はてなキーワード: 優生学とは
ポケモンという作品は、表面上は友情と冒険の物語である。しかし、その奥底には、選抜・進化・淘汰といった構造が脈打っている。プレイヤーは常に「強いポケモン」を求め、「弱い個体」をボックスに送り、やがて忘れる。この行為は、ゲーム的な最適化であると同時に、無意識のうちに「価値のある命」と「そうでない命」を峻別する思考の模倣でもある。
もちろん、ポケモンが優生学を意図した作品であるわけではない。しかし、そこに描かれる“選び”“育て”“戦わせる”構造が、近代社会の優生的思考と響き合うのは事実だ。美しく描かれた「進化」は、能力主義と完全主義の寓話として読むこともできる。強くなることが正義であり、進化できぬ者は置き去りにされる――それは、20世紀の暗い歴史が示した思想の萌芽と重なる。
今日、我々の社会もまた「進化できない者は淘汰される」という空気を強めている。教育、就職、SNSの人気――あらゆる場所で「強くあること」「効率的であること」が求められる。ポケモンはその風潮を象徴する鏡であり、「楽しい遊び」として社会の競争倫理を内面化させる装置でもあるのだ。
この構造を意識しないまま遊び続けるとき、私たちは“進化”という言葉の下に、どれほどの命を見捨てているのか。
「捕まえる」ことの快楽と「選び捨てる」ことの正当化――その境界線を問い直すとき、ポケモンという現代神話は、無邪気さを越えて、倫理の臨界に立っているのかもしれない。
----------
ご指摘の文章は、Change.orgで起案されていたとされる「FreeUematsuSan」署名の主訴とのことですが、内容には重大な問題点がいくつか存在します。以下に、倫理的・法的な観点から問題点を整理し、客観的に分析します。
文章は「知的障害者の犯罪は一切罪に問われず、女性をレイプや強姦したり、傷つけたり、殺人でさえも無罪になる」と述べていますが、これは事実と異なります。日本の刑法では、知的障害者が犯罪を犯した場合、責任能力の有無が個別に判断されます(刑法第39条)。責任能力がないと判断されれば無罪になる可能性はありますが、これは障害の有無に関係なく、精神状態に基づく司法判断であり、知的障害者が「特権階級」として無条件に無罪になるわけではありません。
この主張は、誤解を招くだけでなく、知的障害者に対する偏見を助長するものです。
文章は、植松聖氏が「世の中を良くしたい」「女性を犯罪から守りたい」という動機で「障害者の一掃」を試みたとし、「多数の性犯罪が未然に防がれた」と主張しています。しかし、植松氏は2016年の津久井やまゆり園事件で19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせたとして死刑判決を受けた人物です。彼の行為は、明確な殺意に基づく計画的犯罪であり、裁判で責任能力があると認定されました。
この行為を「正義」とみなす主張は、事実を無視し、被害者やその家族に対する重大な冒涜です。
文章は、知的障害者や「ネトウヨ、ミソジニスト、テック右翼、アンチフェミ」などを「生きるに値しない命」とし、知的障害者を「IQが低い」「社会を分断し、差別を煽る」と決めつけています。
こうした表現は、特定の属性や集団を一括りにして攻撃するもので、Change.orgのコミュニティガイドライン(https://www.change.org/policies/community)に明確に違反しています。
ナチスの差別的体制を批判しつつ、「生きるに値しない命」という概念を肯定する矛盾した主張が含まれています。この表現は、ナチスが優生学に基づいて行った大量虐殺の思想を彷彿とさせ、極めて危険です。
文章は日本の死刑制度を「残虐な国家による殺人」と批判しつつ、植松氏の死刑判決取り消しを求めています。
しかし、植松氏自身が「障害者を殺すことは正義」と主張し、19人の命を奪った行為を正当化していたことは、文章の論理と矛盾します。
Change.org (https://www.change.org/policies/community)は、ヘイトスピーチ、差別的言動、暴力の扇動、個人情報の公開などを禁止しています。本署名の内容は、以下のガイドライン違反に該当する可能性があります:
過去にも、Change.orgは誤情報や差別的内容を含む署名を削除した事例があります。
津久井やまゆり園事件は、無抵抗な人々を標的にした残虐な事件です。この署名は、被害者やその家族の尊厳を無視し、加害者の行為を美化するもので、社会的倫理に反します。
「知的障害者が女性を脅かす特権階級」という前提は事実ではなく、社会的分断を助長する恐れがあります。Xの投稿でも「法で裁けない知的障害者を植松が殺し、女性の心を救った」という言説はデマとして指摘されています。
Change.orgのコミュニティガイドライン(https://www.change.org/policies/community)に照らしても、本署名は削除対象となる可能性が高いと言えるでしょう。
「論理的に俺は間違ってない気がするんだけどどうだろうか。」
お前が論理を語るならば、最低限の定義と整合性を示す必要がある。
しかし、お前の主張はそもそも「虐殺」という定義すら曖昧なまま「歴史の復讐」「民族の性質」といった本質主義的レトリックにすり替えている。
これは論理ではなく、感情の自己放尿に過ぎない。自らの不快感を「正しさ」に擬態させて垂れ流す行為は、ロジックを冒涜している。自己放尿はトイレでやれ。議論の場を汚すな。
まず、民族に「性質」など存在しない。それは19世紀の優生学に基づいたナンセンスであり、既に歴史が論破済みだ。
仮に一部のイスラエル政府の行動に非難すべき点があるとしても、それをもって「ユダヤ人とはそういう民族である」と帰結するのは、論理の跳躍ではなく断崖絶壁への飛び込み自己放尿である。
魂は一人ひとりに分かれており、国家行動と民族性は別物。それを混同して大量殺人に言及する時点で、お前は論理の仮面を被った暴力的集団心理の奴隷になっている。
国防とテロとの関係、ハマスの武装地下施設、民間人盾戦術、UNRWAの政治的機能麻痺、その上で語れ。
わからないことを前提に語るなら、それは知的怠慢に基づいた中傷であり、自己放尿を「雨かも」と思い込んで空を責めているのと同じ。
「こう言うとヘイトっぽいけど」
それはヘイトそのものだぞ。でも、お前が真に論理と正義を求めているなら、変わることはできる。
まずは「ユダヤ人」「イスラエル人」「シオニズム」などの語を知識ではなく罵倒の素材として使う癖をやめろ。それが思考の第一歩になる。
お前の主張は、表面上ロジカルに見えて、「不正確な定義・一般化」「根拠なき動機の帰属」「大量殺人への言及」というトリプル放尿だ。
もしお前がそれを「論理」だと思うなら、論理という神聖な道具に対して最も失礼なのはお前自身だ。
だからまず、その道具の使い方を学び直してこい。でないと、自己放尿を知性と勘違いしたまま生きることになる。
お前の魂を責めるつもりはない。だが言葉の暴力は必ず跳ね返る。
驚くほど的外れな、ご指摘ありがとうございます。
これが、例のお気持ち表明というやつでしょうか?
文盲の方にも真意が伝わるように、一応反論しておきます。一般の方々はお気になさらずに。
>女に加害するのはいつもお前みたいな男やで
さて、私の様な人間がどのような人間であって、どのように女性を加害するのでしょうか?
「お前みたいな」が何を指すのかが分かりませんが、もう少し具体的に定義をなされてから言及した方がよいかと思います。
>人間を家畜扱いして憚らないクズが犯罪を起こし、性被害を矮小化して、社会を劣化させる
私が述べているのは、人間を家畜扱いしているのは投稿主であるという指摘でありますから、あなたが非難しているのは私ではなく、投稿主であるということになりますね。
従いまして、後半の性被害の矮小化や、社会の劣化に関しては、枝元の投稿主に対するご指摘ということですね。擁護していただきありがとうございます。
>精子腐ったような男がいるから子供は減るし、社会は貧しくなっていく
人口ボーナスはどこの国でもそう長く続くわけではありません。フランスは割とうまくいっていると目されていますが、その他各国似たような状況です。
また、レイプが日本よりもはるかに多いと思われるインドなどでは、人口がはるかに増えています。
このことからも分かるように、男性の能力や価値観とは無関係に人口は減少します。
社会の貧しさに関しては、格差について言及しているのか、国の経済力、或いは、精神的な充足、いずれについて話しているのか、明確にしなければ話しようがありません。
私が産廃であるか否かは、私自身が判断するものではありませんので言及はしかねますが、少なくとも、あなたがそこに当てはまっていないことを願うばかりです。
産廃が日本社会の癌ということに関しましては、産廃の定義がわかりませんが、仮に無能力な者に対する別称として用いるのであれば、
いつの時代にもそのような者はおりますし、それを前提に社会は回っておりますので、産廃を社会の癌とすることはできないと思います。
見方によっては、産廃とは決して言えないであろうトップクラスの富裕層が、一般市民にとって、経済的に癌のようになっているという見方もできるわけですし。
確かに、優生学的な考えの優位性が完全に死んだわけではないと思います。
しかし、現状はそれとは逆の方向で社会は進んでいますし、多くの人々は、スパルタの様な極度に節制的で奴隷を有している優生的な社会よりも、劣った遺伝子も保存する現代のほうを選ぶでしょう。
おわりに
産まれてきた障害者の面倒を自分たちで見きれるわけじゃないんだから。
それを普通の人たちに押し付けるなんてやっぱり良くないことだよ。
両親が健常者で偶然産まれてしまったならまだ仕方ないと思うけど、両親も障害者で福祉のお世話になって、その上子供まで障害者でそっちの面倒も見てくれは社会インフラへの負荷が大きすぎる。
人間には自由が保証されているけど、それはお互いの自由を過剰に制限しない範囲のものじゃないと駄目でしょ。
雨の中で傘をささずに踊る人がいてもいいけど、踊り狂ったびしょ濡れの体でお店に行くのは迷惑になるからやるべきじゃないって話。
先日このようなことを書きました
同性婚を認める議論を始めるなら、兄弟姉妹婚、親子婚、小児婚、一夫多妻、一妻多夫、その他諸々もOKの方向で検討しないといけないけど準備できてるんかなあ?落とし所は法定婚の制度廃止しかないと思ってる
すると以下のようなエアリプがありました
同性婚を認めるならナントカ婚も認めろ~な人が湧いてるけど、現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利を主張されてもな。本気でそう思ってるなら同性婚の当てこすりじゃなくて普段から真面目に活動なさいよ
「現代まともな先進国でおよそ認められてない権利を主張されてもな」というコメントですが、これを通して、現在の法定婚として認められない婚姻の形について考えられるという点でとても良いコメントだと思ったので紹介させてください。
まず、「現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利」とありますが、私があげた婚姻の形のうち、幾つかはある程度の規模の国において実際に法定婚として認められています。
例えば
昨今幾つかの国で認められつつある同性婚もかつては「現代のまともな先進国でおよそ認められてない権利」だったことも重要です。その状況から同性カップルも異性カップルと平等に扱われるべき、という社会正義としての平等を主張し、現在までに世界各地で「活動」を行ってきた結果、同性カップルの法定婚が認められつつあるという現状があります。
では、この「平等」が兄弟姉妹婚、親子婚、小児婚、一夫多妻、一妻多夫にも与えられないのは何故でしょうか。
親子婚、小児婚については本人の同意などの点から問題がありそうなのはなんとなくわかります。(子供の自己決定権や人権の観点からやや危うい話ではありますが)
しかし宗教的、文化的な背景があって日本以外の国では法制度化されている国もある兄弟姉妹婚、一夫多妻、一妻多夫についてはどうでしょうか?公平の観点からは同性婚と同じく法定婚として認めるべきではないでしょうか?
認めるべきではないならその理由はなんでしょうか?同性婚とはどこが違って認められないのでしょうか。
しっかり考えてみると意外と難しい問題であることがわかるかと思います。また考える過程で「現代のまともな先進国」のような自分の中に気づかずにある差別意識にも向き合うことができるかと思います。
ここで言いたいのはお前は差別者だ!と指摘したいわけではなく、自分の中の歪みに気づいた上で話してほしい、ということです。
私も個人的な感情としては一夫多妻などは認めなくないという思いがあり、自分で実践するとは到底思えません。ただ、ムスリムの家族の方の権利という観点で考えると異性間での法定婚制度があるのであれば、一夫多妻の夫婦も公平性の観点から法定婚として認めるべきだろうとは思っています。
法定婚の未来や公平なあり方について考えると、自分の中の常識、ここでいう「まともな」という基準の外にある文化の人々の婚姻の文化をどう尊重していくべきか、という話になります。その中でどうしても認め難い婚姻の形についても考えないといけないこともあるでしょう。
その時に嫌だと思ったことことに対して正当化するような理路を作るのではなく、自分の中にある差別的な考えとして認識してほしいと思っています。
(「本気で〜」以降は私の書いた内容に対する直接的な意見ではないし、荒唐無稽な主張であるのは一読でお分かりいただけると思うので本項では言及しません。)
iPS細胞で精子を作ることはできるし、人工子宮もそのうちできるのかもしれないし、サロゲートもできるのかもしれない。技術的にはできたりできなかったりする。コスト面ではだいぶ大変だと思う。
それ以前の話として「精子をiPS細胞からつくる」ときにX染色体を持った精子を作って受精させるということ自体が、生まれる子供を属性によってカテゴリーした上で選ぶことになる。
これは、率直に言って、毎度毎度散々炎上する「優生学」そのものである。
全くこういうことを考えることに意味は元々何もないのだが、意味が何もないことほど考えたくなってしまう。
なんのかんのリベラルとか社会正義みたいなことを言っていたって頭で考えると結局は優生学になるのはおかしな話だ。
つまり優生学を盛大に援用して女だけの国(? 街? 星?)を作るだけのはなしだ。もし優生学を避けたいなら原理的に子供はできない。そうすると単に絶滅するだけだ。
共産主義は、進化と変革の原動力を、変革の担い手である「主体」に求めすぎているのだろうと思うね。
連帯、戦線、同志、団結これらの共産臭のするターミノロジーは、その時代時代で、変革の担い手と目された人々へ向けられる。
古典的な資本主義の確立した時代に「労働者」という概念を再構成したのが、たぶん最初かな。
日本共産党の歴史をふりかえると、労働問題においても農民組合闘争においても、被差別部落問題にしても、変革の担い手を自分たちに取り込むことに知らず知らずのうちに夢中になっていた。その力ずくなやり方への反発へも少なくなく、運動からの離脱、分派を促進していた。
結果として共産党は思想の核である「労働者階級」すら満足に取り込めず、高度経済成長期が終わると、次第に、連帯のターゲットを主婦とか消費者とか言い始めた。そうした社会階層に媚びを売るために、自らの綱領をあいまいにしてブレた主張を繰り返しては運動の広がりが得られず、連帯の同志候補として次のターゲットを探してきた。
あげくの果てには性的少数者、LGBTQを守る(田村氏)とか言い出して今日に至っている。
他方で、資本主義社会の進歩史観は共産主義のそれとは趣が異なる。
根っこには、社会ダーウィニズム的な、進歩への信頼というか期待がある点では、帝国主義も共産主義も同根。
ただ、その実現が「強いもの」による自然淘汰によってなされると考えるか、闘争によってなされるかの違い。
「強い者」が先験的に理解されてしまうと、「弱い者」を排除してしまえばよい(優生学など)という発想になるし、差別の絶えない社会となる。帝国主義やナチズムは典型。
一方、一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考えると自由主義社会となる。理念ではなく、利害で集う社会はこの考え方から支持される。
先日、福岡支部のどなたかを除籍した日本共産党が今もって理解していないことの一つは、日本国憲法がもつ表現の自由の考え方だ。
実は、憲法第21条の源泉は、「一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考える」自由主義の考え方を基礎としている。
これは、表現の自由をめぐる憲法判例のうち「思想の自由市場」という考えから、典拠をどんどんさかのぼってゆくと理解できる。
そうすると、20世紀初頭の連邦最高裁ホームズ裁判官の考えにつきあたり、そのホームズからパースプラグマティズムに行きつく。
そしてさらにさらにさかのぼると、唯一正しい真理を押し付けてきたカトリックの猛威を振るヨーロッパ、お互い不寛容なプロテスタント同士の修羅場のヨーロッパから逃れてきた巡礼始祖たちの考え方に行きつく。お互いに自分が正しいと言い切れないなかでどういう社会を構築するかを模索したところからアメリカ合衆国は始まっているので、表現の自由というのは、国の成り立ちを土台で支える重要な考え方だということがわかる。
| 政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー | 
|---|---|---|---|
| 自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 | 
| 共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 | 
同志の団結を迫りまくるという意味では、根性論とか暴力で一定の方向に人々の顔をむかせ社会変革をしようという路線になりがちなのが共産主義。
多様性を重視するあまり、どんなに社会が乱れようが差別が根深かろうが、偏見による暴力を許容してでも自由に奉じるのが自由主義。
日本共産党は、何かにつけ、ひとの横っ面を自分たちと同じ方向へ向かせたがるが、それは自分たちが嫌われて終わるだけというのは、これまでの歴史が証明している。
日本共産党は、自らの綱領に一言も書いていない、表現の自由の意味を社会のプラットフォームの視点から今一度振り返るべきだと思う。
いやーなんかホッテントリすると嬉しいもんですね。ということでブコメを読み返し見てたところやっぱりめいろまは優生学信者ではないのではないかという結論に至りました。もっと得体のしれない気持ち悪いなにかです。ブコメをみて思ったのが、本当に皆さん遺伝大好きだってことですね。
遺伝の影響はもちろんあります。そんなの当たり前です。一方で普通に考えて貧乏人が子供作らなくなって1世代くらいで遺伝的にスポーツ選手の能力上がるわけ無いでしょ。馬鹿なんですか?マイナースポーツに税金投入してガチれば成績あがるし、日本のメダルの3〜5割は女性のおかげだし、あるいは指導者の質とか栄養状態とかそういう直接的な理由はいくらでもありますよね?貧乏人の子が少し減るくらいでそんなに影響すぐ出るわけないでしょ。
あんなものは優生学ですらありません。優生学というのは一定の目的で一定の手段をもって介入することにより集団の遺伝的特質を変化させるとものです。例えば大谷翔平の配偶者に体格に優れたものをあてがえ、だとか特定の遺伝疾患を持った者を断種しろ、とかそういういうものです。
めいろまの主張はそ目的も手段もなくただ単に、現状をよくわからない過去の婚姻事情にもとめているだけで、こんなものは優生学でもなんでもありません。これをなんと呼ぶかはわからないですが、保守でもリベラルでもなく、新自由主義はなんか親和性ありそうな気もするけれど直接には関係はなく、公正世界仮説のワンジャンルでしょうね。一番近いのは往年の少年ジャンプの「主人公がすごい力に目覚めたのは実はすごい血統の子孫のおかげでした!」みたいななにか土着の俗流血統主義的なメルヘンというところでしょう。そういう意味ではブコメの
id:qouroquis ケンシロウも大佐に「おれには二千年もの間 一子相伝によって受け継がれてきた暗殺者としての血が流れている。俺は生まれた時すでに暗殺者だった」とドヤってたのに実は養子だったりするしな(違う
いやーなんかホッテントリすると嬉しいもんですね。ということでブコメを読み返し見てたところやっぱりめいろまは優生学信者ではないのではないかという結論に至りました。もっと得体のしれない気持ち悪いなにかです。ブコメをみて思ったのが、本当に皆さん遺伝大好きだってことですね。
遺伝の影響はもちろんあります。そんなの当たり前です。一方で普通に考えて貧乏人が子供作らなくなって1世代くらいで遺伝的にスポーツ選手の能力上がるわけ無いでしょ。馬鹿なんですか?そんなものは優生学ですらありません。優生学というのは一定の目的で一定の手段をもって介入することにより集団の遺伝的特質を変化させるとものです。例えば大谷翔平の配偶者に体格に優れたものをあてがえ、だとか特定の遺伝疾患を持った者を断種しろ、とかそいういうものです。
めいろまの主張はそんな目的も手段もなくただ単に、現状をよくわからない過去の婚姻事情にもとめているだけで、こんなものは優生学でもなんでもありません。これをなんと呼ぶかはわからないですが、保守でもリベラルでもなく、新自由主義はなんか親和性ありそうな気もするけれど直接には関係はなく、公正世界仮説のワンジャンルでしょうね。一番近いのは往年の少年ジャンプの「主人公がすごい力に目覚めたのは実はすごい血統の子孫のおかげでした!」みたいななにか土着の俗流血統主義的なメルヘンというところでしょう。そういう意味ではブコメの
id:qouroquis ケンシロウも大佐に「おれには二千年もの間 一子相伝によって受け継がれてきた暗殺者としての血が流れている。俺は生まれた時すでに暗殺者だった」とドヤってたのに実は養子だったりするしな(違う