はてなキーワード: 再現性とは
増田さんの挙げた例は、どれも「最初は傍流・異端扱い → その後に主流化」ですが、主流として受け入れられた“型”がかなり共通しています。
② 新説が「定量的な予測」や「決定的な検証(テスト)」を提示
④ その過程で「何が反証になりうるか」のルールが徐々に固まる
決め手は「天体の運動を一つの法則で統一し、予測が当たった」ことです。
ニュートン力学と万有引力は、地上の落下と天体の運動を同じ枠で扱える(統一性が強い)。
そして象徴的なのが、ニュートン理論を使ったハレー彗星の回帰予測(1758年頃)で、実際に1758年末に観測され、ニュートン理論の有力な実証例として扱われました。
ここで重要なのは「それっぽい説明」ではなく、“いつ出るか”を事前に言える(予測可能性)が強かった点です。
決め手は「熱機関の効率という工学的に検証される領域で、普遍的制約として働いた」ことです。
第二法則は19世紀中頃にクラウジウスやケルヴィンらにより整理され、代表的には「熱は自発的に冷→温へは流れない」等の形で表現されました。
これは“哲学”ではなく、蒸気機関などの熱機関の性能限界(どんな工夫をしても超えられない上限)として現場で繰り返し確認され、理論の信頼を固めました。
つまり第二法則は「実験室で一発」より、工学・化学での再現性と有用性が、主流化を支えたタイプです。
決め手は「原子が実在すると仮定すると出る定量予測が、実験で確認された」ことです。
19世紀末〜20世紀初頭まで、原子の“実在”には懐疑もありましたが、
アインシュタイン(1905)がブラウン運動を原子(分子)の運動に結びつけ、観測できる量(平均二乗変位など)に落とした。
その予測がペランらの実験で支持され、原子・分子運動論が受け入れられる大きな契機になった、という整理が教科・解説論文で繰り返し語られています。
ここは反証主義っぽく言うと、「観測できる指標への翻訳(操作化)」が勝因です。
決め手は「メカニズム不在の弱点が、海底観測データで埋まり、“決定的テスト”が登場した」ことです。
ウェゲナーの大陸移動説は「大陸の形が合う」「化石・地質が対応する」などの状況証拠はあった一方、動く仕組み(メカニズム)が弱く、北米などで強い反発がありました。
1950〜60年代に海底探査が進み、海嶺で新しい地殻が生まれ広がるという「海洋底拡大」的な絵が出てきた。
さらに1963年前後、海嶺の両側に地磁気の“縞模様(磁気異常の対称パターン)”が出るはずだ、という形で「科学的テスト」が明確になり、これがプレートテクトニクス確立の重要な一歩として整理されています。
このケースは、まさに「傍流が主流へ」の典型で、“良い話”が勝ったのではなく、“測れる予測”が揃ってひっくり返った例です。
決め手は「微生物の存在→感染→予防・治療の成功」までが連結して再現されたことです。
パスツールやリスター、コッホらの仕事が「病原体が病気を引き起こす」という枠組みの確立と受容に大きく貢献した、と整理されています。
具体的には、パスツールの実験が“自然発生”を否定し微生物の役割を示す方向で影響し、
コッホは炭疽菌などで「特定の病気に特定の病原体」という因果を実験で強く示しました(コッホの業績・方法論として説明されます)。
ここは理論の受容が、手洗い・消毒・衛生・ワクチン等の実務成果に直結し、主流化が加速したタイプです。
増田さんの列挙は「傍流が主流になった」という点では正しいですが、より重要なのは、
という点です。
私がMMTに対して言っている「反証主義の土俵に乗れ」という要求は、まさにこの主流化パターン(=科学史の勝ち方)を踏まえたものになっています。
それでも主流派が“反証主義的に強い”と言われるのは、上で見たように
主流派がやってきたのは「理論の核を固定し、反証条件を明確化し、方法論を更新し続けて生存してきた」という歴史です。
だからMMTが“学界で対抗可能な理論”として評価されたいなら、同じ土俵で
が必要です
「主流派経済学が反証主義的に“証明”されてきたか?」は、厳密には 証明(数学みたいに真を確定)ではなく、より現実に近い形でいうと
以下、主流派がどう“反証に耐える形”に進化してきたかを、代表例で整理します。
サミュエルソンは、理論を“操作可能(operational)な命題”=観測・検証できる形に落とすことを強調した流れの中心人物として語られます。
フリードマンは、(前提のリアリズムよりも)予測力を評価軸に置く「実証可能な含意で勝負する」方法論を強く打ち出しました。
ここがまず“反証主義っぽい”土台です(ただし、後述の通り経済学は補助仮説が多く、純粋なポパー型の運用は難しい)。
1950〜60年代に「失業率を下げるとインフレが上がる」ような安定関係が“政策メニュー”として扱われましたが、のちに
長期ではトレードオフが成り立たない(自然失業率/NAIRU)方向へ
という更新が起きます。フリードマンの1968年講演が、期待を組み込む方向に大きな影響を与えた、という整理は一次資料・研究史で確認できます。
また1970年代の経験が、この見方を後押しした、という研究史的整理もあります。
要するにここは、「古い単純形が反証(説明不能)に晒され、修正された」例です。
ルーカス批判は、「過去の経験則(縮約形)をそのまま政策評価に使うのは危ない。政策が変われば人々の意思決定(期待)が変わり、推計式のパラメータが不変でなくなる」という主張です。
この主張自体も、のちに実証的に検討(テスト)される対象になっています。
この流れが、マクロを「ミクロ基礎(最適化・期待)」を持つ構造モデルへ寄せる大きな動機になりました。
DSGEは強い仮定が批判され続けていますが、「政策変更の効果を、前提・メカニズムを開示した上で評価する枠組み」として中銀・研究で中心的に使われてきた、という位置づけは一次資料でも見られます。
同時に、危機後の批判や改良も含めて「適用可能性・限界」を体系的に検討する研究も積み上がっています。
ここでの“反証主義”は、「このモデルが真」ではなく、競合モデルと比べて予測・政策評価・整合性がどれだけ良いかで生き残る、という競争です。
これはまさに、「この推定は因果だ」という主張が、設計の穴を突かれて反証される/改善される、という反証主義の制度運用です。
ので、単発で「はい反証、理論死亡」とはならず、部分修正・モデル更新になりやすい。
それでも主流派が“反証主義的に強い”と言われるのは、上で見たように
主流派がやってきたのは「理論の核を固定し、反証条件を明確化し、方法論を更新し続けて生存してきた」という歴史です。
だからMMTが“学界で対抗可能な理論”として評価されたいなら、同じ土俵で
が必要です
ほんとは開発サイクルにおいてテストもかなり重要なんだけど、テストしかできない人に回ってくるのは実装がめんどくさいだけの「UIを規定の順番でクリックしたり入力したりして正常系と異常系を確認する作業」なので技術職ではなく単純作業者
(最近はブラウザ操作の自動化もできるけど、まだまだ自動化が難しくて人手に頼ってる領域はいっぱいある)
・発生経路からソースコードの関連個所を読んで発生原因を推測する
・推測から追加試験やログなどを入れて原因を完全に特定する(場合によってはそれを実施するために関連する人との交渉も)
2020年代に入り、特にコロナ禍を経てからのポップスのコード進行や楽曲構造の複雑化には、目を見張るものがあります。
コロナ禍で物理的なセッションが制限されたことで、アーティストが一人でPCに向き合い、情報量の限界に挑むような楽曲制作に没頭した影響は非常に大きいと感じます。
なぜこれほどまでに複雑化したのか、いくつかの視点で整理してみます。
かつての作曲は楽器を持って「手」の癖でコードを探していましたが、現在のDAW(音楽制作ソフト)上では、ピアノロールという画面を見ながらパズルを組み立てるように音を配置します。
非直感的な音の配置: 楽器が弾けなくても、画面上で半音ずらしたり、テンションノートを積み上げたりすることが容易になりました。
有名な複雑な進行(例:丸サ進行やIV-V-iii-viなど)をテンプレート化し、そこからさらに「裏コード」や「分数コード」をパッチワークのように繋ぎ合わせる手法が一般的になりました。
コロナ禍でリスナーの音楽視聴スタイルが「じっくり聴く」から「SNS(TikTok等)で秒単位で消費する」へと加速しました。
わずか2〜3分の曲の中に、転調、拍子変更、激しいコードチェンジを詰め込むことで、脳に強烈なフックを残そうとする「ハイパーポップ」や「ボカロ文化」の影響がメインストリームに逆輸入されました。
ライブでの再現性を無視できる環境だったからこそ、人間が弾くには難解すぎるジャジーで複雑なボイシングが多用されるようになりました。
特にJ-POPにおいては、Official髭男dismやKing Gnu、Vaundyといった、ブラックミュージックの素養を持ちつつDTMを駆使するアーティストが覇権を握った時期とも重なっています。
切なさを強調する和声が好まれ、さらにそこにブルーノートやテンションが加わることで、かつての「J-POP=王道3コード」という図式は完全に過去のものになりました。
アーティストが「内省」と「実験」に費やした時間 コロナ禍で外の世界との繋がりが断たれた結果、多くのクリエイターの関心は「自分にしか作れない、極限まで磨き上げた緻密な世界観」に向かいました。それが結果として、1曲あたりのコードの数や、予測不能な転調の多さとして表れているのは、音楽史的に見ても非常に興味深い現象です。
オレオレFCが13日、北海道旭川市での春季キャンプをスタートさせた。加藤宗平監督体制では2度目となるキャンプ。この日は午後の約2時間のみで、軽めのメニューでトレーニングを積んだ。
指揮官はこのキャンプの狙いを「フィジカルは勿論、メンタリティを強くしたい」と説明。春季キャンプ中の練習試合では4-2-3-1の布陣を基本としながらも「3-3-3-1だったり、3-4-2-1、4-3-3...色々な可能性があるチームなので、キャンプだけでなく、開幕までに連携、再現性、関係性を深めていく」との考えを明かした。
また「ベテランも若手もみんな平等ですから」と経験や実績関係なく、フラットな競争を強調。2月11日が開幕となるJリーグの特別大会「百年構想リーグ」の開幕・鹿島戦(メルカリ)に向け、横一線からのサバイバルを宣言した。
「非専門領域への口出しはするな」としたり顔で言い放つ権威主義のバカどもを見るたびに思うのは、こいつらは知の分業を理解しているのではなく、単に思考停止の自己放尿を制度化したいだけだということだ。
専門性とは、ある領域での履歴が蓄積されているという事実を指すのであって、発言権の独占免許ではない。
にもかかわらず連中は、専門というラベルを盾に、問いそのものを封殺し、議論の入口を検問所に変える。
しかも笑えるのは、その序列が現実の成果や予測精度ではなく、所属、肩書、年功といった非認知的ノイズで決まっている点だ。これを知の秩序と呼ぶのは、せいぜい自己放尿の儀式でしかない。
冷徹に言えば、非専門家の介入を一律に排除する態度は、モデル不確実性への無理解の表明だ。
複雑系では境界条件の設定が結論を支配する。境界条件を疑う視点は、しばしば内部者より外部者の方が持ちやすい。
にもかかわらず、権威主義者は「専門外」を呪文のように唱えて、前提の脆さを隠蔽する。
これは安全ではない。過去の失敗の多くは、専門家集団の閉域で同型の誤りが増幅された結果だ。
外部からの粗い質問は、精密さを損なうどころか、しばしば致命的な仮定を露出させる。
だが連中にとってそれは不都合だ。自分たちの地位が、問いに耐える強度ではなく、問われないことによって保たれているからだ。
連中の論法は単純だ。「君は資格がない」「訓練を受けていない」「空気を読め」。
要するに、理解可能性ではなく服従を要求している。これは科学でも学問でもない。官僚制の言語だ。
反証可能性を欠いた主張は信仰であり、信仰に異論を挟む者を排除する行為は宗教裁判の自己放尿に等しい。
自称合理主義者が、最も非合理な振る舞いをする瞬間である。さらに滑稽なのは、連中が専門の境界を都合よく伸縮させることだ。
自分に有利なときは越境を称揚し、不利になると門を閉じる。その姿は、知の厳格さではなく、既得権益の自己放尿にしか見えない。自分の縄張りにマーキングして安心しているだけだ。
もちろん、素人の雑音が有害になる場面はある。だがそれは原理の問題ではなく、手続きの問題だ。
要求すべきは沈黙ではなく、主張の形式だ。仮定を明示せよ、データを出せ、再現性を示せ、予測で勝て。これだけで足りる。
専門か否かは、検証の前では無意味だ。にもかかわらず、権威主義のバカどもは形式ではなく身分で線を引く。議論を拒否する最短距離がそれだからだ。だが拒否は勝利ではない。自己放尿だ。
非専門領域への口出しを禁じる者は、実は自分の専門性に自信がない。問いに耐えられないから、問いを禁じる。
知は開かれているときに強く、閉じたときに腐る。外部の視線を恐れ、肩書の陰に隠れ、序列で殴る態度は、知的厳密さの対極にある。
冷徹に評価すれば、それは専門家ではなく、専門という言葉を使った管理職だ。連中が守っているのは真理ではない。自分の椅子であり、その下でのぬくもりだ。
上述のように彼女いない歴=年齢の男性の婚活の第一歩は、まずは女性からの内定を1つ取れるレベルにまで自分を磨くことです。そしてその方法は再現性があるので、noteなり婚活コンサルなりからアドバイスを貰って早めにクリアしてしまうのが得策です。
もちろん初期の段階ではこの内定をくれる女性が自分の結婚したい女性ではないという問題が発生します。しかしまずは誰か一人でも自分と交際したい、結婚したいという異性がいるのと、誰からの相手をされないのでは天と地ほどの違いがあります。
@hikarin22
·
step1.女性と交際できる(ただし結婚したい女性ではない)
の2stepを踏むのが大切です。多くの男性はstep2から取り組もうとして失敗します。stepごとに足りないものが違うので、まずはstep1に注力してください。
2025年12月31日をもって新卒から18年勤めた会社を退職して無職となります。
18年間一度も仕事を楽しいと思ったことがなかったので本当に嬉しいです。
今後は家庭菜園をやりたいので庭付きの戸建てを建てるのか買うのか検討しています。
いい場所あったら教えてください。
独身のおっさんが金持ってても仕方ないだろと言われるかもしれませんが、金持ってない独身おっさんは悲惨すぎるので金があるだけマシかと思います。
親は世間体を気にするので無職になることを反対しましたが流石に自分の意思を押し切りました。
人生残り40年余り、ちょうど折り返し地点で人生の新たなスタートです。
サウナの「整い」がよく分からないという人はかなり多いと思う。
サウナが流行っているのは知っているし一度は試した。でも「ただ暑いだけだった」「水風呂が苦手」「整うという言葉が大げさに聞こえる」という声をよく聞く。
その感覚は多分あっていると思う。ネットに落ちているサウナの整い方は実は間違っているし、サウナの魅力を汗、デトックス、老廃物、みたいな言葉でごまかしたくない。
今日伝えたいのは、もっと実用的に「整いとは何なのか?」を言語化して、再現性を上げるための条件を教えることだ。
整いを幸福や悟りとか人生の正解のように扱うからサウナーは気持ち悪いのだ。整いはもっとシンプルな身体現象に近いはずだ。自分が感じる中で「整い」に一番近い表現を選ぶなら「気持ちのいいめまい」だ。
身体が軽くなって視界が少し広がり、頭の中が静かになって、「もう十分」と身体の方が勝手に言い出す感じ。
...というのは嘘だ。普通にただの気持ちいいめまいだ。体は軽くならないし、頭の中も静かにならない。体は勝手にもう十分とも言わない。
風呂上がりにめまいを起こしている、と思ってもらえばそれがかなり近い。めまいを起こしている時は頭の中は静かかもしれないが。
サウナの整いとは、根性や高潔な精神で起こすものではない。条件を正しく揃えれば発生確率がグッと上がる。
逆に言えば、よくある「サウナ10分→水風呂2分→外気浴10分」をそのままなぞっても、何も起きずに消耗する日は普通にある。本当によくある。
そこで「自分にサウナは向いてない」と決めつける前に条件を見直した方がいい。サウナに大事なのは、その日の自分と環境の対話だ。
最初はサウナの良さが分からなかった。昔から風呂が大好きでスーパー銭湯にはよく通っていたのに、サウナだけはマジで意味不明だった。暑い部屋で我慢する意味がわからないし、汗をかいてスッキリと言われてもピンとこない。
水風呂に入るなんてアホの極みだし、おじさんのよくわからん趣味くらいに思っていた。風呂でダラダラ喋ることこそが至高だと思っていた。
ところが、ある日たまたま外気浴で「これか」と感じる瞬間が来た。改めて考えると、それまで整わなかったのは体質の問題ではなく、サウナの条件設定が雑だっただけだった。
整いのコツは三つに収束する。
1. 高温のサウナで体温を一気に上げる
つまるところ、「熱い」「冷たい」「静かに休む」をちょうど良いバランスで並べ直すだけだ。
つまり、サウナを短時間にする、水風呂をスキップするなんてことをしたら整いが発生しないことはまず覚えておいてほしい。
時間は短くても、きっちり高熱でサウナに入った方が整いに近づく。私はロウリュや熱風がある施設で、熱すぎるくらいまで体温を上げてしまうのが好きだ。皮膚が「これ、火傷では...?」と感じるほどの熱さに到達させる。
個人的なサウナ時間の目安は7分だが、時間よりも「このあと水風呂と戦えるくらい身体が熱いか」で判断した方がいい。ここが弱いと次の水風呂がただの罰ゲームになって終わる。
冷たい水風呂に耐えたのに何も起きない」と言う人はだいたいサウナ時点で熱の入れ方が足りていない。
次はみんな嫌いな水風呂だが、目的は「冷えること」ではなく、体の温度を急激に切り替えることだ。
水風呂を飛ばして外気浴に行っても整いは発生しないし、ぬるい水風呂では整いにくいということもよく覚えておいてほしい。冷たければ冷たいほど正義とまでは言わないが、少なくともぬるいと整いスイッチが入りにくい。
水風呂の目安は1分、ただし日によっては1分未満になることも多い。水風呂の時間は長く入れば良いわけではない。水風呂から出た時に体が寒いだけなら入りすぎで、頭がまだ熱いままなら冷まし方が足りない。決められた時間を守るのではなく、その時に最適なバランスを探すのがいちばん重要だ。
水風呂の入り方で私がこだわっているのが、肩までではなくアゴまで浸かることだ。
アゴまで入るとスイッチが入る。以前はおじさんが水風呂に勢いよく潜るのを見るたびに「マジでやめてほしい」と思っていたが、頭まで冷やせば一番効く理屈は理解できる。ただし、私はまだやらない。見た目がきついからやめよう、という線引きは残しておきたい。
水風呂から出た直後から立ちくらみのように頭がクラクラするなら期待していい。
そのクラクラが「気持ちいいめまい」に変わっていく。もう一度言うが、水風呂から出て寒いだけならサウナの熱が足りないか水風呂が長すぎるし、頭が熱いままなら水風呂が短い。
だからそれだけで「自分は整わない体質」と結論を出すのは早い。たいていは正しい火加減、正しい冷まし方をまだ知らないだけだ。
やっとお楽しみの外気浴だ。整いはここで初めて起きる。
サウナと水風呂は事前準備なら外気浴が回収だ。ここまでは正直辛いだけだった。全然気持ちよくない。やっと努力が報われる瞬間がくるわけだ。
でも、お待ちかねの外気浴にも注意がある。
それは、寝転がらないこと。そして、大きな椅子に深く座って背中を預けないことだ。
リクライニングが至高、という反論が来るのは理解しているし、気持ちのいい日があるのも認めよう。だけど、整いの再現性という観点では寝る姿勢は邪魔になりやすい。体への接触面積が大きすぎるからだ。
整いは「気持ちいいめまい」を持続させる現象で、寝転がると重力や体重を感じやすくなる欠点がある。整いを漏らさず味わいたいのに他の部分に意識が散りやすくなる。
私は椅子でもいいし整いスペースがあるならあぐらでもいいが、そのような姿勢を進めている。
そして、意外な決め手は首だ。
少し上を見るように、頭を少し後ろにそらすと、頭の重さがスッと垂直に首に落ちるポイントがある。重心が合うと頭の重さが消えたようになり、その状態でめまいを味わうと、整いが途切れにくい。
現代人は普段はスマホを眺めながら常に下を向きがちで、無意識に首が頭を支え続けている。そのままの姿勢だと整いの気持ちよさが首の疲れに負ける。
整いのピークは温冷の温度差だけでなく、姿勢からくる体の雑音を消すことで伸びるのだ。
もう一つ、整いは天候ガチャにも負ける。
雨で水滴が肌に当たり続ける日は集中が切れる。真冬で冷えすぎる日も難しい。日中の直射日光が刺さる日も皮膚感覚がうるさくて邪魔になる。理想は春か秋の晴れている木陰、少し風がある状態がベスト。夏の夜もいい。一見条件が整っているように見える浴室内の休憩スペースは湿度が高く、音が反響してうるさく落ち着かないことが多い。だから私は屋外派だ。
うまくいかない日があることも受け入れよう。
最後に、整いについては「三セット目が一番整う」とよく言われるが、私は一セット目が最高だと思っている。
理由はシンプルで、身体がまだ熱に慣れていないから。一回目の加熱と急冷が一番キレる。ビールと同じだ。三回目になると耐性がついて、同じ刺激でも効きが鈍る。
もちろん個人差はあるのだろうが、「三セットまで回さないと整えない」と思っている人は、一セット目の条件がすでに弱い可能性を疑った方がいい。
こうして考えると、サウナは飲酒に似ている。最初は甘いお酒しか飲めなかった人が、だんだん辛口やクセの強い香りを好むようになるのと同じで、サウナも高温のサウナ室と低温の水風呂に好みが寄っていくことが多い。最初の一口が一番美味しいのも同じだし、サウナーがやたらサウナの温度や環境にうるさいのもそのためだ。
一杯目に不味いビールを飲んでしまうと、二杯目にそれより美味いビールはもう味わえないのだ。
サウナの整いとは不思議な悟りではなく環境に依存したものだと考えると、整いの芽をいかに大きく育てやすい環境か、という条件の重要性もわかってもらえると思う。これを読んでサウナの気持ちよさを感じるきっかけを掴めたら、ぜひ次は自分にとって最善のバランスを追求してほしい。
サウナの「整い」がよく分からない、という人はかなり多いと思う。
サウナが流行っているのは知っているし、一度は試した。でも「ただ暑いだけだった」「水風呂が苦手」「整うという言葉が大げさに聞こえる」という声をよく聞く。
その感覚は、たぶんあっていると思う。ネットに落ちているサウナの整い方は実は間違っているし、サウナの魅力を汗、デトックス、老廃物、みたいな言葉でごまかしたくない。
今日伝えたいのは、もっと実用的に「整いとは何なのか?」を言語化して、再現性を上げるための条件を教えることだ。
サウナでの整いを幸福とか悟りとか、人生の正解のように扱うからサウナーは少し気持ちわる。整いはもっとシンプルな身体現象に近いはずだ。自分が感じる中で「整い」に一番近い表現を選ぶなら「気持ちのいいめまい」だ。
怖いめまいではなく、身体が軽くなって視界が少し広がり、頭の中が静かになって、「もう十分」と身体の方が勝手に言い出す感じ。
...というのは嘘だ。普通にただの気持ちいいめまいだ。体は軽くならないし、頭の中も静かにならない。体は勝手にもう十分とも言わない。
風呂上がりにめまいを起こしている、と思って貰えばそれが結構近い。めまいを起こしている時は頭の中は静かかもしれないが。
サウナの整いとは、根性や高潔な精神で起こすものではない。条件を正しく揃えれば発生確率がグッと上がる。
逆に言えば、よくある「サウナ10分→水風呂2分→外気浴10分」をそのままなぞっても、何も起きずに消耗する日は普通にある。本当によくある。
そこで「自分にサウナは向いてない」と決めつける前に条件を見直した方がいい。サウナに大事なのは、その日の自分と環境の対話だ。
最初はサウナの良さが分からなかった。昔から風呂が大好きでスーパー銭湯にはよく通っていたのに、サウナだけはマジで意味不明だった。暑い部屋で我慢する意味がわからないし、汗をかいてスッキリと言われてもピンとこない。
<br水風呂に入るなんてアホの極みだし、おじさんのよくわからん趣味くらいに思っていた。風呂でダラダラ喋ることこそが至高だと思っていた。<br/>
ところが、ある日たまたま外気浴で「これか」と感じる瞬間が来た。改めて考えると、それまで整わなかったのは体質の問題ではなく、サウナの条件設定が雑だっただけだった。
整いのコツは三つに収束する。
1. 高温のサウナで体温を一気に上げる
つまるところ、「熱い」「冷たい」「静かに休む」をちょうど良いバランスで並べ直すだけだ。
つまり、サウナを短時間にする、水風呂をスキップするなんてことをしたら整いは発生しないことをまず覚えておいてほしい。
時間は短くても、きっちり高熱でサウナに入った方が整いに近づく。私はロウリュや熱風がある施設で、熱すぎるくらいまで体温を上げてしまうのが好きだ。皮膚が「これ、火傷では...?」と感じるほどの熱さに到達させる。
個人的なサウナ時間の目安は7分だが、時間よりも「このあと水風呂と戦えるくらい身体が熱いか」で判断した方がいい。ここが弱いと次の水風呂がただの罰ゲームになって終わる。
「冷たい水風呂に耐えたのに何も起きない」と言う人はだいたいサウナ時点で熱の入れ方が足りていない。
次はみんな嫌いな水風呂だが、目的は「冷えること」ではなく、体の温度を急激に切り替えることだ。
水風呂を飛ばして外気浴に行っても整いは発生しないし、ぬるい水風呂では整いにくいということも覚えておいてほしい。冷たければ冷たいほど正義とまでは言わないが、少なくともぬるいと整いスイッチが入りにくい。
水風呂の目安は1分、ただし日によっては1分未満になることも多い。水風呂の時間は長く入れば良いわけではない。水風呂から出た時に体が寒いだけなら入りすぎで、頭がまだ熱いままなら
冷まし方が足りない。決められた時間を守るのではなく、その時に最適なバランスを探すのがいちばん重要だ。
水風呂の入り方で私がこだわっているのが、肩までではなくアゴまで浸かることだ。アゴまで入るとスイッチが入る。以前はおじさんが水風呂に勢いよく潜るのを見るたびに「マジでやめてほしい」と思っていたが、頭まで冷やせば一番効く理屈は理解できる。ただし、私はまだやらない。
見た目がきついからやめよう、という線引きは残しておきたい。
水風呂から出た直後から立ちくらみのように頭がクラクラするなら期待していい。
そのクラクラが「気持ちいいめまい」に変わっていく。もう一度言うが、水風呂から出て寒いだけならサウナの熱が足りないか水風呂が長すぎるし、頭が熱いままなら水風呂が短い。
だからそれだけで「自分は整わない体質」と結論を出すのは早い。たいていは正しい火加減、正しい冷まし方をまだ知らないだけだ。
いよいよお楽しみの外気浴だ。整いはここで起きる。
サウナと水風呂は事前準備なら外気浴が回収だ。ここまでは正直辛いだけだった。全然気持ちよくない。やっと努力が報われる瞬間がくるわけだ。
でも、お待ちかねの外気浴には注意がある。
絶対に寝転がらない。大きな椅子に深く座って背中を預けないことが大事だ。
リクライニングが至高、という反論が来るのは理解しているし、気持ちのいい日があるのも認めよう。だけど、整いの再現性という観点では寝る姿勢は邪魔になりやすい。体への接触面積が大きすぎるからだ。
整いは「気持ちいいめまい」を持続させる現象で、寝転がると重力や体重を感じやすくなる欠点がある。整いを漏らさず味わいたいのに他の部分に意識が散りやすくなる。
私は椅子でもいいし整いスペースがあるならあぐらでもいいが、そのような姿勢を進めている。
そして、意外な決め手は首だ。
少し上を見るように、頭を少し後ろにそらすと、頭の重さがスッと垂直に首に落ちるポイントがある。重心が合うと頭の重さが消えたようになり、その状態でめまいを味わうと、整いが途切れにくい。
現代人は普段はスマホを眺めながら常に下を向きがちで、無意識に首が頭を支え続けている。そのままの姿勢だと整いの気持ちよさが首の疲れに負ける。
整いのピークは温冷の温度差だけでなく、姿勢からくる体の雑音を消すことで伸びるのだ。
もう一つ、整いは天候ガチャにも負ける。
雨で水滴が肌に当たり続ける日は集中が切れる。真冬で冷えすぎる日も難しい。日中の直射日光が刺さる日も皮膚感覚がうるさくて邪魔になる。理想は春か秋の晴れている木陰、少し風がある状態がベスト。夏の夜もいい。一見条件が整っているように見える浴室内の休憩スペースは湿度が高く、音が反響してうるさく落ち着かないことが多い。だから私は屋外派だ。
うまくいかない日があることも受け入れよう。
最後に、整いについては「三セット目が一番整う」とよく言われるが、私は一回目が最高だと思っている。
理由はシンプルで、身体がまだ熱に慣れていないから。一回目の加熱と急冷が一番キレる。ビールと同じだ。三回目になると耐性がついて、同じ刺激でも効きが鈍る。
もちろん個人差はあるのだろうが、「三回目までセットを回さないと整えない」と思っている人は、一回目の条件がすでに弱い可能性を疑った方がいい。
こうして考えると、サウナは飲酒に似ている。最初は甘いお酒しか飲めなかった人が、だんだん辛口やクセの強い香りを好むようになるのと同じで、サウナも高温のサウナ室と低温の水風呂に好みが寄っていくことが多い。最初の一口が一番美味しいのも同じだし、サウナーがやたらサウナの温度や環境にうるさいのもそのためだ。
一杯目に不味いビールを飲んでしまうと、二杯目にそれより美味いビールはもう味わえないのだ。
サウナの整いとは不思議な悟りではなく環境に依存したものだと考えると、整いの芽をいかに大きく育てやすい環境か、という条件の重要性もわかってもらえると思う。これを読んでサウナの気持ちよさを感じるきっかけを掴めたら、ぜひ次は自分にとって最善のバランスを追求してほしい。
内容はタイトルの通り。
正直言って、たまたま自分に合う人にあっただけなのでN=1の体験で、再現性はないと思うが、
婚活中は増田を含め婚活関連の記事に励まされ、共感し、時には反感を覚えつつも助けられてきたので
記録として残す。
自己満足、お惚気の類かもしれないが。
自分 40代男性 会社員 身長高め 体重重め ルックスはよくない
その他にも共通点が多く、共通点が多い人を探していたわけではないが、結果的に共通点が
今回の婚活の10年ほど前に婚活をしており、その時に1人と交際。
その他にも何人かとサシ飲み経験はあり。
出会い系サイトやマッチングアプリなども長年使ってきたが、交際には至らず。
主に居住している自治体が公認しているイベントや、そのイベントで知り合った人が開く飲み会などに参加。
マッチングアプリではマッチングしない、連絡先も聞けないような相手でも、リアルのイベントでは話ができ、
連絡先も聞けるので、自分にはマッチングアプリは合っていないのだと痛感している。
8人のうち
最近婚活疲れに関する記事が出ていて、コメントをじっくり読んだりしているのだが、婚活は疲れる。
「婚活中の男女の8割以上が婚活疲れ」続ければ続けるほど蟻地獄にハマる必然とは? #エキスパートトピ(荒川和久) - エキスパート - Yahoo!ニュース
よく言われることだが、婚活イベントでマッチングしない、連絡先を教えてもらえない、LINEのメッセージを返してもらえないと
婚活は自らのスペックに対する直接的な反応が返ってくる場なので、なおさら疲れる。
自分をフッた相手も、なぜフルのか言ってくるはずはないので、自分のどこを直せば交際できたのかを考え続ける
ところで「フラれる」だと「フラ」の部分がカタカナなのはしっくりくるんだけど、「ふった」だとどの部分までカタカナにしていいのかわからなくなる。
恋愛下手、エスコート下手、気遣いもできないからなかなか交際に至らなかったんだなと思う。
婚約者も恋愛経験が少ないみたいなので合っているんだろうなと思っている。
婚活イベントやマッチングアプリではなく、平場で恋愛や結婚できる人はすごいなと思う。
自分は片思いをこじらせて好き避けしてしまい相手に嫌われるというのを複数回経験した。
平場だと、
を見極めないといけないのだが、それがうまくできない。
婚活イベントはその点、恋愛モード、結婚モードにある人ばかりなので楽ではある。
人数合わせのためにサクラを呼んだりするのはやめてくれ。
あと、勧誘や知り合いを増やしたりするために婚活イベントに参加するのもやめて。
上述のように、マッチングアプリではマッチングしないような人でも、リアルのイベントだと連絡先が聞けてデートできたりもする。
婚活イベントに参加せずマッチングアプリしかしていないような人はリアルのイベントに参加したほうがいいと思う。
婚活イベントで、女性は着席、男性は何人か単位で数十分ごとに別のテーブルに移動する形式のものがあり、
2時間ぐらい他の男性の自己紹介を聞くので仲良くなったりするのだが、男性と仲良くなるより女性に労力をかけたいと
連絡先を教えてくれない人がいる。
人それぞれ考え方はあるが、どこでどんな出会いがあるかわからないので、自分は連絡先を聞きまくってた。
結婚相談所が婚活イベントをしている場合が多く、マッチングをさせるよりは自社のサービスへの誘導がイベントを開催するモチベーションに
なっていると思うのだが、参加者をマッチングさせる気はあるのかと思うような業者がいる。
などが冒頭で説明され、その時点でやる気がなくなった。
婚約者と出会ったイベントでは、イベントの途中で女性参加者の自分に対する印象をお知らせするサービスがあり、
マッチングさせようとする工夫を感じてよかった。
女性への印象(大好き・好き・わからないの3段階)をメモするカードがあって、その下に女性から自分への印象を記入する欄があり、
業者が女性からの印象をそのカードに書いてお知らせしてくれる。
婚活に参加してきた女性が身だしなみも整えず、TPOをわきまえない格好してたら恋愛対象にもならないと思うし、
逆に考えれば男性もそう見られているということ。
奇抜な格好が好きな女性もいると思うが、万人受けした方がマッチングしやすいだろうと思っていた。
交際経験があまりない自分が言うのはどうかと思うが、恋愛と結婚は別っていうのは実感する。
婚約者が今までで一番好きな女性かといったらそうでもないが、一緒にいて心地よいと思う。
自分を好きでいてくれるからさらに好きになるっていう、好意の返報性は感じる。
交際期間はまだ短いし、婚約者も周囲もその短さのせいでこの時点での結婚に疑問を感じているのをひしひしと感じるが、
このままずっと一緒にいられる想像がつく。
テクノロジーは人を解放し、創造はより自由になり、表現は多様化する。アニメや漫画は単なる娯楽を越え、新しい思想や感情の実験場になる。少なくとも、そうした期待が確かに存在していた。では現実の二〇二五年はどうだろうか。映像技術は驚くほど進歩した。作画は滑らかになり、演出は洗練され、作品数は爆発的に増えた。だが内容に目を向けるとそこには奇妙な既視感が漂っている。異世界転生、既存ジャンルの再配置、過去作のリメイク。作品は多いが未来は見えてこない。
この乖離は偶然ではない。現代社会は「未知」を極端に恐れるようになった。情報は可視化され、価値は共有され、リスクは統計的に処理される。失敗は管理され、予測不能なものは避けられる。合理的で誠実な態度。しかし、この態度が社会全体に浸透したとき創造の前提そのものが変質する。一九九〇年代、日本のアニメは未来を過剰に夢見ていた。それは楽観的な未来ではない。むしろ不安に満ち、壊れやすく、説明不能な未来だった。だがそこには確かに「まだ名前のついていない何か」が存在していた。当時の作品群が描いていたのは、技術の進歩ではなく、世界の意味が揺らぐ感覚だった。社会がどう変わるかではなく、人間がその変化に耐えられるのかどうか。その問いは、明確な答えを拒み続けていた。
二〇二五年。技術的に見れば当時の想像をはるかに超えた地点に到達している。作画は安定し、演出は洗練され、制作本数は爆発的に増えた。だがその一方で、アニメがかつて持っていた「未来への不安」は、奇妙なほど姿を消している。現在主流となっている作品の多くは、世界を脅かさない。異世界転生にせよ、日常系にせよ、そこにあるのは居心地の良さだ。問題は発生するが、致命的にはならない。社会は変わらず、主体は守られる。視聴者は安全に没入し、安全に戻ってこられる。
これは偶然ではない。
アニメ産業は、データによって「滑らかさ」を獲得した。視聴完走率、話題性、二次創作のしやすさ、商品展開の可能性。あらゆる要素が数値化され、共有され、失敗は事前に回避される。未知は「読めないリスク」として排除される。その結果、アニメはかつてよりも誠実になった。視聴者を裏切らず、期待を外さず、理解不能な展開を避ける。だが同時に、説明できない衝動や、意味のわからない跳躍も失われていった。ロングテール型の配信環境によって、実験的な作品が存在できる余地は確かに広がった。かつてならOVAや深夜枠に追いやられていた表現が、地表に現れるようになったのも事実だ。
評価され、記憶され、語り継がれるのは、あくまで「理解可能な革新」である。過去作との比較が容易で、ジャンルとして説明でき、成功の再現性が見込めるもの。真に未知な作品は、推薦も炎上も起こさず、静かに埋もれる。ここでアニメは奇妙な逆説を抱え込む。革新的であることを称賛しながら、革新そのものを恐れる。かつてのアニメは、失敗を前提に作られていた。意味がわからなくてもいい。売れなくてもいい。視聴者が戸惑うこと自体が、作品の一部だった。九〇年代の未来像が輝いて見えるのは、完成度の高さではなく、その無防備さゆえである。
説明責任、共感可能性、誤解されない配慮。そうした善意が積み重なった結果、アニメは社会にとって安全な存在になった。その代わり、社会を揺さぶる力を失った。ここで言う「敵」とは、誰かを指す言葉ではない。情報を可視化し、価値を共有し、リスクを排除するという、正しすぎる態度そのものだ。それはアニメを守ったが、未来を描く力を削った。何が起こるかわからない未来を、それでも信じてみる行為。その想像力が、今のアニメにはほとんど残されていない。残されているのは、未来の不安を過去の世界が描いたパロディとして、提示するのみである。
「敵」とは誰か。
それは特定の職業でも、個人でもない。未知を測定可能なものに還元しようとする思考そのものだ。善意と合理性によって構築された、失敗を許さない構造。「データ社会」を称揚するそれ自体が「敵」なのである。
https://anond.hatelabo.jp/20251221114355
話題になっていた「フリマアプリの会社で働いていた」という退職エントリーを読んだ。世間では「心が洗われた」「よく言った!」などと絶賛の嵐だ。
まず最初に断っておきたい。
件の会社とは一切関係がないし、正直あの会社がどうなろうと知ったことではない。
だが、あのエントリが「美談」として消費されている現状には、実務家として看過できない猛烈な違和感がある。
おそらく、組織の利益や存続を左右する重い舵取りを任された経験がある人間ならば、あの文章を読んで抱く感想は「感動」などではないはずだ。
「ああ、ビジネスパーソンとして必要なOSが、根本からインストールされていないな」
致命的に何かが欠落している人間が、それを「正義」だと信じ込んで語っている姿に対する、埋めようのない断絶と脱力感。PLの重みを知る人間なら、誰しもがこの「やるせなさ」を感じたのではないか。
もちろん、これがバズった背景は理解できる。あれは彼への純粋な称賛というより、例の企業に対する「積年のヘイト」が噴出した結果だ。彼を「巨悪を刺した勇者」に仕立て上げれば、みんな気持ちよく会社を叩けるからだ。
だが、だとしてもだ。
彼がやったことは、冷静に見れば明白な「背信行為」であり、ビジネスパーソンとして「ありえない」振る舞いの連続だ。
それなのに、「美談」というオブラートに包まれて、組織人としての背信行為が正当化されてしまっている現状には、多くの実務家が口には出さずともモヤモヤしているはずだ。
誰も斬り込まないなら、私が沈黙している彼らの代弁者として、その「美談」の裏側を解剖しておきたい。
まず前提として、度を超えた転売行為や偽ブランド品の流通が「社会悪」であるという点については、私も彼と認識を共にしている。おそらく、批判されている経営陣とて同じだろう。誰だって犯罪や迷惑行為を放置したいわけがない。 だが、ここからが決定的に違う。「それが社会悪である」ということと、「企業としてリソースを投下して今すぐ撲滅すべき最優先課題であるか」ということは、全く別のレイヤーの話だ。
その前提のもと、増田の思考は、驚くほど「単変数」的だ。その思考の単純さが、最も端的に露呈しているのがこの一節だ。
あの当時の自分は、CS部門の現場の人間としてマスク転売に反対していました。理由は述べるまでもなく、「困っている人がいるのに転売はおかしい!」というものです。
この一文を読んだ瞬間、私は頭を抱えたくなった。 ここには「自分の主観的な感情=世界の絶対的な正義」という、極めて独善的な前提しかない。 自分が見ている景色、自分が感じている感情。それだけが唯一の判断軸であり、それ以外の視点が存在する可能性を1ミリも想像できていない。
もし私が彼の上司で、部下からこんなことを言われたら、その瞬間に絶望する自信がある。「ああ、この人をマネジメントするのは無理だ」とサジを投げるだろう。 なぜなら、彼は「対話」ができないからだ。自分の感情が「述べるまでもない正義」である以上、それに異を唱える経営判断はすべて「悪」になる。 こんなマネジメントコストの高い人材を抱え込むなんて、考えただけで胃が痛くなる。
彼が単変数の問題を声高に叫ぶ傍らで、経営陣やマネジメント層は、無数の変数が複雑に絡み合う高次の方程式を解いている。そこには「倫理」という変数以外にも、法的リスク、数千万人のユーザーの自由、監視コスト、株主への責任、従業員の給与原資、将来への投資、そして競合とのパワーバランスといった、相反する要素がひしめき合っている。 転売問題などのレピュテーションリスクについても、経営陣が気づいていないわけがない。リスクが看過できないレベルに達したその瞬間に、リソースを一気に投下すればいいと計算し、あえて今は「静観」というカードを切っているに過ぎないと私は想像する。
その舵取りへの想像力を働かせることもなく、彼は「倫理観がない」と切り捨てた。30代のいい大人が書いたとは信じがたいほど拙い文章であり、知的な怠慢だ。
そして、私が最も問題視しているのは、彼が平然とやってのけた「背信行為」の暴力性だ。
彼は退職後、組織の内情を、誰が見てもその会社だとわかる形で暴露した(わざとかどうかはわからないが、社名まで公開していた)。さらに恐ろしいのは、彼がこの行為を「正義」だと信じていそうな点だ。自分の放った言葉が、かつての同僚や株主、ステークホルダーにどのような損害を与えるかという「結果への想像力」が、彼には絶望的に欠けている。
さらに致命的なのは、その破壊的な衝動がどこから湧いてきているのかを俯瞰する「メタ認知能力」の欠如だ。
私の見立てでは、彼の動機は心理学でいう「認知的不協和の解消」に過ぎない。
構造はこうだ。
「正直、給料は軽く百万以上は下がりました」
つまり、彼はあの会社に「経歴の箔付け」をしてもらっただけでなく、自身の本来の市場価値よりも100万円以上も高い値付けで雇ってもらっていたことになる。
それこそが、彼が軽蔑する経営陣が、綺麗事だけでは済まない資本主義の荒波を冷徹に舵取りし、会社という箱を必死に守り抜いてきた結果得られた「果実」だ。
彼はその果実を長年貪り食ってきた。会社という防波堤の中で守られながら。
しかし一方で、彼は「自分は清廉潔白で、人のために尽くす善人だ」という自己認識を捨てきれない。「汚い会社で身の丈以上の利益を享受している自分」と「正義の味方である自分」。この矛盾する二つの事実は、強烈な不快感を生む。
この不協和を解消するために、彼にはどうしても「物語」が必要だったのだろう。
「自分は金のためにそこにいたのではない。極悪非道な組織に囚われていただけで、心までは売っていなかった被害者なのだ」という物語が。
会社を「絶対悪」として断罪すればするほど、そこで恩恵を受け続けていた自分の過去を正当化できる。彼のエントリーに見られる攻撃性は、高尚な倫理観から来るものではない。自分の中にある不快感を解消したいという、独善的な防衛本能に抗えなかっただけだ。
自分の受け取っていた対価が誰の泥臭い努力の上に成り立っていたのか。その想像力すらなく、去り際に後ろ足で泥をかける。
そして、私はこの退職エントリを読んで、経営陣の「強烈な意志」を感じ取った。それは、「黎明期から居座る、今のフェーズに合わなくなった人材を市場に放出したい」という意図だ。
想像するに、例の会社にはまだ、彼のような人材が大量に残っているのではないか。 創業期や拡大期に入社し、運良くストックオプションや高待遇を得たものの、能力が会社の成長スピードに追いつかなくなった「古参の既得権益層」だ。
某企業は、待遇が良いことで有名だ。外に出れば年収が下がることがわかっているから、彼らは会社にしがみつく。組織に寄生し、甘い汁を吸いながら、口だけは「昔はよかった」「倫理観が」と文句を垂れ流す。 経営陣にとって、こうした「寄生する古参」の満足度を上げることは、組織を緩やかな死に向かわせる自殺行為に等しい。
だからこそ、経営陣は今、あえて彼らが居心地の悪くなるような施策を打っているのではないだろうか。 それは短期的には従業員満足度を下げるだろう。だが、それは「代謝」のために必要な痛みだ。
不満を抱き、文句を言うだけの存在に「自分から出て行ってもらう」ための、組織マネジメントの一環。そう考えると、この退職エントリは、経営陣の描いたシナリオ通りにことが進んでいることの証左に見えてくる。 一時的な痛みに耐えてでも、組織を次のステージへ強引に引き上げようとするその胆力には、同情を超えて敬礼したい気持ちにすらなった。
この退職エントリーを読んで、私がもう一つ強く感じたのは、例の組織における「翻訳機能の欠落」だ。
先ほど述べたように、経営者が解いているのは、無数の変数が絡み合う「多変数関数」だ。
株主利益、法的リスク、競合優位性、キャッシュフロー、そして従業員の士気。これら全てのバランスを取りながら、組織全体として最もパフォーマンスが出るポイント(全体最適)を探し続けている。
一方で、現場が見ているのは「目の前の業務」という極めて限定された変数だ。増田のようなCSであれば、「ユーザーの感情」や「倫理的な正しさ」が変数のほぼ全てを占める。彼らが解いているのは、部分最適の関数だ。
ここで不幸なすれ違いが起きる。
「全体最適」のために導き出された解は、「部分最適」の視点から見ると、往々にして「意味不明な愚策」や「冷酷な切り捨て」に見えるからだ。
例えば、「将来の法的リスクを回避し、サービス全体を存続させる(全体最適)」ために、「今の不正ユーザーの一部を泳がせて証拠を固める(部分的には悪)」という判断を下すとする。
だが、その意図を知らない現場からすれば、それは単なる「悪の放置」にしか映らない。
経営層が弾き出した「冷徹で論理的な解」を、そのまま現場に流せばショートするのは当たり前だ。だからマネージャーは、その決定背景にある「なぜ」を噛み砕き、時には現場の不満をガス抜きし、彼らが納得できる「物語」に変換して伝える。
この「説明コスト」と「感情のケア」こそが、組織を繋ぎ止める接着剤なのだ。
しかし、増田のエントリーからは、その形跡が一切感じられない。
そこにあるのは、経営層のドライな意思決定が、なんの緩衝材もなく、剥き出しの高圧電流のまま現場に直撃している光景だ。
「翻訳」不在のまま、資本の論理を叩きつけられれば、純粋な現場社員が「この会社は人の心がない」と錯乱するのも無理はない。
彼が怪物に見えた「経営者」は、実はただ淡々と全体最適の計算をしていただけかもしれない。
だが、その計算式を翻訳し、現場の言語で語れる人間が組織から消え失せていた(あるいは機能していなかった)。
この「中間レイヤーの空洞化」こそが、彼を孤独な義憤へと駆り立て、最終的に「背信行為」という暴発を引き起こした構造的な真因ではないだろうかと私は想像する。
(もしくは、説明しても話が通じないので出て行ってもらうためにあえて放置してる可能性もある。)
一応、彼へのフォローもしておく。もちろん、彼個人を全否定するつもりはない。 CSという職種の性質上、高い「共感性」は必須スキルだ。目の前の顧客の痛みに寄り添えなければ、CSとしての機能は果たせない。 だから、彼らが解く方程式において「ユーザーの痛み」という変数の重み付けが、他の変数よりも極端に大きくなってしまうのは、避けられないことでもある。それが彼らの「才能」だからだ。その「痛みへの感度」があるからこそ、救われたユーザーもいただろうし、彼は優秀な現場担当者だったのかもしれない。それは想像に難くない。
だが、経営判断が自身の感情を逆撫でするものだからといって、会社という公器を危険に晒す行為は、経営を預かる身として到底容認できない。それとこれとは全く話が別だ。
最後に、私自身の「メタ認知」も記して、この乱文を締めくくりたい。
ここまで増田をこき下ろしてきたが、彼が持っている「純粋な気持ち」そのものを否定するつもりはない。顧客のために涙を流せる感受性は、人間として美しいものだ。それは認める。
ただ、正直に告白しよう。私がなぜここまで感情的になり、彼を断罪するような文章を書いたのか。 それはきっと、私自身が経営に携わり、会社という「器」を守るために、その「純粋さ」を犠牲にし、切り捨ててきたからだ。 彼の持つ、曇りのない眼差し。顧客と泣き合えるほどの無垢な心。それに対する、ある種の「嫉妬」が私の中にあることは否定できない。
だが、これだけは理解してほしい。 彼がその純粋さを保っていられるのは、誰かが——経営者たちが——資本主義という冷酷な市場の中で、泥水をすすりながら適切な舵取りを行っているからだ。 彼らが「汚れ役」を引き受け、複雑な変数を処理し、防波堤になっているからこそ、彼は「善人」でいられる権利を享受できている。
その構造に対する想像力もなく、たった一つの変数しか見えていない視野狭窄な状態で、「あなたは非人間的だ」と安全圏から石を投げられること。これにはどうしても辟易してしまうし、傷つきもする。 だからつい、こうやって匿名のダイアリーで感情的になってしまったわけだ。
純粋でいられることへの嫉妬については、謝ろう。申し訳ない。ただ、その「純粋さを保つ権利」が誰の犠牲の上に成り立っているのか。その構造に気づかない限り、彼は次の「温かい職場」でも必ず同じ過ちを犯すだろう。
彼は現在、「現場の裁量で社内調整し、規約を超えて一人のユーザーを救える」ような企業に転職し、水を得た魚のように働いているらしい。
結構なことだ。だが、経営の視点からあえて冷や水を浴びせるなら、それは組織が未熟だから許されているだけの「期間限定のモラトリアム」に過ぎない。
「規約を超えた個別対応」などというものは、オペレーションとして見れば再現性のない欠陥品だ。
ユーザー数が10倍、100倍になった時、その「温かい属人対応」は間違いなく破綻する。公平性を担保できなくなり、現場はパンクし、結局は彼が憎んだ「冷徹なマニュアル対応」を導入せざるを得なくなる。
彼が今、幸せを感じているのは、その新しい会社がまだ「経営の多変数関数」を解かずに済む、牧歌的なアーリーフェーズにいるからに過ぎない。
いずれその会社が成長した時、彼はまた同じ壁にぶち当たるはずだ。その時、彼はまた「会社が冷たくなった」と絶望し、同じように砂をかけて去っていくことが想像に容易い。そうならないことを、切に願っている。
よくこの手の議論になっているのを見て。
昔、少し教育に関わっていたことがあるので、酩酊任せにチャッピーと一緒に書きました。
もう寝る。あまり人に見つかりませんように。
批判する場合は、「思考・判断・表現」を評価する別の手段を発明する必要があると思っていますが、
あまりそのような議論にならないので、もったいないな、と思っていました。
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数学的には交換法則( a x b= b x a )が成り立つため、「順序が逆でも正解にすべきだ」という意見が一般的です。
しかし、学校教育における''「評価」の仕組み''を紐解くと、教師が順序を重視する背景には、指導要領に基づいた合理的な理由が見えてきます。
現代の学校教育における評価は、文部科学省の定める学習指導要領に基づき、主に以下の3つの観点で行われています。
ここで重要なのは、''「答え(数値)が合っているか」と「立式(プロセスの説明)が適切か」では、評価している対象が異なる''という点です。
※テスト用紙や通知表にも、上記3観点は書かれているので、気づかれてない方は見てみると面白いと思います。
「知識・技能」を確認するテストにおいては、その名の通り「計算を正確に実行できるか」という技能の習熟度が問われます。
純粋に技能を測る場面では、必ずしも立式(プロセス)は求められません。限られた時間内で正確な解を導き出す「実行力」そのものが評価の対象となるからです。ここでは結果が正しければ、その技能を習得していると見なされます。
一方で、テストで「式」を書かせる場合、それは''「思考・判断・表現」''の評価へとシフトします。算数教育における立式は、単に答えを出すための手段ではなく、''「問題の構造をどう捉え、それをどう式という言葉で表現するか」''という論理的思考の再現を求めているのです。
したがって、順序を逆にする(構造を無視する)ことは、数学的に間違いではなくとも、''「その授業で意図した思考のプロセス(評価観点)」に達していない''と判断される要因になり得るのです。
「数学的な正誤」と「教育課程における評価」は別次元の話です。現場の教師が順序を指導するのは、個人のこだわりではなく、国が定めた評価基準を忠実に運用しようとする職務遂行の一環と言えます。
もし「順序の固定」に強い違和感を抱くのであれば、個々の教師を責めるのではなく、以下のような本質的な議論へと向かうべきです。
ではおやすみなさい
俺は32歳。つい数年前まで、典型的な「空気みたいな存在の陰キャ」だった。モテるなんて論外。女性からは「無害な人」という、一番屈辱的な評価を受けていた。
どれだけ仕事で成果を出しても、どれだけ趣味に打ち込んでも、自己肯定感は一向に上がらない。なぜなら、俺の心の奥底には、「俺は女性に選ばれない欠陥品だ」という、氷のように冷たい劣等感が常に張り付いていたからだ。
転機が訪れたのは、親友の結婚式だった。親友は昔、俺と同じくらいダサく、ファッションセンスもゼロの男だった。そんな彼が、キラキラと輝く美人な奥さんを連れて壇上に立っている。
その瞬間、俺の頭の中にあった「モテは才能。非モテは生まれつきの運命」という呪いが、音を立てて崩壊した。
もし彼ができたなら、俺にもできるはずだ。モテとは、遺伝子や運命論ではなく、単に「正しいスキル」と「適切な努力」を俺が今までサボってきた結果に過ぎない。
そこから俺は、「モテ」を「人生の最重要プロジェクト」と定義し、感情論を一切排除した、冷徹な攻略法を実践した。
非モテがまずやるべきは、服を買うことでも、ジムに行くことでもない。「モテ」を趣味や願望ではなく、「プロジェクト」として捉え直すことだ。
| 非モテのマインドセット(Before) | モテ攻略のマインドセット(After) |
| 感情: 「モテたい。どうせ無理だけど…」 | 目標設定: 「3ヶ月以内に3人の女性とデートする」 |
| 評価: 「相手に好かれたい」 | 評価: 「今回の会話で、相手の感情を3回引き出せたか」 |
| 原因: 「顔が悪い、背が低い」 | 原因: 「TPOに合わない服装、話が自己完結している」 |
モテを「確率論とデータ分析のゲーム」と認識し、目標と検証を繰り返す。これで、振られても「俺がダメ」ではなく、「このアプローチがダメだった」と冷静に次に進めるようになった。
非モテは、いきなり「攻撃力(オシャレ)」を上げようとするが、それは間違いだ。 まず、「防御力(生理的拒否感を与えないこと)」を最大化すべきだ。
それまでの俺は、1,000円カットで「無難」をオーダーしていた。無難は、女性から見て「手入れを放棄した証拠」でしかない。
これはモテのためというより、他人への敬意だと認識した。いくら服が良くても、笑った時に歯が黄ばんでいたり、鼻毛が出ていたりしたら、すべてが一瞬で台無しになる。
それまでの俺は、全身ユニクロ・GUの「制服」で、「無個性」という名の「風景の一部」だった。これを脱却するため、感覚ではなくデータに頼った。
ファッション雑誌を読んでも、自分に何が似合うのか分からなかった。プロの診断に金を払うことで、自分に似合う色(PC)と形(骨格)を科学的に特定した。
ユニクロ中心の着回しを止め、「この服を見れば俺だとわかる」という主役級のコートやジャケットを1〜2着購入した。
非モテ陰キャの会話の9割は、「知識のひけらかし」か「自己完結した質問」だ。
相手の話の内容(事実)ではなく、その裏にある感情を拾い、オウム返しで増幅させた。
スキルが整っても、「振られる恐怖」がある限り、最後の一歩が踏み出せない。これを克服するには、「実践と敗北」を繰り返すしかなかった。
俺が3年間の「モテ攻略プロジェクト」で投じた総費用は、年間約16万円(服、美容院、歯のクリーニング、書籍など)だ。
この金額は、「毎週行く飲み会代」や「年に一回の高級旅行代」よりもはるかに安い。
しかし、この投資によって俺が手に入れたリターンは計り知れない。
モテは、生まれつきの才能じゃない。俺は30年以上積み上げた「非モテ習慣」を、合計年間約16万円の投資と、3年間の地道な努力で「モテ習慣」に上書きしただけだ。
今、「どうせ無理」と諦めている奴がいたら、声を大にして言いたい。
「お前が非モテなのは、まだ『正しいスキル』と『適切な投資』を学んでいないだけだ。」
この攻略法は、特別な魔法ではない。単なる論理的な「自己啓発」だ。この費用と労力に見合う価値がある人生を、お前も選ぶべきだ。