はてなキーワード: 美談とは
美談にしてはいけないんだろうけど、20歳になるまでの間、クリエイターが命削って作った数々の作品を楽しめる時代で本当に良かった。
多少は「AI」による補正に頼ったものはあると思うが、多くの場合は、そこには間違いなく「楽をしたい」以外のAIを使う意図があったと信用できるし、どれだけ駄作や愚作と低評価されていても、何かしらのテーマやメッセージが込められてると確信できるし、自分なりの解釈というものができた。
それらクリエイターに対する信用や作品の楽しみは、生成AIの登場で完全に失ったと思う。
もしかしたら、この部分はAIで作った部分かもしれない…と一度でも思ってしまうと、解釈する必要性を感じなくなる。作り手からすれば、AIに任せればいい程度のどうでもいい事柄ということなのだから考えるだけ無駄だから。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1d45340987765f792615fb64e909b3e57bc7e3a6?page=1
この死んだ中山奏琉って人は、
差別に加担したくありませんよね?
デカすぎまとめ
https://note.com/shiny_peony887/m/mb8c91b5d2851
女版ホモやん
https://x.com/nkym7856/status/1964614364876738716
https://x.com/nkym7856/status/1964826112514728256
昨日凸って来た女さん垢消ししてるやんけ!
『ペリリュー-楽園のゲルニカ-』や『この世界の片隅に』といった、戦争を描いた近年のヒット作に関して「反戦を主張しないのがいい」という評価を頻繁に見掛けて、実に複雑な気持ちになる。
メッセージ性がないと駄目どころか、メッセージ性がないのがいいという評価。世間にはこの手の評価が広く受け入れられているため、それよりもずっと少ない、作品にメッセージ性を求める意見が許せない人達は随分と身勝手だなと思う。
もっとも『この世界の片隅に』については、原作者はともかく映画の監督の方は意外としっかり考えている人なのを後日知って印象が変わったが。『ペリリュー』の映画の方は予告編を見る限り、友情を前面に押し出した美談にするように見えるんだよな…。
日本で戦争を描いた作品は反戦を謳いつつも日本側の被害ばかり描いていて加害を描かないという批判はよく見掛けるけれど、
個人的には被害ばかり描いても別にいいと思うんだよね。こんな悲惨な目に遭いたくないから戦争は絶対にしてはならない、でも別にいいと思う。ただ、その被害をもたらしたのは誰なのか、どうしてそのような被害に遭ったのか、については描くべきだと思う。
それに加害を描いたところで、その加害を単に末端の兵士による暴走として処理してしまったのでは、興味本位の露悪趣味になり下がる危険性もあると思うし。
どうも日本には戦争をまるで天災かのように捉えて、戦争犯罪についても震災下での犯罪等と同様、極限状況に追い詰められた結果と一般化してしまう人が多いように見受けられる。
『この世界の片隅に』の呉にしろ、『ペリリュー』のペリリュー島にしろ、何故その場所で被害が、加害が行われたのかというそもそもの理由が描かれていないように思う。
問題は加害を描かない事じゃない。責任の所在を追求しない、構造に目を向けない事ではないだろうか。
被害にしろ加害にしろ、日本側として一纏めに括った描き方には賛同できない。
先日徳川慶喜の子孫を名乗る人が新選組を無法者の集団と評して話題になったけれど。権力の頂点にいた者の責任について自覚が薄いと思った。そりゃ安全な場所にいて衣食住も保証されていたらお行儀良くいられるでしょうよ。そんな立場から配下の素行不良を責める事が如何に無神経で横暴である事か。
『ペリリュー』の「どうして」という回で、敗戦の知らせの後も徹底抗戦を呼び掛けて多くの部下を死なせた後に生き残り、島民に保護された島田少尉の、自分はどこから間違っていたのかという問い掛けがあったけれど。間違っていたのはこの人物個人ではなく、それに至る以前の日本政府の判断に拠るものでしょう。庶民が自己の責任を問う事は美談にも見えるけれど、権力者を免責する事にも繋がる。
戦後の話では何度か天皇にも言及されるけれど、単なるニュースの域を出ない。主人公達末端の兵士が飢餓や病気に苦しんだのも、人を殺す羽目になったのも、そもそもは天皇を中心とした軍国主義体制のせいなのにそこを突き詰めて問う様子はない。
その点『はだしのゲン』だと、天皇が悪い、戦争を翼賛した日本の庶民も悪い、原爆を落としたアメリカも悪い、末端の米兵は日本国民に対する加害者でもあるが彼等もまた被害者でもある……といった構造の問題に触れている。
ただ、『ペリリュー』にしろ『この世界の片隅に』にしろ、全体を見渡す目がないというのは当時の一般人の感覚としてはリアルなのかもしれない。2025年の現在ですら台湾有事を想定して短絡的な交戦論を唱える人がいるくらいであるし。まして当時は庶民の高等教育進学率も低く、情報を得る手段も限られていただろうから。
特に『ペリリュー』の主要人物である当時二十代の若者達にとっては、物心ついた頃から社会はそんなものであって疑念を差し挟むのは難しかったのかもしれない。主人公は名称変更後も「看護師」ではなく「看護婦」と呼んでいるような、アップデートの遅れた人物として描かれているし。
『はだしのゲン』は作者の分身である主人公は父親が反戦主義者家庭で、意識の高い家庭に生まれ育ったようだからな。
漫画はあくまでエンタメではあるし、一つの作品で全てを描き切る必要もないのだし。
本当の問題は作品それ自体というよりも、そこから読者が何を読み取るか、あるいは読み取らないか、だろうか。
はっきりとした反戦のメッセージを押し出していない作品ではあっても、戦争は怖い、戦争はするべきではない、くらいのシンプルなイメージは読み取れるのではないだろうか。それを読み取らないどころか正当化したり、他国攻撃の材料にする人間の多さが問題なんだよな。
小説は文字を目で追うだけではダメでしっかり読者が脳を使って想像を働かせる
それだけ読者の脳に対する影響が大きいからだと思う
漫画だと作者が「こういう世界観なんです」と答えを最初から用意してくれて、視覚情報によって読者の脳が興奮する
作者が与えてくれた絵をひたすら受け止めればいい
今、私は育児しながら読書(主に小説)の趣味も両立させたいと頑張っているが
子供が小学生になるまでは「育児は苦痛が9割」なんじゃないの?と思っている
子供が何か親の気に入らないことしたら、それが一歳の子供でもボコボコ殴って終わらせてた
昔の育児って頭が悪い大人にとってはものすごく有利だったと思う
だって子供をボコボコ殴ってもそれが躾したことになってたんだよ
「育ててやった恩があるんだから」と言って、老後の介護も子供に平気でさせてたんだよ!?
没入感と言う意味では小説の方が漫画を上回るんだなぁという話がしたかった
もちろん、読者がものすごく好きな漫画を読んでいるときと、読者があまり好きではない小説を読んでいるときでは前者の方が没入感はあると思う
漫画は読むのを中断したからといって、またそのページを読めば作者が用意してくれた世界を視覚情報としてそのまま与えられるけれど
小説だと、途中で邪魔が入ると、それまで文章から映像を想像していた脳みそにめちゃくちゃストレスがかかる
だから世の中のお母さんはXで育児垢を作って、スマホを弄ることを趣味にしてしまう
30になったとき、まさか自分がこんな底の底にまで沈むとは夢にも思わなかった。底って言うけどさ、この世の「底」ってどこやねん。地球の裏側か?どぶ板の下か?いやむしろ、引きこもりがちな布団の裏か?とか考えだすと止まらないけど、ともかく、どうしようもなくなって「もう終わりや」と思った。
「もうあかん、死ぬしかない」そう思った瞬間、不思議と心が軽くなったような、魂がひとつ脱皮して「一回死んだつもり」になった。死んだらなんでもできるやろ、幽霊に国籍も戸籍もいらんし、と開き直った。むしろ、生きてるのが仮やろ。本体はもうどっか失踪してるかも知れんし。
それからやで、地面ぺたぺた這って「這い上がる」っちゅう美談でもなんでもなく、ただただぼーっとしながらチラシ裏みたいな日々を過ごしていた。なのに、気づけば「ん?結構進んでない?」ってなってて、階段一歩ずつ昇ってる猫みたいな自分に気づく。しかも、「俺、意外とやったらできるやん」という謎の手応え。あとで冷静になると「いや、お前、全然すごないで」とツッコミ入れたくなるけど、その瞬間はなぜか無敵感に包まれてたんや。
「不安」なんていうのも、そもそも実体があるんか?目で見たことあるやつ、手ぇ挙げて。ないやろ。頭のなかで増殖する藻みたいなもん。やってみたら、大体なんとかなるし、なんともならんことは、始めから誰にもなんともできんねん。
周囲の雑音、あれは気にしだしたら人生詰む。足引っ張るやつ、どこにでもおるしな。本人らは「アドバイス」や「忠告」のつもりか知らんけど、どこぞの田舎の交差点で大声出してる爺さんと大差ない。そういうのは「無視力」を鍛えてスルーや。
ところで「自分で動く」って話やけど、これがなかなか難しい。だって外は寒いしな、雨も降るし、家を出たら猫に威嚇されるし。けど、やっぱどんなにしんどくても自分で一歩なんかやってみるしかない。もし無理やと思ったら、さっさと退却。撤退もまた勇気。だらだら粘って依存したら、どのみち底の泥に吸い込まれるから。
依存、これがやっかい。なんだかんだ言い訳して「仕方なかった」とか言い出すやつ。まあ、それはそれで本人の人生やし、見ものやけどな。他人の人生に期待するほど、こっちも暇ちゃうし。
とまあ、そんなこんなで、やっと今この文章を書けるくらいにはなった。ほんま、人生ってやつは、気抜いたらすぐ裏切ってくる。と同時に、思ってたより雑に扱っても大丈夫やったりする。
例によってコンバインや乾燥機使わないで天日干しして「美味しい!」とか言っててマジでおわってる
いまだに大昔の「乾燥機は不味い!天日干しが美味しい!」を信じてるような農家で
みたいなこと言ってるの、もはやエセ科学農家かつカルト集団なんよ
もう乾燥機の温度管理なんて当たり前にできるので、乾燥機使って米が胴割れしてるならそれは使い方が下手なだけ
温度管理と水分量の管理をちゃんとしとけば乾燥機の方が美味しいっていうのは大昔から当たり前で
天日干しは「好天に恵まれれば乾燥機と同等」っていうレベルのものでしかない
他の農作物だってセンサー使って徹底的に管理した方が美味しいっていうのは当たり前の世の中なのに
なぜか米だけはエセ科学が蔓延っててそれをテレビで美談として流すのは見ていて痛々しい
コンバイン使わないのは田んぼにもよるんだけど、そういう農家でも刈り取った稲をコンバインに突っ込んで籾殻にして乾燥機にぶち込むからね
ぐえー死んだンゴの人が女叩きしてたのに美談にされて顔まで晒されて可哀想というツイートが叩かれて非公開になってた
亡くなった後に好き勝手におもちゃにされて顔を晒されるのは普通に嫌では、ネットミームとして潔いから面白いんであって過剰に持ち上げるのは違うってむしろ往年のインターネットの感覚だし
叩いてる男をみたらインターネットの面白さすら今はこんなちょっと嫌なやつが盛り上がってるだけなんだなと思ってニキが女叩きしてたという情報よりよっぽど萎えたわ
おい、現実から逃げるための美談ファンタジーを業界の標準みたいに自己放尿するんじゃねぇよ。
まず 「小学生で高校数学終えた」「中学生で黒字ビジネス」みたいな事例は、単なる例外値だ。平均でも中央値でもなく、ただのノイズ。
ノイズを母集団の仕様だと思い込む時点で、統計リテラシーが幼稚園児未満。
IT業界ってのはな、優秀なやつもいるが、大半は普通の学力・普通の生活・普通の能力だ。
むしろ業界を支えてるのは、そういう普通の人たちがひたすらコード書いて実装を積み上げてるからだ。
天才同士が戦ってる魔境みたいなイメージは、ただの自己放尿的な幻想だよ。
要するに「俺は凡人だから無理」って言い訳を、勝手な神話で薄めて飲みやすくしてるだけ。
お前が競う相手は天才の伝説じゃなくて、仕様書・工数・納期・バグの四天王だ。
IT業界はな、天才のサーカスじゃない。結果を出すか出さないかだけの、ただの労働市場だ。
天才伝説にビビってる時点で、まだリングにすら上がってねぇよ。
怖いなら怖いでいいが、せめて現実と幻想の区別くらいはつけて、自己放尿をやめるんだな。
以上だ。
見に行ったら全く事実と違った。コイツはなんでこんなことを書くんだろう?
というのはよくあるパターンだが、この場合は違うだろう。「女にだけタメ口で」云々と客観的事実かのように書いているが、実際には「そういう言いがかりをつけてる(そしてあっさり否定されてる)奴がいる」というだけ。他の「炎上」ポイントも同工であり、明らかにわざとやっている。X上の一方的な言い分を客観的事実として機械的に抜き書きしてるだけ。
推測だが、この増田自身がXでヨッピー氏に絡んで思うような反応を得られなかった有象無象の一人なのか、ヨッピー氏が平身低頭しないことが気に食わない(が、直接絡む度胸はない)ので腹癒せに書いてるかというあたりだろう。
こういう「1対多」のやりとりってどうやってもまともに機能せず、ヨッピーも適切なスタイルを見いだせてるとは到底言い難い。
全く事実ではないことが感動美談みたいに人気を集めてたので「実務者として知ってるのだがそんな事実はまったくないですよ」と水をさしたところ「人非人を叱りたい人」の行列ができてしまった。
たとえるなら、造り酒屋の杉玉は戦争犠牲者の鎮魂のためなんだよ!みたいな与太話がバズってて「いやうち酒蔵だけどアレは今年も新酒仕込みましたという意味の一種の縁起モノで…」と言ったら吊し上げ食らった感じ。
「なぜ抵抗するんだ!平身低頭して謝罪しろ!そうやって言い返すのが必死になっている証拠だ!」と言われ、面倒くさくなってやめたら「逃げた!」と言われる。
「1対多の平場の議論」がハードウェア的に可能になったかに見えても、実際には全く可能ではない。アホを排除する足切りや既出の主張を纏めるなどの制度・ルールがなければ文字通り話にならない。
無駄に言い添えておくと「自分もこんな感じで」とは「1対多」という要素についてであり、自分の場合同様にヨッピーの言い分は完璧に正しいとかいう話はしていない。
13万バズしているそのポスト。
一見美談に見えるけれど客観的にはムチュコたんを甘やかしてスポイルした迷惑男児ママによる教育の失敗以外の何物でもないよな
この人も当時はそれを普通に理解できていたんだろうに、自分も母親になると見る目が曇ってしまうのか
発達グレーとかはあんまり関係なくて、男児を甘やかす母親の問題だと思う
かよ🇩🇪
@dobrepivko
大学の時に発達障害グレーの男子がいて、なんかの際に「そんな事すると皆に嫌われるよ」と詰めたら、「でもお母さんは僕のことが好きだよ」と返ってきた。その時は笑い話にしてたけど、今になってお母さんの、「でも私はあなたが好きよ」と伝え続けたであろう日々を思って泣きそうになる。
ノアよりデカイ舟を操縦してんだからさ、急に面舵一杯なんっていっても曲がれないわけでさ。
そしたら一番まけてるとこででてきた高市さんリリーフつか、捨て石の扱いってことじゃないの?
喜ぶにも喜べないわ。
今頃、外国情勢も含めた首相教育みたいなのを高級官僚に受けてるんだろうけど、
今までそんなに勉強してなかった(ように見えるよ、対外的には)人が付け焼き刃で勉強してもちゃんと御神輿に乗れるのかなぁ?
最近、こりゃ絶対に採算がとれないだろうな~っておもいながら半年通ってた店がさ
そういうのは、やっぱり、みてりゃわかるんだよ、どうもバランスがおかしいな……って。
岸田は3年で石破は42日。42日って。
そんで次の人は馬車馬でやりますって。
年寄りはそんな馬車馬的に働かせたら死んじゃうか、ヘタすると余計に医療費喰うだけだし
はぁ。
追記:
・石破は1年あるとのブコメあざす。
・https://x.com/May_Roma/status/1974956975202152501 と
・https://x.com/mnm56767187/status/1974469978754879711 (承前)マジで馬車馬やれそうなのかい……ちょっと期待。株価も四万八千いったって。
・https://x.com/sayakatake/status/1975010914324938998 え、まだ受けてなかったの? 納税してない人は総裁なれないけど介護もさ……ぜひここは「人任せ」にしたいけど日本のサービスが「女性が働けるよになってない」体現者じゃん……
・https://x.com/thirtysmtggirl/status/1974522409035378721 えー役人ってマジすか~?ハナホジ。
・https://x.com/Terada_Onyou/status/1974591817103601915 えっそれも知らんかった、もっと教えようぜ。お札の5000円枠こんなにおるんか。
・(元ツイ不明)副総裁麻生80歳 16歳下の高市さんをしっかり支える美談になるのか?
・https://x.com/morningstar0212/status/1974828836056694791 馬車馬ってワークライフバランスあるんじゃないか説。そうきましたか。
・https://x.com/Sumikada009/status/1974782089338974288 ぐえー死んだンゴ
・https://x.com/kasumi_mbcsj/status/1974445422128337263 み、身内って手厳しいからさぁ……gkbr
・https://x.com/anzu_hozuki/status/1975060487084835255 「自分のやれることをなんでもする」アンティークの千早……
高市早苗が女性初の自民党総裁になって「歴史的!」って騒がれてるけど、誰も触れたがらない研究結果があるんだよね。
日本企業1990社を18年間追跡した研究で「女性取締役が増えると企業の利益率が下がる」って結果が出てる。これガチのデータ。しかもアメリカの研究者が140以上の研究をメタ分析したら「性別多様性と企業業績の関係はほぼゼロ」だって。
「女性活躍!」「多様性!」って叫んでる人たちには都合悪すぎて見えないフリしてるけど、マッキンゼーの「多様性で業績アップ」研究だって、よく見たら相関関係と因果関係ごっちゃにしてるだけ。
70年かけてやっと女性総裁?欧米から見たら「まだそこ?」って話だし、でも焦って女性登用して失敗したら「やっぱり女性は」って叩かれるの目に見えてる。詰んでない?
メディアは「ガラスの天井を破った!」って美談にしたがるけど、現実はそんな単純じゃない。性別で騒ぐより政策見ろよって話なのに、みんな「女性初」に釣られすぎ。
昔は年寄りだって働けるうちは畑に出て、家事をして、子や孫を支えた。だけど働けなくなったら「姥捨山」に置かれる。言い方は過激だけど、要は「人としての役割を終えた」とされていたわけだ。
現代はどうだろう。医療で無理やり寿命を引き延ばし、介護で寝たきりの身体を支え続ける。結果、現役世代の労働力が「出涸らしみたいな老人」の世話にどんどん吸われていく。しかもそれは「美談」として語られる。親を看取るのは立派なこと、介護職は尊い仕事。もちろん否定はしない。でも、現役世代が次世代を育てることより、老いを支えることに人手と資源を持っていかれる状況って、本当に健全なのかと思う。
未来に残る子供の世話より、先の短い老人の世話を優先してしまう社会。言葉を選ばず言えば、本末転倒だろう。
「生きる権利があるのは当然」って話と、「どこまで社会のリソースを割くのか」って話は、本当は分けて議論されるべきだ。けれど日本ではそれをタブーにしてしまったから、現役世代が介護に疲弊し、子供を産み育てる余力を失う。
今の制度は「どんなに本人が望んでも死なせない」という前提に立っている。結果、本人は延命される地獄を味わい、家族や介護者は精神的にも経済的にも摩耗する。誰一人幸せじゃない。
本人が「ここまででいい」と決断できる制度があれば、家族も社会も過剰な負担を背負わずに済む。安楽死は「命を軽んじる制度」ではなく、「命の終わり方を自分で決める制度」だ。
いっそ「国有安楽死公園」みたいなものを作ってしまえばいいと思う。
人生が詰んだと感じたらそこへ行く。静かな森の中で最期を迎え、死体は公務員が回収して火葬して無縁塚に埋葬する。誰にも迷惑をかけず、本人の尊厳を保ちながら死ぬ。現代版姥捨山だ。タブー視されがちな“死”のプロセスを、国家がオープンに支える。
もちろん今すぐ「姥捨山に戻れ」とは言わない。けれど、次世代を育てる余力を削ってまで、無理やり命を支える社会にどこか歪みがあるのは確かだ。そしてその歪みを是正する唯一の現実的な方法が、本人の意思で終末を選べる制度——安楽死制度の整備だと思う。
「子どもを産まないのは社会保障にタダ乗りしてる」って言う人、けっこういるよね。
でもそれっておかしくない?
それって同性愛の人とか、子どもを産めない女性とか、障害を持ってる人とかを否定するのと同じじゃん。
過剰な出生主義というか。
別にそういう気遣いを人質にしたいわけじゃなくて、言いたいのは「人間社会ってそもそも損得のバランスが公平じゃない」ってこと。
(もちろん子育てってめちゃくちゃ大変で難しくて重要なタスクだなって分かってる。社会負担が大きいなと思う気持ちは察するし、本当に尊敬する。)
結局、社会って「得」と「損」が入り混じってできてるんだと思う。だから「お互いさま」じゃん?
それに、子供を持つことや働くことを一切しない人だって、社会にはたくさんいるよ。
そう言う人が生きていけるのは素晴らしいことだと思う。
(博愛的なことが言いたいわけじゃなくて、障害があっても人生を全うできる社会の仕組みはシンプルにすごいと思う。大変なことは多いと思うけど。)
なのに、「子どもがいて幸せ」って言うのは許されるのに、「子どもがいなくて幸せ」って言うと叩かれるの、めっちゃ不思議。
なんで「子どもがいる幸せ」は美談になるのに、「子どもがいない幸せ」は自己正当化とかフリーライドとか言われちゃうの?
子持ちが写真をアップする時に、いちいち「子持ち"も"幸せですよ〜」なんて配慮と共に書く必要はないのに、子無しは配慮とか罪悪感を暗に示すことを求められるのは、なんか嫌な社会だな。
どっちもその人にとっての素直な幸せじゃん。
もちろん少子化の問題とかはある。(私が肯定する社会保障こそ、「世代交代」で維持されるものだからね)
でもそれって、個人の生き方や幸せの形を否定するための正論になるのか?すごく疑問に思う。
https://anond.hatelabo.jp/20250926225859
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私は元増田ではありません。
この両方が実現してこそ、多様な人々が幸せに生きられる社会だと思う。
「なぜいちいち子無しの幸せを主張するのか(そうすることでなぜ子持ちに攻撃するのか)」という議論になっていて、相互理解の難しさを感じた。
マイノリティがマイノリティであることを主張すると、なぜそれがオーソリティへの批判だと受け止められるのか。
相対化は人を不安にさせることは明白なので仕方ないにしても、
そろそろソレを恐れずに多様化を受け入れる社会にならないと、それこそ少子化による社会問題(社会福祉循環の破綻)は防げなくなるのでは?
最後に、
この増田を読んで傷付く人を無くしたいので言っておくと、子育てしてる人はすごいし、大変な中で子供たちに愛を向けるのは本当に尊いことだと思う。
走れメロスを日本の法律で解釈すると、ほとんどの登場人物が違法行為に引っかかる。
まず王様。
人質を取って友人を拘束するって時点で刑法220条の逮捕監禁罪にあたる。
裁判なしで処刑しようとしてるから、刑事訴訟法31条の適正手続(デュー・プロセス)も完全に無視。
死刑は刑法11条に規定されてるけど、もちろん法に基づく判決が前提で、王様が気分でやるのはただの殺人罪(刑法199条)
次にメロス。
期限内に戻らなかったら友が死ぬ、っていうのは契約的に見ると「第三者の生命を担保にした契約」で、民法90条の公序良俗違反で当然無効。
しかも不可抗力(天候とかトラブル)で遅延したらどうするかというリスク分配の条項がゼロ。
契約法的に完全アウト。
セリヌンティウスの立場も考えると、本人の同意があったとしても、強制力が背景にある時点で民法95条の意思表示の瑕疵にあたる。
現代法では「真正な同意」じゃないから人質としての合意は無効。
さらに人権条約でも人質は禁止されてるけど、日本国憲法でも13条の幸福追求権、31条の適正手続、36条の拷問・残虐刑禁止に全部引っかかる。
で、最後の感動シーン。
メロスが走って戻ってきて契約履行した、みたいに描かれてるけど、そもそも民法90条違反の無効契約だから履行する必要すらない。
セリヌンティウスからすれば「勝手に危険に巻き込まれて勝手に助けられただけ」で、不法行為責任(民法709条)で逆にメロスを訴えてもおかしくない。
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれる Permalink | 記事への反応(0) | 05:15
殴り書きなのでひっちゃかめっちゃか、話は行ったり来たり、誤字脱字チェックもしてないよ。、
私は健常者。
でも両親と兄弟は知的障害、統合失調、鬱、身体障害というザマ。
知的障害の気のある父親は、知的障害のある無垢な妹ばかりを可愛がり、私のやることなす事全て否定的。すぐ怒鳴るし、私のことが本当に気に入らない様子。
それは今も変わらないし、私の認知や性格が歪んだ原因だと思う。
正直、妹が嫌いだ。父親も嫌いだ。一緒に行動したくない。将来は介護責任とか知らない。飛行機の距離に嫁ぐ気でいる。だって私に介護してもらえると思ってんの?という扱いだったからね。仲良くする努力はしたしもう私も大人だから割り切る。
割り切りたい。そこでタイトルに戻る。
昔から2◯時間テレビとか、最近は障害者の苦労とそれを乗り越えた漫画とかのいかにも「苦労を乗り越えた主人公は素晴らしい」みたいな感動ポルノは世に蔓延ってる。
うん、そうだねー、がんばってるねー、よかったねー。
はい。
この手のってさ、きょうだい児透明化されてて、はらわたが煮え繰り返りそうになる。その他の作品群やドキュメンタリーが受け入れられている現実にゲロを吐きかけてやりたい気分だ。
「苦労を乗り越えた主人公」へのお涙頂戴。「はい、かんどうてきですねー、なけますねー。」、それは実際周りにヘンな人がいないから言える事だよね?
周りに障害者がいる人だってきょうだい児のこと透明化してるよね。
知的障害があって難しいことがよく分からずいつもニコニコしてる妹と比較し学校でもいじめらていた姉のことは可愛くないとまで言った、片方の娘が見えない私の父親みたいに。
見えてないよね、きょうだい児のこと。
もう私は児という歳でないけど。
家族やきょうだいのおかげで乗り越えられました!美談!だけじゃないんですよ。家族愛!無償の愛!ハンディキャップなんてものともしない愛!
そんなのは綺麗事ですよ。そういうこと言われるとさ、障害のある妹や糖質の父親のこと嫌いな私が人間失格みたいじゃないですか。
絶対子供産まない。この家系ですよ。知的障害は遺伝もあるらしいですよ。健常者が産まれるわけがない。少子化ガーとか言ってる人たち羨ましいよ。自分の子供が障害を持って産まれる可能性にすら及ばないゴキゲンな頭で。
なるか、反出生主義者。