はてなキーワード: 母性とは
性に関する欲だもんね
そして母性、父性、性欲、全てに共通するのは「それを求めていない他者に一方的に向ける姿が気持ち悪い」こと
ぬい活女性のぬい活姿が気持ち悪いのもぬいぐるみという無機物、つまり確実に母性など求めていない対象に一方的に母性を向けているから
オタク男性が二次元キャラクターという架空の存在に性欲を向けている姿と同種なんだよね、気持ち悪さが
赤の他人の赤ちゃんに母性を向ける老婆も、若い女性アイドルに性欲を向ける中年男性も、ホストに性欲を向ける容姿の劣った女性も、Vtuberに父性を向ける弱者男性も、全て同種の気持ち悪さを持っている 欲を向けられている対象がそれを求めていないであろうことが想像できるから
例えば母性でも自分の子供はもちろん関係性の近しい子供、愛を渇望している孤独な子供、犬猫鳥などの家族的な感情交流のあるペットに向けている姿は気持ち悪くない でもハムスターなどの感情交流が極端に少ないペットに強い母性を向けている姿は正直気持ち悪い 明らかに一方的な自己満足の欲だから
ただ、ぬいぐるみや架空のキャラクターは生きてないし人権もないので、法律と公式や店が提示したルールに従っている限りは何にどんな欲望を向けようが別に無害なんだよね ただ気持ち悪いだけで
ただ気持ち悪いだけの無害な人間を関係のない第三者が叩いて潰そうとするのって普通にいじめだから本当に良くない ぬい活女性も萌え絵オタクも無機物に一方的に性欲の一種を向けていて気持ち悪い 気持ち悪いけど、気持ち悪いことは罪ではない ぬい活女性をお店が出禁にするのは当然自由だけど、迷惑を被ってない第三者が他の店でもやる権利がないと断言するのは理不尽だ 人には気持ち悪いまま生きる権利がある
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
よわおも女に母性を求めていい?
産後はホルモンバランスの激変により、誰にでも精神的な不安定さが現れる可能性があります。
| 項目 | マタニティブルー | ガルガル期(通称) |
|---|---|---|
| 主な感情 | 涙もろい、不安、落ち込み | イライラ、攻撃性、独占欲 |
| 心の向き | 内向的(自分が不安になる) | 外向적(周囲に怒りを感じる) |
| 主な対象 | 自分自身、将来への漠然とした不安 | 夫、義父母、周囲の人間 |
| 発生時期 | 産後3〜10日がピーク(一過性) | 産後すぐ〜数ヶ月(個人差大) |
| 医学的定義 | 広く認められた一時的な生理反応 | 俗称(本能的な警戒状態を指す) |
知らない少年に「少年!」と呼びかけるのは、現実世界ではかなり物語の登場人物的なムーブです。一歩間違えると事案になりかねないスリルがありますが、演出次第では「ちょっと風変わりで格好いいお姉さん」として成立させることも可能です。
不審者(変質者)認定を回避し、その劇的な呼びかけを成功させるためのガイドラインをまとめました。
「少年!」という芝居がかったセリフを吐く以上、服装が「普通すぎる」と逆に不気味さが増します。かといって過剰な露出やコスプレ感は通報リスクを高めます。
「少年!」と呼びかけても許されるのは、そこに明確な理由(口実)がある時だけです。
小学校高学年〜中学生: あまりに幼い子供(未就学児〜低学年)だと「少年!」という言葉の意味やニュアンスが通じず、単に怖がらせて終わる可能性があります。
いきなり呼びかけるのではなく、以下の状況をセットにしてください。
以下の行動は、どれか一つでも当てはまるとアウトです。
呼びかけた後の第一声は、少し低めで落ち着いたトーンが望ましいでしょう。アニメ的な「少年!」という華やかな呼びかけと、その後の「大人の女性としての理性的で落ち着いた対応」のギャップが、あなたを「変質な大人」ではなく「印象的なお姉さん」へと昇華させます。
「少年!」という呼びかけは非常にフィクショナルで強烈なキャラクター性を伴います。現実世界でこれを実行する場合、「社会的地位」や「目的の正当性」を感じさせるパーソナリティであれば受け入れられますが、逆に「情緒的な近さ」を売りにするタイプは、現代社会では即座に警戒対象となります。
圧倒的な知識やスキルを持ち、少年を「一人の未熟な人間」として尊重しているタイプ。
毅然としており、言葉数は少ない。90年代のSFアニメに登場する女性指揮官や、プロフェッショナルな技術者のような雰囲気です。
相手の目を見て、対等な「個」として扱うこと。下に見たり、子供扱いしたりしないのがポイントです。
世話焼きだが、深入りはしない。サバサバとした江戸っ子のような気質。
執着のなさを演出すること。去り際の潔さが不審者感を払拭します。
自分の目的(探し物や研究など)のために動いており、たまたま通りがかった少年に協力を仰ぐタイプ。
自分の目的がはっきりしている(例:古い史跡を探しているなど)ことを示すことが成功のカギ。
これらは二次元では人気がありますが、現実では目的不明の不審者として通報されるリスクが極めて高いものです。
フィクションの中では定番ですが、現実では最も危険です。「知らない年上の女性が色気や親密さを武器に近づいてくる」のは、防犯教育を受けている少年からすれば恐怖以外の何物でもありません。
「あらあら、どうしたの?」といった母性を強調するスタイル。血縁関係がない限り、現代では「子供を精神的にコントロールしようとしている」と周囲の大人から警戒されます。知り合いでない限り、避けるのが無難です。
「少年、君に会いに来たよ」といった、根拠のない運命を感じさせるタイプ。
完全に不審者です。現実の少年は、知らない大人に物語性を求めていません。
実行してよいパーソナリティに共通するキーワードは脱・プライベート感です。
| 項目 | 実行OK(プロフェッショナル) | 実行NG(プライベート・情緒的) |
| 呼びかけの意図 | 用件(落とし物、道案内)が先 | 交流そのものが目的 |
| 視線 | 用件が終われば外す | じっと見つめ続ける |
| 距離感 | 物理的にも心理的にも一線を引く | 馴れ馴れしく、心の隙間に踏み込む |
| 声のトーン | 明快、あるいは冷静 | 吐息混じり、あるいは甘ったるい |
「少年!」と呼びかけた瞬間の空気を「日常の風景」から「冒険の始まり」のように変えることができれば、それは一つの演出として成立します。しかし、そこに少しでも「個人的な執着」や「歪んだ親愛」が混じった瞬間に、現実の法とマナーの壁が立ちはだかることを忘れないでください。
もしあなたの「少年!」という呼びかけが、不審者事案にならず、奇跡的なバランスで成功したならば。その少年の一生において、それは単なる「道案内」や「落とし物」の記憶を超え、一種の聖域のような思い出として結晶化します。
日常を生きる少年は、学校や家庭では「生徒」や「息子」という役割に縛られています。しかし、見知らぬ、それも魅力的な年上の女性から、物語の記号である「少年!」という言葉を投げかけられた瞬間、彼の日常には強烈なスポットライトが当たります。
成功した瞬間、彼の脳内では無意識にアニメのオープニングのような高彩度の補正がかかります。そのお姉さんの顔そのものよりも、「あの夏の(あるいは秋の)光の中で自分を呼んだ声」が、人生の苦しい時にリプレイされる心のセーブポイントとして永遠に保存されます。
しかし、この魔法が成立するのは、あなたが去り際に「じゃあね、少年」と一言残して、未練なく、颯爽と人混みに消えていった場合のみです。その「余白」こそが、彼のトキメキを一生モノへと昇華させる最後のスパイスとなります。この「成功した記憶」を植え付けられた少年は、20年後、ふとした拍子に空を見上げて「あのお姉さんは、一体何者だったんだろう」と、今もどこかで元気に生きているであろうあなたに思いを馳せることになるでしょう。
子どもの頃から溢れ出る母性というか、自分より弱い者を構いたい欲求に溢れる女だった。
異性の方が面白そうやんの理由で弟が欲しかったけど妹でもよかったよ。
とにかく愛してぇ!怪獣は人を愛したいんや!
それに兄弟がいると、上下関係や他者との関係性への理解も増すじゃありませんか。
身の回り見てると内向型でも兄弟がいる人間は予後がよく、内向型一人っ子は予後がよくない(自分含む)
あとさ、うちは教育熱心な家庭だったから一人っ子への集中投資がキツかった
他に子どもがいれば投資先が分散されたり、ヒステリーを起こすオカンへの愚痴を共有できたりしたのかなって思うとちょっとしんどさがある
車でテキサスへ向かう母子だったが途中で車がパンクしてしまう。そこはアメリカ女、自分でタイヤ交換に乗り出すがそのへんをうろうろしてた娘はガラガラヘビに噛まれて重体に。慌てて娘を抱えて走り回るとトレーラーハウスを発見し、そこの老婆に娘を預け、自身は車を急いで修理し病院を目指すことに。老婆から「代金は後払いで」と言われ、適当に流して車の修理に向かいタイヤ交換を終え娘を迎えに行くと老婆はおらず娘からはヘビの噛み跡が消えていた。そして病院で診察を受けるも容態は安定。そこに謎の黒人が現れ「ほな代金いただきます。日暮れまでに誰か別人の魂を捧げろ。じゃないとやっぱ娘死ぬ」と言われ証拠も見せられる。果たして主人公は娘のために他人の命を捧げることができるのか。
みたいな話。
う~ん。
ある種のミステリとして100回見た展開ではある。例えばちょっと前に見た「DROP」も、娘を人質にとられて知らんやつから娘を生かしてほしかったらデート相手を殺せって指令が来る話だったし。それを今作ではスーパーナチュラルな相手から指令が来るという形になっている。
その結果として定期的に取立人がいろんな方法でやってきて、例えば交差点で信号待ちしてるとガキが現れて窓を叩いてきて無視してると今度は頭を血まみれにしながら窓に頭突きを始めてぶち割ってくるとか、廃教会の前で黒衣の神父がフィンガーガン売ってくるやんと思ったら化学工場ばりに黒煙をモクモクあげながら炎上したりと、ホラー演出をねじ込むというエンタメ効果を補強しているのは、設定を活かせているという意味でヨシ。
一方で、こういう作品のキモであるはずの殺す殺さんの話はなんかかったるい。
取り立てが病院から始まるので偶々見かけた死にかけのジジイの家族に接触して病室に潜入。家族が目を離した隙に殺そうとするも、殺せない!ってなってトイレに逃げ込んだら家族が戻ってきてすぐにジジイは死亡。という、もう死ぬんやったら殺しとけばよかった~っていう皮肉な展開はちょっと面白かったけど、その葛藤も地味だしなんかタラタラしてる。
その後、バーでDV彼氏とその彼女に出会い、せやDV彼氏やったら殺してええやろ!ってなるのもナンカナーって感じだし、ガンショップに銃を買いに行くも地元民じゃないからダメって拒否されるも砂漠でレイプされた!ってでっち上げて近所の闇業者を紹介されて銃を買える展開もナンダカナーって感じ。
で、まんまとDV彼氏を誘拐し砂漠につれていくも逃げられ探すも見つからず途方に暮れた彼女は取り立てに来る悪魔に出会いもうダメだぁ、おしまいだぁとなってこの映画を見始めた人100人中96人が考えたであろう結論に達し娘にビデオメッセージを撮影する。はいはい、他人指定がないから結局自己犠牲で自殺するんでしょと思ってたらなぜか戻ってきたDV彼氏に石を投げられ気絶。そしてなぜか待っていたDV彼氏と再び対峙するも抜いたナイフで自分の首を切ろうとする主人公。フーンと思って見てると、なぜか再びガラガラヘビがやってきてDV彼氏の足をガブリアス。
崖から落下した瀕死のDV彼氏を見て主人公はこれ幸いと首を掻っ切り娘を迎えに行って街を脱出するのでした。
これ前に見たトジコメを思い出すんだよな。スーパーナチュラルの使い(そもそもヘビってのがモチーフ的だし)によって試練が与えられ、その試練の究極の自己犠牲という解答にたどり着けたのでスーパーナチュラルから許されてDV彼氏を殺す権利をもらえた的な。結局、結論として臓器くじじゃないけど功利主義的に自己犠牲の精神を見せたから死にかけのDV彼氏を殺したらええやんというのは本当に正しいのか。
もろちん、このDV彼氏の足にガラガラヘビが噛みつくところまでが実は最終試練でここで「殺す」「自殺する」のどちらを選ぶのかで真の倫理観が試されているという捉え方もできなくはないけど崖から大落下してさらにガラガラヘビにも噛まれているっていう、主人公が自殺したところでこいつも死ぬだけやんって状況だったら、倫理もクソも合理的に考えてこいつを殺すのが正しいってなっちゃうじゃん?
母性による究極の自己犠牲の果てに結局他人を殺して自分も娘も助かりました!相手はDV男だしいいよね!
ほんまにか?
まぁ最後の最後に車で走ってると娘が殺したはずのDV彼氏を見つけてヒッチハイクしてるオッサンおるなぁって言い出して、つまりどういうこと?ってなる、本当にあの決断で解放されたのかというあいまいさを残すエンドになってるけど、残されたところでじゃあどうすればよかったんっていう。さっさと死んどけばよかったんか?
まぁそんな感じかな。
主演の黒人女性が自身もプロデューサーとして噛んでるみたいな話も合って、そういう作品ってだいたい何らかのエンパワーメントを推進しているところがあって、この作品も母子のシングルマザーでDV彼氏に対して並々ならぬ怒りを持っていたり、DVサレ彼女に強い感情移入をしていることから、もしかしたら主人公自身がその被害者だった可能性を示唆していて、DV野郎は死ね!という強い思いがあったのかもしれないけど、それが作品のジャンルの面白さにうまく反映されていたかは謎。80分しかないのにめっちゃ長く感じた。あんまオススメじゃないかも。
セフレと過ごしながらもどこか他人を受け入れきれない主人公。そんなある日、彼女の継父が行方不明になり、弟は暗闇にバケモノが潜んでいると寝不足になり学校で居眠り連発。学校は彼の母親と連絡がつかなかったため、主人公に連絡が来て主人公はその惨状を知る。バケモノに身に覚えがあった主人公は弟とともにうつ状態の母親の過去と暗闇でだけ姿を現すバケモノとの戦いに挑む。
みたいな話。
いや、面白かったね。
今作では「暗闇でだけ存在するバケモノ」というワンイシューをどうやって怖がらせるかに全振りしていて、そのアイデアの豊富さや活かし方がスマートで非常に良い。そして当然そんなワンイシューだけで2時間も3時間も映画が撮れるわけないのでバケモノの由来と対決だけの的を絞って80分という短い時間にまとめた決断も英断。
そんな中でもうつ病の母親&バケモノという重荷を背負いその話をしても誰からも信じられなかったというトラウマから家を出て他人を深くは受け入れないという生活を続けていた主人公が、弟を救うために母親の過去を知り、バケモノとの対決という過程を経る中で、靴下の片方だけでも家には残させなかったセフレには箪笥の一段を与え、一度は捨てた弟を受け入れるという受容を果たすという成長ストーリーや、うつ病で現実を受け入れられず夫や娘には逃げられバケモノが家族を害していたことを見て見ぬ振りし続けた母親が娘による需要を経て最終的には母性を取り戻し家族を救うために決断する展開も入っていて、人間ドラマにもちゃんと目配せできているのはシンプルにえらい。
特に暗闇でだけ存在するバケモノの表現がよくてねぇ。冒頭で大まかなルール説明として継父死亡パートがあって、たぶんアパレル倉庫かどっかで居残りする継父と事務員が襲われるんだけど、スポットライトのむこうの暗闇にぼんやりと”何か”が立っているのが見えて、電気が消えて点くたびに近づいてくるという古典的な怖がらせがある。
じゃあ何で電気が消えちゃうかっていうとその倉庫が自動消灯で動作反応点灯という仕組みになっているという倉庫あるあるギミックを配置してるのが憎い。ずっと動いとけばいいじゃんって思うかもしれないけど、むこうの暗闇に"何か"が潜んでる中でバタバタ動き回れないでしょ。俺は動物として正しい行動だと思う。
こんな感じで暗闇でだけ存在するバケモノと戦う中での「そうなる理屈」が割とちゃんと考えられているのが良い。
地下室に閉じ込められた主人公たちを助けるためにセフレが駆けつけるんだけど暗闇の中にバケモノがいる(このためにバケモノは町の一角を全面停電に追い込んでいる。テロリストかよ)。懐中電灯で照らすことで存在を抹消するんだけど、地下室のドアを開けるためにそっちを見てると光が逸れてしまう。一瞬の隙を突かれて懐中電灯を弾き飛ばされて襲われるも、間一髪、スマホの待ち受け画面の明かりで撃退。一度撤退しようとするもスマホの光は弱いため横が照らせずに再び襲われスマホは手から離れ宙づりにされあわやと言うところで、遠隔キーで車を起動しヘッドライトで撃退。ピンチに陥るロジックと脱出のロジックがしっかりしていて非常に良い。
あとは車での脱出に成功したセフレが警官を呼んできて警官VSバケモノ戦になるんだけど、マズルフラッシュのせいでバケモノの存在が消えてしまいダメージを与えられないというギミックとロジックの正しさたるや!よう考えとる。
ホラー表現としても暗闇の中に何かいるというジリジリした怖さから、電気が消えて次に点いたらどこにいるんだというドキドキ感、実際に急に襲い掛かってくるジャンプスケアといろんなタイプの怖さを取り揃えていて隙が無い。
で、結局このバケモンはなんやったん?っていうのは、どういう人物だったかは明かされるんだけどどういう理屈でこんなことになっているんやというのはかなりぼんやりさせたまま終わっちゃうので解決方法もあれでよかったんか?ってなっちゃうのはややマイナス。あと、あの解決方法だと実際に警官死んでるのどう処理するんやろと言う疑問も。
まぁそんな感じかな。
電気が消えるとバケモノが現れて点くと消えるというギミックをどれだけ多様な見せ方ができるかという点に全集中した潔いミニマルホラーの佳作としてホラー映画好きなら全然見てみていいと思う。
先輩二人とかなり仲が良い。
私以外のふたりは会社を辞め、ひとりは結婚し子供を産んだ。もうひとりは、色んな世界を見て回っている。
先輩の子供が生まれて半年が経ち、落ち着いて生活できるようになったので、子供に会いに行くことにした。
子供を産んだ先輩をA、旅回りの先輩をBと呼ぶ。
私はBとK駅で待ち合わせ、Aに当てたプレゼントを購入し、自宅へ向かった。
子供と言っても6ヶ月のベビー。サイズ感もわからず、写真を見た感じ、かなり大きいと想像していた。
キャッキャと笑う姿が本当に可愛くて、愛おしい。
抱っこさせてもらうと、必死にしがみつこうと服を握る姿がまた可愛い。
ミルクを貰い、オムツも変えてもらって、ニコニコ笑うベビーさん。
また、Aがお母さんになっていたことにも驚いた。
会社では厳しかった先輩が、いないいないばあをして、子供のために色々準備する姿が印象だった。
オムツ変えようねとテキパキ準備する姿は仕事の時の姿と重なった。
お母さんとお子さんを見て、私も早く子供を産んで育てたいと思った。
またベビーさん会いたいなぁ。
生命のタブーに挑むべき奴らが生命のタブーに挑むサスペンスホラー。51点。
シングルマザーの看護師の主人公は疲れ果てていた。ある朝、目が覚めると娘の具合が悪いが仕事が迫っている。階下の知り合いに娘を預け出社し、トイレにスマホを落としてしまい帰宅すると娘は死亡。娘の遺体を引き取りに行くもなぜか行方不明になっており、担当した病理医の疲れたおばさんを怪しみ家に押し入るとそこには死亡したはずの娘が。彼女は死についての実験を行うマッドドクターだったのだ。主人公は悩むが病理医に従い娘を活かすために転落の道へと進んでいく。
みたいなお話。
死体を蘇らせるには胎盤から生成した血清を用意する必要があり、これまでは病理医はその辺のバーでオッサンを手コキして集めた精子をシリンダーで注入して妊娠し、その胎盤を強制排出することで地産地消してたんだけどついには感染症で子宮を切除することになってしまう。
一方でそれに巻き込まれ娘を生き永らえさせるため(なお死亡している模様)、病院に検査に来た妊婦から胎盤液を盗み出すようになる主人公もその娘は体外受精で設けた子供であることが冒頭で明かされる。ゾンビ状態の娘を献身的に介護しながらも、死亡した際には「スマホが壊れても連絡はいくらでも取れたけど私はそうしなかった。ホッとしていたのかもしれない。疲れていたから」と述べたりもする。
どちらも理由は明かされていないが、男性とのまぐわいで生命を成さない人類であるという共通点がある。
そして胎盤液を盗まれる妊婦は冒頭と作品の最後で事故(実際には主人公によって毒を飲まされて)によって瀕死の重傷で病院に担ぎ込まれる。医師が「大丈夫です。お子さんは助かりますよ」と告げられて、ぽつりと「私は?」と問うもそれには誰も答えずショック症状を起こし、そのままおそらく亡くなってしまう。彼女は作中で人ではなく母体(実際の赤ちゃん&胎盤液)として扱われその役割を終える。
「生殖」に対する嫌悪感と、「母性」に対する渇望と限界感がこの作品を通底しているように見える。
死亡し蘇った主人公の娘は記憶もなく当初母親を拒否するが、そのうち記憶がよみがえり生きていたことろの手遊びなどを行うようになる。ここは母性が奇跡を起こしたように描かれているが、最終的に血清が底をつきかけた際に、主人公は再び娘を殺害し冷凍庫に保存し、胎盤を丸ごと奪うために妊婦の家に押し掛ける。母性による子殺し。
そうして事故的に妊婦は死亡するが再び血清を投与された娘が目を覚まし、主人公が「おかえり」と声をかけるところで映画は終了する。男性とまぐわって子を成した妊婦は死亡し、その死亡した妊婦から血清が作り出され新たな命が生まれ直すという構造になっているのがわかる。
みたいな感じでこういうテーマで映画撮りたかったんやと言うのはわかるんだが、別に面白くはなかったかな。
なんかずっと暗いし地味だし、じわじわした怖さはあるけど何かとんでもないことが起きるわけではない。いっこあるとしたら死んで蘇ったサンプル豚をゾンビ娘が刺殺する展開があるくらいだけど、それもなんでそんなことをしたのかというのは特に語られないし、その後、その豚を解体して「せや脊髄からも液取れるわ!」ってちょっとなるくらいの役にしかたたず、深くストーリーには絡んでこないのも不満。
病理医が完全にマッドなドクターで尚且つアスペルガー気味で名前で呼ばれたら「ドクター」と返答して、何のことやと思ってたら「私の名前にはドクターと付けろや」という意味でちょっと草生えちゃったりしたし、そういう人間味のないドクターと人間味の塊のような主人公のコンビはまぁ、悪くはない。
あと音楽はめっちゃいい。なんかチョモチョモずっと囁き声みたいなのが入ったオフビートな音楽がいっぱい流れるんだけどめっちゃキモくて最高。
そんな感じかな。
テーマ自体は興味深いと思うしそのテーマをきちんと論理だてて描かれているとも思うんだけど、そもそもそのテーマに俺があんま興味ないのと、あとはいかんせん地味すぎたな―。まぁじわじわ怖いサイコロジカルボディホラーを見たい人にはオススメ。
「#ママ戦争止めてくるわ」の次は、「#ママ高市止めてくるわ」かよ。相変わらず邪悪極まりないミソジニーだな。
「14歳の娘」「お母さん」…政策を論じるのには何ら必要のない情緒的な言葉だ。
どうして「平和」にわざわざ、「母性」や「子供」を紐付ける?よりによって子供のいない女性首相の名前を挙げて、自己の子供を産んだ女としての特権を振りかざす?
そういう無神経さが大嫌いなんだよ。
首相と同じく子供を産めなかった女性として、こういうのが吐き気を催す程に不快なんだけど。
そうやって年齢で人の価値に軽重の差をつけて、「子供」に特別な意味を付けようとするから、同じように利用されて、女子高校生が亡くなった事を政治利用されて叩かれるんじゃない?
@barbarabbit
14歳の娘がふと漏らした
30代女、元水商売。あらゆる街で小遣い稼ぎのような働き方をしていたが、何の因果か、今は昼職で土木関係の現場職をしている。普通に毎日、現場に立っている。都落ちしたと笑う知人も多いが、私からすればむしろ「人前に出られないカスの職業」から「社会的には感謝される職業」へのランクアップだと思っている。
かつての私は、普遍的な人間がイメージする、普遍的な「水商売女」だった。傲慢かつ怠惰で、それなのにナチュラルに自分を選ぶ側の人間だと思い込んでいる。実際、そう思ってしまうような商売ではあった。目の前の男が好みそうな人格を、その場で組み立てて差し出し続ける。長く業界にいると、それくらいのことは誰でもできるようになる。
飲み屋に来る男に比べれば、昼職の男はびっくりするほど簡単だった。欲しい言葉も、欲しい態度も、だいたい同じだからだ。
しかし当時から私は「将来的には心だけで支え合える、完全折半のパートナーと死にたい」と思っていた。高いプライドが変な方向にねじ曲がっていた。男性を選ぶ視点といえば、「私に金をかけられるか?」というプライドでも、「私を守る強い男であれ」という願望でも、生活を支えるという現実的な理想でもなかった。私の理想はもっと身勝手で気持ち悪いもので、「どれだけ強くても一人でこの世を生きていくのは難しい。現代日本では婚姻が最も保障される。私の弱さを理解し、私と同じくらい弱いまま隣で生きてくれるけど、こちらだけに寄りかかってこない男」だった。父性ではなく母性を男に求めていたのだと思う。かなりきしょい願望だが、正直、今もこのねじ曲がりが完治しているとは我ながら思えない。それはさておき。
最近、婚活を始めた。上記の過去をフルオープンにしている「家事家計完全折半、子供産みません女」など市場では煙たがられると思っていたが、意外と男性は好意的だった。私が本気で「年収・職業・学歴・身長・容姿」をチェック項目にしていないせいもある。精神的パートナーというのだろうか。互いにメンタルケアをしながら生きていく関係を望む男性は、多くはないが皆無でもなかった。
そして私に好意的な男性は、みな等しく善人だった。本当に眩しいくらいの「良き」人間で、多分、男性社会の荒めなコミュニケーションではやっていけない側なのだろうと思ったりもした。
ただ、彼らには致命的な問題があった。
あらゆる会話が続かない。
優しいのだが、文脈を拾えない。相手の前提を踏まえて話すことができない。他人の言葉の思想を理解しようとする力が弱い。そこから会話を拡張していく語彙力もない。相手に合わせて空気感を変えることもできない。こちらが頑張って盛り上げた空気感を「相手も楽しんでいた」と素直に認識してしまう。つまり、認知力がかなり低いのである。
こういう時は、決まってあの客を思い出す。当時30代後半くらいだったであろうその客は、正直、見た目が終わっていた。どこで買ったらその組み合わせになるんだという服を着ていたし、見た目のケアもできておらず、とても仕事ができそうには見えなかった。当時の店はそれなりに単価が高い店だったが、確か誰かの枝として来ていたと思う。
しかしその客は、会話だけは違った。女にモテる会話ではなかったが、こちらがまだ言語化できていない感情を、丁寧に真っ先に言葉にした。間髪入れず、かつ肯定のような枕詞も忘れずに「それってこういうこと?」とすぐ仮説を出してくる。私が「ちょっと違う、なんかこういう感じで~」と言うと、「じゃあこういうこと?俺も似たようなことある~」とすぐさま柔らかく修正する。私が肯定を返せば「分かるよ~俺も〇〇な時にこんなことあって~」と共感力の高い会話を拡張していく。
あの頃の私は、それを特別なことだとは思っていなかった。女のコミュニティではこのような会話が当たり前だからだ。ただ、接客中なのに妙に会話が楽だった。そしてこの客はよく言っていた。
「世の中って、思うほどみんな優しくない」
わかる、と当時の私は同意していた。こちらが差し出す優しさを、どうして同等に返してくれないのだと思っていた。こんなこと、人間としてできて当たり前だろう?と。そしてこいつだけは、私をちゃんと一人の人間として扱っているとすら思っていた(当時は傲慢な女だったため)
だから私は何回か誘った。
「あなたなら店の外で会ってもいいよ!」
恋愛をするつもりなんてなかったし、金銭的な打算がまったくなかったといえば嘘になるが、まぁ少なくとも不愉快ではなかった。
しかしそいつは決まって「俺そんな金ないから」と笑って、空気が悪くならないように断った。どれだけそれっぽい営業を掛けても、絶対にうんとは言わなかった。だが時々、思い出したように店には来る。そう、店には来るのだ。この珍しさ、夜職をしていた女なら分かるだろう。私は頻繁に営業をかけていたが、そのうち、そいつにはメールが届かなくなった。当時のジジイ達はまだLINEをやっておらず、連絡手段はメールだった。
まだ成人したてで世界が狭かったあの頃の私は、これらのことを大して重視していなかった。でも今なら分かる。あれは多分、あの客なりの誠実さだったのだろう。
店の女が、店の外で会おうと言っている。本音なわけがない。信じる価値もない。でも、このまま無料で会話させるのもどうなんだろう。そういうことを、もしかしたら全部考えていたのではないだろうか。もちろん、私に価値を感じなくなって着信拒否をしただけなのかもしれないが。捨てる前に店外をしなかったあの客は、何を考えていたのだろう。
認知力が高い人間は、夜の店でも素直に楽しめない。状況の構造を見てしまうからだ。だからあいつは、夜の店でさえ生きづらかったのだと思う。でも、今の私はお前のそれを誠実な優しさだと勝手に認識しているよ。色んな人間と接して、自分の歪みを指摘されて、まぁ、現場系で働くくらいには「まとも」になったから。
婚活相手の人々は、こんな私にも優しくしてくれる。私が悲しい時に笑ってくれる人。私が困っている時に「そんなことは忘れて星を見よう!?」と言ってくれる人。「大丈夫?」の前に「何かいるものある?」と聞いてくれる人。
荒いコミュニケーションかもしれないけど、みな等しく優しかった。心配した上で、自分なりの優しさで歩み寄ろうとしてくれた。私がそれを優しさと認識できなかっただけで、誰もが無神経なわけではない。コミュニケーションの形が合わないだけの、優しさだ。
「世の中って、思うほどみんな優しくない」
でもお前は、優しかったと思うよ。
傲慢になりそうな時は、決まってあの客のことを思い出す。
相変わらず、なんで「#ママ戦争止めてくる」を叩いている=ネトウヨだと決め付けるんだよ。
私は寧ろ左翼だから母性と戦争反対を結び付けるような母性信仰に基づくあのタグが許せないんだが?
なんで「#ママ戦争止めてくるわ」なんて変な言葉を使う必要があるの?
絶対に公式あらすじ以上の情報を仕入れずに見たほうが面白いクソ映画。69点。
家族が引っ越しの準備をしている最中、幼いリデが森の中でこつ然と姿を消す。そこへ追い打ちをかけるように火災が発生。迫りくる炎の中、母は娘を救い出すことができるのか。
ちなみにこのあらすじも実はウソで、娘の失踪前から火災は発生しています。
で、もうネタバレしていくんだけど、このあらすじからだとディザスター(災害)映画、迫りくる火災の中、主人公が森の中を走り回って炎をかいくぐり知恵を尽くして娘を探しだすハラハラドキドキのアクションサバイバル映画を期待すると思うんだけど、実際にはそんな映画じゃ全然ない。
じゃあどんな映画かって言うと「追い詰められた人間は疑心暗鬼に陥り判断能力を喪失し、いとも簡単に他人を傷つけられる」様を延々と描く胸糞キチガイ映画。
娘を探すために夫の友人でもあった隣人に助けを求めるんだけど、なんかちょっと怪しい。疑念を募らせた主人公と弟は彼を誘拐犯だと決めつけ家宅侵入し隣人を拘束、拷問を行い始める。いろいろあってボコボコにされた隣人は苦し紛れに娘の居場所を知っていると言い出し、燃え上がる森の中に侵入し隙を見て逃げ出す。そうして森を逃げ惑う隣人は遠くで娘の声を聴きそれを追うと道に迷って穴に落っこちて抜け出せずにいた娘を発見。なんとか娘の救出に成功。遅れてやってきた主人公は隣人をライトで何度も殴打し娘を連れて脱出。その後、娘から真相を聞いた主人公は森に戻り隣人を救出し、隣人はすべてを許し主人公は再出発するのだった。
俺が一番嫌いな「正義という名の思い込みで一方的に他者の権利を平気で侵害するカス」が前面にフューチャーされたマジのクソ映画だった。
隣人は自然由来の幻覚剤や鎮痛剤も用いた瞑想指導、セラピーなどの民間療法を執り行う一種のシャーマンのようなことを生業としている一種の宗教的マイノリティ。主人公は娘を救いたいという一心から彼の行動すべてを怪しみ否定し、全て本当のことを話している隣人の話を嘘だと決めつけ、自白を強要する。異常にヒステリックで自身は何の証拠も示さず、そんなわけない、怪しい、不自然だと延々と詰問を続ける。
そもそもこの女が父親の喪失を悼む娘を怒鳴りつけ傷つけたたことが失踪の引き金なのに、いや、だからこそそれを受け入れられずに私が悪いんじゃなくてこの目の前の怪しい男が悪いんだという自己正当化、自己防衛のために善意の隣人を痛めつける様はもう本当に無理。
義妹からは根拠のない暴力をふるうお前たちはおかしい警察を呼ぼうと提案されるも火災が近いから娘、姪を助けるために必要なんだと暴力を正当化する姉弟に絶望する義妹というコントラストも効いてる。
そして、実際には娘を穴から救出してくれた隣人を殴り倒し火中に放置して脱出し、娘から「隣人に助けてもらった」と聞いても「言わされてるんでしょ?」「本当はなんかされたんでしょ」「彼がつれていったんでしょ」としつこく聞き返すクズ。そして真実を確信した後もとりあえず安全地帯まで娘を連れて行きしばらく悩んだ後にようやく隣人の元に戻るカス。
一度疑念に火がついてしまった人間はここまでキチガイになれるのかと本当に鬱々とさせられる。
っていうのを「火災」と紐づけるのは比喩としてあまりに直球すぎると思いつつも正しいアプローチだと思う。
オープニングもよくて。電話で喧嘩をする音声が遠くから聞こえて、その喧嘩を中継している電波塔の機材がショートし火花が地面に落ちてそこからボヤが発生する(ここのCGがクソチープで危うく絶望しかける)という、些細な諍いから発生した火花が止めようもない巨大な災害に発展するというこの作品のすべてを表しているのが良き。
そして隣人を殴り倒して放置して帰る場所が防火帯(ファイヤー・ブレイク)という、森の中に敢えて木が植わっていない場所を作って火災の時に火が燃え広がらないようにする場所になっていて、左側は大火災、右側はまだ燃えていない森、そしてその真ん中に3人がいるという「冷静と情熱のあいだ」みたいになっているのも象徴的で、なにより絵としてめちゃくちゃ美しくて感動した。そしてその防火帯を管理するのが隣人の仕事だったんだよね……
難病で苦しむ夫は余生を静かに暮らそうと森の中に引きこもり自分の好きな熊の彫り物を作って静かに死んでいったことに対しても主人公は「彼を救えなかった自分」と「私に救わせてくれなかった彼」の両方を責めていて、夫の死をうまく消化できていないのは理解できるが、それを何も悪くない娘や隣人に向けるのは俺は許せない。
最終的に隣人と姪は同じ病院に収監され助かり、隣人はおそらく主人公が通報(自首)してやってきた警官に「小熊を守ろうとした母熊に襲われただけ。刑務所に熊は入れられない(から被害届を出すつもりはない)」と主人公の母性の暴走を許し、それを見て弟はほっと胸をなでおろし(ジュネーブ条約違反だし)、夫の思い出が詰まった家に戻った主人公は隣人から「灰の中から育つ花」をもらって新たな生活に歩み出すのだった死ね。
心底胸糞悪いクソ映画だったけど、この映画は間違いなくそれを狙って作られていると思うので俺が好きか嫌いかは別としてこの映画にくらわされたことは事実なのでちょっと高めに点はつけた。倫理的に間違った現象を倫理的に間違っていることを自覚して描く映画は俺は正しいとは思うし。母は強し(キチガイ)な映画が好きな人にはオススメ。