はてなキーワード: 自虐的とは
社会学には2つの極端なアプローチがあります。一方は、統計的・因果推論的に厳密にデータと解釈を分離し、反証可能性を担保する科学的手法です。
もう一方は、自分のイデオロギー・ナラティブ(構造的抑圧、弱者発見、権力批判など)を支えるためにデータを「都合よく選ぶ」(cherry-picking)手法です。この記事では後者を「ストーリーテラー(Storyteller)」と分類します。
統計・大規模調査・因果推論手法(差の差法、操作変数法、傾向スコアマッチングなど)を用い、相関関係と因果関係を明確に区別。
データ事実(Results)と研究者の解釈(Discussion)を厳密に分け、矛盾するデータも提示し、反証可能性と頑健性(robustness)を担保する。社会科学として「科学」の基準を守る。
「社会科学」の看板を借りて、自分のイデオロギー・ナラティブ(物語)を広める人。データはあくまで「自分のストーリーを魅力的に補強する道具」に過ぎず、都合の良い部分だけ選び(チェリーピッキング)、相関を即因果にすり替え、解釈をデータに混ぜ込む。文学的・運動的アプローチが強く、X(旧Twitter)やメディアで声が大きい loud minority として目立つ。
自説に有利な数字・事例だけか、全データ範囲と感度分析を示すか。
相関を即「構造的抑圧が原因」と断定し、因果推論手法名を明記しない。
結果セクションですでに文学的なナラティブ(「これは権力の証左」)が入っていないか。
質的研究・批判理論(Foucault、Butler、上野系)が先行し、計量・因果推論論文の引用が少ない。
批判されると「文脈が違う」「差別者」とレッテル貼りするか、データで再検証を提案するか。
X・メディアで構造批判・弱者発見・PC擁護が熱く、エンゲージメントが高い。
論文・発言・X投稿をチェックすれば、9割以上見分けられます。
ストーリーテラーは、社会学を「科学」ではなく「物語を語る運動の場」に変える存在です。彼らはデータを使いつつも、最終的に一貫した
を構築・拡散します。これは、イデオロギーを補強するための選択的物語化です。データは「証拠」ではなく「感情を揺さぶる小道具」として機能し、矛盾データは無視するか、「より大きな構造のせい」として相対化されます。
• 1970-90年代の「質的転回」(qualitative turn)でインタビュー・参与観察・理論解釈が主流化した歴史的土壌がある。
• X・メディアでは「弱者発見」「構造批判」といった感情に訴えるストーリーがエンゲージメントを稼ぎやすい(loud minority効果)。
• 結果、学問の「科学性」が薄れ、活動家ごっこのイメージが強まる(古市批判の核心)。
「弱者が弱者のままで尊重される社会を」「頑張っても報われない人がいる」 → 努力や個人の責任を「環境・構造のせい」に還元し、永遠の被害者像を描く。
例:東大入学式祝辞のような「恵まれた環境のおかげ」強調。データ(合格率差)を使っても、逆差別や努力差はスルー。
「家父長制・資本制・権力構造がすべてを決めている」 → 格差・ジェンダー・移民問題を「システムのせい」に帰結。解決策より批判が優先。
例:家事=「不払い労働」、教育格差を即「構造的抑圧」と断定。
「日本人は多文化に耐えられない」「加害者性・反省不足が原罪」 → 戦後教育の延長で、日本人全体を「構造的加害者」に位置づけ。
例:日本社会の「単一民族神話」批判や、歴史問題での自虐的ナラティブ。
「異性愛規範・性二元制がマイノリティを抑圧」「性自認尊重が正義」 → ポリティカルコレクトネスを「進歩の物語」として語り、反対意見を「差別」と一蹴。 例:女子枠反対を「弱者男性のワガママ・ミソジニー」とレッテル貼り。
「政府・権力の干渉が学問の自由を脅かす」「新政権のツッコミどころ」 → 学術会議問題などで「権力 vs 専門家」の二元論を展開。
「相手は差別者・歴史修正主義者・ミソジニー」 → 都合の悪い女性政治家を「中は男」と属性攻撃するなど、二重基準を隠した攻撃的ナラティブ。 ラベリング理論を武器化。
結果、社会学は「文学の亜流」や「運動の道具」と見なされやすくなります。
代表的発言:「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」(2019年東大入学式祝辞)
代表的発言:「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」(2026年頃、女子枠反対論に対するnote引用・投稿)
代表的発言:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」(2024年、立憲民主党集会での高市早苗氏批判)
代表的傾向:「病ませる社会」が弱い人を症状化させる(近年、人生相談・社会病理関連発言)
代表的発言:「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」(2020年、学術会議任命拒否問題時) → 権威主義・体制批判。
ネット右翼を「1%未満の愉快犯」と矮小化するなど、日本社会の構造・歴史ナラティブ批判。
「学術会議法人化法案が可決されてしまいました。日本は、アカデミーの自律性を弱めることに加担した国の列に加わりました。」(2025年、X投稿) → 学問の自由危機ナラティブ。
大規模調査データで家族・格差を統計分析。因果推論を意識した学術告知中心。
X・メディア・学術会議・ジェンダー/PC分野で目立つのは圧倒的にストーリーテラー。彼らのナラティブは感情に訴えやすく拡散されやすい一方、実証派は論文・データで静かに勝負するため声が小さい。結果、社会学は「科学」より「物語を広める運動」が強まりやすい構造になっています。社会科学を本当に科学に戻すには、実証派がもっと積極的に声を出していくことが重要です。
偶然の確率というか不意に意図しない漢字変換が出てきたらクスッと笑うなんか自由旋律の俳句みたいなそんな感じの変換結果が繰り出されたら楽しいなって思っていた時期もあったんだけど、
変換を正しくするということにメインを置きすぎると真面目すぎる日本語変換システムになってしまって、
当たり前なものが当たり前に使えるようにならない?
この日本語変換使えないわよね!って
楽しんでいた頃が懐かしい、
まあ分かるよ一杯飲みな!って
おでんの屋台の大将はその日本語変換プログラムの訪れてきた客に、
一升瓶の冷酒を透明なといっても長年の年季が入っている、
そして、
大将は照れ隠しで「ちょっとその大根、底に沈んだ煮込みすぎたやつなんだよ」っていって大根をくれるの。
そんな大根はまだジューシーでとてもじゃ無いけど煮込みすぎとは言い難いだけどしっかりと味は染みている美味しい大根なの。
そうやっておでんの屋台にやって来た日本語変換プログラムの客は大将ごっそさんな!っていってちょうど2000円を千円札2枚で支払うの。
「お代は要らないよありがとな!」って
大将曰くお代はちょうど2000円だけどな!って言い返すのもなんだか野暮ってものだと思ったのか、
またきてねと言わんばかりの視線を日本語変換プログラムの去って行く背中に送るの。
そんな、
しらみつぶしに逐一誤変換の鬼のような修正がやって来ては正しくネクタイを締め直しました!って。
それじゃー日本語変換プログラムさんも首が苦しいってもんよね。
多少の遊び心がある、
効いたよね早めのパブロン!みたいな級のクスッと笑えるそして気の効いた感じの誤変換があってもいいと思うのよね。
男のロマンレシィピシリーズ掲載でお馴染みのdancyuも味わい深い誤変換だってことで、
とはいえ、
ふとマジでちょっとなんならタイピングミスもかましながらも変換する味わい深い誤変換が思わず笑っちゃうのよね。
だってさ、
タイピングの誤入力でも正しく直しますがこうですか?って提案してくれるモード発動するじゃない。
人間はもはやなにをもって誤変換を楽しめばいいのかしらって特集組んでもらってもいい時代はもうとうの昔のことのようよ。
軒並み川柳コンテストがAIが面白すぎ川柳を繰り出しすぎるから判定が人間かAIか分からなくなってきたから、
審査委員の一人でもある針すなお先生もヘッドホンを正しい形で装着しているんじゃなくて、
ヘッドホンのユーの字の底を頭の上に乗るように装着するんじゃなくって、
ヘッドホンのユーの字のそこの部分が顎の下に来るような、
もの凄く審査してますよ!ってヘッドホンの装着の仕方じゃない?
今流行の例えで言うところのケミストリーの川畑さんがお医者さんの診察するときの聴診器を耳に当てるように、
サングラスのツルを耳に引っかけてぶら下げるスタイルと同じなのよね。
いままでずーっとその体裁のそれが「堂珍スタイル」かと思ったらじゃない方の「川畑スタイル」だってことに今知ったの。
今度から街中でそういうサングラスのグラサンを聴診器のように逆に装着している感じのを堂珍スタイル!って心の中で間違わないように「川畑スタイル」だ!って即答できるようにしておきたいところよ。
でも街中でそんな堂珍スタイル、
わ!早速間違っちゃった。
川畑スタイルでサングラスのグラサンを聴診器のようにやってる人を見たことないのと同時に
なんか川畑さん自体もあんまり今はやってなさそうな気がするのよね。
帽子のキャップのツバを真っ直ぐにしないでちょっと横にずらして被るスタイルはあれはソールドアウト方式といっても過言ではないそれなんてウェカピポ?って振り向いて思わず言っちゃいそうだし、
赤いダウンジャケット着てたら正にウェカピポだわ。
そうやって、
なんか帽子のキャップのツバを正面じゃなくってちょっと横にずらしながら赤いダウンジャケットを着こなしていたら間違いなくソールドアウトさんたちを意識し過ぎていると思うのよね。
どちらにしても
この昨今の日本語変換プログラムの誤変換が許されないってのちょっと可哀想すぎるわって、
気の毒に思うのよね。
ときに
AIは間違いを犯すことがあります!って枕詞のようにそれ前提でAIを使ってねってのに倣って、
日本語変換プログラムもたまに間違いを犯すことがあります!っていったらそれはそれで可愛げがあるってものじゃない?
ファミリーレストランの配膳ロボットが多少失敗して豚汁のお椀をひっくり返してカーリングのストーンみたいに
お店の端から端まで美事にシャーっと滑らせるぐらいな勢いで豚汁のお椀をぶちまけたとしても、
まあ猫ちゃんだからいっかー!ってもれなく誰でも100パーセント許してくれるそんな優しい世界のように、
もっと日本語変換プログラムにも寛容さを求めても良いと思うわ。
きっと今開催されている日本語変換プログラムの誤変換大会の作品を募集して審査している人たちは、
すっかり最近少なくなってきた作品の応募に困っているはずだと思うのよね。
そんで、
「誤変換も少なくなってきましたし、そろそろ日本語誤変換大会も幕をおろしますか」って、
「ですなぁ」って委員長ちょっと寂しく思っていってるかも知れないわ。
そう今回が最後の誤変換大会が最後になるっていうところいい時期かも知れませんね、なんて言いながら。
全ての大会を終えた副委員長と委員長はおでんの屋台で一杯やっていきましょうか!って言うの。
これまでの大会の苦労とかの何年分のを労うかのように。
その先に来ていた二人連れの客が日本語誤変換大会の審査員長と副委員長だと知らずに。
そして何故か3人は話が盛り上がって意気投合しちゃって。
おでんの屋台の大将はそろそろお店終わりだよ閉店ガラガラガラってシャッターを閉める仕草をしようとするけれど屋台だからシャッター無いけどね!って半ば自虐的にそういったギャグを噛ますのと同時に、
今日は私はとても気分が良いですから私が皆さんの分を支払いますよ!って
お代に10000円を大将に差し出すと「おつりはいりませんよ」って。
大将は3人でおでんと冷酒とでちょうどお代が10000円だったのでおつりは出ないんだけど、
ありがとうございます!っておつりもいただいちゃって儲けたような体裁の顔をしつつ、
大将は思うの、
あとであの人が気が変わってやっぱり割り勘にしましょうって言ったとき10000円じゃ割り切れないから、
2でも3でも4でも5でも6でも綺麗に割り切れる12000円って言っておけば良かったかなって後悔するの。
そんな割り切れない思いをよそに、
今日が大将の長年やってきたおでんの屋台の最後の営業だったってことは
あの三人は知る由もないと思うわ。
うふふ。
やったー!今日も納豆巻きゲットで美味しくいただいた納豆のしっとりした糸引く美味しさ!
いや後引く美味しさ!って感じで
しっかり食べてしっかりお仕事よ!
心なしか毎朝私が納豆巻きを買っているからお店のPOSシステムが狂っているのか?
私は嬉しいけれど、
思わず2本買いたい気分になったけど、
納豆巻きは1日1本と決めているというか相場が決まっているので、
ちょっと名残惜しいけれど残った納豆巻きを見送って1本買っていつものように美味しくいただいたわ。
水出しルイボスティー!
いよいよ水出しルイボスティー稼働ですっきり美味しいレシィピ通りの作り方で
濃くもなく薄くもなくちょうどいい美味しい水出しルイボスティーができたわ!
ゴクゴク飲んで水分補給よ!
美味しいわー!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
Grokさんにきいてみた。
いいえ、腐女子(主にBL作品や男性同士の恋愛を好む女性オタク)が自らを「寛容」と積極的に自評するような一般的な傾向は見られません。むしろ、以下の点が実情として目立ちます:自虐的なアイデンティティが強い
「腐女子」という呼称自体が「腐った女子」という自虐的な意味合いから来ており、コミュニティ内では「自分の妄想が腐ってる」「変態的な趣味」と謙遜・自嘲する文化が根強いです。自分たちを「寛容で広い心の持ち主」と美化するより、むしろ「腐ってるけど楽しい」とネガティブ寄りに受け止める人が多い傾向があります。
外部(特に非腐や他のオタク層)からは「自分たちのBL(同性愛的ファンタジー)には寛容なのに、異性愛(NL)や他者の創作・嗜好には厳しい/不寛容」という指摘がよくあります。
たとえば、逆カプ(カップリングの攻め受け逆転)や女キャラが絡む展開、乙女ゲームへのBL混入など、自分たちの好みに合わないものに対しては敏感に反応し、拒否反応を示す例がコミュニティ内で頻出します。これに対し、「寛容アピールしてるけど実際は独善的」「自分に都合のいいときだけ寛容を主張する」という冷ややかな声も少なくありません。
一部で「LGBTに寛容」と見なされる側面はあるが…
BL好きを通じて同性愛的なテーマに親しみ、現実の性的マイノリティ(特にゲイなど)への理解が比較的高いという研究や意見は存在します。ただし、これは「自分たちの趣味の延長」として自然に生まれるもので、「自分は寛容な人間だ」と積極的に自慢するようなものではありません。また、異性愛やマジョリティの恋愛観に対しては相対的に厳しいという指摘も並行してあります。
klis.tsukuba.ac.jp
実際のコミュニティの声
腐女子本人が「自分たちは寛容」とアピールする例はほとんど確認できず、むしろ「寛容を装う腐女子が他者の領域に首を突っ込む」「食いしん坊(何でも許容してるわけじゃない、ただ自分が楽しみたいだけ)」といった内省的・自嘲的な発言の方が目立ちます。細かいタグ管理や地雷設定(許せない要素の厳格化)からも、全体として「超寛容」というイメージとは逆の、繊細で選別的な側面が強いと言えます。
要するに、腐女子が自ら「私は/私たちは寛容だ」と胸を張って評する文化やステレオタイプは存在しないと言ってよいでしょう。
それはむしろ、外部から向けられる「自分勝手な寛容アピール」という批判の対象になることが多く、本人たちは自虐や内輪のルール厳守でアイデンティティを保っている印象が強いです。これはあくまでネット上の議論やコミュニティ観察に基づく一般論で、個人差はもちろん大きいです。腐女子の中にも本当に多様な嗜好を受け入れる人もいれば、特定の枠に厳しい人もいます。
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へんな先入観でもなければこうなるのは、逆カプで戦争したり、同担不許可とかいう界隈では当たり前でしょう。
つまり、「腐女子は寛容とかいうくせに」なんて言は、セレクティブエネミーで、誤ったレッテル張りであり、知的に不誠実な言説であるといえる。
VRChatというゲームがある。
ヘッドギアのようなものを付けて、バーチャルワールドでおしゃべりができるゲームだ。
ここにはお砂糖文化というのがある。これは、端的に言えばVRChat内で恋愛する文化である。
ではこのお砂糖というのは男性と女性のものだけかと言われるとそうではない。
実は、弱者男性たちはVRChatの「女体アバター」に興奮し、男性同士で疑似的な恋愛を行うケースが多いのである。
まぁ、多様性の時代だ。そこまではいい。恋愛にもいろいろな形式があり得るだろう。
しかし、こいつらの問題点は、自分たちを「ゲイ」だとか「ホモ」だとか自虐的に称する点である。
いや、ただの女体好きだろ。
そもそも、お砂糖とか言って実際に会うこともしない人々も多い。
仮に会っても、現実世界のリアルアバターが想像と違った、みたいな理由でお塩(破局のこと)する連中も多い。
本当にゲイで、本当に相手のことを精神的に愛してたなら、リアルホモ・セックスに発展するのは当然だ。
チー牛同士でホモ・セックスをするのであれば「ゲイ」であると誇りをもって言えばいい。
それができないなら、ゲイですらないのだ。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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1週間分の総括
この週のチャットは、日常雑談を中心に「健康・社会・趣味」がバランスよく混ざる典型的なコミュニティ会話だった。
健康面では咳やインフルエンザ、家族の入院などリアルな体調の話題が多く、互いにアドバイスや体験を共有する流れが目立った。
一方で、ゲーム・アニメ・麻雀といったサブカル話題や、ビリヤニなど食べ物の話がコミュニティの潤滑剤となっており、軽い雑談とやや重い社会議論が同居する空気が形成されている。
また、経済・税制・宗教問題・企業動向などの話題も散発的に登場し、参加者の関心が生活実感から社会構造まで広く及んでいることが特徴的だった。全体としては、日常の小ネタをベースに、健康・社会・趣味を行き来するゆるい知的雑談の1週間であった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
「東朝鮮」(ひがしちょうせん)という言葉は、正式な国名や地域名としては存在しません。主にネットスラングや皮肉・揶揄として使われる表現で、いくつかの文脈があります。
2ちゃんねるやSNSなどで、日本(特に在日韓国・朝鮮人の影響が強いとされる地域や全体)を「朝鮮の東側」みたいに貶める・自虐的に呼ぶ隠語。
みたいなペアで使われることが多いです。
例: 「もうここ東朝鮮やん」「東朝鮮も西朝鮮化してる」など。
地理的な意味(少数) 朝鮮半島の東側一帯を指す(東海岸側)。
「東朝鮮湾」(동조선만 / East Korea Bay / 東朝鮮湾):北朝鮮北東部の日本海に面した湾の正式名称(元山(ウォンサン)周辺)。
昔の日本統治時代には「東朝鮮」という呼び方で元山(現在の咸鏡南道キムチェク市・元山市あたり)を指す案内書も存在しました(例: 『東朝鮮 一名元山案内』1910年刊)。
「世界では日本を東朝鮮と呼んでいる」みたいなネタ投稿(Yahoo!知恵袋とかでたまに見るやつ)は完全に皮肉・荒らし系のデマです。国際的にそんな呼び方は一切ありません。
要するに、今ネットで「東朝鮮」と言ったらほぼ100%「日本をディスるスラング」として解釈されます。
本気で国や地域の名前として使ってる人はほぼいないですね。何か特定の文脈(在日ネタ? 中国の西朝鮮との対比? それとも湾のこと?)で聞いてるなら、もう少し詳しく教えてください〜。
「あー、そういうことあったんだー」、「うん、うんうん」と言いながら、最初はちっとも拾わない
で、何が一番効いてるポイントかを探る。当然に真剣な顔してね。
しかも、そのときは、はっきり言うと気分落ちてる人の気分は落としたまま(ぐちなんだから、自虐もあり。自虐的な発言もふーん、なるほど、へー、でいく。逆に自虐がなくても、ちょい世間の冷たい風ならこんなのもあるかー、とかさ、相手のいうことの辛いところを再度確認してみたり、直接ケナシはしないけど、フォローする気はあんのかよ、ケナす気があったりするんかもな、という雰囲気で冷静な観察、場合によっては追い討ちもありかと覚悟ぐらいのえぐるような指摘まである)
で、自分の中で最大限褒めあげできる場所、価値転換できる場所を探し続ける
で、そういうところが見つかったら
「でもね、私そういうのわかる気がする。
「実はこうでしょ?」の最大限褒めあげ
そういうところがすごいね、
お二人は1980年代半ばにデビューした、いわゆる「バラドル(バラエティ・アイドル)」の先駆者です。
井森美幸: 1984年 ホリプロタレントスカウトキャラバン・グランプリ
アイドルとしてデビューしながらも、飾らないトークと高いバラエティ対応力で生き残ったという「勝ち上がり方」の文脈が全く同じなのです。
お二人とも、デビュー当時から現在に至るまで、ルックスもスタイルもテンションもほとんど変わっていません。
美貌の維持: どちらも「奇跡の○歳」と言われるほど若々しい。
独身ネタ: 自虐的な独身ネタを明るく笑いに変えるスタンスが共通している。
名前: 「いもり」「もりぐち」と、どちらも「もり」が含まれており、苗字の響きが似ている。
ビジュアル: どちらもロングヘア(あるいはセミロング)で、清潔感のあるお姉さん風のルックス。パッと見のシルエットが非常に近いです。
実はこれが一番大きな理由かもしれません。テレビ番組でお互いが「また間違えられた」とエピソードを披露したり、共演した際に双子のような掛け合いを見せたりするため、「井森美幸と森口博子はセットである」というイメージが視聴者に定着しています。
| 項目 | 井森美幸 | 森口博子 |
|---|---|---|
| 伝説のネタ | 語り継がれる「伝説のダンス」 | ガンダム主題歌(水の星へ愛をこめて) |
| 主なフィールド | バラエティのMC・パネラー | 歌手・アニソン女王 |
| 芸風 | 圧倒的な「親しみやすさ」と隙 | 圧倒的な「歌唱力」とトーク技術 |
安住淳さんのその発言、字面だけ見ると「えっ、赤ちゃんに政治を?」と驚いてしまいますよね。
結論から申し上げますと、これは安住さんが自党(当時の民主党、現在の立憲民主党など)の状況を自虐的に、あるいは危機感を持って表現した比喩(メタファー)です。
実際に赤ちゃんを議席に座らせるという意味ではなく、当時の文脈では主に以下のような意図で使われました。
このフレーズは、主に2012年の野田政権下や、その後の党の立て直し期間中によく引用されたものです。安住さんが伝えたかったポイントは大きく分けて2つあります。
政権交代を果たしたものの、当時の民主党は「統治の経験」が圧倒的に不足していました。自民党という熟練した(首のすわった)大人に対し、自分たちはまだ政治の動かし方がおぼつかない「首のすわっていない赤子のような集団である」という、猛烈な自己批判を込めた表現です。
「今はまだ未熟だが、国民の皆さんに育てていただきたい」「ここから成長していく政党である」という、一種のお願い・泣き落としに近いニュアンスが含まれていました。
安住さんはもともとNHKの記者出身で、言葉のチョイスが非常にストレートで、時に毒舌やユーモアを交えるタイプです。
「我々はまだ首もすわっていない赤ちゃんだ。だからこそ、これからしっかり骨格を作っていかなければならない」
という趣旨の話をすることで、当時の政権運営の混乱に対する「言い訳」と「決意表明」を同時に行おうとしたわけです。
ただ、有権者からすれば「そんな未熟な状態なら、最初から政権を担うな」という厳しい批判を招く結果にもなりました。良くも悪くも、安住さんの「正直すぎる(あるいは戦略的な)自虐」が凝縮されたフレーズと言えます。
今回の衆院選、地元の選挙区にオレンジ色がシンボルカラーの政党から、20代の若い新人候補が出馬している。
どうも行動範囲がかぶってしまったのか、選挙告示してから今日までに、なんどか街頭演説しているところに出くわした。
で、毎回、“日本人は戦後、GHQによっめ自虐的な歴史観を“とか、“ウォーギルドインフォメーションが“とか、“2600年以上の歴史をもつ私たちの国を”とか、そんな話ばかりしている。
あ、最後に出くわした時には“日本の経済が失われた30年に突入したのは、消費税が導入してからなんです!私たちは将来的には消費税は廃止して…“と、雑い経済認識を披露していたな。
ま、消費税が導入されたのが平成元年で、その後にバブルは崩壊したから、時系列は間違っていないが。
まあ最長でも2~3分しか聞いてないので、もっとずっと聞いていればもう少し具体的な経済政策やら外交やらなんやらの話もしたのかもしれない。
が、しかし、複数回遭遇してもほぼ同じ話をしているので、そのへんが一番訴えたいところなのだろう。
まだ選挙公報も届いておらず、ざっと検索してもxやインスタのアカウントはあるものの詳細なホームページとかはなく、マスコミがまとめた候補者紹介はものすごく簡略化された情報しかなく、某有名国立大の理系の院卒でバイオ企業に務めていたのは分かるのだか、それ以上はイマイチどういう人なんかわからん
…と思ったら、どうやらご本人のものらしいWantedlyというSNSのアカウントと記事が2本だけアップされたnoteがあった。
noteには某国にいったらみんな愛国心があって、“自虐史観”の教育を受けてきた自分には色んな発見があった、みたいな話と、サラリーマンにプログラミングは役に立つか、なんて話がかかれていたが、この人がその後国政選挙に出馬するという雰囲気は全く感じられなかった。
ただ、wantedlyからもnoteからも、なにか成し遂げたい!という野望は感じた。
wantedlyの経歴見ると高校は現在立候補している地域とは違う地域の公立高校なので、落下傘候補なのであろう。
xによると、解散が決まったあとに、この選挙区で党の“国政改革委員“なるものに就任したらしい。
よく知らないが他の党でいうところの“支部長“的なことだろうか?
ここの選挙区、超ベテランの自民党を筆頭に、維新の比例復活現職に加え、国民民主、中道も候補者がおり、急遽落下傘で降りてきた若者にはなかなか厳しかろう。
まあとにかく彼が活動し、比例票の底上げをしてくれれば、党本部としては充分なのであって、当選などハナから期待してないのだろうな、とは推測するが。
あのオレンジの政党の“地方組織を拡大する力“は相当なもので、何かを成し遂げたいとか、現状を変えたいとか、そんな若者も結構惹きつけられていると聞く。
その裏にはマルチで鍛えた人身掌握術が…という噂の真偽は知らないが。
彼、どうなるんだろうな?
映画評論家の町山智浩さんが、SNSのアイコンや動画配信などで「パンダ」の姿(アバターやイラスト)を使っている理由には、いくつかの背景があります。
町山さんは長年、雑誌やラジオ、テレビなどで活動されていますが、ネット上ではあえて「パンダ」というキャラクターを介することで、プライベートな素顔と公的な活動の間に一線を引く意図があるようです。
町山さんはかつて、自身のことを「客寄せパンダ」になぞらえて表現したことがあります。
映画業界やメディアにおいて、自分が注目を集めることで、あまり知られていない映画や社会問題に光を当てる「役割」を担っているという自虐的かつ客観的な視点が含まれています。
パンダという愛らしいキャラクターを使うことで、時に鋭い社会批判や政治的な発言をしても、トーンが強くなりすぎないように中和する効果があります。また、視聴者にとっても「パンダの町山さん」として覚えやすく、ブランド化に成功している側面もあります。
現在は、YouTubeチャンネルや「映画秘宝」関連のイベント、ポッドキャスト等でもこのパンダのビジュアルが定着しており、町山さんを象徴する「ネット上の正装」のようなものになっています。
好きなグループYouTuberがラジオを始めたので聞いてみたが、全然面白くない。
ポッドキャスト?という場所でも配信されてるらしく、プロの構成作家が付いているらしいが、ほんとに面白くない。聞けたものじゃない。冒頭でリタイアしてしまった。
ところで、「全く身にならないラジオ」、通称「全身ラジオ」を知っているだろうか。
人気ゲーム実況者のキヨとレトルトが、今から10年以上前にニコニコ動画でやっていた、ラジオ風の動画シリーズである。
*以下、私は十何話までしか視聴していないので、話半分に聞いてほしい
タイトルの通り、全く身にはならないような、他愛のない話を二人が繰り広げるだけの動画。
これがなぜか、かなり楽しく"聞ける"のだ。
本人たちはよく自虐的に「ただ喋っているだけ」という風に言うけれど、実は意外とラジオとしての構成が洗練されている。
毎度お決まりの文句から入り、オープニングにちょっとしたトーク。その後、用意してきた話題に移ることもあれば、何かしらコーナーをやる場合もある。動画時間が35〜40分になったところで終了。
進行がダレることがない。
また、話題がスムーズに出てくると言う観点だと、どうやらラジオの前に、3時間くらいラジオで何を話すか喋ってるらしい。
「さっさと撮ればいいのにうだうだ喋ってしまって時間の無駄」、みたいなニュアンスでの発言だが、意外とそういうのが大事なのでは、とか思う。
また、回を跨ぐ連続性もある。「第何回までに○○をできるようになる」だとか、「次回までにこういうコーナーを用意する」とか、そういった長期的な話も度々するし、結構実現するから面白い。ラジオとして段々形になっていくのを追うことができる。
なにより、二人とも「笑いを取ろう」とするタイプなのが良い。
どんな話をしても、ボケるし突っ込むし、何かしらオチをつけようとする。
一つ一つの話を面白くしようという、この意識の違いが大きいと思う。話してる内容がしょうもなくても、これがあるだけで結構聞けるラジオになる。
そして、この二人について重要なのが、上に述べた様々を"努力"と捉えていない点にあると思う。
視聴者からのお便りでラジオで気をつけていることを聞かれた時には、「特にない」と、きっと本心なんだろうなという風に答えていた。
彼らは本当に、ラジオを面白くするために努力しているつもりなど特になく、ただ「視聴者を楽しませたい」という最も大事な意識を、言及するまでもない当たり前のこととして持っている。
こういう人たちだから、動画投稿者として伸びたんだろうな、と思った。
伸びるべくして伸びた二人だ。
黒人差別問題に切り込む傑作ポリティカルコレクトネスデスゲーム映画だと思うんだけど。82点。
解放記念日に大学時代の同級生の黒人集団が山中のキャビンに集まると突然デスゲームが始まって~という1000回見たお話。
ホラー映画で黒人が登場してもすぐ死にがち問題を取り扱っており、タイトルバックの最初のゲームの質問は「黒人が最後まで生き残るホラー映画を答えろ」で正解できずに悲劇が始まってしまうところからもそれはあきらか。
デスゲームものだから当然、仕掛け人 a.k.a 犯人がいるんだけどこいつかなぁという人物が犯人です。しかし犯人当てに製作者は重きを置いていないのはすぐにわかる。作中でなぜかめちゃくちゃ「androidスマホを使っていること」を強調する人物が登場しそいつが「androidの充電器ない?」とペンションで聞くと「androidなんか使っている人いるわけない」というめちゃくちゃなこと言い出す展開があるんだけど、これって「appleの広告戦略でiPhone使っているのは善人にしなければならないらしい」という昨今めちゃくちゃ流行ってる映画業界あるあるをぶち込んだギャグなんだよね。なのでもう最初からそいつが犯人ですよと作品は示してくれてる。
こんな感じで自虐的でもあり、社会風刺的でもあるある意味ではめちゃくちゃ真面目な映画なんだけどそれを全編コメディとして描かれているのがすごい。ある意味で言えば黒人のスタンダップコメディを映画化したみたいな作品。身内ごとだからってめちゃくちゃやりすぎだろとめちゃくちゃバツの悪い思いをしながら爆笑してしまった。
例えばペンションにつくとキングがアリソンに対して「おい、お前の肖像が飾ってあるぞ」と話を振る、視線の先にはシマウマの写真が。アリソンは黒人と白人のハーフって設定なのね。笑えんって!しかしアリソンはキングに対して「貴方の彼女のじゃない?」と回答する、キングは白人女性と付き合ってるのね。笑えんって!
その後もラッパーチップスを買い集めるデブでフラッパーの女性とか、めちゃくちゃ甘いジュースを作った人に対して「糖尿病は黒人の病気だからって~」って言うとか、すぐにヤクをやりだすとか、クローバーを切るよな黒人ならとか、とにかく彼らは常に「そりゃ黒人的だ」「黒人的じゃないね」と延々と黒人ジョークを言い合っていて、このへんテンポもいいし会話の内容も興味深くて楽しい。
そしてデスゲームが始まると黒人蘊蓄が延々と繰り返される。フレンズに登場した黒人俳優とかNASの楽曲についてとか黒人国歌の2番を歌えとか。黒人国歌の2番のネタなんだけどシンプル黒人はみんな「適当に歌ってた」「知らないよそんなの」と答えるのに対して白人とのハーフのアリソンだけがちゃんと歌えるところも皮肉が効いてる。
そして最終問題として「もっとも黒い者を差し出せ」という生贄問題となり、これまで黒人ジョークで自分の黒さを競っていた彼らはいかに自分が「黒人らしくないか」を競い始める。アフリカ人だからお前だろ、いや俺はゲイだから黒人らしくない(めちゃくちゃ言いよる)、私は親が白人だから違う、白人女性と付き合ってる云々。マッチョイズムにも通底するコミュニティ内でのマウンティングの醜さをコミカルに炙り出してて笑えるけど笑えない。
そして最終的に選ばれた人の理由が「トランプに投票した」こと。この瞬間、空気は凍り付き「お前は黒人じゃない」と総スカン。彼は生贄に捧げられてしまう。しかしこの問題は「もっとも黒いものを差し出せ」。ここで彼を差し出さなければ別の展開もあったのかなぁと思ってしまう。はい、差し出された彼が犯人です。
まぁその後いろいろあって最終的に犯人を井戸に突き落としておしまい。
大学時代にスペードという黒人コミュニティの必須トランプゲームでミスを連発して「スペードもできないなんて、お前黒人じゃねぇよ」とゴリゴリに差別されてやけ酒飲んだ帰りに人をひき殺してしまったことから人生の歯車が狂ってしまった犯人が「ほなお前らはどんだけ黒人なんですかね」とデスゲームを仕掛けたのだった。
そして最後に「警察呼ぶ?」「呼ばないだろ撃たれるだけだ」と笑いながら話すのもめちゃくちゃ面白いけど笑えないし、じゃあ消防車だとなって最終的に消防車が来たと思ったら全員が"放水"で画面外に吹き飛ばされて終わるのもブラックコメディとして完璧。
実際にデスゲームで殺戮がおきたりスティングする部分は端折ったけど普通に水準程度にはできてたし退屈することはない。なによりやっぱ、本当の意味で黒人の黒人による黒人のためのポリコレ映画って感じでめっちゃよかった。特にポリコレを居丈高に「お前ら」ごとにするんじゃなくて自虐的に「俺たち」ごとにしている姿勢に好感が持てた。
これは黒人コミュニティ内での黒人らしさマウント合戦を自虐的目線でコミカルに描いたものだけど、これは男性社会のマッチョイズムマウントの話にも変換できるし、日本人社会の残業時間社畜マウントの話にも変換できるめちゃくちゃ普遍的なテーマだなって色々考えさせられてすごいよかった。
ハードSFとしての正統性を保ちながら、宇宙探査という壮大なテーマを描き切った力作だ。
「フェルミのパラドックス」を題材にした異文明との交流、メガストラクチャーなどの概念、主人公たちの旅を通じて、人類の未来像を投げかける。
理系の読者はもちろん、哲学的思考を求める人にもおすすめできる傑作。
習慣がいかに脳の構造を変えるのか、神経科学的アプローチで解説した一冊。
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『一番大切なのに誰も教えてくれない メンタルマネジメント大全』ジュリー・スミス
自己啓発系の中でも「実践的で医学的根拠がある」と高く評価された一冊。