はてなキーワード: 酷使とは
究極的ミニマリズムは、単なる物理的な断捨離や、禁欲的な生活の切り詰めとは、本質的に次元が異なる。
それは、俺の精神領域を侵食し、思考の純度を低下させる、ありとあらゆる非自己のデータとノイズの自己放尿を、外科的な精度で排除する精神の最適化技術である。
具体的には、社会が恒常的に垂れ流す過剰な期待、他者が無責任に押し付けてくる不条理な常識、そして何よりも、自己の脳内に蔓延る不要な不安や妄念といった精神的な自己放尿を、容赦なく断ち切る行為に他ならない。
心の断捨離などという生ぬるい慰めではなく、不要な情報パッケージを発見した瞬間に、迷いなく切り落とす無慈悲な切除手術こそが、その核心である。
かつては「どうでもいい」という思考停止が、不要な刺激に対する最初の鎮静剤だった。
続く「社会への完全なる諦め」は、その鎮静期間を経て、社会という茶番劇から意識的な距離を置くための、準備段階に過ぎない。
そして、今回到達した極地とは、世界のノイズ総量を限りなくゼロに収束させ、生命維持に必要な最低限の思考コアだけを残すという、システム軽量化である。
世の中には、承認欲求という名の自己放尿を撒き散らし、その飛沫を他者に浴びせることでしか自己存在を証明できない人々が横行している。
さらに、嫉妬と劣等感というダブル放尿を振りまき、他者を精神的に引きずり降ろそうとする輩まで跋扈している。
こうした無価値なエンティティに関わることは、俺の脳のメモリを不意味に消費させ、思考のCPUを無駄な割り込み処理で酷使し、結果として人生のスループットをただ低下させる致命的なオーバーヘッドである。
ゆえに俺は、連中をメインプロセスに読み込む価値のない一時ファイルと定義し、問答無用でその存在を削除対象とすることを決断した。
この行為は、感情を切り捨てる冷酷さではない。むしろ、自身の本質的な感情と、集中すべき人生の目標を優先的に保護するために、外部から流れ込む不要な自己放尿を厳密にフィルタリングする、高次の自己防衛機構である。
社会の評価、見栄、世間体、そして普通はこうするべきといった根拠不明の標準仕様、これら全ては、俺自身のメインプロセスに読み込むに値しない、取るに足らない自己放尿データである。
価値の基準を外部に委ねることを完全に停止した時、人間は初めて、真の自由というOSを起動させる。
他者の失言、不機嫌、あるいは攻撃的な言動といった予測不可能な外部入力の自己放尿に対し、もはや感情的なバッファを割く必要はなくなる。
社会の失態や制度の不条理を目の当たりにしても、無為に感情を乱されることはない。
むしろ、世界がどれだけ無秩序に暴走しようとも、俺はその中心で完全なる無風状態を維持し続けることができる。
これは逃避や諦念ではなく、自身の精神領域を最大限に最適化した結果として得られる、硬質な静謐である。
究極的ミニマリズムとは、世界の喧騒を徹底的に切り捨てた後に残る、硬質で静かな思考の中核そのものである。
期待も怒りもなく、ただ淡々と、自分という存在のOSを最高効率でアップデートし続けるだけの生活。余計なものは排除し、必要なものを保存する。
俺の結論は揺るがない。
究極的ミニマリズムとは、精神の最終的な軽量化であり、社会がどれほど騒ごうが、他人がいかに自己放尿を撒き散らそうが、その全てが、俺自身の人生のコンテクストにおいては無意味であるという、冷徹な事実だけが静かに残る境地である。
長くなったので読みにくいかもしれません
半年ROMれてませんが匿名性が必要だったのでここに書かせていただきます
乱文ご容赦ください
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
援護が無さすぎるのではないかと思い、やっぱり納得がいかないと感じたので
ここに書きにきた
以前から何度も書こうと思っていたけれど
どうしても書けないまま 何年も過ぎてしまったが
なんとか書き始めた
フラッシュバックなど、読むのが嫌だと感じる場合はスルーしてくださいーーー
呆然とした
正直なところ
ショックとか 人が亡くなったということ以上に
「どうして今になって」と思った
ようやく悪夢を見て、ドキドキしながら目覚めることが無くなってきていた頃だった
逃げ出した後も燃え尽き症候群のようになり
ベッドから起き上がれなくなる日が続いて
一度は「こんなに辛いならもう死のう」と思ったけれど
いつでもそのボタンは自分が持ってるんだから もう私は誰にも縛られてないんだから」と思い
誰にも助けてもらえないので(親に話したが困惑されて流されただけだったので)
それでもなかなか人への恐怖や組織へ入る恐怖を克服できなかったので
バイトもできず
それでも人が怖くて怖くて
いつも人の顔が見れず震えて汗をかいたり
人と会ったあとは部屋で寝て起き上がれなかったり
遠出ができなかったり
そういうことがようやくひと段落つき始めていた頃
「ようやく最近少しずつ人と話せるようになってきたな」
「ようやく教団の元仲間から説得のメールが来ることも無くなってきたな」
と思っていた頃に
誰にも言えなくて
昔から付き合いのある友人にも言えなくて
両親に言っても「よく出てきたな」と言われるだけで
具体的なケアは何もしてもらえない中で
「宗教施設で共同生活をしていて就活のタイミングを逃しました」
「経歴に書けることがありません」
「宗教施設で生活していた影響で人が怖くてしょうがなくてバイトすらできません」
「燃え尽き症候群のようになって社会生活を人並みに送ることがどうしても難しいです」
そんなことの説明をしようがなく
ただひたすら周りからの、
「この人どうして朝起きれないんだろう」「なんか付き合い悪いな」
「学生時代の話してくれないな」「この人いっつも何してるんだろう 無職?」
「なんで結婚しないの」「なんでハロワ行かないの」「なんでもっと営業しないの」
「なんでいっつもお金が無いの」
あらゆる なんで? に耐えながら
ひたすら自分の足で立つことができるようになるように
1発の銃声で 毎日のように統一教会の名前をテレビで聞くようになってしまった
無かったことになっている自分の在籍期間6年とリハビリ生活10年間が
突然色を与えられたような感覚で
苦しかった
その行為自体を賞賛はできるはずもないけれど 思いは複雑だった
ただ悲しかった
あれは叫びだと私には感じられた
それくらい 中にいると社会で生活している人とは隔絶され 外の声は届かないし
中の声もまた外には届かなくなる
そこには長らく透明な分厚い分厚い壁があって中と外は隔絶されていた
あの1発の弾がそれを壊した
尊い人命と共に
その重大さを社会にどこまで理解してもらえているのか 分からない
その苦しみは 多分本気であの中で一生懸命やった人にしか分からないだろうと思う
それでもそこから私が逃げ出せたのは
ある程度、状況を俯瞰して見る(ある種冷笑的な)感覚を身につけていたからで
そこに関しては、私は自分が漫画アニメ好きのオタクでよかったなと思っている
「マジで漫画みたいなこと言うやんw」という茶化しが自分の中でできていたこと、
不真面目だったため、外の読み物やテレビは見てはいけないことになっていたが
伝道(いわゆる勧誘)もこっそりトイレに隠れてサボりまくっていたことなど
中の人からすると酷い不真面目、規律違反的なことをやっていたために
最後の一歩(あ、ここにいたら私の人生、誰も保証してくれないんじゃないか?)
という感覚に至れた、というところがある
しかし、そんな不真面目な私であっても
逃げ出すことが良いことなのか悪いことなのか、その時点では判別はできていなかった
神や、いわゆるお父様お母様(教祖)に背くことになるわけなので
正直ここから出てその後どんなことが訪れても覚悟を決めようというような気持ちはあった
なぜならいわゆる統一教会が言うところの「神のみ旨」を放棄することになるわけなので、
そうなった時に自分に何かよくないことが起きるかも、私だけじゃなく家族も何かよくないことが起きるかも、
という感覚が強く自分を支配していて そこに対して否定できる確証はなかったからだ
私が死ななくても 私の代わりに誰かが死ぬかも、と本気で思っていた
不真面目な信者であってもこのくらいにはどっぷり浸かっていた
それでも私は「本当に神様がいて 神様が私を愛しているとしたら
私のこの選択も祝福してくれるんじゃないか」という気持ちも微かに持っていた
それを信じたい、という気持ちだったと思う
そうであったらいいな、という感じで
もちろん確証も何もない
こんなふうになったから
今だからそんなふうに言えているだけで
その時には全く確証がなかった
ただ今言えるのは「神様がいるとすれば 統一教会にいる人も愛していると思うし
私のことも愛しているんじゃないかと思う」ということだ
これは信仰心ではなく
今の段階での結論というか、
信念的なものではあると思う
確証はないけれど「そうなんじゃないか?」と思っている、というようなことだ
「そうでなきゃやってられるか」というような思いでもある
神がいようがいまいが関係なく日々は続くし
私の場合 立ち止まっていても誰かが
「大丈夫?私がなんとかしてあげる 任せて」と
手を引いてくれるような状況は皆無だったから
(唯一打ち明けたカウンセラーの人も宗教的な苦しみまでは理解してケアしてくれなかったし
被害者コミュニティもあったかもしれないがまたそこから出られなくなるのではと思い、
組織に属するのが怖かった
両親は受け身なので私が動かない限り私の状況は好転するわけがなかった)
ただ言えるのは、自分で少しずつ歩く過程で人に支えてもらえることはあった、ということだ
理解できないなりに 両親は私の過去を酷くなじることはなかったし、生活も支援してくれた
「よく出てきたな それはなかなかできないことだぞ」と肯定はしてくれた
自立支援センターも、電話をかけたものの一人で行くのが怖かったので着いてきてもらった
理解してくれていようがしてくれなかろうが 都度都度助けてくれる人はいる
カウンセラーの人が言ってくれたことのいくつかは今も自分を支えてくれている
(私は自分の中に宗教施設にいたという負い目があったので、とにかく人に疑われるということが怖かった
自分の話をするのが怖く、いつボロを出しておかしなことを話してしまわないかと怖かった
そのせいか言葉がなかなか出てこなかったけど「ペラペラ話す人よりちょっとずつ一言一言話す人の方が信頼感があるよ」と言ってもらえたので 今は辿々しくても少しずつ言葉を並べられるようになった
だいぶ人と話すことが怖くなくなった)
神がいようがいまいが 関係なく日々は続いていく、というのはそういう感覚だ
私がいたのは学生寮のようなところで
信者に向け講義をするような人材を育てることを目的としている寮だった
20〜25人くらいの規模で
マンションの3部屋(うち1部屋は夫婦の家)を借りて男女別れて住んでいた
みんな割と若かったと思う
私は2世ではない
まだ規制が緩かったので大学内でも駅のコンコースでも勧誘を行なっていた
声をかけられた時も怪しいなとは思っていたが 半ば分かっていてついていった
統一教会だと開示を受けた上で「寮に入らないか」というような打診を受けたので
なんとなく流れで、面白そうなので入ることにした
あと、みんな、人が良い人たちだった、というのがあった
でも入教したキッカケには結局、自分の中に将来自分が働いているビジョンが湧かなかったり
社会一般の基準で勤めることは難しいんじゃないかという漠然とした不安があった
この時このような逃げの姿勢でいなければ
こんなに長く苦しむことはなかったなと今になってみれば思う
朝早くから起きて
原理講論を音読したり、勉強会をしたり、祈りをしたり、敬拝をしたりする
仕送りは全て世話役の夫婦に預ける形になっていて自由には使えなかった
お金は全て「聖別」といって、清められ
そういう清められたお金は「神様とお父様お母様のお金」と言い含められる
友人と遊びに行く、呑みに行くなどの経験も皆無だ
もちろん遊びにお金を使うことができないので 自由な交遊はできない、と言っていい
学校から帰ってきたら即駅のコンコースや他大学へ伝道という名の勧誘に行く
長期休暇は県外へ、車中泊をしながら1日中歩いてフキンの訪問販売をする
当然ながらより多く売れた方が良いわけだが私はいつもほとんど売れなかった
1ヶ月寮には帰れない
家族には内部のことは言えないことになっていて
これらを聞いて楽しそう、と思うだろうか?
けれど楽しいと思うことを排除し、自分を否定し、自分の望むものを否定して、
それを全てみ旨に捧げるというのが信仰の道だった
苦しければ苦しいほど条件になる、そういう発想なのだ
(そういう発想が多額の献金の要求にも繋がったのかもしれない が その要求に正当性は無いと思う)
私が寮内で大きな声で笑っていたら先輩に
「あなたが来てから、こんな大きな声で笑ってもいいんだなって 初めて思ったの」と言われた
そういう場所だったのだ
聞いた時はドン引きした
それでもやっている時は一生懸命だった
けれど これは本当に人を幸せにするような活動なのか?という疑問がずっとあった
(そういった活動などが条件となり積み重ねられ、
その条件が満ちると間接的に人を幸せにする、という考え方なので
目の前の相手を即幸せな気持ちにさせたかどうかはあまり重要ではない)
(どれだけ苦労を重ねるか 自分の欲や怠惰を否定できるかの方が
より大きな条件になるという考え方になる)
(親が子を置いて宗教活動に邁進することになるのは、そういう仕組みゆえだ)
人になかなか言うことができないような生活で費やしてしまったことは
勿体ないことだったと素直に思っている
勿体なかったと言うと「でもあなたのその過去も今に繋がっているじゃない?」
というような返しを親からされることがあるが
これを言われると いつも胸が詰まり
説明のできないいろんな思いが去来して胸がぐるぐるする
しなくてもいい苦労というのはある、ということで
誰も「統一教会が許せない」とも「あなたが失ったものを思うと本当に悲しい」とも
言ってくれる人はいなかった
私の、誰にも相談できなかった日々、1人苦しんだ日々を
私が逃げ出すことによって自分も家族も不幸な目に遭って死ぬかもしれない
もしひどい事が起こるなら私に起こしてくださいと
誰にも相談できなかった日々を
肯定しないといけないのだろうか?
この状況になるまで誰もそれをすることができなかった
その事実はとても重いと思う
それは助ける力がない人たちが口を揃えて言う言葉のようにも思える
とても、とても苦しいものだ
それがこの方法だったのだ
この方法以外で彼が救われることもなかっただろうと思う
山上被告が自分で自分を救うしかなかった結果がこれだったのではないだろうかと思う
私が入教して実感したことは、宗教に関わっている人は意外と多い、ということだ
私のいた寮の中にも、親が創価学会だったがそれに反発して統一教会に来た人もいた
(その人は非常に熱心な人だったが その後心身を崩して入院されたりしていた)
気になったのは、世話役の夫婦の奥さんの方はいつも病気がちで寝てばかりだったことだ
いつも辛そうだなと思っていた
断食をしたり敬拝をしたり長時間伝道をしたり 体を酷使することも多かったので
体を悪くしている人も多かった
みんな普通の人たちだ
そこにいる人たちは みんなそれぞれがんばって生きている
それを食い物にする、というのがおかしな話で
どんな宗教であっても「献金しなければ救われない」というのはおかしいことだと思う
正直に言えば 宗教法人は本当に好き放題するところは好き放題やっていると思う
人の気持ちは弱いので それで救われるなら払ってしまうわけだけど
なんとかもう少し規制ができてほしい
少なくともその行き過ぎた状態が、あのような悲惨な事件に帰結したのだということを思うと
そこをきちんと、法なりなんなりで整備しないというのは、単純に理解に苦しむ
状況がもう少し良くなってくれることを願う
あの事件が無ければ少なくとも私の16年は社会の中では意味を持たず透明なままだったし
こんな話は絶対にできなかっただろうと思う
誰も助けてくれなかったのだ
それを思うと本当に胸が苦しい
何度も書くが
誰かが助けてくれるはずがないのだ
そういう構造になっているのだ
楽しい家族旅行、欲しかったおもちゃ、勉強するための本、服、車
普通の人が当たり前に経験する友人との時間、家族と過ごせた時間、
そういうものに付随する思い出全てが
その悔しさ 悲しさ 苦しみを思うと計り知れない
私の失った16年 いや、それでは比較にならないほどの苦しみと絶望だと思う
それらは 決して帰ってはこない
泡になって 帰ってこない
親が宗教活動にハマるなんていうのは交通事故のようで あまりにも避けようがない
加えてそれを身内がどうにかするなんていうのはほぼ不可能だと言っていい
なんなら母親も被害を受けた側、交通事故に遭った側だとも感じられる
内情を知る人の弁護がなさすぎる気がする
「宗教にどっぷりハマっている身内がいる状況」
私は最後、逃げ出す前に
もしこの人たちがもう少し私に向き合ってくれていたら
けれど最終的な結論として
「ああ この人たちは神に祈りお父様お母様に祈る以上のことはしてくれないんだ」と思った
それが最終的な答えになるので話ができないのだ
「こうこうこういうことで悩んでいる」
と悩みを打ち明けても
「神のみ旨はこうだ」「お父様お母様はこう言っている」
その堂々巡りになる
そこを信じて同じことを繰り返せばいいのだ
他の話は通じない
一切だ 一切通じない
その虚しさは 本気で話をしようとした人間にしか分からないだろうと思う
皆良い人たちなのだ
信頼もしていた
一個人で見れば仲間や世話になった人たちだ 頭が悪いわけでもおかしいわけでもない
けれどそうであればあるほど ある一定のところから会話ができなくなることが辛い
逃げた後、私は入教前に元々住んでいたアパートに帰った
入寮時にそこを解約すると家族におかしく思われるのでそのまま残しておく慣わしなのだ
入教すると元の家には特別なことでもない限り入ることはできなくなる
記憶が薄いが、そこに帰れたということは
しばらくその部屋には仲間が何度も説得に訪れた
手紙が置いてあったり食べ物がドアの取っ手にかかっていたりした
無視をし続けていたところ
ある時、眠っていて目を覚ましたら目の前に女性の仲間(先輩)がいて、私を覗き込んでいた
預けたままになっていた鍵を使って勝手に部屋の中に入ってきていたのだ
その人に悪気はなかった
けれど、「神のためならそれができる」そういう思考回路になってしまうのだ
「神のために、この人を救わないといけない」
「神のみ旨であればこの行いは許される」
私は何度も何度も「あなたたちを見ると色んなことを思い出して怖くて震えて辛いので何も送らないでほしい 会いにこないでほしい」と伝えた
最近しみじみ思うけど、暖房をケチると普通に老ける。肌も気力も落ちるし、寒さに耐えるだけで体力が削られる。節約だと思って我慢してると、最終的に自分の老化スピードを加速させてるだけっぽい。金を節約して寿命を溶かす、みたいな状態になってる。
東北とか北関東の人間が無気力なのは、メンタルの問題じゃなくて、生体エネルギーを生活防衛に回しすぎてるからなんじゃないかって思う。寒い部屋でじっとしてるだけでも、身体は内部から温めようとして常にエネルギーを放出してる。体温維持が最優先になるから、思考も感情も後回し。寒いと気力が削られて、寝そべるしかなくなる。寝そべり族がどうとかじゃなく、物理的にそうなる。
寒さって、地味に人間を破壊する。睡眠も浅くなるし、血行が悪くなって肌は乾燥してしわが増える。乾燥で皮脂バランスが崩れてニキビも吹く。寒いと肩が上がって姿勢も悪くなる。呼吸も浅くなる。免疫も下がる。ラジヒスも下がる。全部悪循環。身体を守るために余計な負荷がかかり続け、結果として老化に直結する。
暖房をケチる行為は、短期では数千円お得かもしれないけど、長期では肌、血管、筋肉、睡眠、脳、気力の劣化につながる。未来の自分に請求書が飛んでくる。いくら美容液を塗っても、根本が寒さで削られてたら意味がない。体温を保つことが最優先。暖房は化粧水より効く。
服を着込めば解決という話でもない。寒い部屋は空気そのものが冷えているから、呼吸から冷気が入って内側が冷える。手先足先からじわじわ体温が奪われると、深部体温まで下がって、身体が緊急モードに入る。すると回復に回す余力がなくなる。細胞のターンオーバーも落ちていく。若さは熱で維持されてる。
寒冷地の人が老けるのが早いと言われるのも当然で、環境ダメージがデカすぎる。毎日がリスク。暖房が弱ければ弱いほど、自分の身体を火力発電として酷使することになる。結果、脳も筋肉も臓器もすり減っていく。たとえ食事やスキンケアに気を使っていても、ベースの温度が低いと意味が薄れる。
で、俺は気づいた。暖房をつけるという行為は、ただ部屋を温めるんじゃなく、自分の若さに投資してるんだと。東京電力に先行投資して若さを買う。電気代は美容代。電気だけは裏切らない。部屋が暖かくなるだけで、生きる気力が戻る。勉強も仕事も進む。自己効力感が上がる。暖かい部屋は人生の生産関数を底上げする。
もちろん暖房代は高い。でも、金を節約して老けるぐらいなら、金を払って若さをキープした方が圧倒的に得。美容医療で3万円払うより、冬に暖房を3万円使う方がコスパが良い可能性すらある。暖房は全身に効く。肌にも脳にも精神にも。効き目が広い。
寒さに耐えるという行為は、昭和の根性文化の残滓でしかない。暖房をつけるのは甘えじゃない。生存戦略。自分を長持ちさせるための装備。省エネで生きようとすると、最終的に人生のスタミナが吹き飛ぶ。暖かい部屋で寝て、きちんと回復する方が合理的。
寒さは意思の問題ではなく、物理の問題だ。寒ければ老ける。身体は常に対処に追われ、他のことができなくなる。寒さがアイデンティティを溶かすぐらいなら、電気代を払った方がいい。東京電力に金を払って、未来の自分を守る。それでいい。若さは熱で生まれ、熱で守られる。
だから、俺は普通に暖房をつける。金を払って、気力を買う。暖かい部屋で、自分の人生をちゃんと回す。それが一番合理的だと思ってる。冬は暖房に金を惜しむな。若さが逃げていく。暖房は投資。老けたくなければ回せ。
・若者の就職先が医療と介護しかなく、低賃金で酷使され賃上げも無い
・土地が安いとはいうが建築コストはかかるし、自動車の維持費がかかるし、スーパーも潰れて減っていて買い出しのガソリン代負担も大きく、地域全体が低賃金のため、可処分所得は低い
・重たい雪の雪かきがきつい、つらいだけじゃなく腰を壊すリスクもある
・熊に殺されるのが怖くて徒歩移動ができない、常に車に乗ってないといけない
・出生率が低い、「さす九」などと言われる九州は統計情報から見ると比較的出生率が高い田舎だが、東北からは若い女性がガチ逃亡しており、消滅する可能性が高い自治体が多い
もうオフシーズンかなと思って、夏場にとりつけていたすだれとエアコン室外機に載せる日よけの反射板を取外した。
どっちもワンシーズンで大分酷使されたようで、ボロボロだった。
すだれは紫外線で色褪せて真っ白になっているし、エアコンの日よけは銀色の表面がボロボロになってひどいものは真っ二つに割れていた。
マクギリスファリドが突然無能になったのは「脚本家が面倒になって物語をぶん投げたせい」と言われていますがこれは誤りです。阿頼耶識の副作用による精神の荒廃が原因です。
描写がなくてわかりにくいのですが。
マクギリス・ファリドの終盤の行動が「突然無能になった」と解釈されがちなのは、その背景にある「阿頼耶識(アラヤシキ)システムの副作用による精神の荒廃」の描写が不足していたため、視聴者に伝わりにくかったことが大きな要因です。
この解釈は、作中での描写を深く読み解くことで裏付けられます。
マクギリスの行動と阿頼耶識の副作用
マクギリスは、理想とするアグニカ・カイエルの再来を目指し、世界を変えるという強い理想を持っていました。しかし、物語の終盤に近づくにつれて、その理想と現実のギャップに苦しむようになります。
彼の搭乗機であるガンダム・バエルには、阿頼耶識システムの本来の性能を引き出すための特殊な調整が施されており、その肉体的・精神的な負荷は非常に大きいと設定されています。
マクギリスはバエル搭乗後、自身の理想実現のために、精神を極限まで酷使し続けます。
彼の精神が徐々に摩耗し、判断力が低下していく過程が、戦術的な失敗や感情的な行動として現れますが、それが「阿頼耶識の副作用」と明確に結びつけられる描写が少なかったため、「無能化」と見なされやすかったと考えられます。
精神の荒廃により、かつての冷徹で合理的だった判断ができなくなり、「バエルに宿るアグニカの意志」といった非合理的なものに固執するようになります。これは、理想実現への焦りから、精神的な拠り所を求めるようになった結果であり、彼の精神が正常でなくなったことの表れです。
マクギリスの終盤の行動は、単なる「脚本の都合」ではなく、「理想の追求と過度なシステム使用による精神的な破綻」という、キャラクターの内面に基づいた悲劇的な結末として描かれていたと言えます。
契約書には、退去時の費用としてエアコン清掃費名目で一台あたり1万円ほどだったかな、払えって書いてある。
わりと神経質な方なので、エアコンはきちんと清掃された状態で入居したい。
前の人が出たあと、きちんと清掃されているなら安心なので、契約書には特に異を唱えず、入居した。
金額的には、ただの清掃ではなく、ちゃんとバラして洗浄するくらいの金額だったし。
入居から2年たって、夏場エアコン酷使したし、ここらでいったんエアコン洗浄しておくかと思い、
自費にてダスキンさんにお願いして分解洗浄に来て貰うことにした。
が、いざ来て貰ったら、分解できないと言われる。
どうやら、エアコン取り付け位置が悪く天井にカバーが引っかかって外せないので、このままだと洗浄清掃できないと。
ということは、だ。
築年数的にはたしか10年程度のマンションだったと思うんだけど、ということは新築時にエアコンとりつけた後、
入居者からは洗浄費用として結構な額をとっておきながら、その額に見合った洗浄清掃をしていなかったことになる。
清掃は、そこから下請け、さらに孫請けへと投げられており、結果どうやら孫受けが清掃してなかったと判明したんだけど、
大手管理会社は丸投げで、実際にちゃんと清掃されたかどうか見てなかった。
大手じゃないけど別の賃貸で、ここもそこそこな家賃の物件でエアコンは天井にビルドインタイプのものなんだけど、
同じく契約書には退去時にエアコン清掃費として1万円とか書かれてるんだけど、
入居後、カバーを外してみたらカビだらけだった。洗浄どころか通常清掃もしてない感じ。
見えるところは一応ピカピカだけど、見えないところは徹底して手を抜く。金だけとって。
見積もり書には、清掃費数万円が計上されているんだけど、完成後にチェックしたら、あちこち木くずとか残ってる。
清掃ってどんな清掃したんですか?って聞けば、箒で掃いただけって言われた。
箒で掃くだけ、しかも木くずとか一杯残ってるような適当な清掃で数万円取るってどういうことよ。
ここもまあ、リノべーしょん会社が悪いのか、下請けの業者が悪いのか知らんけど。
少なくとも監督とかチェックとかしてないのはどうなんよ。
AIのAGI、超知能が目前で、社会構造が大きく変るという節目だから、この記事の根底の必要な労働力の総数が大きく今後変ると思うけどね。
肉体労働もロボットが自然言語や、動作観察で人型ロボットがやるようになっている中国を見ていると、日本みたいに問題解決能力がなくて、人権意識が希薄な国はこれ以上は移民を増やさないで、AI・ロボットに全振りした方が良いと思う。そのロボットもAIもアメリカが作っているから、お金払って、使えば良い。利幅は少なく旨味無いけど、社会が分断されるよりいい。
でも、日本の経営者って本当に怠け者で、近年の40年は安い人件費をつかうしか脳みそがないから無理なんだろうな。
今後も馬鹿の一つ覚えで外国人移民をなかば騙して日本に連れてきて移民を酷使するのだろうな。止めて欲しい、海外に行くと日本人への風当たりが本当に強いから。
私ははて左を自認して、どんどん移民が増えて、その2世・3世が日本に定着して、その中から孫さんみたいにバイタリティあふれる人が生まれたらいいのにとは思うけど、日本は移民をすりつぶすばかりだから、移民が気の毒という観点で、移民の増加は控えた方が良いと思う。日本型経済がたちかなる危険性とかはどうでもいい、あくまで移民が心配という文脈で。
電子書籍よりも紙の本が読み心地圧倒的に有利・・・・!!!!!!!
しかし、私は東京の狭いマンションに住んでいる上に子供も2人いるから紙の本は極力増やせないんだよな
紙の本、ちょくちょく買ってはいるけど
紙の本、目に優しいのよ
そして精読に向いてる
私は無職ニートやってたときに実家で家事もせずにひたすら読書してた時期あったんだけど電子書籍の文庫本だと1日3冊が限界でしたね
子供時代〜独身時代は自分が好きな紙の本を自分の好きなように買えたけど
今はもう無理。絶対に無理
子供が紙の本が欲しいって言ったら紙の本買ってあげるけど