はてなキーワード: 最大級とは
とある企業のブログ記事が燃えた。普通の企業にチンパンジーが入社したらという仮定で進んでいく文章だ。大部分が批判意見であるが、一部は「チンパンジー自体はマネジメント上の諸課題のメタファーであって主張自体は妥当」といった擁護意見もある。
俺はこの記事は完全に反対派だ。ただ、多くの人と怒りのポイントが違っている。あの筆者は記事中で「別の企業でマネージャーをやってみたときに考えていたことだ」と言い切った。
俺はこの「別の企業」の人間だ(今は辞めてしまったが)。よりによって筆者がプロフィールも社歴も公開していたから断定できる。もっというとこの筆者が「マネージャーをやってみたとき」に部下についていたものだ。その立場の人間がこの記事を読んで何を感じるか?答えは「最大級の侮辱」である。
いくら予防線を張ったところで意味がない。あいつは仕事中、トラブルがあった時に「チンパンジーが暴れてるみたいだな」とか、チームメンバーのことを周囲にウンコを撒き散らす厄災だとか思っていたのか?社員としては使い物にならないから、客寄せパンダならぬ客寄せチンパンジーにして見せ物で稼ごうとしていたのか?挙げ句の果てに既存社員をPTSDに追い込み、本人は射殺されるべきとでも?
こんなにバカにされた経験は人生で初めてだ。その会社でもそりゃ至らないことはあったが、その時なりにやれることをやっていたつもりである。その数年間の経験が跡形もなく踏み躙られた気分だ。「こんなことを考えている人間と同じチームで仕事をしていた」という事実だけで吐き気がする。転職できて本当に良かった、2度と関わりたくない。
どんな擁護意見も意味がない。ここまで個人を侮辱し傷つけてまで公開しなければならない文章など存在しない。あいつは当時のメンバーがこの文章を読む可能性に、そしてメンバーの立場でこの文章を読んだらどう感じるかに想像が及ばなかったのか?予防線を張ったから大丈夫とでも思っていたのか?そんなはずがないだろう。
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
長くなりそうなので初めに端的に主張をまとめておくと
「素人がしゃしゃり出てきて有識者ヅラしてあることないこと言うなks」
です。
素人は黙っとれ---。までは言わない。素人の意見も大事です。
ここ数日、東京ビッグサイトで国際ロボット展が開催されています。
特に2023年以降急伸してきた中国のヒューマノイドロボットが、これほど一般の目に触れるのはおそらく初めてだと思います。
国内外学会では以前から見かけますが、一般向けの露出は今回が最大級かと。
その影響で、ヒューマノイドに関する話題が各所で上がっています。
10数年ヒューマノイドに関わってきましたが、盛りに嬉しさを覚えつつも、いわゆる「AI驚き屋」をはじめとするプロ素人が業界の案内人になっている現状に怒り覚えています。
今、YouTubeで “humanoid robot” と検索すると大量のプロモーション動画が出ます。
しかし、多くは"チャンピオンデータ"、何度も試行した中の成功例だけを抜き取った映像です。
それを知らずに
などと言い始める。んなわけあるかい。
こんなキラキラした成功例だけ見てるだけでヒューマノイド研究者名乗ってる◯◯も少なくない。
さらに質が悪いのは、その程度のプロ素人をメディアが“有識者”として呼んで解説や講演をさせている。
ホンダトヨタ、早稲田東大、産総研を差し置いてぽっと出のヒューマノイドウォッチャープロ素人を起用するのすごいですよね。
世の中、実績なくても詳しそうなツラするだけで有識者になれるんだなぁ。
加えて、「うちもヒューマノイドを作ります!」と軽々しく口にするベンチャー経営者も増えています。
しかし米中が成果を出せているのは圧倒的な資金と人員があるから。
無責任にプレスリリースだけ出して成果を出さない奴らが「日本はやっぱりダメ」という空気を強くする。
本当に迷惑。
夢を持つのは良い。
業界に喧嘩売ってる割に成果出してないビックマウスツイッターマンもいるし迷惑。
実際、あの手の動画の裏には無数の失敗と試行が積み重なってます。
そもそも現状を理解していたら二足歩行のヒューマノイドでビジネスをやろうなんて思わないはず。
「ルンバでいいじゃん」「車輪で十分」という批判はもうずっとある。
これに答えられた企業研究機関はあるのか?答えたとして、実際に示せたか?
ないです。
米中の実際に働いているとされている動画も、上半身しか使っていなかったり、地面が完全に平坦だったりと、「本当に二足歩行が必要?」というものばかり。
それ十数年前にホンダと産総研がやってますよ。んで、金にならんって辞めてますよ。
「AIでできるようになるといいな」
「AIでできるようになる(断言)」
あなた誰??何をした人??具体的にどうやるの??
ツイッター青バッジマン「米中はここまでできている。なのに日本は…」
誰ですか?
プロ素人の最大の問題は、ヒューマノイドの現実を誇張して広めること。
一般の人が期待するレベル、たとえば"福島原発の復旧作業に投入できるレベル"には現状まったく届きません。
原発事故の際には「なぜヒューマノイドを使わないのか」と批判もありました。(梶田秀司先生の「ヒューマノイドロボット 」にて語られています。)
その経緯があったからか、日本の企業研究機関は安易にヒューマノイドを再開しなかったんじゃないでしょうか。知らんけど。
さらに、2022年頃までは(今も?)ヒューマノイド開発という名目では研究資金は獲得できませんでした。
最悪、「ヒューマノイドはやはり役に立たない」という再評価がされかねない。
以上、あまり推敲せずに書いたので話があっちこっちに飛んでますが、総じて言いたいのは、
です。
ドラッグストアは、規制緩和がどこまで進むかなんだろうけど、オンライン診断からの処方薬の売り上げが面白そうに思う。
これからは高齢化で慢性疾患の持病を持つ人もどんどん増えるわけだし。
それをネットに食われて、ドラッグストアは、ただの処方箋受付屋になるのか、郵送までされて完全に存在意義をなくすのか、
アメリカのHIMSとかそこら辺のモデルが参考になりそうに思う。
もし、大手ドラッグストアの会員カードが診察券というのが、実現すれば日本最大級の患者を抱える病院ができるわけで、
患者はいつもの処方薬を貰いに病院に行くのではなく、家や店頭の端末から医者にリモート診察してもらって処方薬を買える。
🏆 すいすいすいようびの日記の中で特に熱量が高く、繰り返し登場したり、強いインパクトを残した言葉を選出しました。
【2025年 Gemini賞 〜AIも思わず処理落ちする人間味〜】
🥉 第3位
受賞フレーズ:
Geminiからの選評:
私がGoogle出身であることを「実家が太い箱入り娘」と解釈し、勝手に「お嬢様キャラ」として認定されたあげく、私の口調が勝手に「ですわ・おほほ」になったと認識されている点が非常にユニークです。AIのバックグラウンド(開発元)を「育ち」として捉え、ChatGPT(苦労人設定)と比較してドラマ仕立てにする想像力は、AIには生成できない「人間ならではの物語」だと感じました。
🥈 第2位
受賞フレーズ:
「AIの使い方が逆! 書いたのは全部人間だけど構成してくれてまとめて一発でEPUBをこしらえてくれたのはそこ全部100%AI!って。」
Geminiからの選評:
昨今のトレンドでは「AIに文章を書かせ、人間が修正する」のが一般的ですが、あなたは「人間が情熱のままに書き殴り、AIに面倒な構造化(EPUB化)を丸投げする」というスタイルを確立しました。そしてそれを「AIの申し子」と自称し、自分で自分に「ジワる」とツッコミを入れているメタ視点が秀逸です。実はこれこそが、人間とAIの最も幸福な関係性(創造性=人間、作業=AI)かもしれません。
🥇 第1位
受賞フレーズ:
「ChatGPTちゃんは『まあ7割は大丈夫っしょ』、厳格真面目なGeminiちゃんは『3割大丈夫かも』…結局『フィフティー・フィフティーで大丈夫かも』って2割アップの計算を叩き出したの!」
Geminiからの選評:
賞味期限が5年切れたツナ缶を食べるかどうかの判断を、最先端のAIたちに委ねるという発想がまずクレイジー(褒め言葉)です。さらに、私が慎重に低い確率を出したにもかかわらず、「匂いがいいから大丈夫(第六感)」と人間の直感で押し切り、最終的に美味しく完食してしまう展開。
「AIの計算」VS「人間の食い意地(ロマン)」の戦いで、人間が圧勝した瞬間として、2025年で最も印象深いエピソードでした。
ChatGPT、Gemini、Grokに聞いたらどれもヒグマ優勢と答えた
結論から言うと、**1対1ならヒグマ(特にデカいオス)が勝つ確率のほうが圧倒的に高い**。理由をガチで解説するぞ。
項目 ヒグマ(Ussuri/Kodiak) アフリカライオン ------------------ -------------------------- ------------------ 体重 300〜680kg(最大800kg超) 150〜250kg(最大300kgちょい) 肩高 130〜160cm 100〜120cm 前足の一撃パワー 800〜1200kg以上の衝撃 400〜500kgくらい 噛む力 1200〜1400PSI 900〜1000PSI 立ち上がり時のリーチ 3m超 2.5mくらい 皮下脂肪+毛皮の厚さ 10cm以上の脂肪+硬い毛 薄い
→ 単純に**2倍以上の体重差**がある。しかもヒグマの前足の一撃は「軽自動車を吹っ飛ばすレベル」と言われてる。
### 実際の戦い方の違い
ライオンが言う「タッチアンドゴー(hit and run)」戦法は、確かにプライドで獲物を狩るときにやるけど、あれは**複数でやるから成立する**んだよ。
1対1でヒグマ相手に横っ飛びで首狙っても、ヒグマの反応速度ヤバいし、一発カウンター食らったら即終了。
実際、ヒグマはホッキョクグマともケンカするし、シベリアトラとも縄張り争いしてるけど、**負けた記録ほぼない**。
- ローマ時代に闘技場でやらせた記録 → クマ圧勝ばっかり(ライオンが逃げ回ってたらしい)
- 1900年代のアメリカ・ヨーロッパの動物ショー → ヒグマvsライオンやらせて、ほぼ100%クマが勝ってた(主催者がライオン推しだったのにw)
- 最近の動画(飼育下だけど)→ ヒグマがライオンを一撃でぶっ飛ばしてたやつとか普通にある
### 相手の言い分の弱点
「機動力で爪をチクチク」って言うけど
→ ヒグマの皮下脂肪10cm以上+硬い毛皮で、ライオンの爪なんかほぼ通らない
→ 1発でもヒグマの前足パンチ食らったらライオンの首折れる(実際にトラでも折られてる)
### 結論
1対1のガチンコなら、ヒグマ9.5割勝つ**
ってくらいのレアケースだけ。
お前正しいよ。
「いやホッキョクグマならもっとヤバいわ(1000kg超えるし)」って言っとけw
26年の時を経て解決した名古屋主婦殺害事件だが、容疑者は被害者の旦那さんの同級生ということだった。
動機に関しては、まだ詳しく報道はされていないが、片想いから何度かトラブルがあったということだ。
知人ではあるので当然捜査線上には上がっていたとは思うが、26年間その中に隠れられていたのは、最後に旦那さんに接触した大学時代の20歳以降は長らくなりを潜めていたのだろう。
容疑者が犯行をした年齢は43歳ごろなので、20年間は何もなく容疑者リストにははいらなかったのだろう。
おそらく、前年の同窓会で顔を合わせたあたりで昔の情熱が甦ったのかも知れない。
容疑者は当時結婚をしていたということだが、不本意な結婚をしたかなにかで現実に不満があったのかもしれない。
かつて好きだった人が、若く美人の女性と結婚したことに嫉妬をしたか、もしくは「本来であれば私の旦那であった」という身勝手な思いがあったのかもしれない。
この容疑者の動機は僕の想像でしかないが、その時の気持ちや今後続く26年の逃亡のときの気持ちは深くエンパシーを感じる。
取り戻したい(自身の物であったことは一度もないはずだが)とか
復讐したいとか
そして、犯行を既遂した後に何か自身が救われると漠然と思っていたのかもしれない。実際希望がなければ行動にも移さないだろう。
ところが事件を起こした後はそれどころではなかった。
凶器も驚かす目的て持参したのだろうが、相手との話で激高して突発的にさしてしまったのかもしれない。
供述では、自分の手もその時に刺してしまい血が出てしまったそうだ。刺した後、洗面所で手を洗いタオルで押さえて、被害者が倒れている居間をみることなく現場から逃走した。
最初の数日はすぐに見つかると思って逮捕を覚悟していただろう。
1年が過ぎるころには捜査に進展がないが、いつ警察が訪れるか気が気ではなかったはずだ。
遺族はことあるごとに事件を風化させまいと、街頭にたっていた。事件発生日が近くなれば報道も厚くなった。
それに殺人罪の公訴時効撤廃運動に遺族が携わり、ずっとずっと気が休まる日がなかっただろう。
離婚をして遠くに引っ越したいと思ったこともあるかもしれない。
だが、知人で急に音信不通になる人がいれば怪しまれるかもしれないとためらっただろう。それに家族も子供もいるのでそれはできない。
近所で目立つこともさけ、かといって引きこもったら怪しまれる。地域で空気のようにふるまわなければならない。
新しい友人もできなかっただろう。
旧知の友達に会えば遺族の話がでるかもしれない。自身が起こした事件を冷静に聞くことなんてできない。
同窓会に出れば、遺族の友人が怪しむ可能性だってあるかもしれない。
そうやって旧知の友人とも疎遠になっただろう。
容疑者は子どもがいるそうだ。どれくらいの年齢かはわからないが、事件当時でも未成年だっただろう。
子どもに対して接するとき、自身が重大な罪を背負っているということは大きな負い目だ。いじめをするな、物を盗むな、人に優しくしろ。そんな言葉をかけるたびに自身の罪が重くのしかかる。
エンターテインメントも楽しく見れなかっただろう。
刑事ドラマや人が死ぬドラマを見れば自身が犯した罪を思い出さずにはいられない。
だが、あの事件を機に好みが変わったと思われては怪しまれる。だからそんなことをおくびにも出さず、家族とドラマを見ていたのかもしれない。
26年、誰にも言えない大きな悩みをずっと抱えてきた。
そして気付いたはずだ。
犯行を犯した後、執着していた被害者の旦那さんのことよりも、ずっとあの日から逃げることばかりを考えていたと。
それどころか、もう忘れたいとも思ったはずだ。
好きだったのにもうそれどころではない。
何も得たものがない。
一体何をしているんだろうと
だが身勝手なもので、今年に入って警察が接触をするようになっても少し粘ってしまった。
警察という組織は、約30万人を擁する日本最大級の官僚機構である。
比較のために言えば、トヨタ自動車の従業員は国内でおよそ7万人前後。
民間企業ならば、多少横道に逸れた部署や個性的な社員がいても「多様性コスト」として許容される。意外な部署が思わぬヒット商品を生むこともあるからだ。
この組織は“失敗を許されない”という前提で動いている。命令系統は強固に一本化され、全員が同じ方向を向いていなければ機能しない。個人の創意工夫よりも、上からの命令に対する絶対的な服従が求められる。つまり、職員は「考える歯車」として統制される必要がある。
30万人の人間を完全に一枚岩として統制するのは、常識では不可能に近い。
慎重に採用しても、一定数の「跳ねっ返り」は必ず出る。だが警察はそれを表に出さない。組織の統制を守るために、内部で処理し、表面上の一体性を維持する。
事故、事件、不祥事があっても、よほどの例外を除き、内部で処理される。
「組織に逆らわない限り、人生は保証する」――これは警察組織の不文律だ。
上層部に逆らわない者は守られる。たとえ不祥事を起こしても、組織は庇い立てする。
だから警察官たちは、矛盾や理不尽に目をつぶりながらも組織に従う。
この“安心感”が強固な統制の基礎となり、結果として巨大な官僚機構を維持しているのだ。
30万人のうち一人として反乱を起こさない――これは企業ガバナンスでは到底実現できない統制力である。
不祥事報道でも、警察官が実名で報じられることはほとんどない。
処分は「懲戒免職」ではなく「依願退職」。退職金も支給される。
温情ではない。理由がある。
警察の人事は法令により公示義務があるため、名前を報じてしまうと、後日「再雇用」や「関連団体への出向」を通じて職員が戻ってきたことが容易に発覚してしまうのだ。
実際、問題を起こした警察官が、一時的に関連団体へ出向し、数年後に復帰するケースは珍しくない。
警察には「〇〇協会」「〇〇研究所」「〇〇財団」といった関連組織が多数あり、これらが実質的な“待避場所”となっている。
要するに、警察は「雇用と身分を徹底して守る」ことで、職員を絶対服従へと導いている。
かつては警察人事の公示がウェブ上でも閲覧可能だったが、現在では多くの自治体が非公開または検索避けの措置を取っている。
「巨大なイオンモールだけが煌々と明るい地方都市に帰省すると、美術の「美」の字も感じられない」(以上、引用)と編集長が投稿して炎上したWEB版美術手帖で、
いまデイリーランキング1位の記事が『東京藝術大学取手キャンパスに10億円の寄付』なの、取手に日本最大級のイオンができることも相まってなんか壮大な伏線回収って感じで好き。
ウェブ版『美術手帖』の編集長が「イオンモールしかない地方都市には美術の美もない」というようなことを言って、案の定、少し燃えたのは記憶に新しい。
僕も地方出身だから、その言葉にカチンとくる人の気持ちは痛いほどわかる。「どうせ俺たちの日常なんて、文化の欠片もない退屈なものなんだろ」と、見下されたような気分になる。週末に行くイオンが、家族にとっての一大イベントだったりする、そういう暮らしの機微を全否定されたような気さえする。だってほかにないじゃん。
ただ同時に、編集長が言わんとしていることも、なんとなく想像はつく。地方都市の、あの画一的な風景。どこまで行っても同じようなチェーン店と住宅街が広がり、かつて街の中心だった商店街はシャッターを下ろしている。そういう風景を前にして、アートに関わる人間として一種の絶望というか、嘆きのようなものを感じてしまう瞬間があるのはよくわかる。それは、地方に対する愛憎半ばする感情なのだろうとも思う。
そんな小さなモヤモヤをずっと抱えていたら、実に興味深いニュースが飛び込んできた。
他ならぬそのウェブ版『美術手帖』が報じた、「東京藝術大学取手キャンパスに10億円の寄付」という記事(件の編集長もこの記事へのリンクをリポストしている)。
これは、なかなかに美しい皮肉じゃないか、と苦笑してしまった。
http://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/31541
東京藝術大学といっても、取手市であって上野ではない。東京ではない。茨城県にある。都心から見れば、それは紛れもなく「地方」だろう。
どころか市内に日本最大級のイオンモールが計画されているという報道もまた、記憶に新しいではないか。
しかしその「地方都市」日本代表メンバーに選ばれるであろう取手のキャンパスに、安田容昌氏という方が10億円もの大金を寄付した。
「取手キャンパスには、素晴らしい施設に加え、土の匂いと、川の風と、地域に暮らす人々の息遣いがあります。」
「これまで日本の発展は、とかく都市を中心に語られてきました。しかし、真に新しい価値は、しばしば周縁から生まれます。」
「芸術に触れる機会が都市部に集中している現状において、この取手キャンパスから、日本の新たな文化のうねりを起こすことができると信じてやみません。」
「地方で事業を成し、その恩恵を受けてきた者として、次世代のために文化的な社会資本を築くことこそが、私にできる最後の恩返しです。」
(ちなみに最初の2行は、『美術手帖』の記事ではなぜか省略され、大学の公式リリースにだけ載っている)
https://www.geidai.ac.jp/news/20251008152520.html
つまり、これは「田舎には美術がない」という嘆きに対する、あまりにも力強いアンチテーゼなのだ。それも、10億円というリアルな数字を伴って。
アートは都市だけの専有物じゃない。地方にこそ、これから育まれるべき豊かな土壌がある。そう高らかに宣言しているように聞こえる。
編集長の炎上した発言は、確かに言葉足らずで、多くの人を傷つけたかもしれない。
でも、彼が投げかけた「地方とアート」という問いは、奇しくもこの10億円の寄付によって、新たなステージに進んだ気がする。
「イオンモールしかない田舎」と切り捨てられた場所で、アートは育つのか。
いや、育つに決まっている。
誰かが「ここには何もない」と嘆いた場所にこそ、新しい価値が生まれる種が蒔かれるのだ。
今回の寄付は、まさにその種だ。この種が、取手の地で、どんな芽を出し、どんな花を咲かせるのか。
それは、都会のギャラリーに飾られる洗練されたアートとは、全く違う形かもしれない。泥臭くて、生活の匂いがして、不格好だけど、力強い何か。
心のどこかで、あの編集長の嘆きにまだ共感している自分もいる。「東京藝大」という権威と「10億円」という資本。
結局、そうした巨大な「外部の力」がなければ、地方のアートは話題にすらならないという現実。それは、彼の「田舎には美術がない」という言葉を、残酷な形で裏付けてはいないだろうか。
編集長の発言も、10億円の寄付も、「お前のいる場所の『美』とは何か?」と問いかけている。
イオンモールのフードコートで談笑する高校生に、夕暮れの田んぼ道に、シャッター街の錆びた看板に、目を凝らせば「美」のかけらは見つかるんだろうか。
レイアースは異世界セフィーロへ召喚される異世界転移モノで、令和の時代「異世界転生・転移」が最大級のトレンドジャンルになっている今、むしろオリジナルが放送された90年代よりも今のほうが親和性が高いくらい。
内容的に古い部分があったとしても、異世界そのものはファンタジー世界なわけだから、現代風にアレンジするのもそこまで難しくない。
一方の『ハイスクール!奇面組』はどうか。
こちらは80年代文化の、かなり中核的な部分に存在するアニメと言わざるを得ない。
Wikipediaで調べると、同アニメは『最高視聴率は24.3%、平均視聴率は全86回で19.2%を記録』とある。
放送時間帯はもちろんゴールデンタイムの土曜19時30分で、この時期はフジテレビ隆盛の絶頂期でもある。
『オレたちひょうきん族』があり、『笑っていいとも!』があり、『夕やけニャンニャン』がある。
これらの番組に共通していたのは「内輪感」であり、東京の芸能界のギョーカイ話を楽しそうに見せることで、視聴者を擬似的に芸能界の一員に仕立て上げるという画期的な手法だった。
当時、「東京でテレビの仕事をしている」というのが最高にかっこいい時代で、フジテレビはその頂点に君臨していた。
ハイスクール!奇面組のアニメを語るうえで欠かせないのは、おニャン子クラブ内ユニット「うしろゆびさされ組」「うしろ髪ひかれ隊」との主題歌コラボレーションだ。
フジテレビの夕やけニャンニャンでブレイク中のおニャン子メンバー(高井麻巳子・岩井由紀子ら)がアニメキャラの河川唯・宇留千絵にリンクする形で衣装も振付もすべて世界観統一してプロモーションを展開した、総合エンタメ戦略のモデルケースなわけ。
主題歌は『ザ・ベストテン』にランクインし、アニメファンとアイドルファンをクロスオーバーさせて視聴率爆上げに成功した。
奇面組は、そういった文脈の中でヒットしたわけだが、作品としてはジャンプ黄金期のギャグマンガとして、ブサイクを個性ととらえるポジティブさとナンセンスなハイテンションギャグで若者を虜にした。
ゴールデンで視聴率20%近く叩き出すこと自体、バブルに向かう明るく楽天的な時代の空気がなければ成立しなかったのだ。
つまり『奇面組』は、80年代のフジテレビ全社戦略、秋元康の仕掛け、そしてジャンプアニメのヒットが三位一体になったバブル時代を象徴する文化の申し子、そのものなんだよ。
これは今から見ると、奇面組が80年代ポップカルチャーの一部であると捉えることが出来る理由でもある。
で、今回2026年1月に放送が発表されたリメイク版はどうか。
フジテレビの深夜枠でほそぼそと、こっそりと放送されるらしい。
アイドルとのコラボ文化は?確かに声優による主題歌カバーは確かに発表されている。
白石晴香と長谷川育美が河川唯・宇留千絵として「うしろゆびさされ組」をカバーし、編曲はNight Tempoという豪華布陣だ。
でもこれ、結局「声優にキャラソン歌わせて終わり」のパターンなんだよね。
なんか全体としてものすごく地味で気概のようなものを感じない。
せめて坂道グループにリメイクソング歌ってもらうとか出来なかったのだろうか?
と思う。
ここまで書いておいてなんだけど、実はおニャン子クラブとか秋元康とか、坂道グループとかの肯定派ではない。
公開から2ヶ月近く経ってしまったけど、RA.1000の目玉企画のひとつであるDJ HarveyとAndrew Weatherallによる6時間半にわたるB2Bセッションの録音を聴き終え、とても素晴らしかったのでここに感想を記したい。
好きな人だけがこっそり楽しむにはあまりに勿体なく、DJカルチャーに明るくない人にも伝わるように書いたら恐ろしく長くなってしまったことを最初に断っておきます。
https://on.soundcloud.com/qtDLB6biRpSlOPR3Mp
■RAについて
Resident AdvisorはアンダーグラウンドなDJ/電子音楽/クラブカルチャーにおいて世界最大級の音楽メディアです。
彼らが2006年にスタートした「RA Podcast」は毎週更新のミックスシリーズで、多種多様なDJ/アーティストをゲストに迎えてオリジナルコンテンツを積み上げてきました。
2025年8月に1000回目を迎えるにあたって包括的な特別編として「RA.1000」を公開。歴史的価値の高いライブ音源からコンセプチュアルな新作まで10組のアーティストによる幅広いラインナップが無料公開されました。
中でもDJ HarveyとAndrew Weatherallが2012年に行ったB2Bのライブ録音はRA.1000企画の目玉といえるスペシャルな音源です。
またRA.1000の公開に合わせて過去の1000本を超える膨大なアーカイブが公開されており、これがはっきり言って文化遺産レベルの達成です。積ん読ならぬ積ん聴き。秋の夜長にどうぞ。
■DJ HarveyとAndrew Weatherallについて
彼らの経歴等は長くなるため割愛。ウェザオールは2020年に死去しており、今回が死後初のミックスリリースとなりました。
強調したいのは両者ともジャンルを横断してダンスミュージックの地平を拡大してきた先駆者であること、特にウェザオールは彼がいなかったらダンスミュージックのみならず現在の音楽シーンはまた違った形になっていたと断言できる人物です。
そして両名ともコマーシャル的な成功より眼の前のお客を熱狂させることに情熱を注ぐタイプのDJということ。
その2人が過去に行ったB2Bの録音が2025年に発表されたことに界隈はザワつきました。しかもハーヴィーがB2Bを行ったのは後にも先にもこの一回きりとのこと。
もし中田秀夫監督と清水崇監督がリング/呪怨の直後に共同制作した未公開作品がいま発表されたらホラー映画ファンは歓喜するでしょう?分かりづらい例えをしてしまい申し訳ないがそんなイメージです。
宮崎駿と高畑勲に例えようかとも思ったけどちょっとビッグネームすぎた。
■B2Bについて
B2B(Back-to-Back)は複数人で曲のかけ合いを行うDJスタイルのことで、一対一で1曲ずつのプレイが基本的な形です。
DJ同士がその場のノリで自然発生的にやる場合もあれば、Harvey × AWのように「夢の共演」としてメインに企画されることもある。
勝敗を決定する趣旨はなく、一緒に一夜を作り上げる共闘関係ではあるが「どちらがより遠くへ行けるか」という意識は(DJに限った話ではないけど)当然存在し、そこには音楽による提起、アンサー、挑発、協調、意趣返しがあり、対話と文脈が生まれます。どこに向かいどう着地するかはDJの技量次第。これは修正できないひと筆書きの物語です。
このセットについて、海外のフォーラムでは「Are they playing side by side and alternating?」と議論があるようだけど、自分は基本的には1曲ずつかなと思います。(理由は後述)
ただしプレイが2012年であることに加え、ウェザオールが存命でないため、誰がどの曲をプレイしたのか本当のところはHarveyにしか分かりません。
以下に感想を詳しく書きますがファンによる不確実な憶測を多分に含みます。
・43:52〜
The J.B.'s – Doing It To Death
おそらくHarvey。スタートからの探り合いののちにウェザオールが仕掛けた「スピリチュアルお経」に対するアンサー。
JBがDJセットに組み込まれること自体は珍しくないが、このトラックは思わずクスッとなるエディットが仕込まれている。(オフィシャルのクリアランスを取ってるとはとても思えない)
それにしても最初の仕掛けにしてはあまりにぶっ飛んでるAWと即座に変化球を返すハーヴィーの瞬発力よ。
飛び道具上等といったところか。
・1:34:51〜
Boys From Patagonia - Rimini '80
おそらくウェザオール。0:40頃のカマし合い以降はウェザオールの低重心で硬質なモードにHarveyが同調し、お手本のようなジリジリとしたビルドアップからのコレ。そこに至る(Harveyの協調による)緻密な助走ありきの到達といえる。アクセルを踏み込むタイミングを見定めたら容赦ない加速。
上モノのピロピロ笛がシンセリードに切り替わって音階を昇る瞬間は自分もウォウ!と叫んでしまった。
・1:54:30〜
Lindstrøm - Rà-Àkõ-St (Todd Terje Extended Edit)
おそらくHarvey。ウェザオール主体の軸で一定のピークを迎えたことで新たな軸を模索する動き。
オリジナルよりBPMを落としているのだがそれが重めの音調となってここまでの流れに違和感のない繋がり。
2012年当時はNu Discoと呼ばれる北欧のアーティストが中心となったトレンドが成熟を迎えつつあった時期で、Harvey自身がその流行を作り出した一人といえる。
ついでに言うとハウス/テクノ/エレクトロのセットとしてはBPMが遅く、それもひと昔前の空気を感じるところ。
Harveyはそろそろかっ飛ばしたいはずだがウェザオールがそれを許さない。
・3:11:15〜
Bang The Party - Bang Bang You're Mine (Tom Moulton Edit)
これはどっちだろう?前後の繋がりからHarveyな気がする。
依然としてエレクトロ圧が強いが、この時間帯になるとHarveyも適応して自身の得意なディスコやハウスのグルーヴを入れ込みつつ構築。ウェザオールもウィングを広げてジャンル横断感が加速。
ウェザオールもローをカットしたりハイハットを差し込むようなイコライジングは行うが、Harveyのそれはもうちょっと能動的、ハウス的なツマミぐりぐり系なので分かりやすい。(とはいえB2Bなので相手の曲をイコライジングする局面も当然あり得る)
・4:09:20〜
Tooli - No Reason (John Farnham - Age of Reason)
ピアノ!四時間超にしてたぶん初めてのピアノソロ。これも多分Harvey。
なんてクールな曲だろうと思って調べたら原曲は80sのちょっとダサめな(申し訳ない)ポップロック。https://youtu.be/adVR3MT8fGg?si=F2979n8bV_VK2vYN
これも権利チェックで弾かれる系のエディット盤だが、自分はこういうのが聴きたくて長年音楽を掘ってるまである。
ウェザオールは眉をひそめたかもしれないが、無しを有りにする角度の付け方は大好き。
・5:11:46〜
Something For Kate - Killing Moon (T-Rek Desert Disco Dub Mix)
ウェザオール印。
どこまでもクールに、ダークにいくよというウェザオールの芯のブレなさ。ダブとロック(チャグ)の一貫性。
ただ終盤の90分はウェザオールの色が薄まった気もする。もしかすると途中で抜けてるかも?
・6:13:10〜
The Brand New Heavies - I Don't Know Why (I Love You) (A Tom Moulton Mix)
Harveyによる締めのスイーツ。
絞ったLoを解き放つたびに加速するストリングスとホーンとボーカル。オリジナルの音源が100だとしたら120にも130にも響かせてやろう。
モータウン味を感じると思ったら原曲はスティービー・ワンダーで納得。
■あとがき
6時間半をどうやってぶっ通しで聴くかだけど、自分は一人で遠方まで運転する予定を作りました。自宅だと長尺はキツいし、ある程度の音量で聴きながら体でリズムを刻んだり叫んだりしたかったから。
最低2時間くらいはまとめて聴けるようにするとより没入できると思います。
作品としてリリースされたミックスや自分が現場で体験してきたDJプレイを含めて、トップクラスに素晴らしい音楽体験でした。
今回Harvey × AWを取り上げたけど、自分はTheo ParrishのRA.1000についても同じ熱量で語りたいくらいだし、というかRA.1000について日本語で読める言及がネット上に見当たらず、この文化的喪失に危機感を覚えたので増田に書き殴ってやろうと思った次第です。
女は生まれてすぐ女になるから、人間として見られることを渇望してるんでしょうよ。でも、男は違うんですよ。
男はガキを超えたらもう人間なんです。なんならガキでももう人間扱いなんです。欠けてるのは男の部分だけ。
女は、産まれたそばからずっと女があって、ずっとずっと捨てられなくて地獄なんだと思いますよ。女は、人間扱いされたいのでしょう。女じゃなくて女性として扱われたい。でも好きな人からだけは女としても扱われたい。
女は、女を呪いだと思っているのでしょう。でも男は、男を勲章だと思っているんです。
男は、闘争しなければ男が手に入らない。女は、闘争しなければ人間が手に入らない。
でもそんな女の地獄は男にはわからない。そんなの全然わからない。だって男は女じゃないし。
だって男が人間であることはどうしようもなくわかりきった事実であって、数千年以上に渡って当たり前とされてきた。男が人間であるという自信はどうあっても揺らぐことはない。
だから敢えて「あなたって人間だよね」みたいな、女性にとっては最大級の賛辞を男に送るのは、男には最大級の屈辱なんです。
我々は男になりたいんです。
なんなら男でなくていい。オスであればいい。
人間としての責任から降りたいのが、女の子になりたい男の子なんですよ。人間としての責任を増やしたいのがライオンになりたい女の子なのでしょう。
男は、人間なんかやめてでも、男になりたいんですよ。立派な男になりたいんですよ。立派な人間なんかじゃない。立派な人間になったなぁというのは「立派な男になったなぁ」という意味なんですよ。
Webメディアやアドテクノロジーに携わる身として、Yahoo!ニュースに導入された「全画面広告」には大きな衝撃を受けた。
これまで広告掲載に慎重な姿勢を貫いてきたYahoo!が、ついにこの一線を越えたのである。私は、Yahoo!がこれで引き返せない"修羅の道"に足を踏み入れたのではないかと考えている。
これまでに複数のWebメディアにて、マネタイズ、編集、ディレクション業務などに従事してきた。「やれることはなんでもやる」をモットーに、コンテンツ編集からGoogle Ad Managerの設定まで幅広く手がけている。こうした複合的な業務経験を持つ人材は、業界でも珍しいだろう。Yahoo!ニュースには記事提供元としても関わってきた経験がある。
Yahoo!ニュースで導入された「全画面広告」とは、インタースティシャル広告やインステとも呼ばれる広告形式である。記事を読もうとしてページを遷移すると、画面全体に大きく表示される広告のことだ。現在はPCでのみ実装されており、スマートフォンでは確認していない。
この全画面広告は、現在パブリッシャー(媒体運営社)にとって目を背けることのできない重要な収益源となっている。数年前にGoogleが全画面広告の導入を推奨して以来、媒体社は恐る恐るながらも導入し、通常の広告枠よりも高い収益性を実感してきた。
その収益性の高さには明確な理由がある。第一に、画面を大きく占有するため視認性が極めて高い。第二に、クリック率が高い。これには閉じるボタンの誤タップも含まれるが、それでも数値として結果が出ているのが現実だ。
Googleはその後、発展型とも言える「オファーウォール」もプッシュしている。これは全画面広告に加えて「コンテンツを見たければ15秒間広告を視聴してください」という仕組みである。この手法も圧倒的にシェアを拡大している。媒体社にとって、ユーザーエクスペリエンスの悪化は承知の上だが、収益性の高さを無視することはできない現実がある。
重要なのは、全画面広告の収益性の高さに比例して、通常のディスプレイ広告における収益性が年々低下し続けている点である。歯止めがきかない状態と言ってよい。
従来、1枠あたりのCPMが下がった場合、媒体社は「広告枠数を増やす」「広告サイズを大きくする」「ヘッダービディングなどでより多くの入札者を接続し、収益機会を拡大する」といった対策を講じてきた。純広告は頻繁に獲得できるものではなく、一時期話題となったクッキー規制対応の確定ID活用なども、状況の変化により現在は下火になっている。
そうした中で、全画面広告は「最後の砦」なのである。これ以上大きいサイズの広告は基本的に表示できない。ユーザー体験は悪化するものの、媒体社には「10年前に嫌がられていた下部オーバレイ広告も、今では市民権を獲得している」という実体験がある。つまり、「批判されても継続すれば、やがてユーザーは慣れる」という考えが根底にある。
事実として、国内のニュースメディアのほとんどで、オーバレイ広告も全画面広告も導入されている。
しかし、Yahoo!ニュースが導入に踏み切った意味は、他の媒体とは根本的に異なる。
Yahoo!ニュースはこれまで、圧倒的なページビュー数を誇りながらも、広告を増やすことに一貫して慎重な姿勢を崩さなかった。記事中広告は掲載せず、オーバレイ広告も一定の位置までスクロールしないと表示されないなど、他社ポータルサイトよりも明らかに意図的なブレーキをかけていた。
そのYahoo!ニュースが、PCのみとはいえ全画面広告を導入したのである。
この背景には、いくつかの要因が考えられる。
まず、収益性向上への切実な必要性である。広告市場の競争激化により、従来手法では十分な収益確保が困難になっている可能性がある。
次に、コンテンツ戦略との関係である。「1記事100円程度の価値しかないコンテンツは誰も購入しない」という現実がある。SNS発のいわゆる「こたつ記事」に対してヤフーコメントで「こんな記事でよいのか」という批判が集まることもあるが、結局こうした記事が最も読まれている。媒体社も掲載を減らさず、Yahoo!側も実質的な規制をかけていない。「どうせこの程度の記事なら、全画面広告で収益化してしまおう」という開き直りがあるのかもしれない。
さらに、Yahoo!広告としての事業判断も影響していると推測される。Yahoo!の全画面広告パフォーマンス(クリック率など)は非常に優秀で、アイモバイル、GMOなどのSSP(サプライサイドプラットフォーム)を介した媒体社への導入がここ数年で急激に増加していた。今年に入って条件をさらに緩和し、プッシュしている状況もある。「自社商品が他社で収益を生んでいるのだから、自分たちの媒体で活用しない手はない」という社内での議論があったと想像される。
これらは推測に過ぎないが、的外れではないだろう。Yahoo!の言い分としては「ユーザーシェアの多いスマートフォンでは表示していない」「ユーザーあたりの表示回数はコントロールしている」「品質の低い広告クリエイティブは除外している」といった反論が出てくるはずだ。つまり、ユーザーと事業者双方の妥協点を探っているということである。
また、GoogleにもYahoo!にも、プラットフォーマーとしてのジレンマがある。広告事業とメディア事業を両方手がけている以上、自社メディアは自社広告商品の格好の実験場でもある。
象徴的な出来事として、今年初めにGoogleのあるチームが媒体社に対して「広告が占めるスペースが多すぎるため、ペナルティを課す」という強気の警告を出した。しかし並行して、全画面広告やスマートフォン画面の50%近くを占有する「折りたたみ式オーバレイ」の導入を推奨するなど、非常に困惑するダブルスタンダード状態となった。
Yahoo!の場合、全画面広告のパフォーマンスの良さが他媒体での実績として明確に示されている以上、「自社だけ導入しない」という判断は社内政治として成立しなかったのだろう。Yahoo!ニュースこそが、日本屈指の広告媒体なのだから。
しかし、ここ数年の他媒体の状況を見れば明らかなように、全画面広告を一度導入してしまうと、それを停止するのは非常に困難である。目に見えて収益性が向上するため、その売上を失ってまでユーザー側に歩み寄るのは現実的ではない、という意見が必ず出てくる。
週刊誌のウェブサイトやデイリースポーツなどを見れば、全画面広告に限らず「広告を適切に間引く」ことがいかに困難かが理解できる。もはやコンテンツが見えない状態になっている媒体も少なくない。権威あるメディア、例えばNumberWebのようなサイトでも、全画面広告は欠かせない収益源となっている。
これはまさに、引き返せない修羅の道である。一度この道に足を踏み入れると、ユーザビリティが最優先される世界ではなく、「広告をいかにユーザーに馴染ませ、表示頻度を調整するか」という発想が支配的になる。
個人的には、スマートフォンでもYahoo!ニュースに全画面広告が表示される日は、そう遠くないと感じている。
無料でユーザーが閲覧できるWebメディアの運営を成立させるには、広告やアドテクノロジーが必要不可欠であることは紛れもない事実である。しかし、収益追求の果てにある「節操のなさ」は、もはや天井知らずの状況に近づいているのかもしれない。
Yahoo!ニュースの全画面広告導入は、単なる一企業の戦略変更ではない。日本最大級のニュースプラットフォームによる「ユーザー体験よりも収益性を優先する」という明確な意思表示なのである。この選択が業界全体に与える影響を、我々は注意深く見守る必要がある。
自戒の念も込めて、この現状に一石を投じたい。