はてなキーワード: 身分とは
今日に至るまでの歴史を通して多くの対立が存在した。人権思想や科学技術の発展は階級社会での身分間での対立や国家間の対立を通して形成されてきたという面もある。優生学的な思想から生じた国家間や人種間、コミュニティ内での闘争を通して自身の所属するコミュニティや社会をより進歩させていくという意識は近代社会で重要な役割を果たしてきたまさに「世界法則」であった。
社会全体が「世界法則」に従った結果は最終的に二回の世界大戦やその後の独立戦争、冷戦を経て、人類全体の大きな犠牲という形で現れた。人類はそれまでの価値観を改めることを余儀なくされ「対立」から「融和」へと表面上は方向を転換することとなった。
しかし、ポグロムやレコンキスタから繋がる宗教的な対立、アメリカ大陸の発見や列強の植民地支配から繋がる人種的な問題は現在もこの社会に影響し続け、未だ大きな脅威となっている。表面上だけの人道的、融和的な政策はあらゆる社会の中で限界を迎え反動を起こし、かつてよりも対立から生じる社会へのダメージを大きくしてしまったということも否定できない。
欧米を中心として起こり世界へ広がった、新しい自国第一主義は一つの例だ。また対立するコミュニティや国家に対して歴史から攻撃可能な点を作り上げ、自身のコミュニティや自国を正当化しようとする修正主義が流行している。
その中でも最も驚異的な問題が「ストックホルム貴族による有色人種虐殺計画」である。
製薬、金融資本、軍産複合体を資産管理会社を通じて支配するストックホルム貴族達。彼らによって肝細胞に仕組まれたシステムは今日も同胞の命を奪い続けている。そして、ストックホルム貴族達はドロットニングホルムで行われる晩餐会で夜な夜な「虐殺計画」の経過報告を肴に我が世の春を謳歌するのである。
MagMixによると、今年初めに日本の経済産業省(METI)が公表した資料に基づけば、2024年に国内エンターテインメント産業が受け取った補助金は67.7億円、約4,250万ドルだった。
しかし、その総額の54.9%は実写産業に向けられており、アニメは12.6%、ゲームは10.7%にとどまっていた。これは大きな偏りがあることを示している。
それだけではない。アニメ産業の内訳を見ると、補助金の主な使途はプロモーション、ローカライズ、流通であり、実際の制作者に渡った割合は0.0%だった。つまり、アニメ制作の現場スタッフに直接行き渡る政府支援は、ほとんど存在しなかったということだ。
ここで見た限りでは、経済産業省(METI)はこの不均衡を認識しており、クリエイターが恩恵を受けられるように制度を変更したいと考えているようだ。
ただ、問題に見えるのは、これは経産省の変更が意味を持つためには、業界全体に何らかの法的な大改修が必要なタイプの話だということだ。業界の構造を理解せず、言い方や制度設計を間違えると、企業が遠回しな形でそのお金を懐に入れるだけになり、簡単に裏目に出る可能性がある。
実写が他と比べてこれほど多くのお金を受け取っていることには驚いた。もっと早い段階で、誰もそれをおかしいと思わなかったのだろうか?
①日本国外の人々は、日本で実写映画側がどれほど大きな力を持っているのか、またアニメやゲームがどれほど見下されているのかを、あまり理解していないと思う。
皮肉なことに、最も多くの収益を生み出しているのはアニメやゲームだ。それにもかかわらず、それらにもっと資金を向けようとする動きがあるたびに、「多様性の重要性」や「業界全体を底上げする必要性」といった議論が持ち出され、オタク文化にお金が流れるのを阻止するために使われる。
誰もこの状況をおかしいと思わない。なぜなら、アニメや漫画業界の人々、つまり「最下層の趣味」と見なされている分野の人々は、自分たちの「身分」に見合った扱いを受けているだけだと見なされているからだ。
②それにも十分な理由はある。日本の実写作品は長い間、非常に高く評価されてきたし、実写側の業界ははるかに長い歴史を持ち、制度的にも確立されているからだ。
一方でアニメは、実際に大きく伸びたのはここ数十年のことであり、文化的な存在感や収益性という点では、明らかに新参者の側だ。
③つまり彼らは、実際にはそれほど大きな収益を生まない、アート系映画祭での評価のような評判を気にしているということですね。
『鬼滅の刃』は今ではおよそ10億ドルほど稼いでいて、非ハリウッド映画として初めて年間世界興行収入1位になった作品ですが、その数字にその売上は含まれているのでしょうか? 日本国内のチケット売上では、日本がこれまで作ったどの作品よりも上回っています。
まあ、アニメは成功しすぎていて補助金を受ける必要がない、と言うこともできるかもしれません。ただ、実写映画側の人たちは「支援が必要な業界」というレッテルを貼られたくはないでしょうね(笑)
https://note.com/bentheunko/n/n765d8ea6c0fc
いきなり被害を受けた学生相手に情けないとか書いて挑発してくるし、
>ネットでたきつけて返信よこせよこさないなら違う対応すると騒ぐ院生
とか言うのも、他の人に指摘されているが某大学教授が変なnote拡散するわ、暗に批判をしているようなツイートだすから直接問いただしたに過ぎないのに、事実誤認をしているのはなんやろ?
>批判論文を頑張って書くほどの研究ではないのはそうなので、俺が当事者ならキャリアに1ミリのプラスにならないし絶対に批判論文書く時間は割かない
とか言いながら、note書いていちいち文句言ってくるのはあまりに理解ができない。支離滅裂。
>女子枠の妥当性を批判するなら、比較すべきはSTEM内での機会構造の話なのに論文は途中から高等教育全体で男性が少ないという話を持ち込んでいるため、何を言いたいのかが分からない。構造化ができていない。
これも意味が分からない。 そもそも構造化されてないとはなにか?も具体的に書いてないから意味不明だし、そもそも高等教育全体の話は逆境指数の文脈で語られた話で出されたもので、考慮事項のひとつを取り上げただけなのでは?
という指摘があったけど、それが正しいのだろう。
>経済的に不利な層、地方出身者、男性が十分に考慮されていないと結論づけていているが、STEM内の性別的な不均衡評価とは分析単位が異なるため女子枠の是非を直接評価する議論にならず、ここでも結局何が言いたいのかが全く分からない。
分析単位云々というけど、アファーマティブアクション系でいろいろな要素を考慮しろって話で人種なり性別なり出るが、それでも各属性を混ぜで制度運用をされているのだから、分析単位が異なる云々も意味不明。
そもそも論点把握ができていないか、制度理解にずれがあるのか? STEAMとは違うような話としているが、枠を作ってその中身をどうするかに何の違いがあるのか? も書けてない。
あとは
>女子枠や女性限定採用が「新たな差別を生む可能性」を指摘しているが実際にどの程度の不利益が生じているかは全く検証できていない。スコープ外なのかもしれないけど、政策批判したいなら政策評価しないとね・・・「男性受験者の合格確率がどれだけ下がったか」、「女子枠導入後に男性志願者が減ったか」、「入学後パフォーマンスに差があるか」化などを見る必要があると思うけど
まあ、ここもほかの人の指摘を見たけど、そもそも女子枠肯定する側などがそういったデータをほぼほぼ可視化してないから出せるわけもなければ、間接的に推論で出さざるを得ないからかなり厳しい。
また、まるで反証側が色々証拠を積極的に出す側になってるのもおかしな話で、本来枠を進める側がなぜ必要なのかやデータを出すもんだろうけど、ほとんど有効そうな情報とか見たこともないが、それでもさも当然の呉tく進んでいるから、反証側がもっと証拠だせ(出せなければ、そのまま有用だぞ?みたいに)言われているように見えてしまう。
(別のコメントでまるで~~の時に批判貰ったときみたいと書いている人がいたが、たぶん証明する側【立証する責任がある側】が反転したかのような体験をしたのだろう)。
というか、こういった議題は法的な議論なども出てくる分野だから、必ずしもデータ出すべきところなのかも謎。
あまり書くと長くなるから、これ以上は詳しく描かないが、先行論文を引用して意見を書いているのをエッセイみたいなものとして扱っているが、それらを基に議論を組み立てることも論文として書くのはそこまでおかしいのか?(誰かか詳しい人の説明くれ)
もちろん著者本人もそれらに基づいて意見を書いているだろうから、そのまんまのっかっているわけでもないだろう。
この批判noteも全く有用ではないとまで言わないが、余計な情報が多くイマイチ何が言いたいのかわからない、割と無理なことを要求している面があるなど。
批判を書くために勢いで書いた感が否めない、わけのわからない内容になっている。
これでどこかの博士なのか教授なのか知らないけど、なんでこんな喧嘩腰でよくわからない文章をわざわざ書いたんだろうな。しかも数年ぶりにnoteで。
〇意が湧いてくるわ。
絶対に普段真面目に論文や批判書いているなら書かないような罵詈雑言を、相手見て平然とかつ公開の場でやるとか異常者やろ。
しかも暗に名前を出さずにそれとなくわかるように批判するとか、仮にも上の身分のやることかよ? 基地外だろ。
こんなものはわざわざ読まないしキャリアにもならない無駄な事だとか言いながら、論文読んで批判するとか意味わからんガイもおるし、あの辺どうなってんだよ?
男女論絡みになると、誹謗中傷やいじめもしていいみたいな態度を露骨にとってくるのマジでうぜえ。
出会ったらあまたを石でかち割ったろかって位腹立つわ。
なんだったら切腹でもしてほしいくらいだし、そうすれば女の枠空くんだし譲ったれよって思うレベル。
あんな質の低い連中が学界にいるほうが損失だわ。
高位の人外存在(上位存在)が人間(下位生物)と婚姻関係を結ぶことについて、人外側のコミュニティからの視点は、以下のいくつかの側面から考察されています。
多くの意見では、上位存在にとって人間との婚姻は、人間がペットや家畜と性行為に及び、入籍するような「狂気」として映るとされています。
上位存在のコミュニティ内での相対的な地位の低さが指摘されています。
上位存在と人間の間には、埋めがたい「種としての格差」が存在します。
人間側の視点では「一途な愛」や「身分差を越えた純愛」に見える物語も、上位存在の社会から見れば、「知能の低いペットにガチ恋して性処理も兼ねているキショい奴」という非常にグロテスクで厳しい評価にさらされる可能性が高いと結論付けられています。
以前ガシャ中毒者が課金を劇的に減らす方法https://anond.hatelabo.jp/20260417215652を書いた者だが、ここ最近Playstation Storeのセールでゲームを買いまくってる。
「キャラ1体1万円なんてばからしい、フルプライスのソフトが買える」
こういった五億年前から五千億人が言ってるようなソシャゲのガシャと買い切りゲームのコスパ比較は極めて正論である。ただ正論ではあるが、ソシャゲーマーには響きにくい。ダイエットに悩む人に対して「ダイエット?食事制限と適度な運動でしょ」というようなものだ。
なのでこの正論をガシャ課金に沼ってまた買い切りゲームに戻ってきた人間独自の視点で翻訳したい。ソシャゲをやらないか、あるいは健全な課金・もしくは無課金で通してる人間には決して言えない、わからない感覚をお伝えしたい。それは
ということだ。これは沼ったことがない健全な人にはわからないだろうし、自分もやめてからようやく気付いたのだけど、課金しまくってる人間はとっくの昔にガシャで「脳汁」なんてでなくなっていたのだ。
よくガシャはギャンブルだと言われるけど、確かに当てた時の「脳汁」を求める(パチンコだろうと競馬だろうと、金が増える可能性を言い訳にしても結局はこれだろう)という点ではそれに近い。しかしガシャには欲しいキャラなりアイテムなりを手に入れるという一応のゴールがある。そして今はそのゴールに大抵6万くらいの天井が用意されてる。そうなると確かに少ない回数で引けたときは瞬間的に脳汁のようなものは出るが、その量は課金しまくる人間ほど少ない。結局溜息つきながら課金して回して叩く気のなかった天井叩いて、はーまたやっちまった、来月は課金減らそう、で減らなくて来月に続く。
結局金を払えば払うほど「脳汁」からは遠ざかっているのだ。これは当たり前の話でガシャは一般的なギャンブルと違って金が一切増えない。金をつぎこみ続けた先に、それまでの投資が戻ってくるようなパチンコ・競馬・最近はやりのオンラインカジノ(儲けた人いるんか?)のような一発逆転は一切ない。ただ粛々と負けを積み重ね、負け金が少なければ喜び、負け金が大きくても一応ほしいものが手に入ったと言い聞かせて終わる非常に起伏に乏しい作業なのだ。強烈な刺激を求めて大金を投じるどころか、むしろ金で刺激を薄め続けているから「脳汁」のコスパは壊滅的なレベルに悪化している。
神引きの脳汁に大した価値はない、というかそもそも神引きできる機会が少ない、じゃあなんで課金して引き続けてしまうのか?その正体は特定のキャラ・アイテムが欲しいのではなく実は「今の環境に飽きたからなんか新しいものが欲しい」というシンプルな物欲に過ぎなかったのだ。そう、ガシャ欲ってただの物欲なんですよ。これは現役で自分をギャンブル依存症だと思いながらぶん回しまくってる人も、そういう人を冷ややかな目で見てる人も勘違いしている。ガシャというのは非常に刺激的で中毒性の高い娯楽であり、さながら違法薬物のような力があると「勘違い」している。これがよくない。
ガシャというかソシャゲをやめた今の私は禁断症状に苦しんだりせず、とても満たされている。それはなぜか?多額のガシャ課金という悪習を断てたからか?それによって今後貯金が増えるからか?もちろん、その二つもあるが最大の理由はソシャゲに課金してた時よりもはるかに物欲の赴くままにガシャをまわしまくれているからである。自制心を鍛えてガシャをやめたのではない、自制心を必要としない安いガシャを回すようになったのだ。
ソシャゲをやめた私のいう「自制心を必要としない安いガシャ」とはPlaystation Storeのセール対象のゲームをあさる事を指している。これがなかなかに脳汁が出る。かつてのデレステの水色のダウンロードバーが出た瞬間みたいな瞬発的な脳汁はないが、引いた後のご機嫌の余韻みたいなものはセールのゲームを買うだけで十分に再現できる。セールでどのゲームにしようか吟味する過程が非常に楽しいし、もちろん買ったゲームをプレイして面白ければいうことない。そしてこれはガシャに狂わされた金銭感覚の功罪の唯一の功といっていいのかもしれないが、2000円とか3000円のゲームに対して非常に寛容になれるというか、極端な言い方をすると出費ととらえないくらいの感覚で買えてしまう。
その結果どうなったかというと、来月のクレカの請求のうちPlaystation Storeであさったゲーム代がざっと2万円ほどになる。ここまで読んでくれた方ならこれまでのガシャ課金が到底月2万で済んでないことは察せるにせよ、趣味・娯楽に使う金として安いとまでは言い切れない金額になってはいると思う。
しかし、私はこの金額に満足している。ソシャゲ課金と比べれば少ないという理由もあるがそれだけではない。この2万円は本当に「ほしいと思ったものを一切我慢せずに欲望の赴くままに買った結果」だから。物欲を一切抑えず、すべて解放しきった結果の2万なのだ。この満足感がすごい。
ソシャゲに課金しまくってた頃は矛盾するようだが大金を使いながらも「我慢」していた。さすがに全部引くわけにはいかないし、5千円や1万円で引けたらガッツポーズだが3万4万となるとやはり心にしこりが残るし、天井は言わずもがな。せっかく大金を使っているのに大金を使ったことに対するストレスを感じるという負のマッチポンプ、それで手に入るのは月に2~3体の新キャラ。
「あ、これ良さそうだな、買おう。ついでに前から気になってたこれもセールの期限が近いし買っておこう」みたいな感じで買える。大人なので1日にゲームを2本買ってもいい、なんなら3本買ってもいい。ちなみに今月は9本(プラスDLC)買っているが、それで2万円強である。ソシャゲ時代とは比べ物にならないほど物欲を好き放題解放して満足しつつ、支出は激減している。こんなに都合が良いことがあるだろうか。
というわけで課金しまくってる人、というよりそれに悩んじゃってる人、大丈夫!あなたは後戻りできない深刻なギャンブル依存じゃない!あなたの欲求はただの物欲だから買い切りゲーム買うようにするだけで安く満たせるぞ!ついでに言うとそんだけ好きに金が使える身分ならこの時期はめんどくさい税金もたくさん降ってくるだろ、今が辞め時だ。ソシャゲをやめると言っても別にやってたゲームを嫌いになれってんじゃない。私もやめたゲームのファンアートをいいねブクマしまくってるし、コミケの現地でもDLsiteでもエロ同人も好きに買ったらいい。あ、ウマのエロ同人はねえか。ただ単に「セールの買い切りゲームを買うだけで脳汁もでるし、支出も減るぞ」というだけの話だ。
前の記事でも言った通りやめたゲームに後ろ足で砂をかけるつもりはないので強くは言わないが、今の自分の好き放題に物欲を開放しつつ、金がたまる満足感をより多くの悩めるソシャゲーマーに体験してほしくてここに描き散らさせていただいた。
ある貴重品の梱包がしっかりと出来ていなかったがゆえに壊れた、と。
すると、
・〇〇引越社を使って下さい。全員社員ですから、、、うんたらかんたら
それは単なる身分差別だろ?
その原因と、そのミスを起こした当事者の身分には因果関係がある場合とない場合がある。
それは理解できるな?
でも、お前らにはそれが理解できない。
アルバイトが、、、
パートが、、、
と身分差別を平気でやる。
当たり前だが、アルバイトでもパートでもきちんとした仕事をする人のほうが圧倒的に多いのだ。
ちょっと話がズレるが、なぜ引っ越しで数々の問題が起こるのか考えたことがあるか?
いい加減だから、
という理由を考えつくよりも、
つまり引っ越し作業というのは、平穏無事に終わる確率が低いのだ。
そういうふうに考えていくと、その起こりやすい失敗に対して身分差別をする自分を恥じる気持ちがちょっと自覚できるのではないか?
じゃあ、こういうふうに考えたらどうだ。
・女はだめだ
・女の仕事は信用できない
そんなことを声高に主張することは令和の世の中ではありえないことだろ?
その性別に基づいて、ある仕事の失敗の原因を求めることは間違っているだろ?
これは理解できるよな?
それなのに、なぜおまえたちは平気で身分差別をするのか?
そして、そのミスが起こる原因を、そのミスを起こした人間の属性に求めてはいけない。
それをすることは差別に直結する。
エプスタイン問題を見ていても思うけど、それが弱みでさも脅されているかのような印象を匂わせるためのツールとしてしか実質は機能してない
性的加害は重罪だからエプスタ関連の具体的に誰々を刑事起訴しろという流れには実態としてなってないし
国内で著名人が性的加害の加害者として列挙された事例も、なにか法律ではない社会的制裁「らしきもの」があったらそこで終了であり
刑事裁判に具体的に動かそうという具体的な動きにはならない
要は加害者の身分が低い場合限定で性的加害が許されない事になるという解釈であり「加害者の社会階級が高い場合は性犯罪やり放題でOK」が本音みたい
「社会階級が低い人を攻撃する手段」として「性的加害に対する刑事罰」を活用することが本音であって、「女性の尊厳うんぬん」の部分はそこを正当化する為の物語なのだろ
ハッタショが健常者と同じ身分だと思ってるの?
足らぬ足らぬは身分が足らぬ
日本社会において、女性主導のBL(ボーイズラブ)文化は巨大市場を形成し、性的表現の自由をめぐる議論を長年続けてきた。しかし、その根底にある「BL無罪」という思想は、深刻な人権問題をはらんでいる。
「BL無罪」とは、主に女性の性的ファンタジーとして描かれる男性同士の恋愛・性愛表現(やおい・BL)を、
として無条件に擁護する立場を指す。対して、男性向け表現(萌え絵、異性間エロなど)や現実のゲイ表象への批判は厳しく行われる。この性別による二重基準こそが問題の本質である。
• 「ゲイの経験を勝手に商品化・美化・ステレオタイプ化するな」
• 「表象の横奪だ」
• 「女性のファンタジー空間に口出しするな」という反論に対し、ゲイ側は「現実の多様性や苦悩を無視した消費」を問題視した。
現在、商業BL市場は180〜200億円規模(同人含め300億円超)と推定され、年間1,400冊以上の新刊が刊行される。一方、ゲイ向け商業雑誌はほぼ壊滅状態だ。老舗誌が次々と廃刊し、当事者による自己表象の場が激減した。女性消費者主導の巨大資本が、ゲイ表象を「イケメン同士のエロティックファンタジー」として独占的に消費する構造が定着したのである。
特に悪質なのは、弱い立場のマイノリティを対象化している点だ。BLの定番テンプレートである「強い攻め×弱い受け」の力関係・歪んだ支配関係は、現実のジャニーズ性加害事件(権力者による脆弱な少年の搾取)と構造的に重なる部分が多い。それを知りながら、または薄々気づきながら「女の欲望の自由だろ!」と擁護する姿勢は、傲慢そのものだ。
この問題を象徴するのが、東京大学大学院情報学環教授・田中東子氏である。公的立場では、宇崎ちゃん献血ポスターなどの女性モノ化を「ジェンダー規範の再生産」として批判し、表現規制的な議論を展開。一方で、黒澤多香子名義で脅迫・SM・心理支配を主題とした過激BL作品を商業出版していたことが2024年に暴露された。
• 男性のモノ化(特に歪んだ支配関係) → 正義・性的主体性
東大教授という公的権威を背景にこうした二重基準を提示することは、知的誠実性を大きく損なう行為だ。
日本国憲法第14条は明確に定めている。
「女性の性的ファンタジーだから無罪」という主張は、生まれ持った性別を基準に表現の許容度や道徳的価値を分ける属性差別である。表現の自由(憲法21条)も、人権も、性別フィルターをかけるべきではない。最高学府の教授がこれを繰り返すことは、人権侵害的主張を公的に容認するに等しい。
BL市場の拡大は女性消費者の満足度を高める一方で、ゲイ当事者の疎外感、一般男性への表現規制圧力、社会的分断を増大させている。性別で「勝ち組/負け組」を決めるゼロサム的論理だ。
「BL無罪」というスローガンは、表面的には「表現の自由」を掲げながら、実際には人間の尊厳を性別で二分する。 弱い立場の男性マイノリティの経験をファンタジーとして食い物にし、その苦痛を「ほっといてください」で片付ける構造は、人権の選択的擁護といえる。
というわけだ。
真の平等とは、性別問わずオブジェクト化の害・表象の権利・表現の自由を同じ基準で評価することである。最高学府が性別ダブルスタンダードを擁護し続ける現状は、看過できない人権問題である。
風呂キャンセル。素晴らしい概念だ。これでようやく「身体的には問題なく風呂に入れるはずなのに風呂に入らない(入れない)存在」というのが可視化された。
なのにその概念をただ共感や自己肯定の道具にしているだけなのはマジでどういうことだ?
「ウチって風呂キャン界隈なんだよねー(キャッキャッ)」じゃねーんだよ。
マジで女ってなんでこうなの?ちょっとまえに流行った「HSP」とかもだけどさ、折角新しく産まれた概念を問題解決のためじゃなく「ウチらってこうだよねー」という浅い共感で満足できる思考が理解し難い。
「こんな傾向の人はHSPです」と言われてへーそうなんだーじゃあどうやって生きたら良いんだろう?と見に行ったら「HSPは繊細で生き辛い!」っていう自分語りだけで終わっていてびっくりした。それで?そのHSPとやらはその生き辛さをどのように克服して生きていったらいいの?辛うじてHSPに向かない仕事一覧とかいうのはあるけどさー、感情労働とかHSP関係なくほとんどの人類がやりたくないだろ!やりたい・やれる人間の方が貴重だって。そもそもお前は職業を選べるほどの身分なんか?大抵の生き辛いHSPはそれでも生きていくために向いていない仕事でもやらなければならないから生き辛いのでは…。
風呂キャンもそう。風呂キャンセルしちゃうこともありますよね🤗じゃねんだわ。こっちはそういう傾向が自分にあるこは前提の上で、「じゃあどうすればいいのか?」を知りたいんだっての。なんで共感と肯定で終わるんだよ。共感と肯定をしても良いけど、対策もセットでつけろよそこはよ。
人権教育の現場では、被差別部落(同和地区)の歴史や差別問題が繰り返し取り上げられる。意図は「過去の身分制度による差別を正しく理解させ、現代社会から差別意識を根絶すること」にある。しかし、現実には教育の意図と効果の間に大きなズレが生じている。むしろ教育そのものが、「被差別部落」というカテゴリーを必要以上に強調し、結果としてスティグマ(社会的烙印)を維持・強化している側面がある。本稿では、この現象を、結婚差別と私権の自由の衝突、圧力団体としての歴史的イメージという観点から論じる。
人権教育は、学校や職場、行政の啓発事業で実施される。内容の中心は、江戸時代の士農工商+穢多・非人という身分制度、明治4年(1871年)の解放令(穢多・非人等の称廃止令)による法的身分廃止、そして1969年から2002年まで続いた同和対策事業特別措置法による生活環境改善の歴史である。
これを学ぶことで、参加者が「差別は不合理で許されない」という価値観を内面化することを目指す。実際、法務省や自治体の意識調査では、講義を受けた人の多くが「部落差別は悪いことだと理解できた」と回答する。しかし、行動や深い意識変容まではつながりにくい。鳥取県の調査では「不合理であることが理解できた」と答えた人は58.5%に上る一方、「自分に直接関係がある」「何か行動を起こさなければならない」と感じた人はわずか18%程度だった。
特に効果が薄いのが、差別意識がすでに薄れている地域や世代だ。東北や沖縄、若い世代の中には「被差別部落」という概念自体をほとんど認識しておらず、「同じ日本人としか認識していない」人が増えている。そうした人々に改めて「特別な被差別集団」として教育することは、逆にそのカテゴリーを意識させ、想像上の区別を再生産する矛盾を生む。教育が「関係ないのに押しつけられている」という違和感を強め、逆効果になるケースも少なくない。
結婚は憲法第24条が保障する私権の核心である。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し……」と定められたこの権利は、個人の価値判断に他者が強く介入することを原則として禁じている。
ところが人権教育では、「部落出身者との結婚に反対するべきでない」という規範が強く押し出される。これは、個人の私的領域——血統意識、家族の価値観、将来設計——に公的な道徳を突きつける形となりやすい。特に問題なのは、反対理由の多くが「純粋な血統意識」ではなく、「現実的な利害や圧力の懸念」である点だ。
法務省の令和2年(2020年)「部落差別の実態に係る調査」でも、結婚・交際での差別的取扱いが依然として存在すると明記されている。実際の相談事例では、「相手の親が部落出身者だと知って婚約を破棄された」「親族から『部落の団体と関わるのは面倒だ』と反対された」といった声が今も上がる。こうした心理は、単なる「差別意識」ではなく、合理的な懸念として存在しているケースが多い。
部落解放同盟(解同)は、戦後すぐに被差別部落の解放を掲げ、水平社運動の継承として大きな役割を果たした。しかし、運動の長期化とともに「圧力団体」としての側面が目立つようになった。
• 1969年から始まった同和対策事業特別措置法時代に、解同系団体が事業執行の優先権や予算獲得で強い影響力を持った。
• 一部自治体では随意契約や優先採用が問題化し、2000年代に「飛鳥会事件」などの不祥事が相次いだ。
• これらの歴史が、「結婚すると将来的に団体とのトラブルに巻き込まれるのではないか」という現実的な恐れを生み出す。
人権教育がこの歴史的背景を十分に語らず、「被害者」としての側面だけを強調すると、逆に「被害者利権」という批判を生む。結果、被差別部落は「過去の被害者集団」としてではなく、「今も特別な配慮を求める圧力団体」としてイメージされ続け、差別意識の再生産を招いている。
啓発教育を行うこと自体に利益がある——この感覚は、事業継続の正当性や予算の根拠として機能しやすい。結婚差別は私権の領域であり、血統意識や現実的な懸念が絡む極めて複雑な問題だ。人権教育がこの複雑さを十分に考慮せず、一律の「正しさ」を押しつける限り、被差別部落というカテゴリーは教育によってむしろ維持・再生産され続ける可能性が高い。
人権教育の意図は尊い。しかし、憲法第14条が定める「法の下の平等」という理念に照らして、その役割を冷静に検証する必要がある。教育によって差別意識が実際に緩和されているのか、それとも「被差別部落」というカテゴリーを必要以上に強調することで、かえって区別意識を再生産しているのか——この問いは避けて通れない。
特に、差別意識がすでに薄れ、「同じ日本人としか認識していない」世代や地域が増えている中で、改めて特別な被差別集団として教育を繰り返す矛盾に、自覚的であるべきだ。結婚という私的な領域への介入、圧力団体としての歴史がもたらす現実的な懸念、そして教育そのものが持つ「利益構造」を直視しなければ、人権教育はスティグマを維持する装置ではとの疑念は拭えない。
被差別部落問題は、過去の身分制度の産物であると同時に、人権教育という現代の装置によって再定義され続けている。私たちはそのメカニズムを冷静に見つめ、改めてその意義を問い直す時期に来ているのではないだろうか。
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
[#改頁]
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
いいか、お前ら。まだ「清潔感=お風呂に入ること」だと思ってんの?
それ、一生かかってもモテないし、誰にも相手にされないから今すぐその脳みそアップデートしろよ。
女どもが「清潔感は容姿じゃないんですぅ~」とかクネクネ言ってるけど、あれ全部嘘。
具体例を挙げてみ? 美容院行け、肌管理しろ、眉サロン行け、シルエットのいい服着ろ。
これ、どこが容姿の話じゃないんだよ。
結局「金と時間をかけて、ガワをどれだけ高額な記号で塗り固めたか」って話だろ。
それを「マナー」とか「相手への敬意」なんて綺麗な言葉にすり替えて、弱男に自己責任を押し付けてるだけなんだわ。
毎日律儀にセーターを洗濯機で回して、除菌して、中身はクリスタルみたいに綺麗。
でもその結果、生地はデレデレに伸びて、毛玉だらけで、生活の疲れが滲み出た「小汚いおじさん」の完成。これが清潔。
一度も洗ってないネイビーのセーター。でも毎日ブラッシングして、スチーム当てて、消臭スプレーぶっかけて「新品のふり」をしてる。
中身がドブネズミでも、ガワがシュッとしてれば、女は「素敵!清潔感ある!」ってなるんだよ。
いいか、弱男。お前らに残された唯一の正解を教えてやる。
今すぐ洗濯機を回すのをやめろ。
お前らが持ってる安物の服を家庭用洗濯機でジャブジャブ洗うのは、自分の尊厳を劣化加速装置に突っ込んでるのと同じなんだよ。一度水を通した瞬間に、新品特有の「魔法のハリ」は死ぬ。
シワシワの服を着て「僕は毎日洗濯してるから清潔です!」とか、マジでギャグにすらなってねーから。
清潔感が欲しいなら、
これ。これ以外に弱男が「清潔感」という名の身分税を免れる方法なんてねーんだよ。
鼻を近づけなきゃ分かんない「実害としての臭い」より、パッと見で分かる「服のヨレ」の方が100倍ギルティなんだわ。
「私は自分のパッケージを維持するために、これだけのリソースをドブに捨てる覚悟があります」っていう、残酷なまでの階級証明なんだよ。
「そんなの理屈じゃない」って?
発端は医療ミスがあったとして元患者が病院を訴えたというよくある事案。
医師サイドは「訴訟提起されたら結果勝訴しても失うものが大きすぎる」「現場が萎縮したら国民の不利益になる」と主張し、弁護士は「死亡や後遺障害が残ったのであれば訴訟提起をすること自体は咎められるべきではない」「民主制国家は誰もが訴訟提起を出来る以上医師だけを特権とするべきでは無い」と主張した。
ちなみにXには検察官や裁判官という身分を明かしている人は居ないため、何故か裁判所や検察庁への怒りへの反論を弁護士がしている模様。
今は、弁護士は患者を煽って訴訟をさせてお金を稼いでるとか、医療訴訟は専門性が高すぎる上に本気でやるなら何百万円もかかるから弁護士が多くの医療訴訟を未然に食い止めてるとか、もう色んな所に延焼して、手が付けられない状態になっている。