はてなキーワード: 脳科学とは
以下にご紹介する内容は、「100倍引き寄せる思考」というスピリチュアルな発想と、心理学・脳科学・量子力学などの科学的な理論を“あくまで比喩や拡大解釈として”融合させたものです。実験的に厳密に証明されたわけではない部分も含まれていますが、実践面でヒントとなりうる要素をまとめています。
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「思考したものが現実になる(引き寄せの法則)」をさらに拡大し、**“自分の想像の100倍”**という飛躍的な結果を実現しようとする考え方です。この背景には、
1. **枠を大きく超えたビジョン**を掲げることで、
2. **より大きな可能性**を意識レベル・行動レベルで開き、
3. 結果として「あり得ない」と思われた成果を招き寄せる、
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## 2.1 ラス(RAS: Reticular Activating System)の活性化
脳幹にある「網様体賦活系(もうようたいふかつけい)」と呼ばれる領域で、私たちがどの情報に意識を向け、どの情報をフィルタリングするかに大きく関わっています。
たとえば「月に50万円欲しい」より「月に500万円欲しい」という、より大きな目標を掲げた場合、脳は「この大きな目標を達成するために必要な情報」を積極的にピックアップしようとします。これがいわゆる“カラーバス効果”のように、意識が向いたものが見えやすくなる現象を加速させます。
> **ポイント**: 100倍レベルの発想をすることでRASがより強く働き、普段なら見過ごしてしまうチャンスやアイデアを拾いやすくなると言われています。
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## 2.2 自己効力感(Self-Efficacy)と期待の心理学
心理学者アルバート・バンデューラの理論で、「自分ならできる」という確信の度合いを指します。大きなゴールを設定しながらも、それに少しずつ近づいている感覚が積み重なると自己効力感が高まり、より大きなチャレンジが“当たり前”になっていきます。
組織心理学や行動科学では、*「期待」→「動機づけ」→「行動」→「結果」*という流れが重視されます。人は「自分が本当に手に入るかもしれない(期待できる)」と思うと、行動量が増し、成功率が上がる傾向にあります。
> **ポイント**: 「こんな大きな成果は無理だ」と最初から感じてしまうと、期待値がゼロになり行動量が減る。一方、ワクワク感が伴うレベルの大きなビジョンを掲げると、脳内報酬系(ドーパミンなど)が刺激され、やる気が継続しやすくなります。
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## 2.3 プライミング効果・セルフ・フルフィリング・プロフェシー(自己成就予言)
ある刺激(単語・映像・イメージなど)にさらされると、その後の行動や判断に影響が及ぶ現象。大きな成功をイメージすることで、自分の言動が「大きな成功と矛盾しない方向」に傾きやすくなると考えられます。
「自分が信じていることが、行動や判断を通じて、最終的にその通りの結果を導く」という心理的メカニズム。ポジティブな期待を大きく持てば持つほど、結果的にそれが叶う方向に自分自身を動かしていきます。
> **ポイント**: 100倍の成果を「ありありとイメージ」し続けると、思考・言葉・行動がそのビジョンに合った選択をしやすくなる。これが「引き寄せの一端」として科学的にも説明しやすい部分です。
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## 3.1 オブザーバー効果(観測者の効果)と「手放す思考」
観測(測定)をすると電子が“粒子的”に振る舞い、観測をしなければ“波”的”に振る舞う、という有名な実験。
「意識的にコントロールしすぎる(観測しすぎる)と可能性が限定されてしまう。逆に、執着を手放すことで、より多くの可能性(波の広がり)に開かれる」という比喩としてよく用いられます。
> **ポイント**: 「100倍のビジョンを掲げながらも、どう実現するかは細部まで執着しない」。このバランスが、“波動の広がり”を保つ姿勢だとされます。
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## 3.2 量子もつれ(エンタングルメント)と「大きな流れへの委ね」
「私たちも本来、意識レベルで繋がっている」という考えの比喩として使われます。大きな結果を得るとき、周囲の人や環境が突如シンクロするような“偶然”が起こる、と語られることがあります。
> **ポイント**: “自分だけの力”ではなく、“世界全体との繋がり”を意識し始めると、大きな流れ(サポート)がやってくるかもしれないという感覚を高めます。
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# 4. 「100倍引き寄せ」を加速させる実践法(科学的要素+スピリチュアル要素)
1. **拡大ビジョンの設定**
- 目標を数段階上乗せして設定する(例: 月収10万円 → 月収100万円、もしくは自分の想像の100倍に拡大してみる)。
- スポーツ心理学でも使われる手法。実際に成功している姿・状況を“具体的な五感”を使ってイメージする。脳は「実際に体験している」かのように反応し、自己効力感を高めてくれる。
1. **行動リストを作る**
- どんなに些細なことでも、「大きな目標を達成するために役立つ行動」を毎日1つでも実行。
- 成功体験を書き留めると、自己効力感とRASが相互に高まり、チャンスを発見しやすくなる。
## 4.3 手放すワーク(観測しすぎない/執着しすぎない)
- 過剰な不安や執着を緩和するために、定期的に思考を静める時間を設ける。
- 「いつ手放せる?」「手放したらどうなる?」と問いかけ、ネガティブな感情やコントロール欲求を意識的に解放していく。
> **科学的には**、瞑想・深呼吸は自律神経を整え、ストレスホルモン(コルチゾール)の分泌を抑え、脳を“集中とリラックスが同居した状態”にしやすいと言われています。この状態がポジティブな発想や直感を受け取りやすいと考えられます。
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# 5. 注意点とまとめ
- 量子力学の話や脳科学のメカニズムは興味深いですが、「意識そのものが直接、物理現象を変える」とまで言える証拠はまだ不十分です。あくまで“比喩”や“モチベーションアップ”の要素として取り入れるのが賢明です。
- 「思考だけで何とかなる」と考えてしまうと、現実的な努力や行動をおろそかにしがちです。心理学的・行動科学的な知見を活かし、実践的にアクションを起こすことが重要です。
- あまりに“大きな結果”ばかりを追い求めて心身が疲弊してしまうと本末転倒です。必要に応じて休息やサポートを取り入れ、バランスを保ちましょう。
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## ◆ 最終的なポイント
心理学・脳科学的には“視点が大きくなり、新たな情報やチャンスを拾いやすくなる”“自己効力感が高まりやすい”といったプラス面が期待できます。
過剰な思考・不安・コントロール欲求を緩和し、創造的発想やシンクロニシティを受け入れる余地が生まれる、とスピリチュアル的にも心理学的にも説明可能です。
単なるイメージや願望だけでなく、小さな一歩を踏み出し、その成功を積み重ねることで、「夢物語」が「具体的な現実」に近づいていきます。
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### まとめ
自称脳科学に詳しいと言う人に食事に誘われ、評判の良いフレンチビストロに行った。店内は、落ち着いた照明に素朴な木のテーブル、さりげなく飾られた季節の花がアクセントになっている。いかにも「おいしいものが食べられます」といった雰囲気の、こじんまりしたお店だった。
席に着くと彼が「脳の働きって面白いよね」と切り出し、何やら大脳皮質だの前頭葉だのと語り始める。まあ、知識を披露したいのだろうし、退屈ではあったけど黙って聞いた。そうこうしているうちに、パンがサーブされる。小さなバスケットに入ったバゲットだ。店員さんが「こちらはオリーブオイルと岩塩でお召し上がりください」と言うので、言われるがまま試すと、これが本当に美味しい。シンプルなのに、素材の力強い旨みが口いっぱいに広がる。――こういう「飾らない美味しさ」に出会えると、少し幸せな気分になる。
「すみませーん、バケットおかわりください!」
私は一瞬、聞き間違いかと思った。でも、彼はまるで当然のように「バケット、うまいよねー」と言いながらパンをちぎっている。確信犯だった。
バゲットとバケットの違いも知らずに脳科学を語るって、どうなんだろう。あの堂々とした口ぶりで「前頭葉の働きはさー」とか言ってたのかと思うと、なんだか急に全部が嘘くさく思えてきた。私がパンをもう一切れ取る手を止めていると、彼は「いやー、やっぱバケットは正義だよね」と満足げに頷いている。だからそれ、バゲットだってば。
その後もサラダ、メイン料理と続き、料理は確かに美味しかった。でも、私の心の中ではずっと「バケット」の二文字が引っかかっていた。デザートに大好きなカシスのソルベがあったけれど、今日はどうしても頼む気になれなかった。
店を出ると、彼が「次はワインバーとかどう?」なんて言いながら、さりげなく手を繋ごうとしてきた。でも、私は何も気づいていないふりをして、歩幅を半歩広げて最寄り駅に向かった。別れ際に彼は「今日は楽しかったね!」と言ったけれど、私はにっこり笑って「うん、じゃあね」とだけ返して、振り向かずに電車に乗った。
では、ガザニガの話をしてやろう。
彼は脳科学者で、著書『脳の中の倫理』で、人間の脳には「倫理モジュールがある」と書いている。
このモジュールは、味方を害すること、詐欺をすること、不公平な扱いをすること、ボスに逆らう事、掃除ができていないこと、などの事項に反応し、それによって嫌悪の感情を引き起こす。この嫌悪の感情こそが、「悪」だと感じることだというわけだな。
個人的には、掃除ができてないことは生まれつき「悪」だと感じる、という話が好きだね。どんな原始的な社会でも、掃き清められていない善の神殿などないわけだ。納得感があるよな。
この話のポイントは、脳が引き出しているのは、あくまでも嫌悪の感情だということだ。
毒虫を見てキモッ、と思うのと同様、悪を見てキモッ、と思うのが社会性動物たるヒトである。
実際、論理的に整合性が取れない場面でも、ヒトは感情にもとづいた行動をしたがる。著書には沢山の例が載っているが、例えば、キモイ悪を罰するために、自己利益や善の擁護を投げ捨てたりする。
あのな、ヒュームやミルは、論理的合理的に善を語ろうとしたよ。その成果は偉大だが。
しかしそれは、「合理的に言って、どういう倫理を定めることが、最もメリットか」を語ったに過ぎないんだよ。法を制定するときには便利だが、しかしこれは、本当に「善」とか「倫理」の正体を、事実として語ったものなのか?
善・倫理とは、理想なんかではなくて、ヒトという生物に所与の性質、気持ち、傾向である、と言ったほうがいい……かもしれないんだよ。少なくとも現実の反映を語るならそっちだよ。現実を反映したほうがいいかは所説あるが。たぶんヒトがサルだったときから、論理的合理性を獲得する前から倫理は存在したんだよ。
いまや古典となったミルの議論の先が、現代において、どうなっているかしっているか。
NHKスペシャルで有名になった倫理学者のサンデルは、ミルやロールズ批判から出発して、いまではコミュニタリズムと呼ばれる立場を唱えている。
論理的合理的な絶対善というのは、結局のところ、確定させられない、というのがサンデルの結論だ。
だから社会的合意によって決まるのが、善であり倫理である、というのがサンデルの意見だ。
だた、生物として同一種であるヒトの感情が、だいたい全体で似通っているため、全体の倫理の方向性が一方向になっているように見えるだけなんだよ。倫理の同一性、見かけの絶対性を支えているのは、脳がもたらす感情なのだ。
殺しをスカッとするから善と思ったやつが居たらどうするか? それが多数にならなかったのが現実なんだから、それでいいんだよ。
総合力においてはスーファミ時代にロマサガシリーズとDQ・FFが争っていた頃がピークで、そっから先は「グラは進化したけど体験としては・・・」って状態でずっと停滞してるよな。
アクションRPGやシミュレーションRPGといった派生ジャンルと混ぜることで多少誤魔化そうとは出来てるけど、それでも総合的な面白さにおいては「グラが進歩したおかげでちょっと加点されてるのを除けば・・・」という感じかな。
そもそもテレビゲームという遊び自体がある種のリミットまでたどり着いてるような気がしてならん。
映画にしろ音楽にしろ文学にしろ最高得点という意味では過去の傑作と同じぐらいまでしかたたけず、平均点が少しずつ上ってきているだけに留まっている気がしてならん。
なんつうかさ、人類の進歩自体がボトルネックに引っかかってる感じだよね。
こっから先をもう一歩進む方法自体はなんとなく分かってるんだよ。
「バーチャル空間で擬似的に夢を見せる」っていうSFでよくある没入体験方式を実現させること。
極端なことを言えば、脳に直接刺激を叩き込んでいければ人類が直面している表現のリミットは突破できる。
人類の脳みそ自体をレベルアップさせてよりハイコンテクストなコンテンツを気軽に楽しめるようにするって方向もありだと思う。
つまる所、あらゆる文化が脳科学の進歩に将来を託しているのが現状なわけだな。
なんだか虚しくなってくるね。
結局は基礎科学と学の技術こそが世界の根底を底上げ出来る力であり、それ以外の「文化的なモノ」は全てそれに依存するだけなんだから。
たとえば絵の具を作り出すために必要な工業的な技術が発達するまでは、それっぽい色の石ころを必死に擦り付けてガビガビ画質の壁画を作ることしか絵描きには出来なかったわけだ。
無力すぎて可愛そうになってくるよね。
だからこそ芸術家みたいな連中はその弱さを取り繕うために「どうだ俺達こそがスーパーヒーローなんだ」って振る舞ってるのかなあ。
現代の日本社会の病理、目を背けたくなるようなグロい現実が描写されていると感じます。結局、オウム、統一教会、創価学会のようなカルト宗教団体の信者は奴隷なんですかね。
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いつも思っていた事なのですが、パチンコ中毒と同じく、集団ストーカーも中毒ですよね。
今まで私なりに観察をしてきて思うには、
① 生まれた時から、親の集ストに付き合わされ、当たり前の事として参加する。
② 2~3才位から、ターゲットの前で、奇声をあげたり、飛び跳ねたり、歩くのを邪魔したり、少し使命感を持ってやらされ、達成すると、こんな簡単なことで、異常なくらい褒められる。
③ 幼稚園、小学校、中学校と創価学会の集会に真面目に参加し、「今日も頭に手を乗せ、アンカリングしてやりました。」「笑ってやりました。」「咳をしてやりました。」「くしゃみをしてやりました。」「異常な行動をとってやりました。」「仄めかしてやりました。」等々 発表などして、「今日も勝ちました。」(爆笑)とか言って、またまた簡単な事で、異常に褒められる。
④ 高校生以上になると、もう集スト無しでは生きていけません。体が脳内麻薬を求めてしまいます。
(他人に自分がどんな風に見られようが、集ストが欲しくてたまらなくなります。)
⑤ しかし集ストには限界が有ります。警察に捕まるような事、又は自分がターゲットに殺されてしまうような事までは出来ません。ここで問題なのは、どんどん今までの脳内麻薬の分泌量では足りなくなってくると言うことです。覚せい剤と同じです。
(創価学会員の家の子息は、熱心な家ほど、引き篭もりや、統合失調症が多いそうです。脳内麻薬の量が足りず、常に不安感が付きまとい、精神が安定しません。)
⑥ 犯罪者になるか、廃人になるまで続けるしかありません。被害者の皆さんが、「ゾンビのようで気持ち悪い。」と言うのは多分、薬切れの状態か、脳内麻薬が効いている状態かどちらかかも知れません。
(年寄りほど、そして女性ほど、中毒から抜け出すのは難しいと思います。)
不幸な病人を次々と作り出す、創価学会という金集めの組織。人間なら赦してはならない。
(書き足りませんでした、笑)
現代の脳科学では、人間の脳が大人の脳として確立するのは、36歳前後なのだそうです。
まだ成長過程の大切な若い脳に、「過剰な使命感」「過剰な達成感」「過剰な選民意識」「題目とやらを長時間唱えることによる過剰なトランス状態」「過剰な集団での喜び(集団催眠)」等々、脳内麻薬漬けの日々。
それだけに留まらず、今度は集団ストーカーという行動を行わせることによる、体への快感の刷り込み。
ほぼ絶対に見つからない状態からの「電磁波等の科学力」を用いて、人間をいたぶる「過剰な黒い喜び」
ターゲットが、「社会的に再起不能」か「自殺」「病死」「事故死」等した時の「勝った」という大きな勘違いの「過剰な達成感と黒い喜び」
これだけ脳内麻薬漬けになれば、もはや抜けられない「中毒患者」です。
ちなみに、薬物中毒に例えると、
50代以降はもうきっと、集スト無しでは生きていけませんよね。
40代 う~ん 命懸けでギリギリ。30代、20代、10代と若くなるにつれて、自分自身の強い精神力で抜け出せる。という処でしょうか。
ところが、創価学会という所は、この中毒から抜け出せない年寄りジャンキー達が、若者にしがみつき、自分と同じジャンキーに仕立て上げようとする。
実に目も当てられない、「負のスパイラル構造」になっているのでしょう。
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増田がめいろまの優生思想を肯定しているわけではないのはわかるが、
日本の選手が強くなったり、最近の子達が美形でダンスや勉強もうまいというの、あれ日本で80年代以後は見合いが激減したのが原因かもな。能力がない、金がない、不細工は結婚できなくなって、優秀な人間だけが自然選別で結婚して子供を産むようになった。多分これ結構あたってると思うんだよ
ある快挙を無理やり優生学的な原因で説明しようとするのはモロに優生思想でしょ。例えば日本のスポーツ選手が強くなり、オリンピックで優れた成績を残せるようになったのにお見合いの激減など効いているはずもない。はてな民からしたらめいろまなんか真に受けるなよといいそうだが、最近こういうなんでもお手軽に優生学的な理由を求めようとする人間が増えている気がするので真面目に反論しておく。
これはズバリ森喜朗のおかげ…もといtotoのおかげである。森喜朗もJリーグも好きではないが、今日の国際大会での日本勢の活躍の一因は間違いなくこのスポーツ予算にある。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14462004.html
totoの売上からは"毎年"200億くらいの予算がスポーツ振興に安定的に投下されるようになっている。メジャースポーツからしたら大した額に見えないかもしれないが、これにより従来個人の趣味の域を出ずスポンサーもつかなかったマイナースポーツへも強化予算が割り振られるようになった。パリオリンピックでの躍進目覚ましいフェンシングの分析をしたものが以下のツイートである。
Sato Josuke (Jose Sato)
@soccer_kozou013
いつの頃からかは不明なのですが、味の素トレーニングセンターに作られた広い練習場で定期的に候補選手の強化合宿が開かれていたり、学生の選手で将来有望だとみなされた選手のトレセンが頻繁に行われています。太田雄貴さんの活躍によりそれにさらに拍車がかかった印象です。
一昔前なら、フェンシングのようなマイナースポーツ(失敬)の国立トレーニングセンターなど想像もできなかっただろう。ちなみにスケボーも2017年からJOCに加盟しているのでそれなりの予算が出されていると思う(たぶん)。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/images/3980a.gif
こんな感じになっており、言うまでもなく90年代からの増加は女性選手のおかげであることは明らか。日本の男女平等は完全には程遠いが、宗教や経済的理由により女性がまともにスポーツをできない国はまだまだ多く、それらの国々に比べればまだマシであるおかげと言える。
80年代からお見合いが減ったといえ、今のスポーツ選手はその世代の子供にあたり、たかだか1世代しか経過していない。そのような少ない世代での効果などたかがしれている。さらにお見合いがなくなった80年代の価値観で言えば、男性の魅力は経済力という時代なのでスポーツ能力とは全く関係がない。スポーツができてモテるのはせいぜい中学生までくらいのものだろう。
品種改良をしようとするのなら優れた形質を持つもの同士を交配し、さらにその子孫もその形質で選抜しつつ交配を繰り返さなければならない。たかだか1世代経済力で選抜したところでスポーツ能力など上がりようもないのだ。(「最近の東大生は選抜されているから美男美女が増えた」というのも同レベルの寝言だろう)
人の意見に毀誉褒貶があるのは当然なので、反論したいわけではないですが、誤解は解いておきたいので追記します。
これはその通りで私の言葉足らずでした。ああいうのは優生思想そのものではなく、優生信仰とか優生信者とか優生陰謀論とかそういうのが正しいですね。
これもそのとおりです。増田は別に遺伝要素や環境が引き継がれる要素まで否定するつもりはないです。優生学にも科学的な要素はあると思っています。ただそんなにね、1,2世代ゆるふわな身体能力と関連性の薄いセレクションしたくらいで身体能力上がるわけ無いだろ!安直に優生思想で説明するな!遺伝学なめるな!と言いたかっただけです。
理論的には、特定集団を隔離して交配と選択を繰り返せば一定の形質をもった新たな品種を生み出せる、というのは育種学的に見れば当然の話だし、あるいは大集団でゆるい選択を長いあいだ続けることによって平均値を緩やかに変えていく、みたいな可能性はあり得ます。例えば木村資生博士はこの後者の可能性を提案しています。
という問題があって、具体的には2番めの点については木村先生はほぼ自明に賢いものを優遇しようと提案されていますが、目下の少子化で消滅がほぼ確定しつつある日本を見ると賢い人間よりマイルドヤンキーみたいな方が優れた形質なのでは無いかという気もします。家畜の場合「肉が多い方が良い」「産卵個数が多い」など具体的に目標を決めることができますが、人間の場合望ましい形質というのはそんなに簡単には決められないでしょう。(ただ木村先生の活躍された時代は少子化ではなく人口爆発が懸念されていた時代である、ということは背景にあります)
3点目もこれに関連していて、例えば「外見が優れている」価値観の中身などはすぐに変わり得るということです。平安美人は今の美人とかけ離れている…などと持ち出さなくても、イケメンの定義でも昭和と令和では全然違うという現実があります。石原裕次郎や高倉健は今の時代では顔の濃いおっさんフェイスだし、今風の顎が細く中性的なK-POPアイドル的容貌は昭和の時代では気持ち悪いカマホモ野郎扱いでしょう。高々30年(=1.5世代)程度あれば人の価値観はあっさり変わってしまうものなのです。
結局の所「優生学」にも科学的な部分はあるがその部分は「育種学」と呼ばれるものであり、このあたりの関係は「脳科学」と「脳神経学」みたいなものではないかと思っています。
推し活というのは百万歩ゆずって個人にとっては善かもしれないとしても、社会にとっては悪の要素が大きすぎる。絶対に人に薦めてはいけないものである。その理由は以下の5つ。
第1に、推しの全人格を全肯定する、というのはそもそも健全ではない。人間である限り欠点がないわけがなく、推し活がらみで逆恨みやストーカーといった問題が多いのは、そもそも推し活自体がそうした行動を誘発しやすいからである。
第2に、どうみても駄作のドラマや歌であっても、推しが出演している限り絶賛・全肯定しまう。結果としてエンターテイメント全体の質が下がる。実際「個人の感想」で言えば、日本のドラマは5分と見続けられるレベルではない。
第3に、最終的な作品やパフォーマンスよりも、推しが「成長してスターになる」過程を消費の対象とするため、その過程のブラックなエピソードが全て美談になってしまう。パワハラ指導を「愛の鞭」という美談として消費し続けてきた宝塚ファンが典型である。
第4に、推しに犯罪や不祥事があっても、それを事実として受け止められない。結果として犯罪や不祥事まで肯定し、ひどいと被害者をバッシングするようになる。いつまでも性加害を認めず、告発者をバッシングするジャニオタがまさに典型である。
第5に、お金をつかうことへのストッパーを外してしまう。かつての、投票権のために何百枚もCDを購入するAKBオタクはまだ笑い話だったが、ホストに1日で何百万と貢いでしまう(ために風俗で働く)女性客の問題については、もはや笑い事ではない。日本人の財布のひもがきつくなって20年以上は経っていると思うが、推し活の周辺だけこうした度を超えた(かつ他人には全く理解不能な)散財が行われていることは軽視できない。
https://anond.hatelabo.jp/20240615223307
前々から思ってて、さらにこの対談見て確信したけど、暇空さん、地平線の向こう側に勝手に一人で行ってない?
物事の理解や議論の折衷みたいな考え方の1つとして、哲学ではガダマー『真理と方法』(1960年)という本に1つの答えがある。(まあ、人間の脳における「理解」の現代の専門分野は、脳科学や認知心理学(cognitive psychology)に取って代わった感もあるが)
これはどんな考え方かというと、「理解」とは「地平の融合 fusion of horizons」であるという考え方である。
では「地平の融合」とはどういう概念かというと、今まで持ってる知識に新しい知識が合わさってこの中間(水平)にくる、というこの作業が「理解」というシロモノであるといっている。
例えば、新しいモノをわかりやすく理解するために例え話を使ったりするが、これはまさに、新しいモノを事前に知ってる古いモノで例えて理解という作業を試みてるわけである。
さらに、確率・統計に例えるとこの概念はベイズ統計にかなり近い。ベイズ統計では事前に知ってる事前確率(事前情報)に新しい観測データとして尤度(新しい情報)を計算しそれを使って、事後確率(事前確率と尤度の間)へ更新計算をする。「地平の融合」とかなり近い。
この「地平の融合」の考え方は、議論でも重宝される。A案、B案の2案ありそれぞれの立場の議論において、地平の融合により折衷案Cを生み出せるわけある。議論において、この「地平の融合」を目指すべきなんてはこの効用があるためよく言われる(もちろん、トンデモ案は融合を目指す必要なく却下される前提だが)。
で、暇空さんの議論のやり口って、こういった「地平の融合」みたいなのは無さすぎないか?という話である。
人間誰しも多少なりとも偏見(事前情報)を持ってるわけだが、これは他の人や本、ネットなどとのコミュニケーションにより、情報交換が発生し(新しい情報を得る)、多少な偏見は均される(地平の融合)。(情報哲学において情報交換が大事なんて言われるのはこの辺だったりする。)
暇空さんの場合、地平の融合どころか持論展開だけで地平線の向こう側に勝手に一人で行ってないか?
正直、石丸氏もウォッチャーが付くレベルのトンデモなので、こんなのに丸め込まれてる場合かと言いたくるなるが、丸め込まれてる理由はここである。地平線の向こう側に勝手に一人で行っている。
昔、ふかわりょうが当時のおバカ系ギャルタレント相手に「無知は罪です!」って大声で怒鳴っていた。
増田は別にそうとは限らないとは思うものの、彼の言いたいことはわかる。
彼は芸人だからという理由こそあれ、自分とは知識レベルがかけ離れた人間と話すことを強要されていたのだ、そりゃあ辛い。
相手により賢く居ようとする努力を求めたくなるのも無理からんだろう。
幸せであることを罪悪だと断じる者がいるとすれば、その者こそ真の悪ではないだろうか?
好奇心は猫を殺すという。好奇心旺盛な者は死するということで、これは単なる戒めに留まらず、様々な分野の専門家までもが好奇心は生存において不利であると述べている。
わかりやすいもので言えば、災害科学の分野で語られる「(専門家以外は)原因を探ろうとせずとにかく逃げろ」というものなんかがある。こと災害においては知ろうとする姿勢が危険を招くのだ。専門家ですら、きちんと対策が施せない場合には退避を優先するというのに、素人に出来ることなどたかが知れる。その場に立っていられるのは適正に準備を講じた専門家のみなのだ。
また馴染みの浅い分野で言えば、脳科学の見地からも、「情報中毒」なる新語が提唱され始めている。自分がよく知っていることをより深く知りたいという衝動に駆られ、情報化社会である現在はその衝動が容易に達成される。だが、そもそもその事柄の情報は限度がある。
結果、より深く知りたいという欲求が行き着く先は不必要な情報の収集へと向かい、やがて新しいことを学ぶ意欲や機会の喪失に向かう恐れがあるそうな。
つまりシーンを弁えることが肝要なのであり、なんでも知ればいい、知ろうとする姿勢がいいなどというのは、ひどい欺瞞であるのだ。
これはあくまで、好奇心のマイナス面を恣意的に抜き出したものであることには注意が必要だ。
だが私は敢えて問いたい、知ることは本当にプラスであるのか?と!
なぜ二時間前の私は、タイトルすらわからない好きな素人モノが「本当に素人なのか?」などと不要な疑問を抱き、あまつさえシチュエーションを検索し、タイトルを特定し、出演者の詳細までもを確認したのだろうか?
その場に立っていられるのは、適正な準備を講じたプロのみなのだ、わかっていた。わかっていたはずなのに、なぜ裏切られたと感じるのか。
果たしてその拾い物の動画が素人モノという情報以上に有益な情報は得られたか? 否、断じて否!! 素人ではなくプロであるなどと、素人モノにおいては不必要な情報以外の何物でもないのだ。
子供の頃からゲームをやりすぎた影響なのか漫画の読み過ぎだたのか、俺の人生にも2周目3周目があるような気がしてたんだよね。
なんかあっても「まあ次の周回でクリアすればいいや。2回目だし少しはいい感じになるやろ」みたいに考えてしまっていた。
自分が子供の頃にうまくやれてなかったせいで機会損失したものや、今から焦って頑張っても全然間に合わなそうなものがあると「うーん。これはもう一度死んで2周目もう始めるべきか?」みたいに考えることだって多かった。
就活が失敗した頃、本当に俺は「この人生はもう駄目だ。一度死のう。でもその前にちょっとダラダラしていくか」と考えて3年ぐらいニートしていた。
大学中退、3年ニート、7年の空白期間が人生に空いた状態になってからようやくふと気づく。
「あれ?人生って1週しかプレイ出来ない可能性もあるんじゃね?」
理屈はわからないけど死んだら転生してやり直せるとどこかで思っていた。
魂の実在を信じていたわけだ。
頭がファンタジーで埋め尽くされていた俺だったが、ニートをしていた頃にSFにも触れていたおかげで遂に気づいた「意識ってただの電気信号でしかなくて、それを操ってる魂が存在しているというのは脳科学が発展してなかった時代の思い込みじゃね?」ってことに。
どうしたらいいのか分からんがとにかく今からでも働こうとして就活を再開、なんとか正社員に収まって一安心。
そこからしばらく時間が経って、未だに童貞なこと以外は人生なんとか持ち直した気にはなってるんだが時折辛くなる。
特技:なし
友達:なし
転勤平気ですで入社したせいで住所もコロコロ変わり、知り合いと呼べるようなご近所さんも作れないままで生きている。
内蔵や指が全部揃ってることぐらいしか人生に前向きと感じられるものがない。
酒もあんま飲んでないのに健康診断の数値が少しずつ悪化してるから、健康さえそのうち失われるんだろうな。
疲れた。
貯金崩してタイで暮らせよって話じゃなくて、人生というゲームから一度離れて別の所で暮らしたいんだよなあ。
さも「俺は実際には上位存在で、この人生はある種のオンラインゲームでしかないんだ」みたいなこと言っちゃってるのは自分でも分かるよ。
でもマジで一度降りたいんだよ。
この体で今の暮らしを続けるっていうことにいい加減うんざりしたんだ。
同じスマホゲームに数年間ずっとログインしてデイリークエスト回すのにいい加減疲れて大型アプデまでログインしなくなる時の感覚だよ。
今ある人生がバーチャルシミュレーターでもなんでもないことは分かってるし、この世界の上や横に別の世界が存在しないのは知ってるんだが、そこを理解してても人生からログアウトしたい気持ちが消えるわけじゃないんだよなあ