はてなキーワード: 称揚とは
https://x.com/creamsoooooooda/status/1916672812246261855?t=3Zt4uhn22kXiFjOdO-d33g&s=19
これとか、Maggy=ヒスブルナオキとか、勝部とかシュナムルとか、少し前にもホッテントリに入ってた自称フェミニストの男の彼女だった女の記事とかもそうだけど、この手の所謂チン騎士によるお手軽フェミニストアピールを女性が簡単に称揚してしまう流れ、ちょっとチョロすぎて危ういと思う。
っていうの自由恋愛社会のバグだよなぁ。一人では相手を見つけられないような男女がお見合いによって番い、婚外の出会いもなく、自然な一棒一穴主義により夫婦生活を完遂、っていうのが前提だったんだろうな。ポリアモリーは一見すると自然なように見えて、実際は複雑な人間関係を捌かないといけないので極端な人材にしか扱えないんだよな。力による支配が巧者による支配に置き換わっただけで、公平さや平等さとは程遠い、新自由主義的な概念だ。まあ子供が増えるとか減るとかは全体主義者以外にはどうでもいい話で、個人としていかに幸せに生きるかって話なんだが。他にメシを知らなければドッグフードは最高にうまいものとして淡々と暮らすこともできたかもしれないが、現代社会は未だ恋愛を称揚しているし、そうでなくとも個人の好みとしてのルッキズムを咎めるものはほとんどいない。人は美しいものに弱い。他の相手を知らなければ幸福でいられたのに、メディアは美少女とイケメンをこれでもかと繰り出してくる。そんな情報の洪水の中で隣にいるぱっとしない誰かに惚れ続けることができるのは才能である。こういうことを言うと「私は自分のパートナーが大好きでーす」みたいな惚気をする奴が出てくるんだが、それが才能自慢や実家が太い自慢と比べて許されてる風なのは実に解せない。ただの才能だし、下品な自慢であることは自覚して欲しい。そういう自慢を見ると自分も幸せな気分になれる、ってのも才能でしかないよ。まあ私もかわいい動物画像は好きだけどね。それだってやっぱり才能なんだよ。そういうのは人生を楽しむ才能だ。あんまりひけらかすものじゃないとは思うが、まあ「そういう生き方もあるか」と救われる人もいないではないか。まったく私の人生なんてずっと悪あがきのようなものだ。誰か友達になってくれないかな。
だってガンダムって最初から割と群像劇じゃん?アムロの視点は多いけれど、作品そのものはホワイトベースクルーに時々当番回が回ってきて掘り下げられる作りで。
タイトルが機動戦士ガンダムじゃなくて機動戦艦ホワイトベースであったとしても大して違和感はないというか。
年長視聴者にはブライト、女性にはミライ、ちょっと捻くれたタイプにはカイ、自信の無い子にはハヤト、年少者にはカツレツキッカと、感情移入出来る対象を複数配置してるし。
別にアムロ一人が無双して済むような作風じゃないと思うので、ネットの風聞と実際に見た印象とにギャップがあった。
当のアムロ自身がニュータイプは戦争の道具じゃないと言っているのに、どうしてそうも道具としての適性を称揚するのだろうか。
最終回だって子供達の導きでホワイトベースに帰還して、アムロよりもさらに幼い子供達がニュータイプとしての高い能力を発揮する事を窺わせていると思う(Vのカルルマンも同様に赤子が強い理論)。
あと、アムロがどんなに強くても、大きな物語の中では一兵士にすぎない。
アムロを典型的な主人公として機能させるための導線としては、ガンダム開発者の息子である点と、プリンセス的な存在であるセイラとの関係があった。でもどちらも早期に打ち捨てられてしまう。
セイラをガンダムの手のひらに乗せた辺りでは、深く関わっていく予感もあったんだけどね。
セイラのお株を奪って割り込むのが、途中で出てくるララァというキャラクター。これって完成した物語に後からぶち込まれた異物に見える。ビジュアルも性格も浮いてて異様に強設定で、今だったらポリコレ対策で忖度したとかメアリー・スーとか騒がれてもおかしくない。
F91以降の後発作品ではプリンセス的なキャラを普通に主人公のヒロインに持ってきている例が多いから、そっちの方がやっぱり作りやすいんだろう。
まあとにかく群像劇だと思うんだよ。
それに対してシャアは敵地でたった一人、心を許せる者もなく孤軍奮闘している訳で。
必ずしも主人公贔屓ではない視聴者としてはついこっちに肩入れしたくなる。
シャアが素顔を見せたのが、2話のセイラ相手と最終話の死に行く兵士相手だけなのが良かったと思う。ネームドの誰かではなく無名の兵士。あの兵士の前で見せた表情は、これまでにも仮面の下で同じ表情をしていたのだろうと推察できる。
「ネトウヨはすぐに他国の軍事弾圧を肯定するくせに、なぜ天安門とか六四天安門とかbioに書くのか」という話をしばしば見かける。何か妙な勘違いなのだが、ネトウヨの連中は「敵国に迷惑がかかる行為を称揚し、自国に迷惑がかかる(と思い込んでいる)行為を批難する」という点において一貫しているだけであり、何も矛盾はない。中国の現体制に対して何かしら迷惑やダメージがある現象なら何でもいいのであり、つまり軍事弾圧の是非や民主主義イデオロギーは最初から問題としていない。要は一昔前の、自由と民主主義の国アメリカがその辺の独裁国家を支援していたのと同じである(ピノチェトとかフセインとか)(パフラヴィー朝なんかは話がちょうど良い具合にややこしくなると思う)。
軍隊による民衆弾圧に親和的なのもある意味当たり前の話で、むしろ「軍人は何のために銃を握るのか」という議題に対し、少なくとも日本人の歴史観においては「国民を守るために銃を握ることはありえない。それは異常である。国体または軍隊自身を守るために銃を握るのが一般的であり、その目的達成のために国民に各種の危害を加えるのは比較的当然のことである」という認識のはずだ。そもそもそれこそが日本国憲法第九条の前提そのものではあるまいか。恐らく「普通の日本人」とやらにとって、軍隊が自国民を守るために存在し行動する、という「印象(コンセンサスと言い換えてもよいだろうか)」そのものが存在しないはずだ。それは案外、「普通の」どころか左右両翼の共通認識ではないだろうか。
確かに、明治以降の旧軍は侵略戦争か、なんとなくその場のノリでその辺の戦争に参戦するか、いずれかの経験ばかりだったわけで、直接的に国民を守るための軍事行動というのは教科書に載るレベルでは存在しない(占領地に住んでる人を守るというのも、そりゃまず占領してんだし……という話が先に来る。まあスタコラサッサと逃げた関東軍は流石にちょっと凄い気はするが)。当然、ここで元寇や災害救助の話をしても仕方ない。それは過去の話ではないのか、現代にあってミャンマーやシリアと同レベルで恥ずかしくないのか、ではない。軍隊とは本質的に恥ずかしくて危険なもの、できればこの世に存在しない方がいいものなのだ。繰り返すが9条はそういう話のはずで、ここに論理の飛躍は一切ない。
話をあえて脱線させるが、日本人は恐らく「尊敬に値する軍隊」を近現代において認知したことがなく(自衛隊は日々努力し結果も出しているものと思うが、まあ個人単位で時々変なの沸いてはいるしなとも)、また「軍隊に対する正しい尊敬の仕方」も習得していない。これらは良い手本となる先達国があるのか、またそこから学ぶだけでどうにかなるものなのか、は良く分からないが、これからでも議論はあっても良いと思う。国民に銃を向けない軍隊や近似組織は当たり前ではなく、どうにかして作り続けなければいけないものではなかろうか。「デモ中に鉄砲を掴んだら危ないぞ」ぐらいは正直それはそう程度の反射的感想でもありえるところで、大事なのはわざわざそこを起点にしてまで危険な発言をすること等を阻止することであろう。
また別の方向に脱線させれば、日本人はまた「イデオロギーの基に生きて、時々うっかりイデオロギーのために死ぬ」という生活を想像できないのではないか。国益になるなら自他のイデオロギーを問わない、というのはネトウヨの根底の(ごく一部ではあろうが)どこかにあるし、本来それ自体はあまり頭ごなしに否定するものでもない気がする。
逆に言えば、日本国民はネトウヨの「9条のせいで日本が駄目になる」という妄言を、妄言ではなく実際に真剣に実現する義務を怠っている。9条を守って国体の崩壊や日本国民の財産、生命が著しく損害を受ける事態になれば、それは国際社会において極めて重宝される歴史や教訓となるはずであり、「お国のために死ぬ」より数十段もマシな「お世界のために死ぬ」が実現するにはする。これは割と皮肉や冗談ではなくて、一国の利益がために他国を侵略するという不正義の対極である以上、国際社会はそこに何らかの価値と教訓を見出し称揚する責務が存在するはずだ(責をさぼる可能性は大分あるが)。国際社会への貢献とはそのようなものであり、できないのであれば素直に「すみません終戦時点ではアジア諸国をマジで見下していて方々に攻め入るだけの国力を持つに至るとは思っていませんでした。完全に大東亜共栄圏脳のまんまでした。これからは行きすぎない程度の暴力装置で自由と民主主義のために集団的自衛権とかPKFとかぐらいはします」と謝罪したうえで改憲議論でもしたほうがよろしい。
話をタイトルに戻せば、価値観を共有できない国とどう向き合うのか、というより「友好的に向き合ってはいけない」という、普通は世界各国と仲良くするのは良いことでは……?という直感に反するイデオロギー準拠の行動指針にどう向き合えばいいのか、(すぐ撃てばいいという話では断じてないことこそをも含め)考えなければいけない訳である。もちろん「考えなければいけない」などというみっともない文末はよろしくないのだが、これはもう完全にしようがない。
これは嘘かなと
中華の月額型はコツコツ型、毎日ログインで最大のリターンが得られるなどで、
この「毎日ログインで課金効果最大」という課金商品は、実際は和ゲーでも多く導入されてる
(FGOだけ異様に遅れていて「毎日1回だけガチャが安いよ」という10年以上前に他ゲーでやってた施策を後付けで追加したのみ)
でまあ、これらのログインボーナスその他のサービスの追加効果的なクーポンの販売は、正直おまけだと思ってる
ソシャゲも売切ゲーもアニメもWEBコミックも次から次へと消費したい側からすると、月額課金はお得とは言えない
1日ログインしなかっただけで「損した」という気分にさせられてしまうのがダメ
それなら半年ログインしてなかったFGOに年始に復帰し、新規実装された限定サーヴァントに数万ぶっこんだほうが気持ちが楽だ
それで「たまに復帰したし少し溜まった分を遊んどくか」というふうに、忘れた頃にちょっと遊べるのが
「ガチャでときどき数万搾り取る系」の「いいところ」なのである
で、はてなでやたらヘイト対象になりがちなウマ娘も、毎月競争させつつも
なんやかや「気に入ったウマ娘が新規実装したときに半年ぶりぐらいにログインしてガチャ回してね」というスタイルだと思う
サービス開始時にサイゲの人がSNSで「ときどき遊んでね」的なニュアンスの発言してたし、
毎月のレースも十数万のアクティブの中でランキング1位を目指す形でなくマッチング形式だし
ちなみに自分もしばらく触ってなかったのをトランセンド実装のときだけ回し
それから半月もしたらもう触らなくなったが、それでガチャ課金が「損」だとは思ってない
このあたり、クソみたいな廃課金でバカな客を搾り取ってんじゃねーよという意見もあろうが、
まあ結局のとこガチャに万単位で突っ込めるやつはそういう所得層であり、金で時間と満足度を買ってるので、
なんか最近になって音楽イベント増やして曲を出すようになったのは日本の音楽ゲーの真似だろうし
後付けでそういうことしないといけないというのは、つまり、思ったように稼げてないのだろう
ガチャ排出率が高いのでキャラ入手するだけなら楽なのは確かだし、
自分も欲しいキャラは無課金で全部入手できたが、それで稼げてるのというと、わからん
イベントやグッズ展開で稼げてるかもしれないが、ブルアカについては同人誌やコミカライズだけで満足してしまい、熱狂的に入れ込んで公式グッズ欲しいほどには至ってないのでゲーム外課金圧の状況は不明
運営がかけた広告宣伝で一番儲かってるの二次創作同人ではという気がしなくもない
なおよく話題になるアークナイツはタワーディフェンス面倒なのでスルー、原神などホヨバは3D酔いがキツいんでスルー
そこそこ万札入れたのだと白夜極光だけど、これはガチャ排出率は高いけどスキン価格がやべーのがあったりして、中華が安い例には全くなってないと思う
中華ゲーはゲームバランス雑、というか洋ゲー基準のゲームバランスなので、和ゲーとはやっぱ別枠なんだよね
和の売れてるソシャゲは、ソシャゲ内ではゲームバランス調整をいろいろ考えてくれてるので(FGOは別だけど)
しばしばぶっ壊れ炎上するけど、炎上するってことは、それまでのゲームデザインやバランスはそこそこ評価されてるのだ
自分の現場的に言うと、中小企業の加入する協会けんぽは実質的に今の保険証と同じ感覚で使えるカード(4~5年の期限)を発行することになったので、当面の間、マイナ保険証はどうでもよくなってます
インボイス制度もNTTの明細すらインボイス番号をつけない(つまり完全に制度を無視)で突っぱねてるなど、もはや死に体、実質的に骨抜き、形骸化で流されてるわけだけど、マイナ保険証への移行も同様に形骸化で流されるのでしょう
そうなると、複数のシステムが同時並行で維持される最悪の状態を続けるしかない
弥縫策で慌ててでっち上げた制度でも、このさき何年も継続してけば、そのための現場のレガシーも積み上がっていくでしょう
マイナ保険証が最悪なのはそうやって負債レガシーを積み上げ、将来の制度設計をより困難にしたことです
未来への布石どころではなく、完全に未来を潰す負債そのものです
1億人を同じ方向に動かそうと思ったら小手先に走らず、移行のためのスタッフを公が直接雇用して大幅増員し、もっと汗を流せと思いますね。短期間だけ支持者に飯おごって金ばらまいて投票の1割も取れればいい選挙と同レベルでしか行政制度を考えてないからポイント付与なんて無策に走る
夢想の完成形だけ口先で語ってマイナンバーカードを称揚するのと、欧州のEV推進の理想論と、どっちもどっちだけど、EVバカにしつつマイナカードは便利だよしか言わないインフルエンサーやtuberやブクマカ、いくらでもいそうなのが残念です
左派に批判的な人間はシール貼りや演説妨害と同一視して叩く。まあ同じ人がやってる例もあるかもしれないが行為としては別物である。
あるいはそんなもん毒にも薬にもならない自己満足でしかないという冷笑的な受け取り方もある。まあその通りではあるだろう。
やりがいを与える・周りと断絶させるカルトの手法だとかいうのはさすがに言いがかりである。
さて有志による一人辻立ちに左派がプリミティブな政治参加の芽生えを見出し称揚するのは感覚的にはわからんことはない。
安野候補がテクノロジーで選挙のやり方をアップデートするとブチ上げていくらか実際に形にして示した、そういう取り組みはそれはそれで大事だが、どこまで行っても選挙の本質的泥臭さみたいなものはなくならないと思う。
ふと辻立ちを思い立った人は、しかし結局SNSでのネタになる・褒めてもらえるという頭があったのだろうか。べつにあってもいいんだが、それだといずれその人はシールとか踊りとかの「映え」方向に、ANTIFA的なカッコつけカルチャーに合流してしまうだろう。
そもそも、なぜ個人でやるのか?ぜひとも推したい候補がいてそのために時間と労力を費やす意思があるのなら選挙ボランティアとして馳せ参じたほうが自分の供出し得るリソースを有効に使えるのではないか。
「組織されることへのアレルギー」がおそらくそこにはある。別に選挙終わればそれっきりでもいいのに。
裏金だとかカルトのインベージョンの背景には現場のマンパワー不足がある。
そういうルートをあえて選ばずなお「一人街宣」に価値を見出すとすれば、結局一周してロマンの問題になってくるのか。
そこには確かに「何か」があるような気はするがうまくそのエッセンスを掬い上げることができない。
一つ思ったのはせっかくならなんか言えやということだ。そこで通りがかりの酔っぱらいとでもいい、問答が生じるならばそれは意味のあることではないか。誰が言ったか選挙は対話の機会でもある。ネットのくそみたいなやり取りとはまた別のチャンネルがそこに開かれないだろうか。
荻上チキ司会のTBSラジオ番組での約3分半のインタビューの間に石丸伸二氏のヤバさが炸裂していたのでつい書き起こした。
ラジオ放送だがTBS公式のYouTube動画ではスタジオ映像とリモート画面の石丸氏が観られる。
「ヤバさ」は話しぶりや表情にこそ存分に表れているのだが、そのパンチ力に注意を持ってかれずに発言内容をみるには文字のほうがよい面もあると思う。
ネットニュースの書き起こしはつまんであったりするので。
著作権関係とかよくわからんがもしアレだったらゴメンナサイして消すけども。
荻上 改めまして、こんばんは。荻上チキです。東京都知事選挙・開票特別番組「開票LIVE2024 カオス!東京で何が起きていたのか?」ここからはYouTube LIVEとTikTok LIVEで、このあと10時までお送りしたいと思います。えー今日のお相手は、プチ鹿島さんと、能條桃子さんと、武田砂鉄さんです。引き続きよろしくお願いします。
それでは、今回出馬された石丸伸二さんと中継が繋がっています。石丸さんこんばんは。
石丸 こんばんは。
荻上 さて、まず石丸さん、今回の都知事選挙、手応えを感じたと、先ほど発信もされていましたが、特にどんな点、手応えを感じた選挙だったんでしょうか…?
荻上 あ、さきほどぶら下がりの中で、今回の選挙、あの自分たちは頑張ったと、あの走り切ったというような話をされてたと思うんですが、特にどういったところに力を入れて、どんな手応えをお感じになりましたか?
石丸 手応えの話じゃないですよそれ!「自分たちができることを全部やった」という意味です。何かの反応ではなくて、自分達の実感の話をしました。
石丸 うくっ(失笑)てっ手応え?て、手応えって言うんですかねそれ? あのぉ、なんだろ? 自分達でこれをやろうと決めて、それを実施した・実行したという、まぁそれを手応えって言うのかな? でも手応えってもっと「反応」のことを言うかなっていう気はしますけど
荻上 あの、そうですねあの、反応…
荻上 あっいえ、えっと今回自分たちは全力を尽くした、で、それはあーっとおそらく票に繋がったというふうに、そのお感じになっている点はあるかと思うんですが、その手応え、あるいは「こういったような政策は届いたな」と感じる点、あるいは「課題だな」と感じた点などはいかがでしょうか…?
石丸 んーとぉ…届いたかという意味では、あのー、極めて大きいのが、知名度の差ですよね、どう考えても。ハイ。その意味で、まあ、それはわかってたので、その不利な状況で、できることを全部やってきたっていう、ところですねー…如何ともし難いその「環境」の話なので、その環境の中に居る主体としては、限界があるっていうことだと思います。
石丸 それはもうメディアの話であって、私から何か言うのも変かな?っていう気がしてます。
武田 これあのー、石丸さんの「覚悟の論理」っていう本ちょっと熟読さしていただいたんですけれどー、あのー、まあ「メンタルが強いですね」というふうに言われて、なんでメンタルが強いかって言われたというとそのー、「相手の問題は、どうなっても私は知りませんよ」と割り切れるというところに、書かれていてですねぇ、ちょっとこう、政治をやられる方…からするとこの、「相手の問題がどうなっても私は知りませんよ」っていうふうに言われると、ちょっとギョッとしちゃうなという所も感じたんですけれども、このなんかまあ選挙戦でいろんな立場の人と、お会いしてお話しすることがあったと思いますけれども、このご本に書かれたことっていうのは、特に考えとしては変化はないですかねー?
石丸 ん?どういう点をギョッとされたんですか?
武田 ん?この…
石丸 そんなにおかしなことを言ってるつもりがなかったんですけど
武田 あーそうですかあ
武田 まあ僕自身が違和感を覚えたのは、まあ政治っていうのはいろんな意見を受け止めて考えを変えてったり考えを強化してったりということの繰り返しだと思いますけれども「『相手の問題がどうなっても私は知りませんよ』っていうふうに言い切れるっていう所が自分のメンタルの強さだ」っていうふうに言われると、なかなかそこに対して意見を届けるっていうことが難しくなっちゃうんじゃないかな? というふうに思ったんですけどねぇ
石丸 失礼ですが本当に熟読されました?
石丸 あのー、あのぉ、そういうふうな思いでは言っていません。
武田 ええ。
石丸 はい。自分の責任の範囲を定義するという意味においてその話をしてます。んで政治において意見のやりとりをするっていうのはアタリマエですよね。それを否定はしてないはずです。
石丸 じゅ、熟読された中で、
荻上 またあのー、お話聞かせて下さい。ありがとうございました。
石丸 あもう終わり?
荻上 ーはい。石丸伸二さんはこのあとまた別のメディアのインタビューが待っているということでここまでのお時間ということになりました。
インタビュアーの武田砂鉄の言い草もどうなんだと感じる向きもあろうが、どっちがどうとかいう以前に何の話も始まっていない。こんだけ話が始まらんことってある? バカがレスバやってんじゃないんだからさ。
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都知事選の結果に思うのは、まず信任されたのは小池じゃなく都庁だろうということだ。
小池はたまに出て来てよくわからないカタカナ標語言って「あとやっといて頂戴」というだけの、よく言えばマスコットキャラ、悪く言えばバカ殿ポジションで、役人側からすればもうそれでいいよという体制が出来上がっているように見える。
蓮舫は何か決定的にやらかしたわけではなく、小池との違いを提示できなかった。都民にとって意味のある争点を提示しないということは「その椅子イイワネそろそろ譲ってよ」としか言ってないということだ。
そもそも小池がなんで都知事やりたいのか動機がさっぱりわからない。いや元々は「本邦初の女性首相」への足掛かりだったのは明白だが。
都知事で居たいだけの現職と都知事になりたいだけの新人なら現状維持でええわ。というのが「都民の審判」だったのだろう。
では石丸の躍進の意味は? 正直あんま意味とかないような気がする。小池VS蓮舫のカードがあほらし過ぎて宙に浮いた票が流れ込んだだけじゃないの?
インタビューのあとのスタジオで語られていたのは、良くも悪くも”選挙の風景”が変わってきたということだ。
ひとつには「一人街宣」と称するアレ。まさに草の根の、デモクラシーの原点に立ち返ったような動きかのように称揚していた。それは確かにそういう意味をも見出せるものと思う。でもそれなら自然発生的(笑)演説妨害みたいなしょーもない動きといかに切断するかっていう視点が要るだろうに、そういう目配りはないんだよなこの人たちは。
そしてもう一つ、ネットとリアルの境目がなくなって「言うてネットで人気なだけだろ」が通用しなくなってきたこと。「切り抜き動画」に乗せられやすい今どきの若者はバカですわねえみたいな上から目線の話をしていた。まあバカではあるんだろうけど。
そもそもなんでそういう古くて新しい劇場型の手口が猛威を振るうのかを考えた方がいいと思うよ。
私が思うにひとつにはこれぞポリコレの副作用である。自分の思いで正義を語ることばをうばわれた名もなき人びとの怨念は世に沈殿し続け、そのタール沼に火をつけていっちょ目立ってやろうというトリックスターが何度も何度も現れる。石丸氏はその中ではかなり小粒なほうではあろう。
議会との対立を鮮明にして泥仕合を繰り広げた安芸高田市長が東京都知事選に出馬するということで話題になっている。
この市長は、議会との論戦を志向していたようだが、本邦の地方議会、二元代表制は残念ながらそういった方向には適していない。
当然ながら、首長はその自治体の職員を駆使して議会に向けた調査研究を行う。対して地方議員は、多少の政務活動費こそあれど国会議員と異なり公設秘書はおらず、秘書を雇えるような収入が確保できる議員は限られる。自治体の業務は広範で、議会に諮られる案件も産業振興、厚生、文化に教育など多岐に渡る。これらの内容を議員やその支持者の少数で調査し、理解し、疑問点を整理しなれけばならない。加えて、議案説明会は上程日の1週間前が相場である。時間も足りない。
なお、議員から条例の制定などの提案も可能だが、その場合は一層の調査研究が必要なのは言うまでもない。
先述のとおり議員側には方方のリソースが不足しているため、特に首長の政策的な面が強い案件については、突然議会に諮られても賛否以前の問題なのが現状である。そこで、議案説明会の前に、政策の内容を議員に説明し、質疑応答などを経る「調整」「根回し」というものが行われる。これを馴れ合いと忌避する人もいるが、議員側に事前知識がなければ議会で実のあるやりとりはできない。
「初歩的な部分を質問せざるを得なくして首長がマウントをとる」「事前に言われれば簡単に用意できた内容を不意打ちで質問して議員が勝ち誇る」といった展開は、果たして議論として称揚に値するものなのだろうか。
チェックアンドバランスということで、議会と首長は対等のように見えるが、一概にそうともいえない。かつての阿久根市での暴挙で一定の枷はついたが、専決処分は依然として強力であり、再議も可能。首長の不信任決議は逆に議会を解散させることもできる。
首長と議会の権限の差は置くとして、まずは議員のリソース強化に尽きる。時間的な面では議案説明会から議会への上程までの期間を空けることも一考だが、首長側のスケジュールはタイトになる。政務活動費、報酬の増はわかりやすい例だが、賛同する人は少ないかもしれない。住民を巻き込むという点では、議会広報などによる発信強化も面白いところだ。
なお、件のガチンコ志向の安芸高田市長にあっては、議会広報の予算をカットした予算を提出、議会が当該部分を復活させた修正予算を可決したことでやっぱり揉めていることを申し添えておく。
議会と首長のガチンコ勝負というのは昨今の政治のエンタメ化の文脈では受けるかもしれない。しかし、国と異なり地方は二元代表制で、議員も首長も市民が直接選んだ代表である。それぞれがそれぞれの民意を反映している。この中で必要なのは、各々の背負った民意をすり合わせて着地点を探ることである。一方の民意が他方の民意を足蹴にする様で快哉を叫ぶのはよく考えた方がいい。自分の民意が足蹴にされないとも限らないのだから。