はてなキーワード: 過小評価とは
https://digital.asahi.com/articles/ASV4Z2VWGV4ZUHMC00JM.html
トランプ米大統領の「誇りを取り戻そう」という呼びかけが、2期目は「誇りは盗まれた」となり、支持者たちが抱える「恥」を「怒り」に転換している――。8年ぶりにインタビューした社会学者アーリー・ホックシールドさんはそう語った。保守的な土地に通い、人々の感情を解読することで、何が見えたのか。
――前回2018年夏のインタビュー後、アパラチア地方で暮らす人々の心情を理解するためケンタッキー州に通ったのですね。
「米国の炭鉱地帯が中道左派から右派へと変化した理由を探求する旅でした。新著『盗まれた誇り』は、ケンタッキー州にある全米で2番目に貧しく、白人の割合が最も高い選挙区が舞台ですが、トランプ氏の最も熱烈なMAGA(「アメリカを再び偉大に」)支持層、非大卒の白人層の物語です」
「要点は二つあります。一つ目は、彼らがどう感じたいと望んでいたかという『感情の素地(predisposition)』。そしてトランプ氏がその感情をどうつかんだかという『感情の捕獲(emotional capture)』です」
――まず、感情の素地とは。
「喪失の物語です。ノーベル賞を受賞した社会心理学者のダニエル・カーネマンが「損失回避性」の研究で示した通り、人間は『新しいものを手に入れるため』よりも、『一度持っていたものを失った後にそれを取り戻すため』に倍の代償を払おうとする。人々がカリスマ的な政治指導者にひかれる傾向を考えるとき、まずこの喪失に目を向けなければなりません」
「それは仕事の喪失、機会の喪失、居場所の喪失、何より『誇り』の喪失でした。熟練の技術が時代の変化で無用になるような喪失感も。彼らは非常に誇り高く、例えば、炭鉱労働者の娘は『私たちは貧しい』とは言わない。彼らの文化で貧困は恥だからです。その代わり『どれだけ工夫して乗り切ったか』『ボロ切れで人形を作ってどれほど幸せに遊んだか』という、打たれ強さや、他者を助ける力を語りました。しかし外部からは貧困層としか見られませんでした。彼らは誇りを失ってしまいました」
「1970年代以降のグローバル化は勝者と敗者を生みました。非大卒の白人たちは、収入や機会を『絶対的』に失っただけでなく、都市部の大卒白人や、かつては自分たちより貧しかった黒人が上昇していく中で、『相対的』にも敗者となった。ここでは「持てる者と持たざる者」ではなく、「喪失と獲得」の区別に着目しています。自分たちが転落していく一方で、周囲の他者は上昇していく。この喪失感が(大統領選があった)16年にあのカリスマ的な人物(トランプ氏)の演説を受け入れる素地となりました」
【ここから読み解くこと】
なぜトランプ氏の度重なる暴言は、支持を下げるどころか、かえって熱狂を生むのか。ホックシールドさんは彼を「感情の交通整理人」と呼び、支持者の「恥」を「怒り」へと変換するプロセスを解き明かします。
「マックス・ウェーバーが分類した『合法性による支配』の指導者の典型が、民主党の前大統領バイデン氏です。彼は『私が誰かではなく、私があなたのために作ったインフレ抑制法を見てほしい』と無表情で実績を語る。一方、カリスマ的支配の指導者は『私が何をするかではなく、私自身を見ろ。私があなたの代弁者であり、あなたを救い上げる』と語りかけます」
「魔法使いであるトランプ氏は、民主党と(従来の)共和党が提供しなかった三つのものを彼らに与えた。私が『感情の捕獲』と呼ぶものの3要素です。第一に『承認』。『私はあなたの本当の姿を知っている。かつて誇り高かったあなたが、今はどれほど見下されているかを知っている』と語りかける。私は薬物依存の回復施設で元炭鉱労働者の男性に会いました。彼は、仕事を失って、家族を養えない『女こどものするような』低賃金の仕事にしか就けず、深い恥に苦しみ薬物に溺れ、家族も失いました。16年に『炭鉱を復活させる』と叫ぶトランプ氏を見て、うそをついているとわかっていたが、自分のことを理解していると感じた、と語りました」
「第二に、トランプ氏自身が厳格な父の元で育った『恥をかかされた男』ということ。没落した階級が抱える『構造的な恥』の鉱脈を掘り当てる天才です。『あなたは何かを失った。ひどいことだ。いや違うぞ、あなたたちの誇りは単に消えたのではなく、盗まれたのだ。私がそのプライド泥棒に報復する』という物語で、『恥』を『非難』へと変換する。鬱々(うつうつ)とした『消極性』を『積極行動』へと反転させる。まるで地中から石炭を掘り出し、加工して火をつけるようなプロセスです」
「第三に、トランプ氏は4段階の『恥の撃退儀式(Anti-shame ritual)』を提供する。これが最も重要です。①彼が『移民がペットを食べている』といった異常な発言をする。②メディアや知識人が激しく非難し、彼に恥をかかせる。③彼が『見下されている私を見ろ。あいつらは私を通してあなたたちを攻撃している。私が代わりに恥を引き受ける』『私が背負った恥に比べれば、皆さんはマシなはずだ』と主張し、まるでイエス・キリストのように身代わりの被害者となる。④しかしキリストとは異なり、彼は剣を構えて『あなたたちのために報復する』と語る――というように」
「米国の半分、民主党支持層は、①と②を聞いている。しかし、共和党側やグローバル化の敗者は③と④を見ている。つまり、米国人は感情の面で同じ大統領すら見ていないのです」
「私が(著書で)試みているのは、皆さんが『バイリンガル』になる手助けをすることです。理性が提示されたときにはそれに従って考える一方で、人々の感情の流れもたどれるようになるということです。感情にも論理があるからです。先ほど『感情の捕獲』の3要素を説明しましたが、特に三つ目(恥の撃退儀式)では、人々の感情にチャンネルを合わせなければ見えてきません。理性の領域ばかりに論理を探すのをやめ、感情の操作や『どう感じるべきかという感情のルールの設定』といった領域の中に論理を見いだし始めましょうという皆さんへの招待状です」
「トランプ氏は怒りや共感のサインを操る、感情の交通整理人です。どう感じるべきかという信号を発信している。『あいつらに共感を抱いてはダメだ(赤信号)』『これは敵だ、激しく怒れ(青信号)』という具合に、彼は信号を出している。カリスマ的な指導者というのは、こういうことをするものです。彼だけではありません。ヒトラーも同じことをしました。日本にも独自の(感情が動員された)歴史があります」
――とはいえ、「失われた」が「盗まれた」に変わるには飛躍があります。
「両者は全く異なります。それが、トランプ氏のやってのけた手品です。人々はすでに他人を責めたがっていた。恥という感情を心に抱え続けるのは耐え難い苦痛で、生き延びるためには何らかの誇りが必要です。そこで彼は『(喪失について)自分を責めるな。盗んだのはあいつらだ』と語りかけた。では、あいつらとは誰か? それは教育を受けた人々、ディープステート、民主党員、移民、最終的には『あなたと似ていない誰か』。どんどん拡大しました」
――「盗まれた」という物語は、耐え難い「恥」を「非難」へとすり替える手品だった、と。
「そうです。そして物語は今、その『あいつら』を罰してやる、という『報復』に移っています。カリスマは、私たちにどう感じてほしいかという明確な『感情面の政策』を持っている。それは彼らが意図したゴールであり、決して副産物として偶然起きる現象(epiphenomenon)ではない。1期目は『赤い帽子をかぶって誇りを取り戻せ』という多幸感、恥からの解放が中心だったのが、今は『敵を探し出して激怒しろ』という段階に来ている。真の軍最高司令官は激怒という言葉は使いません。エンターテイナーの言葉です。私たちがどこへ向かっているのか恐ろしくなります」
――トランプ氏は、「恥」から、政治的エネルギーである「非難」への変換を自覚してやっていると思いますか?
「直感的にやっているのだと思います。その直感において天才的です。彼だけではありません。第1次世界大戦で敗れて多大な賠償金を課せられ、国全体が喪失感と屈辱にまみれていたドイツで、歴史家が詳細に記録してきたように、ヒトラーも人々の『恥』を巧みに利用したのです」
「トランプ氏に決定的に欠落している最大のものは『他者への共感』です。戦争で亡くなった米兵を追悼する厳粛な場で、彼はゴルフキャップをかぶったまま平然としていました。彼は他者の痛みを気にしません」
「ただ、イラン戦争や物価高に直面し、『戦争に巻き込まない』『エプスタイン文書を公開する』といった約束を彼が破るさまを見て、共和党から無党派層へと離れる人々も一部で出てきています。『感情の捕獲』の魔法が、少しずつ解け始めている感覚もあります」
【ここから読み解くこと】
アメリカの炭鉱町で起きた「誇りの喪失」は、決して遠い国の労働者だけの問題ではありません。AIの台頭によって、やがて世界各地のホワイトカラーにも同じ問題が迫っていると、ホックシールドさんは警告します。
――人々は、実際の生活を豊かにする経済政策より「誇り」を得ることを政治に求めるようになったのでしょうか。更に言えば、常にそうだったのか、それとも、グローバル化やデジタル化の時代に誇りを感じることが難しくなり、その埋め合わせを欲している?
「興味深い問いです。現在の米国では二つの相反する現象が衝突しています。一つは、経済の硬直化。世界銀行の調査によると、先進20カ国の中で、米国は今や階層間の移動(上昇も転落も)の可能性が最も低い国です。生まれた階級に一生固定される傾向が強い。一方、別の世論調査によれば、若者の6割が『億万長者になりたい』と答えている。機会が極端に減ったのに野心は高いまま持続している。私は『アメリカン・ドリームの圧迫』と呼んでいます」
「先日、私はダボス会議で一つの警告を発しました。人工知能(AI)革命前夜の今、今後5~6年でエントリーレベルの仕事の60%が消滅すると予測されている。多くの非大卒の白人が探し求めるような仕事です。ホワイトカラーの業務でも半分以上でAIの性能が人を上回るようになる。職を失うとは限りませんが、とてつもない大激震です」
「欧州企業の3分の2は労働者の再教育プログラムを持っているが、米企業は半分しかない。つまり、私がケンタッキー州の炭鉱離職者らに見いだした『喪失』と『恥』、そこから右翼政治に絡め取られるということが、世界中のホワイトカラー層にも起きる危険があるのです」
――人々が誇りを持つことが今後さらに難しくなる、と。
「そうです。私が言う誇りとは、大富豪になるといった意味ではありません。自分が社会に貢献していると感じ、誰かの役に立ち、家族を養っていると感じるようなことです。傲慢(ごうまん)さの対極にある美しい感情で、人間の生存に不可欠なもの。ミクロな名誉の感覚です。ただ、これを失うことは右翼政治の燃料にもなってしまうのです」
――著書にも書かれていたように後期ラテン語の「prode(プロデ)」ですね?
「そう。何かの『役に立つこと』という意味です。アメリカン・ドリームにおける目標の改定が必要です。常に親よりも成功する必要があるのでしょうか。夢が『地球を救うこと』『川の汚染を減らすこと』でもいいじゃありませんか」
「人々は自分の家族や地域社会の中で働き、誇りを得たいと願う。政治から誇りを得るというのは、あくまで代償行為(埋め合わせ)に過ぎません。しかし、誇りを喪失した状態から『政治を通じて誇りを満たしたい』という欲求に対して、人々を脆弱(ぜいじゃく)にさせてしまったのです」
【ここから読み解くこと】
自分たちの生活を豊かにしたわけでもない大富豪を、なぜ労働者層は支持するのか――。この謎を解く鍵が「プライド経済」。トランプ氏はお金の代わりに、「生まれ持った属性」の価値を引き上げるなどして、人々に「偽りの上昇感覚」を与えているとの見方を紹介します。
――経済を「プライド経済」と「物的経済」に分類していますね。普段、このような区別をしないので違いを説明してください。
「両者には重なる部分もありますが、物的経済とは、あなたの収入や家の価値といった数字です。歴史はしばしば純粋に物的な現実に着目して書かれている。マルクス主義者もウォール街のエリートも『物的な現実が第一であり、文化は上部構造であって二の次だ』という点では一致しています。しかし、特に危機的な状況下において、物的な経済にそれほどの優位性を与えるのは間違っています」
「プライド経済とは『自分は高い地位/低い地位にいる』という感覚です。私たちは、物的経済とプライド経済の両方に生きている。しかし、物的経済の変化には細心の注意を払うけれど、プライド経済の重要性については過小評価していることが多いのです。物的な現実ばかり見ていると、見落としてしまうことがあります」
「例えば、ジェンダー。トランプ氏は、カールした長い髪の『スーパーウーマン』を最前列に置き、人々を再ジェンダー化している。そこに新たな『誇り』を結びつけています」
「経済的に落ち込んだ地域に向けては、『あなたは米国生まれの白人で、異性愛者の男性だ』と言い、これらは『プライド経済』において非常に価値が高いことだ、と語りかける。周囲が『いや、いや、ここは移民の社会だ』『全員が何世代かさかのぼれば移民だ』と反論しても、彼は『いや、いや。今や米国生まれの白人であることはすごいことだ。あなたはそれを誇りに思うことができる』と言う。ご存じの通り、(現代社会では)そうした肌の色や性別に特別な価値は認められませんが、彼はその値札を付け替えているのです。『あなたは何もする必要がない。あなたがしなければならないのは、白人であり、異性愛者であり、男性であり、米国生まれであることだけだ』と」
「彼は『生得的地位』、生まれつきの属性の価値をプライド経済の中で上げようとしている。ある種の『偽りの階層移動(fake social mobility)』です」
――現実では社会的な上昇が困難になる中、「偽りの社会的な上昇」を差し出している、と。
「もはや自分の社会的地位や階級を上げることが不可能になっている現実を踏まえ、敗者たちが『はい上がる手段』を示し、彼らを狙い撃ちしているのです」
「製造業を取り戻すと言っても、製造業は全米の雇用の8%に過ぎず、自動化も進んでいます。支持者は『製造業を取り戻すことは良いことだ。生まれながらの異性愛者の白人男性が、良い仕事を取り戻せるだろう』と言うけれど、それほど有望ではない。不法移民を追い出すと言っても、彼らは全体の5%で、米国生まれの米国人と仕事を奪い合っているわけでもありません」
「また、トランプ氏は、自らの富豪の地位も誇示し、崇拝されたがってもいます。妻メラニア氏の豪華なドキュメンタリーを流し、視聴者に『美しく、金持ちな彼女が、ホワイトハウスのゲストとして招き入れてくれた』と思わせる。文化人類学的に解釈すると、『架空の地位の再分配(fictive status redistribution)』を行っているのです」
「物質的な豊かさや数字ばかりに目を向けていると、人々の感情面で起きている変化を、私たちはつい見落としてしまいます。私が試みているのは、そこに皆さんの意識を向けてもらうことです」
「トランプ氏が提供しているのは、(富裕層への課税や貧困層への支援といった真の)ニューディール政策ではなく、『生得的地位』の価値を認め、誇りを操作する、右翼版のニューディール政策です。これまで説明してきたような素地ができあがっていて没落を恐れている人々には響く、この強力な魔法に目を向けなければなりません」
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
現代日本において野球は民衆のアヘンである。いや、アヘンなどという古風で上品な代物ではない。もっと即効性があり、もっと共同体幻想を増幅し、もっと思考停止を快感へと変える危険なドラッグである。人はそこに汗と涙と青春を見ると言うが、実際に見ているのは、企業、学校、地域共同体、メディアが総出で製造した感情の商品である。九回裏二死満塁のドラマチックの展開で経済的不安や政治問題や労働問題が消えるわけではないが、少なくとも数時間は忘れさせてくれる。その意味で野球はきわめて優秀な麻酔剤だ。
プロ野球になると、商品はさらに洗練される。そこでは勝敗そのものよりも、所属、忠誠、反復が重要になる。ファンは自分の人生を改善する代わりに、贔屓球団の順位表を凝視する。人手不足で労働条件が悪化しても、インフレで可処分所得が削られても、シルバー民主主義と既得権益で政治が停滞しても、打率と防御率とドラフトの夢が毎年新しい麻酔として供給される。かつて宗教が果たした役割を、いまやスポーツニュースと配信サイトと応援歌が担っている。
とりわけ甲子園野球は、日本社会が未成年をいかに都合よく神聖化し、同時にいかに容赦なく消費しているかを示す壮大な見本市である。そこでは少年たちは教育の主体ではなく、共同体のノスタルジーを背負わされた供物になる。酷暑のなかで投げ、走り、壊れ、時に将来の身体を削りながら、「感動」を生産する。観客はそれを努力と礼節と伝統の物語として消費し、メディアは毎年それを国民的儀式へとパッケージング化する。未成年を食い物にするこの装置が、ブラバンの応援歌とチアガールのダンスと「一球にかける青春」というレトリックと舞台装置で浄化されているのだから、日本人のイデオロギーは手が込んでいる。甲子園野球は民衆のアヘンのなかでも純粋と献身の名で流通する質の悪い一品であるのだろう。
広島カープをめぐる文化もまた、別種の強い作用をもつドラッグである。そこでは忠誠心は美徳へ、執着は情熱へ、被害意識と選民意識の入り混じった興奮は郷土愛へと変換される。広島カープのファン文化は、しばしばパラノイア的な熱狂を帯びる。世界は常にカープを正当に評価していない、審判は敵で、メディアは敵で、他球団は敵で、それでも我々の赤い共同体だけは純粋である、という具合だ。もちろん、これは個々のファンの人格診断ではなく、熱狂的スポーツ共同体がしばしば帯びる政治神学の話である。しかし、その種の情念はいったん醸成されれば理性より早く伝播する。広島カープは、共同体の陶酔を赤く染め上げて売る、きわめて中毒性の高い覚醒剤である。
「野球は単なる娯楽だ」と言う人がいる。だが、単なる娯楽であるなら、なぜそれはこれほど学校、企業、地域、放送、広告、政治的レトリックと親和的なのか。単なる遊びであるなら、なぜそこでは規律、忍耐、献身、自己犠牲、序列、忠誠といった徳目がこれほど過剰に称揚されるのか。野球はボールとバットのゲームである以前に、日本社会が自らを愛するための鏡である。その鏡のなかでは、従順さは美徳になり、酷使は美談になり、集団への没入は人格形成のための教育と呼ばれる。ブラック企業の論理とそっくりである。
本気で社会を変えたい者は、この装置の効用を過小評価してはならない。人々を沈静化し、共同体への帰属感で包み、搾取を感動へと翻訳する能力において、野球は並の政治宣伝よりはるかに優秀である。だからこそ、その批判はいつも不人気になる。野球を批判する者は、文化を知らない、努力を侮辱している「子どもの夢を壊している」と非難されるだろう。だが実際には逆で、夢を壊しているのは夢という言葉で未成年の身体を使い潰す制度のほうである。
もちろん、こんなことを公約に掲げる政治勢力が権力を握る可能性はほとんどない。「甲子園を解体し、野球文化の国家的特権を剥奪し、ファンダムの陶酔を疑え」と訴える運動が多数派になる見込みは球場のビール売りが日本国首相になる見込みと同じくらい乏しいだろう。だが、それでも言う価値はある。日本の野球は、単なるスポーツではない。それは感動の顔をした統治技術であり、青春の名で流通する規律装置であり、共同体の酩酊を量産する危険なドラッグなのである。
米国では「不正選挙」という虚構が群衆を議事堂襲撃へと向かわせ、民主政治を内側から掘り崩しつつある。日本は違う――本当にそう言い切れるのか。慶応義塾大の烏谷昌幸教授は、私たちの隣にも「陰謀論政治」が忍び寄っていると指摘する。
人々はなぜ荒唐無稽な「物語」に熱狂するのか。民衆の怒りと敵意をたき付ける「剝奪(はくだつ)感」とは。民主主義を腐食させかねない陰謀論という劇物への、有効な解毒剤はあるのか。烏谷教授に尋ねた。
「陰謀論に強い問題意識を持つ直接のきっかけは、2021年1月6日に米国で起きた連邦議会議事堂襲撃事件です。直前の大統領選での本当の勝者はトランプ氏だったのに民主党バイデン陣営が不当に勝利を盗んだ、という不正選挙陰謀論を信じた人々が、民主主義の象徴である議会に乱入した。暴力そのもの以上に衝撃だったのは、この陰謀論を最も熱心にあおったのが当のトランプ氏だったことです」
「自らの政治的影響力を高めるために、政治家にとって致命的になりかねないウソを平然とつき、支持者を扇動する――この事件は、陰謀論を政治的に利用し武器化する『陰謀論政治』が民主主義の基盤そのものを破壊しかねない威力を持つことを、まざまざと見せつけました」
「とはいえ、日本では同じことは起きないだろうと思っていました。米国のように社会の分極化が極端に進んでいるとは言えず、強固な政治的支持層間の深い対立があるわけでもない。陰謀論政治は生まれにくいだろう、と。しかしその見立ては甘かった」
「昨年の参院選や今年の衆院選で飛び交ったスローガン『日本人ファースト』や、スパイ防止法、国旗損壊罪の成立を熱烈に支持する人々の言説を追っていくと、そこで共有されていたのは『誰かが日本を内側から壊そうとしている』『見えない敵が存在する』という典型的な陰謀論的世界観でした。対岸の火事だと思っていた現象が、気づけば私たちのすぐ隣で生まれていたのです」
陰謀論と無縁の人はほぼいない
「過去・現在・未来の世の出来事の原因を、十分な根拠もなく特定の誰かの陰謀と決めつける思考様式のことです。陰謀論の本質は、複雑で不確実な世界を単純な図式に物語化する点にあります。内容が荒唐無稽かどうかは重要な指標ではありません。強調したいのは、陰謀論の影響を受けていない人はほとんどいないということ。私自身、若い頃は、ケネディ米大統領暗殺は単独犯ではなく背後に巨大な陰謀があると、心のどこかで信じていました」
「また、陰謀論は右派の専売特許でもありません。例えばかつての反原発運動の中にも、『ユダヤ資本が世界の原発を牛耳っている』『原子力ムラはナチスよりひどい』といった根拠薄弱な言説が紛れ込んでいました」
「ただ、陰謀論はこれまでも研究者やジャーナリストの視界に入っていたにもかかわらず、大衆の非合理性を示す一指標に過ぎないと軽視されてきた面があります。私も社会運動を研究するにあたって、そうした非合理な主張を本筋とは関係のないノイズと捉え、思考の外側に隔離してしまっていた。しかし今振り返れば、それは陰謀論の持つ力の過小評価につながっていたと、反省しています」
「右であれ左であれ、草の根運動の情熱や力は、悪い勢力が善良な市民の生活を脅かしている、という怒りからしか生まれ得ない。福島の原発事故後の脱原発運動は、『日本のエネルギー政策は原子力ムラによって支配されてきた』という陰謀論的言説が広く浸透しなければ、あそこまで力強いものにはならなかったはずです」
――考えてみれば、陰謀論と政治運動の結びつきは新しいものではありませんね。
「はい。ナチスは荒唐無稽なユダヤ陰謀論を用いて大衆を反ユダヤ主義へと扇動しました。ハンナ・アーレントはドイツの全体主義を分析する中で『虚構が一貫性を持って現実を上書きしていく過程』を見いだしましたが、現在の視点から見れば、陰謀論政治の研究として捉え直すことも可能でしょう」
――ただ、自らの政治目的のために陰謀論を意図的に武器化する「陰謀論政治」が、日本にも広がりつつあるとまで言えるのでしょうか?
「陰謀論政治の特徴は、陰謀論が一般的な政策論と表裏一体で拡散する点です。議事堂襲撃に直結した米国の不正選挙陰謀論も、きっかけは公正な投票制度のあり方をめぐる真っ当な政策論争でした。ただ、トランプ氏の『郵便投票は不正が起きやすい』という一見まともな主張は、文字通りの表向きの意味だけでなく、陰謀論を共有する者だけに通じる特殊な意味をはらんでいました。熱烈な支持者にとっては『民主党が選挙を盗んでいる』という裏の物語を共有するための犬笛として機能したのです」
「日本でも直近の参院選や衆院選では、国籍取得要件の厳格化、外国人の不動産買収規制、スパイ行為を取り締まる法整備の必要性をめぐる政策論が飛び交いました。しかし、こうした一般的な訴えの裏で、参政党や日本保守党、日本誠真会などの一部支持者の間では『国会議員の65%は帰化人だ』『中国が大量の人間を送り込んで帰化させ、移民受け入れ法を制定し、日本を中国の一部にしようとしている』といった陰謀論が熱心に共有されていました」
「参政党の神谷宗幣代表は、選挙ではあからさまな陰謀論や過激な表現を控えています。日本がユダヤ系国際金融資本の支配下にあるとか、コロナワクチン接種を『人体実験』と断じた過去の発言や主張も修正。参院選で『極端な思想の公務員を洗い出し辞めさせる』と発言した後にも、言葉足らずだったと釈明しました。ただ、党員や支持者向けの場や動画では相変わらず『(日本で)目立つところにいる人の半分くらいはスパイ』『各分野にディープステート(影の政府)がいる。メディア、医療界、農業界、霞が関にも』と語ったり、編著書でマスコミは国際金融資本家によってコントロールされていると主張したりするなど、持論を滑り込ませています。政策論と陰謀論の言葉を巧みに使い分けているのです」
「確かに日本ではまだ、陰謀論を政治的資源として大々的に運用したり、敵・味方の線引きや忠誠心の測定に用いたりといったことは起きていません。トランプ氏は22年の中間選挙で、大統領選での不正選挙陰謀論を信じるか否かの踏み絵を候補者に迫り、共和党内の反トランプ派を洗い出しました。しかし陰謀論は使い方を誤れば、極端な言説が可視化され、かえって政治生命を脅かす両刃の剣です。日本で広い層に訴えるためには、露骨な陰謀論は今のところ有効ではない。内向きには陰謀論的なメッセージで動機付けを行い、外部に対しては前向きな国家論と政策論を語る。この使い分けこそ、日本における陰謀論政治のスタイルと言えます。荒唐無稽な話が飛び交い全面的に活用されている米国とは異なりますが、陰謀論が政治の動員力として機能している点は同じ。日本は既に陰謀論政治に足を踏み入れつつあると言えると思います」
募る剝奪感、進む感情的分極化
――陰謀論が活性化する要因として、世界をシンプルに把握したいという欲求と共に、「剝奪(はくだつ)感」を挙げていますね。
「陰謀論は、世界を善と悪の二項対立として捉え、様々な出来事を分かりやすい勧善懲悪の物語として解釈します。『中国が日本に工作員を大量に送り込んでいる』『野党の国会議員はスパイばかり』という言説は、『悪事をたくらむ者』と『隠された真実を知り正す者』の対立図式として物語化されています」
「もっとも、勧善懲悪そのものは古くからある枠組みです。近年、陰謀論が急速に暴走した背景には、ソーシャルメディアの爆発的な普及に加えて、何か大事なものが奪われるという剝奪感の増加があります」
「剝奪感は、困窮といった客観的な負の境遇だけでなく、期待値とのギャップから生まれます。それまで保持していた財産や地位などを失いかける時に、人は強い剝奪感を抱く。『失われた30年』で日本の国際的な地位は否(いや)応(おう)なく低下しました。親世代と同じように、いやそれ以上に働いても、期待していたような人生や未来が見えない。人口が減り経済が落ち込み国の借金も膨れあがり、国力がどんどん低下する。一方で隣国の中国は大国としての存在感を揺るぎないものにしている――。そこに『自分たちは悪くない。姿を見せない敵のせいで日本は弱体化している』という物語が登場し、不安と不満を肯定してくれたのです」
「『国会議員の6割超が帰化議員』という言説は、もちろん許しがたいデマです。しかし国権の最高機関のメンバーの大半を『代表』どころか『同胞』とすら感じなくなった層の声が力を持ち始めていることは、憂慮すべきです」
募る剝奪感、進む感情的分極化
――陰謀論が活性化する要因として、世界をシンプルに把握したいという欲求と共に、「剝奪(はくだつ)感」を挙げていますね。
「陰謀論は、世界を善と悪の二項対立として捉え、様々な出来事を分かりやすい勧善懲悪の物語として解釈します。『中国が日本に工作員を大量に送り込んでいる』『野党の国会議員はスパイばかり』という言説は、『悪事をたくらむ者』と『隠された真実を知り正す者』の対立図式として物語化されています」
「もっとも、勧善懲悪そのものは古くからある枠組みです。近年、陰謀論が急速に暴走した背景には、ソーシャルメディアの爆発的な普及に加えて、何か大事なものが奪われるという剝奪感の増加があります」
「剝奪感は、困窮といった客観的な負の境遇だけでなく、期待値とのギャップから生まれます。それまで保持していた財産や地位などを失いかける時に、人は強い剝奪感を抱く。『失われた30年』で日本の国際的な地位は否(いや)応(おう)なく低下しました。親世代と同じように、いやそれ以上に働いても、期待していたような人生や未来が見えない。人口が減り経済が落ち込み国の借金も膨れあがり、国力がどんどん低下する。一方で隣国の中国は大国としての存在感を揺るぎないものにしている――。そこに『自分たちは悪くない。姿を見せない敵のせいで日本は弱体化している』という物語が登場し、不安と不満を肯定してくれたのです」
「『国会議員の6割超が帰化議員』という言説は、もちろん許しがたいデマです。しかし国権の最高機関のメンバーの大半を『代表』どころか『同胞』とすら感じなくなった層の声が力を持ち始めていることは、憂慮すべきです」
――陰謀論が武器化される重要な背景として「政治的分極化」があるとも指摘しています。
「ええ。とりわけ重要なのが『感情的分極化』だと思います。米国では、自分の子どもが対立政党の支持者と結婚することを『不愉快』と思う人が50%ほどに達しています。60年代には数%でした。2020年の大統領選をめぐるNBCの調査では、異なる候補に投票した人とは結婚しないと回答した大学生が6割を超えています」
「政策や利害、イデオロギーの違い以上に『相手が嫌いだ』という感情が先鋭化し、政治対立を妥協困難なものにしてしまっている。この分極化が進んだ環境では、『敵』である相手陣営を悪魔化する陰謀論が極めて有効になります。トランプ氏が陰謀論を武器化できた大きな条件でした」
「日本では、まだそこまでの分極化は進んでいないでしょう。ただ、兆しは見え始めています。『リベラル』『エリート』『主要メディア』といった言葉が、単なる立場の違いではなく感情的な敵を指すラベルとして使われるようになってきている。この変化を軽く見るべきではありません」
「残念ながら特効薬はありません。公共の情報空間においてウソは許されない、と粘り強く指摘し続けることは不可欠です。ただ、ネットの偽情報対策やメディアリテラシー教育だけで解決できる問題でもありません。米国の不正選挙陰謀論は、反証材料が多く示され公的に否定されたのに、2年以上経っても共和党支持者の7割がなお信じていました」
「日本でも昨夏、国際協力機構(JICA)が進めていたアフリカとの交流事業をめぐり、政府がアフリカから移民の大量受け入れをもくろんでいるとの声がSNSで拡散し、JICA解体デモまで起きました。早い段階で誤情報が否定されたものの、騒動は1カ月ほど続きました」
「善悪の二項対立図式の中で陰謀論を強く信じる人は、自らの正義を疑わず、危機に瀕(ひん)した国を救おうとする愛国者を自任しています。米連邦議会議事堂を襲撃した人たちもそうでした。彼らにとっては、政府や主要メディアによる否定情報やファクトチェックこそが、敵対勢力による『偽情報』なのです。事実と虚偽情報をより分け、陰謀論の除去装置として機能してきた既存メディアを、トランプ氏も参政党も敵視しています」
「自分たちから奪われたものを取り返すために闘っている政治家の言葉だけが信じられる。そう疑いなく考えている人たちを『陰謀論だから信じるな』と説得することは容易ではありません。『陰謀論者』とレッテル貼りすることも、逆効果になりかねません」
――陰謀論政治の危機を克服するには、人々の剝奪感を手当てするしかないということでしょうか?
「陰謀論は、政治的に疎外されたと感じる人々にとって、希望と元気を与える物語として機能してしまっています。それに替わる、より建設的で希望の持てる物語を私たちの社会が提示できるか。まずはそれが大きなカギです」
「もう一つ重要な処方箋(せん)は、政党政治をきちんと機能させることです。有権者が寄せる陳情や訴えには元来、被害妄想や誇大妄想、怪しいデマが含まれているものです。議員たちはそれを丁寧に除去しつつ、言葉の先にある『民意』をうまく翻訳、集約してきました。しかし現在の政界は全体的に議員の世襲化とエリート化が進み、民意から隔たることで、そうした広範な民衆の利害集約機能を低下させてしまった感があります」
「グローバリズムによって日本の国力が低下し続ける中、蓄積する剝奪感の受け皿がなくなった。その政治的真空に登場したのが参政党でした。ただ、民意の中にある誤謬(ごびゅう)や偏見もそのまま丸ごと受け止めてしまっている。それが日本版右派ポピュリズム政党としての参政党の強みであり、危険な面でもあります。陰謀論抜きにはいかなる問題意識も語れない集団になっていないか、心配です」
経済学を学んできた人間として私が長年思い知らされてきたことのひとつは、技術革命についての予測はほぼ必ず二つの方向に間違えるということだ。短期的な影響を過大評価し、長期的な影響を過小評価する。Amara’s Lawと呼ばれるこの法則は、もう耳にタコができるほど引用されているが、引用している人々の大半がその含意を正しく理解していない。
なぜか。この法則が本当に言っているのは、私たちは技術の生産性への経路(path)を予測するのが絶望的に下手だということであり、それは「長期的にはすごいことになる」という楽観論の根拠にはならないからだ。むしろ謙虚さの根拠である。
1987年、ロバート・ソローが言った有名な一言がある。「コンピュータの時代はどこにでも見えるが、生産性統計の中には見えない」。いわゆるソロー・パラドックスだ。
結局のところ、ソローは間違っていた——ただし、正しくなるまでに約10年かかった。1990年代後半になってようやく、IT投資は全要素生産性(TFP)の統計に姿を現した。そしてその生産性ブームは2004年頃にはもう息切れしていた。つまり、真に生産性が加速した期間はせいぜい7〜8年だった。
ここで問いたい。AIについて、私たちはソロー・パラドックスのどの段階にいるのか?
私の暫定的な答え:まだ最初期、つまり投資は膨大だが生産性統計にはほとんど現れていない段階だ。2024年から2025年にかけて、米国の大手テック企業はAI関連の設備投資に年間2000億ドル以上を注ぎ込んでいる。これはドットコム・バブル期のIT投資をインフレ調整後でも凌駕する規模だ。しかしBLS(労働統計局)の生産性データは頑固に平凡なままである。
これ自体は悲観する理由ではない。1990年代の教訓は、GPT(General Purpose Technology、汎用技術——チャットボットの名前ではない)の生産性効果は補完的な投資と組織変革が追いついて初めて顕在化する、というものだった。電力についてのPaul Davidの古典的研究が示したように、工場が電力を最大限活用するには、建物の設計から生産プロセスまで全面的に作り直す必要があった。それには一世代かかった。
問題は、AIについてこの「一世代」がどのくらい圧縮されるか——あるいはされないか——である。
■ 今回は本当に違うのか
AI推進派(ブースター)たちの主張を整理しよう。彼らの議論は概ね三つの柱からなる。
第一に、AIは「知的労働」を自動化するので、過去の技術革命(肉体労働の機械化)とは質的に異なる。第二に、AIはAI自身の改良に使えるので指数関数的な自己改善が起きる。第三に、したがって従来の経済モデルは適用できない。
率直に言おう。第一の主張には相当の真実がある。第二の主張は経験的にまだ確認されていない。第三の主張はほぼ確実にナンセンスだ。
第一の主張から。確かにLLM(大規模言語モデル)がホワイトカラー業務の一部を代替・補完できることは明らかだ。コードを書く、文書を要約する、定型的な分析をする——これらのタスクでAIが人間と同等かそれ以上のパフォーマンスを示す場面は増えている。そしてこれらはGDP統計の中でかなりの比重を占めるセクターの業務だ。
しかし——そしてこれは大きな「しかし」だが——タスクの自動化と職業の自動化は全く別物である。これはDaron AcemogluとPascal Restrepoの研究が繰り返し示してきたポイントだ。ある職業の30%のタスクが自動化可能だとしても、その職業が消滅するわけではない。むしろ、残りの70%のタスク——AIには(まだ)できない判断、交渉、文脈理解——の相対的価値が上がる。
経済学ではこれを「Oの環理論(O-ring theory)」で考える。宇宙船チャレンジャー号を思い出してほしい。あの事故では、一個のOリングの不具合が全体を破壊した。多くの知的労働もこれに似ている。プロセスの大部分をAIが完璧にこなしても、人間の判断が必要な一箇所が全体の質を規定する。この構造がある限り、「AIが全てを代替する」というシナリオは実現しにくい。
投資の話に戻ろう。
私はバブルかどうかという問いの立て方自体が間違っていると思う。正確な問いはこうだ:現在のAI投資の期待収益率は、資本コストを上回っているか?
NVIDIAの株価は、AI関連の半導体需要が今後5年間にわたって年率30%以上で成長し続けることを織り込んでいる。Microsoftのクラウド事業の評価額は、企業のAI導入率が楽観的なシナリオの上限で推移することを前提としている。これらの仮定が同時に成立するためには、AIの経済的価値が、それこそ過去のどの汎用技術よりも急速に実現されなければならない。
これは不可能ではないが、歴史的な基準率(base rate)を考えれば、かなり強気な賭けだ。
もうひとつ、あまり議論されないが重要なポイントがある。AI投資の地理的・企業的集中度だ。米国のAI設備投資の大部分は事実上5〜6社に集中している。これは1990年代後半のテレコムバブルと構造的に似ている——大量の資本が少数のプレイヤーの「勝者総取り」の賭けに集中し、セクター全体の合理性が個別企業の楽観バイアスの総和によって歪められる。
マクロ経済的により心配なのは、バブルが弾けた場合の波及効果だ。テック企業の設備投資がGDPの相当部分を占めるようになった今日、AIへの期待の急激な修正は、2000年のドットコム・クラッシュよりも大きなマクロ的ショックをもたらす可能性がある。
■ 分配の問題
仮にAI楽観論者が正しいとしよう。AIが本当にGDP成長率を年1〜2ポイント押し上げるとしよう。それでも、私にとって最も重要な問いは変わらない。誰がその果実を得るのか?
過去40年間の技術進歩の歴史は、生産性の上昇が自動的に広く共有されるわけではないことを痛いほど示してきた。実際、skill-biased technological change(技能偏向的技術変化)の文献が明らかにしたのは、ITの普及が賃金格差の拡大と中間層の空洞化に寄与したということだ。
AIの場合、分配効果はさらに極端になる可能性がある。なぜなら、AIが代替するのは(少なくとも当面は)比較的高給のホワイトカラー業務の一部だからだ。パラドキシカルに聞こえるかもしれないが、配管工やクリーニング業者の仕事は、弁護士のパラリーガルやジュニアのプログラマーの仕事よりもAIによる代替に対して安全だ。これは分配の観点から複雑な含意を持つ——単純な「高スキル対低スキル」の図式では捉えきれない再編が起きる。
■ 私が本当に心配していること
以上を踏まえて、AI経済についての私の暫定的な見方をまとめよう。
AIは本物の汎用技術であり、長期的に有意な生産性効果をもたらす可能性が高い。しかし「長期的」が何年を意味するかについて、私たちは驚くほど無知である。現在の投資水準は、その効果が歴史的に例外的な速さで実現されることを前提としている。そしてたとえ楽観的なシナリオが実現しても、分配の問題が自動的に解決されることはない。
私が最も心配しているのは、AIについての公共的議論の質だ。テクノ・ユートピア主義者たちは「AGIが3年以内に来る」と叫び、テクノ・ペシミストたちは「大量失業が来る」と叫ぶ。そしてどちらの陣営も、自分たちの主張がきわめて不確実な予測に基づいていることをほとんど認めない。
経済学を学んだ人間として私が言えるのは、不確実性にはそれ相応の政策的対応がある、ということだ。セーフティネットの強化、教育と訓練への投資、競争政策による市場集中の抑制——これらは、AIがユートピアをもたらす場合でもディストピアをもたらす場合でも、あるいはその中間の(最もありそうな)場合でも、正しい政策だ。
確実性の幻想に基づく政策よりも、不確実性を認めた上でのロバストな政策のほうが、はるかにましだ。これは退屈な結論かもしれない。だが退屈な正しさは、刺激的な間違いに勝る。いつだってそうだ。
政府による自己放尿インテリジェンスは、典型的な情報過信型の制度設計であり、その帰結として計画経済と市場否定のダブル放尿が不可避的に発生する。
まず、経済における情報は分散的に存在し、価格メカニズムこそがそれを集約・伝達する自動操縦装置である。
実際、価格は情報伝達・インセンティブ付与・分配決定という三重機能を担う。
この分散情報体系を無視し、中央集権的な国家情報会議によって情報を統合しようとする試みは、それ自体が自己放尿インテリジェンスという第一の放尿である。
ここで重要なのは、政府が情報を集める能力ではなく、どの情報が重要かを選別する能力である。
しかし、合理的無知の概念が示すように、政治意思決定においては情報取得のインセンティブが弱く、むしろ政治的利得を最大化する方向へ歪む。
すなわち、情報は効率的配分のためではなく、権力維持のために使用される。この段階で、すでに市場の情報処理機構を代替することは不可能であり、市場否定の放尿が始動する。
さらに、政府がインテリジェンスを強化する過程で不可避的に発生するのが、計画経済的意思決定への傾斜である。
中央集権的計画は、価格というシグナルを遮断し、資源配分を歪める。結果として、政策は部分最適の集合体となり、一般均衡的整合性を欠く。これは計画経済の放尿である。
この三段階が結合すると、計画経済と市場否定のダブル放尿が完成する。
政府は政治的市場において行動し、利害集団の圧力に応じて政策を形成する。
その結果、情報機関は公共財としてではなく、特定利益のための道具へと変質する。ここでもまた自己放尿インテリジェンスが強化される。
政府は「プライバシー侵害はない」と主張するが、これは典型的な政府の自己評価バイアスであり、外部検証を欠いた情報独占の正当化にすぎない。
この時点で、制度はすでに市場的チェック機構を失っている。つまり、競争なき情報体制=独占的インテリジェンスは、効率性ではなく恣意性を生む。
自己放尿インテリジェンスは、単なる政策ではなく、価格メカニズムの否定を通じて、計画経済的歪みを拡大させる制度装置である。
そしてその帰結が、計画経済と市場否定のダブル放尿に他ならない。
このダブル放尿は、自由市場の情報処理能力を過小評価し、政府の認知能力を過大評価するという、最も警戒すべき知的誤謬の制度化なのである。
結論から言おう。これは単なる失態ではない。これは典型的な自己放尿だ。
しかも繰り返し発生する、制度的・認知的失敗としての自己放尿である。
俺は市場の自由という分散的情報処理メカニズムを無視し、他人の行動に対して規範的干渉を行った。
その瞬間、価格シグナルを踏みにじり、主観的価値理論を否認し、機会費用の概念を忘却した。これを自己放尿と呼ばずして何と呼ぶのか。
市場とは、個々の主体が持つ断片的かつローカルな知識を、価格というシンプルな信号に圧縮して交換する装置である。
ここで重要なのは、誰一人として全体像を把握していないという事実だ。にもかかわらず、俺は他人の選択に「それは非効率だ」「それは間違っている」と口出しした。
これは、情報の非対称性を理解していない証拠であり、同時に自分が持ち得ない知識を持っていると錯覚する致命的なハイエク的傲慢だ。つまり、自己放尿である。
さらに悪いことに、俺は暗黙のうちに厚生経済学的な改善を気取った。
だが、パレート改善の定義すら厳密に満たしていない介入は、単なる価値判断の押し付けに過ぎない。
外部性の存在を証明もせず、取引費用の構造も分析せず、ただ感情で他人の行動にケチをつけた。
この時点で、俺は価格理論の基礎を放棄している。主観的効用を観察可能なものと誤認し、序数的選好を基数的に扱うという、初歩的誤謬の連鎖だ。
第一に、個人は自らの効用最大化に関して最良の判断者であるという前提。
第二に、競争市場はインセンティブと情報の整合性を通じて資源配分を調整するという理解。
第三に、理論は現実の説明力によって評価されるべきであり、道徳的直観ではない。
俺はこれらすべてを踏み外した。自分の直観を市場の上位に置いた瞬間、自らの無知を露呈したのだ。
もっと冷酷に言えば、俺の行為は他人の効用関数に対する侵略だ。
市場における交換は自発的であり、双方が主観的に利益を得ると判断したから成立する。
そこに第三者として割り込み、「その選択は間違いだ」と断ずることは、観察不可能な内部効用を外部から否定する暴力に等しい。
ここに合理性はない。あるのは、誤った優越感と、理論なき規範の押し付けだけだ。つまり、自己放尿である。
なぜなら政府は強制力を持ち、非自発的交換を制度化する主体だからだ。
租税、規制、補助金、いずれも価格メカニズムを歪め、インセンティブ構造を変形させる。
ここでの批判は、個人の選択を尊重するためのもの、すなわち市場秩序を防衛するための理論的帰結である。
政府介入は往々にして意図せざる結果を生み、公共選択論が示す通り、政治主体もまた自己利益最大化を行う。
したがって政府批判は、自己放尿ではない。むしろ自己放尿の予防接種である。
だが俺は、その本来向けるべき批判の矛先を誤った。政府ではなく、個人に向けたのだ。
強制力を持たない主体に対して規範的攻撃を行い、強制力を持つ主体への分析を怠った。
この転倒こそが、認知的資源の誤配分であり、思考における非効率性そのものだ。俺は市場の分散的合理性を攻撃し、中央集権的判断の幻想にすがった。
俺の誤りは一つに収束する。自分の知識の限界を過小評価し、他者の知識の価値を過小評価したことだ。
市場はそのギャップを埋める制度であり、価格はその翻訳装置である。
それを無視した瞬間、分析者ではなく、単なる干渉者に堕した。そして干渉者は、ほぼ例外なく自己放尿する。
次にインセンティブを見ろ。
それができないなら、口を閉じろ。でなければ、また自己放尿するだけだ。
“ 上述したようなスキルが現実の安全な運転に直結するわけではないことにも留意が必要だという。各指標のパフォーマンスが高くとも、自身の能力を過信したりリスクを過小評価したりすれば、危険なドライバーになり得ると研究者たちは分析”
“ 将来的には高齢者の安全な運転を維持することや、視覚や認知の機能が低下した後のリハビリの支援などへの活用も検討されており、前述したような研究の次の展開にも期待される”
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20260327-432508/
これは日米の優劣を断定する記事ではない。
「寄付額の多さ」をそのまま「親切さ」とみなしていいのかを考えるための、問題提起である。
よく知られた比較として、アメリカの寄付総額は日本の26倍、人口一人あたりでも大きな差があると言われる。
この数字だけを見ると、「アメリカ人の方が親切で、日本人は冷たい」という結論に飛びつきたくなる。
----
寄付の理由としては「社会の役に立ちたい」という説明がよく挙がる。これはもちろん本当だと思う。
ただ、それだけでは説明しきれない。
困っている人を目にしたとき、何もしない自分に居心地の悪さを感じる。
その不快感を解消する最も分かりやすい行為の一つが、寄付になる。
ここで重要なのは、寄付を「善意か偽善か」で切り分けることではない。
----
「アメリカ人の性格が特別に優しいから」で片付けると、構造が見えなくなる。
寄付行動は、個人心理だけでなく制度と環境によって押し上げられる。
人間関係が流動的な社会では、長年の付き合いで信頼を積み上げるより、短期で伝わるシグナルが効きやすい。
寄付はそのシグナルとして非常に強い。金額も実績も可視化しやすいからだ。
「自分は社会に責任を持つ人間だ」というメッセージを、短時間で伝えられる。
税制上の優遇がある社会では、寄付しないことは経済的な機会損失に見えやすい。
さらに、寄付を当然視する文化があると、社会的評価の不安も重なる。
結果として、
こうした可視化は、寄付した人には正当化を、寄付していない人には焦りを生む。
その循環が続くと、寄付は「立派な行為」から「しておくべき行為」に変わる。
----
日本で寄付が相対的に少ないとして、それは即「不親切」を意味するだろうか。
日本では「寄付しない不安」よりも、「参加しない不安」「役割を果たさない不安」が強く働く場面が多い。
この違いを無視して「寄付額だけ」で親切を比較すると、見えているものは文化差ではなく、測定方法の偏りかもしれない。
----
SNS投稿、企業キャンペーン、寄付をめぐる評価の共有などを通じて、「見える親切」が広がっている。
ただ、「見える親切だけが親切」という空気になったとき、これまでの無数の不可視な親切が過小評価される。
そのとき人は、「本当は十分やっているのに、まだ足りない」と感じ始める。
----
「アメリカの寄付は日本の26倍」という事実が示すのは、単純な親切度の差ではない。
むしろ、ある社会が制度と文化によって、どれだけ人々の行動を寄付に集約できるか、という構造の差である。
だから問い直したい。
私たちが日々担っている、見えない責任や関係の維持は、どこに数えられているのか。
寄付を増やすべきかどうか以前に、まず「何を親切と呼ぶのか」を自分たちで決める必要がある。
----
ネットを見ていて思うのが、たしかに氷河期世代は特に悲惨に語るし語られている。当事者も多いはず。
ただそれも仕方がないことだと思う。
他者の行動の原因を評価する際、周囲の状況や環境(外的要因)の影響を過小評価し、本人の性格や能力(内的特性)を過大評価してしまう心理的傾向だ。
ただ、個々人の行動が思うように実らなかった。
自分だけでなく他の人の多くも上手くいっていない。
でも上手くいった人はいるらしい。
こんなん今と同じじゃないのか。何世代でも同じこと。それを世代で比べると残酷になる。
氷河期世代が当時頑張れば世界を変えれたと思うなら、今の世界を変える力はZ世代にある。
貴様らの「青少年育成」という美名は、価格メカニズムに対する理解不足が生んだ典型的な自己放尿の産物である。
いや、これは単なる自己放尿ではない。無知と権力のダブル放尿とでも呼ぶべき、制度的に再生産される非効率の結晶だ。
市場においては、価格は情報を伝達し、資源配分を調整し、そして行動を規律する。
しかし貴様らは、その分散された知識の体系を信頼せず、中央集権的な判断で「何が有害か」を決めようとする。
これは、情報の非対称性を無視した自己放尿であり、同時に合理的無知を制度として固定化するダブル放尿である。
そもそも「青少年を守る」という前提自体が、個人の選好と自己責任を過小評価している。
これは経済学の基本仮定であり、同時に自由社会の前提でもある。
貴様らの検閲は、この前提を否定し、「国家が選好を上書きすべきだ」という極めてパターナリスティックな幻想に依拠している。これこそが自己放尿だ。
さらに言えば、その検閲は外部性の議論を装っているが、実態は単なる政治的市場における利益集団の自己放尿である。
集中した利益と分散したコストの構造の中で、声の大きい少数が規制を要求し、無関心な多数がそれを受け入れる。
結果として生じるのは、効率性の低下と自由の侵食というダブル放尿だ。
貴様らは「有害情報」を排除すれば社会が改善すると信じている。
しかしそれは、需要が存在する限り供給は形を変えて現れるという基本的な市場原理を無視している。
規制は単に地下化を促し、より不透明で制御不能な形で問題を再生産する。
つまり、意図せざる結果を生む自己放尿であり、政策失敗の教科書的事例だ。
そして何より重大なのは、貴様らの行為が自由の条件を侵食している点だ。
選択の自由が制限されるとき、個人は学習機会を失い、責任能力も萎縮する。
これは長期的には社会全体の厚生を低下させる。
短期的な安心感と引き換えに、長期的な自由と効率を犠牲にする。これ以上ない自己放尿だろう。
貴様らの「善意」は、インセンティブ無視・情報軽視・自由軽視というトリプル放尿に支えられている。
市場を信頼せず、個人を信頼せず、しかし自らの判断だけは過信する。その構図自体が、まさに制度的自己放尿の完成形だ。
自由社会とは、誤りを許容しつつ、それを通じて学習するプロセスである。
貴様らの検閲は、そのプロセスを遮断する。結果として残るのは、未熟な個人と肥大化した権力、すなわち、自由なき秩序という最大級のダブル放尿だ。
敬具。
リフレ派・ケインズ派が自らの理論的整合性を保つために繰り返す政策は、一見すると合理的介入の衣をまといながら、その実態は価格システムという自動操縦装置を破壊する制度的自己放尿に他ならない。
まず、中東情勢悪化を口実とした補助金バラマキは典型的な自己放尿である。
エネルギー価格の上昇は希少性のシグナルであり、消費者と生産者に対して代替行動を促す価格メカニズムの核心的機能である。
しかし、補助金によって価格を歪める行為は、この情報伝達機能を遮断し、誤った資源配分を恒常化させる。
これは短期的な政治的利得と引き換えに長期的効率性を犠牲にするインセンティブの自己放尿である。
さらに、政府がサプライチェーンを戦略的に再構築しようとする試みもまた、自己放尿の別形態である。
市場における分散的知識と価格シグナルに基づく調整過程を無視し、中央集権的判断で供給網を再設計しようとする発想は、情報の非対称性と計算問題を無視したナイーブな構成主義に過ぎない。
結果として生じるのは、非効率な国内回帰とコスト上昇、すなわち資源配分の自己放尿である。
ここでの問題は、政府が将来の成長分野を選別できるという前提そのものにある。
価格理論の観点からすれば、投資の収益率は市場参加者の期待とリスク評価の集積として決定されるべきものであり、政治的プロセスによる資本配分は必然的にレントシーキングを誘発する。
これは政治市場における自己放尿であり、資本の限界生産性を低下させる。
日本経済は補助金バラマキと政府主導投資のダブル放尿によって機能不全に陥りつつある。
このダブル放尿は、貨幣的安定性の軽視と実物的資源配分への過剰介入という二重の歪みをもたらす。
貨幣供給のルールなき操作と財政拡張の組み合わせは、期待インフレのアンカーを失わせ、同時に実体経済の効率性を損なう。
本質的に問題なのは、リフレ派・ケインズ派が市場の調整能力を体系的に過小評価し、政府の裁量を過大評価している点にある。
価格は単なる数値ではなく、分散した知識を凝縮したシグナルである。このシグナルを歪めるあらゆる介入は、経済主体の合理的選択を誤導し、結果として全体の厚生を低下させる。
自己放尿は一度始まると止まらない。なぜなら、最初の介入が生み出した歪みを是正するために、さらなる介入が正当化されるからである。
この累積的プロセスこそが、自由な価格システムを侵食し、最終的には経済の自律的調整機能を麻痺させる。
ゆえに必要なのは、裁量的介入の縮小とルールに基づく政策への回帰である。
パラメータが複雑だと嘆く連中は多い。
だが問題は、その複雑さに対して一貫したルールを持たず、場当たり的に介入し続ける意思決定の構造にある。
価格体系は情報を伝達する装置だ。にもかかわらず、無数のパラメータを恣意的にいじるということは、その情報チャネルにノイズを注入する行為に他ならない。
結果はどうなるか。資源配分の歪み、インセンティブの崩壊、そして最終的には自己放尿だ。
しかも単発では終わらない。規制と補助金のダブル放尿、すなわち介入と再介入のダブル放尿が発生する。
ここで重要なのは、意思決定者が自らの無知を過小評価している点だ。
分散した知識を市場が処理するという基本原理を理解しないまま、中央でパラメータを最適化できると信じる。
この瞬間に、自己放尿は不可避になる。なぜなら、彼らは誤りのコストを外部化できるからだ。
失敗しても自分の資源は失われない。他人の資源で自己放尿を繰り返す構造が完成する。
最初の歪みを是正するために新たなパラメータを導入する。しかしその新パラメータが新たな歪みを生み、次の介入を誘発する。
これは一種のソロコンチェルト放尿だ。一人の設計者が、全ての楽器を同時に演奏しようとして、結果的に全てを台無しにする。オーケストラの分業を否定した瞬間、音楽は騒音に変わる。
これはルール対裁量の問題に帰着する。安定したルールがあれば、主体は予測可能な環境で行動できる。
しかし裁量的なパラメータ操作は、その予測可能性を破壊する。予測できない環境では、人々は最適化ではなく防御に回る。
その結果、効率性は低下し、さらなる介入が呼び込まれる。つまり、制度設計そのものが自己放尿を内生化している。
そして最後に残るのは、責任の不在だ。市場では誤れば退出する。
しかし裁量システムでは誤っても権限は維持される。この非対称性が、自己放尿を持続可能な戦略にしてしまう。
「認識的不正義」とは、物事や出来事に対する認識や理解の仕方が不正義を生み出すことを指します。簡単に言えば、人々がある事象や状況を不公平または不正確に認識することが、不正義を助長する場合があるという考え方です。
例えば、ある社会問題に対して誤った情報や偏った視点で認識を持っていると、その誤った認識が社会的な不公平や不正義を引き起こすことがあります。これには、差別的な見方やステレオタイプに基づく誤解、または特定のグループや個人の権利を無視するような認識が含まれます。
「認識的不正義」がもたらすインパクトは、非常に深刻で広範囲にわたります。認識が誤っている、偏っている、あるいは無視されている場合、以下のような影響があります。
認識的不正義があると、特定のグループや個人が社会で平等に扱われないままとなり、その不平等が続いたり、強化されたりします。例えば、マイノリティや社会的に弱い立場にある人々が、支援を受けられなかったり、社会的に過小評価されたりすることで、格差が固定化していきます。
例: 性別や人種に基づく差別が社会に存在する場合、偏った認識(例えば「男性はリーダーに向いている」「黒人は犯罪者になりやすい」など)があると、その認識が無意識のうちに行動に反映され、結果としてそのグループの機会が制限されることになります。
認識の誤りや偏見が政策や法律に反映されることがあります。例えば、貧困層の人々が「怠け者」だという偏見から、十分な支援が提供されない場合、貧困の解決が遅れたり、状況が悪化したりします。
例: ある国で「移民が社会保障を食いつぶしている」という誤った認識が広まると、移民に対する支援や保護が減少し、実際には経済に貢献している移民が不当に扱われることになります。
社会があるグループに対して不正確または偏った認識を持つと、そのグループに属する個人は自分の価値や能力について誤った信念を持たされることがあります。これが長期的には精神的な健康問題や自己評価の低下を引き起こすことがあります。
例: ある特定の性別や人種に対する否定的な認識(例えば「女性は感情的」「アジア人は数学が得意」など)が強い社会では、その対象となる人々が自分の本来の能力や可能性を発揮できなくなる可能性があります。
誤った認識が広がると、異なるグループ間で誤解や対立が生じやすくなります。認識の不正義が対立を煽り、最終的には社会全体に不安や暴力を引き起こす原因となることがあります。
例: 「移民は危険だ」といった認識が広がると、移民とそれに反対する勢力との対立が激化し、社会の分断が進むことになります。
過去の不正義や差別が誤った認識によって正当化される場合、その歴史的な傷が解消されずに引き継がれてしまいます。これにより、過去の過ちが再び繰り返されるリスクがあります。
例: 先住民に対する偏見が根強く残っている社会では、過去の植民地主義や土地奪取の問題が未解決のまま放置され、先住民の権利が無視され続けることになります。
認識的不正義が社会に及ぼす影響は、そのまま社会全体の公正さや秩序に大きな問題を引き起こします。認識を改めたり、偏見を取り除くことは、個人の尊厳や社会の平等を保つために極めて重要です。逆に、認識の誤りが広まれば、社会のあらゆる側面で不公平や不正義が助長され、深刻な問題を引き起こすことになります。
そんな奴らを嫌悪の目で見ながら、いつのまにか承認欲求を捨てたいと考えるようになった。
承認欲求を捨てたいと思うのも、過去に期待されることを夢見て強迫観念じみた考えをもってしまったことも一因ではあった。
小さい頃は影に隠れた暮らしや隠者的な振る舞いに憧れがあったのも影響し、人付き合いやかかわり合いは避けるように生活した。
何かを頼む際も相手に期待はせず、こちらも何かを請け負う際に過度な期待はしないように釘を差しつつ、必要最低限のことだけこなすよう心がけた。
感謝や期待の言葉はほぼリップサービスと受け取り、事実だけを受け取るようにとどめた。
するとどうだろう、自ら期待をすることはなくなり、期待に応えねばならないという強迫観念じみた考えもほとんどなくなった。
他人から期待されるように言われた言葉が全く信用できない。嘘をついていると思い込み払拭できない状態に陥った。
ただ話し相手の言葉の前後やそれまでの経緯を追いかけても嘘をついているとは思えない。逆に嘘をついているのなら相手側が不利になるからだ。
認知が歪んでいる、そう思い考え方を補正しようとしても全くうまくいかない。うまくいくどころか、期待もされていないという思いが強くなるばかりだ。
その時に気づいた、承認欲求を捨て認められることを過小評価してきた結果がこれだと。
そして今、期待されることを取り戻そうとはしているが、全くうまくいかず非常に苦しい。
言われた言葉もそのまま受け止めることができず空虚に受け止めてしまうほか、先にも書いたように嘘を疲れていると歪んで受け止めてしまう。
医者にも行きながら、期待や感謝をされたときにあえてわざとらしく振る舞うような行動をしているときもあるが、認められようと考えた想いはすぐに真っ白に塗りつぶされてしまう。
今思うと、隠れた暮らしや隠者的な振る舞いを達成する目的のために承認欲求を捨てる手段を使うのは間違いだったようにも思う。
影も隠者も、他人に観測され評価されそのような名前がついている。観測も承認もされないのであれば影でも隠者でもなく、もはや人と呼べるものではないのかもしれない。
そもそも、他人に承認されるという欲求を捨てておきながら、こんなくだらない文章を書いて流しているのはなぜだろうか。
思いを吐き出すことで楽にでもなりたかったのか?こんなことを書いても赤の他人を考えてくれる人なんてどこにいる。無条件で承認されたいとか子供でもあるまいし。
あわよくば人に多く見られてコメントやブックマークが増えることでも期待しているのか?仮にそうなったところでその批評をまっすぐ受け止められないだろう。そもそもこんなところに流している時点で人となりすら認知されないだろう。
この駄文が誰かに見られて何かを助ける糸口になるとでも期待しているのか?くだらない。自分すら救えないのに誰かの救いになれると思うなどおこがましい。
お前は「短期的なパニック」に目を奪われており、貨幣が経済に浸透するまでの「タイムラグ」と「市場の自己回復力」を過小評価している。
「経済成長に合わせる」と「機械的」は矛盾しない。まず定義の一貫性についてだが、k%ルールにおける「経済成長に合わせる」とは、毎年の景気変動を見て後出しジャンケンで決めることではない。
その国の「潜在的な成長能力(長期的な実力)」をあらかじめ見積もり、それに合わせた伸び率を「固定」することを指す。
景気が良くてもアクセルを踏まず、悪くてもブレーキを踏まない。この「何があっても変えない」という予測可能性(アナウンスメント効果)こそが、企業や家計に安心感を与え、貨幣錯覚による混乱を防ぐ唯一の手段である。
「マイナス成長でk%増やしたらハイパーインフレ」というが、景気が落ち込んでいる(マイナス成長)の時に通貨を増やせば、確かに計算上は物価が上がる要因になるが、これは単なる一時的な調整に過ぎない。
ハイパーインフレは、政府が借金返済や失業対策のために、貨幣を「爆発的に(k%どころではない量)」刷り散らかすことで起きる。
k%という低率で固定されている限り、通貨の供給には天井があることが誰の目にも明らかなため、インフレ期待が暴走して貨幣価値が紙屑になることは物理的にあり得ない。
パンが200円になる局面があっても、それは供給側のショックを吸収する過程であり、貨幣量が縛られていれば、やがて価格は落ち着く。
つまり「脳死k%」こそが実質賃金を救う。「景気が悪いならもっと刷って救済すべきだ」という温情主義こそが、実は労働者の実質賃金を最も破壊する。
政府が景気を支えようと通貨を乱発すれば、物価上昇が賃金上昇を追い越し、実質賃金はさらに目減りする。
「脳死」と揶揄されるほどの徹底したルール化こそが、政治家の人気取りや中央銀行の誤った判断(裁量)という、経済における最大の不確定要素を排除する。
市場参加者が「通貨量はこれ以上増えない」と確信できれば、企業は無理な値上げを控え、労働者は実態に基づいた賃金交渉が可能になる。
「政府に何かできるはずだ」という幻想を捨て、ルールに身を委ねること。それが、インフレという怪物に唯一手枷をはめ、実体経済を長期的な安定へと導く道である。
たとえ中東の石油施設が破壊され、再建に数年を要し、トランプ大統領が戦略的にエネルギー価格を吊り上げたとしても、それは依然として「特定の資源の希少性」という相対価格の問題に過ぎない。
石油が高騰すれば人々は他の支出を削るか、代替エネルギーへの移行を加速させるだけであり、社会全体の物価が持続的に上がり続ける「インフレ」が発生するのは、常に中央銀行がそのコスト上昇を穴埋めするためにマネーを過剰に供給した時だけ。
地政学的な供給ショックを「不況」の永続的な理由にするのは、市場の柔軟な価格調整機能を過小評価した貨幣的現象の本質からの逃避である。
輸入代金がいくら高かろうと、通貨価値の安定さえ維持されていれば、経済は自己調整プロセスを経て、いずれ自然失業率という均衡点へと回帰していく。
思考や行動を変えることで人生を好転させる、というアイデアそのものは一見すると理にかなっているように見える。
だが、自己啓発本には新規的なものはないし、成功者が書いたものであってもただの生存者バイアスである可能性が高い。
むしろ「自分の思考法を最適化すれば成功できる」という発想そのものが、どこか過度に単純化されている。
タナハ(聖書)やラビ文献は、人間の成功や失敗を単なる心理テクニックの結果としては扱わない。そこには神の摂理、共同体、義務(ミツワー)、そして人間の限界が絡み合っている。
これは、努力や能力が無意味だと言っているのではない。むしろ、人間が自分の成功を完全にコントロールできるという幻想を否定しているのである。
また、ラビたちも成功の秘訣のようなものを単純化して語ることを好まなかった。
ピルケー・アヴォートには、
とある。ここで重視されているのは結果ではなく責任であり、成功法則ではなく義務の継続である。
つまり、自己啓発的な発想がしばしば前提にしている「正しいマインドセットさえ持てば人生は好転する」という物語は、あまりにも自己中心的で、しかも神の存在を過小評価している。
人間が変えるべきなのは単なる思考法ではなく、むしろ行い、すなわちミツワーと倫理的実践であり、その結果は必ずしも人間の望む形で現れるとは限らない。
インターネット社会の自由を守る議論には、驚くほど多くの自己放尿が含まれている。
ここでいう自己放尿とは、自由を守るつもりで行動しながら、実際には自分の自由を自ら縮小させる愚かな行動を指す。
インターネット政策の多くはまさに制度設計における自己放尿の場になっている。
社会制度の評価は意図ではなくインセンティブ構造で判断すべきである。
価格システムが情報を伝達し行動を調整するという基本原理がある以上、自由な社会は中央の善意によってではなく、分散的な意思決定の結果として成立する。
ところがインターネット政策の議論では、この価格理論的直観がしばしば忘れられる。その結果、自由を守ると言いながら制度的自己放尿が頻発する。
多くの政府は「偽情報対策」「安全なインターネット」「プラットフォーム責任」という旗を掲げて規制を拡大する。
しかしこれは典型的な知識問題の無視である。中央の規制当局が「何が有害情報か」を決める時点で、分散した情報を持つ社会の判断メカニズムを破壊する。
結果として起きるのは次の連鎖だ。
3. 利用者は萎縮
つまり自由を守るつもりで情報市場を自分で破壊する自己放尿になる。
自由社会は過度に政府に依存してはならない。政府権力は常にルールで拘束されるべきであり、裁量は最小化されるべきである。
多くの政策論者はこう言う。「巨大IT企業が強すぎる。だから政府が規制すべきだ。」
しかし価格理論的視点では、ここで重要なのは市場競争の動学である。巨大プラットフォームが存在する理由は、多くの場合ネットワーク効果と規模の経済にある。
結果として社会は「独占批判と規制強化のダブル放尿」という制度設計に到達する。
これは一見合理的に見えるが合理的無知の概念を思い出す必要がある。
社会の多くの参加者は、政治的発言のコストと利益を計算して行動する。匿名性はそのコストを下げる制度である。
これは自由社会の最も重要なメカニズム、すなわち分散的監視システムを自ら破壊する自己放尿である。
インターネット社会の自由を脅かす最大の要因は、国家でも企業でもない。
自由社会の歴史は、外敵との戦いよりもむしろ内部の自己放尿との戦いであった。
したがってインターネット社会の自由を守る最も重要な政策は一つしかない。
「余計なことをしない」