はてなキーワード: 半年とは
3歳まで猶予を与えようよ。
可哀想だよ。
逆子で生まれて脳性まひになっても、「はいもうタイムリミット切れです!日本の法律はお前を救いません!地獄の80年をお楽しみ下さい!ゲハハハハハハアハh」は残酷すぎないか?
3歳までは中絶として認めよう?
それが人の道だ。
想像してご覧。もし君が生まれついての脳性まひで、親のメンツを守るために死ぬことさえ認められず、ふと気づけば成人を終え、それでも続く地獄、振り返えれど思うことは「早く死んでいれば」という後悔。
そんな君の死を望む気持ちを親はいつまでも妨害し、そんな君のちゃんと生きたいと探る道を社会が根絶する。
八方塞がりの無間地獄の中で、何故生まれてきたのかと日々後悔し続ける。
親は遠い目で君に「早く死ねよ」と語りかけ、そうでありながら君の飛び降りや首吊りを見るや死に物狂いで止めにかかるのだ。
出産後の中絶を一切認めない社会は、世界に地獄を広げんと努めるに等しいだろう。
3歳までは死を許して欲しい。
せめて1歳。
せめて半年。
出産というクソデカリスクが残っているのに平然と「ここまで大きくなったらもう中絶は無理ですよ。もしやったらお前は人殺し!死ね!」と語ることのどこに正義がある?
国力増強の手段でしか無かった頃のキリスト教が利益のために経典に加えただけの下心まみれの正義をいちいち守るな。
本当の正義を守ってほしい
21歳〜27歳までの6年半付き合った元カレがいた。
私にとっては大恋愛だった。
結婚すると思っていたし、その話は彼の方から何度もしてくれた。
それでも別れてしまった。浮気や喧嘩別れ、というわけではない。
彼とは付き合っていた時間の半分以上が遠距離恋愛だった。会えるのは半年に1回くらいで、LINEは毎日していたけれど、電話はほとんどしない。
会えたときはめちゃくちゃ嬉しくて楽しくてドキドキするけど、時間とともに気持ちは薄れて、また会ったときに気持ちが復活して……の繰り返し。
そうして昨年末、
将来住む場所、生活環境と、それ以外のこと(家族や友人と離れてしまうこと、ヲタ活がしづらくなってしまうこと、仕事など)を天秤にかけたとき後者に気持ちが傾いている自分に気がついた。
完全に嫌いになったわけでも、気持ちが全く無くなったわけでもない。けれど、この関係を続けるのに限界が来てしまった。
私は彼の地元に行く踏ん切りをつけられなかったし、彼は私を迎え入れる準備を整えられなかった。
別れ話は電話で伝えた。私の気持ちが離れていることに勘づいていたようで、引き止められることはなく、最後は他愛もない話や今ならぶっちゃけられる思い出話なんかをして電話を切った。
6年半も付き合っていて、大好きで運命だとすら思っていた人と別れたのに、あんまり引き摺ることはなく、翌週にはマッチングアプリを入れて2週間くらいで一気に7人くらいと会っていた。
なんなら今はいい感じの人がいる。
それなのに今、部屋を片付けていたら彼にもらった手紙が出てきて感傷的な気持ちになってしまった。
私が彼の誕生日に手紙や手作りのアルバムを渡したのを始まりに、彼も毎年誕生日に手紙を書いてくれるようになって、6年分の手紙。
恋愛経験豊富な彼が、「今まで彼女に手紙なんか書いたことない」と言っていた。本当かはわからない。
読み返したら泣いてしまう気がして封筒は開けていないけど、ミニアルバムやプリクラも出てきて苦しい。
別れて2週間くらいでスマホに残っている写真は全部消せたのに、手紙という心の込められたものを前にするとどうしても捨てられない。
お祓いとかお焚き上げに持っていくという話も聞くが、それは違うような気がしている。
「元カノからもらった手紙を捨てない彼氏に怒る彼女」が度々SNSで議論されているけど、こんな気持ちなのだろうか。ここまでセンチメンタルではないのだろうか。
もし次に恋人ができて、その人のことを元カレ以上に好きになれたら捨てられるだろうか。
元カレ以上に好きになれる人なんているのだろうか。
まず、18歳から29歳の女性を、定期的な収入のある男とランダムで中出しセックスさせる法案を作ります。
週2回中出しセックスを必須とします。半年経っても出来なかった場合は、チェンジですが、どちらかの子か分からなくなると困るため、
子どもが出来た場合は、男は養育費を払うことになります。ちなみに銀行口座から毎月強制的に引かれる法律です。
払えない場合は禁固刑になります。10年の禁固刑です。自身の肝臓を売ってでも必死にお金を用意しましょう。
子作りに成功した男女は一緒に生活する必要はありません。別に愛は無いからです。
また子どもを産んだ女性には3000万円が国から支払われます。子どもを大学まで行かせる義務が生じます。
特別な事情には配慮しますが、基本的に行かせることが出来なかった場合は禁固刑となります。10年です。
性被害と言ってもガッツリレイプとかではなく、寝ているときに膣の中に指を入れられたというもの。
これくらいでと言われてしまう世の中だったが、今は少しでも問題視されていたら救いだと思う。(正直初めて文字にするので思い出してしまって辛い)
このことに関して、当時は頭ではよくわかっておらず感情で「なんか嫌だな」と思ってそこから義父と一切話さなくなり、関係はズルズルと悪化した。
それ以降、性被害されることもなかったが、事あるごとに異様な束縛、異常に厳しかったり、コミュニケーションにも難があった。そういう面で中高生の頃は嫌いだった。
大学生になったころ、当時されたことが性被害だったということに自覚をもち始めており、大鬱をかましていた。なぜ私だけがこんな目に遭わないといけないのか、どうしてこの傷は癒えないのか、7年経ったタイミングで遅すぎる、ととにかく被害者意識が強くて私が報われてほしいという気持ちが強かった。ただ、義父から「秘密にしてほしい」と当時言われていたので性被害のことは家族の誰にも言えずにいた。
そんなタイミングで、義父が母と正式に婚約することになり苗字が変わると言われた。私は当時19で成人も20歳の法律のころだったため、苗字の選択権がなかった。あと一年あれば苗字が選べたのに、私のことを優先してくれなかったことにも腹立った。性被害をしてきた男の名前を名乗るのが死ぬほど嫌だったし、苗字を変更したことによる手続きは全部私がするのでデメリットしかなくて半年くらいゴネていた。それを見かねた母に理由を尋ねられ、そこで初めて性被害について明かした。母はしばらくショックを受けた様子だったが、私に何かするでも義父に何かするでもなかった。
ずっと訴えたかった。捕まって欲しかった。今でも捕まってほしいと思っている。でもそうできない理由がある。義父と母の間には子がいる。つまり私から見ると異父姉妹にあたる妹がいる。妹はまだ幼い。私が万が一訴えたりして捕まったり、賠償金を請求したりしたら妹が今後進学するのにお金が足りなくなる。妹の人生には迷惑をかけたくなかった。私も妹は好きだ。生まれてきた妹には罪はない。
ずっと訴えたいのに、捕まったりしてほしいし私が殺そうと思ったことも数えきれないほどある。辛いと言ったときに誰かに抱きしめてほしかった。一緒に怒って欲しかった。でも今まで、誰にもされてこなかった。それのせいで、ずっとずっと心に残り続けている。本当に嫌い。こんな傷を負っている自分も、何も思わずのうのうと生きている義父も。
もう会わなくなって4年ほど経ち、当時ほど大きな苛立ちはなくともふと思い出したときの殺意がある。殺したい。捕まってほしい。そう思う時があるけど、冷静に考えて、捕まっても、勝手に死んでも、きっとこの傷はずっと癒えないのだろう。誰かに話しても、仮に抱きしめてもらっても、もう癒えない。残り続けるんだろうなと思う。
過去の自分を救えなかったから、今自分の人生を楽しく生きる事だけに向かって頑張っているけど、やっぱり辛いよ。早くこの記憶だけ綺麗に消してくれないかな。
私のような思いをする人が1人でも減りますように。
年間10泊ほどしているでしょうか。
お気に入りの部屋があり、ほぼ毎回そこをお願いすると快く受けていただけました。
穴場ホテルだったのですが近年人気が出てきたようで、価格がぐんぐん上昇し始めました。
それでも利用を続けていたのですが、昨年初めて希望する部屋は取れないと言われました。
しかし半年近く先の予約で、まだどうにでもなる時期だと思います。
これはもう歓迎されてないのかな?
他の部屋ならいくらでも予約可能ですが、なんだか興醒めしてしまいました。
皆さんなら、どうしますか?
補足です。
そのホテルは離れが5部屋あり、天然温泉かけ流しの露天風呂がついてます。
5部屋すべてに宿泊経験がありますが、うち一部屋が我々夫婦の一番のお気に入りでした。
これまでは、その部屋をお願いすると快く受けていただけました。
でも2回連続で断られ(本当は可能なのに断られたと思います)なんだか興醒めしてしまいました。
他の離れなら予約可能です。
でももう潮時なのかな?
他にもお気に入りホテルは複数あり、完全に切ってしまうこともできます。
皆さんなら、どうしますか?
3年ほどキャバ嬢をやっていたけど、お客さんと付き合ったことはある。2人ほど
1人は20代後半イケメンの元反社でもう1人はいわゆる太客で既婚者40代。
1人目と付き合ったのはとにかくかっこよかったから。フリーで15分くらいしかついてないけど連絡先を聞いて、その後デートして付き合うことになった。
付き合ってから店には来てくれたけどそんなにお金はつかってない
1年くらい付き合って、普通に別れた
2人目と付き合ったのは夜のお店をやめてから
お世話になったので昼間に数回あったりデートを重ねて飲みに行ったときに酔って一線超えて月一くらいで会うようになった
キャバ嬢と付き合いたい場合、超絶イケメンで普段からモテる人以外は相手がキャバ嬢として働いているうちはただひたすら良い客として彼女に金を注ぎ込むのが良いとは思う
普通の人に戻った時に「ああ、あの人良くしてくれていたな」という記憶だけ残っているから
ある程度お金をもっていてスマートな遊びをしていて(飲み物や食べ物をちゃんと注文して指名する)話が合うしルックスが自分好みならちゃんと恋愛する
でも本職でがっつりキャバをやってる人と付き合ったりするのはよほどの強者じゃないと無理だと思う
強者っていうのは金持ちで、ある程度余裕があって普通にモテるから彼女が男に媚びを売っても許せるタイプ
本職も学生もだけど残念ながらキャバ嬢が非モテと付き合うことはまず無い
1日に大勢の接客をして、いろんな男の人を見るんだからそこで女性の扱いが苦手な男性はまず選ばない
この人何歳なんだろ。普通に交通事故レベルの認識持ってないと出産後半年くらいで突然その時の血栓で卒中起こして死ぬ人だっているのに。
フェミニズムは全く関係なくて、所属する社会に問題があるような気がした。それをフェミニズムとか今あるトレンドに乗せて恨もうとしている感じ。
正直、最初は「あ、そうなんだ」くらいの感じで特に悲しいとかもなかったんだけど、周りが騒ぎすぎて逆にイラつくんだよね。
親戚がやたら「ちゃんとご飯食べてる?」「何かあったら言ってね」みたいなこと言ってくるんだけど、別にこっちは普通に生活してるし、そんな特別な気持ちとかないんだわ。
でもさ、向こうは向こうで「大変だったね」とか「まだつらいよね」って勝手に同情モード入ってきてウザいのよ。
悲しんでるのはそっちだろって。
こっちはもうそんなこと気にしてないのに、「ちゃんと泣いてる?」「心の整理はついた?」みたいなこと聞いてくる。
害獣2匹がいなくなっただけって感じ。
あいつらが生きてた頃は、文句ばっかり言ってくるし、自由なんかないしで地獄だった。
だから、いなくなったらいなくなったでスッキリしてんのに、なんでそんなに悲しんでると思われてんのか謎。
本音では「あー、ほんと静かで平和だなー」って思ってるのが実情。
なのに親戚やら周りの人やらがいちいち突っ込んできて、こっちの感情を勝手に決めつけてくるのが本当にウザい。
何か言いたいなら、もう俺の前じゃなくて他所でやってくんないかな?って思う。
マジで放っといてほしいわ。
今乗ってる車が、2013年式で2015年に購入した中古車(走行距離的に前のオーナーはほとんど乗っていなかった&綺麗だった)なんだけど、ディーラーからもう乗り換えようの案内がしつこすぎて、これもしかしてセールストークじゃなくて乗り換えるべきなのかなと思い始めてきた
車検が今年の夏にあるからその前に!って話から、金利やらなんやらのキャンペーンは今だけだから今週半ばまでに買うかの連絡をくれって昨日言われて、いやいやいやいやそこまで早急に決めないといけないの!?って分からなくなってる
正直まだいけるやろ!とも思うし、確かに半年点検の度3万とか払ってるからもしかしてもうダメなのか?とも思う
なんとなく流れてきていい曲だなと思っていた曲を調べてみたら「結婚を焦る女性」の曲でビックリした。
まあ海外とは文化は違うんだろうけど、違う文化でも同じようなものを感じると面白い。
どんな形であれ、働けているのはとてもすごい、ほんとうにすごい
私もASD(受動型)だが、近所の外出と週に1度の精神科病院のデイケアに行くだけでやっとで働けていない
入院はしんどい、スマホも使えず強制的にデジタルデトックスされる
コロナ禍の時は面会も外出も外泊もできなかったけど、多少の制限はありつつも今はできるから楽にはなった
今は「合理的配慮」の提供が義務化されているから、職場での配慮に関しては交渉の余地はあると思う
職を失った場合は「就労移行支援」という福祉サービスや「障害者職業センター」「障害者就業・生活支援センター」といった公的機関の支援を受けられる
就労移行支援は前年度の収入状況で利用料金が変わるけれど、月9300円か無料で使えている人が多いと思う
職業センターと障害者就業・生活支援センターはお金はかからない
就労移行支援は事業所ごとに色があって、発達障害とか精神障害の人限定で受け入れていたり、知的障害も身体障害もなんでもござれのところもある
就労継続支援B型が併設されているところは、かなりゆるいから働けていた人には逆にしんどいかも(就労できなかったらB型に流されるので本気でやってくれない)
就労移行支援しかないところの方が就職に向けてガチでやってくれる感じはある
基本的には2年しか使えないから事業所選びは時間かけてやった方が失敗は少ない
「就労定着支援」の事業所が併設されている就労移行支援に行けば、就職後3年半は支援してもらえるからおすすめ
公的機関の支援は福祉サービスより短い期間しか受けられないけれど、質は担保されている
休養期間を置かずにすぐに動けそうならまずは公的機関に相談してみてもいいかも
働けない状態になったときは障害年金で収入面の補填ができる場合もある
私は20歳前に初診があったので基礎年金だけだけれど、この前申請をした
病院のPSWさんに「社労士にお金を払うのはもったいない」と言われたので、私はChatGPTに課金をして申立書を書いた
社労士に何十万も払うくらいならChatGPTに課金した方がおすすめ
月2860円できれいに文章をまとめてくれる、正確な情報収集には向かないけれど文章の推敲にはほんとうにおすすめ
ただ、初診から何件か病院を変えているならば書類集めが大変だから社労士を頼むのも一つ手としてはある
なんとでもなる
工場系の会社でIT事務をやっているんだけど、暇すぎて気が狂いそう。
もう1年半くらい、週に数回のオンコール対応しか仕事がない。それ以外の時間は本当に何もやることがなくて、エクセル開いたり閉じたり、社内ポータル眺めたりして、1日8時間をなんとかやり過ごしている。
「暇なら勉強でもすれば」って思うじゃん。無理なんだよ。後ろに上長の席があって常にこっちの画面が見えるし、PCも監視されてる。業務と関係ないことしたらたぶんバレる。
スマホも無理。セキュリティの関係でオフィスに持ち込めなくて、退勤までロッカーに入れっぱなし。だからトイレに篭って時間潰すとかもできない。そもそもオフィスに4人しかいないから、長時間席外してたら絶対おかしいって思われる。外出も申請必要だし、リモートワークも禁止。完全に詰んでる。
一番つらいのは、たぶん上長含めて同僚全員同じ状況だってこと。みんな何かしら仕事してるふりしてる。雑談も発生しないから、誰が何の仕事してるのかもわからない。お互い何もしてないの知ってるのに、誰も何も言わない。この沈黙の共犯関係みたいなのが、じわじわ精神削ってくる。
ストレスがすごすぎて最近貧乏ゆすりが止まらない。先日、革靴が壊れた。ソールが剥がれた。買って半年なのに。貧乏ゆすりのしすぎだと思う。
誰か助けてくれ。
続き
そのうち、世の中はウィンドウズ時代に突入し、パソコンも16ビットパソコンから32ビットパソコンへと移行していったのである。…といっても、ウィンドウズ3.1は、とっくに発売されていたが、ゲームの世界が未だにDOSベースだったので、それまでは何とかなっていたのであった。が、こう周りがウィンドウズだらけになってくると、流石に不安になって、DOSからの移行を考えざるを得なくなってしまったのであった。
上述のPC-286VEでも、ウィンドウズを試してみたことがあった。そのころは、ウィンドウズは3.0で、フロッピー5枚組という、今から考えればささやかな構成であった。当時は、ウィンドウズ3.0対応のソフトもほとんどなく、これは試してみるだけで終わったが。
実は、32ビットパソコンへの移行の際に、一つの考えがあったのである。つまり、Macへの移行である。当時、Macの世界も変革の時期を迎えていたらしく、小さい筐体が却って可愛らしいマック・クラシックやカラーマック(多分これでいいんだよな…)が発売されると共に、通常のサイズのマックも、そこそこの(ウィンドウズマシンと変わらない)価格で発売されるようになっていたのである。
しかしながら、相変わらずゲームユーザーであった私は、ゲームソフトのコーナーを一瞥して、やっぱりゲームはDOSベースが多い、とばかりに、ウィンドウズマシンを選んだのであった。思えば、ここが運命の分かれ道であった。
まぁ、ウィンドウズがいいか、マックがいいかは、今でも議論が分かれるところではあるが、このときマックを選択していれば、今の私のパソコンライフは、かなり違ったものになっていただろうことは、疑いのないところではある。
で、購入したマシンは、16ビットに引き続き、EPSONの、いわゆる「ジャケットサイズ」(…といっても、今はもうLPレコードそのものがマイナーな存在であるが…)の小さな筐体がウリのマシンであった。CPUは、486DXの廉価版の486SXで、クロックは20MHzだった、確か。この辺は記憶が曖昧。120MBのハードディスクと8MBのメモリが付いていた。一応、ウィンドウズ3.1は動くというスペック。
このPC-486SEは、当然のことながら、後にいろいろと手を加えた。
こんな具合に。
グラフィックアクセレータ追加(メルコ製、サウンドボードに装着するタイプ)
メモリ8MB追加して16MBに。
CD-ROMドライブ追加(メルコ製のサウンドボードに直結のタイプ、2倍速)
オーバードライブプロセッサ(確かIOデータ製)追加して、CPUをPentium 75MHz相当に。
ディスク圧縮ツールを購入し、340MBのハードディスクの容量を540MB相当に。
これだけの改造(とはいわないか…)を施し、やっとウィンドウズ3.1が快適に動作するようになったのだ。しかし何ですな、よくこれだけ発展性のない改造をやったものだと、我ながら思う。CD-ROMは、インターフェイスが専用なので使い回しができないし。
因みに、CRTは、グラフィックアクセレータを追加するまでは、8801の頃から使っていたNECのPC-854Nを使っていた。アクセレータ購入後に、CRTがマルチスキャン対応ではないことに気づき、CRTを買い換える。ソフマップブランドの、Susteenのものでした。安い割には結構画質が良かった。
ウィンドウズ3.1にしてから、インターネット接続も始めた。最初は何がなんだか分からなかったので、接続ソフトは、取り敢えずインターネット・オフィスという、パック品を使用。接続は、スムーズであった。付属のブラウザは、今や懐かしい「モザイク」である。モデムは友人から譲り受けた14,400bpsのものだったが、このころはこれで十分なのであった。
ホームページもこのころから作り始めた。かねてから懸案のFrank Zappaのページ作りを始めるに当たり、ジャケット取り込みのためのスキャナを購入。このころは、真裸婦ラットベッドの製品は非常に高価であったので、ハンディタイプのものを購入。LPジャケットを8回に分けてスキャンし、付属の合成ソフトで合成するという、涙ぐましいものであった。
このPC-486SEでも、ゲームはずいぶんとやった。でも、以前ほどたくさんはやっていないのだな。
上述したELFの「同級生」の続編。こちらの作品は、「兄と妹」という設定で大ヒットしたという記憶がある。前作のシステムやノリをそのまま引き継ぎ、内容をさらに充実させた、名作。
ホムンクルス(妖精)を育てて人間にするという、育てものゲーム。キャラデザが、イラストレーターの中村博文(どじ)氏だということで購入。そこそこやったが、何故か私が育てるとみんな悪魔になってしまい、そのうち断念。
…印象に残っているのは、このくらい。この時期は、ゲームはスパーファミコンを中心にプレイしていたような気がする。パソゲーが少ないのはそのせいかな。
さて、ここでウィンドウズ95の発売となるのだが、EPSONがEPSONパソコン対応のウィンドウズ95の店頭販売を断念し、注文販売だけにしてしまったので、これは先が無いことが判明してしまった。新規にパソコンを買う予算も、早々には調達できない私は、しばし呆然とし、どうしようかと思いあぐねたのだった。
そのとき、天の導きかはたまた悪魔の誘いか、職場の先輩から、1枚のマザーボードが私の下へ転がり込んだのである。この1枚のマザーボードを発端として、今に至るまでの私のパソコン自作時代、パソコン大散財時代へと突入するのであった。
この譲り受けたマザーボードで製作した最初のシステムは、以下の通り。
MB(Mother Board):メーカー不詳、P54C対応マザー
SB(Sound Board):Sound Blaster互換のバルク品
Graphic Card:Canorpus PW-3DV
以下は、PC-486SEのころのものを継続して使用している。というか、このころは、PC-486SEも併用して使っていた。
Modem:Microcore 28.2kbps
CRT:Susteen 15inch
とにかく安く上げようとして組んだ結果がこれである。ま、最初にしては上出来だったのかもしれない。
で、そろそろこのシステムでは物足りなくなり、もう少し上のシステムに組み替えようと思い立ったわけである。
さらに、ホームページ作りに役立てようと、スキャナを購入したのも、このころかな。
CPU:Cyrix PR166+ (Clock=133MHz)
SB(Sound Board):Sound Blaster互換のバルク品
Graphic Card:Canorpus PW-3DV /VRAMを4MBに増設、ビデオキャプチャ機能を増設
Modem:Microcore 28.2kbps
CRT:Susteen 15inch
MBにGIGA-BYTEを選んだのは、メーカー名が気に入ったのと、当時大攻勢だったASUSのものは使わないというコンセプト(?)からである。それと、SIMMのスロットが6本あるというのも、魅力であった。結局、SIMMは4本しか使わなかったが。これは、RAMをマッピングするTAG RAMの増設を億劫がったためである。TAG RAMを増設しないと、64MB以上のメモリ空間に対してアクセスが遅くなり、全体的にパフォーマンスが悪くなるらしいのだ。
さらに、このシステムに対して、CD-Rドライブを増設。ヤマハのCDR-400t-VKである。I/Fは、SCSIである。このころから、音楽製作関連にも大散財時代が訪れたのであった。
CD-Rを使って、現在も続いているPSY-DOLLというバンドのCDを焼きまくったのであった。当時は、CD-Rの原盤の質もそれほど良くはなく、結構エラーが発生して板を無駄にすることが多かった。
この後、システムは急速に変遷を続け、私は、大散財を続けるのであった。
RAM:DIMM PC-100/CL2 192MB(64MB+128MB)
Audio Card:emagic Audiowerk8
Graphic Card:Creative Labs Graphics BLASTER/RIVA TN
DISPLAY:MITSUBISHI RDT141X(LCD)
フォルダを漁っていたら、1999年5月に書かれた、自分のPC履歴が発掘されたので、貼り付けてみる。
なんだかんだ言って、私がパソコンを使うようになってから、10年近く経ってしまったのである。プログラムを組んで実行できる最初のマシンは、高校のときに購入したCASIOのプログラム電卓FX-502Pであるが、これはあくまで電卓であり、パソコンとは多少趣を異にするものであった。
パソコンとして最初に購入したのは、NECの8ビットマシンPC-8801MA2であり、完全なるゲームマシンであった。以下、16ビット時代に突入してEPSON PC-286VE、32ビットマシンのEPSON PC-486SEと続き、とうとう自作DOS/Vマシンをメインのマシンにするようになってしまうのであった。
これから、私のこのしょ~もない足跡を辿ってみたいと思う。PC-8801MA2~PC-486SEの項には、そのときハマったゲームの感想なども記してある。暇な方はこちらもどうぞ!?
小さい頃から、電気・電子関係が好きで、親にマイキット(パネル上にトランジスタとか抵抗、コンデンサなどが並べられており、スプリングになった端子にコードを挟んでそれらを繋いで回路を作る)や電子ブロック(透明なブロックにトランジスタや抵抗などが入っており、ブロックをボード上に配置して回路を作る)などを買ってもらい、それでラジオなどを作って遊んでいたのである。マイキットでラジオを作り、夜中にこっそりと深夜放送を聞いていました。(^^;
因みに、私がアマチュア無線の免許を取得したのは、小学生のときである。これは、ちょっと自慢してもいいと思う。
当時、「初歩のラジオ」とか「ラジオの製作」、「電波科学」などの雑誌をよく読んでいたのだが、流石に、中学生の私にはディジタル回路は難しく(というよりも、何をするためのものなのか、イマイチ理解できなかった)、ボードマイコンTK-80などに手を出すには至らなかった。
まぁ、何しろ当時は、マイコンといっても論理回路の動作から入る必要があったので、当然といえば当然であろう。
そして、関数電卓などをいじくり、「このキーとこのキーを同時に押すと変な表示になる!?」などと遊んでいた私が、最初に手にしたコンピュータらしきものは、カシオのプログラム電卓「FX-502P」である。
これは、512ステップまでのプログラムが組めるというもので、ちゃんと「GOTO」キーや「GOSUB」キー、「LABEL」キー、条件判定を設定するキーなどが用意されていて、結構本格的なものでした。レジスタも10個使えた。ランダムに数値を出力するキーも付いていたな。
プログラムライブラリ(本ですが)なども付いてきていて、掲載されている通りに打ち込むと、科学計算をやったりゲームなどを楽しむことができた。もちろん、プログラムを外部に記録しておくこともできたのだ。オプションが必要だが(買った)、普通のラジカセなどを使ってカセットテープにプログラムを記録するのである。
あと、FX-502Pでは、キーに4分音符や16分音符などが割り当てられていて、短音だが楽曲を打ち込むこともできた。上述のオプションを利用して、ラジカセなどで鳴らすのである。
学生時代は、ビンボーだったせいもあって、パソコンには縁がなかった。友人宅でシャープのTurboIIIなどでゲームをさせてもらうのが関の山なのであった。
で、就職して最初に購入したパソコンが、NECの8ビットパソコンの最終形態ともいうべきPC-8801MA2である。
当時は、既に16ビットパソコンのPC-9801Vm2なども発売されていたのだが、私の選択したのは8ビットマシンの「ハチハチ」なのであった。何故か?
それは、パソコンでゲームがしたかったからである。当時は、違法行為に限りなく近いレンタルソフト屋が横行していて、ゲームソフトなどが比較的安い価格で入手できた(ソフト毎のパラメータファイルでコピーを行うFile Masterは必需品)。また、ゲーム市場も8801主体であって、9801用のものはごく少なかったのである。
とにかく、とても全部やりきれないくらい、ゲームを借りまくった。
何を隠そう、私が8801を購入して、最初に買ったゲームがこれである。何で、最初からこんなに難易度の高いゲームを、と疑問を持つ向きもあろうが、要するに、当時はパソゲーなるものが全く分かっていなかったのである。しかも、あろうことか、購入時には、アクションRPGの先駆け的存在である「ソーサリアン」とこの「マイト・アンド・マジック」を天秤に掛けていたのである。
世間では、「クソゲー」との評価が一般的であるが、私は、このゲームは名作であると信じている。とにかく、世界が存在していて、プレイヤーはその世界に住むところから始まるのである。ストーリーは、最初は与えられず、発見したものだけがストーリーに参加できる。しかし、ストーリーに参加しなくても、とにかく世界が広大・深淵なので、アイテム探しやダンジョン探検だけでも、十分堪能できる。私は、後述する16ビットパソコンの時代まで、約3年以上もこのゲームにお世話になったのである。
「ドラクエ」シリーズで有名なエニックスのアドベンチャーゲーム(AVG)。
不気味な感じが大変心地よい秀作。本作では謎を残したまま終結し、後に「アンジェラス2」が発売されるが、時期を完全にはずしていたし、余り面白くなさそうだったので私はやっていない。
今はHゲーのメーカーになってしまった、しゃんばらのRPG。私の大好き(だった)漫画家、松田紘佳がキャラデザ他を手がけている。音楽もこの人だったな。もしかすると、「2」は後述のPC-286VEでプレイしたのかもしれない。海が舞台の、異色のRPG。とにかく海なので、3次元的に自在に移動できるのがミソ。階段を使って他の階へ移動する一般的なダンジョンとはひと味違うのである。
ただ、惜しむらくは、これは私がコピー品でプレイしていたから良くないのであろうが、2作ともエンディングを見れなかったことだ。
1作目では、「ピー」とビープ音がしてゲームがハングアップ。2作目では、たぶん最終場面であろう画面から1歩も進めず、アウト。
今あったら、正式に購入して再度挑戦してみたいゲームではある。
かのアスキーが発売していた、Hゲー。ダンジョンを歩き回るRPGである。
このゲームは、とにかくノリが非常によく、テンポが軽快で楽しいゲームであった。ゲーム自体は、6階+αの「ウロボロスの塔」を探検して、秘密を探るというもので、出てくるモンスターが女の子で、ダメージを与える度に女の子が1枚ずつ服を脱いでいくという、他愛もないものである。
このゲームをして最初に驚かされたのは、グラフィックの描画の早さである。何だかんだ言っても、8ビットパソコンであるので、当時のゲーム、特に、グラフィックを強調したゲームでは、描画に恐ろしく時間がかかった。一枚の画像を出すのに数秒、ひどいものでは、数十秒、なんていうのもあった。
そんな中で、この「カオス・エンジェルス」は、とにかく、一瞬で画像が描き換わった。これは、当時ではとても新鮮なことであった。
また、そのBGMもとても斬新で、簡単なFM音源を使いながら、とてもハイセンスな雰囲気を醸し出していたのだ。音楽の秀逸さでは、水龍士といい勝負かもしれない。
しかし、このゲームの最大のポイントは、「洒落っけ」にあると思う。ダンジョンの壁に、前に探検した人の落書きがあって、これがまた奥が深く面白い。この落書きがゲームのヒントにもなっているのだが、関係のない落書きもあって、これを探すだけでも、結構楽しめた。
当時、特にスタジオピエロ系のキャラクターもののゲームを数多く出していた、マイクロキャビンのAVG。マイクロキャビンでは、この後も、「めぞん一刻」や「気まぐれオレンジロード」などのキャラ系ゲームを続々と発売していた。
このゲームは、少年サンデーに連載されて、アニメ化もされ一世を風靡した、高橋留美子の同名の漫画「うる星やつら」をゲーム化したものである。
ゲーム内容は、確か、面堂家の誰か(終太郎か、了子か、どっちか忘れた、たぶん了子だ)の誕生日に招待されたお馴染みのメンバーが「迷路」を探索しながらゴールにたどり着くというものである。何かのイベントを経る毎に、時間が経過していき、それにより結果が変化するというのと、途中の行動で結果が変化するということで、数種類のエンディングが用意されていたように思う。
マルチエンディングや時間の概念は今でこそ珍しくもないが、当時では結構画期的なことであったのだ。
フェアリーテール(ELF)の伝説的名作AVGである。確か「2」もあった。フェアリーテール(ELF)のAVGは、何かこう、独特の雰囲気があって、それが私は非常に気に入っていた。なんていうか、どことなく寂しげな感触というか、ちょっと空虚な感じとでもいおうか。キャラクターや展開、秀逸なBGMなどが、この雰囲気を醸し出しているのだ。
フェアリーテール(ELF)のAVGは、この他にも相当やった。「ELLE」なんかは、最後のどんでん返しが強烈でした。
そのほかにも、いろいろゲームはやったが、とんでもねーゲームを一つだけ…
これは、要するに当時大流行の「北斗の拳」のパロディーHゲーである。
ゲーム内容がくだらないのもさることながら(あまりにくだらなすぎて、ケンシロウのようなキャラが出てくること以外、忘れた)、その作りがとにかく凄い。
これは想像だが、このゲームは、おそらくN88-BASICで組まれている。なぜなら、まず、ストップキーでゲームが止まってしまう。そして、そのとき、画面の左上隅に「>C^」が出る(分かる人には分かるね!?)。
そして、NECの8801,9801シリーズのパソコンには必ず付いていた、画面のハードコピーを取るキー「COPY」を押すと、押したときに表示されている画面をプリンタに印刷することができる。
なんか、「流行だから適当に作って一発当てよう」という意図の見え見えなゲームでありました。
…そうこうしているうちに、8ビットパソコンは衰退し、ゲームソフトも発売されなくなって、世の中は16ビットパソコンの時代へと、大幅に突入したのだった。
そこで購入したのが、NECではなくて、EPSONのパソコンなのである。ここいらへんに、私の偏屈さがにじみ出ていますね~。(^^;
パソコンに金をかけだしたのも、このころからである。…まぁ、8801じゃあ、金をかけようにもかけるところがないですが。(^^)
今ではもう信じられないが、当時は、1MB/1万円がメモリの相場であった。しかも、メモリをパソコンに組み込むには面倒な設定がいくつも必要で、さらに、汎用のスロットを一つ占有してしまうのだった。また、今でこそ、SIMMとかDIMMとかいって、大容量がコンパクトに収納されているが、当時は、たとえ1MBでも、12cm角くらいの基板にチップがびっしり載っていたのだった。
それでも、1MBあると無いとでは、雲泥の差があった。
これも、今ではもう信じられないが、当時は、例えば40MBで8万円位した。しかも専用のインターフェイスが要る。これでまたスロットが一つ埋まったのであった。
でも、当時のソフトは、40MBでもお釣りが来るくらいの容量だったんだよね~。
あと、このマシンから、パソコン通信を始めた。当然NIFTY Serveから。
当時は、WTERMを使い、通信速度も2400bpsであった。50kBの画像をダウンロードするのに何分もかかり、さらにその画像を表示するのに何分もかかった。大変な時代であった。
このPC-286VEは、後に友人の手に渡り、そこでVRAM異常が発生してお亡くなりになってしまいましたとさ。合掌。
このマシンでも、ゲームはずいぶんとやった。中で、印象深いものをいくつか紹介しようと思う。
上述したものと同じである。当然、続きではなくて、新規に始めた。やはり8ビットのものと比べて速い。何しろ、8ビット版は2DDのディスク4枚組で、地上、ダンジョン、城、と場所を変える度にディスクの入れ替えが必要だった上、そのたび毎に、システムディスクに書き込み(1分くらいかかった、マジで…)をしていたのだ。それがなくなっただけでも、快適である。ただ、8ビット版の頃はあったBGMがなくなってしまったのは、ちょっと寂しかったが。
なかなかハマった。各エンディングも味わい深いもので、30数種類あるといわれているエンディングを20数種類まで見て、飽きてやめた。プリンセスと謎のエンディングは見ていない。けど、いいや。
「1」と「2」は、3Dダンジョンもの。当時は3Dダンジョンでさえ珍しかったのに、Hゲーで3Dダンジョンというのは、相当なインパクトがあった。ゲーム的にもよく練れており、ダンジョンの仕掛けも良くできていた。Hゲーという観点を排除して、単にゲームとしてみた場合に、非常に完成度の高いゲームであった。
「3」は、確かドラクエタイプの2DのRPG。「4」は、ダンジョンに戻ったのだっけかな?この辺はあんまり印象にないのだな。「5」は、私の大嫌いなシミュレーションで、遂にエンディングを見ることができなかった。…と言うよりは、途中でつまんなくって止めた。「4」と「5」は、多分、後述のPC-486SEでやっている。
これは、今更説明するまでもない、ELFが世に放つ名作中の名作。このゲームが今までのゲームの流れを一気に変えたといってもいいでしょう。味のあるキャラクタ(しかも大勢!)に、深みのあるストーリー。それぞれが練りに練られたマルチエンディング。とってもシビアな時間の概念。所持金の存在も内容に深みを与えています。
さらに、複雑なフラグ制御がすばらしい。よくあれだけの条件設定をして、ゲームが破綻しないものだ。
そして、何より高校生最後の夏休みという、絶妙のセッティング。
とにかく、この「同級生」は、何遍やっても違った展開になるし、違った楽しみ方ができるゲームという、画期的なゲームでした。
後に「2」も出て、共通するキャラクタも出演している。私は、「2」は後述する32ビット版でやったのだけれど、その面白さは全く失われてはいませんでした。恐るべし、ELF。
そのうち、世の中はウィンドウズ時代に突入し、パソコンも16ビットパソコンから32ビットパソコンへと移行していったのである。…といっても、ウィンドウズ3.1は、とっくに発売されていたが、ゲームの世界が未だにDOSベースだったので、それまでは何とかなっていたのであった。が、こう周りがウィンドウズだらけになってくると、流石に不安になって、DOSからの移行を考えざるを得なくなってしまったのであった。
上述のPC-286VEでも、ウィンドウズを試してみたことがあった。そのころは、ウィンドウズは3.0で、フロッピー5枚組という、今から考えればささやかな構成であった。当時は、ウィンドウズ3.0対応のソフトもほとんどなく、これは試してみるだけで終わったが。
実は、32ビットパソコンへの移行の際に、一つの考えがあったのである。つまり、Macへの移行である。当時、Macの世界も変革の時期を迎えていたらしく、小さい筐体が却って可愛らしい Permalink | 記事への反応(1) | 12:53
時間が解決したっていうよりかは、考える気力がなくなっただけなのかな。
A男:30代前半、独身。仕事ができて、いつも輪の中心にいる。
B女:20代後半、既婚。華があって仕事もできる、部署のマドンナ。
2年前の春、私は今の会社に入った。
同じ部署の先輩に、A男とB子がいた。
正直、最初はA子とB子のことが嫌いだった。
二人の距離感は近すぎるし、部署の中心でキラキラしている雰囲気が、新人の私には眩しすぎて鼻についた。
入社から半年後の飲み会で、A男とB子とたまたま席が近くなって、酒の勢いで話してみたら、驚くほど気が合った。
気づいたら週に何度も三人で飲みに行くようになり、土日も予定が合えば旅行に行ったり遊びに行ったりした。
全然話題は尽きなかったし、お互いに「うちら本当に気が合うよね。」なんて言って笑い合ってた。
バカな私はこれを、A男と秘密の共有をしている特別な関係なんだと思って浮かれてた。
三人でいる時、B子が話すと、A男は身を乗り出して笑った。
目を見て、大げさに相槌を打った。
しかし、私が話し始めると、A男の反応は急に薄くなる。
退屈そうな態度で、相槌は「へー」「ふーん」に変わる。
私の話が終わらないうちに、A男はB子に新しい話題を振った。
私が居心地悪くなって黙ると、A男は決まってこう言った。
「今日静かじゃない?具合悪いの?」
それは気遣いじゃなかった。
B子と楽しく過ごしているのに空気を壊すな、という牽制だった。
私がまた話し始めると、A男は退屈そうな態度に戻った。
私はA男に依存してた。
B子は応援してくれてたし、多分A男も気づいてたと思う。
「寝るまで暇だからさ。」
「一人だと寂しいんだもん。」
「増田だったら俺の話聞いてくれるでしょ。」
A男は、私が自分に好意を持っていることを分かった上で、自己肯定感を満たすために私を利用してただけだった。
去年の夏、ようやく気付いた。
A男は、私たち三人で会いたかった訳でもなく、私に会いたかった訳でもなかった。
B子と会う口実が欲しかっただけだった。
B子は既婚者で、不倫をする気なんて全くなかった。
B子は純粋に、三人の友達としての付き合いを楽しんでいただけだった。
私がいれば、同僚からも、B子からも、「仲の良い同僚グループ」に見えるから。
その事実に気づいてからも、私は「何かの勘違いかもしれない。」「たまたまB子の話が面白かっただけ。」と自分に言い聞かせた。
この関係が終わるのが、ただ怖かった。
A男はそれに応じた。
私は喜んだ。
だけど、A男が私の誘いに乗ったのは、私と遊びたかったからじゃない。
私が予約した店も、私が計画した旅行も、それはB子と二人きりで会う理由がないA男にとって、三人で会うという体裁を保つためだった。
去年の夏、私が転勤になって職場が変わった。
転勤から1ヶ月くらい経って、久しぶりに三人で飲んだ日、A男はこう言った。
「増田は別の職場の人だから、今日で会うの最後ね。これからはC女(増田の後輩)を誘って3人で会うことにしたから(笑)」
1年間毎晩のように電話して、予定を合わせて、お金も時間も使った。
それは全部、同じ職場じゃなくなったっていう理由だけで切り捨てられた。
私が泣きながら、「そんなこと言うなら二度と会わない。」と言い返すと、A男はあっさりとそれを受け入れ、A男との最後の会話になった。
次の日、謝罪の連絡をしても返事はなかった。
飲みに誘っても、
「二度と会わないんだろ?俺も増田と会いたくない。」
「コロナになった。」
「車に轢かれた。」
「また今度リスケする。」
と、雑な嘘で放置され、完全に連絡は途絶えた。
出るか迷ったけど、出た。
出た瞬間に分かった。
私が必死に近況を話そうとすると、A男は言った。
「うるせえよクソガキ。」
「今その話いらないから。」
「空気読めよ。」
冗談じゃなかった。私が口を開くたびに「黙れ。」と繰り返された。
私は、ただ電話越しにA男とB子が楽しそうに話しているのを聞かされてるだけだった。
途中で何度もA男は、「今、三人で電話してるよね?」と確認を取ってきた。
その中でA男は言った。
「1年前から付き合ってた彼女と今度結婚することになったわ。」
点と点がつながった。
なぜB子を含めた三人で遊ぶことにこだわったのか。
なぜわざわざテレグラムで連絡を取ってたのか。
私と週に何度も仕事終わりに飲みに行って、毎日電話をしていたあの時、A男には本命の彼女がいた。
結局のところ、A男はB子が好きだったんだろう。
B子は仕事ができて、旦那さんを大事にしていたから、A男からしてみれば理想の奥さんだったんだろう。
B子が旦那さんに怪しまれないための飲み会という体裁に、私は利用されてた。
A男が毎日私と電話してたのは、彼女との不満を埋めるためだけの暇つぶしだった。
不倫する気のないB子の警戒心を解いて、彼女の目を誤魔化して、且つ自分の恋心も満たすために、独身の私を同席させることで、仲良し三人グループという建前を成立させていた。
「うるせえよクソガキ。」という言葉は、A男の本音だったんだと思う。
利用価値のない女は、しゃしゃり出てくるなっていう意味だったんだろう。
今でも仲直りしたいと思ってる。
私が口を開けば、どうせ「黙れ。」って罵られて終わりだから。
あんなに楽しかった1年間は、会社という狭いコミュニティの中で起きたバグに過ぎなかった。
私が楽しかったと思ってた時間は、A男にとっては何の価値もなかった。
私はA男に依存し、A男はそれを知りながら私を徹底的に利用して、私が転勤になって利用価値がなくなったらゴミのようにポイ捨てした。
この一年で学んだことは多い。
今でも、夜になると着信音が鳴る気がして、心臓が跳ねる。
スマホの画面を見て、何にも通知も来ていないことを確認して、死にたくなる。
これが、クソガキに殘された後遺症。
36歳男。子どもは2歳がひとり。妻は32歳。
いわゆる「ほぼ黒に近いグレー」だと思っている。
帰宅は深夜になることが多く、こちらが子どもと寝落ちしている間に帰ってくる日も珍しくなくなった。
束縛もしないし、詮索もしない。
決定的な証拠とまでは言えないが、限りなく黒に近い材料は出てきた。
家の車の駐車記録を見るとラブホテルの駐車場に数時間停まっていた日がある。
さらに、そのホテルの駐車場に車が出入りするところを私の知人が見たという話も聞いた。
現場を押さえたわけじゃない。
写真も動画もない。でも、もう頭の中では答えは出てしまっている。
そう考えた瞬間、正直、吐き気がした。
仕事を早く切り上げていたであろう自分がひどく馬鹿らしく感じた。
その一日が無事終わったと思っている時間に
妻は平然と嘘をついて別の男と会いに行っていたかもしれない。
その裏で誰と何をしていたのか。
怒りより先に、どうしようもない虚しさと呆れが来た。
妻はパート。
結果として、保育園の送迎や普段の世話は、どうしても母親側の比重が高くなる。
この状況だと
もし離婚になって妻が親権を主張した場合、離婚原因を作ったのが妻側であっても
さらに、不倫の件を問い詰めた結果、妻が子どもを連れて家を出てしまった場合になると
金の話も聞いた。
加えて、子ども名義の口座も全額。
婚姻期間も考慮すると、合計でだいたい350万円くらいになりそうだ。
原資を考えれば正直、自分が出している比重の方が圧倒的に高い。
それでも関係ない。
幸いな点として、うちは持ち家ではない。
そのため住宅を財産分与されることはない、と弁護士には言われた。
ただ、それを「不幸中の幸いですね」と言われても
正直、複雑だった。ちょうどマイホームも考えていた時期だったからだ。
家を買っていなくて助かったのか、もう自分でもよく分からない。
貯金も削られ、毎月8万円を払い続ける。
これが正解なのか?どうすればいいのか。
問い詰めれば、すべてを失うリスクが高い。
結局、
「気づかないふりをしてやりすごす」という選択肢が、
でも、それって本当に人間として正しいのか。
父親として、これでいいのか。
どうにもならないのかな。
なんとかならんもんかな。
当時、大手SIの官公庁部門にいたが、本来なら発注予定だった案件がほぼ全部止まった。
当社からの発注を当てにしていた下請けにも発注を止めざるを得なかったので、中小SIは資金繰りができず潰れたところもあったと聞く。
昔なら先行発注とか営業支援名目で発注できたんだろうけど、コンプラが厳しくなってそこらへんNGになってたし。
年末になってようやく発注が来たので当社も下請け含めて体制組んだが、本来は半年案件が3カ月案件になったので色々と火を噴いた。
一介のサラリーマンだけど、この一件だけで恨み骨髄なんですが。
育休とらなかったら知らなかったこと
・出演者が豪華(きゃりーぱみゅぱみゅ、デーモン閣下、篠原ともえ、トータス松本など)
・大人が見ても面白い。(ピタゴラスイッチのフォークを斜めに立てて回したときの軌跡の跡を想像させるやつとかアドレナリンやばい。)
・時々昔の番組やってたりして懐かしい。(ニャッキー、ジャムズハウスネイルなど。年始にはハッチポッチステーションがやってた)
・みんなのうたには時々頭おかしい名曲がくる(」米ライスおにぎり」好き…)
・おかあさんといっしょには自分が見ていたとき(ひろみちおにいさん)のような体操コーナーがないのでどの人が体操のお兄さんなのかよくわからない。
・(番外編)朝ドラは15分。大河と一緒で一時間枠だと思ってた。15分だけなので気楽に見れる。ばけばけはいいぞ。
●育児
・三時間仕事するよりも育児をしていたほうが圧倒的に疲れる。これは、自分の場合はその場でやるべきことが明確じゃないないのと、終わりがないのと、自分の能力を活かせられずに有用感が得られないからだと思う。
・家の中だけで赤子と向き合うと精神がしぬ。外出すると赤子の気を引くものがたくさんあるから一生懸命構わなくて良くなるが、外出の準備や他人に迷惑をかけないような動きを心がけることで体力が削れる。
・シッターは三日前くらいに予約しないと来てくれない。それに一番育児を変わって欲しい早朝(寝たい…)にはそもそも来てくれない。
・地方だとシッター登録してる人がいない。だから、地方で親に頼らず育児する人が一番大変だと思う。
・おむつ替え台があるトイレが少ない。男性トイレに設置してあるものとなるともっと少ない。イオンは神。
・赤子を連れているとエレベーターの中とかでよく話しかけられる。赤子が潤滑剤になって話しかけやすいんだと思う。みんな実は誰かと話したい欲がそもそもあるのかもしれない。