はてなキーワード: 植民地主義とは
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
欧米人って、アジアのファンやクリエイターが恋愛二次創作を「cp」と呼ぶけど「ship」とは呼ばないことで非難してくるんだよね。
恋愛二次創作の文化は日本のコミケ参加者女性から個人サイト、pixivと受け継がれてきて韓国や中国にも拡散していった文化だけど、ここでも欧米人は植民地主義的なんだよね。日本アニメの恋愛二次創作についても北米の流儀(ハリポタ二次創作など英語圏の恋愛二次創作の流儀)である「ship」呼びを強要してくるんだから。やっぱりアフリカ人やネイティブアメリカンをとんでもない人数殺してきた大虐殺者の血が流れているのを実感するよね。すぐ侵略して殺そうとしてくるのが虐殺者の子孫である欧米人の本能だから文化防衛しなければならない。あの人たちは男女ともに顎がとてもいかついけど、テストステロン値が高くて凄まじい攻撃性を持っているんだろうね。そして東アジア人よりも白人のほうがIQに偏りがあって、上位層のIQは高いけど下位層がとても酷い。
我々の世代だと、物心付いてから成人するまでが概ね1980年代〜1990年代だ。
その頃の社会は今よりずっとリベラルで国際協調主義で、学校教育でもマスコミの風説でも日本の戦争責任を問う空気が存在した。
その中でも旭日旗はかつての大日本帝国の植民地主義を象徴するものとして、厳しい目で見られてきた。
国旗・国歌法が制定されたのは1999年。これは旭日旗ではなく日章旗(日の丸)を国旗として定めるものであったが、これですら議論はあった。
同い年なら知っている筈なんだが……。
なのに「突然」なんて認識が出てくるのが謎過ぎる。
寧ろ今世紀に入ってから、社会の右傾化が進んで肯定する人が増えた印象だ。
椎名林檎の年齢ならば、そうではない時代を知っている筈なんだが。
椎名林檎「ほんの20年前に敗戦した雰囲気」に違和感。「旭日旗が突然、問題視された」主張で、見落としている“もう一つの深い事情”とは?
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_69d5ee3be4b06b69686db9c3
聞く所によると椎名林檎は上級国民のお嬢様らしい。今の日本の富裕層の多くは、麻生氏のように戦前から続く支配階層の出だ。そういう家柄だと、自然と大日本帝国に親和性を持ち、太平洋戦争を正当化するような環境で育つであろう事は想像に難くない。親の教育や、進学先の学校もそういう思想を持つ所であった可能性は高い。
自分のように底辺庶民として生まれ、公立小中高でありきたりな教育を受け、テレビや新聞を見て育った人間とは、歴史認識にも価値観にも大きな隔たりがあるのだろう。
戦後80年、多くの歴史が語られてきた。ただ、大切な問いは、実はまだ十分に検討されていないのではないか。いま問われるべきは、なぜ、当時の人々があれほど熱心に戦争を支持したのかの解明ではないか――。そんな思いで、日本の外から日本近現代史を研究する歴史家、益田肇さんに聞いた。
人々にとっての戦争の「魅力」
――なぜ、「日本が戦争に突き進んだ理由」に向き合ったのですか。
「本当に問われるべき問いが、まだきちんと検討されていないのではないか、と感じていたからです。一般的な歴史では、『軍部が暴走し、国民は戦争に巻き込まれた』と、人々が『受け身』に描かれることが多い。まるで人々は、台風が通過するごとく戦争を耐え抜いたかのように。そこに抜け落ちているのは、戦争を支持する人々の存在です」
「その結果、人々が戦争を賛美もしていたという事実が見えにくくなっている。近年、そうした人々に焦点を当てた研究が増えてきましたが、私は、人々にとっての戦争の『魅力』に着目しました」
――魅力、ですか。
「当時、多くの普通の人々が熱心に、前向きに戦争や全体主義を抱きしめました。そうした人々をただ批判するのではなく、戦争の『魅力』を考えてみたいと思ったのです」
「日本が戦争に突き進んだ理由は、当時の政治や外交を追うだけでは捉えきれません。政治も外交も真空の中で行われたのではなく、時代の磁場の中で動いているからです。その磁場を知るため、普通の人々が戦争や全体主義の名のもと、いったい何を願い、何を争っていたのかを探りました」
――当時の人々の認識を知るのは大変そうです。
「多用したのは日記です。手紙や新聞、雑誌への投稿も。一人の日記に頼るより、大量に使うことで時代をあぶり出そうとしています。同じ時代に生き、同じように感じていた共時的なパターンは何か、と。断片では何かわからなくても、大量に並べるとイメージが浮かび上がってくる『モザイク画』のようなものです」
「すると、戦争そのものを支持していたというより、他の作用があって戦争支持を唱えていた人々の姿が浮かび上がってきた。身の回りでもともとあった別の『戦い』に、国防や愛国の論理が乗るとうまく回りだす――という様子が、断片を並べていくことで見えてきたのです」
――どんな断片でしょう。
「例えば、正月の日記に今年の決意として『忍耐、勤勉、努力』と書くような真面目一徹の神奈川県の青年がいました。幼い頃から男らしい兵士になるのが夢でしたが、徴兵検査で甲種合格できず、その途端、日記の記述は一層好戦的になる。対米開戦も喜ぶ。戦場には行けないが国内で頑張ると張り切り、勤務先で評価が高まった頃が一番誇らしげです。戦争の支持は、彼にとってはむしろ男らしくなりたい、ちゃんとした人物になりたいという思いの現れでした」
「東京の小学校長を務めていた女性は、1931年の座談会で振り返っています。洋服で道を歩いていた時に20回ほど嫌がらせを受け、『おいこら! 何のために洋服なんか着ているんだ、お前のやうな女がいるから国防を危くするのだ。今日は許してやるが今後もこんな格好をしたら、見つけ次第叩(たた)き殺すぞ』と通行人から怒鳴られた、と。注意した側にしてみれば、それまで不愉快に感じていたことを『国防』論理で批判できるようになったわけです」
「昭和維新運動に参加するような青年将校らにしても、口では国の行く末を憂えるような議論をしていても、実際に問題視しているのはジェンダー規範の緩みだったりすることがあります。例えば、二・二六事件首謀者の一人として刑死する鳥取県出身の青年は、若い頃の日記で国家が立ち行かなくなるといら立っていますが、よく読むと実際には、大正期に、女が男のようになり、男が女のようになりつつあることにいら立っている。いわく、『女は恋をするもの』『男は恋せらるるものである』ことが『自然』なのに、近ごろは『女権尊重の声』が高くなり、『女そのものが威張り出して』いて、男にも『女の様になった奴(やつ)が多い』、と記しています」
「似たようなことは財界でも。ある鉄道会社の社長は経済誌で『我が臨戦体制』に胸を張りますが、実際にしたのは一斉朝礼や幹部の定刻出社、全社的な清掃運動など、様々な業務の合理化と能率増進です。戦争が始まった途端、平時になかなかできなかった規律を整えることが戦時の論理で可能になった。同様に、各地の村での派手な結婚式や酒の飲み過ぎも、自粛の対象になりました」
――研究は大正時代(1912~26年)までさかのぼっています。
「大正期は基本的に『解放の時代』で、多くの人々が『らしさ』からの脱却を図っていました。女性が良妻賢母に当てはまらない生き方を求め始めた。女性が髪を切り、スカートをはいて、さっそうと街を歩けば、男性もオールバックの長髪にして香水をつける。労働運動や部落解放運動、朝鮮人の権利運動も活発になった」
「同時に、これらの解放の動きへの反発がくすぶり始め、1910年代後半には『世の中が乱れている』と感じる人が増えています。いわば男らしくない男、女らしくない女、日本人らしくない者たちへのいら立ちです。この底流を見ないと、31年の満州事変以降、戦争への支持が噴き出した背景が理解できない。それが後に噴出するエネルギーとなるからです」
「ここで重要なのは、手段と目的が往々にして逆転していたことです。例えば、『婦人よ家庭に還れ』『筋骨共に隆々これが日本男子』とのスローガンは、表面上の論理としては、婦人を家庭に戻すことで(手段)未来の戦士を育てよう(目的)、男子の体格を向上させて(手段)日本を背負って立つ男子となれ(目的)となっています。でも実は、その『手段』自体が、失われた『らしさ』復活のため、多くの人々が戦い続けてきたそもそもの『目的』ではないでしょうか。以前から、『妻らしさ』『母らしさ』の逸脱である職業婦人やモダンガールを家に押し戻し、オシャレ熱に興じるモダンボーイや読書ばかりの文学青年に『男らしさ』を教え込もうとしていたではないか、と」
「自分らしさを重視する『個人主義』や『多様性』、その結果生じる従来の『らしさ』の揺らぎと対立の増加。これらにいら立つ人々にとって、民主主義や議会政治はむしろ調和を乱す元凶。個を重視し、多様性を認め、対立を助長するからです。この『機能不全』を戦争や全体主義で克服しよう、競争と対立、分断と格差で疲弊した社会を立て直し、一体感と調和を取り戻そうと願う人々の姿が浮かんできました」
――先ほどの個々の話は、日本が戦争に突き進んだ時代を映すモザイク画の素材なのですね。
「そうです。個々は小さな話でも、全体としてうねりを作り、当時の磁場を作る。そのように見ると、『解放の時代』『引き締めの時代』『戦いの時代』という流れが浮かび上がってきます。それぞれの時代はくっきりと分かれるわけではなく重なっていますし、同じ人間にも異なる側面が共存している。それでも、どれかが強く現れる時代や時期があります」
「19世紀末の大衆社会の到来以降の国家戦争のあり方を見ていると、国家が主とも、社会が主とも、言い切れなくなる。国家戦争が起きるから、『男らしさ』『女らしさ』『妻・母らしさ』『家族らしさ』が求められ、皆が国家に協力させられるのか。それとも、『らしさ』規範があちこちで瓦解(がかい)するから、復権させる引き締めのために定期的に危機が唱えられ、国家戦争が求められるのか。小さな話を集めていくと、国家が主で人々が巻き込まれたという一方通行の作用だけでないことが見えてきます。そもそも国家が社会から離れて存在するものではないからです」
「言霊とでも言うのでしょうか。一度言葉を発すると、そこに文字通りの真意がなかったとしても、言葉は独自に力を持ち始めるものです。社会に飛び交うそうした無数の言葉が重なると『国論』となり、政策決定者たちが無視できなくなる。その選択も縛られる。日本の戦争への道を考える上でも、政治や外交だけでなく、人々の願いが集合する社会も検討して、両者を融合するよう努めました。政策決定者と人々の作用は双方向だったのです」
「当時、為政者は国内のごたごたを避けようとして、国外で戦うことを選びました。これも、日本が戦争に突き進んだことの理由の一つです」
「例えば、関東軍の謀略で引き起こされた31年の満州事変を、その後のいわゆる『十五年戦争』の起点と捉えると、軍部が日本を戦争に引きずり込んだという軍部中心的な理解になります。しかし見落としがちなのは、これが『解放の時代』の真っ盛りだったということです。『らしさ』からの解放の絶頂期で、見方によっては社会秩序が急速に瓦解した時代でもあった」
「満州事変はそのタイミングで起き、社会変化にいら立っていた人々が飛びつきます。当時、政府は不拡大方針をいったん閣議決定したものの、国内の戦争熱を前に引き下がれなくなる。このようにたどれば、戦争への道が、政策決定者と人々の相互作用から作り出されていたことが見えてきます」
「上海事変(32年)でも、3人の工兵が爆薬を担いで敵陣に突っ込み戦死したとされた『爆弾三勇士』(現在は事故の可能性が指摘されている)が、『男らしさ』の貫徹として全土で支持を集めました。ただ、そうした『らしさ』を尽くした人をたたえる美談ブームはこれが初めてではない。『爆弾三勇士』ブームはむしろ、20年代半ばに始まる美談ブームの背後でくすぶっていた社会保守の機運が、全国的な運動となった転換点と見るべきでしょう」
「社会のなかの政策決定という点では、外相・松岡洋右が典型例です。松岡は(石油資源の確保のために東南アジア方面へ進出する)南進論には否定的でした。必ず米国の反発を引き起こす、と。その読みは正しかったのですが、それを密室の会議でしか言わない。南進論を支持する社会の磁場を読み取り、人前では南進論を推す右翼にも同調するのです。彼が提唱した『大東亜共栄圏』構想や西洋植民地主義に虐げられた民族の『救済』という論理にしても、当人の意図をはるかに超えて、南進論や対米強硬論の過激化を呼び起こしてしまいました」
――メディアの影響は。
「極めて大きかったと思います。37年7月の盧溝橋事件から12月の南京陥落までで特に顕著です。全国紙の一面記事は、映画の一コマのような劇的な写真で読者の興奮を高め、県版記事は、郷土兵の戦死を顔写真付きの美談に仕立て上げて文字通り顔の見える報道で読者の情感に訴えた。こうして全国紙の部数は劇的に伸びました。地方紙も、当時は地元有力者が社主を務めるケースが多く、政財界と直結していた。新聞社が県民決起集会を主催し、その興奮を記事にしていて、さながらイベント会社のようでした」
「世論にのみ込まれたという意味では、満州事変での朝日新聞が象徴的です。新聞各社が強硬論を書きたてる中、朝日は当初慎重論を唱えていました。ところが大規模な不買運動が始まり、売れ行きが万単位で落ちると、社論が転換し軍部支持の方針が決まった。他の新聞社と一緒になって『肉弾三勇士』を称賛する歌詞の読者コンテストを開くなど、戦争支持を盛り上げました」
「人々が一枚岩の犠牲者に見えてしまうことです。そうした歴史観は、現代にも影響します。今の政治や社会を考える時も、同じ受け身の構図で自分たちを捉えてしまい、重要な役割を果たしていることに無自覚になる。それは他者に責任を転嫁する見方も強めます。戦争への道は人為的なものです。だからこそ、支持した人々が大勢いたという点から見直したいと思いました」
――「らしさ」からの解放と、それへの反動としての「引き締め」は、今も各地で起きているのでしょうか。
「もちろんです。私は、人々の『解放』と『引き締め』をめぐる戦いを『社会戦争』と名付けました。この視点の利点は、日本の経験を普遍的、現代的、総合的に見直すことができることです。どの社会にも、どの時代にも、解放と引き締めの戦いはあるから、日本史を世界史とつなげて考えることができる」
「為政者の動向だけでなく、普通の人々も視野に入れて政治と社会を総合的に捉える。この視座から見ると、日本における参政党の躍進、米国でのトランプ大統領再選、ロシアでのプーチン大統領への支持にも、背景にそれぞれの社会戦争があるのではないかと思えてきます」
――解放と引き締めが振り子のように繰り返されてきたと考えると、あの時代が「例外」だったと思えなくなります。
「戦中は暗く息苦しい時代で、その前後に明るい時代があったという理解があります。戦中を日本近現代史における例外とみなせば、楽です。『例外的な時代だったが、元に戻したので大丈夫』と言える。例外にすれば、ひとごとのようにできる。だからこそ、あの時代を単なる『例外』とみなすべきでない。むしろ、今とも地続きの、自分のこととして見るべきだと思います」
「歴史の見方を変えると、現在の見方も、未来の見方も変わる。だから歴史の視座の多様化が大切なのです。過去の重要な転換期に、普通の人々が翻弄(ほんろう)されるだけの受け身の存在ではなかったことに気付けば、私たちの現在や未来への向き合い方も変わってくると思います」
「そのおかげで、欧米や日本だけでなく、アジア各国の研究者とも共同研究する機会に恵まれ、多様な見方に触れることができます。今春には編者として『Cold War Asia: Unlearning Narratives, Making New Histories』を出版しました」
「従来の冷戦史は、米国やソ連、中国の政治指導者や高官を中心に展開されますが、この本ではアジア各地の普通の人々の体験を通して冷戦を描きました。同様に、日本史も相対化して考えるようになりました。異なる国々でも似たパターンが見えてくれば、日本で起きたことが特別とか例外とは見なくなります」
「視野を広げないと歴史を語れないことにも気付くので、関心領域が地理的にも時間軸でもどんどん広がっています。例えば、今回は私の専門は日本近現代史、20世紀アジア史、米国外交史と説明していますが、日本では『広すぎる』と思われるかもしれません。でも20年間研究していれば、どうしても専門領域は広がるんです。今回は日本が主題なので日本近現代史を一つ目にしていますが、冷戦史を書いた時は米外交史とアジア史と説明しました」
――国内外で秩序が揺さぶられる今、歴史学に求められることとは。
「そもそもの歴史学の原理はアナリシス(分析)です。基本的に分けて考えていく。分けることで物事の真実が見えてくるという前提です。だから研究者は、時代を絞り、地域を絞り、テーマを絞る。研究が進めば進むほど、分岐が進み、専門化が進むゆえんです」
「ただ、それぞれの研究成果を本来、どこかで融合させないといけない。もともと世界はつながっているし、政治や社会や文化といった事柄も本来分かれたものでもない。だから、アナリシスの対になる概念、シンセシス(総合)も必要ではないかと思います。私が取り組んだのはこの路線で、小さな話をあっちこっちから拾い集め、モザイク画のように『合わせる』ことで新たに見えてくるものもあるという姿勢です」
“自分たちが関心がなかったことを野党の怠慢とか、止められないくらい最後の最後になって騒いだだけとするのは歴史の捏造です。”
“そもそも「正義を疑え」ってのは自分のなかでそれが本当に正しいのか精査しろ、って話であって他人の正義を嘲笑しろって話じゃないはずなんだがな” “「正義を疑う」のが悪いわけではない。例えば植民地主義も啓蒙思想と結びつき未開の地を教化するという当時の「正義」ではあった。” “その「正義」が今日的に見て間違っているのはいうまでもない。翻って彼らにも正義という言葉は使わなくても正義はある。それは「いわゆる社会正義を腐すのは正義」というものだ。”
“表現の自由は絶対正義ならそれはそれでいいけど、フェミガーポリコレガーで他人の表現の自由にはガンガン干渉するから結局正義なんてないのだ。”
“少なくとも戦争反対を蛇蝎のように嫌う人は確かにいる。高市批判でもトランプ批判でもなく「NO WAR」すら嫌うのは戦争賛成としか言えないです。”
“「真の右翼」とか「まともな保守」とかいうのがファンタジーなのと一緒で、「まともなオタク」なんてのは形容矛盾なのだ。いま反戦デモに自意識過剰な文句を言い続けてるあの間抜け集団こそが「真のオタク」なんです。”
“例えば「オタク=ネトウヨ」「オタク=ミソジニー」という粗雑かつ一方的な認定についても「アニメやマンガのネタを使ってヘイトやデマを拡散したり女性に対する誹謗中傷やいやがらせを繰り返すような人間が大量に紛れ込んでいるのが原因」だと正当化できることになりますね。”
“左翼でもフェミニストでもオタクでもなんでもいいですが、所属や境界すら曖昧な個人の集積に対して「おかしな奴を排除しろ。できないならお前らも奴と同列に扱う。」と要求したところでそれを実現できる人なんていませんからね。”
「認識的不正義」とは、物事や出来事に対する認識や理解の仕方が不正義を生み出すことを指します。簡単に言えば、人々がある事象や状況を不公平または不正確に認識することが、不正義を助長する場合があるという考え方です。
例えば、ある社会問題に対して誤った情報や偏った視点で認識を持っていると、その誤った認識が社会的な不公平や不正義を引き起こすことがあります。これには、差別的な見方やステレオタイプに基づく誤解、または特定のグループや個人の権利を無視するような認識が含まれます。
「認識的不正義」がもたらすインパクトは、非常に深刻で広範囲にわたります。認識が誤っている、偏っている、あるいは無視されている場合、以下のような影響があります。
認識的不正義があると、特定のグループや個人が社会で平等に扱われないままとなり、その不平等が続いたり、強化されたりします。例えば、マイノリティや社会的に弱い立場にある人々が、支援を受けられなかったり、社会的に過小評価されたりすることで、格差が固定化していきます。
例: 性別や人種に基づく差別が社会に存在する場合、偏った認識(例えば「男性はリーダーに向いている」「黒人は犯罪者になりやすい」など)があると、その認識が無意識のうちに行動に反映され、結果としてそのグループの機会が制限されることになります。
認識の誤りや偏見が政策や法律に反映されることがあります。例えば、貧困層の人々が「怠け者」だという偏見から、十分な支援が提供されない場合、貧困の解決が遅れたり、状況が悪化したりします。
例: ある国で「移民が社会保障を食いつぶしている」という誤った認識が広まると、移民に対する支援や保護が減少し、実際には経済に貢献している移民が不当に扱われることになります。
社会があるグループに対して不正確または偏った認識を持つと、そのグループに属する個人は自分の価値や能力について誤った信念を持たされることがあります。これが長期的には精神的な健康問題や自己評価の低下を引き起こすことがあります。
例: ある特定の性別や人種に対する否定的な認識(例えば「女性は感情的」「アジア人は数学が得意」など)が強い社会では、その対象となる人々が自分の本来の能力や可能性を発揮できなくなる可能性があります。
誤った認識が広がると、異なるグループ間で誤解や対立が生じやすくなります。認識の不正義が対立を煽り、最終的には社会全体に不安や暴力を引き起こす原因となることがあります。
例: 「移民は危険だ」といった認識が広がると、移民とそれに反対する勢力との対立が激化し、社会の分断が進むことになります。
過去の不正義や差別が誤った認識によって正当化される場合、その歴史的な傷が解消されずに引き継がれてしまいます。これにより、過去の過ちが再び繰り返されるリスクがあります。
例: 先住民に対する偏見が根強く残っている社会では、過去の植民地主義や土地奪取の問題が未解決のまま放置され、先住民の権利が無視され続けることになります。
認識的不正義が社会に及ぼす影響は、そのまま社会全体の公正さや秩序に大きな問題を引き起こします。認識を改めたり、偏見を取り除くことは、個人の尊厳や社会の平等を保つために極めて重要です。逆に、認識の誤りが広まれば、社会のあらゆる側面で不公平や不正義が助長され、深刻な問題を引き起こすことになります。
いいか、よく聞け。
FD人ってのはな、自分たちが「上位世界の住人」だとか「創造者側の存在」だとか言ってふんぞり返ってるが、あいつらの道徳観をよく観察すると驚くほど幼稚だ。率直に言う。小学生レベルだ。
理由は単純だ。あいつらは自分の行為の因果的スケールを理解していない。
FD人にとってエターナルスフィアの住民は「ゲームキャラ」だ。
パッチを当てる。
サーバーを止める。
NPCを削除する。
本人たちは軽い。
「データだし」
「プログラムだし」
なあ、おい。
それ、校庭でアリの巣を踏み潰すガキの理屈と同じなんだよ。
倫理というのは「相手が自分と同じ主観を持つ可能性」を仮定する能力から始まる。
ところがFD人はこう考える。
そのくせ、エターナルスフィアの住民が自己認識を持ち始めると慌てる。
「え?お前ら意識あるの?」
遅いんだよ。
お前ら、今まで何億人消したと思ってる。
もしそうなら、FD人が消した「データ」は単なるビット列じゃない。
神のつもりで世界を作る
↓
飽きる
↓
電源を切る
そう。
小学生。
歴史を見ろ。
全部同じパターンだ。
「俺たちは上だから」
「もしこのシミュレーションの内部に主観が発生しているなら、我々は倫理主体として扱うべきだ」
ところがFD人は違う。
小学生か。
次元をまたげる。
だが倫理だけは未発達だ。
だから俺は言う。
話はそれからだ。
BBCの分析は軍艦、レアアース、外交的な嵐を徹底的に描写したが、植民地主義的な心理をすべて明らかにする一文を見逃していた:
「我々はもっとやらなければならない。さもなくば、米国が興味を失うかもしれない。」
これは主権国家の言葉ではなく、見捨てられるのを恐れるペットの声だ:
ただ、私がもう役に立たないと決めないで。」
日本のいわゆる「地域のバランス」は単なる恐怖の婉曲表現であり、その称賛される「パートナーシップ」は戦略の衣をまとった依存に過ぎない。
ここで、帝国の仮面がひび割れ、その下の真の振付がようやく見えてくる:
中国が圧力をかけているのではない。植民地ペットが神経質に服従を演じ、主人がリードを緩めないよう懇願しているのだ。
これは決して地政学ではなかった。
☑️【🇬🇧BBCの酷評】‐高市氏は「米国の飼い犬」として強がっているだけだ
弊社BBCは植民地主義的な心理を全て明らかにする一文を見逃していた
高市氏「我々はもっとやらなければならない。さもなくば米国が興味を失うかもしれない」 これは主権国家の言葉ではなく見捨てられるのを恐れるペットの声だ
「お願いだからリードを緩めないで。 もっと大きな声で吠えられる、もっと強く噛みつけるよ。 ただ、私がもう役に立たないと決めないで」 日本のいわゆる「地域のバランス」は単なる恐怖の婉曲表現であり、その称賛される「Partnership」は戦略の衣をまとった依存に過ぎない
ここで、帝国の仮面がひび割れその下の真の振付が漸く見えてくる
中国が圧力をかけているのではない。植民地ペットが神経質に服従を演じ主人がリードを緩めないよう懇願しているのだ。 これは決して地政学ではなかった。 常に外交を装った家畜化だったのだ」
ゾンビものがアメリカでここまで育ったのは、アメリカ社会そのものの歪みや不安と相性がよかったからだと思う。
そもそもゾンビの起源はアメリカじゃなくて、カリブのブードゥー文化にある。初期のハリウッド作品のゾンビは、意志を奪われた労働者、呪術で支配された存在、つまり奴隷制の恐怖のメタファーだった。植民地主義と支配の寓話だった。
ジョージ・A・ロメロの『Night of the Living Dead』では、ゾンビは呪術的存在から原因不明の感染体になり、個人を操る怪物ではなく、群れとして暴走する存在に変わった。
公開は1968年。ベトナム戦争、公民権運動、キング牧師暗殺という社会不安の爆発期だ。黒人男性の主人公が最後に白人自警団に撃たれるラストは、ゾンビよりもアメリカ社会そのもののほうが怖い、という皮肉に見える。ここでゾンビは「外から来る怪物」ではなく、「内部から崩れるアメリカ」の象徴になった。
背景にはキリスト教、とくにプロテスタント的な終末観もある。世界が堕落し、最後に裁きが来るという黙示録的な感覚はアメリカ文化に深く染み込んでいる。
ゾンビ世界は、神を抜きにした世俗版の黙示録みたいな構造で、「文明が終わる前夜」「選ばれた者の試練」という物語に自然に重なる。
冷戦期の核戦争不安も大きい。「ある日突然すべてが終わるかもしれない」という感覚は、文明崩壊後のサバイバル世界と直結する。
あとは消費社会批判。『Dawn of the Dead』の舞台がショッピングモールなのは、生前と同じようにモールを徘徊するゾンビが、無意識に消費を繰り返す群衆の風刺になっている。大量消費社会を笑いながら批判できる装置として、ゾンビはとても便利だった。
そしてアメリカ特有の武装個人主義。国家が機能しなくなった世界で、自分の身は自分で守るという状況は、フロンティア精神や修正第2条の銃保持文化と強く響き合う。ゾンビ世界は、現代版フロンティア神話でもある。
ヨーロッパにゴシックホラーや貴族的怪物が多いのに対して、アメリカで発達したのが「群衆怪物」だったのも象徴的だ。貴族や城よりも、大衆社会そのものが怪物化する。ゾンビは、大衆民主社会の姿でもある。
直近の『The Walking Dead』や『The Last of Us』では、ゾンビ自体よりも「文明が壊れた後に、人はどんな倫理を選ぶのか」の実験が行われている。
①防衛に関する認識が中道になって公明に上書きされ消えている認識はあるのか?
立憲民主は護憲政党で、自衛隊は違憲、安保も違憲、反原発、という政党だったはずだけど公明と合体したときに公明側の思想に塗り替えられて旧立憲の要素は消えている。
消えていることを認識したうえで「ママ戦争止めてくる」と中道に投票したのか。それがかなりの疑問。
自民は統一教会だから避け、立憲に投票する、までは理屈が通じていた。
中道は創価学会だ。統一教会を避けて創価学会に投票はただの宗教活動になってしまうが、分かって行っていたのか?
戦争・虐殺を主導的に起こしているのはロシアのプーチンや中国の習近平など権威主義国家の独裁者であり、相手の政治的な主張が何であろうがウクライナやウイグルへの虐殺を行っているのだが、戦争が起きるか起きないかを日本が決められると思っているのだろうか?
そもそも大日本帝国が他国に戦争を吹っかけていたのは国内の人口が膨張してあふれ出しており、ハワイ・ブラジル・満州の土地へ自国民を送っていた時代でもあるのだが、現在は急速に出生数が減っており、日本の農地が余って遺棄され、国防の人材も足らず年々難しくなっている状況だ。
はっきり言って日本は植民地を獲得するだの開拓するだの管理するだのという状況にはなく、既にある山林やインフラを維持するだけでも崩れそうな状態なので、他国に戦争を吹っかける理由がないし、心から避けたい状況であることは全国民一致しており、その方法について割れているだけである。
それが高市早苗は戦争を起こそうとしているというバズツイを見て、その大日本帝国感覚の人口感覚・植民地主義に驚くしかなかった。立憲支持者は元々「現在の日本」に対してこういう国だという認識を持っていたのか?
偏差値60以上なら左派になるはずなのにという主張を左派インフルエンサーがさかんに行っているが、高学歴高収入の住民が多く地価が高いエリアの比例得票を見ていくと、
前回の参院選では国民民主が、今回の衆院選ではチームみらいが、高学歴高収入地域(高所得者が多い中央区や港区、タワマン群の川崎市中原区、大学院卒が多い横浜市港北区等)で票を得たという結果しか出ておらず、
立憲支持者は高学歴という傾向についてのソースはどこを見ても見当たらない。参院選では東北エリアで顕著に立憲が強かったが、衆院選ではその東北ですら中道が壊滅したという報道だけであった。
何をもって信じているのか。そもそも、そのような信念を本当に多くの立憲支持者が信じているのか?
まずは、「Virtual Gorilla+(バゴプラ)」という名のWebメディアです。
そしてもう一つが、SF小説に関する事業「Kaguya」。Kaguyaの取り組みは、いくつかあります。①ショートショートのコンテストの開催。②Kaguya PlanetというWebマガジンの刊行。ここでは毎月短編小説を配信しています。③Kaguya BooksというSFの出版レーベルとしての活動。
二つの活動以外にも、企業のSFプロトタイピングのコーディネーターなど、SF関係のさまざまな仕事も手掛けています。
Kaguyaで開催している短編小説のコンテストは、最大4千字です。気軽に書いて、読者や審査員からフィードバックをもらうなかで、自分の強みが何かを発見してステップアップしていく。そういう場所を目指しています。
ライフステージや、家庭における役割、精神状態などに大きく左右される。「連載が約束されていない長いもの」の執筆に時間を割けるということ自体、特権的なのかもしれない。
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20251022002010.html
【井上】 日本のSFだけではなく文学全体がそうかもしれませんが、商業デビューの王道として、新人賞をとって、そこで作品を出して商業デビューし、その出版社から2作目3作目を出し、他の出版社からも声が掛かる……というルートがあると思います。もちろん日本のSF作家で、そのルートに乗らず商業デビューして活躍している方もいるのですが、わりとイメージしやすいロールモデルとして、それがある。
主催によってカラーが決まっていることが悪いわけではないですし、一つのコンテストに「全ての多様性を担保しろ」と求めるのは無理だと思います。なので、窓口を増やすことで、デビューへの道筋を多様にすることが大事だと考えています。
【井上】 23年10月に文芸翻訳の経験を持つ編集者が新しく参加してくれたこともあり、海外から日本への輸入や、日本から海外への発信に力を入れることができるようになりました。
写真・図版
第3回かぐやSFコンテスト大賞作品「マジック・ボール」は、中国のSFマガジン『科幻世界』とイギリスのウェブジン『Schlock!』にも収録された=井上彼方さん提供
【井上】 「自分の表現で誰かを傷つけてやろう」と思っている人って、そんなにいないと思うんです。ごく一部の悪意のある人をのぞけば。でも実際に、自分が書いた文章に批判がくると、身構えるじゃないですか。そういうときに自分を見つめ直して反省して次に生かすって、非常に難しいことだと思うんです。特にSNSで炎上してしまうと、冷静ではいられないですよね。
自分の書いた文章について言われるのではなく、あらかじめ「こういうことって気をつけた方がいいね」とわかっていたら、過剰な自己防衛に陥らず、話を素直に受け止められる場合があるはずです。
ヒューゴー賞は世界SF大会によって設立されたSF・ファンタジー作品の文学賞で、受賞作品は世界SF大会に参加登録した人による投票で選ばれます。そして、このSad Puppiesというのは、ヒューゴー賞の選考に影響を与えるための組織的な投票運動でした。女性や有色人種の受賞が増えていることに抗議を示すため、白人でヘテロセクシュアルの男性作家たちが自らを、権利を侵害されているSad Puppies(悲しい子犬たち)と称したのです。
ヒューゴー賞は投票制なので、人々に開かれたものではあったはずです。ところが、Sad Puppiesたちは、「ヒューゴー賞はポリティカルコレクトネスに配慮するあまり、本当に面白い作品を受賞させなくなっている」といった主張を始めた。「もっと面白い白人男性の作家を受賞させろ」という風に呼びかけた。そういう事件ですね。
【井上】 ヒューゴー賞は2010年代、女性作家や非白人の作家の受賞が増加しました。女性だけではなく、クィアであることをオープンにしている作家の受賞も増え、それに対して「自分たちの土俵が荒らされた」というような被害感情を持たれる方がいた。それで起きた事件です。
【岡田】 この事件については、SF評論家の橋本輝幸さんが、ウェブ連載「いつでもSF入門」のなかで詳しく語られています。SF界において女性が優遇された時代はなかった、と指摘されています。
【対談を終えて】
対談から2年。2024年に慶応義塾大学にサイエンスフィクション研究開発・実装センターが開設されるなど、社会の中でSFをどうツールとして使っていくのかという取り組みは広がりを見せ続けているように思う。その中で、SFを取り巻く世界やSFが描く世界の中から、誰が取りこぼされてきた/いるのかということは今も問われ続けている。
この間、VGプラスで行った取り組みの一つに、刊行しているマガジン『Kaguya Planet』でのパレスチナ特集がある。1948年のイスラエルの建国以前から続く、入植型の植民地主義と人種差別的な支配、ジェノサイドは、「世界では誰の声が優遇されているのか」ということと無関係ではない。そのことにSF企業としてどう応答できるのかを考えて行った特集で、パレスチナ人/パレスチナにルーツのある作家による、パレスチナを舞台にしたSF・ファンタジーを翻訳した。
写真・図版
ウェブマガジン「Kaguya Planet」のパレスチナ特集
だが同時に、システムや場づくりについて問題提起をしているVGプラス自身、たくさんの方から至らぬ点についてご指摘をいただき、ときに引き立てていただき、ときに知恵を授けていただきながら活動をしている。マイノリティーの方々に「指摘する」というコストを支払わせてしまった局面もたくさんある。それらを抽象的な次元にとどめることなく、現実の制度や権利回復へとつなげるためになにができるのか、常に考えていきたい。
そしてそれは、SFという私の愛するジャンルそのものを豊かにすることにも、当然つながっているのだと思う。
排除はしばしば、「質」の名において実行される。
なにが「優れた」作品なのか。その指標そのものが、特定の経験や価値観にもとづいて構築されてきた。そうした規範に照らせば、大きく異なる経験を持つ他者の書いた作品は必然的に「劣った」ものと評価されよう。排除は意図的に行われるのではない。それは常に「客観的な評価」の結果として生じる。
Sad Puppies事件は「ポリティカルであること」への反感が運動のきっかけだったが、むしろ、従来の選考こそが政治的だったと考えることもできる。価値判断の場では多くの場合、既存の権力関係が反映される。正統性を維持するためのシステムは個人の意図を超えて作動する。
だからこそ、井上さんたちの取り組む解決策はシステムそのものに切り込むものだ。短編コンテストの開催、発表の場を多様化すること、経済的に持続可能な仕組みをつくること。これらはすべて、異なる価値観が共存できる環境を目指している。
誰が未来を語るのか。どのようにその語りを開いていくのか。今回の対談で示されたのは実践だった。完璧な一つのシステムを目指すのではなく、複数のシステムを並走させることで、今は「評価」できない作品や価値観にも光が当たる可能性を残している。SFの想像力が現実を形成する力を持ちつつある世界において、その想像力を担う主体の多様性こそが、私たちの未来の豊かさを決定づけるだろう。
増田やはてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。
→ 法の下の平等、参政権、教育・労働の平等機会を重視。例:メアリ・ウルストンクラフト、ジョン・スチュアート・ミル。
→ 資本主義と家父長制の二重の抑圧を批判。ナンシー・フレイザーなど。
→ 家父長制の構造そのものを批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン。
→ 女性と自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題とジェンダー問題を結びつける。
→ 女性の特質・価値(共感、ケアなど)を肯定し文化的再評価を目指す。
→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。
→ フロイトやラカンの理論をジェンダー批判的に再解釈(ジュリア・クリステヴァ、ルース・イリガライなど)。
差異のフェミニズム(difference feminism)
→ 性や主体の流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。
→ 性的指向・ジェンダー・身体の多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。
→ 人種・階級・性的指向・障害など複合的差別の分析(キンバリー・クレンショウ)。
→ 西洋中心的フェミニズムを批判し、植民地主義的文脈を分析(チャンドラ・モハンティなど)。
→ 科学技術と身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。
→ SNS・オンライン空間における性差別問題と運動(#MeToo、#TimesUpなど)。
→ フェミニズムの成果を前提にした「個人の選択」重視の潮流(批判も多い)。
大東亜戦争で日帝がアジアに対して、特に中国・韓国・シンガポール・インドネシア・フィリピンでやったことについては複雑で、かつ二面的に見なければならないと思います。
確かに日本はオランダを追い出してインドネシアを統治下に置き、ポツダム宣言後にはスカルノによる独立を導いたという「解放」の一面がありました。スカルノが象徴するように日本に対して感謝の念を示し、インドネシアは親日的な姿勢を取り、ビジネスのパートナーとして長年良好な関係を築くことができました。これは確かに事実としての正の側面です。
しかし同時に、日本統治下ではインドネシア人をロームシャとして過酷な強制労働に従事させ、その多くが命を落としました。現地では日本統治時代を「飢餓と暴力の時代」とまで伝え残しており、この負の一面も決して忘れてはなりません。
フィリピンでも同様です。バターン死の行進やマニラ市街戦での民間人虐殺は戦争犯罪の象徴であり、その記憶はつい最近までお札に印刷されていました。これは反日的というよりも「独立に至った歴史を忘れない」ためのものでした。フィリピンはもともと独立を目指していたため、日帝の「解放」が大きな影響を与えたとは言い難い面もあります。
日本はイギリスを撃退し、シンガポールを「昭南島」と名付け統治しました。しかし統治の始まりには民間人華僑の虐殺(粛清)が行われ、さらに強制労働と飢餓で住民を苦しめました。現在でもシンガポールの老華僑の間では「苦難の時代」の記憶は完全に消えておらず、市内には当時の加害を記録し伝える石碑や博物館が今でも残されています。
一方で日本人はしばしば、本土空襲・沖縄戦・原爆2発、あるいは兵士の6割が餓死や病死で帰ってこなかった事実を強調し、平和国家を自称してきました。しかしそれだけを前面に出すと「加害への反省が足りないのではないか」と中韓などから指摘されます。
戦争の加害側であった歴史を忘れ、否認する姿勢さえ見せる者もいます。これはドイツでは考えられないことです。日本がサンフランシスコ講和条約を結び、反省を示して国際社会に再び受け入れられ、さらに多くのアジアの国々に許されて仲良くしてもらえたことは、決して忘れてはいけないと思います。
特に中国は1980年代まで「悪いのは日帝であって日本人ではない」と教え、中国残留孤児を育て上げて日本に送り返すまで面倒を見ました。1972年の日中共同声明では賠償請求すら放棄し、日本を受け入れてくれていたのです。
近年、中国が歴史問題で強くアピールする背景には、日本国内で一部政治家や都知事が加害の歴史を否認し始めたり、教科書の記述が「侵略ではなかった」と書き換えられるようになったことがあります。中国にとってこれは大きな衝撃であり、その反動として南京事件や731部隊の問題を国際社会で強調するようになりました。
結局のところ、何が大事かといえば経済であり外交です。侵略の歴史を否認すれば、特に中国や韓国をはじめとするアジア諸国から信頼を失い、貿易や協力関係にも支障が出ます。日本はもはやあぐらをかいていられる国ではなく、斜陽国として国益を守るために何を優先すべきかを考えなくてはなりません。その意味で、石破茂氏のスピーチは国益を重視した姿勢として評価に値すると私は考えます。
大東亜共栄圏構想は「西欧列強からアジアを解放する」と掲げていました。しかし実際には資源獲得と軍事拠点化を目的とし、欧米支配に代わって日本が「統治」しただけであり、現地住民に甚大な犠牲をもたらしたのも事実です。
国際法・歴史学的には「侵略」と評価されるのが正確であり、WW2における日帝の行為をそれ以外で評価するのは国際的には正統派とは言えません。
ただし独立運動の観点からは「欧米植民地支配からの解放の契機」と評価されている面もあり、この両面を見なければなりません。
アジアの戦争犠牲者は2000万人以上と見積もられており、これは忘れてはならない歴史的事実です。日本人からすれば「侵略」と「解放」の二面的に見ることができる、という認識が最も現実的だと思います。
二度と戦争に関わらないこと。殺し合いや餓死や特攻、核兵器の使用には断固として否定の立場を取ること。これが何より大切だと思います。ですから、今回の参院選で改憲勢力が三分の二を超えたことを、個人的にはとても危惧しています。
ちなみに…もっと深堀りするならば。
各国の独立運動家が日本を利用したのには明確な理由がありました。
インドネシアのスカルノやハッタは、オランダから独立するために日本の軍政を「利用」し、敗戦後に即座に独立を宣言できる体制を整えました。
インドのチャンドラ・ボースも、日本軍を頼りに「インド国民軍」を組織し、反英独立運動を推進しました。
日本に帰らなかった敗残兵達がインドネシアやインドの独立に協力したというか利用されたというのもまた歴史的な事実です。
また、戦後すぐにアジア各国の対日感情が今ほど悪化しなかった理由もあります。
第一に、戦後日本が米国主導で急速に経済復興を遂げ、ODAや投資を通じてアジアに「恩恵」を与えたこと。
第二に、欧米列強の植民地主義(アフリカなど)がなおも続いていたため、「日本の侵略だけが特別に悪」という視点になりにくかったこと。
第三に、多くの独立運動家は「日本を利用して欧米から独立した」という現実を直視しており、一概に反日感情に流れなかったこと。
これらの事情が重なり、アジアの多くの国々は戦後日本を受け入れ、経済的パートナーとして信頼関係を築いてきました。
侵略の事実を直視することは、日本にとって不名誉ではなく、むしろ国際社会からの信頼を守るために不可欠なことです。解放の契機という側面も併せて語り継ぎつつ、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うこと。それが日本の国益であり、未来への最大の投資だと信じます。
わたしは啓蒙がキライだ。他人から啓蒙されるほどアホではないし、他人さまを啓蒙するほど傲慢でもない。
フェミニズムの運動は、自己解放から出発したはずなのに、いつのまにか「すすんだワタシ」が「おくれたアナタ」を啓蒙するという抑圧に転化してしまった。
フェミニズム啓蒙主義には、リブ度に応じて女たちを「ススンデルーオクレテル」に序列づける権威主義がある。
ススンダ方はオクレタ方に正義を押し付け、あまつさえフェミニズム十字軍よろしく女の正義を「輸出」しさえする。
フェミニズム先進国ー後進国の関係は、たとえば「アメリカの正義」を押し付けようとする抑圧的な植民地主義と
変わらない。大きなお世話だ。何が解放かはテメェが決める。他人様のお世話になんかならない。それがフェミニズムの出発点だったはずだ。
おんなの運動は抑圧的な男権社会に対する対抗文化として、成立したとたん「対抗的価値」の尺度ができあがる。
法律婚をしているかしてないか。化粧するかしないか。夫を「主人」と呼ぶか呼ばないか。さまざまな尺度が「踏み絵」になる。
運動の退廃は、自分たちが批判したはずの当の社会体制の歪みを、そのままカリカチュアライズして、しかももっと歪な形で再現してしまうところにある。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221 https://anond.hatelabo.jp/20250626125317 https://anond.hatelabo.jp/20250627100609 https://anond.hatelabo.jp/20250628122821
AI技術を批判する記事がバズりまくってるが、それに対して凄い数の批判がいってる、だけど肝心の批判は個人攻撃めいていて、どれも技術的な部分はふわふわした物言いなので
どれだけ技術的にまったく使い物にならないかを、技術面から3つ理由を上げようと思う、これを見れば、確かにAIってそんなもんじゃないな、って正しい理解が進むと思う、と同時に、
ネットでAIを擁護したり喧伝してる人間で誰一人、エンジニアを自称したりしてる奴らでさえAIを理解してる人間がゼロっていうのがわかると思う
ちなみに、IT技術を全然知らない増田向けに技術的な部分は補足説明を入れているので、ちょっと長くなってるかもしれない
LLMがわかっていない!と喚いてる当人たちも上で言った通り、LLMっていうのが理解できてないの丸わかりなので、ここでまずLLM「大規模言語モデル」とは何かを簡単に説明しよう
生成AI(特にChatGPTのような大規模言語モデル、LLM)というのは「文脈に最もふさわしい次の単語を予測する」」という統計的タスクを行っている、これがLLMだ
「飲みます」→90%の確率 「買いました」→7% 「投げました」→0.5%
この過程には、意味理解や感情、意図、文脈の内的把握は一切関わっていない、これが致命的な欠陥の1つ
プログラミングを自動でまるで仮面ライダー01の01ドライバーの様にベルトの作成までやってくれているように喧伝してる奴らが多い
が、これを本気で信じ込んでプログラミング言語を書かせた奴がいたら、ほぼ間違いなくクビになる
わかりやすく上で例えた通り、LLMは、インターネット上に存在する膨大なコード断片・技術記事・GitHubリポジトリ・Stack Overflowの投稿などを学習している。
そのため【よく使われる文法構造】や【特定の言語における関数の使い方】や【ライブラリの典型的な使い方】などを【意味を全く理解できず模倣している】だけって事
【動かないコードをアホほど入れる(変数が未定義、型が合っていない、ライブラリに存在しない関数を呼んでいるとかいう小学生のプログラミングスクールでもありえないミス】
【. 「それっぽいけど間違っている」コードを大量に入れ込む(SQLインジェクション、XSSなど セキュリティ上危険な実装を入れまくる、パフォーマンスが極端に悪い実装、バグを含んでいるロジック(特にif文の条件分岐ではほぼ100%発生する)】
【実行環境に依存した誤り(存在しないAPIやライブラリを使う、ほぼ9割の確率で…あと特定のPythonバージョンやNode.js環境でしか動かないコードを汎用的に提示、つまり動きようがない)
専門的な意見となったのでわかりづらいので、もっとわかりやすく言うと「小学校のプログラミングスクール入りたて1週間の子供が書いためっちゃくちゃなプログラミングにすらなってないコードを、製品利用するからレビューして出してこい」と言われてるに等しい、つまり、最初から自分で書いた方が早い2度手間になる
これが、プログラミングの革命だ!とか喚いてる奴らが隠すAIの実態である。
import jwt
token = jwt.encode({'user_id': 123}, 'secret', algorithm='HS256')
一見正しく見えるだろうから解説すると、実際には 【jwt という名前のライブラリ】が複数存在し(PyJWT, python-jwtとか)importの仕方によってエラーが出たり挙動が変わったりする。普通なら絶対間違えない様な挙動をAIは構造上全く判断できない、これは上で上げた根本的な問題なので恐らく絶対に解決できない。
ハルシネーションがどういうものであるのか、AI批判でバズった記事などで言及されている通り、デマやデタラメを出力してしまう、あれは本当にわかりやすいAIの致命的欠陥を検証してるので、あえて説明はここではしない。
しかもその増田の元記事では「文章データのテキストまで読み込ませれば間違いがなくなるのでは?」といってたが、これも絶対になくならない、というより、もっとひどくなる。
批判をしている増田やXでの意見は単なる個人攻撃の誹謗中傷のみで、技術的に改善可能なプロセスさえ示せていない、例えば現在研究者の間では以下の様な解決案は研究されているが、どれも全く問題外とされている
これは、AIが「知っている風」に語る代わりに、外部の信頼できるデータベースや検索エンジンから情報を引っ張ってくる方式、バズった元記事の増田がやっていた「自分で図書館言って本の内容読んで誤りであることを確認する」これを検索エンジン使ってAIにさらにやらせる、という機能だ
また【メタモデル】すなわち、AIが自分の出力を裏でさらに別のAIが別プロセスでチェックして間違いをただす、という方式も研究されてる。
これは致命的な欠点が2つある、まず「検索で引っ張ってくる知識そのものが間違いだった場合、さらに間違いの結果を出し続ける」ということ。
元記事の増田はMP5というマシンガンの有効射程について突っ込んでいたと思うが、これが典型的なRAG、メタモデルの致命的欠点、元増田は「実際に自分の手で銃を取り扱ったりしたことがある確かな経験で言ってる」が、書籍などの工業スペックや仕様書の定義でしかネット上では流布してない、だからそもそも答えというものにAIがたどり着けない。
2つ目は「文脈や倫理・常識・道徳が根本的に読めないので、解決策が乱暴すぎるもの」になる。
上で上げた鉄砲以外では、例えば医学などでこれをやってしまうと取り返しのつかないことになる。例えば医者の投薬治療や治療はガイドラインに従ってるというが、優れた医者は論文を読み込んで原理は不明だがエビデンスはあるので、漢方薬を出したりするというお医者さんがよくいるだろう。あれは実際に患者を診て、西洋医学的には全く問題ないが、心理的な面も絡んで心身症になっているから、論文などで勉強して「暗黙知、経験知」として処方してるし、その量も患者を診た医者の経験で精度を上げている。
そして医療分野では、「冷え性の軽いむくみ」に対して「サムスカ(トルバプタン)」という劇薬指定の危険な利尿薬をAIが提示した事例すらある。これを「笑い話」で済ませることはできない。
例えるなら判断が「脳外科医竹田君」並になる、投薬治療で3か月で治る程度の病気を、病根から外科手術で切除しましょう、なんて提案になる。最新のAIなのに80年前みたいな医学知識と判断になってしまうのだ(胃潰瘍ってだけで胃袋は全摘、ついでに脾臓と盲腸もいらねーからとっとこ、みたいな手術が昭和の昔、本当にガイドライン治療だった、「K2」などで言及されている)
学習できるベースがどうしても偏る以上、情報の統合に限界がある、さらに間違いが間違いをよび、さらに変な間違いを起こしたりありえない架空のことをいったりする、これがハルシネーションというメビウスの輪である
Neuro-symbolic AIという次世代のさらに文脈も読み取れるアーキテクチャAIを研究しているが、全く実用化されていない、核融合や量子コンピューターみたいな雲をつかむ話なので、AIがこの問題を解決することは恐らく今後数百年はありえない、という結論が出ている。
元増田の記事で批判もあったが、恐らくAIで一番致命的な問題はこれ
基本的にAIは英語ソース、つまりリングワ・フランカで圧倒的にテキスト量の多い(約95%)英語、日本語含めそれ以外の全世界言語が5パーセントという偏った学習になっている
そのため、倫理・道徳・常識・規範などがすべて西洋基準になってしまう、という問題がある。(元増田はこれを「脱獄の基準の倫理は誰が決めるのか?」と根本的な問題に気が付いていて批判していたようだ)
ちなみに、バズってた例の記事に「AIに書かせたんだろ」という批判も大量にあるしよくみかけるが、この場合においてのみ言うなら、これは③の問題からまずありえないということがわかる、以下が根拠だ
元増田は「俺達の麻生とかいって秋葉原で踊ってた…」とか「レムちゃん、エミリアたん、ヘスティアちゃん、ウマ娘たん、刀剣乱舞くん、ライカン様…」といった批判を繰り返し書いていた
これに激怒できる人間は、2005~2010年にオタク界隈や秋葉原にすでにかかわっていて、実際に渦中にいたか同じ属性の人間でしか、罵倒されていると文脈的に理解できないのである。つまり、大量の英語文化圏情報を食ってるAIではなんでそれが罵声や侮蔑なのか理解できないので、書きようがない表現の数々、であるということである。
AIからすれば「ライカン様?ウマ娘?なんじゃそりゃ」なのである、もっと言えば、その直後にコンテクストとして「アホ、ボケ、弱者男性、豚丼、性器や自慰で虚しく…」といった言葉があるから、なんならAIはウマ娘やライカンをキャラクターでなく侮蔑単語として理解してしまう、これは実際、元増田の記事の一文をAIに食わせて質問したらガチでそうなるので、ぜひお手元で試してもらいたい。
「プログラマーのイメージを描いて」と依頼すると、男性の画像ばかりが出るされる
「看護師」→女性、「エンジニア」→男性という職業的性差が自動的に反映される
「アフリカの文化」→貧困・紛争・サバンナなど、植民地主義的視点が強く反映される(実際は南アなどはすげえ都会である)
これに前述のハルシネーション問題として現れれば、人間と同じような差別や偏見を「ガチの真実」として学習してしまう、人間の場合、8割くらいは本当はおかしいこととメタ批判が心理的にできるとされているが、AIにはその構造が根本的に存在しない。
元増田の記事のコメント欄やXなどで元増田のAI批判を批判しつつ、「金持ちの上級白人専用のハイエンドAIがあるに違いないんだ」といっている意見が少なくない数がある。
冷静に考えれば、そんなめんどうくせえもん誰が作るんだ、と普通に考えればわかるのだが、この③の問題、すなわち95%の学習データが英語ソースなので、結果的に西洋文明ベースの文化圏の人間向けにカスタマイズされているので、アジア圏やその他文化圏では利用に不利でそう感じてしまう素地ができている、という錯覚に由来している
例えば、パレスチナ問題などがそうだ、ガザ地区でほぼ国際条約や人道違反の残虐行為を国が行っているわけで、他文化圏や歴史的文脈から見ればどっちかって言えばパレスチナ人こそ被害者なのだが、イスラエルから見ればそれは正義であり正当な攻撃なわけで、後者の方がAIは正しいと判断した結論を下す様になる、といった問題である
あの記事の元増田は「テロ組織のヤバイマニュアルまで学習してpdfで元データを提示してきた」と言っていた。実際AIに調べさせて持ってこさせてみると、出所はアメリカの法務執行機関が研究用にネットで公開したものであった。
日本人や日本の警察の対応レベルで「ヤバイ」ものでも、海外の軍隊みたいな装備の警察で見れば大したことがないから、公開させてもいい=倫理違反には当たらない、という文化規範の意識の違いを、あの元増田自身が証明してしまっている、あの記事は、AIの治しようがない根本的な技術的欠陥をほとんど言及しているといっていい
元増田が口汚く罵っている内容の様に、「AIは0を1にできないから格差が広がるだけ」という根本的な哲学を投げつけている
それを受けて批判してる意見の中には「(自分が1を持ってる側と何故か根拠もなく信じ込んでて)100にできるから(なら)便利」とか「そのAI今から勉強したりしてる俺たちは先行者利益で強者になれる」と信じて疑わない意見が多かった
③問題の通り、そもそも非キリスト教圏かつ非英語圏の国家で生まれて育った民族、というだけで、我々は等しく「0」側の人間であり、結局競争になると勝てない、ということに全く気が付いていないのである。ここにAI信者の宿痾といえる病理がある
かつて日本人は黒船を見て5年そこらで蒸気機関を模倣した、火縄銃を一丁買えば10年でオスマン帝国の次に鉄砲を使うようになった、それは当時の日本人の基礎工学技術が導入可能なほど優れており、かつそれに対して現代では考えられないほぼバクチといっていい投資を行った結果であって、その結果を見て自分たちはAIを使いこなせて強くなれるなんていうのは、物凄い妄想である。つまり、AIは少なくとも「非英語圏」の人間にとっては、ブレイクスルーは絶対に起こりえない、ということである。