はてなキーワード: 縁起とは
誕生日が近い。また1年生き延びたんだなあと、少し息をつくような感じがある。
数年前から「誕生日」はなんとなく、お祝いの雰囲気が自分の中で無くなってしまった。なんなら忘れられててもいいやとすら思うのだが、どうしたって覚えてる人はいるので、なんだかんだ必ず友人とかからは「そろそろだよね、おめでとう」と祝ってもらえる。ちなみに「お祝いの雰囲気がない」理由は結局うちの親である。
先日、親から「誕生日を祝いたいから週末に帰ってこい」と言われた。でも誕生日を親と過ごすなんて嫌な記憶しかない。真っ平なので「金曜日も翌月曜日にも仕事で遠くに行かなきゃいけないから、土日は移動しないで家にいる」と適当な理由をつけて断った。(金曜の用事も月曜の用事も本当はない。普通に彼氏と静かに過ごすだけだ。)
だが断るだけだと流石になと思い「前週なら帰れると思うから、それでいいか」と聞いた。
前週なんてまだ誕生日きてないじゃないかとか、前祝いは縁起が悪い気がするとか色々言っていたが、それでも「指定されている週の週末は都合が悪いから」となんとかねじ込んだ。
そしてまさにその週末。ちょうど出先から実家へ向かおうというところに親から入電。「元気なわけ?」というので、「元気だよ。今からそっちへ行くから、スーパーで買うものがあったら教えてね」と答えた。すると電話の向こうは「え?何言っているの?」と困惑している。「今日行くって約束したでしょ」というと、「忘れてた」と。
よくよく聞いたら、どうやら母の強い政治思想の方面でショックな事があってそれに気を取られていたら忘れたのだという。今に始まった事ではないが娘の存在が政治思想に敗北していた。
結局リスケし、その日は撤退。「ちゃんとお祝いしないとでしょ」と母は念を押す。でもこっちからしたら「娘の誕生日を『祝い事』だと思ってるんだ!?」である。
実家にいた頃は娘の誕生日にここぞとばかりに正座させ「今日彼氏と別れろ」「今、LINEブロックしろ」と詰めたような人が。...それも人生に一度しかない、二十歳の誕生日にそれをした、張本人が。
多分だが、あの極端なまでの右翼思想に駆られている母親は「家族のつながりを今こそ強固に」の考えの下、娘の誕生日もまたしっかりと祝いたい気分になったのだろう。あの「娘の二十歳の誕生日」を「おさらばパーティ」と名付けたのと同じ人物が取る行動としては、180度真逆に思える。
もしくは穿った見方をするならば、「家族を大事にする右翼思想」を自ら実践する形で娘を啓蒙しようとしているのかもしれない。
どうだっていいのだ。もうあの二十歳の誕生日はやり直せないし、あの日知った「この異常な家」で過ごす上での無力感は、一生払拭できるものではない。当時の元彼そのものはもう私は吹っ切れているのだが、そういう問題ではない。単なる恋愛問題ではないから。どちらかといえばあの日は「家族が娘の人生を支配する」権力構造の象徴である。
「この家は、娘の誕生日に彼氏と別れるか、家族と絶縁するかの選択を、娘に迫った」「この家族は、娘を思う通りにコントロールしないと気が済まない」「娘が『理想』から外れた行動をした場合、娘の意思を尊重することなく軌道修正を強いる」「この家には自由も人権も存在しない」
実家から離れて初めての誕生日、その時は確か24歳の時だった。母は「ケーキがあるから一度帰っていらっしゃい」と言った。のこのこ誕生日翌週に帰って浴びたのは、おめでとうという祝福ではなくて、結局己の政治思想の話だった。娘がうんざりしているのを分かっていながら、ずっと思想を垂れ流し、反論しようものならキレてきた。本当に嫌な日だった。私は父親に当て擦りをした。「私、誕生日だから来たんだけど。議論のテーブルに付かせる気なら最初からそう教えてよ」
ようやく本番のケーキが登場し、母はやはり祝福の言葉の前にこう言った。「はい、じゃあここまで生きながらえたんですから、育ててきた私たちへの感謝の言葉を、どうぞ」
適当に単語を繋ぎ合わせ、適当な感謝の言葉を述べ、適当に終わらせたと思う。何を言ったか、私はもう忘れてしまった。
実のところ、24歳はなんだか豪華だったのだ。まず、誕生日前に大学の友人がお祝いをしてくれた。
そして彼氏はわざわざ誕生日当日に仕事の休みを入れて遊びにきてくれて、上等なお酒と温かい毛布をプレゼントしてくれた。実のところ誕生日当日にダイレクトに祝われるなんて少し居心地が悪かった(少し日をずらして適当に祝ってくれた方が気が楽だ)のだが、別にそういう特別な要望を伝えていなかったので、そうなった。
祝福はとても嬉しかった。上等なお酒は私が安酒を煽らないように、香り高く、少しずつ飲めるものを選んでくれたし、毛布は私が冷え性だからくれたものだ。リモートワークの時に体を冷やさないように。そう、嬉しかった。それは本心で、事実だ。だけど私は心の置き場所が分からなくて、夜に彼の隣で、1人でひどく泣いた。
そしてそのすぐ翌日に、私はボランティアの仕事で外に出掛けた。子供達やお姉さんたちと一緒に、誕生日が印字されているハンドクリームを皆で揃いで買った。
子供達は目ざとく「昨日の日付のものをお姉さんが持ってる!」と反応し、「誕生日だったなんて!早く言ってよ!」と笑った。素直に礼を言いながらも「ちょっと照れくさいわね、ここまで来ると『歳をとったな』としか思えないものよ」と、冗談に聞こえるように、そしてまるで目の前の煙を手で払うように言ってその場をいなした。
だがお姉さんが「誕生日だったのね、おめでとう」と晩御飯の時にもう一度祝ってくれた。曖昧に笑みを浮かべて礼を言った。
別にこれらが悪いわけじゃない。家族以外の人から受ける誕生日の祝いは、それ以前とは不釣り合いなほど「正しい」祝福のされ方だった。
だから余計に、一番最後の母の政治思想のテーブルはなんだか冷や水を浴びたというか、それ以前の数日間にかかっていた魔法が解けたような、そんな気分だった。
そして自己分裂的な話だが、私はいつもなんだか、報われない日々が続いた「19歳の時の自分」が暗闇を彷徨っているような感覚に襲われている。
「19歳」を助けたいのは山々なのだが、どうにもうまくいかないのだ。誕生日を正しく祝われた時、あの「20歳になったばかりの19歳」がずっと叫んでいたのだと思う。
私は正しく祝われていないのに、お前は24歳になれたのか、と。だって、20歳で時間が止まった人間が、24歳になれるわけがない。
年齢も、感覚も何もかも、自己矛盾の連続なのだ。二十歳になれば大人になるのだとずっと言い聞かせられてきた。でも世の中は18歳、19歳ですら自立した人間として扱われることの方が多い。(私の時は違ったが、今じゃ18歳で成人だし。)
だけど私は正にそのとき親に家を閉め出されたり、心無い言葉をかけられたり、支配されて、押さえ込まれたりしていた。まるでまだ中学生か何かみたいに。さらに私はその環境下でどうにも反抗心が強かったから、常に「自分を保てるように」「私という存在は、一個人として、己の意思を持って存在している」と自分に言い聞かせて生きてきた。
すると、今度はどうだ。親は私を中学生のように扱う。でもバイトなどで出会う他の大人は、私が自分の年齢を言うまで(というか未成年だと言うまで)、25歳以上の大人だと勘違いしていた。完全な矛盾だ。スーツを着ていた時は特に大変だった。30代に間違われてばかりいた。あとでよく知る人にその話をしたら、顔つきがどうにも険しいのだと指摘を受けた。
実際、一種の自惚でもあるが、私は他の同年齢よりも大人だったと思う。いい理由を言えたならもっと良かったが、私が言いたいのは、他の人が学生らしい生活を送っている中で、あの家庭環境下、嫌な現実を見続けていたのだから、どうにも若々しい夢らしい夢も見られず、学生時代を終えてしまった、ということだ。
そして、あのトラウマの19歳は時を止めて彷徨っていて、24歳を迎えられないまま、私は体だけ25歳になろうとしている。
全てが矛盾して、全てが混在して、混濁したまま、また一年が経ったのだ。
抱負とは言わないまでも、成し遂げたいことはたくさんあった。夜に寝られるようになりたかった。フラッシュバックの回数も少なくなればいいと思っていた。でも、結局不眠は改善しないし、気を抜くと変なフラッシュバックを起こして、私が過呼吸を起こす寸前で彼氏が止めること数回。整体の先生が施術開始2分後に「休むことを知らない体だ、力を抜いたことがない体だ。夜眠れてないでしょう、死にますよ」と言ったのは、3月末のことだった。体の力を抜く練習をして、と教えてくれたが、頑張っても上手くいかなかった。
25歳になれば、できるんだろうか。もう何年も成し遂げられなかった、いろんなことが25歳になれば、ふっとできるように?冷静に考えれば、そんなの無理だって、わかっている。
「今昔物語」はここに収録されている福永武彦訳で読んでいる。池澤夏樹の義父だね。僕は結構説話集が好きで、「聊斎志異」や「捜神記」、「デカメロン」やガラン版「アラビアンナイト」なんかも読んでいる。近々「カンタベリー物語」も読む予定だ。
さて、なんで「今昔物語」を全部読まず、部分訳の福永武彦訳にしたのかというと、理由はいくつかあるのだが、気軽に持ち運びのできる全訳が出ていないのが一番の理由だ。また、講談社学術文庫は、天竺編と震旦編、それから本朝世俗編が出ているのだが、なぜか日本を舞台にした仏教説話を収録した巻が翻訳されていない。有名どころの仏教説話は頭の中に入れて置きたいとうっすら考えているのだが、原文を読むのが近頃は億劫なので、早く翻訳が出てくれないかと祈っている。
内容は芥川龍之介が翻案したものを含め、人間心理の観察や奇妙な話、怪異の話や下品すぎる話、それから強烈な個性を持った人間の話など様々だ。一つ一つの話が短いので楽しめるし、芥川龍之介が近代的に翻案する前はどんな話だったか、比べるのも楽しい。ちなみに、水木しげるがインパクトのある話ばかりを漫画化したバージョンが中学高校の図書館にあったが、あれも面白かった。あとは、家にあった子供版に、卒塔婆だか石碑だかに血痕がついたらその土地が水害で滅亡する予言を信じる老婆の話が収録されていた。周囲の人が老婆をからかうためにわざと卒塔婆に血を付けるのだが、その晩に本当に村が滅亡する。世界の民話に似た話があったと記憶しているが、出典が思い出せない。自分はギリシア神話をはじめとした、運命の皮肉やアイロニカルな予言を扱った話が好きである。やっぱり説話集は面白い。
ただし、編集の方針だろうか、「今昔物語」では似たような話が何度か続く配列になっている。だから通読していると飽きる瞬間がある。
これは「聊斎志異」でも同じで、酒を飲んでいたら死んだ友人が化けて出てきたが、酒を飲んでいたせいか死んだことを忘れていて、そのまま話が進むみたいなパターンがかなり多い。他にも幽霊やキツネが化けた美女が出てきて結ばれてハッピーエンドみたいなのも何度も繰り返される。結局みんなモテたいのね。
「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」、これらはすべて未読である。「日本霊異記」は最近になってKADOKAWAが現代語訳を出しているので、積んである本を片付けたら入手予定だ。なお、これは①で述べた雄略天皇のエピソードの出典の一つもである。
「平家物語」は古典の苦手な僕でも原文で読みやすいと感じた。理由は恐らく、口承文学だから声に出したらなんとなくわかるからなのと、敬語が相対的に簡略化されているからなんだろう。それとも、ちょうど「火の鳥」乱世編の舞台で、歴史の流れ的に何が起きるか既に分かっていたからだろうか? それとも、教科書をはじめとして、断片的に名シーンを知っていたからだろうか? バトル物として楽しんだんだろうか?
日記を読み返すと、「古代の貴族世界が音を立てて崩壊していくのがよくわかる」と綴っていたし、「空海と密教美術」展で観た平清盛の血曼荼羅が登場したのに滅茶苦茶興奮していた。
ちなみに、神保町の本祭りで、ちょうど講談社学術文庫版が一巻から十巻までがセットで安売りされていたので、良い機会だと思って購入したのだが、後になって全十二巻だったと気づいた。道理で安いわけだ。このバージョンは解説が丁寧で、「平家物語」かなり京都中心のバイアスがかかっているという指摘がされていた。例えば、平清盛が大輪田泊を建築したことは今でこそ評価されているが、「平家物語」では単に京都の荒廃をもたらした暴政ってことになっている。木曽義仲もただの田舎の乱暴者扱いだ。ちなみに、かつて滋賀県を旅行したときに、彼の没した古戦場・粟津を訪れたのだが、住みやすそうな普通の住宅街になっていたのに驚いた。
「太平記」についてもついでだから書こう。実家が神奈川県なので、鎌倉幕府滅亡まではかなり馴染みのある地名が多かったので楽しんだのだが、南北朝に分かれたままで話が終わるし、明確に「完結した!」という実感を持てる構成ではなかった。明確な善玉悪玉の物語でもないしね。みんな結構幕府側に着いたり朝廷側に着いたり右往左往している。この機を見るに敏なあたりがいかにも中世武士らしいし、おかげで誰が誰の勢力についているか、すぐにわからなくなる(ここまで書いて思ったのだが「平家物語」は平家の滅亡というわかりやすい大きな流れがあるから読みやすいのかも)。
それに、歴史書っぽくいろんな中国の古典から引用するけれども、日付が操作されていたり、複数の天皇を意図的に混同していたりする(光明天皇が即位した個所、太平記ではなぜか光厳天皇の重祚としている)。あくまでもこれは物語なのだ。
そして、物語だから、出てくる辞世の句にすごくいいのがたくさんあった。いま手元に本がないのが恨めしい。メモから見つけたのは「皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり」……なにこれつらい。
なお、各神社仏閣の縁起物語や中国の古典に脱線することが多く、それはそれで非常に面白いのだけれど、「だからこんなに長くなるんだよ……」みたいな気持ちになった。多少は「平家物語」でも登場・退場する人物の背景に脱線するけれどね。「ジョジョの奇妙な冒険」でも敵のスタンド使いの背景が紹介されるシーンあるよね。あのテクニックは話の流れがちょっと止まるので使いこなすのが難しい。ところで、あまりにも歴史書からの引用が多いので、これまた講談社学術文庫版の「史記」を読むに至った。……と、記憶していたのだが、日記を読むと両者を並行して読んでいたらしい。我ながら、なんでそんな無茶をした? 両者とも疑問点が多くて日記にやたらとメモを残している。
ところで、太平記の巻二十二に、相手のことを馬鹿にして「へろへろ矢」と呼ぶシーンがあるが、オノマトペの歴史的に興味深い。
前回も書いたけれども、せっかくなのでもう少し細かく書こう。これはちゃんと池澤夏樹の全集で読んだ。
「能・狂言」には身体障害者に明確な悪意を向け、冗談半分で暴力をふるうとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、だから近江絵などで風刺の対象ともなっているのだろう。岡田利規の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。演劇の人なので、酔っ払いの歌などを声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
現代の第一線で活躍する作家に訳させるってのはかなり贅沢だ。今の言葉で古典に新しい命が吹き込まれるって本当なんだな。
「説教節」は女人禁制による悲劇を描いている。これは父方の祖母からも似た話を聞いた覚えがある。何かウグイスだか何かの鳥に変じてしまう話だったようだが思い出せない。どこかの寺院縁起譚だったと思う。翻訳は伊藤比呂美で、この人は「ラニーニャ」という作品で芥川賞候補になっている。
「曾根崎心中」はいとうせいこう訳。ここからは浄瑠璃。作中の大阪弁が興味深い。大阪が舞台だし、近松門左衛門の作品なのでそれはそうなんだが、江戸時代の大阪ことばがどうだったかってのはすごく面白い。三幕の悲劇でプロットは単純なんだけど、台詞の長さとか掛け合いとかが欧米の演劇とはリズムが全然違っている。そういえば昔、「コメディお江戸でござる」のなかで「七つの鐘が六つ鳴りて」が引用されてたけど、原文って最初から最後まで七五調らしい。この次もそうだが、借金で首が回らないってネタは時代的な物か。
「女殺油地獄」はひたすらダメな人間がとうとう強盗殺人までしてしまう救いのない話なんだが、ここまで徹底した悪人というか堕落して行く過程がすでに文学で表現されていたってのがまず面白い。ダークヒーローとかそういうのではなく、自己弁護と言い訳にまみれた情けない悪人の物語だ。翻訳は桜庭一樹で、ところどころ注釈的に時代背景を地の文で説明しているんだけど、現代語訳っていうのはこういう自由さもある。たぶん池澤夏樹はどう翻訳してほしいか指示を出さなかったんだろう。
殺人の場面は本当に暗鬱。面白いので近松門左衛門の作品はもっと読みたい。江戸時代に実在の事件をモデルにした猟奇サスペンスがあったってのが面白い。ジャーナリズムの発展ってやつだ。ただし、人生がうまくいかない人をすべて発達障害で解釈しようとするのは、否定するだけの根拠はないのだが、多用しすぎるのもどうかと思う(一昔前の「シゾイド的人間」みたいに流行っているだけかもしれない)。
ところで、まったく関係ない作品同士で、源融の庭の話が引用されているのは不思議で、それほどよく知られていた話だったのだろう。また、わからない言葉がちまちまあるので調べながら読むことになるんだけれど、「坊主持ち」って遊びが出てきて、これはお坊さんとすれ違うまで荷物を全部持つ遊びらしい。じゃんけんで負けたら全員のランドセルを背負う小学生の遊びの起源か?
「菅原伝授手習鑑」は牛車を押す場面を浮世絵で見たし、松王丸の部分は新渡戸稲造「武士道」か何かで引用されていたのを思い出した。忠義のために身動き取れなくなる話は「菊と刀」にも通じている。意外と又聞きで歌舞伎の物語を知っているのかもしれない。ところで、学生時代に見た子供が切腹する歌舞伎は何の話だったんだろう。
翻訳は三浦しをんでこれを読んだ昨年当時はは四十七歳のはずなんだけど、「ギッタンギッタンにする」「ニャンニャン」という、古いんだか新しいんだかよくわからない言語感覚が特徴。この作品では道真公の流罪の原因をかなり自由に創作しているようだ。
もう少し読みたいものだと思い、浄瑠璃と加歌舞伎とかの現代語訳はないものかと「弁天娘女男白浪」について調べると、それは一部分を演じるときの題で、本来は「青砥稿花紅彩画」というらしい。
「義経千本桜」はキツネが身代わりになるシーンがあるが、「菅原伝授手習鑑」にも木像が身代わりになるシーンがあり、これはよく見られる演出だったんだろうか? かなり自由に筋が作られている。安徳天皇女性説とか初めて知った。このあたりも「平家物語」の時代を知っていると楽しい。
「仮名手本忠臣蔵」は四十七士全員のエピソードを語る時間はさすがにないが、悪玉は徹底的に憎たらしく描かれており、エンターテインメントの基本が抑えられている感じがする。ここでも入れ替わりの芸がある(上に書いた入れ替わりは、駕籠に乗った九太夫が医師と入れ替わっている個所)。なるほど、日本の演劇のストーリーだけじゃなくて上演時のテクニックについても調べる必要がある。
ところで、解説を読んでいると、「仮名手本忠臣蔵」は仇討ちの物語というよりも恋愛劇だという指摘があった。他にも、どの脚本が伝統を逸脱しているとか細々説明している。
あと、「しんとく丸」の話はどっかで聞いたことがあるんだが、どこでだったのかが思い出せない。
好きとか嫌いとか、こういう本能的な感情の動きは、まったく道徳的でない。
近頃は読みもしないくせに、イケメンが出てくるフィクションに対する独断と偏見が自分の中でどんどん育っていることに、非常に困惑している。他人のプライベートな空想や願望にとやかく言うのはみっともないし、読みもしないのに批判するのは非常にダサいので、こうした非論理的な感情にはいつも戸惑う。逆に、一度きちんと読むべきではないか? それか、徹底的にスルーするかだ。そもそも、フィクションはそもそも他人の頭の中身なので、刺さらないときには徹底的に刺さらないってだけではあるまいか。かつては普通に男性向け女性向けと関係なく小説を楽しめていたのに、こんな人間になってしまったことが極めて残念である。
おそらく、これも僕のイケメン嫌悪と去勢不安がなせる業だろう。まだ四十にならないのに前立腺肥大を患い、ED気味である。
じっくり考えてみたのだが、ジャンルを問わず、男性であることを否定的に書く作品や、男性の苦痛を軽視するものに否定的な感想を持つようだ。昔はジェンダーSFとかを、思考を広げて無意識の前提に気づかせてくれると面白く読んでいたのに、年齢を重ねて頑固になってしまったようだ。困ったものだ。そこのままではさらに年齢を重ねたらどうなることやら。
逆に、自分が性欲を持つ男性であることを肯定するタイプのポルノが大好きだ(具体的なジャンルは揚げてもしょうがないので略す)。この好きと嫌いの両者は僕が自分の性を肯定できるかにかかっている。つまるところ、「僕は男性としてダメじゃないか?」という不安を表裏一体で反映している。自分がヒゲの永久脱毛をする気が全くないのも根底には同じ感覚がある。見境無く散らばっている性癖や文学の好みの背後に、一本の理屈が通っていると気づくと、自己理解が深まったようで、事態が何も解決しなくても、何かすっきりした気持ちになる。
逆に、女性作家ですごく気に入ったものを十作くらい集めて、何が好きだったをまとめてみると、こういう作家の属性で評価するとこから自由になれるかも。今度試みてみよう。偏見から自由になりたいものだ。
それに、偏見に凝り固まった感覚が浮かんでくるのは、人と会わずに孤立している時なのである。そもそも、人との距離を取り、一緒に過ごす時間を奪ってしまうような創作活動は、僕を幸せにするだろうか?
蛇に噛まれる夢を見たんだけど、
これが正月初夢だったらなんかもっと縁起が良かった感倍増できたかも知れないけれど、
細ーい緑色の蛇が飛び付いてきてーって感じ。
夢だから痛くないんだけど、
服のところに牙が引っかかってそこでぶら下がっているのよね。
私はノーダメージ。
でもなんとか振りほどく音して前を見たらまた同じような欲しい緑色の蛇がやってくるの!
今何かどっかで見たことあるような蛇だと良く思いだしてみたら、
『ゼルダの伝説知恵のかりもの』のかりものの蛇のロープにそっくりなの。
そのゲームはもう周回するほどではないなってところで1回クリアしちゃってからはやっていないけれど、
なんか思い出すとその蛇だったかも知れないロープのことだったわ。
あれ結構序盤で使いまくって敵を倒しに行ってもらってたので、
私が逆にその蛇の「ロープ」に襲われる夢だったのかしら?
まあこじつけだけど。
ちょうど今年の夢の干支が蛇なので、
夢調べしてみるけれど
なんか調べるページによっては
意味が逆のことを言っていたりして、
どれを信じたらいいの?って感じになっちゃわない?
で、
そこでChatGPTちゃんなのよ。
でもChatGPTちゃんに訊いたとて解答はなんかマイルドでどちらとも言い難い
良くもあり悪くもあり、
結局夢は何を信じていたらいいのかよく分からなくなってきたわ。
私的にはまあ一富士二鷹三茄子級の縁起物で蛇出てきてわーいって感じで良いと思っていいのかしら?ってところが落としどころよね。
その占いが載っている新聞なり雑誌なりのその媒体を読み終わったころには
すっかり何が書いてあったっけ?って忘れているものじゃない?
ほんのその占いコーナーをチラッと見た瞬間だけの幸福というかまあ当然逆の幸運じゃないこともあるけれど、
すぐに忘れちゃいがちよね。
そんで
そんなの街中に暮らしていたらヨットなんてヨットど見かけないわよね。
ラッキーアイテムとかもあれ何を根拠にって思うことがあるけれど、
うーん、
でもそんなラッキーアイテムも占いの良い悪いと同じようにすぐに忘れちゃうけどね。
ああいう占いを1日握りしめて信じて過ごしている人って本当にいるのかしら?
悪いことあったらどうすんの?
金運アップって書いてあったらロト6買うの?
あの通りに素直に生きている
生きていけるってのも逆に言うと羨ましい次第だわ。
もし私の緑色の蛇の夢が蛇注意!の暗示だったら、
どう街中で蛇に注意したらいいのかしら?って思うし、
仮にAIに凄い計算式でその計算を算出させて遭遇率を割り出してみたら
美事に計算叩き出してくれた答えはかなり信憑性のある確率よね!
蛇の方に気を付けた方がいいみたい。
それを暗示するかのように、
試しに「香港の蛇スープの話題がラジオで流れてくる確率」を凄い計算式でAIに算出させてみたら、
その確率で流れてきた香港の蛇スープの話題はかなりレアだったんじゃない?
ラジオでその蛇スープの話題を聞いただけでもポイントついたってカウント計上して欲しいわ!
それでラッキーアイテムの蛇スープを回収したってことにして欲しいの、
うふふ。
チキンが挟まっているサンドイッチでたんぱく質が摂れますよ!ってウリのサンドイッチ。
新登場だったので、
思わず手に取って食べちゃったわ。
もちろんお会計を済ませたあとでよ。
美味しくいただきました。
昨日は珍しくミカンがあったので、
その1つを皮を剥いて輪切りにして、
ほんのり蜜柑のかおりかしら?
ミカンウォーラーもう1つぐらいミカン追加してもよかったかも。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
以下では、これまでにまとめた「宇宙心理学」の理論と実践の枠組みに、仏教的なモチーフや概念を組み合わせてご紹介します。仏教思想とスピリチュアルな宇宙観は、意外にも多くの共通点があり、両者を合わせることでさらに深い気づきや実践方法が見えてくるでしょう。
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「宇宙(マクロコスモス)と人間の心(ミクロコスモス)は相似関係にある」という発想は、仏教的にも「一即多・多即一」や「色即是空、空即是色」という般若心経のフレーズと通じる部分があります。
- **色即是空**… すべての現象は本質的に空(実体がない)であり、同時に縁起によって姿を現す。
- この空性(くうしょう)という概念は、宇宙心理学でいう「見えない力」「量子的揺らぎ」とも重ね合わせることができます。
### 1-2. 根幹となる4つのキーワード × 仏教の教え
- 「すべては互いに依存しあって成り立つ」という仏教の縁起説は、フラクタル的な自己相似にも通じます。部分と全体が切り離せないように、私たちの内面も世界全体と相互に影響し合うのです。
- 「現在の思考や行動が未来を引き寄せる」という考えは、仏教でいう因果の法則(カルマ)に似た要素を感じさせます。善き思いと行いは善き結果を招き、悪しき思いと行いはそれ相応の結果をもたらす。
- 仏教にも“観じる(観法・観想)”ことで世界の本質を捉え、自他を変容させる実践があります。意識の向け方次第で現実の捉え方が大きく変わり、さらに現実そのものにも変化を及ぼすという点で共通しています。
4. **無意識の力 → 如来蔵(にょらいぞう)や阿頼耶識(あらやしき)**
- 大乗仏教では、すべての衆生の中に如来(仏)の種が秘められている(如来蔵思想)と説かれます。また唯識論では、意識の深層に阿頼耶識という“蔵識”があり、そこに無数の種子(しゅうじ)が蓄えられていると考えられます。宇宙心理学の「潜在意識=見えないが大きな力を持つ」構図と響き合います。
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# 第2章 「見えない力」こそが強い力である理由—仏教的解釈
### 2-1. 宇宙の95%を占めるダークマター・ダークエネルギー × 空性
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# 第3章 観測者効果・引き寄せの法則・フラクタル理論の融合
### 3-3. 引き寄せの法則と発願
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### 4-1. 占いを「占察」と見る
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### 5-2. 空(くう)と“やわらかな可能性”
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### 6-1. おみくじやタロットを「よい結果が出るまで」引く方法 × 仏教的リマインド
1. **まずは礼拝・合掌の心**
- 占いをする前に、仏前でなくとも「自分を取り巻くあらゆる存在への感謝」を込めて合掌し、一礼する。心を落ち着かせ、邪念を手放す効果がある。
- 言葉ではなく、場面や感覚をありありと描く。“無限の可能性”に開かれた空性を思い出す。
3. **占いという“観察”を繰り返す**
- おみくじやタロットで、ピンとくるまで繰り返し。“これだ”と思える結果が出たら、それが仏教でいう“因縁”に触れた合図かもしれない。
4. **結果を喜捨(きしゃ)し、行動に移す**
- 良い結果は心の励みに、不安な結果なら課題として受け止める。“喜捨”とは、結果がどうであれ執着しすぎず、感謝と共に手放す態度。そこから得た気づきを行動につなげる。
- 静かに座り、姿勢を整え、ゆっくり呼吸を数える。最初は5分程度でもOK。心を“今ここ”に置く。
- 占いで得たカードやメッセージ、星座などを軽く思い描き、そのイメージを空間に広げる感覚で観想する。
3. **行動→布施(ふせ)や慈悲行(じひぎょう)を意識**
- 自分の願いを実現する行動に移すと同時に、周囲や他者へも配慮・貢献しようとする心を持つ(菩薩行)。
- チベット仏教のマンダラや大日如来のイメージなど、仏教美術には多くの象徴や神秘的構図があり、ビジョンボードとしても利用できる。
- 宗派や個人の好みに合わせて、仏具や護符を身近に置き、そこに尊い象徴を感じることで無意識への影響を強める。
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# 結論・まとめ
1. **宇宙心理学 × 仏教の核心:縁起と空性、そして内なる仏性**
- すべては相互依存し、固定の実体をもたない(空)からこそ、大いなる可能性が広がっている。
- その内なる可能性=仏性は潜在意識の奥底(如来蔵や阿頼耶識)に息づいている。
2. **“見えない力”を敬い、智慧で照らす**
- ダークエネルギーや潜在意識といった不可視の領域は、仏教でいう空と縁起が働く世界。そこに無明ではなく智慧の光を注ぐことで、人生や運命に変化が起こる。
- この二つを組み合わせるとき、自分の内外がつながり、心身を超えたシンクロニシティが生まれやすくなる。
- イメージワークによって感情とエネルギーを高め、強く願う。
- 同時に、執着を手放し、他者への慈悲心も含めた“中道”のあり方を意識すると、より大きな調和と運命の展開が生まれる。
- 自己の願いを叶える過程で、同時に他者への思いやりや行動を怠らないこと。これが仏教の菩薩行とリンクし、自他ともに成長する道となる。
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## 最後に
本書(仮)で提案した「宇宙心理学 × 仏教モチーフ」の考え方は、あくまでも仮説的・実験的な融合です。とはいえ、共通点やシナジーは多く、実践すれば多くの気づきを得られるでしょう。占いを一種の“縁”として捉え、瞑想や仏教的な観想法で深め、“空性と慈悲の心”を育むプロセスをぜひ楽しんでみてください。それはやがて、あなたの潜在意識を通じて宇宙全体とのつながりを実感させ、より豊かで調和した人生をもたらしてくれるかもしれません。合掌。
Cookieはりぼん卒業後の矢沢あい先生のために創刊されたんだよね確か。
というかりぼんの人気作家だけど雑誌の年齢層にだんだん合わなくなって、かといって集英社も手放したくない作家の受け皿になる雑誌のニーズが元々あり、矢沢あいがその筆頭でCookie創刊したって感じだったはず。
その前は矢沢あいのためっぽい「りぼんティーンズ増刊」なんてのもあった。
単に屋台骨であるだけじゃなくて縁起からして雑誌を背負ってたんだよね
主人公の回想という形で結末をチラ見せしながら連載を進めてゆく手法って読者を途中で手放さないための商業上の理由っぽくてその辺に苦言を呈する人も多かったけど、売れないわけには行かなかったからなりふりかまってられなかったんだろうなあ。
後輩で交流のある小花美穂も昔ブログで「クッキーは矢沢あい先生に(自分を筆頭として)おんぶに抱っこで心苦しい。矢沢先生は文字通り血反吐吐きながら連載してる」って書いてた記憶。
今年結婚をした。
旦那さんは式をやる気がまるでないみたいだったし、お金があるタイプでもないので「このままやらないかなー」と思っていたら、母に「ドレスを着てる姿が見たい」と言われて話が進んだ。旦那さんも、それを言われたらやるしかねえ的な感じで快諾してくれた。
母はウェディングフォトでと言ったけど、私は本音を言うなら結婚式はしたいタイプ。なんかいい塩梅のものはないかといろいろ調べて「神前式がいいのではないか」となった。友人も親戚も呼ばない、一親等だけの小さなお式。
私の家族は遠方に住んでるため、母は来るだろうが父は来ないだろうなーと思っていた。というか実際「近くなら行くけど、関東でやるならお母さんだけどうぞ」って感じだったらしい。旦那さんと私で私の地元へ行くプランも考えたけど、旦那さんは旦那さんで「俺は人形だから」のアピールがひどかったので、旦那さんの負担が少ないよう私たちの居住地近郊ですることにした。(おいこら、我が家の男共よ)
ちなみに、旦那さんの家族はお声がけしたらすぐに参加表明してくれた。
神前式は私も人生で出席したことがないので、どういうものかいまいち具体的な想像ができない。
こじんまりとして、ホテルとかの結婚式よりは安価なイメージがあるぐらい。
とりあえずネット検索で上位に出てきた「お色直し撮影付きで19万円〜!」みたいな謳い文句のところに問い合わせてオンラインで詳細を聞く。
「まあどこも似たようなもんだろ」と、比較検討はせずそのままそこで話を進めた。
もちろん、19万では収まらない。
まず平日で縁起の良くない日以外、ほとんどの日にちにオプション料金がつく。私的には仏滅でも良かったが母が気にするタイプなので大安の次くらいのやつに。さらに、選ぶ着物によってもオプションがつく。私自身こだわりは特にないので高くなくていいよと思っていたけど、いざ着物を選びに店舗へ行くとオプション料金のない着物が何故か見つけられない。比較的安い値段の着物も予約が埋まってたりして選べない。何ということでしょう。小物も綿帽子(白いほっかむりみたいなやつ)も全てオプション料金だ。
ちなみに、女性は実物が並ぶお部屋で数時間かけて選ぶのに対して、男性はタブレット画像。
指シュッ!!!!シュッ!!終わり!!全3種類!!30秒で決まった。今時の男の子はオシャレ好きな子が多いのでそんな子からしたらクソつまらないだろうなと思った。旦那さんもちょっと拍子抜けしてた。
他に当日のヘアメイク代、留袖の着付け代や父の衣装レンタル代等も入れてなんやかんや見積総額は40万くらいに。
そこに別途神社に納める初穂料が10万〜って感じ。終わった後に簡単に食事をしたのでそんなのも入れると60万ぐらいかな。ウェディング会社の人も「ご自身で手配した方が安いですよ」と特に営業してこなかったのが気楽で良かった。
お色直し付きで撮影あり。50万程度で式ができて写真データも大量に残る。私的には安い感覚だったけど、旦那は式当日を迎えるまでの数ヶ月間、ずっと高い高いとぼやいてた。(ええかげんにせえよ)
妹に諭されて「それもそうか」と行くことにしたらしい。日帰り以外で家族旅行なんてほぼ行ったことがないし、ここ数年は居住区内でしか生活してない人だったので新幹線に乗るなんて非常に新鮮だった。母の希望もあり、モーニングも黙って着てた。頭は驚くほどボサボサだったけど。
そんな父は帰路で「楽器の演奏や巫女の舞があって本格的で良かった」と何度も母に話していたらしい。それから、出来上がった写真データを見て「あいつ(私)がずっとニコニコしてたのが印象にのこっとる。それが良かった」とも話していたそうだ。そら良かった。
私の実家は暗い。笑ったりするよりも、じめっとした雰囲気が合う。四人揃った家族写真も多分存在しない。妹の成人式の写真なんて母も妹も死んだヘビの顔してる。ヘビの死骸見たことないけどさ。そういえば私の成人式は家族の誰かと映っている写真もないな。絶縁状態ではないし家族間の交流も盛んな方だとは思うけど、とりあえずあらゆる方面で暗い。
そんなんだから神前式当日、家族写真の撮影中に私は「お父さんが笑ってる!?!?」と声を出して驚いた。「そら笑うわ」って言われた。
父は私たちのこと好きなのかそうでもないのか疎ましいのかよくわからん人なのだけど、私の結婚という儀式を通じて「あ、この人家族のことそれなりに大切にしてるのね」ということがわかって良かったなと思う。
母の表情も嬉しそうだ。年々物忘れが激しくなっていく母だけど、当日の風景を末永く大切にしてくれたらいいなと思う。
留袖を着る機会をつくってあげられたのも良かった。とても綺麗な珍しい柄で、母が手放すときは私が譲り受けてもいいかもと思った。
神前式を通じて夫婦の写真はもちろん、両親と妹との家族写真が手に入ったのはとても良い記念になった。家族写真は全員の遺影になるだろう。
両親がニコッとしてる写真は、何度見てもやはり嬉しい。妹は大体どれも目を瞑ってる。
結婚式は新郎新婦がとても忙しいというが、一親等のみなので特にそんなこともない。おもてなしも礼儀も、神社の人に迷惑をかけなければ重んじなくて良い。すごく気楽だった。
余談だけど、お参りに来た参拝者の方が私たちに「おめでとうございます」と声をかけてくれたり「ええもん見たわ」って表情をしてくれたのもなんだか「うふふ」となった。
ウエディングフォトも数十万かかると聞くし、両家の顔合わせもしてなかったし、それにちょっと色つけたと思えば私的にはこっちの方が断然良かった!
結婚式に強いこだわりがある人にはお勧めしないけど、「そんなにこだわりはないけどなんかカタチにのこるものがしたい」って人にはいいんじゃないかな。
仏教における「私たち一人一人がなぜ生を受け、ここに存在するのか」という問いは、個人の存在や人生の意味を考える上で重要なテーマです。仏教の教えでは、この問いに対して「縁起」(えんぎ)や「輪廻転生」の考え方が大きな役割を果たしています。
1. 縁起の法
仏教では、すべてのものが「縁起」によって生まれ、存在していると教えます。「縁起」とは、「あらゆる現象が他の原因や条件に依存して生じる」という考えで、「私たちの存在も、無数の因縁が重なった結果として成り立っている」とされます。つまり、私たちがここに生まれ存在するのは、過去からのさまざまな因縁(行動や選択、人とのつながりなど)が影響しているからだというわけです。
仏教では、個人の存在や人生は「輪廻転生」によって説明されることが多く、過去の行い(カルマ)が今世の生に影響を与えていると考えます。カルマとは、行為とそれに伴う結果を指し、過去の行為が現在の境遇や性格、苦しみや幸福に関係しているとされます。過去世でのカルマが現在の生を生んでいるため、今私たちがここにいるのは、その行いの結果が現れているという考え方です。
仏教では、生を受ける理由として「苦しみの原因を知り、苦しみから解脱するため」とも説かれます。仏教における生の意味は、煩悩や執着を手放し、智慧を持って解脱に至ることにあります。つまり、現世の生は、自己の内面を磨き、苦しみを超えて真実を見つけるための機会と見なされています。
まとめ
仏教においては、私たちが生を受け存在する理由は、「因果の法則により存在が生じ、今生において苦しみから解脱するための機会が与えられている」と説明されます。したがって、自分自身がここにいる理由や人生の目的を考えることは、苦しみを乗り越えるための道でもあるのです。
みんな祠壊して祟られてみたいんだねぇ。
祟られてみたいって人、案外多いんじゃないかな。そういう現象があるって、わくわく空想膨らませて楽しむくらいだから、人が体験してるの見るより自分で体験してみたいんじゃないかな。
で、なんでみんながそういう空想に夢中になるかって考えたんだけど、祠壊して祟られるのって、楽なんじゃないかなって。
仕事とか親とか諸々の、頑張ればなんとかなるって思われがちな生きてる人とのトラブルよりも、神様とかよくわかんないものとのトラブルの方が、どうしようもなさすぎて気が楽なんじゃないかなって。
実際祟られて変な感じになっちゃったら、周りの人も仕事とか家族とかの問題をなんとかしろってあんまり言わないだろうし。まあその場合精神病院行きとかかもしれないけど、でもそっちの方が生きてる人との問題を解決するよりマシな気がするなぁ、そうなってみたいなぁって、無意識に思ってる人、結構いるんじゃないかな。
もしも祟られてもこうすればすっきり解決しますよ、とか、そもそも祠壊しても誰も祟られませんよ、ていうことになったら、そういう人たちにとっては困るんだろうなぁ。祟りあって欲しい訳だから。
いつか実際祠壊した人の体験談(モキュメンタリーじゃなくて本当に本物の)を読むなり聴くなりしてみたいなぁって思うけど、本当に祟られちゃったら文字書けなくなる・話せなくなる可能性もあるからそんなに真剣な望みじゃないよ。
でももし祠壊して祟られて、何があったか書き残せる人がこれ読んでる人の中にいたら(フェイクじゃなくてしっかり実在するリアルな人)どっかで書いてみたらどうかな。YouTubeで語るのでもいい。そしたらきっとみんなの人気者になれるから私のところにも届くはず。その時は出来れば顔出し実名でお願いしたいけど流石に無理かな……。
いやほんと、そんなに真剣な望みじゃないよ。もしかしたらそういう人がいないかなぁって、ふんわり思ってるだけ。
でも考えてみたら、神様のいる祠を壊して祟りが起きることを空想して楽しむ、っていうことそのものが、もう神様への無礼で不敬で縁起悪くない?
実際には何も壊していなくても「あいつは祠を壊すことを娯楽とする奴だな」って神様に見抜かれて、それで祟られちゃうってことも、あるんじゃない?
そんなお話、誰か作らない?
虫の話で思い出してごめんなさい🙇
嫌いな虫ランキング
1位 スズメバチ
怖いから。毒も凄いらしい
2位 蚊
アシナガバチと言いたいところだけど、ススメバチの下位互換なので、別路線で行くと蚊。
5月ぐらいから湧き始め11月まで普通に居る。12月でもちょいちょい刺される。
痒いし、蚊取り線香とか効かない。油断してたらやられるので油断しないようにするの大変
3位 コバエ
実際は、もっと嫌な虫沢山居るけど、虫扱いでよいのか(ムカデ、ヤスデ、蜘蛛)とか、下位互換だったりするので、うっとおしいだけのコバエがランクイン。
ハエはあまり見なくなったが頻繁に見かけるならハエのほうが汚いしでかいし、潰せないから嫌い。蚊とコバエはギリギリ潰せる
そういえば、引っ越してゴキブリとかほとんど見なくなった。(近所のデカい団地の横の道とか駅前の飲食店多い道歩いてたらウロウロしてるけど)
結局、
中:痛みや分かりやすい危険(感染症除く)ないが体に不快な影響与えてくるやつ
の3つに分かれる(最後のは、寄ってくるから嫌、と見るだけで嫌に分けれるかも)
セミは嫌いじゃないけどおしっこかけてくるから中と下の間だったりするか、うるさいし
上で日頃関わり合いになるのは、スズメ、アシナガ、アブとか。くまんばちは優しいらしいしちょっと慣れた。
中系は、蚊と足登ってくる蟻
無害ではないがほぼ無害判定してるよく見る虫は、カマキリバッタ、甲虫の幼虫、トンボ(好き)、蝶(癒される)、蛾とかテントウムシとかのほとんど
カメムシもどちらかというと気にならない(夜中の自販機にたかりまくってるのは蛾も嫌だけど
祖父や父が紐付けて飛ばしてたって話を聞くし、親しみのあるやつ
ただ、数が増えまくってるのか、網戸に激突してきたり、部屋入って来て追い出しにくかったり
洗濯ものに止まってたり、自転車で走ってるとぶち当たったりで、ちょっと嫌いめになってきた
蜂捕獲罠(スタバのでかめのカップに匂い液入れて吊るしとくようなやつ)を女王対策で春に多めに吊るして
その後も場所は絞ってだけど継続的に設置してるのだが、とある箇所では、ほとんどカナブンで埋まってしまった
罠の匂いに釣られてではなく、罠設置してる果樹の匂いにひかれて寄ってきて、ぶち当たったのか、そこだけめちゃくちゃ捕獲してしまった
春に実家の庭に設置した罠にいきなり飛び込んだのがヤモリさん(その瞬間を目撃もしてしまった)だったのもカナブン大量捕獲もちょっと可哀そうだと思った