はてなキーワード: 爆弾とは
イスラエルがポケベルに爆弾を仕込み、ヒズボラ戦闘員を標的にした事件は事実です。2024年9月、レバノンでヒズボラの戦闘員が使用していた通信機器(ポケベルやトランシーバー)が相次いで爆発し、30人以上が死亡、3000人以上が負傷しました。これについてイスラエルのネタニヤフ首相は同年11月、爆発に関与したことを認めています。
報道によると、この攻撃はイスラエルの情報機関モサドが仕掛けたもので、ヒズボラの戦闘員に販売されたポケベルに爆発物が仕込まれていたとされています。ただし、これが民間人にも影響を与えた可能性が指摘され、国際的に議論の的になっています。
このような事例は、サイバー戦や情報戦の一環とみなされる一方で、民間人を巻き込むリスクから戦争犯罪と批判されることもあります。この事件はヒズボラとの緊張をさらに高め、レバノン地域での紛争の一環として注目されています。
米が値上がりしてからパスタ生活を続けていた最中、安い外国産の米が入ってきて神の思しメシ(本当にそう思った)だと 10kg くらい買って、美味しい嬉しいと食べ続けたけど、結局パスタや他の乾麺に比べるとやっぱり高いのは厳然たる事実である
米はいつでも食べてたから、とにかく不健康な食生活で太ってた頃にもガツガツ食べてたわけで、その頃に開拓したカロリー爆弾レシピなんかもふと作りたくなってしまい、結果的に体重も増えた
パスタを主軸にした数カ月を既に経ていて、パスタだけでもそれなりに満足度が高い食生活になるし、健康の価値観が過去の記憶でバグったりしないし、何より安いからデメリットないなという判断をせざるを得なかった
安いからってわざわざ海外の米買うかねという気持ちもあるし、俺はもう米5kgが1500円を下回らない限りパスタで行こうと思う
俺はいつも7:32発の急行に乗る。会社までは20分、始業は9:00だがデキる男ってのは何事も早めの行動だ。もちろん賃金は受け取らない。
いつものように押し寿司でもこんな押さんわ!!ってくらいの鮨詰めの電車に乗り込む。俺の目の前には若い女性。痴漢とかいう極悪非道醜悪下劣な行いは断じてしないが勘違いされぬよう片腕で吊り革を掴みもう片方はその腕を掴む体制をとった。1駅過ぎた辺りで違和感に気づいた。なんだか腕にずっと微かな重みを感じるのだ。よく見ると女性のスマホの上側の部分が俺の腕に乗っている。
『この女俺の腕をスマホ置きにしてやがる』
俺は会社で「俺って人間なのかなぁ」という扱いは嫌というほど味わって来たが、こんな屈辱は初めてだ。振り払うのも流石に可哀想だしあらぬ誤解を生まぬよう耐えた。ループ再生にしていたせいで曲を変えられないまま俺は20分間微笑みの爆弾を聞いた。
業務自体はさほど忙しくはなかった。先日までは昼食にカロリーメイトをつまむ時間さえ惜しいほど過酷だったが今日は違う。たっぷり1時間昼休憩が取れる。俺は久しぶり外食に行くことに今朝から決めていたのだ。ラーメン、いきなりステーキ、マック、すき家、モス...選ばれたのはモスでした。
みなさんご存知だろうか?今はわざわざレジに並ばなくてもテーブルでモバイルオーダー出来ることを。俺は今日初めて知った。モスでの注文は決まっている。海鮮かき揚げライスバーガーのオニポテセットにスパイシーチリドッグを単品だ。この組み合わせが最高なのだ。はじめにドリンクが運ばれて来る、今回はウーロン茶をオーダーした。ウーロン茶が半分無くなったぐらいだろうか、異変に気づく。遅くね?モスってそういえばちょっと時間かかるけど遅過ぎない??残りの休憩時間は30分弱になっていた。普段ならいくらでも待つ俺でも今日ばかりは仕方ない。レジまで赴き商品が来ないことを伝えた。「すぐお持ちいたします!!」と元気な返事が返って来た。やはりモスの接客は素晴らしい。結局商品が来たのはそれから20分後であった。俺は結局カロリーメイトを貪るが如く凄まじいスピードで商品をかきこんだ。
業務も滞りなく終え、明日もさほど忙しくなさそうなので在宅の申請をし帰路についた。
最寄りには胡散臭い活動家が何か訴えかけていた。ワクチンがどうの政府がどうの、「そろそろ目覚めましょう」と言っていたけどたぶん寝ぼけてんだろうな。
そして家に到着し気がついた。社用PCを忘れた。
在宅申請をしたにもかかわらず明日も無様に朝から出社だ。ついでにメガネも忘れた。
なあ誰か助けて。
とにかく被害妄想が強い。
「(私が)疲れてるのわかってるなら手伝うべきでしょ。嫌味?」と被害的に突っかかってくる。
「うるさい」!!と舌打ちし、机をバーンと叩いてどっかに行く。(30分以上は戻って来ない、会社は困るだろうけどこちらとしてはありがたい)
新人が教わっていない業務についての対応を質問した時とか、その業務について教える前に「もういい!私がするから触らないで!」とキレる。
そしてとにかく、愚痴が多い。
まあそんな感じなので、実際に人望はゼロどころかマイナスだし会社から評価されている訳でも無いんだけど
「私が女だからか重要な仕事を任せて貰えない。性別は変えられないのに不公平だ」とか
「私が単にうるさいヤツみたいに思われて軽く扱われているのが辛い」みたいな、被害妄想染みた愚痴をつらつら垂れ流してくる。
いつ爆発するかわからない爆弾人間、ボンバーマンならぬボンバーウーマンなので、皆当たり障りなく接してる。
彼女のフキハラやモラハラ被害に遭った人は、それぞれ上に相談しているが、状況は改善しない。
何度も注意や訓告を受けている様だが「私が女だから厳しく扱われている!」と受け取られる様で
しばらくの間は機嫌が悪化して何もしてなくてもあちらから寄ってきては不快を爆発させる疫病神になる始末。
年齢の割には全然昇進していないし、一生窓際平社員なんだろうとは思う。
いや窓際でネットでもやっていてくれた方がまだマシなのだけれど、仕事だけは無駄にしたがるから、余計に始末が悪い
フキハラやモラハラを繰り返すとか、仕事が単に出来ないとかだけではクビには出来ないんだろうなと思うけど
私含め、その女性の後輩にあたる人は毎日毎日毎日毎日被害妄想全開の愚痴を(聞いてもないのに)聞かされている。
先日も、上司が研修の終了後、「おつかれさま。研修大変だっただろうから、土日はゆっくり休んでね」と皆に言ったことに対して
すぐ社内チャットで「ねえ今聞いた?大変だったでしょ、だって。わざわざ言わなくても大変ってことくらいわかるよね。馬鹿なのかな。頭悪い上司がいると部下は苦労するよね。言われなくてもゆっくりするし。あー苛々する」
みたいな長文が送られてきた。
こんな事を社内チャットで送る事自体どうかと思うし、実際スクショを取って人事部の方に転送はしておいたが、果たしてどこまで対応してくれるのか分からない。一応の気休め。
彼女いわく「大学を卒業してからは環境も変わって友達とは疎遠気味になってしまった」らしいが
被害妄想全開の愚痴以外は、どこかのネットで見た様な男ガー男が悪いー男性社会がー男尊女卑のー、といった、フェミフェミしい話題ばかり。
誰も聞いて無いけど、相手にしないとヒスるから、仕方なく愛想笑い。本当に疲れる。
あんな一方的且つ相手に負担を強いるコミュニケーションしか出来ない人間だと、家族からも相手にされないレベルだろう。
増田でもたまに見かける、話し相手がいないタイプなのかなと思うと若干気の毒な気もするけど
物事の受け止め方が歪み過ぎてて、聞いているこちらまで頭がおかしくなりそうで辛い。
バズったとあるイラスト、スカートが股間に張り付いているのが気になる→構造的に正しい絵が正解とは限らない - Togetter [トゥギャッター]
近年、X・ツイッターをはじめネットでこういう男性オタク的エロ表現を目にする機会が爆発的に増えてみんなうんざりしてるんだよね。
今日もトレンドにあったキャラ名を見てみたら検索結果の上位は原作と全然違う「乳袋」の露骨な性的アピールイラストだったよ。
フィルター(センシティブ設定)もされてないからこういうイラストがたびたび視界に入って一般人からアニメ系オタクやイラスト描きへのヘイトが高まっているんだよ。
生成AIに詳しい人は忘れがちだけど世の中の普通の人はAIイラストと人の描いたイラストの区別なんてつかないよ。
わざわざプロフを確認しないしStable何ちゃらなんて書いてあっても意味わからないしね。
だからAIが生成したエロイラストを見てもまたオタクがライン越えしてるとしか思わないんだよ。
もちろん手描きイラストでもライン越えしてしまう人はいるよね。
結果としてああいうエロ表現が大量に一般の目に触れるようになってしまってるんだよ。
そう思うと上のまとめの発端の人のことも少し理解できるんじゃないかな。
難癖つけたつもりはなくてXに蔓延っているエロ表現への抗議だったんだよ。
文字通り「的はずれ」ではあるけどね。
私は反AIではないけど「AI推し」を自認するITの人たちがこういう社会や人々にAIがもたらしている影響や軋轢について触れないのは不誠実だなと感じるよ。
「すごい爆弾の作り方を考案したので配布した、使い方は知らない」みたいな感じ。
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。