はてなキーワード: 経営方針とは
辺野古で高校生(と活動家)が犠牲となった痛ましい事故について、平和教育や反基地活動そのものにどの程度関連付けて議論すべきかは、非常に専門的な知識と判断を要する。
まず事故の直接的な原因についてのみ検討すると、本件は直接的に抗議活動を行っていた最中の事故ではなく反基地活動や平和教育と言った要因は無関係であると考えられる。自分はマリンアクティビティについての専門家ではないので観光事業者が分析した記事を引用する[1]。複合的な技術的要素が重なって発生した事故である一方で、基本的な安全の管理体制の不足が指摘されている。しかし不適切な安全の管理が行われること自体は反基地活動や平和教育といった目的がなくとも世界中で発生している事象であり(知床観光船やJR九州高速船の事案は近年かつ大きく報道されたこともあり記憶に新しい)、即座に反基地や平和教育と結びつけて議論することは適切ではない。
一方、安全について議論する際に直接的要因のみにフォーカスするだけでは片手落ちである。実際、発生してしまった多くの事故では経済的な理由によって安全の優先順位が劣後したケースが少なくなく(つまり利益を優先して安全を軽視している)、組織全体に背景要因となる文化が染み付いているような場合は直接的要因を潰しても必ず似たような理由で再び事故が起きる。
では辺野古の事故において、平和教育や反基地活動は重要は背景要因ではなかったのだろうか。推測を含む部分はあるが、到底無関係とは言えないだろう。まず今回の事故を起こしたヘリ基地反対協議会は過去にも死亡事件を起こしており、事故を起こしたにもかかわらず必要な安全管理策を取らなかった、明らかに安全文化が劣後した集団である。その背景要因として、反基地活動という崇高な目的が、彼らの手段を集団内で正当化した可能性は否定しきれない。また同志社国際高校についても、本来実施すべき安全確認のプロセスが平和教育という目的、あるいは普段から深い繋がりのある団体であるからと言った理由ですっ飛ばされた可能性はあるだろう(客観的事実として、そもそも繋がりのない団体かつ通常の団体が提供するサービスであれば旅行代理店のチェックは最低限入る)。
何よりも、この様な重大事件を引き起こした後でも、平和教育や反基地活動の正しさという思想から発生した行為の正しさは維持しようとする姿勢そのものが背景要因としての重要さを物語っている[3][4]。仮に経済的に行き詰まった業者が安全を軽視して船を運航し、「事故を起こしてしまったことは問題だが、会社が潰れるか、社員を路頭に迷わせるかどうかの瀬戸際であり、利益を優先する経営方針は間違っていない」と主張したらどうなるだろうか?またそもそも、こんな主張をしておきながら政府が「沖縄県民への基地負担は問題だが、沖縄の基地は日本だけでなく世界の秩序の安定化に必要であることは正しい」と主張した場合にどの面を下げて批判できるのだろうか?
そこそこの期間安全の専門家として生きてきたが、実は経済的な目的変数が重要視されている場合はやりようがある。なぜなら重大な事故は経済的な利益にダイレクトに影響するからだ。一方で、反基地活動のように理念そのものが目的変数である場合、事故が発生してもその評価関数自体は維持されやすく、内部で正当化が可能なため、安全改善のフィードバックが回りにくい。事故の経過を観察するに、これは本当に問題の根が深い。反基地活動を再開するのであれば、理念よりも安全を優先する文化をまずは整えてからにすべきである。
[1]https://note.com/irukaoyaji/n/n77b7bedf08f5#2edc8ca8-3290-42d4-8b00-9891d0ff4f36
[2]https://www.sankei.com/article/20260423-C4NDGHI7ERLITJAJFZ5DQI2IDM/
[3]https://note.com/unknownbuttruth/n/n058ea58c5c8e
[4] https://www.sankei.com/article/20260505-2M6P2PZPTRLRRLPWMEPHDBYRGY/
自分の書きたいこと、言いたいことだけ書いて終了な文書多くないですか?
貴方が今書いているその書類、何が書かれているべきか意識するべきです
誰かがその書類を見て必要な行動を起こせるよう、その書類には必要な情報が十分含まれている必要があります
今までやってきたことをそのままなぞるだけ
偉い人はお出しされた最終成果物だけを見て文句を言うが、自分が作った(あるいは承認した)書類Aのことは顧みない
偉い人は自分が何を求めてることを知りはしないが、他人を働かせることにはとても興味がある
例えばwebサイトを作るとするじゃないですか
すると以下のように上流へたどっていくことになる
要件定義書を完璧なものとするために偉い人と関係者を質問攻めにするが、肝心なことは言わないし決めないが、おそらく何もわからないのだろうし、私に問い詰められたところでビビることしかできないだろう
クビになるまで偉い人を問い詰めるのが私の仕事なのかもしれないし、しかしそれはただのコミュ障では?という気もする
現実とは?
例えばwebサイトを作るとするじゃないですか(2度目)
その意思決定の源流には「会社の認知度を上げるため」とか「新しい案件をとるため」とかあると思うんですよ
だったら経営方針の書類をまず一番最初に持って来て、今期の決算までに何とか形にしたいとかなんとか、偉い人のコメントを添えるべきだと思うんすよね
いきなり「なんかカッコいいサイト作って」って言われたら、無限の工数と予算で最高のものを作ろうと案を出すけど、「それじゃだめだ、高すぎる」みたいなそっけない否定しかしないのであれば
一生質問攻め確定っすわ
お前が最初の書類として、必要な情報を何も出さない、決めない、後出し多数
せっかくのAIも何の役にも立たねえ
「じゃあ質問内容と決めてほしいことをまとめてリストにしてよこせ。以後は二度と質問するなよ?」と言われた
そんなの無理に決まってるじゃんか!
結局、必要事項を初手で完璧に確認するというのも無理な話で、密なコミュニケーション取ろうなどというつまらなくてめんどくさい話になっていくわけだが
どんな情報を基に決めるべきかは経験で導き出すしかないのだろうか
俺にはこの世の全てをうまくコントロールすることはできない
トラック物流に「黄信号」 運転手不足が加速 完全自動運転は道半ば 見えた有力手段とは
なぜ起こる?観光産業の人手不足…問題の本質は「人がいない」からではない!このままでは需要があるのに対応できない、経営者が決断すべきこととは?
人が集まらなければ賃金を上げるしかないし、賃金を上げるためには自社サービスの料金を上げるしかない。それができないのなら、それは人手不足ではなく、単なる経営不振だ。
例えば、現場から状況の厳しさについて苦言を呈されたとき、経営陣はその声に対して真摯に対応することがあっただろうか?
多くの社員は、会社を訴えて損害賠償請求をしたいわけではなく、ただ会社の経営状況を改善したいだけだ。
しかし日本企業というのは基本的に、末端の、特に若手社員を低賃金で酷使することで成り立ってきたから、いまさら経営方針を改めるということができなくなっている。
だから弁護士を立てて、それは違法ではありません、パワハラではありませんと、会社の経営そのものを放棄して自己保身に終始する。
パワハラで訴えて慰謝料をふんだくってやる、なんて誰も一言も言っていないにも関わらず。
ただ、これは各々にとって合理的な選択でもある。社畜が改宗することはできないし、庶民はインフレで騙すことができる。経営幹部の逃げ切り成功は堅い。
最初に賃金を上げた会社が人手不足を解消して一人勝ちできるかというと、そこまで単純な話でもない。
物流に関して言えば、サービスの質を圧倒的に劣化させたアマゾンの一人勝ちだ。なぜならこれが、一人当たりGDP世界40位となった日本の、本来の姿なのだから。
老木が斃れる日は近い。ゾンビ企業も不死身じゃない。果たして日本人は、倒壊に巻き込まれて圧死する直前まで、それらに寄生して蜜を吸い続けるのだろうか?
2026年F1開幕前テストでのアストンマーチン・ホンダの状況は悲惨だ。
ライバルチームが開幕に向けて着々と準備を整えていく中、アストンマーチン・ホンダだけはまともな走行すらままならず大きく遅れている。
主な原因は、ホンダが新しく作り上げた2026年用のパワーユニットの不具合に起因する。
遅いとか速いとか、そういう問題以前にトラブルが起こり続けて、まともに周回を重ねることが出来ない。
この遅れを取り戻すには数カ月規模の時間が必要とも言われている。
数カ月単位の開発の遅れ、それはスピードを信条とするF1の世界では、「死」を意味する。
悪夢のマクラーレン・ホンダ時代の再来ともいえる極めて悲観的な状況だ。
またもやホンダは全世界に向けて、無能を晒すことになるのだろうか?
原因はかなりハッキリしていて、「会社としてF1に対して腰が据わっていない」この一言に尽きる。
わかりやすくするために、F1に参戦する同じ巨大自動車メーカーであるメルセデスと比べて話そう。
ホンダのF1は、良くも悪くも「本体の都合でいつでも切れる社内プロジェクト」という扱いになっているようにしか見えない。
こういうタイミングになると、真っ先に「やめる」「縮小する」の選択肢に上がるのがF1だ。
何十年も歴史を見ていれば、参戦→撤退→また参戦→また撤退、というこの往復運動がどれだけ繰り返されたか、嫌でも思い出す。
そのたびに何が起きるかと言えば、
で、数年後に「やっぱりF1やります」と戻ってくるころには、他社はずっと積み上げてきた土台の上で次のフェーズに行っている。ホンダだけ、毎回スタートラインの手前から再スタートだ。
新レギュレーションで大ゴケする理由は単純で、「そもそもそこに向けて走り続けていない」からだ。
準備していないテストで点が取れなくて当然なのだ。「ホンダはまた…」と毎回同じ光景を見せられている。
対してメルセデスは、「F1パワーユニットを作るための専業組織」を丸ごと持っている。
Mercedes AMG High Performance Powertrains——ここの“本業”はF1エンジンだ。
だから、2014年のハイブリッド元年のような大変革でも、数年前から準備しまくって圧勝できたわけだ。
「本業としてやっている側」と「社内プロジェクトでやっている側」の差は大きい。
ホンダにとっての本業はあくまで量産車と二輪であって、F1は広報・技術アピール・人材育成の“手段”扱いから抜け出せていない。
メルセデス側は極端に言えば、「F1で勝つこと自体がブランド価値と技術の根幹」なので、赤字覚悟で長期に投資する理屈が立つ。
ホンダ側は、「イメージに合うか」「企業方針(環境・EV)と整合するか」が強く問われる。勝ち始めたところで方針転換が来れば、今までの投資ごとバッサリ切り捨てることも躊躇しない。
一度F1から撤退した瞬間、それまで何年もかけて積み上げたノウハウ・人材・文化がバラバラになる。その回数が多すぎる。
レーシングの世界でいちばん価値があるのは「積み上げた時間」なのに、その“時間”を自分の手で何度も投げ捨てているのがホンダのやり方だ。
現場のエンジニアは、間違いなく本気で世界一を目指しているし、命削ってやっている。
だが、上で「いつでも撤退ボタンを押せる」前提で管理されている限り、どれだけ頑張っても、上の一言で全てチャラにされるリスクを抱え続ける。
2000年代半ば、ホンダはワークスチームとして莫大な予算と人員を投入し、「地球に優しいF1」だのなんだの掲げながら参戦していた。
ところが成績はパッとせず、リーマンショックと業績悪化が来た瞬間、真っ先に切られたのがF1だ。
で、何が起きたか。
ホンダが「もうやめる」と投げ出したチームとマシンは、そのままブラウンGPとして走り、メルセデスエンジンを積んだ途端にいきなりチャンピオン。
自分たちが注ぎ込んだ金と設備と人材の結晶であるマシンが、「エンジンだけ他社」に替わった瞬間、歴史的シーズンを作ってしまった。
ホンダは大金を投じて土台を作り、その成果を最後だけ他社においしく持っていかれた形。
これ、プロジェクトの連続性を軽く扱ったツケ以外の何ものでもない。
2015年:復帰を1年前倒しさせられての大爆死
マクラーレンと“禁断の再婚”をし、ハイブリッド時代に乗り込んだが、ここでも「本当にそのタイミングでやるのか?」という疑問符が付く。
本来準備に使えるはずだった時間を削って、政治的・ブランド的な事情で復帰時期を前倒しにした結果、パワー不足、信頼性不足のオンパレード。
サイズゼロだの何だのスローガンだけは派手だが、実態はまともな走行すらままならない大惨事だった。
「戻るなら本来必要な準備期間をちゃんと確保しろよ、それを削っておいて新レギュレーションに間に合わせようとした時点で大ゴケ確定だろ」という話だ。
2019〜2021年:やっと実を結びかけたところで“自爆撤退”
レッドブルと組んでから、ようやくホンダはハイブリッドPUでトップ争いに絡めるところまで来た。
パワーも信頼性も上がり、2021年にはついにタイトル争いの中心に立った。
が、そのタイミングで出てきたのが「カーボンニュートラルを最優先するのでF1から撤退します」という宣言。
ようやく積み上がったノウハウと“勝てる文化”を、自分の手でまたリセットしに行ったわけだ。
勝てないからやめるならまだしも、「勝てるようになったからやめる」というムーブを何度もかますメーカー、そうそうない。
これはもう、「F1を本業と見ていない」と白状しているようなものだ。
そして2026:また新レギュレーションで同じことを繰り返す気配
他社は何年も前から新コンセプトに取り組み、専業組織としての蓄積をフル動員してくる。
ホンダはどうかと言えば、また「戻ります」と言ったあとに組織を再編し直し、HRCとして整え直しながらのスタート。
スタートラインに立つ前から、すでに“追いかける側”になっている構図は、2000年代後半から何も変わっていない。
本人たちは全力でやっているのに、会社としての構造が「また同じパターンの大ゴケ予告編」を流している。
時系列で眺めると、結局こういうことになる。
メルセデスが「専業会社を通じて同じ場所で積み上げ続ける」一方で、
ホンダは「自分で積んで、自分で蹴飛ばして、また一から積む」を何十年も繰り返している。
ホンダがつまづくのは、運が悪いからでも、エンジニアが無能だからでもない。
その一点が、節目ごとの大ゴケとして形になって出ているだけの話だと、俺は思っている。
新卒で入った会社に目標がなくて、どうしたらいいかわからない。
部→今期の目標とか、なにもない。
KPIはない。事業計画はない。今期目標もない。数字を出したり功績を出した人間が褒められるとかもない。
恐ろしいことに、それで会社の数字は全く問題がないらしいことだ。
うちの部署は特にそれが顕著で、部署会議なんかも一度もやったことがない。
というか、マニュアルもなければOJT制度もない。先輩によっては仕事に引き継ぎ書を作ってくれる人もいるが、
基本的に口頭で一度説明して終わり。(質問があればいつでも答えてくれるけど)
みんな、なぜか働いていて、なぜか数字を伸ばし続けている。
うっすらと、あの人は仕事してる、あの人はしてないくらいの周囲の評価くらいはある気がするが…。
先日、ちょっと機会があって役員にこの会社、どこに向かってるんですか?と聞いたら
知らない、とのことだった。社員が今何をやっているのかもよくわかってない、と。
「あんまり利益出されると税金が高くなるからもっと経費使ってくれ」とまで言われた。
部署で一番成績を出している人は「目標なんてない。やることやってるだけ」と言いながら自分で仕事を取ってきている。
若手頭みたいな人は、「働きたいと思ったことがない。こんな会社潰れたらいい」と言いながら、やはり自分で仕事を取ってきて、こなしている。
部長も「特に目標はない。困ったことがあれば言え」と断言していて、本当によくわからない。
それで、みんな何故か案件を増やし、働いている。成績は上がり続けている。
いや、いいんだけど、いいんだけれども。ノルマをこなすのにヒイヒイ、というのも嫌なのだけれど。
みなさん、どう思いますか?
才能がないと思ったら、早いうちに河岸を変えた方がいい。
早ければ早い方がいい。
可哀想だから(教え子が? それとも自分が? w)、って「がんばれ、がんばれ。才能なんて関係ない」みたいに騙すのは、むしろ害悪だよ。
10年後、気付いて路頭に迷わせるとして、その責任は取れるのか?
まぁ、本人自身が気づいて路頭に迷いつつあるけどどうしようもないのかもしれんが、地獄に道連れはやめてやれ w
それで生計を立てない、趣味の範囲で楽しむ分には好きにすればいいけど、エンジニアに限らず、それなりのお金をもらおうとしたら、才能、向き不向きは超えられない壁として現実に、強固に存在している。
球速120km出ないけど阪神の一軍のピッチャーに、ってのはどう逆立ちしても物理的に不可能だ。
でも草野球は楽しめる。
才能がなけりゃ、一人で永遠に「大いなる助走」を続けりゃいい。
誰にも迷惑かけないなら。
医師、看護師、会計士、経営者、etc.etc. にも、才能、向き不向きはある。
落ち着きないし。
同じことを何日も続けたら、爆発する。
「明日も同じことしなきゃならないのか……」って考えただけでも、死にたくなる。
こんな感じに、才能がものをいう分野って、意外に多い。
ソフトウェアエンジニアは、設計実装の抽象度が多層化していて、その巧拙によって安定度、運用や機動的な新機能追加の手間、リードタイム、金や何やら、数十倍、規模複雑度が爆上がりしている今なら下手すりゃ数百倍差が出る。
その差をちゃんと理解するには、巧の現場の「こういう世界があるんやー……」って実体験が必要だったり、巧レベルの才能が必要だったり、経営知識が必要だったり、経済知識も必要だったりして、「拙」の現場にぶら下がってるだけのエンジニアが「才能なんて幻想」って吠えたっても「マジ、迷惑だからやめてね」って思う。
どの炎上現場でも、高粘度現場(リーダーマネージャが理解できないからって邪魔ばっかりしてきたり、そもそもプロダクトがぐっちゃぐちゃになってたりして、どんな行為がサービスの息の根を止めるかわからなくて身動きが取れない「震える舌」みたいな現場。物事が全然進まない現場。通常、経費で札束ガンガン燃やしてるはずだから、ここも炎上現場っていう)でも、この手のエンジニアが腐るほどぶら下がってるんだよね。
たいてい、生み出されるソースコードとドキュメントの割合がおかしなことになってる。
いや、そういうの主催してる暇があったら、コード書けよ、って。
でも、Web記事引いてきて、「〇〇にはこう書いてある」とかドヤ顔で机上の空論で時間潰して「俺も一端の理論派エンジニアだぜ……」とか、いや、お前はただの受け売りを理解もせず垂れ流してるだけのそこらへんの AI と変わらんクズだよ。
おいらの師匠の一人は「TV出たり、本書いたりするやつは二流。一流は、自分の仕事に集中していて、他のことやる暇ないから」って言ってたけど、ほんとその通りだと思うよ。
シャバと違い、ソフトウェアの世界は驚くほどのスピードで巨大化、複雑化している。
30年、40年前なら、社会性の乏しい、プログラミングコンテスト受賞者みたいなエンジニアでも無双できたけど、今は無理なんだよね。
今だと玉拾いも任せられないくらいだったりする。
ちょい前も、PostgreSQLの中身いじれます! って東大卒業生いたけど、視点が局所的すぎて全体感に欠けてて、プロジェクトがヤバい状態になってるのが理解できなかったりしてたからね。
そろそろリリースできる状態になってる予定だけど、おいらの読み通りα版完成が3ヶ月遅れ、そこで大量の不具合が発覚してベータ版完成がそこからさらに3ヶ月以上遅れ、不具合積み残したまま見切り発車、ってなるんじゃねーかな、と思ってるんだが w
才能の種類、方向性によっては、10年前も今もたぶん10年後も変わらず十分通用するものはあるんだけどねー。
そこに生活水準をあげてしまうと、自分はもう通用しないと気づいても、撤退できない。
マイカーガー。
マイホームガー。
子供ガー。
愛犬ガー。
んなもん知るかっ!
そういう「元エンジニア」がリーダーとかマネージャとかにクラスチェンジして、事業、プロダクトの足を引っ張る。
あそことか、そことか、具体的な企業名はあげられないけど、そういうエンジニアが漬物石のように重しになって、身動きが取れなくなってるところが多い。
VCとかから、もっと売り上げを上げろ。成長率を上げろ、というプレッシャーを与えられ、何かしなきゃいけない。ってなって、外付けの雰囲気だけのサービスをどんどん外付けしていく戦略を取る。
1年で10。
2年で30とか。
マジかよ w
思い思い行き当たりばったりに作ったら、手間だけ増えてそれを壊すわけにはいかなくなって、さらに身動きが取れなくなっていく悪循環しか見えないんだが、そんな経営方針で大丈夫か?
とか意味不明な決定して、認証認可v1、認証認可v2、認証認可v3とマイクロサービスが増殖して、さらにv4を企画してるとかいう会社だってある。
真っ当な声には、自分の存在感を示すためだけの反対を唱えて邪魔したりして、現場で手を動かしているエンジニアより高級を取ってんのに、事業、プロダクトへ与えるダメージは倍増する。
さらに、自分の地位を死守するために、それを脅かす腕利のエンジニアを陥れる、排除することに全力を傾ける。
これで3倍界王拳だ w
経営者はできるエンジニアたちに任せていると思い込んでいるかもしれないが、さて、どうかね? w
大本営発表的にはうまくいっているとされているサービスが、その裏側はカーオブファイヤーみたいなところって、結構ある。
はっきりいう。
今はクラウド環境のプロダクトで、どのように自動テストで検証可能なシステムを構築するかの手法の研究を続けてる。
具体的には、今まで関わってきた炎上現場で安定稼働を達成させた手法(TDD)だな。
ワークライフバランス? w
才能のない人は河岸変えろ。
業務経歴書にも今まで使ったことがあるサービスの名前をたくさんたくさん載せてます。
じゃねーよ。
ボルトに世界水泳、吉田沙保里にNBAに出場させるような使い方してて、どこが技術力だよ。
ってのが多い。
「どうしてこのAurora、リーダーがこんなにたくさんぶら下がってんの?」
「テナントが増えて、アクセスが増えたので、負荷分散のために増やしました。水平スケーリングってやつです」
うん。水平スケーリングは知ってんねん。この程度のテナント数、ユーザー数、アクセス数で、どうしてこんなにでかいインスタンスのリーダーがぶら下がってんのか? って聞いてんねんけど……。
って現場、多い。
でも、今通常営業してるサービスでも、こういうところ多いんだよな。
それはともかく、
「マイクロサービス化していて、いま120を超えたところで、当面160になります」
「……は?」
「……デプロイの時、どうすんの?」
「変更があるサービス名を書いたファイルを一緒にコミットして、それ読み込んで、GitHubActionsでデプロイさせてます」
「Cloneして立ち上げます」
「これ……、モノリポ?」
「120個?」
「120個」
「なんか立ち上がらないんだけど……」
「あ、修正中なんで、〇〇と××のコミットをチェリーピックしてください」
「……動かないぞ」
「昨日の夕方、変更が入ったみたいなんで、△△のコミットもチェリーピック。いや、++のブランチを……」
5日で立ち上げ切れるんか?
って現場がね、案外たくさんあるんだ。
「ほう……?」
どうして「自分が間違えてる」「自分が見当外れなことをしている」可能性ってのを考慮しないんだろう、この人らは?
っていつも思う。
マイクロサービスの目的も前提も理解しないで、HowToだけ猿のように繰り返してるって自覚ないんか…… (-_-)
ってマーカーで引いた一文見せつけられるんだが、その前に書かれてある前提とか目的とか、書かれてない暗黙のそれとか、いわゆるコンテキスト削ぎ落として、単語レベルの理解を開陳されても、「は?」としか反応できんのよな。
120のマイクロサービスとか、お前、認知科学の知識もないねんな……。
それマイクロサービスじゃなく、「粉砕されたモノリシックサービス」っていうんやで、と。
まーじで、技術本とかの恣意的なつまみ食いで訳分からん理論構築すんなよ。
それでプロダクトがうまく回ってなかったら、それが答えなんよ。
まぁ、「うまく回ってる状態」ってのを知らない、理解できないだろうから、正しい答えに行きつかんだろうけど。
その正しい答えに行きつかない、ってのを
「致命的な才能の欠如」
って呼ぶんよ。
山形県銀山温泉の老舗旅館「藤屋」にアメリカ人女性が女将として嫁いだことは、テレビや新聞などで話題となりました。彼女の名前はジニーさんで、JETプログラムを通じて来日し、旅館の若旦那と結婚。伝統的な温泉旅館の女将として奮闘する様子が多くのメディアで紹介されてきました。
その後の経緯
現在について
山形県銀山温泉の藤屋旅館に嫁いだアメリカ人女性(ジニーさん)は、離婚後アメリカに帰国し、日本には戻っていません。現在の詳細な消息は公表されていませんが、失踪や事件性はなく、静かに新たな人生を歩んでいると推測されます
結果として「藤屋」の経営者であった藤敦氏は、旅館の倒産と、妻ジニーさんおよび2人の子供を失うことになりました。
藤敦氏は「伝統と革新」「経営の持続と地域性」のはざまで苦渋の決断を下しましたが、結果的に経営も家族も失うことになりました。大規模改装による経営戦略の失敗と、家族内の価値観のズレが複合的に作用したことが、最大の要因といえます。
藤敦氏がジニーさんの反対を押し切って「おしゃれな改装」を断行した理由は、主に経営上の危機感と時代の変化への対応が背景にあります。2000年代半ば、藤屋旅館は老朽化や競合激化、観光客のニーズ多様化といった課題に直面していました。これに対し、藤敦氏は「伝統を守るだけでは生き残れない」と判断し、有名デザイナーに多額の資金を投じて近代的な大改装を実施しました。
この判断の裏には、
があったとみられます。
を招き、経営破綻の直接的な要因となりました。
このような「過剰な設備投資」や「ターゲット層の見誤り」による経営破綻は、旅館・ホテル業界で珍しくありません。
などが多数報告されています。
> 「過剰な設備投資、高コスト構造、需要予測の甘さが招いた失敗は、ホテル・旅館経営の典型的なリスクであり、市場調査や顧客視点の欠如が大きな要因となる」
藤屋旅館のケースも、伝統と革新のバランスを見誤り、経営者の判断が家族や地域社会との亀裂を生み、最終的に経営も家庭も失うという典型的な失敗事例の一つといえます。
昔いた職場、女性社員が多かった。もちろん能力はバラバラ。でも、なんとなく”女性だから”ってことで許される空気があった。
Aさんは『生理で体調悪い』と月1で必ず遅刻。Bさんは『話を聞いてほしい』と言って会議中に関係ない話を始める。Cさんは『私なりに頑張ってます』が口癖で、エクセルすら使いこなせなかった。
で、ある日、会社の経営方針がガラッと変わった。成果主義・評価制度導入。結果、全員辞めてった。
残ったのは、淡々とやるべきことをやる男たち。ミスが減り、納期が守られ、会議が静かになった。誰も『察して』と言わない。成果は出たし、ボーナスも上がった。
もちろん、女性全員が悪かったとは言わない。でも、『何となく守られてた人たち』が去っただけで、こんなにスムーズになるとは思わなかった。
「人のために動くのが面倒くさい」GW明けに新入社員の退職急増…“退職代行”に250件超の依頼
普通に文字が読めるなら、日本の雇用者数は6千万人だから、250件だと割合にして0.0004%程度だ。
かなり希少なケースなので、相応の深刻な事情があった可能性もあり、安易な決めつけで叩くべきではない。
が、記事ではここに「新入社員の退職急増」「やめる理由1位はやりがい」などと退職代行とは無関係のワードを並べてミスリードを誘い、
釣られた人達が「ずるい、自分だって仕事は嫌なのに」と大合唱をするという毎度の展開は五月初旬の風物詩とでもいうべきだろうか。
「ブラック企業」「社畜」「みんなで不幸になろうキャンペーン」
こんな言葉が生み出されて20年以上経つが、未だに何ひとつ変わらないのだから、これはこの国の制度というより日本人の遺伝子なのだろう。
なにせ、朝礼で「サービス残業は禁止」だと言っても誰も従わないし、法律で「サービス残業は禁止」だと決まっていても誰も守らない。
日本全体を覆っている空気は、会社の経営方針や国の法律よりも強固で、自己犠牲的で、彼らにとってはとても美しいものだ。
これでいて日本人はおよそ無宗教だというのだから驚異的だ。明日から給料が半減するといっても彼らはサービス残業をやめないだろう。
さて、若手社員の話だ。年配の方々は恐らく誤解しているが、若い人が仕事を辞めるのは転職して成功するためではなく、成功しないようにするためだ。
もっとわかりやすくいうならば、結婚しないから仕事も適当でいいということだ。この意味がわかるだろうか?
日本人として生まれてきたからには、国の将来を背負って、時には戦闘機で敵艦に突っ込んでくれると勝手に思い込んでいないだろうか?
他人に対しては辛口だが、考えてることは甘いようだ。でも心配はいらない。
なるほど、「助成金なしで経営できる病院なんてあるの?」って疑問、
たぶんそこがもう出発点からズレてるんだと思う。
こっちは、その前提に“どこまで依存してるか”と、“それをどう使ってるか”の差が生き残りの分かれ目になるって話をしてるの。
健全な病院ってのは、助成金を「補填」じゃなくて「仕組みの中の一部」として計算してる。
でもゾンビ病院は、助成金を**「これがないと完全に死ぬ」ってところまで当て込んでる。**
つまり、
で、そこには必ず「経営方針」がある。
どの診療科を持つかどの患者層を中心にするかどの地域・施設と連携して紹介を回すかどの設備に金をかけて、何は捨てるかどこまで“無理してでも続けるか”を判断する基準があるか
それを「採算を考えるやつはバカ」って空気で全部吹っ飛ばしてきた結果が、今のゾンビ病院の山なんだよ。
この意見について、客観的かつ論理的に評価するために、AppleとGoogleの企業文化、情報公開の方針、および経営戦略を考慮して分析します。
1. Appleの秘密主義と情報公開
評価ポイント
- Appleは確かに秘密主義を貫いており、未発表製品やプロジェクトの詳細を社外に漏らさないように厳しく管理しています。これはブランドの神秘性を維持し、市場でのサプライズ効果を高めるための戦略です。
- ただし、Appleは規制当局やユーザーの要求に応じて、必要な情報を開示することもあります。例えば、プライバシー保護に関する方針や環境への取り組みなどは積極的に公表しています。
- しかし、「顧客のために秘密主義を貫いている」という点については議論の余地があります。例えば、修理の独占(Right to Repair運動への消極的な姿勢)や、社外開発者に対する制限(App Storeの厳格なルールなど)は、顧客の利益よりも企業のコントロール維持の意図が強い可能性があります。
結論
Appleの秘密主義は顧客の体験を最適化する意図もあるが、企業の競争力を維持し、ブランド価値を管理するための側面が強い。そのため、必ずしも「顧客のため」と断言するのは一面的な見方である。
2. Googleのビジョンと方針の変遷
評価ポイント
- Googleは「Don’t be evil」から「AIファースト」へと経営方針を変化させるなど、そのビジョンが時代とともに変わっています。特にクラウド事業やAI戦略の強化は、利益追求と技術革新の両立を目指すものです。
- しかし、Googleのプロジェクトの中には、発表後に突然中止されるものが多い(例: Google Stadia、Google Glass、Google+)。これは、企業の収益性や市場の変化に迅速に対応する姿勢の表れですが、ユーザーからは「持続性がない」「約束が守られない」といった批判を受けることもあります。
- 収益化の優先度が高いことは確かであり、プライバシーに関する方針転換(例: サードパーティCookieの廃止延期)なども、最終的に広告収入を守るための動きと見ることができます。
結論
Googleのビジョンは技術革新と収益のバランスを取る中で変化しており、必ずしも「迷走」しているとは言えないが、一貫性が欠けると感じられることがある。また、収益が優先される場面では、発表した理念を後退させることもあり、ユーザーから不信感を持たれる要因になっている。
全体的な評価
- Appleは秘密主義を戦略的に活用しており、その一部は顧客の利益に寄与するが、企業のコントロール維持のための側面も強い。
- Googleは市場の変化に応じて方針を変えるが、そのプロジェクトの継続性の低さや収益優先の判断が「迷走」と見なされることがある。
したがって、元の意見には一定の妥当性があるものの、両社の戦略を単純に「顧客のため」または「金儲けのため」と断定するのは、やや単純化しすぎた見方であると言える。
端的に言って、どちらがマシですか?
「マシ」という基準をどこに置くかによりますが、以下のように整理できます。
→ 製品・サービスの継続性が高く、戦略もブレにくい。エコシステムの維持を重視するため、長期的に信頼しやすい。
→ 新しい技術を積極的に試し、市場の変化に柔軟に対応する。ただし、途中で撤退することも多い。
「安定した体験を求めるならApple、最先端を試したいならGoogle」と言えますが、ユーザーへの影響を考えると、Appleのほうがマシかもしれません。理由は、Appleは方針が一貫しており、突然サービスを打ち切るリスクが低いからです。
会社用のカバンを置き、ドアを閉める。やっと家に帰ってきた安堵感が身体を包む。そして少しずつ、「会社の自分」から「本当の自分」へと戻っていく感覚がある。肩の力が抜け、表情が和らぐ。息遣いが変わる。
多くの人がこの二重生活に慣れてしまっている。朝、「会社モード」のスイッチを入れ、夜にそれを切る。時にはそのスイッチの切り替えが難しくなる日もある。会議で発した言葉、同僚に見せた表情、上司に約束した「チャレンジ」の数々が、家に持ち帰った荷物のように心に残る。
私はこの役割を演じることに長けている。「前向きに取り組みます」「新しい挑戦を歓迎します」「結果にコミットします」—これらの言葉は、まるで外国語を話すように自然に口から出てくる。そしてある意味では、それは本当に外国語なのだ。組織という国の公用語を、私は流暢に操る。
しかしある日、鏡を見ていて気づいた。「会社の自分」の表情が、いつの間にか「本当の自分」の顔にも忍び寄っていることに。眉間のシワ、目の下の疲れ、口角の下がり方—それらは境界線の崩壊を示す小さなサインだった。
「これは持続可能なのだろうか?」という問いが心に浮かぶ。二つの人格を維持することのエネルギーコスト。毎日演じることの疲労感。そして何より、「本当の自分」が少しずつ痩せ細っていくような感覚。
同僚の多くは、この分裂を問題だと思っていないようだ。むしろそれを当然のことと受け入れている。「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と区分けすることで、彼らは自分を守っているのかもしれない。しかし私の中では、その境界線がだんだん曖昧になってきている。
穏やかに生きたい。自分のペースで仕事をしたい。持続可能な方法で価値を提供したい。これらの願いは、果たして現代の企業文化と相容れるものなのだろうか?それとも、二つの顔を持ち続けることこそが、生き抜くための唯一の戦略なのだろうか?
時に、勇気を出して本音を漏らしてみることがある。「もう少しペースを落としませんか?」「この締め切りは現実的でしょうか?」「持続可能な方法を考えてみては?」と。そんな時、返ってくる反応は様々だ。理解を示す人、困惑する人、そして時に、「やる気がないのか?」という暗黙の非難。
この非難が最も痛いのは、それが外からだけでなく、自分の内側からも聞こえてくることだ。「自分はただ楽をしたいだけなのではないか?」「みんなは頑張っているのに、なぜ自分だけ特別扱いを?」「これでは出世できないぞ」という内なる批判者の声。
しかし、よく考えてみれば分かる。「チャレンジし続けること」が全ての人にとって幸せの形とは限らない。日々の小さな満足、着実な前進、持続可能な貢献—これらもまた、価値ある生き方なのではないだろうか。
問題は、この「穏やかさ」という選択肢が、現代の企業文化ではほとんど見えないところに追いやられていることだ。それは弱さの印、野心の欠如、甘えとして片付けられてしまう。
だからこそ、多くの人が「会社の自分」と「本当の自分」を分け、日々その間を行き来する。そして私もまた、その二重生活の達人になりつつある。演じながら、静かに抵抗する方法を模索している。
「このままでいいのだろうか」
幹部会を終え、誰もいなくなった会議室で、ふとその問いが頭をよぎる。私は周囲が認める「頑張る人」として、この地位まで駆け上がってきた。夜も眠れないプロジェクト、休日を犠牲にした資料、誰よりも早く出社し遅く帰る日々—これらの「チャレンジ」の積み重ねが、今の私を作った。
だからこそ、「もう少し穏やかに」という内なる声に従うことが、これほど難しいのだ。
先日、若手社員が「もう少しペースを落としたい」と相談に来た時、彼らにはアドバイスができた。「無理せず、長く続けられる方法を見つけることも大切だよ」と。しかし自分自身には、その言葉を適用できない。彼らにはまだ、同期との飲み会で愚痴をこぼす自由がある。私にはもうない。
「今さら弱音を吐けない」という思いは、単なるプライドの問題ではない。私の中で「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が曖昧になりすぎているのだ。もし「頑張る自分」が崩れたら、残るのは何だろう?その恐怖が、変化への一歩を阻む。
例えば、部下には「家族の時間を大切に」と帰らせておきながら、自分は深夜まで残業する矛盾。あるいは、「ワークライフバランス」を会社の価値観として掲げながら、自分はその恩恵を受けられない皮肉。これらを指摘する人は周りにいない。いや、もはや自分自身の中にすらいないのかもしれない。
最も怖いのは、「頑張る」という価値観が崩れたとき、私の存在意義そのものが揺らぐのではないかという不安だ。私は何者なのか?「チャレンジし続ける人」という仮面を外したとき、その下には何があるのだろう?
若い頃の私は、上司のことを「あの人は仕事しか知らないんだ」と陰で笑っていた。そして今、鏡に映るのは、かつて笑っていたその姿に近づきつつある自分。皮肉なことに、私はかつての自分が軽蔑していた人間になりつつある。
先日、久しぶりに大学時代の友人と会った。企業とは無縁の世界で生きる彼は、私の話を聞いてこう言った。「君、本当にそれで幸せなの?」シンプルな問いに、即答できなかった自分がいた。
ただ、この孤独には特権も伴う。変化を起こせる立場にいるという特権。もし私が「穏やかに生きる勇気」を示せたなら、それは組織全体に波及するかもしれない。しかし、そのファーストペンギンになる勇気が持てるだろうか?
長年「頑張り続けること」で自分の価値を証明してきた人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことの矛盾と恐怖。それは単に仕事のペースを変えるという以上の、アイデンティティの再構築を意味する。「頑張らない自分」にも価値があると信じられるだろうか?
そして何より、周囲の期待という見えない重し。「あの人がそう言うなら」と私の言葉に重みを置く部下たち。「彼女の実績を見れば」と私の判断を信頼する経営陣。彼らの期待を裏切る恐怖。
この孤独な葛藤を誰かと共有したいと思いながらも、「弱さ」を見せられる相手がいない。それが、上に行けば行くほど増していく孤独の本質なのかもしれない。
だからこそ、この静かな抵抗は、より多くの覚悟と内なる対話を必要とする。表向きは「チャレンジ」のリーダーであり続けながら、少しずつ「穏やかさ」の価値を組織に浸透させていく。それが今の私にできる唯一の道なのかもしれない。
「小さな抵抗」という言葉自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
抵抗するには、別の可能性を想像できることが前提だ。しかし私の中では、「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が長年の間に消えてしまった。もはや「頑張らない選択肢」を思い描くことすらできない。
先日、あるセミナーで講師が「自分を大切にする時間を作りましょう」と言った。周りの参加者が頷く中、私は困惑していた。「自分を大切にする」とは具体的にどういう行動なのだろう。想像すらできない。
「19時に帰ります」
同僚がグループチャットにそう書き込んだとき、私は複雑な感情に襲われた。一方では「彼は勇気があるな」と思いながら、他方では「私が同じことをしたら」という想像ができなかった。それは単に評価を気にしているからではない。「頑張らない自分」が存在し得ないという、もっと深い恐怖だ。
一度だけ試してみたことがある。締切の迫ったプロジェクトで、「このスケジュールは現実的ではない」と言ってみた。言葉にした瞬間、激しい不安に襲われた。案の定、「なんとかする方法があるはず」と一蹴された。
しかし最も辛かったのは、その後だ。家に帰っても、「もっと工夫できたのでは」「能力不足を言い訳にしたのでは」という自責の念が襲ってきた。「抵抗」した結果、むしろ気持ちは重くなり、翌日からは倍の時間を費やして挽回しようとした。
結局、「小さな抵抗」の試みは、より大きな自己搾取につながっただけだった。
友人が育児との両立のために時短勤務を選んだとき、心から彼女を応援した。「素晴らしい選択だね」と言いながら、内心では「自分には絶対にできない」と思っていた。なぜなら、仕事のペースを落とした自分を、私自身が許せないからだ。
「頑張らない」という選択ができたとしても、それを自分で肯定できない。そして肯定できないなら、結局は罪悪感に苛まれ、より深く自分を追い込むことになる。これが私の中の悪循環だ。
先日、久しぶりに体調を崩して一日休んだ。熱も高く、客観的に見れば当然の休養だった。それでも一日中、メールをチェックし、できる範囲の仕事をベッドの上で続けていた。「休んでいる」という事実が、耐えられなかったのだ。
最も皮肉なのは、「穏やかさ」を選ぶべきだと頭では理解していることだ。長時間労働の弊害も、バーンアウトのリスクも、すべて知識としては持っている。セミナーでも読んだ本でも、「持続可能な働き方」の重要性が説かれている。
しかし知識と感情は別物だ。「頑張ること=自分の価値」という等式が感情レベルで刻み込まれている限り、どんなに合理的な判断も、内側から崩れていく。
「小さな抵抗」どころか、「抵抗しない自分」を責める悪循環。それが私の現実だ。
誰かに相談できればいいのかもしれない。しかし、立場上、弱音を吐ける相手はいない。部下に「実は私、もう限界なんだ」とは言えない。上司や同僚にも、弱さを見せることはタブーだと感じている。
結局、仕事だけが残る。仕事は少なくとも、明確な評価基準がある。締切を守り、数字を達成し、プロジェクトを完遂する。それが自分の存在価値を証明する唯一の方法だと思い込んでいる。
時々、この生き方に疑問を感じる瞬間がある。深夜のオフィスで、ふと窓の外を見たとき。家族の写真を見たとき。体調を崩したとき。しかしそれらの瞬間は、すぐに「もっと頑張らなければ」という思考によって打ち消される。
「小さな抵抗」ができる人がいることは知っている。羨ましいとすら思う。しかし私にとっては、まず「抵抗したい」と思える自分を取り戻すことが、最初の、そして最も難しい一歩なのかもしれない。
もし本当の意味での「小さな抵抗」があるとすれば、それは外側に向けたものではなく、内側の声に対するものだろう。「もっと頑張れ」と絶えず命じる内なる批評家との対話。それこそが、私にとっての本当の闘いなのかもしれない。
深夜、日付が変わった時刻。また日記を開いている。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いを何度書いただろう。答えのない独り言のように、同じ言葉が繰り返される。「自分のペースで生きたい」という願いと、「これではいけない」という認識。そしてその直後に必ず続く自己否定。
「甘えているだけじゃないか」
「これが自分の選んだ道だ」
「他の人はもっと頑張っている」
日記は、本来なら自分自身との対話の場であるはずだ。しかし私の日記は、まるで二人の異なる人格が争うような場になっている。一方は「穏やかに生きたい」と願う声、もう一方は「それは逃げだ」と叱責する声。
そして結局は、後者が勝つ。翌朝、また同じルーティンが始まる。
「内なる声を取り戻す」—美しい言葉だ。自己啓発本や記事でよく目にする。しかし実際には、どうすれば良いのだろう。「本当の自分」とは誰なのか。「穏やかに生きたい」と思う自分が本物で、「もっと頑張れ」と言う自分が偽物なのだろうか。あるいはその逆か。もはやその区別さえつかない。
かつては趣味もあった。しかし今は、仕事と睡眠以外の時間がどこかに消えてしまった。趣味に使う時間があるとすれば、それは「もっと仕事をするべきだ」という罪悪感と常に隣り合わせだ。そして不思議なことに、休日に時間が空いたとき、かえって落ち着かなくなる。何か「成し遂げるべきこと」がないと、居場所がないような感覚。
会社の同僚が育児休暇から復帰したとき、彼女は「価値観が変わった」と言っていた。「仕事も大切だけど、他にも大切なものがあると気づいた」と。その言葉に深く頷きながらも、内心では「そんな選択肢、自分には許されない」と思っていた。
子どもがいない私には、その「言い訳」が使えない。健康上の問題もない。家族の介護も今はない。「頑張らない理由」が見当たらないのだ。そして何より、「頑張らない自分」を自分自身が許せない。
ある夜、珍しく定時で帰宅し、手持ち無沙汰になった。いつもなら持ち帰った仕事をするか、疲れて眠るかのどちらかだ。この「余白」の時間に何をすれば良いのかわからず、ソファに座ったまま30分ほど呆然としていた。「自由時間」の使い方さえ忘れてしまったことに、愕然とする。
余裕があるはずの時間に感じる、この奇妙な不安感。それは「ゆっくりできない病」とでも呼ぶべきものかもしれない。休むことに慣れていないせいか、あるいは休んでいる間も「何か生産的なことをすべきだ」という声が頭から離れないせいか。結局、半分無意識に仕事のメールをチェックし始めている自分に気づく。
「自分のペースを守る」という言葉は、単に仕事を減らすということではないのだろう。それは「自分自身との関係を取り戻す」という、もっと本質的なことなのかもしれない。
しかしそれには、大きな恐れが立ちはだかる。
「頑張る自分」が自分自身のアイデンティティと化した今、それを手放すことは、自分自身を手放すことのように感じられる。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして仮に存在したとして、その自分には価値があるのだろうか。周囲はその自分を認めてくれるのだろうか。
さらに恐ろしいのは、「穏やかに生きたい」という願望自体が、単なる逃避ではないかという疑念だ。本当に理想を追求しているのか、それとも単に難しいことから逃げようとしているだけなのか。その区別がつかない。
この葛藤を誰かと分かち合いたいと思うこともある。しかし、誰に話せばいいのだろう。部下に弱音を吐けば信頼を失うだろう。同僚には競争相手と見られている部分もある。上司には評価に関わる。配偶者にさえ、「仕事のストレス」としか言えないことがある。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いに対する答えは、まだ見つからない。ただ、問い続けること自体に、かすかな希望を感じている。この問いが心の中で生き続けている限り、何かが変わる可能性もある。それが「内なる声を取り戻す」最初の、そして最も困難な一歩なのかもしれない。
あなたがこの文章を読んでいるということは、どこかで同じ問いを抱えているということかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。
「このままでいいのだろうか」
「なぜこのペースを変えられないのだろう」
私は時々考える。他の人々も同じ葛藤を抱えているのだろうか。それとも、私だけがこんなにも矛盾を抱えているのだろうか。会議室で周りを見回すと、皆がこの「頑張り文化」に適応しているように見える。彼らは本当に適応しているのか、それとも私と同じく苦しみながら演じているだけなのか。
確かなことは分からない。
時に、若手社員が率直に「このペースはきついです」と言うのを耳にする。彼らはまだ、そう言える立場にある。同期同士で飲みながら愚痴をこぼせる自由がある。妙な話だが、それが羨ましい。立場が上がるほど、弱音を吐ける相手は減っていく。そして、弱音を吐けなくなるほど、内側の葛藤は深まる。
先日、チーム会議で無理なスケジュールについて議論になった。部下の一人が思い切って「このスケジュールでは品質に影響します」と発言した。その瞬間、一部の目に安堵の色が浮かんだような気がした。しかし他の人たちは、「何とかやりましょう」「チャレンジですね」と従来の反応を示した。
本当のところ、どれが本音なのだろう。皆がこのペースを望んでいるのか、それとも皆が恐れているだけなのか。あるいは、恐れてもいないのか。もしかしたら私だけが、これほど深く悩んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。この悪循環から抜け出す方法はあるのだろうか。「頑張る」ことでしか自分の価値を証明できなくなってしまった私たちは、どうすれば「穏やかに生きる」ことを取り戻せるのだろう。
時々、社内の様子を観察していると、不思議な矛盾に気づく。表向きは「働き方改革」や「健康経営」を掲げながら、実際は以前と変わらないか、むしろ厳しさを増しているペース。「ウェルビーイング」を経営方針に据えながら、実際には「数字」と「成果」しか評価されない現実。この矛盾に気づいているのは私だけなのだろうか。
社内の若手たちの間で「持続可能な働き方」について話し合う動きがあるという噂を聞いた。彼らは「効率化」や「生産性」という言葉ではなく、もっと率直に「疲れないため」「長く続けるため」という言葉で議論しているらしい。
その噂を聞いて、複雑な感情が湧いた。一方では希望を感じる。他方では、自分たちの世代が解決できなかった問題を彼らに押し付けているような罪悪感。そして何より、彼らの率直さへの羨望。いつから私たちは、素直な言葉を失ってしまったのだろう。
私たちは本当に変われるのだろうか。「頑張る」ことが自分の存在証明になってしまった人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことなどできるのだろうか。それは単なる仕事のペースの問題ではなく、アイデンティティそのものの問題だ。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして周囲は、その自分を受け入れてくれるのだろうか。
「穏やかに生きる」ということが、なぜこれほど難しいのだろう。それは単なる「怠けたい」という願望ではなく、もっと本質的な、「人間らしく生きたい」という願いのはずだ。それなのに、なぜこれほどまでに罪悪感を伴うのか。
この文化の中で、私たちは皆、声なき声で同じことを言っているのかもしれない。あるいは、私だけがこんな矛盾を抱えているのかもしれない。確かなことは分からない。
もしあなたも同じ問いを抱えているなら、少なくともその点では、私たちは孤独ではないということになる。見えない糸でつながった仲間がいるということに、かすかな慰めを見出せるかもしれない。あるいは、それすら幻想かもしれないが。
どうしてる?
日産とホンダの対等合併交渉は、最終的に決裂し、現在では提携関係に留まっています。
日産の譲歩とされていた点としては、以下のようなものが挙げられます。
当初、日産はホンダを傘下に収めることを目指していましたが、ホンダの意向を尊重し、対等合併という形での統合を提案しました。
ADバンは、日産のライトバンであり、ビジネスユースに特化した車種です。この車種の生産終了を受け入れることで、ホンダの意向に沿った車種整理を行う姿勢を示しました。
決裂の原因としては、以下のような点が考えられます。
日産とホンダは、それぞれ独自の企業文化を持っており、統合後の経営方針や意思決定プロセスにおいて意見の衝突があった可能性があります。
両社とも、独自の技術力に自信を持っており、主導権争いがあったと考えられます。
両社は、それぞれ異なる経営戦略を持っており、統合後の事業展開について意見が一致しなかった可能性があります。
BCくんの文章からは、高学歴者や特定の職務に就く人々に対する苛立ちや不満が強く感じられます。この感情は理解できますが、それが物事の本質的な理解を妨げる「思考の歪み」につながっている可能性があります。いくつかの点について考えてみましょう。
「セブンイレブンの高学歴の社長が失敗した」という具体例を挙げていますが、これは一例に過ぎず、それだけで「高学歴者は傲慢で失敗する」という結論を導くのは早計です。個々の成功や失敗は、その人物の学歴以上に、時代背景、経営方針、チームの状況など複合的な要因に影響されます。
2. 「双方向性」を主張しながら、相手を一方的に断罪している矛盾
あなたは「双方向のコミュニケーション」の重要性を述べていますが、高学歴者や中高一貫校出身者を「話を聞けない」「傲慢」と一方的に決めつけています。これでは、相手の背景や意図を理解しようとする双方向性が欠けているように見えます。自分が批判している行為を無意識に再現していないか振り返ることが大切です。
「学歴が高い人ほど傲慢」「話を聞けない」という見方が強調されていますが、これは自分自身の学歴や職務経験へのコンプレックスを相対化しようとする心理の表れかもしれません。批判のエネルギーを、自己の成長や新たな視点の学びに転換することで、より前向きな思考が生まれるはずです。
4. 解決策に目を向ける
問題点を挙げるだけではなく、「ではどうすれば、より良い組織や社会になるのか」という視点が重要です。たとえば、「各方面から意見を吸い上げる」という提案は素晴らしいですが、それをどう実現するかを建設的に議論することが求められます。
BCくんが持つ「次の人や一緒に仕事をする人のことを考えて仕事をするべきだ」という考え方は非常に大切です。ただし、その理念を広めるためには、感情的な批判ではなく、冷静かつ公平な視点での議論が必要です。自分が否定する相手と同じ行動や思考をしていないか見つめ直し、少しずつでよいので、自分の経験や考えを他者に伝えながら共感を広げる道を探してみてください。それが、BCくん自身が考える「本当に優秀な人」の第一歩にもつながるでしょう。
https://foobar138428.hatenablog.com/entry/2024/12/22/162351
さすがに700万は行くぞ
みんな戸建て買ってるが?というか戸建てのレベルにもよるが?
NTTの給与って管理職になるまで我慢でそれ以降は「高給まったり」なのは知ってるのでは?
そんなやつおらんやろ
そんやつおらんやろwwwww
正規ルートなら完全シークレットで調査が入ってハラスメントが事実なら幹部レベルでも一発アウト処分なんだが?
というか企画部長が個人業績を妬むってどういうこと?部下の個人業績なんてあればあるだけ自分の評価になるんだから歓迎するでしょ
これはマジ
社員なら誰でも社員名簿見れるんだから人事担当である必要は無いぞ
しょーもない論文だけ量産して大学教授に天下りするのが研究所の仕事だぞ
IOWNって社員ですら何か分かって無いんだが何のことを言ってる?APNのこと?
IOWNは詐欺っていうか、ただのビジョンドリブンの経営方針っていうだけだよね
ムーンショットとか流行ったころに前の社長が言い出したよくわからない概念がIOWNで
全ての研究を否定も肯定もしないから毒にも薬にもならない、それがIOWN
最近では仕事をほぼ放棄して最低評価だけで会社に籍を置いたまま
副業で個人事業主だとかスタートアップだとかに参加して1人ダブルインカムを実現しつつ