はてなキーワード: 母性とは
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
増田だかXだかで「母親が家父長制の犠牲になっていたことを認めると、自分が信じていた母親の愛情の価値が揺らぐから受け入れられなかった」みたいに吐露している男性がいたけれども
あるフェミニストが登壇した講演会の後のグループトークに参加した時、そこにいた50代独身男性が言い出したんよね
「フェミニズムって本当に女の人のためになるんですかねェ〜、僕の母親は家庭に尽くす人生を送ってきましたけど、不満を聞いた事はないですよww」
その場にいた女性全員「黙れ」「死ね」と言う目をしていたが、みんな大人なので誰も反論はせず、やんわりと「そうですか〜」と流していた
そのおじは登壇者(高学歴、高キャリア)には決して質問はしなかったのに(質疑応答タイムはあった)、講演が終わって素人の参加者だけのグループトークになると滔々とマンスプを始め、「さっきの講演は論理が破綻していましたねwww」などと得意気に言っていたり言動がいちいち痛くてほんとクソだったんだけど、奴は要するにボクちゃんという存在に奉仕することによって幸せを感じる母親、それが母性であるという概念を揺らがされたくなかったんだろうな
だから間違っても、母親が搾取されていた、犠牲になっていたなんてことは受け入れたくなかったんだろう
「推し活は行き先のない母性父性の垂れ流しであるから、けしからん」という主張に
「その理屈は犬猫飼う行為にもそのまま当てはまるが?」と応じたら
「猫好きは熊殺すなと言うやつが多いと思うから、けしからん」って
ライバー誹謗中傷とイベント危害予告とグロ画像貼り付け荒らし2年間続けて開示請求で謝罪文の件、
「誹謗中傷対象のライバー×推しのライバー」の半分ナマモノのBLカップリングを推している腐女子が加害者だと聞いて、途端に超わかりやすくなって納得しかなかった。
①面倒見の良いオカン系のライバーAと天然ボケ系のライバーBのカップリングにハマる。推しはB
③Aが推しのBを裏切ったという被害妄想と、思い通りにならないAへの憎しみ、AはBに構えという操作欲から、Aの公式タグにグロ画像を貼りAを誹謗中傷し荒らす
思い通りにならない対象に対してグロ画像貼って精神攻撃するとか、前にも見た。
前提として、
★pixivで、「対抗カップリングのタグをつけてグロ画像を投稿する」という嫌がらせは様々なジャンルで起きていた。2015年くらいに私も自ジャンルでやられて被弾した。腐が腐を攻撃しているので、このトラブルの存在は非腐の視界に入っていません。
★腐女子が推しのカップリングの片方を誹謗中傷するのはよくあること。特に攻めへの誹謗中傷は、「攻めヘイト」という言葉が存在するくらいよくある。原作で攻めAが女とくっついたり、Aと受けBの陣営が離れて接点がなくなったりといった逆燃料展開があると、Bを美化して持ち上げ褒めちぎりながらAを口汚く罵り始めて、「AはBに対する責任をとれ」などと言い出し、原作を描いている漫画家を誹謗中傷し、客観的にほとんど化け物みたいになっていきながらもA×B二次創作の生産や消費をやめられないという人は大勢いた。グロ画像荒らしよりも頻繁に起きていることだと思う。掃いて捨てるほどいる害悪腐女子のテンプレ。
このようなことは前々から起きていた。
少年漫画原作や一般アニメ原作の二次創作BLといったものは、ファンダムで誹謗中傷がどれだけ起きようがキャラクターIPの権利元企業が放置することが多い。
Vジャンルは、リアリティショー出演者の自死であるとか、韓国アイドルの連続した自死(女性も男性も大勢、誹謗中傷で若くして亡くなっている)のような、芸能関係の事件から地続きの緊張感があると思う。
芸能と遠い完全二次元系については、pixivのグロ荒らしなどもpixiv運営が削除して終わりだし、Twitter時代のXでどれだけ誹謗中傷する人間がいようが、開示請求などの展開になることはなかった。一番酷い例として2chで殺害予告されていた庵野秀明が思い浮かぶ…。近年だと芥見下々への誹謗中傷は腐女子も相当酷かったし(呪術廻戦最新話の展開が推しカプの逆燃料だったため芥見下々を焼き殺す絵を描く等)、実在のクリエイター名指し誹謗中傷する女性は目立っていた。しかしマンガ、アニメの界隈では実在人物が誹謗中傷や殺害予告されても基本的に放置されていた。
ライバー誹謗中傷の人が、グロ荒らしや誹謗中傷などの行為をしたのがVが初だとはあまり思えない。完全二次元ジャンルで暴れて、公式に放置されたので味をしめてVに来て、似たようなことを同じノリでやったら開示されたんじゃないかと邪推する。
だって「痴漢が逮捕されました」と聞いて、初犯だとは誰も思わないじゃないですか。どうせ捕まる前に100人くらい痴漢してて、その100人は泣き寝入りしたんだろうなって、当然思うじゃないですか。
V誹謗中傷開示の人が、中高生の頃からジャンル移動しながら荒らし続けて成人しても続けて、初犯から10年経って初めて開示とかでも全く驚かない。全然ありうることだと思う。万引きだって最初のほう上手くいったから味をしめて依存症になるわけだし。
男に生まれたらアイドルのストーカーになって握手会で刺してたかも?みたいな女が、害悪腐女子として存在していたりする。
性的に執着して、思い通りにし続けたくて、それでも思い通りにならないから攻撃するというのは、「DVから逃げた元妻の住所を特定して絞殺する元夫」とかと方向性が同じメンタリティしてる。
脳みその方向性がおんなじで、ただ性別が女で腕力が劣ってるから発露の仕方が男と違うだけというか。性的な執着対象に病的な攻撃性を向けるところは同じ。
甲府の男子高校生が女子高校生に片思いして告白したらお断りされたので、夜に家に侵入して女子高校生の両親を刃物で刺して、家族4人を皆殺しにしようとして家に火をつけて、死刑判決が出た事件あったじゃないですか。
ストリートミュージシャンの女性に片思いして高級腕時計を送ったら返却されたので、付きまとって刃物で滅多刺しにした事件もあったじゃないですか。
好きで、支配できなくて、反転して粘着アンチ、粘着加害。本当によくあるパターン。
それが女の現れ方だと、腕力がないので物理での襲撃が少なくなり、「私と付き合え」よりは「お前らは私の思い通りのカップリングをやれ」になるのが特徴というだけ。
なんで女の欲の現れ方が「私と付き合え」よりは「お前らは私の思い通りのカップリングをやれ」になるのかというと、これは想像だけど、家制度の中で嫁よりも姑のほうが立場が強いことに自ら適応しているんじゃないかと思うんだよね。
家制度の中で嫁は奴隷。だから損するフェーズを飛ばしていきなり姑になる。舅が死んだあとの姑は家の中で最強。息子(推し)を愛玩して、嫁を搾取し、息子と息子嫁の関係性をコントロールする。
推しに対して母性を出して赤ちゃん扱いしてヨシヨシするというのも数年前の男性V炎上があった。息子を「血の轍」みたいに愛玩虐待する性質を持つ女はいて、息子の調教に成功して嫁も支配下に置くと家の中で完全権力者になれる。
男性の場合は、嫁が家の奴隷であるかどうかに興味が無いので、俺×二次元嫁、俺×アイドルなどのわかりやすい性欲でいられるのだと思う。
腐女子の欲求は家制度や嫁の不利を内面化してこじれた支配欲が出ており、非腐からすると意味不明な攻撃性の発露になる。でも腐から見ると「テンプレ」としか言いようがない荒らし行動をしてる。
増田やはてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。
→ 法の下の平等、参政権、教育・労働の平等機会を重視。例:メアリ・ウルストンクラフト、ジョン・スチュアート・ミル。
→ 資本主義と家父長制の二重の抑圧を批判。ナンシー・フレイザーなど。
→ 家父長制の構造そのものを批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン。
→ 女性と自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題とジェンダー問題を結びつける。
→ 女性の特質・価値(共感、ケアなど)を肯定し文化的再評価を目指す。
→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。
→ フロイトやラカンの理論をジェンダー批判的に再解釈(ジュリア・クリステヴァ、ルース・イリガライなど)。
差異のフェミニズム(difference feminism)
→ 性や主体の流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。
→ 性的指向・ジェンダー・身体の多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。
→ 人種・階級・性的指向・障害など複合的差別の分析(キンバリー・クレンショウ)。
→ 西洋中心的フェミニズムを批判し、植民地主義的文脈を分析(チャンドラ・モハンティなど)。
→ 科学技術と身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。
→ SNS・オンライン空間における性差別問題と運動(#MeToo、#TimesUpなど)。
→ フェミニズムの成果を前提にした「個人の選択」重視の潮流(批判も多い)。
女をあてがえ、じゃなくて『母性を感じさせ、情を思い出させろ』だよなん
なんか急に観たくなったんだよ。さっきYouTubeのおすすめに予告が出てきて、なんとなくU-NEXTで再生したら止まらなくなった。
観終わったあと、今こうしてこれを書いている。
俺はネットで毒ばっか吐いてる。ここでもXでも、なんかもう自分でも嫌になるくらいネガティブ。
「女は終わってる」とか「人間は繁殖やめた方がいい」とか、そういうことを言ってるほうが楽だった。
現実のほうがよっぽど嘘っぽい。結婚とか出産とか、見てるだけで寒気がしてた。
そういうことを思ってたし、口に出すとなんかスッとした。
俺はずっと反出生主義者ってやつだった。生まれなきゃ苦しみもないし存在しないことが一番の救いだって本気でそう思ってた。
でもな。
原因不明の不妊によって、世界中で子どもが産まれなくなって18年が経った。
主人公の男は元活動家。今はしがない官僚でただ日々をやり過ごしてる。
そんな世界で突然、妊娠した女が現れる。その女を守るために主人公が命がけで行動する。
ただそれだけの話。
俺は最初、ありがちな設定だなと思った。希望の象徴としての赤ん坊。救済としての母性。それってハリウッドが好きそうな構図じゃん。
でも、観てるうちにだんだん静かにやられた。派手な音楽もない。CGも地味。けど…世界がリアルすぎるんだよ。
人間がこんなに壊れてるのに、まだ“誰かを守ろうとする”っていう本能が残ってることにどうしようもなく胸を掴まれた。
中盤のシーン。
銃声が響く中、主人公が妊婦を連れて逃げる。廃墟の街を抜けて汚れた階段を下りる。兵士たちが戦っている。人が死んでいく。その中を彼はただ黙って必死に歩く。赤ん坊が産まれる音が聞こえる。泣き声が響く。
その瞬間、銃撃が止まるんだよ。
全員がその泣き声に気づく。
母親が子を抱えて歩いていく。
誰もが見つめている。
あのシーンで泣いた。
まじで、ボロ泣きした。
近所のガキの声を聞くとだいたい舌打ちしてた。親が黙らせろよ。躾してんのかよ。うるせぇ。〇ねよ、くそ。
でも映画の中であの赤ん坊の泣き声を聞いた瞬間、それが「音」じゃなく「命」なんだって気づいた。
それを感じた瞬間、俺の中で何かが崩れた。
正直、俺は「希望」って言葉が嫌いだった。大嫌いだった。便利すぎる。努力とか根性と同じで、使い勝手のいい言葉だと思ってた。
でも、この映画を観て思った。希望っての、願うことじゃなくて“信じるふりをすること”。
誰も保証してくれない未来を、それでも「まだ何かがある」と信じて進むこと。それはバカみたいに見えるけど、それがなかったら人間は多分もう立てない。きっと前を向けない。
もし希望を信じて、それが裏切られたら、立ち直れない気がしてた。
だから最初から希望を否定してた。傷つかないように世界を嫌ってた。
この映画の主人公は違った。希望なんて信じちゃいない。それでも、赤ちゃんを運ぶ。自分ためじゃない、誰かのために。あの背中が俺には神みたいに見えた。
船が霧の中から現れる。
トゥモロー号。
これまでの俺にとって未来なんて、「老い」と「絶望」でしかなかったのに。
だけど、あの船の音を聞いたとき初めて“命をつなぐ”ということの意味がわかった気がした。
観終わって、エンドロールの間ずっと動けなかった。
馬鹿みたいに泣いた。涙が止まらなかった。エンドール中ずっと泣いていた。
もし生まれなきゃよかったなんて思ってるやつがいたら騙されたつもりでもいい。頼むからこの映画を観てほしい。
ただ観終わったあとできっと少しだけ優しい気持ちなれると思う。
母親が家庭で育児をするのはオススメできないスタイルだけど、そもそも昔はそれがある程度可能だったのは何故か?
実は昔と今では色々環境が違うからというのが大きいのでは?と私は思う。
昔は祖父母が同居してくれたり近所の人の手助けがあったりでワンオペ育児になりにくかった。
だから三歳児神話とか母性神話で、母親が育児を家庭でしましょうと言われても今ほどは負担が大きくなかった。
そして赤ちゃんや幼児も別に母親とだけべったりにならずにすんだし祖父母とも関わりも持てたのでそこそこの育児の質が保てた。
今は核家族化が進み母親に負担が掛かってしまい疲労による育児の質の低下や子どもへの拒否感が生まれやすくなってしまった。
赤ちゃんや幼児も関わる人が母親中心になってしまい、多くの人との関わりが持てなくなってしまい、幼児教育上の質があまり保てなくなってしまった。
纏めると今と昔では家庭を取り巻く状況が違うので、戦後は専業主婦が家で育児していたからと言っても今の時代もそのやり方でうまく行くか、幼児教育の質が保てるかというと割と怪しいと感じる。
日本は子供の身長を伸ばすホルモン治療を扱っている病院が全国に無数に存在している
身長を伸ばす目的のセノビックなどの健康食品やサプリも全国津々浦々のドラッグストアに流通している
崩壊前のジャニーズですら170cm未満はグループに1〜2名程度しかいないからこのザマなんだぞ
チビのイメージのある平成ジャンプですら大半が170cm超えてる
170cm以上は無能でも売れて行き、170cm未満は高スペックでも婚活市場で不良在庫となり、同じ売れ残りおばさんに押し付けられるからね
女が高身長男を選ぶのは息子に遺伝して不幸にしたくないという産む性ならではの母性本能なんだよね。170cmある無能は売れていくのに、170cmない高スペックやフツメン以上は婚活市場で余り続ける。
アラフォー、女とかのアカウントでsnsとか youtubeとか見ると子供の背を伸ばすサプリみたいな宣伝がめっちゃ出てくる コンプレックス広告で子供をターゲットにするのエグいなぁと思う
子どもをターゲットにしてるというか、子持ちの親をターゲットにしてるわけよね。
男は不細工でも特に問題なく生きられるが、低身長だとさんざん苦しんでる男を親も見てきたから、子供の顔やら乳に必死な親はいないが子供の身長を伸ばそうと必死な親は多数。
最近ほんとそう思うんだよ。
この前も職場の若いやつとアニメの話になって、推しのキャラの母性がどうこうって熱く語ってたんだが、いやお前、自分で子供育てたことあんのか?って言いたくなる。
昔のオタクってのはさ、物語の奥にある哲学とか社会の仕組みまで読み解いて、人間の営みにまで思いを巡らせてたんだよ
エヴァ観たら心理学やら宗教やら、果ては親子関係まで掘り下げる。
でも今のノリはどうだ?ちょっと子供が出てきただけでロリ枠ですねとか、はいママ属性とか、そんな軽い言葉で済ませる。
家庭を持ったこともないのに、親子のドラマを語るなって話だ。わかってないんだよ、本当の愛ってやつをさ
だから言いたい。本気でオタクを極めたいなら、結婚して子供を産め。育ててみろ。
夜泣きで眠れなくて、保育園の送り迎えして、運動会で必死にスマホ構えてみろ。
そうやって初めて、推しの子でアイやルビーの物語を親目線で受け止められる。ブルーロックを観ても、ただのサッカーじゃなく未来を託す世代の物語として胸に響く。
知識なんて今はSNSで拾える。でも本物の教養ってのは、自分の人生で体感して、血肉にしたものからしか生まれない。人生は一人では完結しない。伴侶がいて、子がいて、そこにドラマが宿るんだ。
その経験を持たないまま家族もののアニメ好きですって言うのは、正直ちゃんちゃらおかしい。
だからオタクよ、婚活に行け。愛を学べ。命を育てろ。その上でもう一度アニメを観てみろ。世界の見え方が変わる。そこからがオタクの本番だ。
20250907
これは個人の問題ではなく社会の問題だ。男は母性がない代わりに仕事をして、これまで女は社会進出せずに家のことをしていたが、女が仕事もするようになることで、女は男より選択肢を1つ多く持つことになった。
やっかいなのは社会進出気取りの事務系裏方女だ。非正規雇用でもできるような仕事を運良く正社員でしているがために、自分は仕事も家事も育児も全部やる忙しくて多忙な人間だ、と言うかもしれないが、残念ながらその「仕事」は仕事のうちに入らない。出世して部下を持って上司になり、また上司の顔色や自身の権限をうかがいながら行う業務は、ロボットやAIにはできない業だろう。一方で勘違い女の業務は外注代替可能な、いわゆる使い捨て可能な業務だ。そんなことも知らずに偉そうに働いてるだと?ふざけんな、といいたい。
育児は、そのアタッチメント実働時間から、明らかに家にいるほうが主、いないほうが従、になるだろう。勘違い女が育休で主になったとき、組織の末端でしか仕事をしたことがないからリーダーシップもとれないのに、主の立場で育児を担当することになる。予想通り、従の人間はころころ変わる考えに振り回され、意見も言えない雰囲気が形成され、結果縮こまって身動きの取りにくい状態になってしまった。組織として最悪なのは言うまでもない。
はっ、気づいたらこんなに不平不満を書き連ねていた。理想の家族とはなんだろう?ステレオタイプに縛られる必要はない。家族が、という主語「家族」で物事を考えたことがない。主語はいつも自分もしくは子供。子供はかわいいから、自分なりの親としての愛情を伝えたいと思う。子どもは自身の意思主張があるだろうから、それをなるべく尊重したいけど、モラルマナー言葉遣いなどは、ちゃんと矯正したい。
妻が不機嫌だと子どもがかわいそうだから妻の機嫌をとれ、というのは、どうなんだろう?もちろん正解はないが、別にそこはもういいかな。ぼく自身が大きく構えておきたいと思う。何かあったときに頼ったり相談してくれる父親でありたいし、子どもが成人になってからは、ひとり立ちして自由に生きてくれたらいいし、しばしば一緒に盃を交わす仲でもいいと思う。そうなるためには妻の機嫌を取らないといけない、ということであれば、それはたぶん間違っている。ゴマすりが大切といっているようなもんだ。
恥ずかしながら、これまで妻と口論して声を荒らげてしまったことがしばしばあったが、それは自分が理想とする父親像ではない。いつでもおふざけでしょーもないことを言い合える、そういう姿勢で日々過ごしていきたいと思った。日々の一挙一動などしょうもない細かいことだ。そんなことにいちいち腹を立てて向き合う必要はない。
感謝の気持ちを伝えろ、と妻にしばしば言われる。それ自体は正しいことだが、己のタスクをこなすことにいちいち感謝する、という価値観が一切分からない。代替可能なことならなおさら。一方で、子供にはあいさつしたりありがとうと言ったりできるようになってほしいので、そのモデルとして家庭内でもできるように気をつけるべきなのはそうなのかもしれない。そこに気持ちがなくても、言葉として発することが大事だろう。私の育った環境では、外ではへこへこ内では殿様、みたいな両親でそれに違和感を感じたので、そこは直さないといけないね。
とにかく、子供が(最低限のマナーレベルのことで)どうなってほしいか、を考えて、そのために「自分」が(家族ではなく)どう言動すべきか、というのが今後の大きな指針になる。アスペルガーの妻は言葉にしないと分からないというが、子供には1つでも多く背中を見て育ってほしい。
人間には得意なこと不得意なこと、できることできないこと、やりたいことやりたくないこと、がある。苦手なことを矯正することも時には大事だと思うけどそれを受け入れて共存していくことも大事だと思った。妻は極端で視野が狭くて強欲でわがままでゆえに全体思考などバランスをとったりすることが苦手だけどそういうところを直そうとはもはや思わないし、何か極端なことを言われても下手に出てへこへこする技術を身につけよう。細部に気を取られていちいち相手にしても意味がない。寡黙で働き者で粛々と家事育児をこなす人間でありたい。朝起きて前夜の残った洗い物をする。ふとんの整理をする。ゴミを出す。パジャマを着替える。オムツを変える。掃除をする。夜。絵本を読む。ミルクをつくる。
170cm以上は無能でも売れて行き、170cm未満は高スペックでも婚活市場で不良在庫となり、同じ売れ残りおばさんに押し付けられるからね
女が高身長男を選ぶのは息子に遺伝して不幸にしたくないという産む性ならではの母性本能なんだよね。170cmある無能は売れていくのに、170cmない高スペックやフツメン以上は婚活市場で余り続ける。
アラフォー、女とかのアカウントでsnsとか youtubeとか見ると子供の背を伸ばすサプリみたいな宣伝がめっちゃ出てくる コンプレックス広告で子供をターゲットにするのエグいなぁと思う
子どもをターゲットにしてるというか、子持ちの親をターゲットにしてるわけよね。
男は不細工でも特に問題なく生きられるが、低身長だとさんざん苦しんでる男を親も見てきたから、子供の顔やら乳に必死な親はいないが子供の身長を伸ばそうと必死な親は多数。