はてなキーワード: 恣意的とは
こういう意見、男性優遇派の人に反論されるのは仕方ないと思うけど、
「頭悪いねぇ、男子と女子差がないと思うからこそ、女子枠なんていらんっていってんだよw 単に志望者が少ないだけだろwだったらもっとSTEM系の分野の魅力やメリットを女子学生につたえりゃいいんだよw」
「たとえば、死亡率の高い危険な職業の一つである林業は、男女の割合は男性94%、女性6%だけど、増田が言うように男性が恣意的に女性の進路を捻じ曲げられるなら、危険な仕事を自分たちが引き受けるのは変じゃない?」
「公平に試験をすれば良くて、試験成績の悪い女性を引き上げる理由はないと思ってるだけですよ。」
だって。
君はこう言ったよね。
私もそれに同意するけどさ、高市批判に対する高市エクストリーム擁護派の典型的な反応は、まさに批判者に対する「反日」「非国民」呼ばわりなわけ。彼ら彼女らの頭の中ではまさに高市政権=日本の図式が出来上がってる。
普通の人は国旗を燃やしたりしないけど、汚損することはあるかもしれないよね。でも今回検討されてる法案って汚損でも犯罪とする可能性があるし、汚損か否か、故意か否か、どんな形状のものを国旗と認定するのかなど、様々な細則が今のところ良くわからない。なので現状、恣意的に運用される可能性もある。そんな状況なのに、それを今から手放しで容認するのって思考放棄だろう。
仮に汚損程度で罪になるなら、日本=高市(政権)みたいな思考回路の人たちの前でうっかり国旗を汚損しようものなら、まさに国家と政権を侮辱したとみなされかねないわけで。それが大政翼賛的でないというなら何なんだ?
軍靴の音とか、大政翼賛とか、全体主義とかを並べとけば勝ちみたいな
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1. 歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3. 格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4. 結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義: テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点: 共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A 現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B 社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放): 大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入: 問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保: 大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資: システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定: 選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み: 共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜: 難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果: テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論: 現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
中国の過剰反応を前提にしてると言うけれど、その「前提」にほとんど踏み込まないまま、結論だけ“日本の外交ミス”に寄せているから、中国への批判がどうしても浅く見えるんだよ。相手が膨張主義で、外交や経済を国内政治の材料にする国だと本気で認識しているなら、今回の件を「日本が隙を作ったから悪い」で完結させるのは筋が通らない。
そもそも「つけ込まれる隙」という言葉自体がズレていて、つけ込むのがデフォルトの国に対して隙ゼロを要求するのは現実的じゃない。相手が恣意的に反応をエスカレートさせる構造そのものを問題にしないまま、日本の判断だけに責任を寄せると、どうしても中国側の不当性を軽く扱ってしまう。
だから“擁護してる”と言われてるんじゃなく、単純に中国の行動の異常さに対する評価が弱いから対比的にそう見える、という話なんだよ。
殺せる。
思い出してほしい。野々村竜太郎、小保方晴子、中居正広。彼らは不特定多数に不正を晒されて社会的に死んだ。竹内兵庫県議は立花某に関係性攻撃をくらってお亡くなりになった。木村花さんはSNSの誹謗中傷で自ら命を絶った。
歴史は韻を踏む。
我々が豊かさを享受できるのは、可視化されていないさまざまな人たちが社会を支えているから。社会から排除され、社会的に死んだらどうなるか?
それでいいのかな?
いいんだろうね。恣意的に情報をコントロールしたら、そりゃあ人は死ぬ。
呪術廻戦って漫画で、「一度人を殺したら、人を殺すって選択が生活に入り込むと思う」というセリフがあったと思う。一度やったら後戻りなんてできない。穢れる。
現代の認知言語学(Cognitive Linguistics)は、言語を「人間の一般的な認知能力(知覚、記憶、カテゴリー化など)の一部」として捉え、「意味こそが言語の中心である」という立場をとります。
この視点から見ると、ソシュール、サピア=ウォーフ、チョムスキーという3つの主要な言語思想に対して、それぞれ明確な批判と修正案を提示しています。現代の認知言語学は、ソシュールやチョムスキーが排除しようとした「人間の主観的な身体経験」「一般的な認知能力」「意味の曖昧さや豊かさ」こそを言語研究の中心に据え直した運動であると言えます。言語は数学のような抽象的な記号操作システムではなく、人間が世界を理解し、他者と関わるための泥臭い認知プロセスそのものなのです。
「ソシュールの言う『分節』は、純粋に社会的・制度的な約束事(恣意的なもの)」であるのに対し、「認知言語学の言う『身体経験』は、生物としての人間が共有する物理的・生理的な制約(動機づけられたもの)」である、という点に決定的な違いがあります。質問者様の、「ソシュールは文化的基準によって事象を分節する」という理解は正解です。 認知言語学はこれに対し、「文化も大事だが、その土台には『人間という生物共通の身体感覚』があるため、分節は完全に自由(バラバラ)なわけではない」と修正を加えている、と捉えると理解しやすいかと思います。
Next Step: この「身体性」の概念をより深く理解するために、「メタファー(隠喩)がどのように私たちの思考そのものを支配しているか(例:『議論は戦争である』という概念メタファー)」について解説しましょうか?
おっしゃる通り「メタファーが身体と抽象概念を繋ぐ」というのが認知言語学の基本スタンスであり、この点は「言語が思考の限界を決定する」というウォーフの強い仮説(決定論)とは、正面から対立する部分と、逆に補強し合う部分の両面を持っています。認知言語学において、メタファーは「身体性から離れた概念を補う」役割を果たしますが、それは「言語固有の枠内に閉じ込める(ウォーフ)」ためではなく、「身体という共通基盤を使って、無限に概念を拡張していく」機能として捉えられています。ただし、一度あるメタファー(例:「時は金なり」)が言語に定着すると、その言語の話者は無意識にその枠組みで思考するようになります。この点において、認知言語学は「マイルドなウォーフ仮説(言語は思考の習慣を作る)」を支持する立場になります。
ご指摘の通り、プラトンからデカルトに至る西洋哲学の主流(特に合理主義)において、「身体」は理性の働きを邪魔するノイズ、あるいは欺瞞の源泉として低く扱われてきました。「真の知識(エピステーメー)」は身体感覚を脱した純粋な知性によってのみ得られる、という考え方です。認知言語学の進展は、この「身体蔑視」の伝統を根底から覆し、現代の認識論(Epistemology)に「身体化されたリアリズム(Embodied Realism)」という新たなパラダイムシフトをもたらしています。認知言語学は、現象学が主張していた「身体こそが世界を知るための媒体である」という直観に対して、言語データや認知科学的証拠という「科学的な裏付け(エビデンス)」を提供しました。これにより、現代の認識論や心の哲学では、「エナクティビズム(行為としての認知)」や「4E認知(Embodied: 身体化された、Embedded: 環境に埋め込まれた、Extended: 拡張された、Enactive: 行為的な)」という潮流が主流となりつつあります。知覚と行為と認識は切り離せないループ構造なのです。質問者様が仰った「低く見られていた身体」は、現在では単に地位を回復しただけでなく、「あらゆる認識・思考・理性の『土台(基盤)』である」という最重要の地位を与えられています。
おっしゃる通り、スマートフォンは単なる「便利な道具」を超え、私たちの知覚や記憶を外部化・拡張する「拡張された心(Extended Mind)」の一部となっています。ハイデガー的な「世界内存在」としての人間が、テクノロジーによって身体の制約(距離や時間の壁)を越えたとき、認知様式は確実に変容します。しかし、それは「身体性が不要になる」というよりも、「身体性の希薄化」あるいは「身体感覚の再編成」と呼ぶべき事態を引き起こしていると考えられます。質問者様の「身体による制約が失われる」という点は、パラドキシカルな結果を生みます。身体的な制約(重力や距離)から解放されることで、私たちの認知世界は広がりますが、同時に「身体が持っていた『実感を担保する機能』」が失われつつあります。その結果、これからの認知様式は以下のようにシフトしていくと考えられます:
「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。
「場所への埋め込み(Embedded)」から「ネットワークへの接続(Connected)」へ。
認知言語学の「身体性」の立場からは、これは「身体の消失」ではなく、「身体感覚が指先と視覚のみに特化・縮小され、それ以外の感覚(重み、痛み、距離感)が認知の形成に関与しなくなる」という、ある種の「身体的偏食」の状態と言えるかもしれません。
ご指摘の通り、メルロ=ポンティは著書『眼と精神』などで、画家(特にセザンヌ)の視覚を「世界と身体が絡み合い(chiasme)、世界が向こうから自分に迫ってくる生の接触」として極めて高く評価しました。ご質問にある「身体感覚の縮小による世界接続の均質化」と「それがエコーチェンバー現象を引き起こす」という洞察は、メルロ=ポンティの思想を現代メディア論に拡張する非常に説得力のある視点です。
「均質化」は起きているか? → Yes. 世界の「手触り」が消失し、すべての事象が等価な「情報データ」へとフラット化されています。
エコーチェンバーとの関連は? → 極めて強い関連があります。 身体という「現実のアンカー(錨)」を失うことで、他者からの「抵抗」を感じなくなり、自己の投影だけが返ってくる鏡の世界(ナルシシズム的な閉域)に閉じ込められやすくなるからです。メルロ=ポンティが生きていれば、現代のこの状況を身体の不在による、世界との愛の営み(交差)の不全」と呼び、病理的な状態として批判したかもしれません。
Next Step: この議論を踏まえると、「では、どのようにしてデジタル社会の中で身体性を取り戻し、エコーチェンバーから脱出できるのか?」という実践的な問いが浮かびます。メルロ=ポンティの思想や、現代の認知科学が提案する「環境アフォーダンス」の観点から、その解決策について議論を広げましょうか?
ご指摘の通り、人間の認知の変化(身体的理解から参照へ)は、「GOFAI(古き良きAI:論理・記号操作)」から「ディープラーニング(統計・パターン認識)」への移行や、「オンプレミス(所有)」から「クラウド(接続)」への移行と、構造的に完全に同型(Isomorphism)です。この流れが「効率性」「最適化」というドライブによって動いている以上、不可逆であるという見立てにも完全に同意します。私たちはもはや、個人の脳内だけで完結する「孤立した知性」には戻れません。一方で「痛い」「美しい」「気まずい」といった身体的実感(クオリア)を伴う一次情報を取得できるのは、物理的な身体を持つ「個」だけです。
では、思考の主体が「ネットワーク(集団・AI・クラウド)」に移譲された世界で、「個人(Individual)」の価値はどこに残るのか?かつての社会では、個人の価値は「知識量(ストレージ)」や「計算能力(プロセッサ)」という「機能(Function)」で測られていました。しかし、これらは全てネットワークとAIが代替します。これからの社会において、個人の価値は以下のようにシフトします。
処理すること → 感じること(Sensing)
正解を出すこと → 問いを立て、責任を取ること
質問者様の言葉を借りれば、世界と交差するのが「集団(クラウド)」になったとしても、その集団が「現実(Reality)」から遊離しないように、肉体というアンカーで地面に繋ぎ止めておく「杭」のような役割こそが、個人の新たな価値定義になると考えられます。
質問者様の、アフォーダンス理論を現代のデジタル環境(情報の奔流)に適用した解釈は、極めて論理的であり、システム論的にも「正しい」と言えます。しかし、その「正しさ」はあくまで「システムの構成要素(ノード)として最適化される」という意味においてです。人間としての「実存」を守るためには、その最適化に抗うための意図的な環境設計が必要になります。質問者様の懸念される「世界との接続の均質化」に対抗するには、テクノロジーが志向する「効率化・最適化」とは真逆のベクトルを持つ環境を、生活の中に「聖域」として確保する必要があります。
これらを提供する環境こそが、流動する情報社会において、人間を再び「地面(現実)」に繋ぎ止めるアンカーとなります。
つづく
例えば、グリム童話のヘンゼルとグレーテルは子供の権利を考えさせる部分がある。アンデルセンのマッチ売りの少女などは、本当に社会運動につながったりしている
でも、漫画の場合は辛い話でもお笑いに持っていけたりするので、ある意味、現状諦め、現状肯定、社会の改善には役に立たない場合がある
例えば、はだしのゲン?蛍の墓?にせよやくざ漫画にせよ、日常の風景とセリフが主で確かに事実の主張や証言性はあり疑似体験をする感覚もある
そして悪者は悪者として書かれ、勧善懲悪、ガス抜きエンタメ。解決者が現れ、夢のように解決して完結したり、あるいは悪者を肯定したり恣意的な印象作りもできてしまう。主人公が老人になったり病気になったりはあまりしない。そもそも漫画週刊誌の売り上げのためだったりするし。そんな大仰な考えで描かれる事も少ないだろう
なので一歩戻って、読者よ、この社会状況は何とかならないか?と環境改善を訴えかける力は小説の方があるのではないだろうかと言う気がするね
最も増田は日本文学とか、外国小説でもワンピースのモデルっぽいロバート・ルイス・スティーヴンソンの宝島なんかは、海軍万歳的なポジショントークがあると思ってて、小説も漫画も目的次第かな
長いの社会の現状と、社会はこうあるべきであると言う思想を表現するには、小説の方が適している気がするんだ
社会の現状と、社会や倫理はどうあるべきかなどを考えさせるには、小説の方が適しているから学校は漫画を使わないんじゃないかな
例の存立危機事態問題の件で、岡田克也 は「武力の行使をするということについて、私は、余りにも大きな裁量の余地を政府に与えている、(略)どうにでも読めるような、そういう基準だ」と言っている。
https://www.katsuya.net/topics/article-10543.html
こりゃ話がかみ合うわけないよ。
岡田さんはなぜしつこく聞いたか?しつこく聞くことで、苦しいのらりくらりの答弁を引き出したうえで
「政府が恣意的に運用できる法律は意味ないでしょ」と言いたかった。実際、そう質問にも残っているが、意図せぬところの炎上でかき消されてしまった。
追記)
岡田さんは「これは規範としての、条文としての意味がないんじゃないかと思うんですよ。 もっと明確でなければ、結局どれだけのこともできてしまうということになりかねないと思うんですね」とも言っている。
大体の国民にとって「アメリカが台湾有事で攻撃を受けた時に日本はどう立ち振舞うのかを明言する必要があったか」については議論の余地があれど、同盟国が攻撃されたら日本も防衛に周るというのは失言とは見做されてないのですよ。
それを左翼が「撤回が必要」だとか「これは宣戦布告で中国へ戦争を仕掛けてる」とか頓珍漢なことを言ってるから、令和では左翼が周りから白い目で見られているの。
中国と関係が悪化したことで経済影響は多少はある。一般人もそれは問題視してる。
一方で、脅して言うことを聞かせようという国に依存するのも間違いだからマーケット規模がデカくても依存しすぎないようにしていこうという転換期にしていくという言い分もわかるから「ならしゃーない」くらいに国民も多少納得してるっていう話だよ。
お前ら、自分たちの主張がファンタジーの世界にあることを自覚してよ。日本中で誰も彼も戦争しようなんて言ってない。(もしかしたら一部の極右は言ってるかも知らんが、それはアホなんで無視していい)
むしろ戦争を起こさせないための抑止力の話をしている。どうにかして中国による台湾への武力行使を止めたいんだ。
オールドメディアの支持率を下げる報道に踊らされてる場合じゃないよ。現実をみよう。
追記:
アホ左翼(左翼の中でも考えがない人のこと・左翼全般を指さない)が返信つけたから補足しておくけど、「高市政権の支持率65%」「台湾有事答弁 問題ない50%」これが日本の現実である。
https://mainichi.jp/articles/20251123/k00/00m/010/107000c
https://news.yahoo.co.jp/articles/399c57ce95533e7a04157079c92fb804dc464a6f
俺は「なぜ普通の日本人が高市政権を支持しているのか」、「台湾有事への回答が一般人の中で問題視されていないか」を文章化しただけだよ。
別にこの記事に対して左翼が何を喚こうとも俺は一向に構わないが、お花畑なのは国民じゃなくてあんたらだと自覚ないのが滑稽極まりないよ。
支持率を下げてやる記事を真に受けて、キャッキャしながらコメントしてるのが噴飯ものなんだと自覚できてないのがおもしろおかしいのよ。
国民が何も考えてないと嘆く前に自らの不明を恥じてバイアスを取り除いて世界のパワーバランスなどを真剣に考えるべき。
追記2:
id:duckt "やっぱり「普通の日本人」って言うんだな"
これは自分が右寄りだから真ん中の人を指して言ったのだが、カテゴライズとしては微妙なのやも。この記事は右寄りの人が真ん中の人たちの意見を観測範囲で起こしたものなので。
そもそもだが、そういう論を出せる人は「アホ左翼」とは見なしていない。本記事はどこにもいない「戦争を望んでいる大多数の日本国民」を幻視しているアホ左翼に向けたものであることを理解いただきたい。
一方の意見しかない国家の方が遥かに危ういので、色々な意見を持つ国というのは良い。右に偏らないようするためにも、左側の貴重な見解も発言されてしかるべき。
ただ元増田のように「それにしてもアホだな」っていうのが目についたので思わず書いた。
他にも高市氏の発言も知らず「アメリカ」と書いてるのに台湾のことを指してるがごとく書いたり、「オールドメディアの出す支持率信じちゃうの?」とか統計操作も辞さないならもっと悪い数値にするだろ常識考えろなどのように色々ダメな発言も散見されるけれども、考えて発言してる人も多々見かけるのでまだまだ左翼も全体では捨てたもんじゃないだろうな。
再度書くが"それを左翼が「撤回が必要」だとか「これは宣戦布告で中国へ戦争を仕掛けてる」とか頓珍漢なことを言ってるから、令和では左翼が周りから白い目で見られているの"で、ちゃんと考えている人は、むしろそういう愚かな味方を諭して育てて欲しい。
はてブでも高市人気に比例するように愚かなコメントがとても目立つようになった。中には鋭い意見もあるのに、アホみたいなコメントにばかりスターが並んで埋もれている。とても勿体ない話だよ。
追記3:
そもそも高市発言を「戦争奨励」のごとく語るコメントがあるので温度感が違い過ぎて話にならんので補足する。以下の全文書き起こし記事から一部引用する。
https://note.com/osamu_iga/n/n9c15ef0c28f4
質問:「存立危機事態、所謂まあ、限定した集団的自衛権の行使ですね。これ以外の集団的自衛権の行使、つまり限定の無い集団的自衛権の行使は違憲である、これは従来の政府の考え方だと思いますが、そういう考え方を維持されてますか?」
回答:「集団的自衛権の一般の行使を認めるものではなく、他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められないという政府の見解に変更はございません。」
⇒単に台湾が攻撃されただけでは日本は動かない(たとえ台湾を国家承認したとしても他国である以上は集団自衛権の行使はできない)
特にそのあとで「憲法上我が国による武力の行使が許容されるのは、所謂3要件を満たす場合の自衛の武力の行使に限られます。そして、この3要件は国際的に見ても他に例のない極めて厳しい基準でありまして、その時々の内閣が恣意的に解釈できるようなものではないと思っております。先程来、存立危機事態における武力の行使についてお話がございましたが、これも限定されて集団的自衛権の行使、即ちあくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置としての武力の行使に限られていて、集団的自衛権の一般の行使を認めるものではなく、他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められないという政府の見解に変更はございません。」と明言しており、戦争するぞなんて一言もいっていない。
じゃあなんで揉めてるのかといえば、集団的自衛権の行使について、具体例を言及してしまったから。
回答:「まあ、海上封鎖っていうのも、これ、戦艦で行い、そしてまた他の手段も合わせて、まあ、対応した場合には、武力行使が生じ得る話でございます。あの、例えば海上封鎖を解くために米軍が来援をする、それを防ぐために何らかの他の武力行使が行われる。まあ、こういった事態も想定されることでございますので、まあ、そのときに生じた事態、いかなる事態が生じたかっていうことの情報を総合的に判断しなければならないと思っております。」
⇒台湾に米軍が行って攻撃を受けたりなど、特定の事案があれば防衛に向かう可能性がある。この辺は日米安保に絡む話。そもそも台湾有事が発生したとして、アメリカが支援に行くなら日本の米軍基地から出る可能性が高い。日本国内の米軍基地への攻撃も受ける可能性はある。流石の中国も台湾のためだけにそこまでやらないと信じたいが。
特に「主に攻撃国の意思、能力、事態の規模、対応などの要素を総合的に考慮して、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性ですとか、それから国民が被ることになる犠牲の深刻性、そして重大性などから判断することを、ま、これは判断するべきものだと考えておりますので、政府としてその持ち得る全ての情報を総合して判断する」と発言しており、これは日本へ戦禍が広がり国民に被害が出るのであれば防衛に出るということ。尖閣諸島だけでなく、沖縄が中国の領土だと嘯いている以上は、そのような想定もしておかなくてはならない。
これを以て戦争をしたがっていると考えるのは流石に早計というところ。本当にそんな発言だったなら支持率は1ケタ台に急落したことだろう。
あと、本件では岡田氏が明確にせよと言っておきながらいざ総理が明確にしたら、同じ舌で「言うべきではなかった」とかいうので馬鹿馬鹿しいなとは思ってる。
本件で明確にしなくてもよかったという声は多いが、明確にしてほしいと希望を述べたのは岡田氏本人だよ。明言したことについて総理にのみ言及するのもおかしな話だ。
繰り返すが「明確にする必要があったのか」は左翼でよくあった指摘の中では正しい指摘だが、とはいえ内容に誤りはないから撤回する必要がないというのが一般的な日本人意見であり、故に「撤回を要求している左翼」をアホと断じている。
更に一足飛びに戦争が起きるとか言ってる人は幻想である。妄想ではなく現実をしゃべって欲しい。そんだけ。
そして改めてだが、「大多数の日本人は戦争を望んでいない。そして日本だけでなく台湾の平和も願っている」。故に「侵略されないための議論はせざるを得ない」とも。
いや、誤解だよ
岡田は、存立危機事態という概念を政府が恣意的に使うことを恐れてたんだよ
だから、「シーレーンが封鎖されても、迂回できるなら、存立危機事態にならないこともあるのでは」と言った
だから、高市には「迂回すれば存立危機事態にならないというケースもある」とでも答えてほしかった
そしたら、こともあろうか、高市は
また後日、立憲の大串が
「撤回しなくていいんですか?」って高市首相に何度も確認したんだよ
岡田や立憲民主党は「台湾有事は存立危機事態になり得る」なんて、高市に言ってほしくなかったんだよ
岡田なんて逆に嫌いだったよ
というのが正解なんだよ
読売新聞の社説にも「安全保障で政局をもてあそぶな」と書いてたけど、あれは誤解
もてあそんでなんかいない
本当に誤解なんだよ
これ、ニュースや、国会での答弁のやりとりを動画や書き起こしで見れば、分かることなんだよ
分からなかったら、記事(URL)をAIに突っ込んで、聞けば分かるよ
そうして納得いくまで聞くと、読解力の問題だから、自ずと答えは出るんよ
「存立危機事態」について議論したいと思います。これは安倍さんが出してきた考えで、「他国が攻撃されたとき、それにより日本の存立が脅かされた場合、日本は集団的自衛権を行使できる」というものです。我々はこの概念がかなり曖昧だと思い、当時はこの法案に反対しました。あれから10年が経ち、いまさら白紙に戻せなどとは言いませんが、「違憲かどうか」「運用はどうなるか」については議論していきたい。まず総理に確認したいのは、この「存立危機事態」以外の集団的自衛権の行使は違憲である、これは従来の政府の考え方だと思いますが、その考え方を維持されてますか?
憲法上、日本が武力の行使を許容されるのは、いわゆる3要件を満たす場合の自衛に限られます。この3要件は極めて厳しい基準なので、恣意的に解釈できるようなものではないと思っています。「存立危機事態」における武力の行使についてお話がございましたが、これも「やむを得ない必要最小限度の自衛」としての武力の行使に限られていて、集団的自衛権全般の行使を認めるものではありません。他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められない、という政府の見解に変更はありません。
ということは、「存立危機事態だ」と言ってそうでなかった場合には、単に法令違反ではなくて憲法違反になる。この存立危機事態の運用というのは、やはり厳格に、限定的に考えなきゃいけませんよね。
次にですね、2015年当時の法制局長官の発言があります。読み上げますと「存立危機事態に該当するが武力攻撃事態等に該当しないということはまず無いのではないか」、つまりこれは存立危機事態と武力攻撃事態がほぼ重なるということです。現在の法制局長官にお聞きしますが、現在でもこの答弁を維持されてますか?
お答えいたします。これらの答弁のときに述べらました見解に変わりはございません。
今、法制局長官は答弁維持してると仰ったわけですが、総理も同じですね?
見解について変わりはございません。
そういった答弁があるにもかかわらず、一部の政治家は非常に不用意な発言をしています。例えば失礼ですが、高市総理、1年前の総裁選挙でこう述べています。中国における台湾の海上封鎖が発生した場合を問われて、「存立危機事態になるかもしれない」と発言されました。私も絶対無いと言うつもりはありません。しかし、どういう場合に存立危機事態になると考えているのか、お聞かせください。
台湾を巡る問題というのは、対話により平和的に解決することを期待するというのが、従来からの一貫した立場です。その上で一般論として申し上げますけれども、岡田さんも「絶対無いとは言えない」と仰っているとおり、どんな事態が存立危機事態に該当するかは、個別具体的な状況に即して全ての情報を総合して判断しなければならないと考えています。
海上封鎖だけで存立危機事態になるかもしれない、と発言されたわけですよね。例えば台湾とフィリピンの間のバシー海峡、これを封鎖されても、日本のエネルギーや食料輸入が途絶えるということは基本的にありませんから、「日本存立の危機」に該当するとは思えません。どういう場合に存立危機事態になるのかということをお聞きしたい。
これはやはり他国に、台湾に対する戦艦での海上封鎖などに対応した場合、武力行使が生じ得ます。たとえば海上封鎖を解くために米軍が来援をする、米軍を防ぐために何らかの武力行使が行われる。こういった事態も想定されます。単に民間の船を並べて海峡を通り難くするだけであれば、存立危機事態には当たらないが、実際に戦争という状況のなかでの海上封鎖であれば、また別の見方ができると考えます。
今の答弁では、非常に幅広い解釈の余地を政府に与えてしまうことになります。もちろん日本の艦船が攻撃を受ければ、日本も武力を行使するということになります。しかし日本の艦船が攻撃を受けていないときに存立危機事態になるとは、なかなか想定しがたい。たとえば麻生さんは昨年1月にワシントンで「中国が台湾に侵攻した場合には存立危機事態と日本政府が判断する可能性が極めて高い」という言い方をされています。安倍さん自身も「台湾有事は日本有事」と言っている。さまざまな条件を無視しすぎているのではないかと思うのですが、いかがですか?
あらゆる事態を想定しておくということは、非常に重要だと思います。先ほど有事という言葉がありましたが、それには色んな形があるでしょう。例えば台湾を完全に中国北京政府の支配下に置くために、戦艦を使って、武力の行使も伴うのであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます。政府が全ての情報を総合して判断するということです。武力攻撃が発生したら、これは存立危機事態にあたる可能性が高いです。法律の条文通りです。
逆なんよ。
立憲の岡田は「存立危機事態についていたずらに言及するべきじゃない。危険を煽るだけだ」と言ってるのに、
高市はなぜか「中国が台湾に武力で攻撃したら存立危機事態になり得る」って言っちゃったんだよ
岡田は、存立危機事態の範囲をぼやかして恣意的に運用されることを懸念してたんだけど、高市はそれを台湾有事は存立危機事態になり得るって明言しちゃったんだよ
岡田としては「いや、ボヤかすなとは言ったけど、明言することを求めてるんじゃないよ」って感じだよ
たとえ台湾が中国に攻撃されても存立危機事態にはならないことだってあるんじゃないの?というのが岡田の立場
岡田としては「それが良くないんだよ」って感じだよ
このまま黙って中国に従うのは嫌なの、分かるよ
でもさ、国力で完全に負けてる中国に、勝てるわけないんよ
けれど高市はそこまで考えてないと思う
って話というか説明をするよ!!!読みたくない人はこの1行だけ持って帰ってくださいね!!!!言ってない!!!
これはどうもSNS上で話題になってるらしいことなので、じゃあ増田で言ってどうすんだよって話なんだけど
俺が今からSNSアカウント作っても誰も見ないだろうし、多少は人目につくここで書くしかないんだ…
気が向いたら拡散でもしてくれたら嬉しい
いや拡散しなくていいけど
韓国で開発され日本でも運営されているスマホゲーム「ブルーアーカイブ」。
多くの海外製スマホゲーと同様、たまに日本語版と韓国語版の訳の違いが話題になったりする。
まあそれは何のメディアでもある。小説だって映画だってドラマだって字幕派と原語派がいる。ハリーポッターは英語で読まなきゃダメだよね~みたいな人もいるじゃん。これは普通。
なんだけど今回、先生(プレイヤーキャラクター)がナギサというキャラクターに対して、韓国語版では下の2つのセリフを言ったらしいと広まっている。
「お前は救いようがないパラノイアだ」
「お前の陰謀は私が打ち砕く」
2文目はあとで触れるけど、まずパラノイアの方ね。
これ言ってないの!!!!!
日本語版ではそこは「今の君はきっと、疑心暗鬼の闇の中だ」と訳されていて、「疑心暗鬼だよね~、なんか周りが疑わしく見えちゃうよね~」というニュアンスになっている。
ところが韓国語版では「お前は救いようがないパラノイア」だと言ったらしい!!!!なんだと!ナギサを病気だって言いたいのか!!!ひどすぎるだろ!!!と日本のSNS上で話題になってるらしいんだけど
ちょっと紛らわしいのは「先生がナギサに対して酷いことを言った」のはあってる。
これは韓国語を読まずとも、日本国内で読める日本語版でも同じ(ストーリーは同じなんだから、そりゃそうだ)
確かに酷いことは言ったよ。ここは正しい。
先生が「救いがたいパラノイアだ」と言ったとされる部分、韓国語ではこういうセリフ。
"너는 구제불능인 의심암귀다."
たったこんだけだぜ!このくらい辞書引けばすぐわかるでしょうよ!!!言ってないことを言ったと思ってる人も読んでみてくれよ!!!
ここの의심암귀は正に熟語の『疑心暗鬼』のこと。中国の『列子』に由来するとされる疑心暗鬼そのもの。
つまり、解釈の可能性はこの後するけど、まず原文で『パラノイア』なんて言ってるかどうかについては議論の余地がない。
"너는 구제불능인 의심암귀다." "君は、救済不能の疑心暗鬼だ。"
そんで、これを日本語版と比べてみると
ね!!
パラノイアなんて言ってないから、日本も韓国も「疑心暗鬼」扱いなのは同じ。そこは日本と違わない。
これが文章だったなら分かるよ。
「君は救いがたいな。何もかも全てを疑った挙句、いもしない敵を自ら作り上げてしまった。今すぐ入院して医学的処置を受けるべきだ」とか言ってたなら「うーん…パラノイアって訳しておくか!」となるのも分からなくもない。
でも違うじゃん、의심암귀疑心暗鬼って言ってんの。パラノイアなんて言ってねーんだって!!そんな単語も文もないんだもんって!!
ネットで広まってる言い方なら「救いがたい」のほう。これは実際に言ってるの。これは確かにキツイね。救えねえわって言ってんだからキツイよ。
でもパラノイアは言ってないから!!의심암귀はそのまんま疑心暗鬼だから!!ナギサを病的だなんて言ってないから!!
確かにパラノイアって単語は無いけど、意訳すればパラノイアでしょ? 疑心暗鬼がひどくなったのがパラノイアでしょ?と思ったあなた。
じゃあそれはストーリーがどうこうじゃなくて、韓国語版との違いがどうこうてもなくて、「意訳がどうこう」いう所じゃん!
スタートとゴールが疑心暗鬼で真ん中にだけパラノイアがあるなら、それは韓国語版由来でなく意訳由来では!?
意訳はニュアンス変わるよ。試しに俺が
どれがより適切かは文脈によるんだけど、原文から100%全くの別物にまではしていない。どれも意訳と言い張れる範囲だと思う。
これは何か恣意的にねじ曲げようってんじゃなくて、俺がどうストーリーを受け止めているかがあって、そのフィルターを通って変換されてる。
決して、パラノイアと訳されたのが悪いとか言いたいんじゃない。人それぞれの読み方があって、人それぞれのフィルターがあるから。
だけど「パラノイア」は原文にはなくて、フィルターの中にある言葉じゃないのってのはあるかもなの。
誰か個人の訳なのかネットで自然発生したものなのかは分からないし、それについてはどっちでもいい。原因探しじゃなくて、そんなこと言ってないよ!!!が重要だし。
先に断わっておくと、この項はパラノイアと訳した人が悪いぞ!という話ではないです。
で話に移ると、小説でも映画でもなんでも「海外ではこう書いてあるんだぜ」と日本語訳をみたとき、そこには必ず訳した人がいるって意識は必要です。
例えば英語の"good morning."だって、訳はどんだけでもある。
「おはよう」「はよう!」「おはようございます」「良い朝だね!」「今日もよろしく」「はよざーっす」「ザぁっす」、どれも正しい訳だけど、話し手の雰囲気は変わって見える。日本語だとひらがなとカタカナを使い別けるから、「ざぁっす」「ザァっす」「ザァッス」でも雰囲気は変わる。あくびしながら「ザァっす」は眠そう。キラキラした目で「ザっす」は元気そう。ァ1文字抜いただけだけど。
本来は文脈によってある程度絞られてくるけど(例えば清楚なお嬢様キャラは「ザぁっす」とは言わないだろう)、1文、2文を抜き出して訳すときはどんだけでも幅が出る。
文脈によっては、何もおはよう要素がないかもしれない。誰かに朝から会いに行ったなら「どうもどうも」とか「すみませんね」と訳せる状況もあるかもしれない。
状況によっては「夜が終わった」とも訳せるかもしれないし、窓を見てれば「陽が昇ってきた」とも訳せるかもしれない。夜通し騒動に巻き込まれるストーリーだったら「逃げ切ったね」「終わったか」「助かった」くらいまで意訳できるシーンもあるかも。100億円貰える日の朝なら、「さあゴキゲンが始まるぜ!」になるシーンもあり得る。
大きく意訳するのはなしにして、good morningを「良い朝だ」と訳すとしよう。語尾をちょっとだけ変えてみる。「良い朝だね」「良い朝だぜ」「良い朝だ」「良い朝だよ」「良い朝ですよ」、ほんの数文字変えただけで、シチュエーションも性別も変わって見える。
でも、ここまで挙げたすべては、ぜーんぶ、"good morning."から出せる。
ブルーアーカイブのプレイヤーキャラクター"先生"には性別も容姿も設定されておらず、プレイヤーの自由に解釈できるようになっている。だからこのフィルターの影響は大きい。
"先生"は僅かな言行からのみ解釈されるけど、ちょっと女っぽいと言われることもある。この雰囲気に一役買っているのは「~よ」「~ね」を基本にした優しい口調だろう。ちょっとそこらを見てみよう。
日本版はこんな口調。ブルアカファンには有名なセリフだけど、まずそもそもこの時点で韓国語版から変わってる。
「야만 해」のニュアンスを入れるなら「私が負わなければならない」なんだから。
"責任は、私が負うさ"
すこしカッコツケを感じる…
"責任は、私が負う"
少し強くなって来た
"責任は、私が負うとも"
より強く聞こえるね
"責任は、私が持つ"
"責任は、俺が負うよ"
これは語尾じゃないけど、「私」を「俺」に1文字変えるだけで、性別が男に見えてくる。
別に女が俺と言ってもいいんだけど、一種の役割語として機能している
"ケツは拭いてやらァ、俺に任せとけ"
おっ、別人だこれ
最後はともかく、ちょっと語尾を変えただけでもう"先生"は変わる。
んで何が言いたいかって言うと、「海外版は別人みたいだ…」というとき、それは別人のように訳してあるのでは?という目線も絶対に必要だってこと。これは悪い意味では無くて。
例えばこんなのもある。正に同じ文章を、同じ翻訳家が、別の作品で訳しただけなのに、まるで別人のようになる。まあ実際別人なんだけど。1つの文章から、コロンボとコジャックという全く性格が違う人間ができあがる。
同じく、「海外の先生の口調は怖いらしい…」っていうとき、それは怖いように訳してあるのでは?という目線は必要。
しかもこれ、「訳してある」とは言ったものの、そこに悪意があるから疑おうという話じゃない(もちろん悪意をこめて訳す人もいるかもしれないが、ここでは違う)。人は無意識のうちにも言葉を選択しているから、だから「訳してある」意識が必要だと言う話。
もちろん、件のシーンの言葉は実際に強い。なんせ上に書いたように救済不能とまで言ってるんだから間違いなく強い。だから個人だかネットの集合知だか分からないけど、訳した人は「強いこと言うんだなあ」と思って、強いように訳したかもしれない。
これは何も悪くない。その人はそういう雰囲気を感じ取ったからそういう日本語が出て来たわけで、決してデマやガセではない。
でもそれを読むときは、韓国語版のテキストだけでなく、フィルターも読んでるという目線は要る。
「救いようがないパラノイア」はそもそもパラノイアって言ってねーって!と思うけど、
これとセットで「お前の陰謀は私が打ち砕く」というセリフも「韓国版は怖い」として広まってる。こっちもちょっと試してみよう。
"너의 음모는 내가 깨부수겠어."
これが「お前の陰謀は私が打ち砕く」くらいの感じで広まってるらしい。
「お前の陰謀は私が打ち砕く」
日本版では「君を、そこから出してみせる」(※そこ=疑心暗鬼の闇)というセリフだから、全然違うじゃん!韓国語版は怖い!って言うんだけど。
とりあえず、「お前」を「君」に訳してみよう。「너」は状況次第でどっちにも訳せるから間違ってない。
普段先生は「お前」なんて言わないんだから、韓国語から翻訳しようと思ったとき何気なく「君」を選択する人も多いはずだ。
君の陰謀は私が打ち砕く
ほら、この時点でなんかもう違うでしょ。
너は状況に応じて「お前」でも「君」でもいけるけど、「お前」と「君」はちょっと話し手の雰囲気が変わる。
ブルアカプレイヤーの知る先生は生徒を「お前」なんて言わないから、「お前」に訳すだけで激怒してる気がする。
このセリフに限らない。机の上のお菓子を見て「これ、ユウカが買ってきたの?」なんて穏やかな一場面でも、「これ、お前が買って来たの?」にするだけで先生は別人になる。
お前と訳すか、君と訳すか、無意識のフィルターがはっきりと機能しているのが分かる。
続ける。
語尾を~よにしてみよう。日本版の先生は~よなんだから、比較するなら揃えてみたいよね~
君の陰謀は私が打ち砕くよ
陰謀って言葉はあまりに強いから、ブルアカの温度感に合わせて変えよう
君の企みは私が打ち砕くよ
もうだいぶ印象が変わってきたけど、もうすこし。
韓国と違って日本ではあまり「打ち砕く」は言わない。日本語だと劇的になるから、もっとありがちな表現に整えよう。
君の企みは止めてみせるよ
ぐっと変わった気がするけどもう一歩。
そもそもこの「企み」はどこから来てるかって、ナギサの疑心暗鬼から来ている。
韓国語版でも疑心暗鬼って言ってるんだから、これは置き換えてもいいはずだ
君の疑心暗鬼を止めてみせるよ
これはナギサ自身を縛り付けている疑心暗鬼を取り払うぞという宣言なんだから、もっと直接言ってあげようぜ!!!
君をそこから出してみせるよ
終盤は強引だったのは認めるけど、俺は内容そのものは大きく変えてない。意訳だと言える範囲。
この方向のフィルターで意訳して、
「韓国版は"너의 음모는 내가 깨부수겠어."って言ってるよ。
えーっとつまり…「君の企みは止めるよ」みたいな感じ?」
とする説明がネットに広がっていたら印象は全く変わったろう。「ふーん、言い回しは違うけど、日本版と同じような温度かねえ」ってなったろう。
これが正しいとは言っていない。
これにもフィルターが掛かってるし、「お前の陰謀を打ち砕く」にもフィルターが掛かってる。
韓国語版のニュアンスが強いのは確かだけど、でも俺のフィルターに通すとこうなるんだよ!と言ったとき間違ってはいない。このフィルターにウソは入ってないから。
「海外の文章を日本語で読んだとき、そこには必ず訳した人がいる」というのはこういうこと。
日本語で読んでるとき、それは韓国語版だけを読んでるんじゃない。誰かのフィルターを読んでいる。
今回ネットで広がっているフィルターを通すと「お前の陰謀は私が打ち砕く」になる
上に書いたフィルターだと「君の企みは止めてみせるよ」くらいになる。
行くとこまで行くなら日本版と同じになるし、
念のためいうと、「お前の陰謀は私が打ち砕く」を批判する訳でないよ!正実な訳だと思う。単語ごとに辞書を引いたら間違ってないから。
変に感情で意訳を入れてないだけ誠実な訳だと思う。しっかりしてると思う。
ただそれですら、「君」を選ぶか「お前」を選ぶかだけで印象はだいぶ変わってしまうので、良い悪いではなくフィルターそのものはかかってしまう。
日本語をみて「そんなに韓国語版は言葉が強いの!?」と思ったとき、あなたは韓国語のテキストだけでなく、フィルターも読んでいるんです!!!!!!それは意識していこうぜ!!!!!!!!!!!
話をもどして、パラノイアなんて言ってねーって!!
知らん…わかんない…
英語版だと、同じシーンの別の台詞に「I'm not going to waste my time being paranoid.」はある。
このparanoidはパラノイアではないし、直接はナギサを指してもいないし、別の台詞だけど、ここ以外にパラノイアらしき部分がない。
もしそうだとしたら、もう韓国語版がどうこうどころの話じゃなくないか!!?!??
意訳しつつ
混ざった
訳には幅があるといったけど、なんでも文章の意味は変わらないかって、そうでもない。
訳には幅があるから、의심암귀を「疑心暗鬼」と訳すか、「疑り深い」と訳すか、「人を信用しない」と訳すかはグラデーションになっている。
だから「原文では『疑り深い』とは言ってねーって!!!『疑心暗鬼』だって!!!単語が違うって!!!」なんて俺は言う気はない
拾うべきは文章が伝えたいものごとであって、「疑心暗鬼か、疑り深いか」なんて単語だけにこだわるのは違うと思うから。
でも、パラノイアは病気の名前、お医者さんの使う名前という印象があるので、俺だったら疑心暗鬼からのグラデーションとは繋がってないと感じる。
友人に「疑り深いな」は言えるじゃん
友人に「疑心暗鬼だな」は言えるじゃん
友人に「パラノイアだな」は言えないじゃん、そこは壁があるじゃん
パラノイアと言った瞬間に「病気だぞお前、病院行くレベルだぞ」のニュアンスが急に入ってくる。それまで無かったのに!
実際ネットでも、「パラノイア呼ばわりしたの?ナギサは病気ってこと?酷い…」みたいな反応を多々見る
ここで長々とパラノイアって言ってないよ!!!!!と愚痴る理由も分かるでしょ!?!?分かってくれ頼む!!!!
パラノイアと意訳するのは良いと思う。誰かが訳したときのフィルターにおいて間違いではないと思うし。
でも言ったか言ってないかなら原文では言ってねーって!!!言ってねーって!!!!!
入りきらなかったからちょっとだけだけど続きは別に書いたよ!!1
https://anond.hatelabo.jp/20251118185202
だいぶテンション落ちて来て、書かなきゃよかったと思ってきたけど
って話というか説明をするよ!!!読みたくない人はこの1行だけ持って帰ってくださいね!!!!言ってない!!!
これはどうもSNS上で話題になってるらしいことなので、じゃあ増田で言ってどうすんだよって話なんだけど
俺が今からSNSアカウント作っても誰も見ないだろうし、多少は人目につくここで書くしかないんだ…
気が向いたら拡散でもしてくれたら嬉しい
いや拡散しなくていいけど
韓国で開発され日本でも運営されているスマホゲーム「ブルーアーカイブ」。
多くの海外製スマホゲーと同様、たまに日本語版と韓国語版の訳の違いが話題になったりする。
まあそれは何のメディアでもある。小説だって映画だってドラマだって字幕派と原語派がいる。ハリーポッターは英語で読まなきゃダメだよね~みたいな人もいるじゃん。これは普通。
なんだけど今回、先生(プレイヤーキャラクター)がナギサというキャラクターに対して、韓国語版では下の2つのセリフを言ったらしいと広まっている。
「お前は救いようがないパラノイアだ」
「お前の陰謀は私が打ち砕く」
2文目はあとで触れるけど、まずパラノイアの方ね。
これ言ってないの!!!!!
日本語版ではそこは「今の君はきっと、疑心暗鬼の闇の中だ」と訳されていて、「疑心暗鬼だよね~、なんか周りが疑わしく見えちゃうよね~」というニュアンスになっている。
ところが韓国語版では「お前は救いようがないパラノイア」だと言ったらしい!!!!なんだと!ナギサを病気だって言いたいのか!!!ひどすぎるだろ!!!と日本のSNS上で話題になってるらしいんだけど
ちょっと紛らわしいのは「先生がナギサに対して酷いことを言った」のはあってる。
これは韓国語を読まずとも、日本国内で読める日本語版でも同じ(ストーリーは同じなんだから、そりゃそうだ)
確かに酷いことは言ったよ。ここは正しい。
先生が「救いがたいパラノイアだ」と言ったとされる部分、韓国語ではこういうセリフ。
"너는 구제불능인 의심암귀다."
たったこんだけだぜ!このくらい辞書引けばすぐわかるでしょうよ!!!言ってないことを言ったと思ってる人も読んでみてくれよ!!!
ここの의심암귀は正に熟語の『疑心暗鬼』のこと。中国の『列子』に由来するとされる疑心暗鬼そのもの。
つまり、解釈の可能性はこの後するけど、まず原文で『パラノイア』なんて言ってるかどうかについては議論の余地がない。
"너는 구제불능인 의심암귀다." "君は、救済不能の疑心暗鬼だ。"
そんで、これを日本語版と比べてみると
ね!!
パラノイアなんて言ってないから、日本も韓国も「疑心暗鬼」扱いなのは同じ。そこは日本と違わない。
これが文章だったなら分かるよ。
「君は救いがたいな。何もかも全てを疑った挙句、いもしない敵を自ら作り上げてしまった。今すぐ入院して医学的処置を受けるべきだ」とか言ってたなら「うーん…パラノイアって訳しておくか!」となるのも分からなくもない。
でも違うじゃん、의심암귀疑心暗鬼って言ってんの。パラノイアなんて言ってねーんだって!!そんな単語も文もないんだもんって!!
ネットで広まってる言い方なら「救いがたい」のほう。これは実際に言ってるの。これは確かにキツイね。救えねえわって言ってんだからキツイよ。
でもパラノイアは言ってないから!!의심암귀はそのまんま疑心暗鬼だから!!ナギサを病的だなんて言ってないから!!
確かにパラノイアって単語は無いけど、意訳すればパラノイアでしょ? 疑心暗鬼がひどくなったのがパラノイアでしょ?と思ったあなた。
じゃあそれはストーリーがどうこうじゃなくて、韓国語版との違いがどうこうてもなくて、「意訳がどうこう」いう所じゃん!
スタートとゴールが疑心暗鬼で真ん中にだけパラノイアがあるなら、それは韓国語版由来でなく意訳由来では!?
意訳はニュアンス変わるよ。試しに俺が
どれがより適切かは文脈によるんだけど、原文から100%全くの別物にまではしていない。どれも意訳と言い張れる範囲だと思う。
これは何か恣意的にねじ曲げようってんじゃなくて、俺がどうストーリーを受け止めているかがあって、そのフィルターを通って変換されてる。
決して、パラノイアと訳されたのが悪いとか言いたいんじゃない。人それぞれの読み方があって、人それぞれのフィルターがあるから。
だけど「パラノイア」は原文にはなくて、フィルターの中にある言葉じゃないのってのはあるかもなの。
誰か個人の訳なのかネットで自然発生したものなのかは分からないし、それについてはどっちでもいい。原因探しじゃなくて、そんなこと言ってないよ!!!が重要だし。
先に断わっておくと、この項はパラノイアと訳した人が悪いぞ!という話ではないです。
で話に移ると、小説でも映画でもなんでも「海外ではこう書いてあるんだぜ」と日本語訳をみたとき、そこには必ず訳した人がいるって意識は必要です。
例えば英語の"good morning."だって、訳はどんだけでもある。
「おはよう」「はよう!」「おはようございます」「良い朝だね!」「今日もよろしく」「はよざーっす」「ザぁっす」、どれも正しい訳だけど、話し手の雰囲気は変わって見える。日本語だとひらがなとカタカナを使い別けるから、「ざぁっす」「ザァっす」「ザァッス」でも雰囲気は変わる。あくびしながら「ザァっす」は眠そう。キラキラした目で「ザっす」は元気そう。ァ1文字抜いただけだけど。
本来は文脈によってある程度絞られてくるけど(例えば清楚なお嬢様キャラは「ザぁっす」とは言わないだろう)、1文、2文を抜き出して訳すときはどんだけでも幅が出る。
文脈によっては、何もおはよう要素がないかもしれない。誰かに朝から会いに行ったなら「どうもどうも」とか「すみませんね」と訳せる状況もあるかもしれない。
状況によっては「夜が終わった」とも訳せるかもしれないし、窓を見てれば「陽が昇ってきた」とも訳せるかもしれない。夜通し騒動に巻き込まれるストーリーだったら「逃げ切ったね」「終わったか」「助かった」くらいまで意訳できるシーンもあるかも。100億円貰える日の朝なら、「さあゴキゲンが始まるぜ!」になるシーンもあり得る。
大きく意訳するのはなしにして、good morningを「良い朝だ」と訳すとしよう。語尾をちょっとだけ変えてみる。「良い朝だね」「良い朝だぜ」「良い朝だ」「良い朝だよ」「良い朝ですよ」、ほんの数文字変えただけで、シチュエーションも性別も変わって見える。
でも、ここまで挙げたすべては、ぜーんぶ、"good morning."から出せる。
ブルーアーカイブのプレイヤーキャラクター"先生"には性別も容姿も設定されておらず、プレイヤーの自由に解釈できるようになっている。だからこのフィルターの影響は大きい。
"先生"は僅かな言行からのみ解釈されるけど、ちょっと女っぽいと言われることもある。この雰囲気に一役買っているのは「~よ」「~ね」を基本にした優しい口調だろう。ちょっとそこらを見てみよう。
日本版はこんな口調。ブルアカファンには有名なセリフだけど、まずそもそもこの時点で韓国語版から変わってる。
「야만 해」のニュアンスを入れるなら「私が負わなければならない」なんだから。
"責任は、私が負うさ"
すこしカッコツケを感じる…
"責任は、私が負う"
少し強くなって来た
"責任は、私が負うとも"
より強く聞こえるね
"責任は、私が持つ"
"責任は、俺が負うよ"
これは語尾じゃないけど、「私」を「俺」に1文字変えるだけで、性別が男に見えてくる。
別に女が俺と言ってもいいんだけど、一種の役割語として機能している
"ケツは拭いてやらァ、俺に任せとけ"
おっ、別人だこれ
最後はともかく、ちょっと語尾を変えただけでもう"先生"は変わる。
んで何が言いたいかって言うと、「海外版は別人みたいだ…」というとき、それは別人のように訳してあるのでは?という目線も絶対に必要だってこと。これは悪い意味では無くて。
例えばこんなのもある。正に同じ文章を、同じ翻訳家が、別の作品で訳しただけなのに、まるで別人のようになる。まあ実際別人なんだけど。1つの文章から、コロンボとコジャックという全く性格が違う人間ができあがる。
同じく、「海外の先生の口調は怖いらしい…」っていうとき、それは怖いように訳してあるのでは?という目線は必要。
しかもこれ、「訳してある」とは言ったものの、そこに悪意があるから疑おうという話じゃない(もちろん悪意をこめて訳す人もいるかもしれないが、ここでは違う)。人は無意識のうちにも言葉を選択しているから、だから「訳してある」意識が必要だと言う話。
もちろん、件のシーンの言葉は実際に強い。なんせ上に書いたように救済不能とまで言ってるんだから間違いなく強い。だから個人だかネットの集合知だか分からないけど、訳した人は「強いこと言うんだなあ」と思って、強いように訳したかもしれない。
これは何も悪くない。その人はそういう雰囲気を感じ取ったからそういう日本語が出て来たわけで、決してデマやガセではない。
でもそれを読むときは、韓国語版のテキストだけでなく、フィルターも読んでるという目線は要る。
「救いようがないパラノイア」はそもそもパラノイアって言ってねーって!と思うけど、
これとセットで「お前の陰謀は私が打ち砕く」というセリフも「韓国版は怖い」として広まってる。こっちもちょっと試してみよう。
"너의 음모는 내가 깨부수겠어."
これが「お前の陰謀は私が打ち砕く」くらいの感じで広まってるらしい。
「お前の陰謀は私が打ち砕く」
日本版では「君を、そこから出してみせる」(※そこ=疑心暗鬼の闇)というセリフだから、全然違うじゃん!韓国語版は怖い!って言うんだけど。
とりあえず、「お前」を「君」に訳してみよう。「너」は状況次第でどっちにも訳せるから間違ってない。
普段先生は「お前」なんて言わないんだから、韓国語から翻訳しようと思ったとき何気なく「君」を選択する人も多いはずだ。
君の陰謀は私が打ち砕く
ほら、この時点でなんかもう違うでしょ。
너は状況に応じて「お前」でも「君」でもいけるけど、「お前」と「君」はちょっと話し手の雰囲気が変わる。
ブルアカプレイヤーの知る先生は生徒を「お前」なんて言わないから、「お前」に訳すだけで激怒してる気がする。
このセリフに限らない。机の上のお菓子を見て「これ、ユウカが買ってきたの?」なんて穏やかな一場面でも、「これ、お前が買って来たの?」にするだけで先生は別人になる。
お前と訳すか、君と訳すか、無意識のフィルターがはっきりと機能しているのが分かる。
続ける。
語尾を~よにしてみよう。日本版の先生は~よなんだから、比較するなら揃えてみたいよね~
君の陰謀は私が打ち砕くよ
陰謀って言葉はあまりに強いから、ブルアカの温度感に合わせて変えよう
君の企みは私が打ち砕くよ
もうだいぶ印象が変わってきたけど、もうすこし。
韓国と違って日本ではあまり「打ち砕く」は言わない。日本語だと劇的になるから、もっとありがちな表現に整えよう。
君の企みは止めてみせるよ
ぐっと変わった気がするけどもう一歩。
そもそもこの「企み」はどこから来てるかって、ナギサの疑心暗鬼から来ている。
韓国語版でも疑心暗鬼って言ってるんだから、これは置き換えてもいいはずだ
君の疑心暗鬼を止めてみせるよ
これはナギサ自身を縛り付けている疑心暗鬼を取り払うぞという宣言なんだから、もっと直接言ってあげようぜ!!!
君をそこから出してみせるよ
終盤は強引だったのは認めるけど、俺は内容そのものは大きく変えてない。意訳だと言える範囲。
この方向のフィルターで意訳して、
「韓国版は"너의 음모는 내가 깨부수겠어."って言ってるよ。
えーっとつまり…「君の企みは止めるよ」みたいな感じ?」
とする説明がネットに広がっていたら印象は全く変わったろう。「ふーん、言い回しは違うけど、日本版と同じような温度かねえ」ってなったろう。
これが正しいとは言っていない。
これにもフィルターが掛かってるし、「お前の陰謀を打ち砕く」にもフィルターが掛かってる。
韓国語版のニュアンスが強いのは確かだけど、でも俺のフィルターに通すとこうなるんだよ!と言ったとき間違ってはいない。このフィルターにウソは入ってないから。
「海外の文章を日本語で読んだとき、そこには必ず訳した人がいる」というのはこういうこと。
日本語で読んでるとき、それは韓国語版だけを読んでるんじゃない。誰かのフィルターを読んでいる。
今回ネットで広がっているフィルターを通すと「お前の陰謀は私が打ち砕く」になる
上に書いたフィルターだと「君の企みは止めてみせるよ」くらいになる。
行くとこまで行くなら日本版と同じになるし、
念のためいうと、「お前の陰謀は私が打ち砕く」を批判する訳でないよ!正実な訳だと思う。単語ごとに辞書を引いたら間違ってないから。
だけど、辞書に従ったところで、最初にやったように「君」を選ぶか「お前」を選ぶかだけで印象はだいぶ違う。
良い悪いではないけど、無意識にでも「ここは"お前"って感じだな…」と誰かが選ばないと日本語になっていないんだから、フィルターがそこにあるのは間違いない。
日本語をみて「そんなに韓国語版は言葉が強いの!?」と思ったとき、あなたは韓国語のテキストだけでなく、フィルターも読んでいるんです!!!!!!それは意識していこうぜ!!!!!!!!!!!
話をもどして、パラノイアなんて言ってねーって!!
知らん…わかんない…
英語版だと、同じシーンの別の台詞に「I'm not going to waste my time being paranoid.」はある。
このparanoidはパラノイアではないし、直接はナギサを指してもいないし、別の台詞だけど、ここ以外にパラノイアらしき部分がない。
もしそうだとしたら、もう韓国語版がどうこうどころの話じゃなくないか!!?!??
意訳しつつ
混ざった
訳には幅があるといったけど、なんでも文章の意味は変わらないかって、そうでもない。
訳には幅があるから、의심암귀を「疑心暗鬼」と訳すか、「疑り深い」と訳すか、「人を信用しない」と訳すかはグラデーションになっている。
だから「原文では『疑り深い』とは言ってねーって!!!『疑心暗鬼』だって!!!単語が違うって!!!」なんて俺は言う気はない
拾うべきは文章が伝えたいものごとであって、「疑心暗鬼か、疑り深いか」なんて単語だけにこだわるのは違うと思うから。
でも、パラノイアは病気の名前、お医者さんの使う名前という印象があるので、俺だったら疑心暗鬼からのグラデーションとは繋がってないと感じる。
友人に「疑り深いな」は言えるじゃん
友人に「疑心暗鬼だな」は言えるじゃん
友人に「パラノイアだな」は言えないじゃん、そこは壁があるじゃん
パラノイアと言った瞬間に「病気だぞお前、病院行くレベルだぞ」のニュアンスが急に入ってくる。それまで無かったのに!
実際ネットでも、「パラノイア呼ばわりしたの?ナギサは病気ってこと?酷い…」みたいな反応を多々見る
ここで長々とパラノイアって言ってないよ!!!!!と愚痴る理由も分かるでしょ!?!?分かってくれ頼む!!!!
パラノイアと意訳するのは良いと思う。誰かが訳したときのフィルターにおいて間違いではないと思うし。
でも言ったか言ってないかなら原文では言ってねーって!!!言ってねーって!!!!!
って話というか説明をするよ!!!読みたくない人はこの1行だけ持って帰ってくださいね!!!!言ってない!!!
これはどうもSNS上で話題になってるらしいことなので、じゃあ増田で言ってどうすんだよって話なんだけど
俺が今からSNSアカウント作っても誰も見ないだろうし、多少は人目につくここで書くしかないんだ…
気が向いたら拡散でもしてくれたら嬉しい
いや拡散しなくていいけど
韓国で開発され日本でも運営されているスマホゲーム「ブルーアーカイブ」。
多くの海外製スマホゲーと同様、たまに日本語版と韓国語版の訳の違いが話題になったりする。
まあそれは何のメディアでもある。小説だって映画だってドラマだって字幕派と原語派がいる。ハリーポッターは英語で読まなきゃダメだよね~みたいな人もいるじゃん。これは普通。
なんだけど今回、先生(プレイヤーキャラクター)がナギサというキャラクターに対して、韓国語版では下の2つのセリフを言ったらしいと広まっている。
「お前は救いようがないパラノイアだ」
「お前の陰謀は私が打ち砕く」
2文目はあとで触れるけど、まずパラノイアの方ね。
これ言ってないの!!!!!
日本語版ではそこは「今の君はきっと、疑心暗鬼の闇の中だ」と訳されていて、「疑心暗鬼だよね~、なんか周りが疑わしく見えちゃうよね~」というニュアンスになっている。
ところが韓国語版では「お前は救いようがないパラノイア」だと言ったらしい!!!!なんだと!ナギサを病気だって言いたいのか!!!ひどすぎるだろ!!!と日本のSNS上で話題になってるらしいんだけど
ちょっと紛らわしいのは「先生がナギサに対して酷いことを言った」のはあってる。
これは韓国語を読まずとも、日本国内で読める日本語版でも同じ(ストーリーは同じなんだから、そりゃそうだ)
確かに酷いことは言ったよ。ここは正しい。
先生が「救いがたいパラノイアだ」と言ったとされる部分、韓国語ではこういうセリフ。
"너는 구제불능인 의심암귀다."
たったこんだけだぜ!このくらい辞書引けばすぐわかるでしょうよ!!!言ってないことを言ったと思ってる人も読んでみてくれよ!!!
ここの의심암귀は正に熟語の『疑心暗鬼』のこと。中国の『列子』に由来するとされる疑心暗鬼そのもの。
つまり、解釈の可能性はこの後するけど、まず原文で『パラノイア』なんて言ってるかどうかについては議論の余地がない。
"너는 구제불능인 의심암귀다." "君は、救済不能の疑心暗鬼だ。"
そんで、これを日本語版と比べてみると
ね!!
パラノイアなんて言ってないから、日本も韓国も「疑心暗鬼」扱いなのは同じ。そこは日本と違わない。
これが文章だったなら分かるよ。
「君は救いがたいな。何もかも全てを疑った挙句、いもしない敵を自ら作り上げてしまった。今すぐ入院して医学的処置を受けるべきだ」とか言ってたなら「うーん…パラノイアって訳しておくか!」となるのも分からなくもない。
でも違うじゃん、의심암귀疑心暗鬼って言ってんの。パラノイアなんて言ってねーんだって!!そんな単語も文もないんだもんって!!
ネットで広まってる言い方なら「救いがたい」のほう。これは実際に言ってるの。これは確かにキツイね。救えねえわって言ってんだからキツイよ。
でもパラノイアは言ってないから!!의심암귀はそのまんま疑心暗鬼だから!!ナギサを病的だなんて言ってないから!!
確かにパラノイアって単語は無いけど、意訳すればパラノイアでしょ? 疑心暗鬼がひどくなったのがパラノイアでしょ?と思ったあなた。
じゃあそれはストーリーがどうこうじゃなくて、韓国語版との違いがどうこうてもなくて、「意訳がどうこう」いう所じゃん!
スタートとゴールが疑心暗鬼で真ん中にだけパラノイアがあるなら、それは韓国語版由来でなく意訳由来では!?
意訳はニュアンス変わるよ。試しに俺が
どれがより適切かは文脈によるんだけど、原文から100%全くの別物にまではしていない。どれも意訳と言い張れる範囲だと思う。
これは何か恣意的にねじ曲げようってんじゃなくて、俺がどうストーリーを受け止めているかがあって、そのフィルターを通って変換されてる。
決して、パラノイアと訳されたのが悪いとか言いたいんじゃない。人それぞれの読み方があって、人それぞれのフィルターがあるから。
だけど「パラノイア」は原文にはなくて、フィルターの中にある言葉じゃないのってのはあるかもなの。
誰か個人の訳なのかネットで自然発生したものなのかは分からないし、それについてはどっちでもいい。原因探しじゃなくて、そんなこと言ってないよ!!!が重要だし。
先に断わっておくと、この項はパラノイアと訳した人が悪いぞ!という話ではないです。
で話に移ると、小説でも映画でもなんでも「海外ではこう書いてあるんだぜ」と日本語訳をみたとき、そこには必ず訳した人がいるって意識は必要です。
例えば英語の"good morning."だって、訳はどんだけでもある。
「おはよう」「はよう!」「おはようございます」「良い朝だね!」「今日もよろしく」「はよざーっす」「ザぁっす」、どれも正しい訳だけど、話し手の雰囲気は変わって見える。日本語だとひらがなとカタカナを使い別けるから、「ざぁっす」「ザァっす」「ザァッス」でも雰囲気は変わる。あくびしながら「ザァっす」は眠そう。キラキラした目で「ザっす」は元気そう。ァ1文字抜いただけだけど。
本来は文脈によってある程度絞られてくるけど(例えば清楚なお嬢様キャラは「ザぁっす」とは言わないだろう)、1文、2文を抜き出して訳すときはどんだけでも幅が出る。
文脈によっては、何もおはよう要素がないかもしれない。誰かに朝から会いに行ったなら「どうもどうも」とか「すみませんね」と訳せる状況もあるかもしれない。
状況によっては「夜が終わった」とも訳せるかもしれないし、窓を見てれば「陽が昇ってきた」とも訳せるかもしれない。夜通し騒動に巻き込まれるストーリーだったら「逃げ切ったね」「終わったか」「助かった」くらいまで意訳できるシーンもあるかも。100億円貰える日の朝なら、「さあゴキゲンが始まるぜ!」になるシーンもあり得る。
大きく意訳するのはなしにして、good morningを「良い朝だ」と訳すとしよう。語尾をちょっとだけ変えてみる。「良い朝だね」「良い朝だぜ」「良い朝だ」「良い朝だよ」「良い朝ですよ」、ほんの数文字変えただけで、シチュエーションも性別も変わって見える。
でも、ここまで挙げたすべては、ぜーんぶ、"good morning."から出せる。
ブルーアーカイブのプレイヤーキャラクター"先生"には性別も容姿も設定されておらず、プレイヤーの自由に解釈できるようになっている。だからこのフィルターの影響は大きい。
"先生"は僅かな言行からのみ解釈されるけど、ちょっと女っぽいと言われることもある。この雰囲気に一役買っているのは「~よ」「~ね」を基本にした優しい口調だろう。ちょっとそこらを見てみよう。
日本版はこんな口調。ブルアカファンには有名なセリフだけど、まずそもそもこの時点で韓国語版から変わってる。
「야만 해」のニュアンスを入れるなら「私が負わなければならない」なんだから。
"責任は、私が負うさ"
すこしカッコツケを感じる…
"責任は、私が負う"
少し強くなって来た
"責任は、私が負うとも"
より強く聞こえるね
"責任は、私が持つ"
"責任は、俺が負うよ"
これは語尾じゃないけど、「私」を「俺」に1文字変えるだけで、性別が男に見えてくる。
別に女が俺と言ってもいいんだけど、一種の役割語として機能している
"ケツは拭いてやらァ、俺に任せとけ"
おっ、別人だこれ
最後はともかく、ちょっと語尾を変えただけでもう"先生"は変わる。
んで何が言いたいかって言うと、「海外版は別人みたいだ…」というとき、それは別人のように訳してあるのでは?という目線も絶対に必要だってこと。これは悪い意味では無くて。
例えばこんなのもある。正に同じ文章を、同じ翻訳家が、別の作品で訳しただけなのに、まるで別人のようになる。まあ実際別人なんだけど。1つの文章から、コロンボとコジャックという全く性格が違う人間ができあがる。
同じく、「海外の先生の口調は怖いらしい…」っていうとき、それは怖いように訳してあるのでは?という目線は必要。
しかもこれ、「訳してある」とは言ったものの、そこに悪意があるから疑おうという話じゃない(もちろん悪意をこめて訳す人もいるかもしれないが、ここでは違う)。人は無意識のうちにも言葉を選択しているから、だから「訳してある」意識が必要だと言う話。
もちろん、件のシーンの言葉は実際に強い。なんせ上に書いたように救済不能とまで言ってるんだから間違いなく強い。だから個人だかネットの集合知だか分からないけど、訳した人は「強いこと言うんだなあ」と思って、強いように訳したかもしれない。
これは何も悪くない。その人はそういう雰囲気を感じ取ったからそういう日本語が出て来たわけで、決してデマやガセではない。
でもそれを読むときは、韓国語版のテキストだけでなく、フィルターも読んでるという目線は要る。
「救いようがないパラノイア」はそもそもパラノイアって言ってねーって!と思うけど、
これとセットで「お前の陰謀は私が打ち砕く」というセリフも「韓国版は怖い」として広まってる。こっちもちょっと試してみよう。
"너의 음모는 내가 깨부수겠어."
これが「お前の陰謀は私が打ち砕く」くらいの感じで広まってるらしい。
「お前の陰謀は私が打ち砕く」
日本版では「君を、そこから出してみせる」(※そこ=疑心暗鬼の闇)というセリフだから、全然違うじゃん!韓国語版は怖い!って言うんだけど。
とりあえず、「お前」を「君」に訳してみよう。「너」は状況次第でどっちにも訳せるから間違ってない。
普段先生は「お前」なんて言わないんだから、韓国語から翻訳しようと思ったとき何気なく「君」を選択する人も多いはずだ。
君の陰謀は私が打ち砕く
ほら、この時点でなんかもう違うでしょ。
너は状況に応じて「お前」でも「君」でもいけるけど、「お前」と「君」はちょっと話し手の雰囲気が変わる。
ブルアカプレイヤーの知る先生は生徒を「お前」なんて言わないから、「お前」に訳すだけで激怒してる気がする。
このセリフに限らない。机の上のお菓子を見て「これ、ユウカが買ってきたの?」なんて穏やかな一場面でも、「これ、お前が買って来たの?」にするだけで先生は別人になる。
お前と訳すか、君と訳すか、無意識のフィルターがはっきりと機能しているのが分かる。
続ける。
語尾を~よにしてみよう。日本版の先生は~よなんだから、比較するなら揃えてみたいよね~
君の陰謀は私が打ち砕くよ
陰謀って言葉はあまりに強いから、ブルアカの温度感に合わせて変えよう
君の企みは私が打ち砕くよ
もうだいぶ印象が変わってきたけど、もうすこし。
韓国と違って日本ではあまり「打ち砕く」は言わない。日本語だと劇的になるから、もっとありがちな表現に整えよう。
君の企みは止めてみせるよ
ぐっと変わった気がするけどもう一歩。
そもそもこの「企み」はどこから来てるかって、ナギサの疑心暗鬼から来ている。
韓国語版でも疑心暗鬼って言ってるんだから、これは置き換えてもいいはずだ
君の疑心暗鬼を止めてみせるよ
これはナギサ自身を縛り付けている疑心暗鬼を取り払うぞという宣言なんだから、もっと直接言ってあげようぜ!!!
君をそこから出してみせるよ
終盤は強引だったのは認めるけど、俺は内容そのものは大きく変えてない。意訳だと言える範囲。
この方向のフィルターで意訳して、
「韓国版は"너의 음모는 내가 깨부수겠어."って言ってるよ。
えーっとつまり…「君の企みは止めるよ」みたいな感じ?」
とする説明がネットに広がっていたら印象は全く変わったろう。「ふーん、言い回しは違うけど、日本版と同じような温度かねえ」ってなったろう。
これが正しいとは言っていない。
これにもフィルターが掛かってるし、「お前の陰謀を打ち砕く」にもフィルターが掛かってる。
韓国語版のニュアンスが強いのは確かだけど、でも俺のフィルターに通すとこうなるんだよ!と言ったとき間違ってはいない。このフィルターにウソは入ってないから。
「海外の文章を日本語で読んだとき、そこには必ず訳した人がいる」というのはこういうこと。
日本語で読んでるとき、それは韓国語版だけを読んでるんじゃない。誰かのフィルターを読んでいる。
今回ネットで広がっているフィルターを通すと「お前の陰謀は私が打ち砕く」になる
上に書いたフィルターだと「君の企みは止めてみせるよ」くらいになる。
行くとこまで行くなら日本版と同じになるし、
念のためいうと、「お前の陰謀は私が打ち砕く」を批判する訳でないよ!正実な訳だと思う。単語ごとに辞書を引いたら間違ってないから。
だけど、辞書に従ったところで、最初にやったように「君」を選ぶか「お前」を選ぶかだけで印象はだいぶ違う。
良い悪いではないけど、無意識にでも「ここは"お前"って感じだな…」と誰かが選ばないと日本語になっていないんだから、フィルターがそこにあるのは間違いない。
日本語をみて「そんなに韓国語版は言葉が強いの!?」と思ったとき、あなたは韓国語のテキストだけでなく、フィルターも読んでいるんです!!!!!!それは意識していこうぜ!!!!!!!!!!!
話をもどして、パラノイアなんて言ってねーって!!
知らん…わかんない…
英語版だと、同じシーンの別の台詞に「I'm not going to waste my time being paranoid.」はある。
このparanoidはパラノイアではないし、直接はナギサを指してもいないし、別の台詞だけど、ここ以外にパラノイアらしき部分がない。
もしそうだとしたら、もう韓国語版がどうこうどころの話じゃなくないか!!?!??
意訳しつつ
混ざった
訳には幅があるといったけど、なんでも文章の意味は変わらないかって、そうでもない。
訳には幅があるから、의심암귀を「疑心暗鬼」と訳すか、「疑り深い」と訳すか、「人を信用しない」と訳すかはグラデーションになっている。
だから「原文では『疑り深い』とは言ってねーって!!!『疑心暗鬼』だって!!!単語が違うって!!!」なんて俺は言う気はない
拾うべきは文章が伝えたいものごとであって、「疑心暗鬼か、疑り深いか」なんて単語だけにこだわるのは違うと思うから。
でも、パラノイアは病気の名前、お医者さんの使う名前という印象があるので、俺だったら疑心暗鬼からのグラデーションとは繋がってないと感じる。
友人に「疑り深いな」は言えるじゃん
友人に「疑心暗鬼だな」は言えるじゃん
友人に「パラノイアだな」は言えないじゃん、そこは壁があるじゃん
パラノイアと言った瞬間に「病気だぞお前、病院行くレベルだぞ」のニュアンスが急に入ってくる。それまで無かったのに!
実際ネットでも、「パラノイア呼ばわりしたの?ナギサは病気ってこと?酷い…」みたいな反応を多々見る
ここで長々とパラノイアって言ってないよ!!!!!と愚痴る理由も分かるでしょ!?!?分かってくれ頼む!!!!
パラノイアと意訳するのは良いと思う。誰かが訳したときのフィルターにおいて間違いではないと思うし。
でも言ったか言ってないかなら原文では言ってねーって!!!言ってねーって!!!!!
years
この歌は僕たちを薄い布に例える
この布は影、暗いものに染まらず、悲しみに濡れても乾き、しなやかに逞しく、乱れた髪より、先に進むための風を気にして必死に生きている
しかしこの先には僕たちが力を合わせても、それをバラバラにしてしまうような困難が待ち受けている、この困難の形はハサミかナイフか
一方ナイフは、斬る、刺す、道具でもあるけど武器でもある粗野なイメージ
時代、世界というのはハサミのように冷徹に責めてくるのか、ナイフのように荒々しい狂気で害してくるのか
俺的には、この余裕なく、人に厳しく、税金からは逃れられず、高度に情報化が進んだ、進んで行く世界は、システマチックに人が苦しめられる風に見えるのでここの歌詞はハサミで良いと思います
https://www.katsuya.net/topics/article-10543.html
https://archive.is/7htlB#selection-1561.1-1462.298
※文章は適宜整形した。
〇岡田委員 新しい外交を切り開きたいという総理の思いは分かります。だけれども、前任者たちに対する敬意というものもしっかり持ちながらやっていただきたいというふうに思います。
さて、二番目の存立危機事態について、少し時間をかけて議論したいというふうに思っています。
実は、十年前にこの法律ができたときに、私は野党の代表でした。そのときの私の思いを申し上げますと、従来の個別的自衛権では対応できない事例があるということは認識していました。
例えば、もう既に米軍が戦っているときに、米軍と自衛隊が共同で対処している、米艦が攻撃されたときに、自衛隊は、日本自身は武力攻撃を受けていないという段階で、それを放置するというわけにはいきませんから、これをどういうふうに説明すべきか。
一つは、個別的自衛権の解釈を拡張するという考え方。もう一つは、集団的自衛権を制限して認めるという考え方。両様あり得るなというふうに思っておりました。自民党の中には、全面的な集団的自衛権を認めるべきだという議論もかなりあったと思うんです。
そういう中で、安倍さんが出してきたのが、この存立危機事態という考え方でした。我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態ということであります。
我々は、この概念がかなり曖昧であると。例えば、我が国の存立が脅かされる、これはどういう意味だろうか。それから、国民の基本的権利が根底から覆される明白な危険、これも非常に抽象的な概念ですね。だから、武力攻撃事態みたいに我が国が攻撃されたというものと比べるとかなり抽象的な概念ですから、これで果たして限定になっているんだろうかと。
多くの法制局長官経験者とか著名な憲法学者が、違憲ではないかというふうに疑義を呈されました。
そういう中で、私たちもこの法案には反対をしたということであります。
ただ、あれから十年たって、いろいろな事実が積み重なっていることも事実。白紙でゼロから議論し直すことはできないということも分かっています。そういう中でどういう対応をすべきかということは、これから党の中でしっかり議論していきたい。この法文で本当に憲法違反にならないのかどうか、そして運用はどうなのか、そういうことは議論していきたい。これが今の私たちの基本的スタンスであります。
そこで、総理にまず確認したいのは、この存立危機事態、いわゆる限定した集団的自衛権の行使ですね、これ以外の集団的自衛権の行使、つまり、限定のない集団的自衛権の行使は違憲である、これは従来の政府の考え方だったと思いますが、そういう考え方は維持されていますか。
〇高市内閣総理大臣 憲法上、我が国による武力の行使が許容されるのは、いわゆる三要件を満たす場合の自衛の措置としての武力の行使に限られます。そして、この三要件は国際的に見ても他に例のない極めて厳しい基準でありまして、その時々の内閣が恣意的に解釈できるようなものではないと思っております。
先ほど来、存立危機事態における武力の行使についてお話がございましたが、これも限定された集団的自衛権の行使、すなわち、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置としての武力の行使に限られていて、集団的自衛権の行使一般を認めるものではなく、他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められないという政府の見解に変更はございません。
〇岡田委員 要するに、憲法違反になってしまうということですね、認められないということは。この存立危機事態を踏み外したようなことがあると、これは法律違反だけではなくて憲法違反になるわけです。
ということは、この存立危機事態の運用というのは、やはり厳格に、限定的に考えなきゃいけない、それを踏み外したときには単に法令違反ではなくて憲法違反になる、そういう認識でよろしいですね。
〇岡田委員 それでは次に、平成二十七年九月十四日の当時の公明党の山口代表と安倍総理、法制局長官との特別委員会におけるやり取り、ここに持ってまいりました。
読み上げますと、これは抜粋ですけれども、武力の行使は、これまでどおり、自衛隊法八十八条に規定された我が国防衛のための必要最小限度の武力の行使にとどまるもの。それから、被害国を含めた他国にまで行って戦うなどという海外での武力の行使を認めることになるといったものではございません。存立危機事態に該当するのにかかわらず武力攻撃事態等に該当しないということはまずないのではないかと考えています。
つまり、これは、存立危機事態と武力攻撃事態というのはほぼ重なり合うということを言っているわけですね。
こういう法制局長官の当時の答弁ですが、法制局長官にお聞きしたいと思いますが、現在でもこの答弁を維持されていますか。
委員御指摘のとおり、平成二十七年九月十四日、参議院、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会におきまして、当時、横畠内閣法制局長官はこのように述べました。
新三要件の下で認められる武力の行使は、これまでどおり、自衛隊法第八十八条に規定された我が国防衛のための必要最小限度の武力の行使にとどまるものであり、他国防衛の権利として観念される国際法上の集団的自衛権一般の行使を認めるものではなく、また、我が国防衛のための必要最小限度を超える、被害国を含めた他国にまで行って戦うなどといういわゆる海外での武力の行使を認めることになるといったものではございません。
また、さらに、
いわゆるホルムズ海峡の事例のように、他国に対する武力攻撃それ自体によって国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことになるという例外的な場合が考えられるということは否定できませんが、実際に起こり得る事態というものを考えますと、存立危機事態に該当するのにかかわらず武力攻撃事態等に該当しないということはまずないのではないかと考えられると述べております。
このように承知しておりますが、これらの答弁で述べられました見解に変わりはございません。
〇岡田委員 当時の与党であった公明党の委員長と、そして総理、内閣法制局長官のやり取り、これは非常に重みのあるものですね。
今、法制局長官は答弁を維持しているというふうにおっしゃったわけですが、総理も同じですね。
〇高市内閣総理大臣 法制局長官が述べられたとおり、平成二十七年九月十四日の委員会で当時の長官が述べられた見解について、変わりはございません。
〇岡田委員 それでは、そういった答弁があるにもかかわらず、私は、一部の政治家の非常に不用意な発言が相次いでいるというふうに思うわけですね。
例えば、失礼ですが、高市総理、一年前の総裁選挙でこう述べておられるんですよ。中国による台湾の海上封鎖が発生した場合を問われて、存立危機事態になるかもしれないと発言されました。
私も、絶対ないと言うつもりはないんです。だけれども、これはどういう場合に存立危機事態になるというふうにお考えだったんですか。お聞かせください。
〇高市内閣総理大臣 台湾をめぐる問題というのは、対話により平和的に解決することを期待するというのが従来からの一貫した立場でございます。
その上で、一般論として申し上げますけれども、今、岡田委員も、絶対にないとは言えないとおっしゃっておられました。いかなる事態が存立危機事態に該当するかというのは、実際にその発生した事態の個別具体的な状況に即して、全ての情報を総合して判断しなければならないと考えております。
存立危機事態の定義については、ここで申し述べますと時間を取りますが、事態対処法第二条第四項にあるとおりでございます。
〇岡田委員 海上封鎖をした場合、存立危機事態になるかもしれないというふうにおっしゃっているわけですね。
例えば、台湾とフィリピンの間のバシー海峡、これを封鎖されたという場合に、でも、それは迂回すれば、何日間か余分にかかるかもしれませんが、別に日本に対してエネルギーや食料が途絶えるということは基本的にありませんよね。だから、どういう場合に存立危機事態になるのかということをお聞きしたいんですが、いかがですか。
〇高市内閣総理大臣 これはやはり他国に、台湾でしたら他の地域と申し上げた方がいいかもしれませんが、あのときはたしか台湾有事に関する議論であったと思います。台湾に対して武力攻撃が発生する。海上封鎖というのも、戦艦で行い、そしてまた他の手段も合わせて対応した場合には武力行使が生じ得る話でございます。
例えば、その海上封鎖を解くために米軍が来援をする、それを防ぐために何らかのほかの武力行使が行われる、こういった事態も想定されることでございますので、そのときに生じた事態、いかなる事態が生じたかということの情報を総合的に判断しなければならないと思っております。
単に民間の船を並べてそこを通りにくくするといったこと、それはそういった存立危機事態には当たらないんだと思いますけれども、実際に、これがいわゆる戦争という状況の中での海上封鎖であり、またドローンも飛び、いろいろな状況が起きた場合、これはまた別の見方ができると考えます。
〇岡田委員 今の答弁では、とても存立危機事態について限定的に考えるということにはならないですよね。非常に幅広い裁量の余地を政府に与えてしまうことになる。だから、私は懸念するわけですよ。
もちろん、日本の艦船が攻撃を受ければ、これは武力行使を受けたということになって、存立危機事態の問題ではなく、武力攻撃事態ということになるんだと思います。そういう場合があると思いますけれども、日本の艦船が攻撃を受けていないときに、少し回り道をしなければいけなくなるという状況の中で存立危機事態になるということは、私はなかなか想定し難いんですよね。そういうことを余り軽々しく言うべきじゃないと思うんですよ。
例えば、自民党副総裁の麻生さんが昨年一月にワシントンで、中国が台湾に侵攻した場合には存立危機事態と日本政府が判断する可能性が極めて高いという言い方をされています。安倍さん自身も、台湾有事は日本有事。ここで有事ということの意味がよく分かりませんけれども、何か非常に軽々しく私は問題を扱っているんじゃないかというふうに思うんですね。
もちろん、存立危機事態ということになれば日本も武力行使するということになりますから、それは当然その反撃も受ける。そうすると、ウクライナやガザの状況を見ても分かるように、地域がどこになるか分かりません、あるいは全体になるかもしれませんが、極めて厳しい状況が国民にもたらされるということになります。そういう事態を極力力を尽くして避けていかなきゃいけない、それが私は政治家の最大の役割だというふうに思うんですね。
それを軽々しく、なるかもしれないとか、可能性が高いとか、そういう言い方が与党の議員やあるいは評論家の一部から、自衛隊のOBも含むんですが、私は述べられていることは極めて問題だと思うんですが、総理、いかがですか。
〇高市内閣総理大臣 麻生副総裁の発言については内閣総理大臣としてはコメントいたしませんが、ただ、あらゆる事態を想定しておく、最悪の事態を想定しておくということは非常に重要だと思います。
先ほど有事という言葉がございました。それはいろいろな形がありましょう。例えば、台湾を完全に中国北京政府の支配下に置くようなことのためにどういう手段を使うか。それは単なるシーレーンの封鎖であるかもしれないし、武力行使であるかもしれないし、それから偽情報、サイバープロパガンダであるかもしれないし、それはいろいろなケースが考えられると思いますよ。だけれども、それが戦艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます。
実際に発生した事態の個別具体的な状況に応じて、政府が全ての情報を総合して判断するということでございます。実に武力攻撃が発生したら、これは存立危機事態に当たる可能性が高いというものでございます。法律の条文どおりであるかと思っております。
〇岡田委員 ちょっと最後の表現がよく分からなかったんです。武力攻撃が発生したら存立危機事態に当たる、どういう意味ですか。武力攻撃が誰に発生することを言っておられるんですか。
〇高市内閣総理大臣 武力攻撃が発生をして、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合という条文どおりでございます。
〇岡田委員 だから、我が国の存立が脅かされるかどうか、それから国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があるかどうか、その判断の問題ですね。それをいろいろな要素を勘案して考えなきゃいけないという総理の答弁では、これは規範としての、条文としての意味がないんじゃないかと思うんですよ。もっと明確でなければ、結局どれだけのこともできてしまうということになりかねないと思うんですね。
もう一つ申し上げておくと、これは朝鮮半島有事も含めて近隣で有事が発生した場合に、日本国政府として最もやらなきゃいけないことは何か。それは、そこに住む在留邦人を無事に安全なところに移動させるということがまず必要になると思うんですね。でも、自らが存立危機事態であるといって武力行使したら、そういうこともより困難になってしまう可能性が高いじゃないですか。だから、余り軽々に武力行使、武力行使と私は言うべきじゃないと思うんですが、いかがですか。
〇高市内閣総理大臣 そういう事態が起きたときに邦人救出をする、これが我が国にとって最大の責務でもあり、優先事項でもあります。ただ、そのときにも安全を確保しなきゃいけないというのは事実でございます。
軽々に武力行使、武力行使と言うとおっしゃいますけれども、最悪の事態も想定しておかなければならない。それほどいわゆる台湾有事というものは深刻な状況に今至っていると思っております。実際に発生した場合にどういうことが起こっていくのか、そういうシミュレーションをしていけば、最悪の事態というものはこれは想定しておかなきゃいけないということでございます。即これを存立危機事態だと認定して、日本が武力行使を行うということではございません。
https://www.katsuya.net/topics/article-10543.html
https://archive.is/7htlB#selection-1561.1-1462.298
〇岡田委員 新しい外交を切り開きたいという総理の思いは分かります。だけれども、前任者たちに対する敬意というものもしっかり持ちながらやっていただきたいというふうに思います。
さて、二番目の存立危機事態について、少し時間をかけて議論したいというふうに思っています。
実は、十年前にこの法律ができたときに、私は野党の代表でした。そのときの私の思いを申し上げますと、従来の個別的自衛権では対応できない事例があるということは認識していました。
例えば、もう既に米軍が戦っているときに、米軍と自衛隊が共同で対処している、米艦が攻撃されたときに、自衛隊は、日本自身は武力攻撃を受けていないという段階で、それを放置するというわけにはいきませんから、これをどういうふうに説明すべきか。
一つは、個別的自衛権の解釈を拡張するという考え方。もう一つは、集団的自衛権を制限して認めるという考え方。両様あり得るなというふうに思っておりました。自民党の中には、全面的な集団的自衛権を認めるべきだという議論もかなりあったと思うんです。
そういう中で、安倍さんが出してきたのが、この存立危機事態という考え方でした。我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態ということであります。
我々は、この概念がかなり曖昧であると。例えば、我が国の存立が脅かされる、これはどういう意味だろうか。それから、国民の基本的権利が根底から覆される明白な危険、これも非常に抽象的な概念ですね。だから、武力攻撃事態みたいに我が国が攻撃されたというものと比べるとかなり抽象的な概念ですから、これで果たして限定になっているんだろうかと。
多くの法制局長官経験者とか著名な憲法学者が、違憲ではないかというふうに疑義を呈されました。
そういう中で、私たちもこの法案には反対をしたということであります。
ただ、あれから十年たって、いろいろな事実が積み重なっていることも事実。白紙でゼロから議論し直すことはできないということも分かっています。そういう中でどういう対応をすべきかということは、これから党の中でしっかり議論していきたい。この法文で本当に憲法違反にならないのかどうか、そして運用はどうなのか、そういうことは議論していきたい。これが今の私たちの基本的スタンスであります。
そこで、総理にまず確認したいのは、この存立危機事態、いわゆる限定した集団的自衛権の行使ですね、これ以外の集団的自衛権の行使、つまり、限定のない集団的自衛権の行使は違憲である、これは従来の政府の考え方だったと思いますが、そういう考え方は維持されていますか。
〇高市内閣総理大臣 憲法上、我が国による武力の行使が許容されるのは、いわゆる三要件を満たす場合の自衛の措置としての武力の行使に限られます。そして、この三要件は国際的に見ても他に例のない極めて厳しい基準でありまして、その時々の内閣が恣意的に解釈できるようなものではないと思っております。
先ほど来、存立危機事態における武力の行使についてお話がございましたが、これも限定された集団的自衛権の行使、すなわち、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置としての武力の行使に限られていて、集団的自衛権の行使一般を認めるものではなく、他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められないという政府の見解に変更はございません。
〇岡田委員 要するに、憲法違反になってしまうということですね、認められないということは。この存立危機事態を踏み外したようなことがあると、これは法律違反だけではなくて憲法違反になるわけです。
ということは、この存立危機事態の運用というのは、やはり厳格に、限定的に考えなきゃいけない、それを踏み外したときには単に法令違反ではなくて憲法違反になる、そういう認識でよろしいですね。
〇岡田委員 それでは次に、平成二十七年九月十四日の当時の公明党の山口代表と安倍総理、法制局長官との特別委員会におけるやり取り、ここに持ってまいりました。
読み上げますと、これは抜粋ですけれども、武力の行使は、これまでどおり、自衛隊法八十八条に規定された我が国防衛のための必要最小限度の武力の行使にとどまるもの。それから、被害国を含めた他国にまで行って戦うなどという海外での武力の行使を認めることになるといったものではございません。存立危機事態に該当するのにかかわらず武力攻撃事態等に該当しないということはまずないのではないかと考えています。
つまり、これは、存立危機事態と武力攻撃事態というのはほぼ重なり合うということを言っているわけですね。
こういう法制局長官の当時の答弁ですが、法制局長官にお聞きしたいと思いますが、現在でもこの答弁を維持されていますか。
委員御指摘のとおり、平成二十七年九月十四日、参議院、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会におきまして、当時、横畠内閣法制局長官はこのように述べました。
新三要件の下で認められる武力の行使は、これまでどおり、自衛隊法第八十八条に規定された我が国防衛のための必要最小限度の武力の行使にとどまるものであり、他国防衛の権利として観念される国際法上の集団的自衛権一般の行使を認めるものではなく、また、我が国防衛のための必要最小限度を超える、被害国を含めた他国にまで行って戦うなどといういわゆる海外での武力の行使を認めることになるといったものではございません。
また、さらに、
いわゆるホルムズ海峡の事例のように、他国に対する武力攻撃それ自体によって国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことになるという例外的な場合が考えられるということは否定できませんが、実際に起こり得る事態というものを考えますと、存立危機事態に該当するのにかかわらず武力攻撃事態等に該当しないということはまずないのではないかと考えられると述べております。
このように承知しておりますが、これらの答弁で述べられました見解に変わりはございません。
〇岡田委員 当時の与党であった公明党の委員長と、そして総理、内閣法制局長官のやり取り、これは非常に重みのあるものですね。
今、法制局長官は答弁を維持しているというふうにおっしゃったわけですが、総理も同じですね。
〇高市内閣総理大臣 法制局長官が述べられたとおり、平成二十七年九月十四日の委員会で当時の長官が述べられた見解について、変わりはございません。
〇岡田委員 それでは、そういった答弁があるにもかかわらず、私は、一部の政治家の非常に不用意な発言が相次いでいるというふうに思うわけですね。
例えば、失礼ですが、高市総理、一年前の総裁選挙でこう述べておられるんですよ。中国による台湾の海上封鎖が発生した場合を問われて、存立危機事態になるかもしれないと発言されました。
私も、絶対ないと言うつもりはないんです。だけれども、これはどういう場合に存立危機事態になるというふうにお考えだったんですか。お聞かせください。
〇高市内閣総理大臣 台湾をめぐる問題というのは、対話により平和的に解決することを期待するというのが従来からの一貫した立場でございます。
その上で、一般論として申し上げますけれども、今、岡田委員も、絶対にないとは言えないとおっしゃっておられました。いかなる事態が存立危機事態に該当するかというのは、実際にその発生した事態の個別具体的な状況に即して、全ての情報を総合して判断しなければならないと考えております。
存立危機事態の定義については、ここで申し述べますと時間を取りますが、事態対処法第二条第四項にあるとおりでございます。
〇岡田委員 海上封鎖をした場合、存立危機事態になるかもしれないというふうにおっしゃっているわけですね。
例えば、台湾とフィリピンの間のバシー海峡、これを封鎖されたという場合に、でも、それは迂回すれば、何日間か余分にかかるかもしれませんが、別に日本に対してエネルギーや食料が途絶えるということは基本的にありませんよね。だから、どういう場合に存立危機事態になるのかということをお聞きしたいんですが、いかがですか。
〇高市内閣総理大臣 これはやはり他国に、台湾でしたら他の地域と申し上げた方がいいかもしれませんが、あのときはたしか台湾有事に関する議論であったと思います。台湾に対して武力攻撃が発生する。海上封鎖というのも、戦艦で行い、そしてまた他の手段も合わせて対応した場合には武力行使が生じ得る話でございます。
例えば、その海上封鎖を解くために米軍が来援をする、それを防ぐために何らかのほかの武力行使が行われる、こういった事態も想定されることでございますので、そのときに生じた事態、いかなる事態が生じたかということの情報を総合的に判断しなければならないと思っております。
単に民間の船を並べてそこを通りにくくするといったこと、それはそういった存立危機事態には当たらないんだと思いますけれども、実際に、これがいわゆる戦争という状況の中での海上封鎖であり、またドローンも飛び、いろいろな状況が起きた場合、これはまた別の見方ができると考えます。
〇岡田委員 今の答弁では、とても存立危機事態について限定的に考えるということにはならないですよね。非常に幅広い裁量の余地を政府に与えてしまうことになる。だから、私は懸念するわけですよ。
もちろん、日本の艦船が攻撃を受ければ、これは武力行使を受けたということになって、存立危機事態の問題ではなく、武力攻撃事態ということになるんだと思います。そういう場合があると思いますけれども、日本の艦船が攻撃を受けていないときに、少し回り道をしなければいけなくなるという状況の中で存立危機事態になるということは、私はなかなか想定し難いんですよね。そういうことを余り軽々しく言うべきじゃないと思うんですよ。
例えば、自民党副総裁の麻生さんが昨年一月にワシントンで、中国が台湾に侵攻した場合には存立危機事態と日本政府が判断する可能性が極めて高いという言い方をされています。安倍さん自身も、台湾有事は日本有事。ここで有事ということの意味がよく分かりませんけれども、何か非常に軽々しく私は問題を扱っているんじゃないかというふうに思うんですね。
もちろん、存立危機事態ということになれば日本も武力行使するということになりますから、それは当然その反撃も受ける。そうすると、ウクライナやガザの状況を見ても分かるように、地域がどこになるか分かりません、あるいは全体になるかもしれませんが、極めて厳しい状況が国民にもたらされるということになります。そういう事態を極力力を尽くして避けていかなきゃいけない、それが私は政治家の最大の役割だというふうに思うんですね。
それを軽々しく、なるかもしれないとか、可能性が高いとか、そういう言い方が与党の議員やあるいは評論家の一部から、自衛隊のOBも含むんですが、私は述べられていることは極めて問題だと思うんですが、総理、いかがですか。
〇高市内閣総理大臣 麻生副総裁の発言については内閣総理大臣としてはコメントいたしませんが、ただ、あらゆる事態を想定しておく、最悪の事態を想定しておくということは非常に重要だと思います。
先ほど有事という言葉がございました。それはいろいろな形がありましょう。例えば、台湾を完全に中国北京政府の支配下に置くようなことのためにどういう手段を使うか。それは単なるシーレーンの封鎖であるかもしれないし、武力行使であるかもしれないし、それから偽情報、サイバープロパガンダであるかもしれないし、それはいろいろなケースが考えられると思いますよ。だけれども、それが戦艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます。
実際に発生した事態の個別具体的な状況に応じて、政府が全ての情報を総合して判断するということでございます。実に武力攻撃が発生したら、これは存立危機事態に当たる可能性が高いというものでございます。法律の条文どおりであるかと思っております。
〇岡田委員 ちょっと最後の表現がよく分からなかったんです。武力攻撃が発生したら存立危機事態に当たる、どういう意味ですか。武力攻撃が誰に発生することを言っておられるんですか。
〇高市内閣総理大臣 武力攻撃が発生をして、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合という条文どおりでございます。
〇岡田委員 だから、我が国の存立が脅かされるかどうか、それから国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があるかどうか、その判断の問題ですね。それをいろいろな要素を勘案して考えなきゃいけないという総理の答弁では、これは規範としての、条文としての意味がないんじゃないかと思うんですよ。もっと明確でなければ、結局どれだけのこともできてしまうということになりかねないと思うんですね。
もう一つ申し上げておくと、これは朝鮮半島有事も含めて近隣で有事が発生した場合に、日本国政府として最もやらなきゃいけないことは何か。それは、そこに住む在留邦人を無事に安全なところに移動させるということがまず必要になると思うんですね。でも、自らが存立危機事態であるといって武力行使したら、そういうこともより困難になってしまう可能性が高いじゃないですか。だから、余り軽々に武力行使、武力行使と私は言うべきじゃないと思うんですが、いかがですか。
〇高市内閣総理大臣 そういう事態が起きたときに邦人救出をする、これが我が国にとって最大の責務でもあり、優先事項でもあります。ただ、そのときにも安全を確保しなきゃいけないというのは事実でございます。
軽々に武力行使、武力行使と言うとおっしゃいますけれども、最悪の事態も想定しておかなければならない。それほどいわゆる台湾有事というものは深刻な状況に今至っていると思っております。実際に発生した場合にどういうことが起こっていくのか、そういうシミュレーションをしていけば、最悪の事態というものはこれは想定しておかなきゃいけないということでございます。即これを存立危機事態だと認定して、日本が武力行使を行うということではございません。
〇岡田委員 ですから、慎重な運用が求められる。やはり大事なのは、まずは在留邦人を無事に移動させること。これは台湾有事に限りません。朝鮮半島有事でも同じだと私は思います。
それから、有事がもし発生した場合に、例えば近隣の国々、非常に私たちにとって大事な国々です、あるいは地域も含めてですね、そういうときに大量の避難民が発生する、恐らく数十万、数百万の単位で発生するということになります。それを無事に移動させて日本が引き取るということも極めて重要だと思うんですね。ウクライナ危機のときに、ドイツを始めとするヨーロッパの国々が避難民をしっかりと受け止めたということですが、同じようなことが起こる可能性がある。そのときに日本自身が武力行使をしていたら、そういう Permalink | 記事への反応(0) | 22:27
colabo弁護士の太田啓子による11の発言を訴えており「最高裁まで戦う」とイキっていたのになぜか地裁だけでしっぽ巻いて逃亡し完全敗訴
太田は暇空騒動について「日本の病理レベルの性差別の表れ」と評して訴えられたが、控訴しなかったので今後暇空騒動はそう称しても良いだろう
・支離滅裂
・娯楽としてやってる
・一片の真理もない
・恣意的な切り取り
増田の中に、「日本の病理レベルの性差別の表れとして支離滅裂に娯楽として性搾取に声をあげる事へのバッシングをやってる恣意的な切り取りによって一片の真理もなく対行政暴力によって事業の継続自体を潰そうとしてる」奴まさかいないよねー!???
原告はcolaboらに対して事実と異なる情報発言を複数行っており、これがインターネット上で拡散されることにより、Colaboらの業務に支障が生じていること(上記(2))、被告がColaboらの訴訟代理人弁護士として、これらの発言等を行ったこと(前提事実(3))を踏まえれば、これらが論評としての域を逸脱したものであるとはいえない。
これが判決文
さて、2番目の存立危機事態について、少し時間をかけて議論したいというふうに思っています。
実は、10年前にこの法律ができた時に、私は野党の代表でした。その時の私の思いを申し上げますと、従来の個別的自衛権では対応できない事例があるということは認識していました。例えば、もうすでに米軍が戦っている時に米軍と自衛隊が共同で対処している。で、米軍が攻撃された時に自衛隊は、日本自身は武力攻撃を受けていないという段階で、それを放置するというわけにはいきませんから、これをどういうふうに説明すべきかと。
1つは個別的自衛権の解釈を拡張するという考え方で、もう1つは集団的自衛権を制限して認めるという考え方。両方ありうるなというふうに思っておりました。
自民党の中には全面的な集団的自衛権を認めるべきだという議論も、かなりあったと思うんです。そういう中で安倍さんが出してきたのは、この存立危機事態という考え方でした。
「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」ということであります。
我々は、この概念がかなり曖昧であると。例えば、「我が国の存立が脅かされる」、これはどういう意味だろうか。それから「国民の基本的権利が根底から覆される明白な危険」、これも非常に抽象的な概念ですね。だから、武力攻撃みたいに国に攻撃されるものと比べると、かなり抽象的な概念ですから、これで果たして限定になっているんだろうかと。
多くの法制局長官経験者とか著名な憲法学者が違憲ではないかというふうに異議を呈されました。そういう中で私たちもこの法案には反対をしたということであります。
ただ、あれから10年経って、いろんな事実が積み重なっていることも事実。ゼロから議論し直すことはできないということも分かっています。
そういう中でどういう対応をすべきかということは、これからこの中でしっかり議論していきたいと。この法文で本当に憲法違反にならないのかどうか。そして運用はどうなのか。
そういうことは議論していきたい。これが今の私たちの基本的スタンスであります。
そこで総理にまず確認したいのは、この存立危機事態、いわゆる限定した集団的自衛権の行使ですね。それ以外の集団的自衛権の行使、つまり限定のない集団的自衛権の行使は違憲である。これは従前からの政府の考え方だと思いますが、そういう考え方は維持されていますか。
憲法上、我が国による武力の行使が許容されるのは、いわゆる三要件を満たす場合の自衛の措置としての武力の行使に限られます。
そして、この三要件は国際的に見ても他に例のない、極めて厳しい基準でありまして、その時々の内閣が恣意的に解釈できるようなものではないと思っております。
先ほど存立危機事態における武力の行使についてお話がございましたが、これも限定された集団的自衛権の行使、すなわち、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置としての武力の行使に限られていて、集団的自衛権の行使一般を認めるものではなく、他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められないという政府の見解に変更はございません。
認められないということは、この存立危機事態を踏み外したようなことがあると、これは法律違反だけではなくて憲法違反になるわけです。
ということは、やはり、この存立危機事態の運用というのはやはり限定的に考えなきゃいけない。そして、それを踏み外した時には単に法令違反ではなくて憲法違反になる。そういう認識でよろしいですね。
それでは次にですね、平成27年9月14日の当時の公明党の山口代表と安倍総理、法制局長官との特別委員会におけるやり取り、ここに持ってまいりました。
読み上げますと、抜粋ですけれども、「武力の行使はこれまでどおり自衛隊法88条に規定された我が国防衛のための最小限度の武力の行使にとどまるもの。他国まで行って戦うなどという海外での武力の行使を認めることになるといったものではございません」「存立危機事態に該当するのにかかわらず武力攻撃事態等に該当しないということはまずないのではないかと考えています」。
つまりこれは、存立危機事態と武力攻撃事態というのはほぼ重なり合うということを言ってるわけですね。こういう法制局長官の当時の答弁ですが、法制局長官にお聞きしたいと思いますが、現在でもこの答弁は維持されていますか。
お答えいたします。委員ご指摘のとおり、平成27年9月14日参議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会におきまして、当時の横畠内閣法制局長官はこのように述べました。
「新三要件の下で認められる武力の行使は、これまでどおり、自衛隊法第八十八条に規定された我が国防衛のための必要最小限度の武力の行使にとどまるものであり、他国防衛の権利として観念される国際法上の集団的自衛権一般の行使を認めるものではなく、また、我が国防衛のための必要最小限度を超える、被害国を含めた他国にまで行って戦うなどという、いわゆる海外での武力の行使を認めることになるといったものではございません」。
またさらに、「いわゆるホルムズ海峡の事例のように、他国に対する武力攻撃それ自体によって、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が国民に及ぶことになるという例外的な場合が考えられるということは否定できませんが、実際に起こり得る事態というものを考えますと、存立危機事態に該当するのにかかわらず武力攻撃事態等に該当しないということはまずないのではないかと考えられると思います」と述べております。
当時の与党であった公明党の委員長と、そして総理、内閣法制局長官のやり取り。これは非常に重みのあるものですね。今、法制局長官は答弁を維持しているというふうにおっしゃったわけですが、総理も同じですね。
はい。それでは、そういった答弁があるにもかかわらず、私は一部の政治家の非常に不用意な発言が相次いでいるというふうに思うわけですね。
例えば失礼ですが、高市総理。1年前の総裁選挙でこう述べられているんですよ。中国による台湾の海上封鎖が発生した場合を問われて、「存立危機事態になるかもしれない」と発言されました。私も絶対ないと言うつもりはないんです。
だけど、これどういう場合にそうなるというふうにお考えだったんですか。お聞かせください。
台湾を巡る問題というのは台湾により平和的に解決することを期待するというのが従来の一貫した立場でございます。その上で一般論として申し上げますけれども、今、岡田委員も「絶対にないとは言えない」とおっしゃっておられました。
いかなる事態が存立危機事態に該当するかというのは、実際に発生した事態の個別具体的な状況に即して、全ての情報を総合して判断しなければならないと考えております。存立危機事態の定義については、事態対処法第2条第4項にあるとおりでございます。
海上封鎖をした場合、存立危機事態になるかもしれないというふうにおっしゃっているわけですね。
例えば台湾とフィリピンの間のバシー海峡。これを封鎖されたという場合に、迂回すれば何日間か余分にかかるかもしれませんが、別に日本に対してエネルギーや食料が途絶えるということは基本的にありませんよね。
これは、やはり他国に、台湾でしたら他の地域と申し上げたほうがいいかもしれませんが、あの時は確か台湾有事に関する議論であったと思います。
その台湾に対して武力攻撃が発生する。海上封鎖というのも、これは戦艦で行い、そしてまた他の手段も合わせて対応した場合には武力行使が生じうる話でございます。例えばその海上封鎖を解くために米軍が来援をすると、それを防ぐために何らかの他の武力行使が行われる。
こういった事態も想定されることでございますので、その時に生じた事態、いかなる事態が生じたかということの情報を総合的に判断しなければならないと思っております。単に民間の船を並べてそこを通りにくくするといったこと、それは存立危機事態には当たらないんだと思いますけれども、実際にこれがいわゆる戦争という状況の中での海上で様々起きた場合、これはまた別の見方ができると考えます。
とても存立危機事態について限定的に考えるということにはならないですよね。
非常に幅広い裁量の余地を政府に与えてしまうことになる。だから私は懸念するわけですよ。
もちろん日本の艦船が攻撃を受ければ、これは武力攻撃を受けたということになって、存立危機事態の問題ではなく武力攻撃事態ということになるんだと思います。
そういう場合があると思いますけれども、日本の艦船が攻撃を受けていない時に、少し回り道をしなければいけなくなるという状況の中で危機になるということは、私はなかなか想定しがたいんですよね。そういうことはあまり軽々しく言うべきじゃないと思うんですよ。
例えば自民党副総裁の麻生さんが昨年1月にワシントンで、中国が台湾に侵攻した場合には存立危機事態と日本政府が判断する可能性が極めて高いという言い方をされています。安倍さん自身も「台湾有事は日本有事」。ここで有事ということの意味がよくわかりませんけれども、非常に軽々しく問題を扱っているんじゃないかというふうに思うんですね。
存立危機事態ということになれば日本も武力行使するということになりますから、それは当然その反撃も受けると。そうすると、ウクライナやガザの状況を見ても分かるように、地域がどこになるか分かりません。あるいは全体になるかもしれませんが、極めて厳しい状況が国民にもたらされるということになります。
そういう事態を極力避けていかなきゃいけない。それが私は政治家の最大の役割だというふうに思うんですね。
それを「なるかもしれない」とか「可能性が高い」とか、そういう言い方が与党の議員や評論家の一部、自衛隊OBも含め述べられていることは、極めて問題だと思うんですが、総理いかがですか。
麻生副総裁の発言については、内閣総理大臣としてはコメントをいたしませんが、ただ、あらゆる事態を想定しておく、最悪の事態を想定しておくということは非常に重要だと思います。
先ほど有事という言葉がございました。それはいろんな形がありましょう。例えば台湾を統一、完全に中国北京政府の支配下に置くようなことのためにどういう手段を使うか。それは単なるシーレーンの封鎖であるかもしれないし、武力行使であるかもしれないし、偽情報、サイバープロパガンダであるかもしれない。いろんなケースが考えられると思います。
けれども、それが戦艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケースであると私は考えます。実際に発生した事態の個別具体的な状況に応じて、政府が全ての情報を総合して判断するということでございます。
武力攻撃が発生したら、これは存立危機事態に当たる可能性が高いというものでございます。法律の条文どおりであるかと思っております。
ちょっと最後の表現よくわからなかったんで、武力行使が発生したら、武力攻撃が発生したら存立危機事態に当たるというのはどういう意味ですか。
武力攻撃が誰に発生することを言っとられるんですか。
「武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」という条文どおりでございます。