時代の悲劇につながった。
300(スリーハンドレッド)に限らず、指輪物語(ロードオブザリング)も、スタ-シップトゥル-パ-ズも、バックトゥザフューチャーも、ロッキーも、白人は、"我々"と"彼ら"に分けたがる。
"我々"とは、キリスト教徒の白人、"彼ら"とは、宇宙人、未来人、ちょうの・・・いや、でも遠からずで、"自分たちとは違うもの"、滅ぼすべき敵、我々を支配するもの、我々が支配するものだったりする。
その役を、例えば、宇宙人や妖怪やロボットや、日本人なんかがやる。だから、白人が描く"彼ら"は醜く、異質で、おかしな存在だ。
(もっとも、"敵"を自分たちの写し鏡だとして考えると、白人はそのことを無意識的にも感じていると思う)
だから、日本人は、本当の意味での異世界、"ファンタジー"が描けないし、日本のファンタジー作品の住人は、容姿はどうあれ、中身は日本人ということになる。
白人の場合は、クトゥルー神話がその代表例だと思うけれど、本当に異質に描こうとする。
あと、白人でも、キリストを信じない共産主義者は、"彼ら"な訳で、80年代のハリウッドには腐るほど例がある。
(あっさり書きすぎたので、追記。多分、魂の存在を信じない唯物論者ということだからだろうか?日本人でも、唯物論者を理解出来ない人が多いかも)
それで、最初の話に戻ると、中国人は、儒教に呪縛されている。共産党全盛期に、共産党員が父親に笑ってしまうほど頭が上がらなかったという目撃談もある。
中韓人がなぜ、"情"に頼り出すかというと、彼らは彼らの世界しか持って無くて(中華思想。韓国も小中華思想)、主観(自分たち)しか存在しないから、他人の目を意識するということがあまりないので、構造と一体化してしまい、呪いに人格そのものが乗っ取られてしまうからだと思う。その結果、彼らは物事がよく見えなくなり、直情的になる。
でも、そんなに悲観的になる必要もなくて、最近は、中韓人も欧米の目を気にするようになってきたから、少しずつ状況は改善しているんでは無かろうか。
(中国のソース開示要請なんかを見ると、恨みはまだかなり残っているようだけど)
追記:
REV えさの付け方が甘め
反応早いッスね(笑)どの辺がそうだったか、ご指摘いただけると助かるんですが。
(もっとも、REVさんはいけずな方なので、教えていただけないとは思いますがw)
(再追記:ご返答、ありがとうございます。確かに、"支配された証拠"というのは誤解を生みそうですね。
結果的には、元々、朝鮮半島に住んでいた民族とは違う証拠にはなると思いますが)
yukitanuki ネトウヨの人なら賛同するのだろうか
どうでしょうね。私の個人的な発言なので、賛同する人もいるし、賛同しない人もいるでしょう。
私をレイシスト呼ばわりするひともいるだろうな、と思って書きましたし。
でも、呪いの構造を自覚しないと、不幸からは脱出できないと思うんですよ。これも個人的な経験ですが。
呪いと一体化して、人格を乗っ取られ、周囲に不幸をまき散らす例を何度も見てきましたし。
もっとも、日本語で書いた訳だから、彼らに私の考えを強制している訳でもないですし、する気もないです。
物知らずの面汚しでサーセンwwwww
私の妄言は、mobanamaさんの正論で粉砕していただけると嬉しいです。
なんとなく、語感がかっこよかったので使ってしまった面はあります。
ご指摘、ありがとうございます。
(以下、再追記)
サーセンwwwwww
これからも、みっともなく生きていきますよ!
comzoo 「日本人の性格」も「天皇」「武士道」「菊と刀」「敗戦」「戦後民主主義教育」とやらの呪いにまみれておるではないか。
その通りだと思います。
でも、日本人が、日本人のことばかり研究している現状に問題があるとは思いませんか?
外の文化と比較することによって、ある程度、相対的で、客観的な視点が得られると思います。
我々のどこが特殊でどこが外の人種と一緒なのか、それを考える必要があると思います。
(さらに再追記)
念のため書きますが、「呪いにかかっていること」と「不幸であること」は別です。
私の使っている「呪いにかかっている」というのは、「構造的に呪縛されている」ということであり、「不幸である」とは、自身の主観的な問題です。
ですので、「呪いにかかっている」からと言って、「不幸である」とは限りません。
相対的/客観的に、自分が/他者が「構造的にどう呪縛されているか」を認識することによることで、対処方法やその呪縛から逃れる方法も考えることが出来ると思います。
「菊と刀」戦時中、捕虜への尋問を通してルースベネディクトによって
描かれた日本人像。菊と刀には「静かさと激しさ」「天皇と侍」二つの意味が込められている。
さて現代の「菊と刀」を見てみよう。
全日本剣道選手権大会を見て思ったこと。
・試合中の猛々しさ。
試合を見ての通り、洗練された獣同士の戦いである。
・試合前後の丁寧さ。
試合上には互いに一礼して入り、試合後は一礼して去る。
彼らは胴衣や防具をまとうことにより、身にまとった質実な肉体より
内に秘めた獣の本能を引き出すのである。
アニメを見て、エロゲをやってみて思ったこと。
・イデアへの激情
友、愛、正義。真実を追い求めるパトスが肉体の根幹より発せられる。
・現実への忌避
真実から歪んだ様相に、世の喪に服し歩くのである。
彼らは世に忌まれる姿容をまとうことにより、求道者たることを世に示し
その悪寒をもってパトスに昇華させるのである。
なんかただ「さみー」ってうずくまってるってより凄く辛そうなかんじで。なんかものすご痛いんですってかんじで。
唸ってるし。「うぅ……うぅうう」とかいってる。
「やべえ…」
と思った。
これあれじゃないの。私は声かけるべきなんじゃないのかと。
で、周り見るけど、やっぱ皆、知らん振りなわけよ。
えぇー、どうしよう…えぇーって思ってさ。
いやいやいや。これさ。友達とかといたらさ。まだ声かけられるんだけどさ。一人だと……難しい。ものすご難しい。
でも、なんで難しいんだろ?って考えてみたら、結局、それは「恥」が根底にあるんだよね、「声かけてもし全然問題なかったり迷惑だったらどうしよう…」っていう恥ずかしさね。あぁ…菊と刀…恥の文化…悲しきかなニッポンジンとか一人ぼーっと読んだこともない菊と刀の本の装丁を思い浮かべてたらふっと、
「でも冷静に考えると、別に恥かいたって何か減るもんでもないんだし、そうたいした恥じゃないし、そんなちっぽけな恥を怖がって辛そうな人を放っておくってどうなんよ?ていうか別に恥だったら例のあの「よかった…辛そうな人はいなかったのね」になるだけじゃん?」
というところに至った。
「声かけたけどスルーされる・全然関係なかった・迷惑だったときの私の恥」:「その人がガチだったときの辛さ」を天秤にかけると同考えても恥の方が軽いだろ。
ってここまではっきりしてんのにでもなかなか言う勇気がなくて、あーどうしよどうしよう…って考えた挙句、
「あれっ?今気付きましたよ」みたいな演技(誰も見てねーっつーのな)をして「今まで声かけられずに葛藤してたわけじゃないよ?」みたいな感じを卑しくもアピールしつつ
「あのー大丈夫ですか」
って聞いた
聞いたつもりだったけど多分実際には「アノダイジョブですか」みたいに片言チックになってた
この時点で恥だろ逆に…
恥を気にするあまり恥かいてる
で、「大丈夫ですか」って言った直後に(こういうのってなんでだかしらんけど絶対直後に気付くんだよなあ、テストで終了のチャイムがなった直後に、かけなかった漢字思い出す、見たいな感じで)「ていうか、マジに辛いなら、答えるのもキツいんじゃないの?余計なお世話なんじゃないの?」って思って「あやっぱ今のなしで」ってよっぽど言いたかったけどまあいえるはずもなく
そうしたら
「……だっ……大丈夫です……」
……。
やはり……余計なお世話コースだった……
「そそうですか」とキョドりながらいかにも「あっ今メールがきました…友達から」っていう素振りで携帯を見た。
そして更に「全然気にしてないよ?よかった……辛い人はいなかったんだねって思ってるけど?」みたいな感じで平然を装う。しかし頭の中は「ぁあああああやっちまったあああああああああああああ」
これで相手が「実はおなかが物凄く痛くて…」「なんだって!それはいけない。待っててください!私が今救急車をよびますよ!」「なんて優しい人!どうかお礼を…」「いやただの通りすがりのしがない女子高生ですよ」「若いのに見上げた子だ!<救急士さん」みたいな展開だったら、家でおかんや友達に「いやぁ実は人助けしちゃってさぁ(花輪君ポーズ)」とかいえたものを、実に中途半端な結果となってしまった。
やっぱ現実そうそううまくいかねぇな……
それにしても、本当、自分は「駅とかでケンカしてる人とかがいたら駅員に通報するくらいできるよ」なんて思ってたけど、いざとなると、全然できないことが、ショックだった。「え?え?ちょっとまって。心の準備が……ソノ……」みたいな感じになるのな。うずくまってる人に声かけるのですでにいっぱいっぱいな私がケンカしてる人がいたら本当に駅員に通報できるんだろうか。なんか難しい気がする。せめて日頃から駅員の近くにいようと思った。すぐ近くにいればまだ声かけやすいかもしれない。遠いとそれだけ「駅員さん慌てて探し回って、通報して、駅員さん飛んできたらもういなかったとかマジ恥ずかしいよ」とか思う事が目にみえとるかんね……