はてなキーワード: 大学病院とは
企業の研究職として就職したが、手取り19万円です。こんなはずじゃなかった。
下に見られて悔しい。
と身の上話は置いといて。
ワイの小さい頃の夢は、医療系国家資格を所有する研究者になることじゃった。
医学科行けよと思うのは当たり前だが、4年間で大学を卒業できるというのが魅力的じゃったし、医学科より難易度が低かったためお得じゃ~んと考えてしまったんじゃ。
ワイの親は国立信仰の学歴厨だったので、私立大は許されなかったのじゃ。だから必死になって勉強したのじゃ。数学はもちろんⅢまで履修し、理科も2科目、英語もきちんと勉強したのじゃ。
なのになんだこの仕打ちは?お勉強たくさん頑張ったのに、なんでこんなに給料が低いのじゃ。大学受験はもちろん、大学入学後も数多の課題を乗り越え国家試験に合格したんじゃ。
恐ろしいぞ。年間休日が少ないのはもちろんのこと、基本給も恐ろしく低いのじゃ。そのうえ、大学病院などは最初から正規職員として雇ってくれないところもあるのじゃ。でも、必死に勉強はしなきゃいけないのじゃ。そりゃそうじゃ、医学は日々進歩するからのぅ。やりがい搾取じゃ。
ワイは研究の道を諦めきれなくて、企業に就職したのじゃ。生憎もう金がないから博士課程には進まなかったのじゃ。企業で頑張ってみようと思ったのじゃ。働いてみたら手取り19万じゃ。そのため、学んだことを活かせるように、臨床検査技師として一から仕事しようと考えたのじゃ。しかし、これは罠じゃ。院卒だと小さな病院はなかなか雇ってくれないのじゃ。規模が大きめの症例数の多い病院じゃないと雇ってくれないのじゃ。しかしながら、そういうところは正規職員では無い可能性もあるのじゃ。さらに、新たに資格が必要なこともあるのじゃ。例えば、病理部に就職するとなれば、細胞検査士を取らなきゃ意味無いのじゃ。養成所に通わなければならないのじゃ。
もっともっと検査技師としての仕事の幅を増やして欲しいのじゃ。しっかり数Ⅲまで勉強したのじゃ。よく医学部保健学科は下に見られることがあるのじゃ。でも、保健学科受験生全員、きちんと勉強してるのじゃ。それだけはそれだけはばかにしないでほしいのじゃ。皆頑張ってるのじゃ。
正直数Ⅲが必要な学部全体の卒業生の中で一番お給料が低いと言っても過言ではないのじゃ。なんとかしてこの医療分野を変えてはくれんかのぅ。だって、ヒトとして生きていくための基本の学問じゃないのかのぅ。
医学科めざせばよかったのかのぅ。文系に進むべきだったのかのぅ。
でも、ワイは夢を諦めたくないよぅ。
がんもどき理論、がん放置療法、抗がん剤は効かないなどがメインだったように思います。
といっても話を広げても仕方ないので、がん治療におけるQOLの低下に話を絞りましょう。
そもそも癌自体が正常な臓器を壊してしまう事が多々あります。この場合治療して癌が治っても壊れてしまった臓器は元には戻りません。
また治療内容によっては抗癌剤を使うことで完治の可能性が上がりますが、抗癌剤による後遺症が一定の頻度で起こる事もあります。
また手術で切った場合もそれに伴う障害の可能性もありますし、放射線治療も晩期障害のリスクは一定の頻度で起こります。
どのような後遺症が残るかについては、癌の種類、状態、治療方針によってあまりにも異なります。
ただ近藤先生が大学病院で診療されていた時代と違い、現在はインフォームドコンセントが形式だけでなく内容も充実しています。
必要な治療内容とそこから想定される後遺症や合併症について、癌診療では必ず説明文章で提示し説明がありますので、ご自身の価値観でその時々で判断されるのが良いと思います。
別にすべての治療を受けないといけないわけではありませんので、許容できる範囲内で治療を受けられると良いと思います。
子宮筋腫で子宮内膜症で既に30代前半…といろいろあり最初から高度医療をすることにした。
保険適用になったタイミングで夫婦で検査。夫に問題なく私も一応排卵はしている状態。
採卵は左の卵巣からしか採れないから少なかったけど何とか3個胚盤胞になって移植手術の準備ができた。
自己注射も薬の副作用も採卵の激痛も耐えてスタートラインに立ててホッとしたのを覚えている。
1回目
移植して検査までの1週間の間に出血があり、ああ駄目だなと直感した。
検査結果は化学流産。一応妊娠自体は成立したけれどすぐに流産した状態みたいなことらしい。
まだ1回目だし心の余裕があった。
2回目
3か月空けて2回目の移植手術。1週間経っても出血がなく無事に妊娠成立。
病院で妊娠初期の方のためのパンフレットをもらい、しばらく経過を見たら分娩のための病院に転院ですと案内される。
出産場所を検討してくださいとか言われたり、本当に小さい小さい赤ちゃんの種をエコーで見せてもらう。
安定期に入るまでの流産率の高さもあるので、安心はできなかったけれど、
夫と2人の子供が今確かに生きようとしてくれていると思えてうれしかった。
しかしその一週間後、ちょうど心音検査に向かう途中突然大量の出血。
幸いスカートだったけれど下半身が血で染まった状態(コンビニで急遽下着などを買った)でエコーを見てもらうと
赤ちゃんらしきものは見えず、でもか細い心音は聞こえていると言われた。
念のため1週間安静にしてもう一度確認しましょうと言われ、ほぼ絶望的な状態なのに1週間ベッドで寝たきりになる。
その間必死にネットで、大量出血しても妊娠継続した人の記事を見つけては縋るような思いだった。
再検査の数日後吐くほどの腹痛と出血があり、おそらくそこで完全に流産して終わった。
夫の前で子供のように大泣きした。自分でも言葉にならないほどの悲しみだった。
3回目
また数か月間を空けて3回目の移植手術。
2回目の傷も癒えてないけれど病院からは胚盤胞の凍結更新の前に移植を薦められる。
この時も無事に妊娠。2回目より数値もよくエコーに写る赤ちゃんも大きかった。
その次の週の検査でもどんどん大きくなっていて、心音も確認できた。
ドクンドクンと元気になっている音、先生もかなり順調ですねと言っていた。
今度こそ、と思っていた。
しかしその次の週、赤ちゃんは前の週からまったく大きくなっていなかった。
心音も弱まっていてまた「切迫早産」と言われて安静処置になった。
ベッドの中で安静になりながら、もう駄目だ、いやもしかしたら…と考え続けて精神はめちゃくちゃだった。
気が遠くなる1週間を過ごして、やっぱり今回は残念ですが大きくなっていない、おそらくこのまま自然流産になるだろうと言われた。
亡くなった赤ちゃんになるはずだった命は、心音も聞こえていた命は、
また数週間後吐くほどの腹痛と出血と共に流れていった。
このころには泣きすぎて頭も心も疲弊しきっていて、何も手につかなかった。
あと少しで母子手帳をもらいに行けるはずだった。
すべてが手から滑り落ちて、自分の体内が赤ちゃんの墓場になったのだと思った。
不妊症は通常妊娠が成立しないことが多く、私のように3回妊娠したのに育たない場合、
通っていたクリニックからも不育症の転院を薦められたが、ここで完全に心が折れてしまった。
保険適用の移植手術は6回までなのでまだ3回チャンスはあるが、
もともとメンタルが弱くネガティブな私はもうがんばれなかった。
また1週間祈るようにベッドにいる時間が来るかもしれない、それでもダメかもしれない。
小さくて小さくてでもたくましいあの心音が、翌週には途絶えているかもしれない。
私の体に移植したことで、この命を殺してしまったのかもしれない。
それじゃなくても薬の副作用やつわりも出たり、体も疲れ切っていた。
それから2年経ったが、
大学病院で自分の婦人科の持病オンパレードの治療と向き合っている。
私は手に入れられなかったもの。
今でも苦しくてつらくて切なくて涙が出る。
2回目の移植の子も、3回目の移植の子も出産予定日はずっと忘れない。
会いたかったな。
理由を探しても見つからない、不妊治療はやれば必ず結果が出るわけではない。
今不妊治療をしている増田はどうか無理せず、でも良い結果になれますように。
私は今は子なし夫婦としてどうにか楽しく生きていけたらいいなと願いながら、
次の旅行の夢を夫と話している。
1年
選択授業や第二外国語、サークル活動など唯一大学生らしい大学生活を送れる。ただし2年次からパンパンに詰まっている必修単位のせいで時間割は毎日比較的詰まっている。
上下関係の厳しさが1つ上の先輩から示唆される。独特な文化を前にやや選択を後悔しだす。
2年
必須単位が牙を剥く。5年次まで時間割が必修単位で詰まっているため、この先の落単は=留年を意味する。また一般教養も同じ理由でこの先ねじ込む先がないため、やはりこちらも落単すると留年。6年次に国試があり留年組は不利になるため皆必死。
基本的に午前は座学、午後は実習(授業終わりの時間は決まっておらずレポート必須)のため、実家のサポートの有無(バイトをしなくてよい等)が成績の明暗をわけるが、実家が裕福な学生が多いため基本的には問題がない。
3年
基本的に2年と同じ。この2年間が1番キツい。
秋以降は4年次の研究室配属にむけて情報が錯綜し、緊張感が走る。成績の悪い学生は前評判の悪いアカハラ研究室に叩き落とされ、地獄の3年契約を交わす羽目になる。
4年
研究室配属。アカハラ教授、疲れ切った准教、5,6年の先輩に囲まれ、実験主義を教わりつつ研究室の雑用をこなす。掃除や備品管理、果ては忘年会の幹事など。
授業は臨床科目(座学)がメインを占めるようになり獣医学生らしい日々を送る。また面倒見のよい研究室では卒論の準備を始めるところも。
学年末にオスキーという仮免試験があり、こちらも落ちたらもちろん留年(来年の病院実習に出られないため)
5年
座学がかなり減り実習メインになる。大学病院での小動物診療だけでなく学校外での公務員や大動物診療の実習もここ。1番気楽な一年間。卒論を書き始めるが、テーマによっては気楽でなくなる。
民間企業への就職(ほぼいない)を考えているごく少数の人間は就活もするが、ハンデが凄まじく一般の大企業はだいたい落ちる。
冬、1学年上の先輩がノイローゼゾンビとして一日中国試勉強している姿を見て来年の今頃は…とゾッとする。
6年
授業はほぼなくなる。民間企業以外を希望する学生は春から就活開始。よほど選ばなければ病院、公務員、その他診療系、だいたい受かるので、キャリアセンターで取り急ぎの面接対策をしてゆるく過ごす。
夏からは秋冬の卒論〆切に向けてラストスパート。卒論で落ちることはほぼないため、内定後の夏から開始した自由研究並のクオリティの卒業研究を行う者もいる。
11月-12月の卒論提出後から国試対策を開始。この時ばかりはほとんど全員が朝から晩まで勉強し、大量の語呂合わせを作りながら2月の本番での合格を目指す。
出題範囲が膨大、過去問の解答はあっても解説がない、ノウハウ化されていない等の理由によりボッチは合格できないことが多い。不思議と毎年9割前後合格するが、合格率以上の難易度が確かにそこにある。
合格できなかった場合の大学側からのアフターケアはないため、卒業後も出入りできるよう研究室の先生や後輩とは極力仲良くしておくのが無難である。
なお、東大や北大の学生以外は就活は難易度と引き換えに獣医師免許必須の内定が出ている場合が多いので、落ちたら就活もやり直しである。
なお、数年後には小動物臨床に進んだ人以外のほぼ全員が獣医になったことを後悔しだすが、待遇は小動物臨床が1番悪い。
番外編
卒業試験: 私立にはある。国試の合格見込みがないものを強制留年とする親切なのか余計なお世話なのかよくわからない制度。
俺、自業自得もあって歯がボロボロなんで、大学病院とか大病院で何回か助けてもらってるけど、
手術中に手が止まって、「先生、このあとどうしたらいいですか?」は流石にビビった…😟
でも、身体の大手術も経験したけど、偉い先生とか専門の人がいると強い
中堅の整形外科で手術したときも、その病院のつてで大病院から部位の専門家の助っ人が来て、
担当の若い先生とペアで手術してくれたらしい、6時間ぐらい…😟
でも、結果には十分満足している、元通りには当然ならないけど、ちゃんと生活できてる
あとは、これが何年続くかだな…😟
9月某日
風邪だと思って行った近所のクリニックでたまたま心電図を撮ってもらえ、明らかに異常とのことで近所の総合病院の紹介状が出る。
総合病院到着後、すぐに救急外来に送られ、15分後には大学病院への搬送が決まる。
大学病院到着後、すぐに検査と手術を受け、そのままICUに入院。
診断は急性心筋炎。
10月某日
容態が安定したとのことで一般病床に移動になる。
自分としてはかなり回復し、いつでも退院できる気分だったが、検査結果があまり良くないとのことで入院が続く。
まだ数値は正常値ではないが、入院するほどでもないとのことで退院が確定。
・全てのことが優先され、本当の急患ってこういう扱いになるのか、と他人事のような感覚があった
・心筋炎と仮判断されるまでのスピード感に驚いた。搬送されて3時間くらい?で配偶者に説明があったらしい
・配偶者は「急変して最悪のことがいつ起こってもおかしくない」と説明されたらしい
・自分への説明はかなり濁され、後から詳しく教えてもらった。ショックを受けさせないためらしい
・補助循環装置、入れる時より抜く時の方が100倍くらいキツい。動脈の圧迫止血に1時間かかった
・1週間近く寝たきりだと、本当に身体に力が入らなくなる
・絶食が続くと、身体が消化を忘れるのか、いざゼリー食が始まってもなかなか食べられない
・いつの間にか消化を思い出したのか、急に食べられるようになった。ここから回復の実感が沸いた。
・病院食はそこそこ美味しく、塩分計算されているから浮腫まなく、寝て起きての生活でも太らない
・4キロ近く痩せた
・見ず知らずの自分に対してあんなに親身に優しく接してくれる医療従事者の皆さん、仕事とはいえ本当にすごい。頭が上がらない
・入院期間は不思議な気分だった。生かしてもらったのだという実感がある
・初診で「吐き気がする 気分が悪い」と消化器症状を訴えた自分に対して、心電図を撮ったクリニックの医師(消化器内科)は何を感じてそうしてくれたのだろう。神様っているのかもしれないと思った
なってどーすんの?
最低賃金は1500円目指すってよ!
看護師やっても体壊すだけ!そんなもんになるよりもっと違う職種いったほうがいいよ!
え?なんでって?
まず給料は上がらないよ!これまじ!
ベースアップがーとか世間は言ってるけどそんなん地方は無理!無理無理無理!
まず医者がいないから法外な値段を人材派遣や広告に払ってんだよこれが。そして医者をよんでんの。だからまずもって看護師の給料なんて後回し!もう後回しすぎて周回遅れ!
医者は呼んだが患者がいない!患者が来ないから救急車を回してくれー!救急隊たのむー!て状態。
で誰がみるの?
医者じゃないんだよなー。看護師がみるんだよ。ひどいと看護師から言われたらそのまんま薬だしたりするんだよ。いやーひどい。
お前たちがいったんだろ!俺は知らん!っていう奴もいるからなー!
中にはすげー勉強して特定行為の研修受けたり認定看護師なったりするツワモノもいるよ!
お!認定看護師なったんかいワレ!ほれ月5000円ぐらい手当つけたろー!
医者を呼ぶのには何百万もつかうでー!看護師がやめたー?!?!人材派遣や広告に何百万、何千万つかうでー!
え?給料あげろ?いやいや患者も来てないから赤字や!すまん上がらん!
コロナの補助金?!?!そんなもんはない!全部新しい機材かったからもーない!
コロナの補助金が消えたあたりから患者の戻りも悪くなり閉院する病院も出てきてる。病院によってはもう新規の患者は見込めないことから救急車の受け入れの特化!!!施設に挨拶周りして施設と病院の行き来できる患者探し!!!とかもう地域病院としての機能とは?の状態だよ。
こんな状況でなりたいなんてあんたもっと世間をみなさいよ。ってなるわ!
医者はすごいよ。ほんと。まじめっちゃ働く人は働くから。でもねやっぱわたしらも生活したいかないと行けないしQOLっていのもね。大事なんだよ。
確かに世間一般から見れば夜勤を含むと給料がいいのはいい。でも最低賃金も上がってくればそんなもんも吹き飛んでしまうんだわ。
看護師免許なんてさ一応もっとくだけもっといて普通の企業に就職するのがほんといいよ。
今の看護師ってさ診療の補助と療養上の世話からかけ離れてきててあらゆる医療職の包括的な地位になってきてるんだわ。
医療知識から福祉の知識まで求められそして各職種の調整。下手すると退院後の生活を見越して施設を探すことまでしないといけない。
みんな考える理想の看護師の働き方ができるのはそうだなー2.5次〜3次救急をやってるところじゃないかな?あとは大学病院くらいかな。
それ以外の病院はほんと悲惨よ。やること、考えること多すぎ。自分たちはそんな社会福祉の突っ込んだところまで勉強なんてしてないからプロを頼りたいのにそのプロがいない場合があったりそのプロたるソーシャルワーカーがかわりもんすぎて結局こっちが調整つけてるなんてことは多々ある。
長くなったけどさもしも看護師なろうかなー!って思っててこれをよんでる人がいたら綺麗事に流されないでほしい!!!
そして言うんだ!!!もう限界です!なんとか病院で見てもらえませんか?
っていくつか当たればなんと!!!入院させてくれる病院があるはず!!!
そうするとあら不思議。介護保険の申請方法や施設のことまでいろいろ教えてくれたりなんならやってくれる!!
病院も退院先がないと退院させれないんだよ。そのまま自分でどうにかしろってないんだよな。だから看護師は疲弊していくんだけどな!
https://anond.hatelabo.jp/20191003175753
お久しぶりです。
2019年に書き捨てたこれを久々に見たらブコメその他が暖かくてうれしかったです。ありがとう、今でも母とは仲いいです。
当時は返信の仕方?とかわからないので書きっぱなしで失礼しました。あの後も半年に一度の血液検査+尿検査を実施して悪化していないことが確認できています。
そんな増田が妊娠出産を経験したので同じ思いをしているかもしれない増田のために書いてみんとす。
当時の口調がちょっと幼くて恥ずかしいな、とは思いつつ。
寛解が2019年で、病気になったのは2016,7年でした。私の腎臓病の発症は高熱を出して血尿が出てから?なので、引き続きノロやインフルにかかって高熱を出さないように気を付ける生活を送っていました。(コロナももちろん怖かったです)
定期検査の時に「妊娠したらどうしたらいいんでしょう?」と大学病院で主治医に相談していて、「うちで出産でしょうから妊娠したらまた教えてください~」とは言われていたので、妊娠したらダメなほどの症状でもないようでした。
実はこの時は心拍が確認できなくて、8週まで粘ってみたけどダメで手術をしました。そしてさらに2022年妊娠。先にネタバレするとこの子が無事に生まれます。
この時は町の産婦人科にかかっていて、腎臓病の持病があって出産は指定する大学病院でしたいですと伝えたところ「そっか、じゃあ安定期に入るころにでも紹介状でも書こうか」と言われていて、のほほんと過ごしていました。
腎臓病の先生も産むときはうちでとしか言わないし、産婦人科の町の先生もまぁじゃあ後期まではうちで見るねと言っていたので、あんまり問題ないのかな?と思っていたところ、安定期に入る1か月前にちょうど腎臓の定期検査があったので主治医に報告して「いつごろから移ったらいいですかね~?」とのほほんと尋ねたところ、「え!?じゃあすぐにもう見ますよ!妊娠高血圧症候群の高リスク妊婦ですからね!」と慌てられて、思っていた温度感の違いに驚きました。すぐに産婦人科に連絡して翌日には紹介状をもらい、腎臓内科からも産婦人科へ紹介状を出してもらって2枚の紹介状を持ってその大学病院の産婦人科へ。
なので結果的には妊娠4か月から大学病院で妊婦の定期健診の度に産婦人科と腎臓内科をはしごするようになっています。1か月ごとだったかな?
やってる内容は妊婦検診と変わらないので町のお医者さんでもできることだと思いますが、それ+毎回血液検査もしていました。
腎臓病の妊婦はほかの妊婦より高血圧になりやすいとのことで、毎朝晩血圧を測って記録をつけていましたが、私は最後まで高血圧にはならず。
その代わり特に何をしているわけでもなかった(大学病院に早くから行かされるくらいには健康優良妊婦とは自分は違うのだろうという思いで食生活にも気を付けていました)のに、糖尿病検査で引っ掛かりました。
この辺は関連性がわからないです。
糖尿病の人は腎臓病になりやすい、というのは調べたら出てくるけど逆はあんまりない気がして…遺伝でもないはずなんだけれど…。でも結果的に再検査をしても血糖値が高く、妊娠糖尿病は確定、この検査後から大学病院で回る科に糖尿内科がプラスされるようになりました。3科回るとなると朝いちばんに診察に来ても終わるの1,2時になっててけっこうしんどかった。
結果的に軽い糖尿?だったのでインシュリンを打つまでには至らず、とにかく食事管理、また運動で様子見をすることになり、妊婦でおなかはすいているのにウサギの餌のような量や献立をずっと食べていました。このころの記憶はとにかくひもじかったかな。
例えばコンビニおにぎりの量でいうと血糖値的にたんぱく質の摂取量が多すぎるらしく、ご飯の量はそれの半分、片手のひらに載る程度のサラダ、そして焼き鮭の1/3切れ。
でもまぁ、子供のためを思えば…と我慢はできるものの、ずっと文句は言っていました。中で聞こえていたらごめんだけど、普通にストレスで…だっておなかすくんだもん…。
だからだろうけど、妊娠前150センチ52キロだったのに、出産のときは58キロで全然体重は変わらなかったなぁ。こんなに体重増えなくて大丈夫?と思うけど、おなかの中のエコーで大きさは問題なかったので、OKとのことで。また医学的には体重が増えすぎるよりはキープのままのほうが全然いいらしい。
妊娠糖尿病の子供は大きくなりやすいと言われていて、私も臨月のエコー検査と経腟検査では「3500以下ではあるけど3000はあるかな?大きくなる前に出てきてほしいけど初産だから予定日超えるだろうな~」と言われておびえていました。
私自身がチビなので骨盤粉砕される…!とおびえていたけれど結果的に生んだのは2780gのど平均の下のほうといった女の子でした。
出産後3日くらいまでは血糖値も測り続けていたけれど、産んでからは一気に平均値に戻り、食事制限はなくなりました。とはいえ大学病院のごはんは個人的にはおいしいとは思うけれど、やっぱり薄味かつ量が少なくて…よくある豪華なフレンチのお祝い膳を夢見ていたけれどそんなのはなく、結局産んでからもひもじい思いをしながら、お散歩で院内のタリーズでココアを飲んだりするくらいがごちそうでした。
子どもは何の問題もなく(実は回旋異常で分娩時間は35時間超えで苦しい思いはしたものの、それは腎臓病にも糖尿病にも関係はないはず?とのことなので割愛)、元気にすくすく育って今1歳半です。よく食べてよく寝、今はふらふら歩くのがマイブーム。
産んで半年後からは大学病院の検査も半年に一回に戻り、今も数値の悪化等はありません。よかった。
なので結果的には腎臓の数値は妊娠出産を経ても悪くならず、血圧も普通のまま、糖尿もインシュリンを打つほどではない数値で産後は完治。
退院の目処はまだ立ってないけど、今から退院のことを考えると寂しくてしょうがない
この春、夫の転勤についていくと決めて、友達がいる東京から飛行機で2時間の土地に引っ越した
仕事はリモートワークで続けているので、パソコンの向こうに知り合いはたくさんいるけど、身近なところには文字通り1人も友達がいない
そんな中、入院という形で大学病院という一つの社会に組み込まれることになり、初めてこの土地の人たちと関わることができた
主治医の方や看護師さんと、病状の話のみならず雑談もあったりと、割と楽しく過ごしている
これを書いてから1年後。
妊娠が分かったのは1月の半ば。生理が遅れて、検査薬を試した。まさかの自然妊娠だった。元々卵巣機能が低く、第一子は不妊治療を経て出産し、その後いくつかのことを試したが結局授かることはなく。家族3人で楽しくやっていけばいいと完全に諦めていた矢先、妊娠したことが分かった。
最初は夫婦ともに戸惑った。子どもはもう5歳になって、生活に随分余裕ができた。夜は寝るし、言葉を話せて、気軽に旅行にも行ける。経済的にも子どもひとりなら安心して程良い生活ができる。そう高を括っていたところに0歳の存在が加わると。思い出される、寝ない、食べない、忍耐の日々。兄弟を望んだこともあったが、もはや5歳と0歳は多分一緒に遊ばない。仕事も責任のある立場になって、引き継ぎや調整にかかる労力は計り知れず、正直マジかという気持ちになった。
そもそもこれまでどんなに頑張っても妊娠しなかったポンコツの身体にぽっと出の命が宿ったとして、うまくいきっこないはずだ。最初はどうせ化学流産か子宮外妊娠が関の山だと思い込んだ。そうでないと、自然に授かれた喜びが爆発してしまいそうだったから。今さらマジかと思う一方、もう一度この手に赤ちゃんを抱けるかもしれないことが、子どもに弟か妹を産んであげられるかもしれないことが、本当は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
初期の検診は毎回、あまり期待せずに通った。子宮内に胆嚢が確認できたとき、リングのような卵黄嚢がくっきりと美しく見えた時、力強い心拍の音が病室に響き渡った時。涙が出るほど嬉しかった。期待しないように、期待しないようにと言いながら、毎朝毎朝、アプリで週数日数ごとの胎児の様子を丁寧に読んだ。第二子で、次の検診までがあっという間だとか、うっかり存在を忘れるとか、そんな瞬間は一度もなかった。ずっとずっと心配だったし、いつも赤ちゃんのことを考えていた。
私の心配をよそに、赤ちゃんはすくすくと大きくなった。検診の度に週数以上の大きさで、何の異常もなく、胎動も痛いくらい力強くて。深夜に目が醒めて、お腹に少し合図すると、もこもこと蹴り返してくる存在が何よりも愛おしかった。どんどんお腹が大きくなって、腰が痛くて、苦しくて、上の子に優しくできずイライラしたり落ち込んだ日もあったけど、元気な胎動を感じながら過ごす毎日は満ち足りていて幸せで、幸せで仕方なかった。
7月、何とか仕事をやりきって、気持ちよく産休に入った。体質的に上の子は早産だったから、もしかしたら近日中に産まれてしまうかもなとは思った。検診では何も問題なかったが、体感的にそれくらい身体が限界で、8月を乗り越えられる気がしなかった。早産はいつも不安だったけど、28週を過ぎたあたりで、もう大丈夫だと思った。かかりつけは家から近く、NICUのある大学病院で、例え早産になったとしても何の問題もないはずだった。
その日。
前日も当日も暑くて外出はできず、家でゆったりと過ごした。夜になり、脇腹辺りに痛みを感じた。陣痛のように収縮するような波のある痛みではなくて、何かズキズキした痛み。食あたりを疑いつつ、どんどん増してくる痛みに違和感を覚えすぐに病院へ向かった。深夜の救急外来で、すぐにエコーを当てられたけど、いつもなら聞こえるはずの力強い心拍音がいつまで経っても聞こえない。ドッドッドッとうるさいくらいのあの音が。死ぬまでずっと覚えていたいと思った音がいくら探しても聞こえなかった。
腹痛を感じてから約45分、病院到着から約15分で帝王切開が始まった。にも関わらず、全身麻酔から目が覚めたとき、赤ちゃんは生きていなかった。診断名は子宮破裂、常位胎盤早期剥離、胎児機能不全、子宮筋腫核出後、子宮内膜症性嚢胞合併。要は子宮が15cm裂けていて、そこから胎盤が脱落し、赤ちゃんは仮死状態で生まれたものの、蘇生に反応しなかった。
産まれた姿は大きくて、体重が1950gもあった。まだ体毛がたくさんあって、眉毛が立派だったけど、私と、上の子が産まれたときにそっくりだった。手足はむっちりと太く、小さな指もそれぞれ5本ずつしっかりあった。小さなお口が三角形に開いていて、かわいくてかわいくてしかたなかった。目が開いたら、どんなお顔だったんだろう。どんな声で泣いたんだろう。何が好きで、何が嫌いだったんだろう。もう冷たくて、ところどころ固まって、点滴や機械の痕が痣になって痛々しくても、かわいくて愛おしくて悲しくて、泣きながら何度も何度も名前を呼んだ。
どんなに寝なくても、食べなくても、元気に生まれてくれたらそれでよかった。ふにゃふにゃの体で、息をして、目が合うだけで、どんなにかわいかっただろう。こんなことなら、1日でも早く、早産になればよかった。子宮が破裂する前に、お腹から出してあげたかった。3日前の検診では何の異常も無かったし、子宮破裂の可能性なんて考えさえしなかった。あかちゃんは私のせいで亡くなった。子宮さえ丈夫だったなら、元気に生まれてきたはずなのに。
手術から1週間後に退院して、夫の運転する車で家に帰った。信号待ちで車が止まると窓の向こうに、大きなお腹で上の子と手をつないで幸せそうに帰り道を歩く自分の姿が、お腹をおさえてふうふうと息をつきながら頑張って坂道をのぼる自分の姿が浮かんで涙が止まらなくなった。家についても、しばらく中に入れなかった。新生児用の抱っこ紐も、ベビーベッドも準備していた。上の子のおさがりも整理して、みんなで楽しみにしていた。名前もたくさん考えて、一番良い字画を選んでつけたのに。自分だけ家に帰ってきてしまったことが悔しくて悲しくて死にたいと思った。ごめんねといくら言っても言い足りなくて、自分に拳を叩きつけながら叫ぶように泣き続けた。
あれから2ヶ月が経った。納骨はせず、毎日お線香と小さな哺乳瓶でお水を供え、遺骨に話しかけて暮らしている。泣かずに過ごせる日が増えてきた一方で、妊婦さんや小さな赤ちゃんを見かけてはひどく落ち込む日もある。最初の数週間はとにかく出産前に戻りたい、戻りたいと思いながら過ごした。前日でも、当日の朝でも、何とか時間を巻き戻せたなら、先生に懇願してすぐにでも帝王切開をしてもらう。赤ちゃんはしばらくNICUで過ごすけど、上の子の時のように、きっと元気に退院できた。
1ヶ月くらい経つと、この悲しみが死ぬまでずっと続く気がして、妊娠前に戻りたいと思った。そもそも授からなくても、私達は十分幸せだったから。子どもは一人と納得していて、他人を妬ましく思う気持ちもなかった。大好きな夫と子どもがいて、決して不幸ではないはずなのに。失ったことが悲しくて、足りないものを嘆き続ける毎日ならば、授かる前に戻りたいと思った。
そして2ヶ月経った今、子宮破裂について考えることが増えた。子宮破裂は極めて予後が悪いもので、8割の赤ちゃんが亡くなり、例え救命できたとしても、寝たきりとなる可能性が高いそう。私は子どもに一生、経管栄養の寝たきりで意思の疎通が全くできなくても生きていてほしかったとは思わない。もちろん結果的にそうなったなら大事に世話して必死に生かそうとするに違いないけど、それが死よりベターだとも思わないから、唯一そういう意味では今回の結果に納得できる気もしている。
でもやっぱり、失った未来を想うと悲しくて、もう一度取り戻せないかと思ってしまう。もう一度妊娠できたなら、今度は無事に産むから。亡くなった子と新しく生まれる子を同一視してはいけないとか、そういう話はどうでもいい。ただただ、もう一度授かって、今度こそ元気な赤ちゃんを抱きたい。これはもう、女としての私のエゴだ。止血のために両側の卵管を結紮したから、自然妊娠はできない。また次の妊娠は医師から真剣に止められている。本来なら子宮摘出すべきところ、小腸と癒着して摘出できず、仕方なく残しているだけです。妊娠しても無事に産める確率は極めて低く、次もまた同じか、それ以上に悪いことが起こります。本当にお母さんと赤ちゃんの生命に関わります。そう言われても、じゃあもうきっぱり諦めて、次の子は二度と望みません、とは思えない。
赤ちゃんとたくさんお散歩がしたかった。上の子が絵本を読み聞かせる様子を動画に撮りたかった。寝顔を見て、上の子と同じ顔だねと夫と一緒に笑いたかった。泣き声に、イヤイヤ期にうんざりしても、熱が下がらなくて大変でも、くたくたになりながらもう一度家族で赤ちゃんを育てたかった。全部、あと少しだった。もう少しだったのに、全部失ってしまった。悔しくて悔しくて、このまま終わることができない。
何のために授かったのか。どうすれば失わずに済んだのか。
自分のエゴで家族に迷惑をかけてでも、もう一度リスクを承知で子どもを望むか。足るを知り、諦めて日常を受け入れるべきか。
どんなに答えが決まっていても。
迷うことをやめられません。
今日、弊社ボスから社員全員に、下に貼るチェーンLINEが転送されてきた。
ボスいわく「このLINEの内容には、医学的根拠があるの!陰謀論とかじゃないの!必ず読んで!」
読めと言われたから読んではみたものの、一体どういう知能だとこれを鵜呑みにできるんです?って本気で心配になるクオリティの文章で、内容の真偽以前にまず添削が必要っていうか、
ねえ……弊社のボスやばくない?
このまま着いて行って大丈夫かな?
転職考えた方が良い?
とにかく、そのチェーンLINE、ここまでアレだとむしろ面白いってレベルなので、みなさまにも是非ご覧になって頂きたい。
二通あります。
貴重な情報です‼️
周りにも教えて上げて下さい。
⬇️
今秋、始まる「レプリコンワクチン」についてです。
一回、身体に入ると、スパイクタンパクを永久に作り続け、止める作用は有りません。
スパイクタンパクは、『かなり毒性のある物質である事は、海外では常識』となっています。
このワクチンの恐ろしいところは、打った人の唾液、呼気、汗、体液から他人に電波し、スパイクタンパクを作り続ける可能性があると言う事です。
マウスの実験をやればすぐに分かる事なのに、日本政府はやりません。あくまでも“ 日本人で実験”するようです。異常事態です。
日本中にワクチンパンデミックが広がれば当然、日本人は他国から入国禁止にされますし、海外からも1人も来ません。鎖国状態になり日本は自然消滅します。
ただ、リスクがある以上、やるわけにはいかないのが常識というものです。
皆に知らされていません。
もしかすると、あるもの達の意図的な計画の可能性があります。人口削減計画を日本人でやるという事です。モルモット計画です。
周りの人に教えて下さい‼️
時間が有りません‼️👁️
今迄のワクチンも接種に賛成ではなかったですが
今回のレブリコンワクチン💉はどんな事が有っても決して打たないで下さいね。と。
このドクターは若い時に大学病院で治験の仕事をしていたから余計に色々分かるそうです。
欧米アジアオセアニア全て許可されてないにも関わらず日本だけが許可され政府が推奨してます。
このワクチンは体内で増殖し続けて止まらないばかりか、人に感染する猛毒成分です。
シェディングでワクチンを打ってない人にも呼吸や会話や汗や排泄で猛毒ワクチン成分を家族や近くに居る人等に感染させて影響を及ぼします。
実際に九州の大分で行われた新しいレプリコンワクチンの治験では5000人がワクチンを打った後
即死が数人、
1週間後死亡十数人
日本中がワクチンで侵されると外国からは日本には行かない。日本人は入国禁止にされ鎖国状態になります。
TV新聞などマスコミは政府に統制されワクチンの副作用の事は表には出せない。
政府は特に高齢者にはインフルエンザ、帯状疱疹にも効くと言って新しいワクチンを接種する様に促します。
このドクターは自分も 今迄ワクチンは1本も接種してないし勧めていないそうです。
ツイッターでもブログでも、ちょっと検索すれば不妊治療に対する愚痴が出てきて、病院に対して文句あるなら転院すればいいじゃん、と通う前までは思ってた。
でも実際に通ってみて分かった。不妊治療を専門に扱っている病院って、本当に本当に少ない。
街で見かける産婦人科でも不妊治療って扱ってるでしょ、って思うじゃないですか。私もそう思っていた。でも、ああいった病院で行っている治療や指導は、排卵誘発剤の処方とか、タイミングの指導とか、あと一押しすれば妊娠できる人向けの場合が多くて、不育症や男性不妊(泌尿器科)、体外受精までを専門に行う産婦人科はほとんどない。というか男性の泌尿器科を見られる&婦人系の疾患の両方を扱っているのが不妊治療のクリニックだから、産科とは別のことが多い印象だ(当然すべてがそうという話ではない)
私はたまたま数年前に結婚を機に地方の中核市に移り住んで、たまたま上記の街の産婦人科で不妊治療をはじめた時期に、不妊治療専門の病院が車で20分の範囲に運よく出来たんだけど、それまでは体外受精などの不妊治療を受けたい場合は、隣県まで新幹線で通うか、あるいは大学病院の週に一度の午後だけの枠に予約をどうにかねじこむしかなかったらしい。
運よく専門のクリニックが自力で通える範囲にできたものの、今度は予約も一苦労だ。隣県であるA県とB県には不妊に関する専門クリニックがあるが、隣県CとDには不妊に関する専門クリニックがない。
すると予想できることだが、予約枠の取り合いだ。そして完全予約制の病院だというのに、毎回毎回激コミなのだ。予約時間から1時間待ちならまだいい方で、3時間待ちも当然のようにある。
産科が一緒の病院ならわかる。急に患者さんが産気づいて……!とかあったらもちろんそっちを優先して欲しい。でも私が通っているここは不妊治療専門の病院なのだ。ディズニーランドより待たされるこの時間is何?予約の意味とは?
あと私が通っている病院だけの可能性もあるが、案内とスケジュールの要領が悪い。
例えば1回目の通院では現状の不妊と思われる理由の説明と、薬の処方。次回検査の予約日を決めるので、と案内される。
2回目の通院で「生理2日目から5日目以内にお越しくださいと言われませんでした?」と言われるが、そんな案内はされていない。この日も当然3時間待ち。そもそも次回の予約はネットでするよう案内されたのだが、ネットの予約は埋まりすぎていて生理のタイミングとあわないと言うと「改めて電話で予約ください」との回答。不妊治療は、生理前・後、排卵前・後、でそれぞれ検査やら治療やらが異なるため患者も医者もそれに振り回されまくる。
ああ、この3時間待ちは生理だったり排卵日だったりでネット予約に+αされるせいでみちみちに混みあっているのか……とひとまず納得(納得しても、毎回3時間待ちはキツい)
3回目の通院でようやく検査が受けられる……と思ったが、この日も「検査の予約日を決める」だけで、結局検査は受けられず。これ私がここに来る意味と3時間待つ意味ってあるか? 検査の日も予約がミチミチで「〇日の×時、あるいは△日の□時のどちらかでお願いします」。
疲れながら診察室で検査に関する説明を読むと「健康診断などでバリウムを飲んだ場合、検査は一か月後になります」の一文。
……ん?
「すみません、健康診断で数日前にバリウムを飲んだんですが……」
早く……早く言って……!!(この3時間待ち本当に意味なかったじゃん……)
私は医療については門外漢の、ただの腫瘍持ちの一患者なんだけど、不妊治療クリニック、本当に毎回こんな調子なので疲れます。忙しいんだろうけど。患者ひとりひとりにそんな気を回してなんかいられないんだろうけど。
終始こんな調子のに、医者からは「なんで結婚から〇年も経ったのに、子どもができないことを疑問に思わなかったのか?」
「あなたは〇〇歳で若くはない。いつ治療のステップアップを決めるか、時間は待ってくれないよ」
などと言われ、いや……いや……確かに私ものんびりしていたのかもしれないけど……でも腑に落ちなさ過ぎるが……!?
でも転院できる病院の選択肢が無い。結局新幹線で隣県に通うなら、3時間待つ方がまだお金も時間もかからない。
少子化の理由のひとつって、不妊治療専門クリニックの少なさじゃないかな~と思っている。いくら国が個人に対して補助金出すよ!と言っても、これじゃ通院の時点で挫折してしまう、特に夜勤があるシフト業務の方は更に通院の難易度は上がるだろう。
東京などの都会なら、クリニック自体の数はあるみたいだけど、今度は人口(治療を受けたい患者)と、病院のキャパの兼ね合い、それと通える範囲があるので、そこまでクリニックの選択肢が多い訳でもない、と聞きそれもそうだな~と。
話は反れるが、子持ちの方の「子どもを病院に連れていけないなんてひどい!二人目が欲しいのに!」に対して、子待ちの「不妊専門クリニックは基本一人目も授かれない人間が来る場所なんだよ!」といった反論を見かけるたび、まあどっちもどっちでは……と以前の私は思っていたが、今は平気で三時間待ちさせられる娯楽の無い施設に子どもを連れてくるのは子どもがかわいそうだろ……と思っている。その間、誰が子の面倒を見るんだ問題もあるが、託児所とか、あるいは子どもは保育園に通わせ、自分は仕事を休んで通うしかないのではなかろうか。
病院、赤ちゃんと出会えますように♪みたいなキラキラ感とか本当に皆無だよ。狭い待合室で数時間たくたになりながら待って、みんな受付番号を呼ばれるのを疲れた目で眺めてたり、会社に遅刻の電話をかけたりしている。
不妊治療という言葉の認知度の上昇や、個人への補助金、保険の適応など、世間は少しずつ良い方向に向かっているとは思う。だが、専門医が足りていないことはかなり強く感じる。仮に妊娠できたとしても、希望する無痛分娩を受けられる病院もほとんど無い。
地方の医師不足が問題視されているが、どうにか不妊治療および出産周りの医師や医院についての問題も今後改善されて欲しい。真面目に。
毎年被害者の命日に周辺情報について語っていた地元民ブログが報告
判決が2105年で5-9年の不定期刑だから、報告の真偽はともかく出る時期だろう
2013年8月25日に起きた事件で、当時18歳だった少年が通りすがりの面識のなかった15歳少女を強姦目的で襲い、首を絞めて猥褻行為に及ぶ中で殺害
4日後に発見された遺体は腐敗しており、下着以外が剥がされ、身につけていたシャツとスカートが捨てられていた
腐敗が進みすぎて遺族が遺体を見ても実感が持てなかったが、足の爪に塗られたペディキュアは死亡前に姉や母とお揃いで塗ったものだった
遺体が遺族に引き渡された同日、検死した大学病院は「屍の死体検案に関する文書作成費用として5000円」と請求用紙を渡した
遺体から検出されたDNAは、その数年前に近隣で起こった器物損壊事件の際に検出されたものと一致
少年は高校3年生で、現役高校生を逮捕するのは可哀想という警察の配慮によって卒業式を迎えた翌日に捕まった
それまで少年はごく普通に日常生活を送り家族や友人も事件との関与を疑っていなかった
Twitterでは少年は事件に触れて他人事として怖がっているかのような投稿をしていた
@FALOS7
手の震え止まらん。
化学物質過敏症なんて偽科学に頼らず、大学病院でアレルギーを専門にしている人に見てもらった方が良いと思います
血液検査とパッチテストで何に反応しているのか調べてもらいましょう
(おそらく1種類と言うことは多分ないと思いますよ)
もしも原因が増田の言う通りの物質で、しかも反応するのが世界で増田1人だけというならば
もう40年も前の話です。
わたしの家族がとある食品XX(名称は伏せます)を食べていて呼吸困難になり救急搬送されました
後日の診察で「XXを食べた」と症状を説明したのですが先生は半信半疑で鉛筆の先ほどの量のXXを食べさせたそうです。
その後私が見たのは点滴をつけられ看護師さんにベッドで運ばれていく家族の姿でした
私の家族はXXアレルギーの最初の症例になりました。「おかげで論文がかけました」と先生は言っていたそうです。
正確に言うとフランスの古い論文に症例報告があったそうです。実は2例目でした。が、先生の論文以降広く知られるようになったようです。
数年経つ頃には「今では世界に7人います」と言われました。XXアレルギーは昔はなかったわけではなくて、単に研究されていなかっただけなんですね。論文が出ると「発見されて患者が増える」のです。40年経った現在ではXXは特定28品目に記載されて普通に認知されています。おそらく患者も大勢いることでしょう。
もし増田が研究に協力して論文が出たとしても、増田自身は救われないかもしれません。アレルギーは治りませんから。
でもきっと「謎の病気に悩んでいる人たち」が救われます。少なくとも病名がつきますし、人数が増えれば特定品目のように記載義務や量の規制ができるかもしれません
例えばアレルギー検査やステロイド治療、アレルゲンの除去で生活が改善するのではないかと思います