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はてなキーワード: 心理的とは

2024-12-13

西村めぐみってなんなの?

女のくせに1990年ぐらいか仕事Linux使い倒してるってさあ。

あのころはまだ女がitそれも開発系の仕事につく空気じゃなかったったでしょ?

いったいどういう経緯があれば女なのにそういう仕事についてみようという発想自体が出てくるのか謎。

女で初めて判事になろうとするぐらいの心理的ハードルだろ

とにもかくにもなーんかこういう女がいるのは同じ男として女風情にお株を奪われてるみたいで癪だ

anond:20241213035308

いや、星4の確定ルールモダンガチャにも旧来の10方式ガチャにもある。

1回ずつ10回まわしても、10回以内には星4でるみたいになってるから10回分のまとまった石用意して回さないと確率アップ補正や確定補正を受けられない旧式ガチャよりも完全上位互換

その分、ガチャ履歴をチェックして星4や星5の確定タイミングを見定めておく手間や必要性が生まれるが、むしろそのおかげで、排出タイミングを調整するゲーム性計画性がガチャ生まれる。(星5確定枠は次のガチャバナーまで取っておこう、星5直前まで回して今出る星4をなるべく狙おう、的な)

モダンガチャは、旧来ソシャゲガチャ感覚で利用すると果てしなく渋いように感じるが、むしろ渋いことこそが強みで、射幸性ランダム性を抑えて弱毒化しつつ、結果的にはバランスよく定期的に収穫を得られる、心理的にもおサイフ的にも安心感のある設計な所に意味がある。

[]

v7.9のシナリオ精神ダメージ高すぎて9章までやれおじさんならぬ2部6章おじさんになってしまいそう

崩壊3rdで一番エグいシナリオかもしれない

配信者の実況も見返してまたボロ泣きしてしまったわ

それにしても新シナリオライターらしいが悔しいけど凄腕だわ

関係性を高めて持ち上げて持ち上げて絶望に落とすってこれだけ書くと陳腐だけど

なんか虚淵脚本に近いえげつなさを感じる

いや伏線がめちゃくちゃ長期的に張られてる分アニメとは比較できん

こんなに心臓まれて揺さぶられたのどんだけぶりだろう

この精神状態で年越せって悪魔なのかな?

見返したことで糸口になりそうな記述もいくつか読み取れたけど

本当にどう転べば救われるのか分からん

他のゲームではmiHoYoを信じろでどーんと構えられる余裕あるけど

今回は本当に心理的に無理なくらい曇らせにきてる

あーなんも手につかんてキーボードマウス以外

2024-12-11

性犯罪者の更生過程

性犯罪加害者として警察にお世話になった者です。

被害者や同様の事案の被害に遭われた方を不安にさせるので犯罪の時期、内容等は伏せます


ある1事案で逮捕されて、証拠諸々から余罪も見つかり…という感じです。

いまは社会復帰しています

自分のケースもレアかなとは思います思考の変遷について書き留めたいので、ざっくばらんに書いてく。思いつきで書いてるのでわかりにくいかも。

まずは逮捕後、母親は俺を見捨てて勘当するつもりだったらしい(父親はすでに病気他界していて兄弟もいない)。

ただ、偶然おれが捕まった頃にテレビ雑誌記事かなにかで性犯罪被害に遭った方の記事を読んだのか番組ドキュメンタリー?を見たかしたのと、再犯率が高いとか、俺もそうだったけど1人で複数回犯罪を重ねていたりするケースがままあることを知って、このまま勘当して見捨てたらさら被害者を増やす可能性があると思ったらしく、成人してる子とはいえ親として再犯させないためにも関わり続けることを決めたらしい。(これは後述するカウンセリング等の際に聞いた)

母親が見捨てなかったというのが俺にとってはすごく大きかった。

警察でのあれこれは割愛するが、

結論、更生プログラム的なのやカウンセリングを受けた。

カウンセリングについては今でも続けている。


逮捕時の俺の感想は「しくったな」しかなかった。

被害者に対して申し訳ないとかではなく、どこをどうすればバレなかったか、とかもっとうまくやってればとか、自分が下手こいたという認識しかなかった。

警察に行った被害者に対してめんどくせー女がよ…みたいに考えていた。

カウンセリングを通じて被害自分事として考える試みがあったが、

例えば当事者意識を持つために自分に近しい人(近所のお姉さんとか、親戚の女の子とか)が被害に遭った場合にどう感じるか、みたいな。

俺にとっては正直ただのオカズだった。

ズリネタしかなかった。

認知の歪み」なんて言うけどまさしくそうだった。

知ってる女の人が性被害に遭ってひどい目にあわされて絶望してるの考えただけで抜けると思ってた。

さすがにそのまま言いはしなかったし、知ってる人が被害に遭ってたら辛いです悲しいですとか言ったかもしれないけど(当時どう答えたか覚えてない)、カウンセラー先生にはたぶんそこも見透かされてた。

そのため、そもそも俺がどうしてそういう認識を持ってしまたか?を探ることになる。

両親は本や漫画が好きで家にはたくさんあった。そして父親エロ本が当たり前にその辺に転がってた。

父親は家の中で強権的だった。

酒に酔うと、暴力は振るわないが、テレビに出てる女性タレントグラドルの見た目を揶揄する発言をよくしてた。

脳みそに行く栄養がぜんぶおっぱいに回っただけのバカ女」みたいな感じの発言露出の多い服の女性芸能人は男に媚を売りたがっているアバズレだとか。


俺は小さい頃から男児らしく乗り物好きだったのだが、車が趣味で車に関わる仕事をしていた父親知識豊富乗り物にとても詳しかった。乗り物のことをなんでも教えてくれる父は俺にとって一番すごい人で、乗り物以外でも父親の言うことが正しいのだと思っていた。

また、父親が酒に酔って他人揶揄したり、自分を大きく見せる発言をしたとき母親は父の機嫌を損ねないように何も言わなかったので、その発言や態度をそのまま俺は学習し、内面化していった。

酔ってる時の父はリビングに転がってるエロ本を俺に渡してこういうの読みてえんだろとか言ってた。

このあたりはカウンセラーの人と話しながら父親父親との関わりを見直す作業をしたので割といまでは冷静に書ける。

この話を始めた当時はカウンセラーやたまに同席する母親に対しても自分を大きく見せようとしていたと思う。

こうした両親の態度や状況は性的な、または心理的虐待の一形態であった可能性が高いとわかった。

そう言われたことで俺は被害者意識を持ってしまった。

俺は父親母親にまともな環境で育ててもらえなかったせいで性犯罪者になってしまった。なのになんで犯罪者としてこんなに責められなきゃいけないんだ、みたいな。

悪いことしたかもしれないけど俺だって被害者だし、みたいな。

俺が犯した罪と、俺の生育環境の悪さを切り離して考えることができなかった。

母親は何度かカウンセリングに同席したりしていた。

俺は記憶にないが、父親は酔うと暴力を振るったこともあったらしく、母親はどうしてもそれだけはやめてくれと言ってやめさせた。だけどまたいつ暴力を振るうか分からなくて事なかれ主義父親の態度を容認放置してしまった、申し訳ないことをしたと言っていた。

母が認めて謝ったことは後々受け入れるけど、このとき被害者意識を膨らませる動機しかなっていなかったと思う。

ここから被害者意識を抑えながら罪に向き合う、

女性他人尊厳ある人として認識してコミュニケーションをとる、関わり方を覚える、みたいな方向に行くんだけど、ほんとに分からなかった。

被害者意識を持て余してうまく行かなかった。すごく時間がかかった。

ただこの意識が少し変わったきっかけがあった。

ツイッターだと思うけど、あるラジオ番組?でモーニング娘。のあるメンバー水着写真集は出さない、100億くらいもらわないとやらない、みたいな話をしていたらしい。それに対して明石家さんまが「お前は自分のカラダにそこまでの価値があると思っているのか?」みたいな返しをするとその子

「私にもさんまさんにも誰にだってそれだけの価値があります」というようなことを言っていたと。

それを称賛する内容のツイートかなにかを目にした。

そのとき

「ってことは俺にも100億とかの価値があるのか〜」

と、綺麗事でそういう誰の命も大切、みたいな台詞ごまんとあると思うんだけどなぜかこのときはすごく響いた気がする。

100億の具体的な価値はわからないがものすごい希少なダイヤモンドくらいの金額なのかな、とか考えたんだと思う。

この後もカウンセリングは続けていくんだけど、頭の片隅にずっとあの話があって、いつ何がきっかけか覚えてないけど、しばらくしてからすべての人をダイヤモンドだと思うことを始めた。

尊厳が、とか、人を尊重するとか大事にするとか、そういうことを言われると俺だって尊重されたい、大事にしてくれ、そっちが俺を大事にしないのになんで俺が、みたいな被害者意識暴走があったけど、

人として見ることを諦めて眼の前の人間は100億のダイヤモンドだ、ダイヤモンドにこの態度は良いのか、この言葉は良いのか、勝手に触れてはいけないのではないか、みたいな

相手ダイヤモンドにすることで相手距離をおいて考えられるようになった。

尊厳のある1個人として尊重する」ためにはたぶん相手との間に少し心の距離?をとる必要があって、俺の場合自分被害者意識に振り回されがちで相手の状況や考えを推し量れなくなってたけど、いっそ相手無機物ダイヤモンド)とすることで距離を測れるようになった気がする。

ただこれのお陰で人との関わり方や、女性子どもや弱い立場の人との関わり方や認識が百発百中うまくいってるわけではないので、カウンセリングを続けて自分の抱いた気持ち認識言葉にすることを続けている。


女性がひどい性被害を受けた事実をズリネタ認識してしまうのは環境要因によって刷り込まれしまったというか、頼んでないのに技マシンで増やされた必殺技コマンドみたいな感じだと、カウンセラーの人と話してそう客観的認識をすることにした。そしてそれは使ってはいけないコマンドとしておかなくてはならない(一度でもそのコマンドを使うと使い勝手が良いと判断して優先順位が上がってしまう、再犯きっかけにもなるかも)ので、抜きたいときラブラブエッチもの限定エッチなのを見てはいけないわけではない、ただ他人尊厳を守るという前提でのコミュニケーション他人への認識というのがうまくいってない俺にとっては、露悪的な内容はよくない結果しか産まないというのを俺自身も納得したのでそうしている。

主語かいかもだけどAVエロ漫画でもいわゆる尊厳を踏みにじる行為としての「ひどいことをする」というのをエロに結びつけすぎなのではないかと思う。ラブラブエッチものは羨ましくなったり妬ましいときはあるけど普通に抜けます

まだまだ道半ばではあるが、

俺は多くのダイヤモンドを傷つけておきながら、しくったな〜しか考えていなかった。

傷つけたダイヤモンドのことを考えられなかった。

今でも考えようとすることは俺の負のコマンドに触れる可能性がある(やばいスイッチに触れそうだなと言う感覚がくるからやめる)のでうまくできない。

傷つけてしまたことに正面から向き合えない代わりに、再犯しないための努力を続けていこうと思う。

anond:20241211015612

書いてある通り読めないのはなんでなん?(2回目)

 

Googleを開いて検索ボックスに 個性範疇にない って入れるだけだぞ

GoogleURLも貼ってあげるね

https://www.google.com/

 

AIに聞いてみた(Copilotちゃん)

個性範疇に無いとはどういう意味ですか?

 ↓

個性範疇に無い」とは、ある特定個性や特徴に含まれない、という意味です。「範疇」という言葉は、同じ性質のものが含まれ範囲や部類を指します¹。したがって、「個性範疇に無い」とは、その個性や特徴のカテゴリーに入らない、ということを表しています

例えば、「彼の行動は私の理解範疇に無い」と言う場合、その行動が自分理解できる範囲を超えている、という意味になります²。

他に質問があれば、どうぞお聞きください!

 ↓

個性範疇にない」という表現AIにとって理解が難しいですか?
Aが極端過ぎることに驚いています文脈>
A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった

B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる
たぶん、個性範疇に無い

 ↓

個性範疇にない」という表現は、AIにとっても理解可能です。この場合、BはAの極端な無頓着さが一般的個性範囲であると感じていることを示しています。つまり、Aの行動や態度が通常の人々の行動パターン価値観から大きく外れていると考えているのです。

Aの極端な態度に驚くのは自然な反応です。Aが他人に対して無関心であった理由や、その変化のきっかけについてもっと知りたいと感じるのも理解できます

この文脈での「個性範疇にない」は、Aの行動が一般的な人々の行動や価値観範囲であることを強調しています

他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。

 ↓

全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。
- 人を当たり前に見下してた
- 他人はどうでも良かった
- 他人が誰かの大切な人だと思えなかった
 
しかし、Aはパートナー子どもを作ろうと考えた人間一定の興味を持つ人物です。
それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的個性ですか?
 
また、Aがここまで他人無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか?
通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います

 ↓

Aの行動や態度についての疑問は、共感性や人間関係に対する無頓着さに関する心理学的な視点から考えると理解やすいかもしれません。

 

まず、Aが他人に対して無関心であった理由として、共感性の欠如が考えられます共感性の欠如は、発達障害自己愛性人格障害などの心理的要因によって引き起こされることがあります¹²。これらの状態では、他人感情立場理解する能力が低下し、自分欲求感情を優先する傾向があります

 

Aがパートナー子どもを持つことを選んだ一方で、他人に対して無関心であったのは、特定人間関係においては関心を持つことができても、一般的な対人関係においては無関心であるということがあり得ます。これは、自己中心的な行動パターンや、特定の状況下でのみ共感性が発揮される場合があるためです²。

 

また、Aが自分無頓着さに気づかなかった理由としては、自己認識の欠如や、周囲の環境がその無頓着さを許容していた可能性があります。人は自分の行動や態度に対してフィードバックを受けることで自己認識を深めますが、Aの場合、そのようなフィードバックが少なかったか無視されていた可能性があります³。

 

Aの行動が極端に見えるのは、一般的社会的規範や期待から大きく外れているためです。しかし、これは必ずしも病的なものではなく、個人経験環境によって形成された行動パターンであることもあります

 

もしAの行動や態度についてさらに深く理解したい場合心理カウンセリング専門家意見を求めることが有効です。これにより、Aの行動の背景や原因をより明確にすることができるでしょう。

 

他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。

 

¹: [共感性の欠如についての解説](https://www.touch-wood.jp/understanding-empathy-lack/)

²: [自己愛性人格障害共感性の欠如](https://psy.selfe-study.space/empathy-lack/)

³: [人間関係における心理学視点](https://liberary.kddi.com/liberalarts/relationships/)

 

ソース: Copilot との会話、 2024/12/11

(1) 人の気持ちに寄り添えない病気とは?大人共感性欠如を徹底 ....

(2) 共感力の欠如とは?自己愛性人格障害の特徴|自己防衛心理学.

(3) 共感性が欠如する「大人発達障害」の特徴と対処方法 ....

(4) 人間関係とは?心理学観点からみる定義と良好な関係を築く ....

(5) 関係における心理学人間関係コミュニケーション葛藤 ....

(6) 【人間関係心理学】覚えておくべき7つのメリットと実際に ....

 

AIに聞いてみた(ChatGPTちゃん)

個性範疇にない」という表現AIにとって理解が難しいですか?
Aが極端過ぎることに驚いています
 
<文脈>
A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった
 
B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる
たぶん、個性範疇に無い

 ↓

個性範疇にない」という表現は、AIにとって十分に理解可能です。ただし、その理解文脈によります

 

この場合、「個性範疇にない」というのは、「Aのような極端な態度や考え方は、普通の人が持つ個性性格範囲を超えている」というニュアンスで使われています。つまり、Aの考え方や行動が、一般的想像される「個性」の幅を逸脱している、という意味です。

 

AIとしてこの表現理解する際には、以下のようなポイント考慮します:

  1. 個性範疇」の意味
    • ここでの「個性」は人それぞれの性格や行動の傾向を指します。
    • 「範疇」は、その枠組みや許容される範囲を指します。

  2. ニュアンス
    Bの発言からは、Aの行動が「常識一般的個性として理解しづらいほど極端だった」という驚きや疑問が表現されています

 

AIにとって難しいポイントがあるとすれば、発言者の感情価値観(驚き、批判困惑など)をどれだけ深く推測できるか、という部分でしょう。しかし、基本的意味文脈問題なく解釈可能です。

 ↓

全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。
- 人を当たり前に見下してた
- 他人はどうでも良かった
- 他人が誰かの大切な人だと思えなかった
 
しかし、Aはパートナー子どもを作ろうと考えた人間一定の興味を持つ人物です。
それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的個性ですか?
 
また、Aがここまで他人無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか?
通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います

 ↓

Aの言動や考え方については、いくつかの観点理解できますが、その一部は確かに異常または極端に見えるかもしれません。

 

Aの考え方の極端さについて

 

Aが子どもを持とうと考えた理由

 

Aが子どもが生まれるまでは他人が誰かの大切な人だと思えなかった」と言っている背景には、子どもを育てるという経験他者に対する感覚を変化させた可能性があります子どもを持つことによって「他者存在」や「他者感情」に対する理解が深まることはあります特に、親になることで、他人自分と同じように他者にとって「大切な存在であることを実感することは、共感感覚を変化させる要因となる場合が多いです。この部分がAの変化を説明しているのかもしれません。

 

しかし、それまで他人重要性を認識しなかったことは、確かに極端に感じられる点ではあります一般的には、子どもが生まれる前にも多少は他者重要性を認識することが多いので、Aの過去の態度は特異なケースだと言えるでしょう。

 

なぜAはここまで無頓着でいられたのか?

 

Aがここまで無頓着だった理由については、いくつかの可能性が考えられます

  1. 自己中心的性格価値観
    Aは非常に自己中心的性格価値観を持っていたか過去他人との深い関わりを避けてきた可能性があります自己中心的な人は、他人感情存在無頓着であることが多く、自分生活他人の影響を最小限にしたいと考えがちです。
  2. 過去経験環境
    Aが過去他人と深く関わる経験がなかった、または社会的スキル共感を養う機会がなかった可能性もあります。例えば、孤独だったり、家庭環境共感を学びにくいものであったりすると、他人への無関心が続くことがあります
  3. 意識的無頓着
    Aは、無頓着でいることに対してあまり意識的に疑問を抱かず、自己中心的価値観に基づいて他人に対して無関心であった可能性もあります自分の考えや行動が極端だとは思わず、むしろそれが自然だと感じていたかもしれません。

 

共感性の問題一般的個性

 

Aが示している無関心さや他人への無頓着さは、一般的には共感性に欠けるという特徴を持っていると考えられます。人は通常、他人感情存在にある程度の共感を持ち、理解しようとします。Aがこの点で極端に無頓着だったことは、共感性の欠如や、他人との関わりを意識的に避けていたことが背景にあると思われます。従って、Aの行動が一般的個性範疇に収まるとは言い難く、むしろ特異な性格心理的な背景があると言えるでしょう。

 

結論として、Aの過去の態度は極端かつ無頓着に見えますが、それがどのように変わり得たのか、またその理由について考察すると、心理的または環境的な要因が影響していることが考えられます

anond:20241211001919

冗談抜きにそれでいいぞ

本当、なぜか増田はこういうの少ないよな~~~

 

どう考えたって、ポンコツ部下/後輩よりも、

どうにもならない上司/先輩のが困るじゃねぇかっていうね

部下や後輩はこちらで指導管理もできるから

 

上司とかだとこちらで役割決めたり管理出来ないし、わかってねーところ説明すると機嫌を損ねるし、

下記の三択しかなく、ストレスマッハやで

 

2024-12-10

不気味の谷とは、人間に近づきすぎたロボットCGキャラクターが、完全に人間のようではないために逆に違和感不快感を引き起こす現象を指します。見た目がリアルに近づくほど好感が高まるが、一定リアルさを超えると急激に不快感が増すという心理的効果です。

2024-12-09

anond:20241209151514

沈黙は加担、ってあれある種の脅迫な上にそのフレーズ使ってる奴らも自分が興味ない分野について沈黙は加担とか言われても沈黙するやろ。

ダブスタになるのが目に見えてる+他人心理的に圧迫して無理矢理に問題に巻き込もうとするという最悪の類のフレーズじゃないか

2024-12-08

豪州の16歳未満SNS禁止法は、子どもを守らず、むしろ追い詰める可能

豪州の16歳未満SNS禁止法について、日本では絶賛し、「日本も追い越せ」だの「これができない日本は遅れてる」だの言ってる連中が多いけど、現実は「子どもを守らない」どころか「子どもにとって害になる」になる可能性が高そう。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-11-29/SNOG6ET0AFB400

SNS大手がこのオーストラリア法律に反対してるのは当然として、反対勢力の中に、ユニセフなどが含まれている。ユニセフの主張は、簡単にまとめると次のようになる。

1. 実効性あるの?

子ども普通にスマートフォンを持つようになってる現代社会で、SNSだけ禁止するというのを、どうやって実現するのか?

法律では、具体的に「こういう技術制限しろ」というのを定めておらず、SNS会社に任せる形になってる。銀行口座の開設みたいに、身分証提示などを義務付けるという考え方もあるけど、それをしても掻い潜ってアクセスする子どもも出てくるだろう(そもそも、見るだけならアカウントなんて無くても、ブラウザを使って見えるSNSほとんどだ)。

しかも、この法律では禁止対象SNSだけで、メッセージングアプリYoutubeなどの動画サイトなどは禁止対象外になってる。

2. むしろ子どもを追い詰めるんじゃね?

SNSの負の側面ばかりが報じられるが、例えば「いじめに合ってる子どもが、SNSいじめ撲滅団体自分から助けを求める」みたい事も、今後は不可能になる(不可能は言い過ぎにしても、もしSNS開始に身分証提示などが求められるようになったなら、ハードルは劇的に上がる)。また、いじめには遭ってなくても、周囲に気の合う友人が居ないような子どもが、遠くの「趣味共通の人」と友人となる事も難しくなる。

日本に限らないが、世界でも過疎地というのは普通にどこにでも存在しており、「周囲に友達がいない」どころか、「周囲に年が近い子ども自体存在しない」なんて地域普通にある。こういった子どもたちは、どうやって友達を探せばよいのか(無論、スマートフォンがない時代でも、文通などの手段はあったわけだが、田舎の子供にそういう負担を追わせるのが適切なのか?)。

3. いざトラブルに巻き込まれとき、助けを求めづらくなるんじゃね?

SNS禁止法は、実際に子どもアクセスしても、子ども当人やその親には、処罰を下さな規則となっている。とはいえ、「SNS禁止だ」と法律で定められたなら、「そこにアクセスする」だけでも、後ろめたさを覚えさせる可能性は大いにある。

子どもにも自己はあるので、普通に規則を掻い潜ってSNSアクセスする子どもは当然、出てくるだろう。そして、そこで実際にトラブルに巻き込まれたら、どうするか。

ただでさえ、トラブルを報告するというのは、心理的ハードルが高い(自分馬鹿なことをしたと告白することになるから)のに、「SNSアクセスする事そのもの悪事に近い」という認識になったら、よりハードルは高くなってしまう。

例えるなら「近づくなと言われたスラム街自分から興味本位で近づいて、カツアゲにあった」みたいなことを想像してみよう。その子どもが、素直に親に「ここに行ったらお金取られた」って親に言うか? もちろん、ちゃんと報告してくれる素直な子どももいるだろうが、多くの子どもは、プライド邪魔して隠し通そうとするだろう。

そんなんで、子どもを守ることができるのか?

ユニセフの主張する解決

SNSは、子どもにとって良い面もあり、それらを完全に無くすのは子どもにとって害になる側面もある。しかし、悪い面もあるのは確かだ。だから、悪い面で起こったトラブルについては、その解決のための資金SNS会社から出させることのほうが健全である」というのがユニセフの主張である

統合失調症話題になると、どうも最初から統合失調症という病名だったかのように歴史修正する人ばかりで嫌になるんだよな。

統合失調症という名前になってから差別され蔑視されているけれど、昔はその比じゃないくらいに酷かったんだよ。

患者やその親族受診拒否理由の一つとして、病名による心理的忌避感情は大きい。

https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=58

今回の呼称変更は、全国精神障害者家族連合会日本精神神経学会にその変更を要望したのが契機となった。1993年のことで、「精神が分裂する病気」というのはあまり人格否定的であって本人にも告げにくい、変えて欲しいという主旨であった。同学会1995年に小委員会でこの問題を取り上げ、翌年に「Schizophreniaの訳語歴史」1)をまとめた。そのなかで、schizophreniaを訳出する時に「その訳語当事者にとって社会的な不利をもたらさない」を原則に加えることや、「病」ではなく「症状群」であることを指摘した。その後、「精神分裂病」という病名自体当事者社会参加を阻んでいる可能性に注目し、その侵襲性と病名変更の必要性について調査を始めた。学会員、評議員当事者へのアンケート調査、総会におけるシンポジウム札幌、1996;宜野湾、1998)やワークショップ仙台、2000)を行うとともに、仙台総会の会長講演「精神分裂病はどこまでわかったか」2)では近年の精神医学進歩に基づいて「精神分裂病」概念見直して、発症脆弱性でこの病気規定する医学概念医療に応用することは回復者の余生に深刻な不利益を生じるので危険であり、医療には臨床症状群で規定した疾病概念使用すべきことを提唱した。こうした経緯を経て委員会では呼称変更に関する中間報告を1999年作成し、それを理事会に報告した。2000年に発足した新理事会ではこの問題を重視し、呼称変更のための特別委員会と拡大特別委員会を設置した。その後、家族アンケート一般市民から意見募集公聴会などを行い、新しい呼称候補を3つに絞った。2001年7月よりこの呼称候補3つに関するアンケート実施し、同委員会2002年1月理事会に「統合失調症」への呼称変更を提案し、理事会承認し、6月評議員会でこれを議決し、同年8月の総会で正式に決定した。

23歳男オタクvs結婚強迫

結論

結婚ができる気がしない」一方で、「結婚し」なければならないという強迫観念がある。

なるほど「気の合う人間生計を共にすることによって得られる利益享受(共有)」するのは幸せことなのだろう。少なくとも周囲の大人たちはその信念を奉じて生きてきたようであって、同時に、幸せな家庭人生活を送っているようにも見える。

一方で、私は「結婚ができる気がしない」。先述の通り「結婚し」なければならない、という観念があって、かつ、「気の合う人間生計を共にすること」に対し何らの疑念を持たないにもかかわらず、である。私は夫としても、あるいは父としても、その適格性を著しく欠くように思われる。

どうしてこの結論になったのか、振り返ってみる。

スペック

23歳・早慶政経法のどっか・4年(浪人した)

実家:都外。奥多摩山中やどこぞの島よりは皇居に近い。

上っつら:少なくとも面と向かって悪し様に言われたことはない。中学生と比べると大きく、高校球児の中なら目立たず、プロ野球選手に混じれば小さく見える(はずだ)。人並みには気を遣っているつもりでいる。

私には2つの強迫観念がある。そのうちの1つは「結婚しなければならない」というものだ。もう片方についてはあえて述べない。

かかる珍妙にして時代遅れ時代錯誤と言うべきだろうか?)の価値観を、いつから我が身のものとしてしまったのか、詳細な事情記憶していない。ただ、誰かの「家を継げ」とか「孫の顔を見せろ」という種の明確な言葉あってのことではなかったことだけは、はっきりと断言できる。他者からの影響が思い当たらない、本能的に自然発生したと説明するほかない感情からこそ、我ながら奇妙だと余計に思う。ともあれ、私が「結婚しなければならない」という価値観に囚われていることだけは確かだ。

結婚の前提条件を思い切り単純化するとして、最低限パートナー愛情喚起する資質を有すること、とした場合、幸いにもその適格性はあると考えられる。何度か愛されたことがあるからだ。それが私の外形的諸条件に起因したものだったのか、はたまた精神領域と関連するものだったのかは今となっては知る由もない。もっとも、その辺の機序はよく分からないし、検討する実益にも乏しいように思われるから、詳細には立ち入らない(拒絶されたこともある。少なくとも愛されたことの同数はある。こちらの方が問題としてはるかに重大だと思う)。

あるいは大前提として、そもそも私は他人たる異性を心から愛すことができるのか、という根源的な問題も考えうる-イエスだ。中学校高校(・予備校)・大学と、それぞれの段階で心から愛した/希求した女性は、少なくとも一人ずつは存在した。逆に言うと、何人もの異性とすれ違う中で、(性的昂奮は別として)特別な心情を惹起するに至った人々は、極めて少数しか存在しなかった。

結婚に対して、心理的阻害要因存在しない-少なくとも大きな問題はないはずだ。むしろ結婚しなければならない」というくびきに囚われているのだから、前のめりでさえあるべきだ。にもかかわらず、私は「結婚できる気がしない」。

長くなりすぎた。問題本質を簡潔に述べる。「結婚できる」と思える人に巡り会えない。

私の愛情の抱き方は、一目惚れに近いものがあると思われる。顔がどうとか精神性がどうとかではなくて、いつの間にか好きになって、彼女(たち)の自慢のアピールポイントや隠したい欠陥といった具体的な要素には一切立ち入ることなく、総体として「好きになって」しまう。このことは、私が好きに"なりうる"人々を類型化することを非常に困難にしている。酸いも甘いもというと身も蓋もない言い方だが、彼女のどこに惹かれて好きになったという具体的な点の説明ができない以上、共通点見出してその特質を有する人々を探す、ということのしようがない。慣用句的に言うなら「恋は盲目」ということなのだろうか。

逆に、「総体として」好きにならない女性存在する。むしろ「好きになった」人々が極々僅かな例外にすぎないのであって、今まで出会ってきた何千何万という人々のほぼ全てはこちらにカテゴライズされる。この「好きにならない」人々の中にも、もちろん友人(であると信じたい)は何人か存在するし、有り難いことに好意を抱いてくれた人もいる。私が「好きになった」人々と何らかの点で似通っている人もいた。しかし、私はこの範疇の人々に親愛以上の心情を抱くことができなかった。提供できる親切は、親しき友人としてのものが上限だった。否、それすら私の怠惰ゆえに、とんでもなく低いレベルのものにすぎなかったとも思う。

「愛することができる」人を探すために、アトランダム努力はそれなりに重ねたつもりだ。他学部開講の講義に片っ端から出てみる。同年代の異性が多いバイトを探す。時には友人に紹介を頼んだこともあった。マッチングアプリだってした。並行して2、30人の知らない異性とパラレルに知り合うある意味刺激的な生活を3ヶ月ほど続けた-何人かの「友人」と知り合っただけに終わった。いいねの数が身長を優に越してしまったあたりで、少なくともパートナー探しではない別の作業になってしまった気がして、やめてしまった。

これから先の人生で、心から愛することができる女性に巡り合える気がしない。おそらく巡り会えないのだろう。仮にいるとしても、既に「売り切れている」可能性すらある。私はもう23なのだ!私は恋愛市場上のまさに完全な敗者として、20代前半の若者が集まる場所としては日本で最も大きな部類に入る学舎を去ることになる。偏差値市場上の敗者として押し込められて、恋愛市場上の敗者にして立派なインセルとして出荷される。

結婚自体可能ではあるのだろう。「結婚しなければならない」という心情へのアンサーとしては、最も安直だが直裁な解決策でもある。私一人で家庭全体を食べさせることができるかどうかは別として、その大部分を担うことに対しては、現実として可能であろうし、別段おかしなこととも思わない。

ただ、私は、結婚生活しろ親としての生活しろ、その本質の一側面は自由の縮小であると強く信ずる。期待や喜びの総量をはるかに上回る失望と失敗の連続であろうと確信している。いざ焼かれる時にどう思っているかは別として、存命中常に家族とやらに関する何らかの心配をし続けていることだけは確かで、幸せな家庭生活というものが仮にあるとしたら、それは常駐する100の心配事と同時に0.01の安寧を自覚できるかそうでないか、という程度の話でしかないのだろう。

そのとめどない苦難の道程を、愛することのできない人と共に歩いて行けるのだろうか?より直接に言う。「妥協できるのだろうか?」決して少なくはない人々が「できる」ことは知っている。それどころかたった100年前、それこそがセオリーだったことも知っている。ただ、私は「できる」とは思えない。途中で投げ出してしまうという確信がある。親しき友人としての親切が上限で、それを超える困難と直面したら、逃げ出す。「結婚しなければならない」という私のエゴと人としての欠陥ゆえに、罪のない他人のことをこれ以上不幸にしたくない。

諸先輩方はどのように折り合いをつけたのだろうか。「後から好きになる」ようなことがあったのだろうか。「子供が生まれたら変わる」のだろうか。はたまた「みんな結婚してるから、流れに合わせてそれっぽく振る舞ってるだけで、相手特別感情はなかったし、何なら今は少し幸せに感じることだってあるよ」というのが真実なのだろうか。もしそうなら、どれほどよいのだろう。

鬱屈とした諦観けがある。"愛することすらできずに"家庭を放り出し、エゴのために他人を有形無形に傷つけたクズ烙印を押されるよりは、生涯部屋のアガベサボテンどもと共に、好きな音楽映画世界観だけに閉じこもって、屈折した強迫観念を胸に秘めたまま朽ち果てて死んだ方がマシだ。最大多数の最大幸福希求するなら、それが社会的に最善でもあろう。闘争領域本来、縮小されるべきなのだ

泣き言を書き散らし、日記とすることで、何らかの整理がついたように思う。この乱文を書く直接の動機となった、『22歳女オタクvs結婚願望』 https://anond.hatelabo.jp/20241207175805 の筆者が良きパートナーとなりうる人と巡り会えることを切に祈り貴女可能だと思う。私はそう確信するし、本心からそう願っている)、終いとする。

2024-12-06

ヲタクは何に金を落としてるのか

考えてみたけど、俺の場合だとゲームカードゲームくらいしかないな。

あと、たまに一番くじを買うくらいかキャラのグッズを買ったりライブに行ったりはしないからな。

でも積極的にグッズは買わないけど、一番くじはセーフという謎のラインはある。グッズを買うより心理的障壁が低いんだろうな。

どうにも面倒を見きれないときは、結局見捨ててしまうのに、積極的な追い出しはしたくないっていう心理

炎上案件とかでは、さすがに手取り足取りやってられないし、基本的なことが分かってない人は、フツーに見捨ててしまうことが多かったよね

でも、上司・部下・先輩・後輩・パートナーのいずれであっても、積極的に追い出すのは避けたいんだよね

最終的には何がボトルネックなんだ?で断罪することになるけど

 

ただ、心を無にして、自己防衛しつつ時間解決するのを待つっていうのもやらないし、必死でおだてて「こうやってやるんですよ~」って誘導するようなこともしない

やらないのはできないからなんですけどね

 

 

基本的なことを根本的に理解していない人って、致命的な行動を繰り返すから、いずれ時間解決してくれるんだけど、

それを待つために、開き直って定時で帰って、仕事が終わったら会社のことを秒で忘れるスキルがない

切り替えが死ぬほど下手で、ランニングやっても、水泳やっても切り替わらない

死ぬほど追い込んだり、びっくりすれば切り替わるが、そこまで追い込んだら次の日仕事できないよね

まり時間自然解決するまで待てないってことだ

 

じゃあ、切り替え出来ないなら、望ましい方向に誘導するか?って言われたら、部下・後輩なら問題ないが、上司・先輩・クライアント相手は無理よね

そもそも人間に興味ないので、「顔覚えられない」「なんで怒ってるの?」ってなることが多いワイが、頑張ればなんとかなるやつなのか?

それって指がないのにピアノを弾こうとしてるみたいな見込みの無いチャレンジなんじゃないか??

指(可能性)はあって試行錯誤すれば、ほんまに誘導力や政治力はマシになるのか???

 

うん? そもそも、どうにもならない人が入り込む余地のないハイパフォーマンスなチームに入れば(正論) って?

おっ、そうだな(威圧

2024-12-05

「30代、引きこもり実家暮らし」の問題を考える

家の中で息を潜め、時間が静かに流れる日々。そこに、何があるのだろう。


見失われた自己未来

引きこもり、30代、男性実家暮らし」という状況は、単なるライフスタイルの一形態ではなく、現代日本が抱える深い闇の縮図だ。この状態にある多くの人は、社会との繋がりや自立の道を見失い、自分自身存在意義に迷う。時間は止まらないが、彼らの心は宙ぶらりんのまま。それが持つ社会的、心理的な重さは計り知れない。


社会構造問題個人葛藤

一体なぜ、こうした状態に至るのか。その理由は複雑だ。社会競争が激化し、成功と失敗の二分化が進む中で、「普通」の人生を送ることがますます難しくなっている。それに加え、実家という安全地帯存在が、彼らの自立への一歩を鈍らせている。一方、本人たちは怠けているわけではない。心の中では自分を責め、変わりたいと思っているのに、その一歩を踏み出せないのだ。誰かがその葛藤を解きほぐしてくれるわけではない。


一日の中の孤独

朝、目覚めてもすることがない。家族仕事学校へ出かけると、静まり返る家の中で一人きり。インターネットテレビ友達代わりになり、時間空虚に過ぎる。親が帰宅すれば一瞬の交流があるが、ほとんどは表面的な会話だけ。両親の年齢が上がるにつれて、彼らの不安心配も見えてくる。だけど、動けない。何をどう始めればいいのか、わからない。自分が何をしたいのかさえ、見えない。


変化を起こす勇気支援

この状態を変えるには、本人が勇気を持って一歩を踏み出すことが不可欠だが、それは並大抵の努力ではない。だからこそ、周囲の理解支援必要だ。引きこもり社会問題である以上、それを解決するのも社会全体の責任だ。彼らの未来はまだ閉ざされていない。その扉を開ける鍵は、彼ら自身と、彼らを支える我々の手の中にある。

2024-12-04

anond:20241203220940

コミュ力ある女性が話に付き合ってくれてるだけだからやめとけよww

いい歳して心理的距離感を見誤ってはいけないw

anond:20241203184300

部下や後輩にこういう人がいて困るイメージあんま湧かないのかも知れん

状況のまま評価するか、こっちで役割を決めちゃえばいいじゃんと思わんでもない

炎上案件だったらそういう部下や後輩がしんどいのはめちゃくちゃわかります

  

基本的なことがわかっていない人は、部下や後輩よりも、上司やエンドにいる方が死ぬほど困らん?

ンなヤツ見たことねーわ!!!なら、増田はとても健全で真っ当な職業人生を歩んでると思う。眩しい

もちろん、こちらが役割を決めて管理すること当然できないし、わかってねーところ説明すると機嫌を損ねるの基本仕草やで

この三択しかなく、ストレスマッハやで

2024-12-03

どんなプロンプト打ったんでしょうね3

1. トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではありません。
 それに対して、『トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人こそが、小さなことにこだわっていると主張するのは
 どのような心理からなのでしょうか? もしその人が本気でそう主張しているのであれば、まさに本質から外れたところに過剰に注目しているように思います。
 
 
2.下記を小学生でもわかるように説明をお願いします。
 
	2-1.	トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ありません。
	2-2.	「通常(普通)ではない」と指摘されることに対して、ショックを受けているのかもしれません。『通常』という言葉は、何かしらの合意必要な難しい概念ですが存在するものです。(そうでなければ何もできない)
	2-3.	人と違うのは悪いことじゃないが、トランプ文脈フォントにこだわる人は、特別サポート必要です。これは個人自由意思知識コミュニケーション問題、あるいは性格に帰すべきではないと思います。
	2-4.	人と違うのは悪いことじゃないが、文脈によっては適応出来ない、違うと自覚することが大切なこと説明してください。
 
 
3. トランプ文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人は、ゲームから排除をする、ゲームを取りやめるのでなければ、特別サポート必要だと考えますがどう思いますか?認知フレームワーク問題ではなく個性範疇ですか?

 ↓

1. 心理的な背景について

 

トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人を「小さなことにこだわっている」と批判する心理には、以下のような背景が考えられます

1. 防衛的な反応

自分の行動や考えが「通常ではない」と評価されることに対する防衛反応です。「通常ではない」と指摘されることで、自分価値観や行動が否定されたように感じ、相手に「あなたも小さなことにこだわっている」と反撃することで、自分を守ろうとしている可能性があります

 

2. 視点の転換による優位性の主張

「小さなことにこだわっている」というレッテルを指摘者に貼ることで、相対的自分が広い視野を持っているかのように見せかけ、議論立場を有利にしようとする心理が働いている場合があります

 

3. 共通基盤のズレ

フォントの違い」がゲームに影響を与えないことは、多くの人にとって明白ですが、本人にとってはそれが重要な要素である可能性があります。この場合、指摘者が「通常」とする基準自体無効だと考え、その基準を主張する人を「細かいことにこだわっている」とみなしているのかもしれません。

 

4. 議論すり替え

本質的な問題から目をそらすため、指摘者の行動を批判対象にして議論の焦点を変えようとする心理です。これにより、自分の行動が本当に合理的であるかの検証を避けることができます

 

2. 小学生でもわかるような説明

 

2-1. トランプゲームフォントにこだわるのは普通じゃない

 

トランプで遊ぶとき、みんなが気にするのは「ダイヤ」「ハート」みたいなマークや、「A」「K」みたいなカード意味です。文字の形(フォント)が少し違っていても、ゲームには関係ないので、普通はそこにこだわりません。

 

2-2. 「普通じゃない」と言われるとびっくりするかもしれない

 

かに普通じゃない」と言われると、自分が変わっているみたいに感じて、ちょっとイヤな気持ちになるかもしれません。でも「普通」という考え方がないと、みんなで同じルールで遊ぶのが難しくなります

  

2-3. 人と違うのは悪いことじゃないけど、助けが必要ときもある

 

たとえば、トランプで遊んでいるときフォントが気になる人がいたら、どうして気になるのかをみんなで考えて助けてあげることが大事です。それでもゲームが進まない場合は、みんなが楽しめるような別の方法を一緒に見つける必要があります

 

2-4. 人と違うのを知るのは大事なこと

 

自分がほかの人と違うことは悪いことではありません。でも、みんなと同じルールで遊びたいときは、「自分の考え方が特別なんだ」と気づくことが大切です。それがわかると、みんなとどう仲良く遊ぶかを考えやすくなります

 

 

3. 「フォントが違うからダイヤのKではない」という人への対応個性範疇について

 

 

フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人に対しては、特別サポート必要だと考えられます理由は以下の通りです:

  1. 共有されたルール再確認
    トランプゲームでは、フォントの違いは重要ではなく、カードの「スート(マーク)」と「ランク(番号や文字)」が本質です。そのため、本人がルール理解し、共有された基準を受け入れられるようにサポートする必要があります
  2. ゲームを進行させるための調整
    本人が「フォント」を基準として主張する場合ゲームが進行しなくなる可能性があります。この場合ゲームを成立させるために他の参加者と協力し、代替案を提示する必要があります

 

 

この行動は認知フレームワーク問題に近いと考えられます。なぜなら:

  1. 個性範疇を超えている
    個性とは、一般的ルール基準の中での違いを指すことが多いですが、今回のケースでは「フォントにこだわる」という行動が、共有されたルールの基盤を大きく逸脱しており、個性範疇では説明しづらいです。
  2. ゲーム文脈に対する適応の難しさ
    フォントが違う」という理由カード否定するのは、ルール文脈に対する適応が困難であることを示唆しており、認知の仕組みや視点問題である可能性が高いです。

 

 

結論

 

トランプゲーム文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」という行動は、個性というよりも認知フレームワーク問題として捉えるのが適切です。そのため、共有基盤を再構築する特別サポート必要となり、ゲームの進行や他の参加者との調整が求められます

 

 

 


 

 

増田が打っているプロンプトを推測してみたが、かなり言葉を足さないとその出力にはならない
マジでどんなプロンプト打ったんでしょうね(3回目)

 

※推測してみた(なお、増田みたいな結果にはならない)
 
Dの行動を批判している文章(https://anond.hatelabo.jp/20241203162204#)の投稿主の心理を探り、どのような価値観認知スタイルに基づいているのかを分析してください。Dがフォントの違いを問題視した行動に対して批判することが、どのような心理メカニズムに基づいているか、またその批判集団内でどのような影響を与えるのかを詳述してください。

 ↓

この文章投稿主は、Dの行動に対する批判を通して、「認知の仕組みのズレ」や「共有された前提の欠如」に焦点を当てており、その批判は以下のような心理メカニズム認知スタイルに基づいていると考えられます

 

1. 認知の精度と共通理解の重視

 

投稿主は、対話が成立するためには、共通の前提や認識必要であると強調しています。Dが「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張したことは、常識的に受け入れられる「ダイヤのK」の定義認識を逸脱しており、この逸脱がコミュニケーションの妨げになると見なされています投稿主は、認識のズレを認知の仕組みに起因するとし、これを解決するためには膨大な労力が必要だと感じています。これは、投稿主が認知的な精度を重視し、理解の共有を前提にした効率的対話を重んじていることを示しています

 

2. 本質主義 vs. 構成主義思考

 

投稿主は、「ラグビーボールボールではない」という発言についても問題提示し、「概念境界」や「本質主義 vs. 構成主義」などの哲学的な側面に関心を持っています。これは、物事定義カテゴリ化について深く考える傾向があり、単なる表面的な解釈を超えて、物事本質に迫ろうとする認知スタイルを反映しています

 

3. 細部に過剰に焦点を当てる認知スタイル

 

Dのように、細部(フォント)に過剰に焦点を当てることは、投稿主にとって非常に困難で非生産的コミュニケーションと捉えられています。このような発言は、認知的なズレが深刻であり、現実世界常識一般的認識から大きく外れていると見なされています投稿主は、細部に拘泥するDの認知スタイル問題視し、これが対話の進行において障害となると考えているようです。

 

4. 集団内での影響

 

投稿主がDの行動を批判することで、集団内では次のような影響が予想されます

共感の共有: 投稿主が指摘する認知のズレに賛同する人々は、Dとの対話に対して不安や苛立ちを感じる可能性があり、集団内で共感が生まれます

対話排除: Dの認知スタイルが極端に異なっていると認識された場合集団内でDの意見発言無視したり排除したりする動きが強まる可能性があります

教育アプローチ模索: 一方で、Dの行動を理解し、再教育認知修正を試みるアプローチを取る人も現れるかもしれません。この場合集団内で認知の調整が進むことが期待されます

 

全体として、この批判は、投稿主が共有された認識合理的対話を重視し、認知的なズレに対して強い懸念を抱いていることを示しています

2024-12-01

anond:20241130165220

この話題は非常にデリケートであり、多くの感情視点交錯するテーマです。この問題をどのように考え、対応すべきかについて、多くの観点から掘り下げることが重要です。

1. 責任能力社会的対応

知的精神的な障害を持つ人々が加害行為を行った場合、その行為責任能力を問われない場合があることは事実です。しかし、これは「やりたい放題を許す」という意味ではありません。責任能力がない人が加害行為を行った場合刑事罰を受けなくても、適切な支援や介入が必要です。具体的には、以下のような対応が取られるべきです:

• 専門施設での療育問題行動の抑制代替行動の学習

支援者の介入:暴力行為を防ぐために、十分なマンパワーを投入。

環境調整:周囲の安全を確保するための制度設計

こうした対応が不十分である場合被害を受ける側が「理不尽」と感じるのは当然のことです。したがって、被害者の視点を軽視せず、問題行動を抱える人々への適切な支援と、周囲の安全確保を両立することが求められます

2. 共生教育限界課題

障害者との共生」を目的とした交流教育は、理念としては重要ですが、現場での適切なサポートがなければ、逆効果になる場合があります。具体的には:

暴力行為がある場合暴力を受ける側に「耐える」ことを強いるのではなく、加害行動が予測される状況を回避する仕組みが必要です。

教育方法論の見直し:一律に交流を推進するのではなく、個別ニーズに合わせたアプローチ必要です。例えば、暴力行為が頻発する子供については、別の方法社会との関わりを構築する道を模索するべきです。

3. 感情正当性差別境界線

投稿者感情は、自身や周囲が暴力被害を受けた経験に基づくものであり、その「恐怖」や「怒り」を差別一刀両断にすることは不適切です。重要なのは、こうした感情理解しつつ、次のような議論を深めることです:

加害行為障害関係を分けて考える:暴力行為への怒りを「障害全般」への差別に拡大しない。

• 「隔離」以外の解決策を模索する:加害行為を行う人々が暴力を振るわないよう、効果的な支援制御手段検討する。

被害者へのケアの充実:暴力を受けた側の心理的ケアフォローが十分である検討する。

4. 社会責任

この問題の背景には、社会障害支援に対して十分なリソースを割いていない現実があります障害を持つ人々が適切な支援を受けられず、結果として周囲に被害を及ぼしてしま場合、それは「個人責任」ではなく、「社会責任」として捉えるべきです。

支援体制の強化:暴力行為予測される障害者に対して、専任支援者や療育プログラム提供する。

地域社会負担軽減:特定地域施設だけに問題押し付けず、国全体で責任を分担する。

5. まとめ

共生を目指す社会において、現実的な困難や矛盾に直面することは避けられません。投稿者経験感情否定するのではなく、それを出発点に、次のような問いを共に考えるべきです:

加害行為への対処被害者の保護をどう両立するか?

共生教育の枠組みをどう改善するべきか?

社会全体で障害支援をどう強化するべきか?

最終的には、個人体験から出てくる感情を大切にしつつ、それをより大きな問題解決への糸口とすることが重要です。

キモいは加害のことば?

信じられないんだけどマジでこれ言ってる人いるか

キモいという発言が加害とか

釣りとかじゃなくて本気の主張でそう言ってるっぽくてビックリする

実はひょっとして

まさかとは思うけど

キモいを言う側の気持ちって知られてなかったりするのかな

キモいって反撃の言葉なんだよね

何が悲しくて一方的心理的安全性を損ねられなきゃならないんだろう

しか

反撃の口まで塞がれる

えぐ

2024-11-29

乗り物酔いをしやすいので、乗り物酔いの分類をしてみた

自分は非常に乗り物に酔いやすいのだが、一口乗り物酔いと言っても、経験上、大まかに4パターンぐらいに分類できると思う。

(1) 視覚による乗り物酔い

景色を目で追ってしまうことで起きる乗り物酔い。3D酔いはこのパターン映像酔いとも言うらしい。

自分場合映画プラネタリウムで上映される映像の画面全体がスクロールするだけで一瞬で酔える。

(今は知らないけど昔のディズニーランドのスペースマウンテンとか最悪だった記憶がある)

何なら調子悪いときは、自転車を漕いでいるときに、カーブや右折/左折時に景色を目で追ってしまってもダメ

(1) の対処

景色を目で追わない。目をつぶる。目をつぶれないときは、動かない1点を見つめる。例えば窓ガラスの汚れを見つめるとか、バスだったら車内の設備を見つめる。長年悩まされて来たが、3Dゲーム映像の真ん中に動かない1点が出てくるアレの応用。

遠くを見ろと言われるが、自分は遠くを見る程度ではだめだった。

多分だけど、山道で酔うパターンもこれだと思う。景色を目で追わなければ大丈夫なんじゃないかな点…。先日、ちょっとした丘とカーブバスで超えないといけないときは、これで乗り切れた。バスの中の柱とか前方の椅子をずっと見つめてた。もっと険しい山道で試したい気持ちもあるが、失敗したとき悲惨なので試したくない。誰かやってほしい。

(2) 振動による乗り物酔い

自分振動で酔わないので良くわからない。すみません。ただ、世の中には振動で酔う人もいるらしい。対処方法として、バスならエンジンの近くに座らないようにすると良いらしい。何も具体的なことが書けず申し訳ない。

(3) 速度による乗り物酔い

これは速度による恐怖感で、心理的不安から酔いが来ている気がする。非科学的で申し訳ない。

自分場合新幹線が駄目。周囲に新幹線で酔う人なんて極少数派なので正直恥ずかしい。特に東海道新幹線のぞみ東京行きの浜松新横浜あたりはやたら全力出してくるの何なの!?!?あれで高頻度で酔う。

あとは以前、調子悪いとき横須賀線に乗って軽く酔ったことがあるな……駅間で速度出しすぎなんだよね……でも似たような区間を走るはずの東海道線全然平気だったんだよなーなんでなんだろう。

(3) の対処

以下の対策をしてもダメときがあるので、困っている。

乗り物酔い止めの薬+睡眠ちゃんと取る+ごく軽食を1〜30分程度前に摂取する(ゼリーとかビスケットとか)で乗車する。

※ 酔いにくくするためと、万が一酔って吐いてしまっても影響を最小限にしている

酔い止めも、眠気が強く出るタイプを買って、乗車中は寝て過ごす。


新幹線に乗る機会がそこそこ多いので、毎回酔い止め飲んでるけど、これを長期間続けて脳に影響等は出ないんだろうかと思う。本当は五苓散が効いてくれれば良いんだが、試した感じだとプラシーボ的な効果しか自分には無さそう。

出張の移動日は酔い止めの影響で、正直仕事にならない。会議とかボーっとして上の空。泊まりなら翌日は平気だけど、日帰りだと全然パフォーマンス出ないので、出張意味が無い。

新幹線食べ物を食べられる人がうらやましい……自分新幹線駅弁とか食べたい。

※ 酔い止めがちゃんと効いている間で目が冷めている間は、読書スマホ視聴ならいける。

(4) 浮遊感による乗り物酔い

飛行機がこれ。以前、乱気流に巻き込まれときは機体が高頻度に上下して死ぬかと思った

(4) の対処

飛行機は酔い止めを飲んでもそこそこの確率で酔う。どうすれば良いんだろう。自分的に解決方法はない。ただ、飛行機は滅多に乗らないのであまり気にしてない。

その他、分類不可

自分がよくわからないもの

  • 船酔い

これは視覚+浮遊感の合わせ技なのかな?船に乗る機会が無いのでわからない。短時間フェリーとか観光船ならあるけど、内海だったし揺れなかったのでそのときは全く大丈夫だった。釣りで船に乗る場合だったら、多分酔って死ぬと思う。アネロンとか飲めば平気なんだろうか?

3/11とき余震で軽く酔った。東北に近いわけでもないんだけど……。

最後

自分場合、酔うといっても吐いたことがあるのは小学生の時ぐらいで、それ以降は吐くことは無かったので、それは不幸中の幸いなのかもしれない(死ぬ気で我慢しているとも言う)。

anond:20241129000730

自分は親の方の立場で、1人っ子がいるシングルマザーだけど、中高生ぐらいか子ども子ども自分自分、みたいに少しずつ心理的距離が離れてきた感じがある

でも、離れれば離れるほど世界が広がるって感覚もあるんだよね

知り合いで子が留学した人がいるが、その人にとって子の留学先は頻繁に旅行しないとしても自分と縁のある土地として愛着を持つことになるみたい

結果、世界が広がる

子どもと一緒にいないと孤独、という感覚あんまり健全じゃないと思う

遠く離れていて心がつながっているという状態になっていくのが本当じゃないか

子どもの成長と合わせて、親も成長していかないといけないんだと思う

自分がいなくとも、自分の子は良い人生を歩んでるという確信があれば、そんなに淋しいと思うこともない

自分より、子のほうが若い体と新しい知識とたくさんの時間を持った強者なのだから心配することもないと思っている。

結婚しようが子を産もうが、人は最終的には一人であり家族と密着してるわけにはいかない。少しずついろんな他人とつながっていかないと老後がきつい

それに、これから増田がたとえば結婚したら、もう「親の子ども」という立場じゃなくて、夫であり父親になる。それなのにいつまでも親と子どもとして密着してると増田の家庭が壊れることになる

親がまだ若くて、慣れる時間があるうちに、物理的に距離を置くのも親孝行だと思う。

2024-11-24

anond:20241124104845

ホームズワトスンジュンジュワー」は探偵ものから刑事ドラマへ引き継がれ、それからジャンルに散らばってる印象がある

天才頭脳を持つ奇人とその友人(読者目線常識人ツッコミキャラだけどそんな奇人についていけてるだけあってこいつもしっかり変なところがある)、

という目線で見ると、頭脳戦とか心理的駆け引き必要とされる作品

ミステリーを扱った漫画だけでなくギャンブル漫画格闘技漫画ホラー小説、何ならラブコメにもいるし

リアルだったらお笑い芸人でもホムワト的組み合わせは各所に存在すると思う

ホムワトは遍在することによってミステリーものから消えてしまったのかもしれない

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