はてなキーワード: 文化圏とは
お祭りの一形態であるネット炎上で暖をとろうとしていたら、迅速な消火活動でボヤに終わってしまい残念です。
消化不良なのでソフトウェア開発の文脈で本件を整理しておきたいと思います。
なぜ「チンパンジーを従業員」とする例え話は炎上し、何がダメだったのでしょうか。
それは、何故マンホールが部署に配属されなかったか、という問題に帰結します。
労務管理ソフトを手がけるIT企業「SmartHR」(東京都港区)が、「チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?」という記事をQiitaのアドベントカレンダーに投稿した。
記事の内容は、"マネジメント職の職責は、事前に与えられ決められた作業を行うことではなく、臨機応変にチームを守ることだ"という趣旨のものだった。
従業員をチンパンジーに例えるように読めてしまう為、不適切では?という文脈で軽く炎上、記事は削除され現在は謝罪文が掲載されている。
理不尽なマネジメントを強いられるマネージャーという文脈において、最も想定しやすいのが新しい社員の配属だから、「XXXが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?」という記事になったと想定できます。
さて、この一文だけでほぼ説明は終わってしまうのですが、この例え話はXXXを何に置き換えても、結局のところ新しく配属された社員を理不尽に感じる、としか読み取ることが出来ません。
これは、どのように予防線を張ろうとも、どのような説明をしようとも、「社員に問題があったときに、あなたはどうするのか?」という問いとして読むしかありません。
そこで、問題の社員を表現するXXXに、チンパンジーを置けば、炎上するに決まっています。
なぜか。非常に品の無い界隈の話で恐縮ですが、人間をチンパンジーに例える文化圏が日本にはまだ残っています。
もしかすると非常に上品な方たちのみで形成されている共同体では非常識なのかもしれませんが、残念ながら人を罵倒するときにチンパンと呼んだり豚とあてこする文化圏は間違いなく存在するのです。
百歩譲って、問題の社員を無機物で表現するのであれば、まだ許されていた可能性が高いでしょう。
この場合、まったく意味が分からない行為を上司に押し付けられた、としか解することができないからです。
マンホールを転がして席に立てかけたところ机ごとMacbook Proをぺしゃんこにした。同僚が躓いて怪我をした。意味が分からな過ぎて怯えて社員が辞めた。
これすら、本来は社名の入った記事として出すにはリスクが高いはずです。なぜならば「社員に問題があったときに、あなたはどうするのか?」という問いの本質は変わらないからです。
問題のある社員を表現するときには、非常に気を使って書く必要があります。
ソフトウェア開発の話題で非常に有名な表現にブリリアントジャーク(Brilliant Jerk)があります。
High Attitude, High Performance — The Rock Star
Higher Attitude, Low Performance -The Team Player
ココで着目して欲しいのは、能力のある嫌な奴(The Brilliant Jerk)ではありません。
非常に協調性が高く、低い生産性の人物をThe Team Playerと表現していることです。
成果主義であれば、Low Performanceであればいずれ職場からいなくなるのが自然です。
しかし、高い協調性(非常に良い態度)があるなら、それはチームプレイヤーとして欠かせないのかもしれないよ?という予防線の張り方をしているわけです。
その上で、真っ向から、態度が悪い嫌な奴はチームに入れると全体の生産性が落ちる、という筋の話をしているわけです。
そして、職場からThe Brilliant Jerkを排除せよという書き方にもなっていません。
もうそういうヤツに居場所はない、リーダーなら協調性がありコミュニケーションがとれるべきであるという、「リーダーかくあるべし」論に着地している所が優れているのです。
つまり、「XXXが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?」というタイトルの記事を書くべきではありませんでした。
「XXXな状況になったときに、マネージャーはどうあるべきか?」というタイトルの記事を書くべきでした。
微に入り細を穿つ描写で、チンパンジーが職場で暴れてチームを壊す筆致を見せる必要は全くありませんでした。
どう贔屓目に見ても、それはチームを壊す厄介者が配属された時に、如何にして(合法的に)チームを守るのか、という寓話としてしか読み取れません。
「あーあ、あんな奴がいるから、会議室を潰して追い出し部屋を作らなきゃならない俺は大変だなあ」みたいなことを令和に書いて許容されると思う方がどうかしています。
人物ではなく現象ですと注記して許されると思うのは、どう見ても未成年を描いておきながら登場人物は全員成人ですというのと同じです。
私個人としては、表現の自由の最前線で戦う方達を畏敬の念でもって(経済的に)支えることしかできないわけですが、労務管理ソフトを手がけるIT企業がそんな気概を持つ必要性は全くないと思慮する次第です。
(たぶんだけど、ボリュームが多いので全部読まずに雰囲気で説明されてそのまんま出したんじゃないかなーと言う気はします。法務とか広報は通ってないんじゃないかな)
社長から急に巨大なクリスマスツリーを飾れと言われて困る、くらいの現象にして「令和にもなってクリスマスのような宗教的な話題を載せるのは大丈夫なの?」とか言われるくらいが良かったんじゃないのかな、と言う気がします。
ソフトウェア開発に携わる人たちには、驚き最小の原則(Rule of least surprise)を忘れて欲しくないと常々思っています。
私は趣味の悪い野次馬根性のネットウォッチャーです、これから炎上させにくい記事の話をしますと冒頭に書いてあるのはそのためです。
直観的に、ああこれはチンパン従業員をマネジメントする話をこれからするんだろうな、と思われた時点で負けなわけです。
そして、労務管理を行う会社が、問題のある社員をマネジメントするのは大変だよねと読みとれるような寓話を書いてはならないわけです。
何をどう誤読しようとも、社長に無茶振りされて中庭に巨大なクリスマスツリーを電飾するか消すかで翻弄される中間管理職を書くべきだったわけです。
良く読めばわかるように書いてあるというのは、誤読して欲しい時にだけ使うのです。
それにしても、割と今回は穏当な指摘が多かったと思います。
これ、外資の日本支社だったら、同僚から速攻で訴えられて普通に負けると思います(偏見)。
しかし、縁故採用に見える話を社名載せて出して大丈夫なの?とか、不透明な資金調達してますが凄腕の社長ですみたいな表現どうなの?とか、もっとこう火種があったと思うんだよなあ。
もっと面白い炎上をたくさん見たいので、こういう直球のノープラン炎上で企業名のある記事が減ってしまいかねないのは避けていただきたく。
もっとさあ、ローパフォーマーを特定して左遷してチームの生産性を改善した話とか書いて大炎上してくださいよ。
いちおう、本番環境でやらかしちゃった人アドベントカレンダーにしれっと書いて大炎上ルートは残されているので、そっちでなんとかならんか?
滋賀県に住んでいる。
周りはほとんど車を持っている。
「姉の彼氏が社会人なのに車持ってなくて、親が少し懸念を示してる」といったニュアンスの話があって、とても驚いた。どうやら、車がただの利便性だけでなく、「一人前の大人として必要なアイテム」としても機能している文化圏があるらしいというカルチャーショックを受けた。
まず私は運転できないから、車があっても別の交通手段を使うし、夫の職場は自転車で10分くらいだから、準備や駐車時間、通勤ラッシュをを考えたら自転車のほうが早い。多分車を買っても自転車通勤すると思う。私の職場も徒歩圏内だ。そして、「子供が産まれたら車が欲しくなる」という意見もあるが、子供を産む気がないのでこれにも該当しない。
そうなると、購入費や維持費を考えたら、タクシーを使った方が明らかに安い。それに、多少高くついても「自分で運転しなくていい」「移動中の時間を自由に使える」というメリットを考えたら絶対タクシーのほうがいい。それに、ある程度長距離の移動なら新幹線とか鉄道を使いたい。その方が事故率が低くて安全だから。そう考えると車を持つのはコスパ悪いの極みなんだよね。
でも最近、夫がそろそろ車を買おうかなと言い始めたので、なんとかして阻止したい。あんな危険でコストがかかる乗り物いらないよ…。
しかもよくわからないのが、夫は車に興味がなくて、「中古の軽自動車とかでいい」って感じの人。なんなら車自体は私の方が好きだと思う。もし石油王とかになれたら、運転手付きのマセラティとか欲しい。だから逆に夫が、マセラティとはいわないまでも、クラウンとかを欲しがるならまだ趣味とか見栄として理解できるんだけど、中古の軽とかコンパクトカーなんて、見栄にもならないし、この通り生活には車いらないし、無駄な出費でしかないって思っちゃう。
高市総理「働いて×5」流行語大賞受賞が左派界隈で大きく炎上する傍ら、もう1つの炎上が起きていた。エッホエッホ構文でパクツイ犯が勝手に表彰されたというものだ。
どう炎上していたかは後で解説するとして、初めに結論を書くと授賞式で表彰された「うお座」氏は紛れもなくエッホエッホ構文の創始者である。炎上は完全な冤罪だ。
事実として、エッホエッホ構文は彼の3つのネタツイから始まった。
エッホエッホ
エッホエッホ
エッホエッホ
エッホエッホ
【なぜ?】
エッホエッホ
あの子に嫌いって伝えなきゃ
エッホエッホ
1つ目と3つ目はうお座氏のサブ垢@selfsatisfac、2つ目の投稿は本垢の@zlatanera17から投稿されている。どうも、クセのあるネタはサブ垢から、万人受けする本命のネタは本垢から投稿するという運用のようだ。
ネットミームには、人々の中で伝播する中で徐々に形を変えていったものと、原型がほぼそのまま流通するものと2種類ある。エッホエッホ構文は後者だ。エッホエッホ構文のほぼ全ての要素がうお座氏のツイートに詰められている。
まず、最初の「たかみなの具合が悪いから〜」の段階で、「エッホエッホ (任意の内容伝える) エッホエッホ」という構造となっている。
流行語大賞の選評でも、
と述べられているように、これこそがエッホエッホ構文のコアの独創性である。
次に、本垢から投稿されたうお座氏の最も拡散されたエッホエッホ投稿では、「可愛らしい子供がお母さんに頑張って何かを伝えようとしている」というエッホエッホ構文のイメージが確立している。
エッホエッホ構文に詳しくない人向けに例をあげると、うお座氏の後にエッホエッホ構文で最もバズったツイートの1つである霜田氏のツイートも、このイメージを継承するものだ。
エッホエッホ
エッホエッホ
最後に3つ目の「あの子に嫌いって伝えなきゃ」で「伝えなきゃ」というフレーズを使用している。エッホエッホ構文は現在では、「伝えないと」ではなく「伝えなきゃ」という形を取るものが主流だと思われるが、これもうお座氏が初である。
エッホエッホ構文を使用したネット大喜利は、うお座氏のこの3つのツイートがバズったことで始まった。
日本時間2025年2月24日21時までの「エッホエッホ」検索結果
うお座の最初のツイートは2月24日4時7分、3つ目のツイートは15時42分投稿のものだが、
うお座氏以外でエッホエッホ構文を使い始めたのは、24日16時58分のツイートが初で、それまではうお座氏以外にエッホエッホ構文使いは存在しない。
誰もが参加できるエッホエッホ構文ネット大喜利が自然発生したのは、うお座氏が3つの巧みなネタツイをそれぞれバズらせることで構文としての汎用性を立証したからこそなのだ。
エッホエッホ構文の生みの親がうお座氏であるという明白な事実があるにもかかわらず、ネット民は別のツイッタラー「はじめ」氏をエッホエッホの「始祖」と崇め、うお座氏らを「パクツイで受賞」「ミームの横取り」「お前らが受け取るべきじゃないって伝えなきゃ」などと中傷している。
しかし「はじめ」氏がエッホエッホの「始祖」だというのは、デマである。
端的に、初出でもなければ拡散もされていないからである。彼はエッホエッホのブームが一通り落ち着いた2025年6月に「てかエッホエッホってほぼおれ発祥やったよな」とツイートしたことで、この構文の起源だという認識を獲得した。しかし丁寧に検証すれば、これは不当な「あれ俺」主張であるとみなさざるを得ない。
運動するか
えっほっえっほっ
このツイートが真の起源であると誤って信じられた理由について、1つ1つ解体していこう。
これは誤った推論である。なぜならばこのツイートは2025年6月に投稿者が「あれ俺」主張するまではほぼ知られていなかったからだ。
現に、うお座氏のオリジナルのエッホエッホ構文ツイートが投稿された2月24日までの、はじめ氏のツイートの公開リツイート数を取得するとわずか1件しかリツイートされていない。
念の為、はじめ氏が2022年に投稿した類似内容のツイートについてもリツイート数を取得すると、9件である。身内にはウケたのかなという程度の数字だ。
検索する限り、うお座氏とはじめ氏の間にリプライ/RTなどの交流は確認できないので、合計10RTしかないツイートに依拠したと考えるべき理由は何も存在しない。
2021年10月に画像を日本で画像を話題にしたのははじめ氏ではなく、およそ4万RTを記録した最多情報局(@tyomateee)の投稿である。アカウント名でわかる通り、これは転載系のアフィアカウントであり、この元ネタは英語圏で同じく4万RTを記録したRosi@rosiyesrosiの投稿だろう。
なんにしろ、はじめ氏は、海外でバズった投稿の画像を転載して日本でバズった投稿をさらに転載して投稿しただけであり、発掘の功はまったく存在しない。
あの写真を見て「えっほえっほ」と形容したくなるのは日本人にはある程度普遍的な感覚らしく、2021年10月だけで少なくとも4人が同じ投稿をしている。はじめ氏は3番目だ。
仮に、「えっほえっほ」という文字列に何らかの尊重されるべき新規性を見出すのであれば、中でも最古と考えられるジロ助🐶🐾氏の投稿を称えるべきであろう。
とはいえ、こういうある程度誰でも思いつく発想を個人に紐づけてしまうのは望ましくない。新規性はないと考えるのが常識的な結論だろう。ちなみに、2025年2月でも写真に対する「えっほえっほ」という反応はうお座氏の前に2件発見できる。
流行語大賞表彰者に対する異議の声は、パクツイデマが発生する前から大きかった。理由はおそらくTikTok文化への反感である。
表彰写真には「うじたまい」と「うお座」の2人が並んでいた。両方白系の服で陽の雰囲気を漂わせており、ぺことりゅうちぇるのようなコンビを思わせるところである。
そして「エッホエッホの歌」の作者うじたまい氏は、TikTok/YouTube文化の人間である。ゆえに、X民側のはずのうお座氏もまとめてTikTok民の仲間か何かだと思われてしまったのだ。
「Xで生まれたミームなのにTikTok勢が表彰されやがって」これが、初期の異議の背景にあった感情である。
また、うじたまい氏が一部Twitter民から「ミームを終わらせた人」と敵視されていたことも、反感感情を燃え上がらせた。
しかし、うじたまい氏が「ミームを終わらせた人」だという評価は妥当なのだろうか。動画文化圏には土地勘がないので、本稿ではうじたまい氏の表彰が適切だったか本格的に検証するのは範囲外とするが、明らかな事実として「エッホエッホの歌」でミームは終わっていない。むしろ、ミームとしてのピークは「エッホエッホの歌」の後に来ている。
Googleトレンドを確認しよう。人気度の動向では2つの山がある。まずひとつ目の山はエッホエッホ構文が生まれた2月末、人気度47である。ここから徐々に人気度は下がるが3月第3週に反転、4月初旬の人気度は100、エッホエッホミームの人気度のピークである。
うじたまい氏の「エッホエッホの歌」は3月1日TikTokとYouTubeに投稿され、YouTubeでは1,459万回再生されている。私としてもなにがおもしろいのか全くわからないネタでありTwitter民が冷めたと感じるのは理解できるのだが、再生数は正義だ。
ミームのピークがこの後4月に来ることを考えると、Twitterよりさらに活力のあるTikTok/YouTubeにミームを移植したという功績は大きい可能性が高いのではと思う(なお動画化の初出については調査していないので、より適切な人選がある可能性については留保する)。
そんなこんなで表彰の人選に対して疑問の声が集まる中、「エッホエッホは火付け役はうお座でミーム終わらせたのがうじたまいで始祖この人だよね 」と、はじめ氏のツイートが紹介されたのである。これがパクツイデマの発端であるが、ここまでは火付け役としてうお座氏の功を認めており、パクツイまでは認定していない。
本格的にうお座氏にパクツイの冤罪が着せられるようになったのは、有力ネタツイッタラー「理解のある蟹くん」氏の投稿がきっかけである。
理解のある蟹くん氏は、はじめ氏に対し「流行語大賞おめでとうございます 」と皮肉げに祝福し、続けて、証拠としてあるスクショを掲げて、うお座氏を「親父気をつけろ 奴は他人のツイートを盗む」と誹謗した。
つまり、ネタツイッタラーのうお座はパクツイ常習犯であり、エッホエッホもその一部だと言わんとしたのである。
しかし、理解のある蟹くん氏のスクショを見てみると、これはうお座氏の素行の悪さの立証には到底なっていないと思われる。スクショの内容を文字化すると以下のとおりである。
1. 5月26日、理解のある蟹くん氏が、「ANA機内騒動、ドア開けようとする御奈新日ヶ万出」というGrok自動生成ニュースのスクショをコメントなしでUPする。66リツイートされる。
2. 6月9日、うお座氏が「これ何だったんだ」というコメント付きで同じスクショをあげる。コラでなく実際に見たとも主張する。1,271リツイートされる。
検討しよう。まず、そもそもコラでなければうお座氏のツイートになにも問題はないので、これは理解のある蟹くんの作成したコラであったのだろう。が、コラであるという注記はどこにもない。Grok自動生成見出しに誤りが多いことはよく知られた事実であるので、これを見た人は本物のスクショであると誤認したとしてもある程度やむを得ない。
そして、うお座氏/理解のある蟹くん氏ともにネタツイッタラーであり、他人がUPした画像を転載しておもしろいコメントをつける芸で人気を集めている。当然、日々ネタツイ芸に使える画像を大量に集めていることだろう。おそらく、うお座氏の画像ストックの中に理解のある蟹くん氏のコラが混ざっていて、後日ネタツイを考えているときに記憶違いでコラを実際に見たものと誤解してしまったのではないか。ネタツイッタラーにありがちなミスだろう。
なんにせよ、理解のある蟹くん氏がこれをパクツイだと感じたならば、この件に限ってクレームをつければいいのであり、デマに乗っかってこれ幸いと競合ネタツイッタラーを貶めようとする行為に正当性はない。ネタツイッタラーの倫理として、ライバルにはデマではなくネタを以って勝利すべきだ。
一度、パクツイと思い込んでしまえば、中傷は止まらない。中傷ツイートのなかには数万規模でいいねを集めたものも複数存在した。
例えば、“空也上人像”コスプレで有名なクリエイター、中埜氏は2人の写真を晒し上げ、以下のようにツイートした。
パクツイ犯として、一生風当たり強く生きてほしいですね。
願うことなら、「デマに真に受け、人の顔をデジタルタトゥーにしようとした人」として、一生風当たり強く生きてほしいものである。
またライブドアニュースの投稿には一時「初出は『うお座』氏ではありません」というコミュニティノートが付いた。少数の人間の地道なデマ訂正の努力もあり、このコミュニティノートは現在消えているが、「集合知」に依存するコミュニティノートの脆弱性が露わになったと言えるだろう。
このような記事を作るとおそらく、「ネットミームの初出がなにかなんてどうだっていい」「初出なんて明らかにするなみんなのものだ」のような反応があるだろう。それはそれでいいと思う。一貫性をもたせることができるならの話だが。
実際は、言葉に反して多くの人は初出をそれなりに尊重している。尊重しているからこそパクツイなる言葉で人を責めようとするのだ。すべてが匿名であった2ちゃんねるの時代と違い、ツイッター時代のネットミームはそこそこ高い精度で初出を辿ることができる。ネットミームに対する倫理は当然に変化している。自分に都合よく、あるときはパクツイあるときはみんなのものと、倫理のつまみ食いをするのはいけない。
多くの人がデマに騙された理由としては、ネットは自分の庭であり流行語大賞なんかにはわかるはずがないという驕りもあるだろう。思い出すのはだいしゅきホールド三国陣事件の顛末である。医学博士号を持つ科学者で、ネットでは科学啓蒙者としても活動していた高山理図先生は、だいしゅきホールドの起源を僭称した友人である三国陣氏を信じ庇ってしまったことで、今もなおネット空間で中傷を受けている。しかし今回の事件で起源僭称者を祭り上げ庇ったのは誰だったのか、ネット民多数派ではないのか。三国陣事件を風化させないという題目掲げながら、起源僭称者を称える倒錯に至る宿痾を一度考え直すべきではないだろうか。
はてな匿名ダイアリーには、記載できるURL数に制限があるのでいくつかのURLを省略した。大方は以下から確認できるはずである。
俺は小学生の頃に世界地図を見ていて、なぜこれだけの数の国と国境があるのか不思議に思った。
もし世界が弱肉強食で成り立っているのであれば、1000年もあればいずれかの国の政府が世界を統一しているはずである。
なのに未だに世界は、現在では196カ国と非常に多くの国があり、国境を分けてこの地球の地表にて住み分けをしている。
もちろん過去には滅んだ国もあれば、国土の増減もあっただろう。モンゴル帝国のような世界を支配しかけた国もあっただろう。
しかし、そのどれもが道半ばで弱体化したり、内部分裂によって崩壊して元の「ちょうどいい国境」へと戻っていった。
これが何を示すのかというと、その土地の性質ごとに、その土地の国民の性質が大きく異なっているということだ。
例えばエスキモーが赤道直下の黒人と同じような生き方をできるわけがない。
つまりは、その土地の生活様式の中でしか国家というのは成立しない。
例え侵略して征服することができても、アメリカ合衆国日本州、中華人民共和国日本省となったとしても、
遠い未来では全く生活様式の違う本国と内部分裂を起こして崩壊する未来しかない。
しかし今現在も権力者たちは「俺は違う」という認知バイアスを起こして征服しようと非常に無駄な努力に税金と国力を使っている。
なぜ、この当たり前の真実をもっと世界は広めようとしないのか?
と、当時の子供の頃の俺は結論に至り、今も戦争や権力者たちの正義だの悪だの最新兵器だのを冷ややかな目で見ている。
そこに永遠はないし何の真理もないのに溺れる者たちは何を考えているのだろうか?
書き手はおそらく30代後半〜40代前半の男性 である可能性が高いです。
理由を分解すると:
「おいおい、俺は常識を述べただけだぞ?」
→ 「俺」口調でやや上から目線・ツッコミ系。ネット黎明期〜2ちゃんねる文化圏の男性語っぽい。
「まさか温度以外の感覚がお前の中で『さぶい』という言葉を生み出したのか?」
→ 「さぶい」=「寒い(=ダサい)」をめぐる言葉遊び。語感へのこだわりと理屈っぽさがあり、ネットでの論争的文体。
→ 下ネタを軽いジョークとして挟むあたり、若者よりも90〜00年代掲示板ノリに近い。
「きんもーっ☆」
→ 2000年代中頃(「電車男」ブーム期)のネットスラング。現在20代の人にはリアルタイム体験がほぼなく、当時10代後半〜20代前半だった層が現在30代後半〜40代前半。
総合すると:
したがって推定:
そもそも、ノーベル平和賞の存在と受賞の基準が非常に疑わしい。
疑わしいというか、科学技術や生物学、文学といったアカデミックに審査可能なカテゴリーと同じ基準に並んでいるのが似つかわしくないといったほうが良いか。
確かに今現在、ある視点から見れば平和的な行動をとったかもしれないが、将来歴史を分析した際に、果たしてそれの実績が平和的な実績だったのか疑わしいし、
受賞基準である平和の概念自体が「西洋の文化から見た平和」に過ぎない。
西洋の文化圏からみた平和は、他の面から見ると伝統的文化を破壊する平和とは程遠い行為であることが良くある。
受賞するかどうかはわからないが、ここらで一発あまり平和的とは言い難い人物をノーベル賞に推薦し、ノーベル平和賞の存在意義に一石を投じてみるのも良い気がする。
日本って「友達以上恋人未満」の概念が無いけど、海外には結構あるんだよね
| 文化圏 | 中間関係の名称/位置付け | 備考 |
| 🇺🇸 アメリカ | Dating(デート中)/Seeing someone | 「交際準備段階」。複数人と同時にデート可。恋人ではない。排他性はまだない。 |
| 🇫🇷 フランス | Flirt/Relation amoureuse naissante | 恋が始まりつつある関係。身体的接触もあるが、関係確定前。 |
| 🇧🇷 ブラジル | Ficar | キス・一夜などを含む軽い関係。恋人前提ではない。社会的にも普通。 |
| 🇸🇪 スウェーデン | Dejta | デート段階。性的関係もありうる。交際宣言は不要。 |
| 🇰🇷 韓国 | 썸 (Some) | 「友達以上恋人未満」を公式用語として定義。LINE・デート・手を繋ぐが、交際確定前。 |
| 🇩🇪 ドイツ | Kennenlernen(知り合い期間) | 「互いを知る段階」。恋人前提ではない。複数人並行もあり。 |
| 🇮🇳 インド | Courtship(見合い期間) | 家族承認の前段階。恋愛ではないが将来性を見極める期間。 |
すべての国ではないが、思ったより多くの国でこの関係は「複数人可」で「性行為あり」だったりする
日本はグレーゾーンが概念として無いから、そりゃ消極的にもなる
なんか、自覚ないかもしれないけど、日本って世界的には厳格な方なんだよね
↑
│ 🇮🇳🇸🇦イスラム圏
│ 🇨🇳🇰🇷東アジア
│
│
│ 🇫🇷🇩🇪ヨーロッパ
↓
現代日本人が得てる創作やら常識って、実はアメリカ由来で、歴史的にはアジア由来なんだけど
世界的に統計取ったら実はそれ以外の国では割と寛容っていう(イスラムやアフリカの一部除く)
例えば不倫にしても、アメリカや日本では政治家が失脚するようなネタだけど、ヨーロッパやラテンアメリカではそうじゃないんだよね
思ったより我々は狭い価値観の中で生きているのかもしれない
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結局そういう機会が多いから、相対的に絶対数も増えるって話だよね、逆も然りで日本は厳格だからレイプ(不同意)の機会も減り犯罪数も減る
そしてポルノは少ない
これは鶏が先か卵が先かだけど
現代のネットでは「2000年代の個人サイト時代、同人サイトは2ちゃんねるの男オタクに荒らされまくった」という話がよく語られる。でも、当時を知る者として、その記憶には少し違和感がある。
確かにVIPPERが同人サイトへ突撃したりブログを炎上させた事件はあった。しかし、当時無数に存在した、一日数十PVしかないような弱小同人サイトを荒らしていたのは、本当に外部の男オタクだったんだろうか?むしろ、もっと根深い「内部抗争」が原因だった。当時のネットの構造から、そう結論付けられる理由を説明したい。
まず前提として、2000年代初頭の個人サイト文化、特にジオシティーズに代表される世界は、現代のSNSとは全く違う。
発見が極めて困難:Google検索は今ほど万能ではなく、サイトのURLもランダムな文字列に近い。アルゴリズムによる「おすすめ」なんて存在しない。
孤立した文化圏:サイトを見つけるには、特定のジャンルに特化した「リンクサイト」や、サイト同士で張り合っていた「リンク集」をたどるしかなかった。つまり、そのジャンルに詳しい人間しか、そもそもサイトにたどり着けなかった。
この環境は、外部の人間(例えば、なんとなくやってきた2ちゃんねらー)に対しては、事実上「不可視」だった。しかし、同じジャンルを愛好し、アクセス方法を知っているファン同士にとっては、お互いの存在は筒抜けだった。この構造が「蛇の道は蛇」――つまり、荒らしは内部の人間だった、という仮説の土台になる。
世間で言われる「2ちゃんねらーによる襲撃」は、その性質が弱小サイト荒らしとは根本的に異なる。
目的は「祭り」:彼らの「突撃」は、大企業や有名人など、話題性の高い相手を標的にした「お祭り」だった。参加者が一体感を楽しむためのパフォーマンスであり、誰も知らない個人サイトを叩いても、彼らにとっては何の面白みもない。
女性オタクは一方的に弱くなかった:歴史的な事実として、VIP板がやおい板(801板)に戦争を仕掛け、返り討ちにあった事件がある。801板の住人たちは、暴力的な言葉ではなく、VIPPERを題材にしたBL妄想を即興で展開するという「文化的な攻撃」で相手を混乱させ、降伏させた。これは、彼女たちが独自の結束力と強さを持っていた証拠だ。
VIP板が女性向けまとめブログを攻撃した事例(第一次ブログ連戦争)もあったが、これも標的は「ある程度有名なサイト」だった。無名の個人サイトを狙う動機が、彼らにはない。
では、誰が荒らしたのか? 答えは、同じジャンル内にいた、解釈違いのファンたちだ。
当時の同人界隈では、「カップリング論争」が今よりもずっと先鋭化していた。
固定 vs リバ:キャラの攻め受けが固定か、リバーシブルか。
これらは単なる好みの違いではなく、自分の信じる「正史」を揺るがす「異端」との戦いだった。自分の解釈と違うサイトは、コミュニティの秩序を乱す悪であり、それを攻撃することは浄化として正当化され得た。
1. 同じジャンルのファンだから、専門用語で検索して同人サイトを見つけられる。
3. どのサイトがどんなカップリングを扱っているか、詳細に把握している。
4. そして、そのカップリングがなぜ自分たちの思想にとって「許せない」ものなのかを理解している。
外部の人間には到底不可能な、極めて精密なターゲティングができるのは、内部の人間だけ。「蛇の道は蛇」とは、まさにこのことだ。
結論として、2000年代のネットには二種類のハラスメントが共存していた。
1. 外部からの襲撃:2ちゃんねらーによる、有名サイトを狙った派手な「祭り」。
2. 内部のハラスメント:同ジャンルのファンによる、解釈違いを理由とした陰湿な個人攻撃。
日常的に多くのサイト運営者を苦しめていたのは、後者だった可能性が極めて高い。
では、なぜ現代では「犯人は2ちゃんねらー」という話ばかりが残ったのか? それは、歴史が単純化された結果だろう。「外部の敵」という構図は分かりやすく、劇的で記憶に残りやすい。一方で、ファン同士の醜い内ゲバは複雑で、語りにくい。
そして決定的なのが、ジオシティーズの閉鎖によって、一次資料である無数の個人サイトが永遠に失われてしまったことだ。証拠が消え去った今、よりキャッチーな物語だけが生き残り、史実とは異なる認識が広まってしまった。
更に言えば、今現在SNSなどで繋がっている相手が当時の対立相手だった可能性が捨てきれないので、この内ゲバの記憶を封印し、残った2ちゃんねらーの突撃の記憶だけを語るようになった。
この事実は当時の801板の過去ログdatでも確認できて、自分の同人サイトが荒らされている理由として男性やVIPPERなどという言葉は出てきておらず、犯人として別カプや他ジャンルの名前を挙げている書き込みが殆どであることから伺える。
この記事はGoogle Gemini 2.5 Pro Deep Search(課金版)で作成されました。
どうやらGeminiは「なんでB×Aなんて描いてるの?気持ち悪い。原作読めばA×Bが公式だってわかるでしょ。サイト閉鎖しろ。」とか「ここは私のサイトです。どのカップリングを描こうと私の自由です。このような書き込みは今後削除します。」とか「最近、他サイト様の日記で名指しはされていないものの、明らかにうちのことを指していると思われる批判を見かけました。『節操がない』『キャラへの愛がない』といった言葉は、とても悲しいです。」のようなやり取りもURLと共にそのデータベースへ保有している模様。
最近は色んな作品やグッズで「〇〇担当しました」って作画スタッフ本人が出すのも珍しくなくなったし、割と好意的に受け取られることが多い
でもちょっと前にちいかわマックコラボの絵描いた人が「担当しました」って言った時は悪い反応ばっかで炎上してた
「知らない人が描いてるなら要らない」とかはまだマシな方で攻撃的すぎるのが多かったし、受け取る側の文化圏が違いすぎるんだろうな
この記事を読んだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gigazine.net/news/20250918-cognitive-psychology-experiment/
だからサンプル数が小さかったり、文化圏が違ったり個人差があると再現できないこともある。
また、「Science Fictions あなたが知らない科学の真実」という本でも再現性の危機は指摘されている。
ただこれで「心理学はすべて信頼できない」となるのは早計だと思う。
文科省の掲げる子供が目指すべき指針を鑑みるとグローバル人材は幼いころから異なる文化圏、代表例として英語圏の感性も積極的に取り入れなければならないのどぇ
ここすき。
これを 2+2+2 と立式するのが「自然だ」という価値観にはまぁ賛成
でも、「2+2+2は2×3と立式されるべきだ」にはならない
なぜか?
英語圏では、 three 2s と書く(というより、言う/喋る)
嘘だと思うならBBCのNumber Blocks の掛け算の動画を見てこい。
文科省の掲げる子供が目指すべき指針を鑑みるとグローバル人材は幼いころから異なる文化圏、代表例として英語圏の感性も積極的に取り入れなければならないのどぇ
算数の世界においても、2+2+2は、積極的に、3×2と立式すべきなのである
順序派の奴らはこのあたりのグローバル感性が全く身についていない、だから2+2+2を2×3などというクソジャップ特有のドローカルガラパゴチックな考え方を子供に押し付けてしまう