はてなキーワード: 神聖とは
左翼やサブカル、フェミニスト界隈は「そんな事実はない」「むしろオタクが加害者だ」と反論を続けている。
これは今に始まったことではなく
大昔にLGBTへの差別について話題になった時も、はてサ界隈の連中は
「LGBTの方々が性的指向でいじめられるのと、お前らオタクがその趣味でいじめられるのを一緒にするな。
お前らのはただの趣味なんだから、お前らがオタク辞めればいいだけじゃん(笑)」と言っていた。
彼らの言動を見ていると、逆説的に彼らが「被害者」という属性を神聖不可侵な錦の御旗と考えていることがよくわかる。
その属性を名乗ってよいのは、彼らのイデオロギーに合致した、被害者としての見栄えが良い人だけなのである。
彼らの言うところの「オタク」のように、自らに賛同せず、見栄えの悪い「汚れた」連中は、錦の御旗を触ることは許されないのである。
リアルタイムで流行していたときはパクリと叩かれていたのに今になって平成の象徴みたいにイケナイ太陽が持ち上げられているのって、当時は若い女がキャーキャー言っていてムカついたというだけだと思う
オレンジレンジ以外にもリアルタイムの流行はクソミソに叩かれて、20年30年してから持ち上げのフェーズに入るやつ本当に多いけどくだらない
多分ミセスとかも今ドパガキ音楽としてクソミソに叩かれているけど20年30年してから「令和って感じでエモいよね」みたいになる
邦楽だけ挙げたけどビートルズもリアルタイムで流行して若い女がキャーキャー言っていたときにはクソミソに叩かれて、「歴史」になってからは美化と神聖視にシフトしたのでどこも同じ
シーンをそれなりに真剣に追っている者として、ウメハラがメナに勝つ確率は低いと思っている。
そのあたりをデータで語りたい。
ウメハラの昨年度の戦績はこうだ。
国内外を問わず、ある程度までは行くがトップ層にはしっかり負ける。
それはそれで凄いという話もあろうが、「格ゲーの王」としては物足りない。
これらのトーナメントに参加するプレイヤーの大きな目標は、巨額の賞金が懸かった二つの大会、
「Esports World Cup (EWC)」と「カプコンカップ(CC)」への出場権獲得だ。
ウメハラはどちらの出場権も獲得できなかった。
すでに世界のトップ層が別のトーナメントで出場権を獲得している状況で上位10人というのは、
さすがに最近奮わないウメハラでもいけるかと思われたのだが、そこでも33位だった。
実に安定している、悪い意味で。
World Warriorは、カプコンカップ(CC)の予選大会だ。
上で挙げた国内外のトーナメントとは別に、CCへの出場権を獲得するチャンスとなる。
全5回の開催で、
がCCに出場できる。
ウメハラの戦績はこうだ。
上振れただけ、という結論だろう。
それは他の大会の戦績を見れば分かると思う。どちらがデフォルトなのか。
もし、「それでも1回だって2位になるなんて凄い!」と言うなら、
その大会でウメハラを完封して優勝したひびきのことを、あなたたちはどれくらい評価しているのだろう?
結果を正当に評価しているとは到底思えない。
ウメハラは、弱くないが、プロとして「強い」と言うのは難しい。
ちなみに、メナは数千人が参加するEVO JAPANを2年連続で優勝している。
近年の戦績で言えば圧倒的にメナが上というのは、誰もが認めるところだ。
ここは強調しておきたい。
「つまらない調整」だったのだ。モチベーションを保つのが難しい。
「豪鬼はものすごい弱体化を受けた」と思っている人がいるのだとしたら、それは話を聞かず印象で語っている人だ。
なぜそんな印象になってしまうのだろうか?
それは、豪鬼が「胴着」と呼ばれるスタンダードキャラの一種だからだ。
豪鬼のように波動拳・昇龍拳で戦うキャラクターは「胴着」系と呼ばれ、
だから胴着使いはキャラの乗り換えが比較的容易で、より良い選択肢に移住しやすい。
結果として豪鬼はごっそり減った。
だがそれは胴着キャラという特性ありきで、「極端に弱くなったから」ではない。
(と言うか、スト6において戦えないキャラなどいない。奇跡的にバランスがいい)
だが、勝ちに拘る上位層ほど、胴着キャラでは容易にキャラ替えする。
つまり「勝率の高いプレイヤーほどいなくなりやすいのが胴着キャラ」ということだ。
https://www.streetfighter.com/6/buckler/ja-jp/stats/dia_master/202602
キャラ同士の組み合わせで勝率の割合を示しており、「5」ぴったりなら完全に五分となる。
そこから増えれば有利な相性で、減れば不利な相性だ。
最上位帯となるULTIMATE MASTER(アルマス)帯の相性を見ていこう。
確かに数値は悪くなっている。
しかしここで重要なのは、「勝ちにこだわる上位層ほどキャラを乗り換える」という事実だ。
胴着キャラは人口が多いので、移住による勝率変化がもっとも顕著に出る。
つまり、実際に強くなった・弱くなった度合いよりも、勝率変化が大袈裟に出やすいということだ。
ナーフ後は、4.968。
数値だけ見ると豪鬼の方が下げ幅が大きいが、
上位層でもそのまま粘って使い続ける人が多いだろう。
このあたりの事情を加味すると、豪鬼とブランカの弱体化度合いは、せいぜい「どっこい」だ。
少なくとも「ウメハラは超絶ナーフを食らった豪鬼で頑張っている」というのは大きな勘違いと言えるだろう。
ちなみに、
で、これは五分と見ていいだろう。
これはアルマス帯の統計で、対戦相手はアルマス帯以外も含まれるので、綺麗に足して10にはならない。
データとして、近年の戦績の部分ではメナが圧倒的に優勢、キャラの部分では五分、ということが分かってもらえたと思う。
だから俺はメナが勝つと思う。
ドミニカのコミュニティのために、それこそかつてのウメハラのように、あるべき姿を示している。
尊敬すべき男だ。
唯一ウメハラに分があるとしたら、圧倒的ホームの環境というところだ。
メンタルの部分でもメナは臆せず戦えるだろう。
俺が言いたいのは、過去の栄光とか、実態に基づかない願望とか、
そういったことでウメハラを「格ゲーの王」などと言って持ち上げるのはもうやめて欲しいということだ。
「格ゲーの王」を自認して、それを誰も突っ込めない。
「馬鹿野郎!全然勝ってねえくせに、"王"なんて調子こくな!」と誰かが突っ込んでやらないと、痛々しいだけだ。
つい先日、SFL ワールドチャンピオンシップという団体戦の世界大会の説明を受けているときに、
他のプレイヤーがちゃんと話を聞いているなか、ウメハラだけスマホを横にして、だらしない姿勢で何か別のゲームをしていたのをご存知だろうか。
あまりにも酷い態度で、「チームメイトのレシャーが機嫌悪そうなのはウメハラがあんな態度だからではないか」とときど・ふ~どが心配したほどの醜態だったが(実際は頭痛が辛かったかららしい)、
そのことでウメハラを「シャドバやってたんすか?」と軽く問い詰めたら、「いや、スレスパだから。しかも1」などと言ったらしい。
笑えるが酷い話だ。シャドバだろうがスレスパだろうが選手として姿勢がなってないという話だろう。
でもウメハラはふんぞり返る。ふんぞり返り続ける。
なぜなら王だから……。
こんな時代はもう終わりにしないといけない。
ウメハラはその場でいい感じのことを言う才能だけは格ゲーよりもあるのでみんなコロっと騙されるが、
しっかりウメハラの動向を追っていると幻滅することだらけなのだ。
メナよ、頼んだぞ。
予想通り、メナが勝った。順当な結果だった……とは思わない。
正直、2-10でウメハラが負けてもおかしくないと思っていた。
結果は6-10。
ただ、これから先、
日本の二次元文化、特にBL(ボーイズラブ)文化と西洋の道徳観の対立については、近年、英語圏の「Woke(ウォーク)」界隈や宗教的な価値観との間で深刻な摩擦が生じています。
英語圏のWoke界隈では、「西洋のクィアメディアは道徳的に善であり、アジアのクィアメディア(BLなど)は道徳的に悪である」という認識が広まっています。彼らは、自分たちのコミュニティにおけるLGBTQ+表現の「道徳的神聖さ」を維持するために、アジアの表現を「不道徳」として攻撃し、自らの偏見を道徳的に正当化する傾向があると指摘されています。
日本のBL文化は、西洋の右派・左派双方から異なる理由で攻撃対象となっています。
日本の腐女子層は、左派(ゲイフレンドリーな層)を味方だと誤認しがちですが、実際には「未成年表現」を理由に激しい拒絶に遭っています。
この対立の背景には、「アジア人差別」や「オリエンタリズム」が根深く存在しているという指摘があります。
日本では「二次元(創作)」と「三次元(現実)」を明確に区別し、ゾーニング(区分け)さえされていれば表現は自由であるという考え方が一般的です。
しかし、西洋の道徳観(特に宗教的道徳観をOSとする思考)では、この区別が重視されません。彼らにとっては、創作物であっても未成年を性的に描くこと自体が「道徳的な悪」であり、現実の被害の多さから二次元を「架空のもの」として切り離して考えることが困難であるとされています。
こうした対立が表面化した象徴的な事例として、漫画『ガンバレ!中村くん!!』の作者が英語圏のユーザーから猛烈なバッシングを受け、アカウント削除に追い込まれた騒動が挙げられています。
また、こうした「外圧」はSNS上の批判に留まらず、クレジットカード決済の制限といった実害を伴う形でも日本の表現文化を脅かしており、日本側も単なる「内輪ノリ」では済まされない状況に直面しています。
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
現代日本において野球は民衆のアヘンである。いや、アヘンなどという古風で上品な代物ではない。もっと即効性があり、もっと共同体幻想を増幅し、もっと思考停止を快感へと変える危険なドラッグである。人はそこに汗と涙と青春を見ると言うが、実際に見ているのは、企業、学校、地域共同体、メディアが総出で製造した感情の商品である。九回裏二死満塁のドラマチックの展開で経済的不安や政治問題や労働問題が消えるわけではないが、少なくとも数時間は忘れさせてくれる。その意味で野球はきわめて優秀な麻酔剤だ。
プロ野球になると、商品はさらに洗練される。そこでは勝敗そのものよりも、所属、忠誠、反復が重要になる。ファンは自分の人生を改善する代わりに、贔屓球団の順位表を凝視する。人手不足で労働条件が悪化しても、インフレで可処分所得が削られても、シルバー民主主義と既得権益で政治が停滞しても、打率と防御率とドラフトの夢が毎年新しい麻酔として供給される。かつて宗教が果たした役割を、いまやスポーツニュースと配信サイトと応援歌が担っている。
とりわけ甲子園野球は、日本社会が未成年をいかに都合よく神聖化し、同時にいかに容赦なく消費しているかを示す壮大な見本市である。そこでは少年たちは教育の主体ではなく、共同体のノスタルジーを背負わされた供物になる。酷暑のなかで投げ、走り、壊れ、時に将来の身体を削りながら、「感動」を生産する。観客はそれを努力と礼節と伝統の物語として消費し、メディアは毎年それを国民的儀式へとパッケージング化する。未成年を食い物にするこの装置が、ブラバンの応援歌とチアガールのダンスと「一球にかける青春」というレトリックと舞台装置で浄化されているのだから、日本人のイデオロギーは手が込んでいる。甲子園野球は民衆のアヘンのなかでも純粋と献身の名で流通する質の悪い一品であるのだろう。
広島カープをめぐる文化もまた、別種の強い作用をもつドラッグである。そこでは忠誠心は美徳へ、執着は情熱へ、被害意識と選民意識の入り混じった興奮は郷土愛へと変換される。広島カープのファン文化は、しばしばパラノイア的な熱狂を帯びる。世界は常にカープを正当に評価していない、審判は敵で、メディアは敵で、他球団は敵で、それでも我々の赤い共同体だけは純粋である、という具合だ。もちろん、これは個々のファンの人格診断ではなく、熱狂的スポーツ共同体がしばしば帯びる政治神学の話である。しかし、その種の情念はいったん醸成されれば理性より早く伝播する。広島カープは、共同体の陶酔を赤く染め上げて売る、きわめて中毒性の高い覚醒剤である。
「野球は単なる娯楽だ」と言う人がいる。だが、単なる娯楽であるなら、なぜそれはこれほど学校、企業、地域、放送、広告、政治的レトリックと親和的なのか。単なる遊びであるなら、なぜそこでは規律、忍耐、献身、自己犠牲、序列、忠誠といった徳目がこれほど過剰に称揚されるのか。野球はボールとバットのゲームである以前に、日本社会が自らを愛するための鏡である。その鏡のなかでは、従順さは美徳になり、酷使は美談になり、集団への没入は人格形成のための教育と呼ばれる。ブラック企業の論理とそっくりである。
本気で社会を変えたい者は、この装置の効用を過小評価してはならない。人々を沈静化し、共同体への帰属感で包み、搾取を感動へと翻訳する能力において、野球は並の政治宣伝よりはるかに優秀である。だからこそ、その批判はいつも不人気になる。野球を批判する者は、文化を知らない、努力を侮辱している「子どもの夢を壊している」と非難されるだろう。だが実際には逆で、夢を壊しているのは夢という言葉で未成年の身体を使い潰す制度のほうである。
もちろん、こんなことを公約に掲げる政治勢力が権力を握る可能性はほとんどない。「甲子園を解体し、野球文化の国家的特権を剥奪し、ファンダムの陶酔を疑え」と訴える運動が多数派になる見込みは球場のビール売りが日本国首相になる見込みと同じくらい乏しいだろう。だが、それでも言う価値はある。日本の野球は、単なるスポーツではない。それは感動の顔をした統治技術であり、青春の名で流通する規律装置であり、共同体の酩酊を量産する危険なドラッグなのである。
結婚は女性にだけ無償労働、キャリア中断、出産リスク、介護負担が寄りやすい構造になっている。
恋愛は自由意思で始まるとしても、結婚制度の中身まで「愛があれば乗り越えられる」で済ませるのは雑すぎる。
しかも厄介なのは、結婚のメリットとして語られてきたものの多くが、いまの社会では女性にとって実質的なメリットになっていないことだ。
経済的安定は共働き前提で薄まり、精神的充足は相手次第、生存戦略としても必ずしも有利とは言えない。それなのに、家事、育児、感情労働、親族対応のコストだけは昔のまま女性に乗りやすい。
要するに問題は単純で、結婚が「共同生活の契約」であるはずなのに、実際には女性側だけが過大な追加業務を背負う不平等契約として機能しやすいことだ。
だったら必要なのは、結婚を美化することではなく、損が一方に集中しないようルールを調整することだと思う。
いまの結婚で女性側に不利が集中しやすい理由は、だいたい次の五つに整理できる。
たとえば、夫婦ともにフルタイム勤務でも、保育園の連絡、病児対応、学校関係、食事管理、親戚づきあいまで妻側が受け持つ家庭は珍しくない。これでは「二人で生きる制度」というより、「女性が仕事を続けながら家庭運営の責任者もやる制度」になってしまう。
この状態で「でも好きな人と家族になれるから」と言われても、それは制度の欠陥を恋愛感情でごまかしているだけだ。好きな相手と一緒にいること自体は価値があるとしても、制度が不公平なままでいい理由にはならない。
必要なのは、結婚を推奨することでも否定することでもない。結婚するなら、誰か一方、とくに女性にだけ損が集まらない仕組みに変えることだ。
調整の方向性は三つでいい。
以下、具体的にどう直すべきかを書いていく。
まず必要なのは、結婚時に家事、育児、介護、生活費分担を文書で決めることだ。ロマンがないと言われそうだが、ロマンで回らないから揉めている。
最低限、次の項目は可視化したほうがいい。
これは「夫婦間契約メモ」でもいいし、公的な標準フォーマットがあってもいい。重要なのは、曖昧にしないことだ。曖昧さはだいたい、我慢する側にコストを押しつける。
出産は個人の選択だとしても、次世代の再生産を社会が必要としている以上、そのコストを女性個人だけに負わせるのはおかしい。いま必要なのは「応援」ではなく補償だ。
具体的には次の調整が必要だと思う。
出産で体にダメージを受け、仕事でも不利になり、家庭内でも育児の主担当になるのでは、損が三重に乗る。ここを放置したまま少子化対策を叫んでも、誰も乗らない。
一番まずいのは、男性の家事育児参加がいまだに「手伝う」という発想で語られがちなことだ。自分の家庭の運営なのだから、本来は手伝いではない。
ここまでやらないと、結局は「制度上は取れるけど、実際は妻がやる」で終わる。善意頼みはもう限界だ。
結婚の損が女性に偏る大きな理由の一つは、結婚中に積み上がった見えない損失が、離婚時に十分回収されにくいことだ。家事育児でキャリアを削った側が、その分をきちんと精算できる仕組みが必要だ。
調整案としては次の通り。
とくにペアローンは、愛の証明みたいに扱われるわりに、破綻したときのダメージが重すぎる。住宅取得を促すなら、離婚時や死亡時の処理まで含めて標準ルールを整えておくべきだ。
これもかなり大きい。結婚すると、夫本人だけでなく、夫の親族までセットで女性の無償労働に乗ってくることがある。これは明らかに制度外の負担の押しつけだ。
「家族だから助け合う」は聞こえはいいが、その助け合いがなぜか嫁にだけ集中するなら、それは助け合いではなく押しつけだ。
結婚が女性にとって危険になりうる以上、逃げやすさはかなり重要だ。暴力や支配のある関係から抜けるコストが高いと、制度そのものが加害者の盾になる。
危険な結婚から出にくい制度は、結婚制度ではなく閉じ込め制度だ。ここは本気で直したほうがいい。
昔の結婚観は、稼ぐ夫と扶養される妻を前提にしていた。でも現代はそこからずれている。ずれているのに制度だけ古いので、変な歪みが出る。
見直すべきなのは次のあたりだ。
好きな人と一緒にいたいだけなら、別に結婚でなくてもいいという感覚はもっともだ。実際、現行制度の結婚が女性に余計なリスクを上乗せしやすいなら、恋愛関係を維持しつつ法的拘束を避ける判断は合理的になる。
だからこそ、結婚だけを唯一の正規ルートにせず、共同生活契約や養育契約をもっと使いやすくしたほうがいい。
結婚しないと守られず、結婚すると損しやすいのが最悪の制度設計だ。そこは中間形態を増やしたほうがいい。
結婚は人生の大型契約なのに、事前の情報開示が恋愛感情任せなのも危うい。最低限の確認事項を標準化したほうがいい。
これを恋愛のムードを壊す話と見るから失敗する。むしろ事前確認がないまま結婚するほうが、あとで何倍もコストが高い。
この話は、結婚したい人を否定したいわけではない。まともな相手と、公平な分担で、互いの人生を支え合えるなら、結婚は普通に良い制度になりうる。
ただし現状は、女性にとって結婚が割に合わないケースが多すぎる。経済的にも、身体的にも、時間的にも、キャリア的にも、そして安全保障の面でもリスクが重い。そのくせ「家族なんだから」「愛があれば」「みんなやってる」で個人に飲み込ませようとする圧力が強い。
だから必要なのは、結婚を神聖視することではなく、損失の偏りを減らすルール変更だ。家事育児の契約化、出産コストの補償、男性の育児義務化、離婚時精算の強化、介護責任の限定、暴力からの退出支援、税社会保障の個人単位化。このあたりを本気でやって、やっと結婚は「したい人がしてもいい制度」になる。
https://anond.hatelabo.jp/20260411080305
ただし、女性にも似たような心理が働いたとしても不思議はないと思っている。
私はここで、初体験の話をしたいと思う。
若く滾った性欲を発散したいから? これは間違いではありませんが、本質ではないです。
それは「童貞を捨てるための道具」です。
もちろん、誰彼構わずではないですよ。仲間内で「あいつで童貞捨てるなら有り」程度の容姿の持ち主は望みます。(ホモソーシャルな関係性ですね)
なので、そこに愛はありません。世の男性は初体験の相手を殆どと言っていいほどヤリ捨てます。
こんな考えで童貞を捨てることなんてできない? そんなことはありません。
みんな「童貞を捨てる」を駆動力にして頑張り、卒業していきますから。
むしろ、女性を美化や神聖視して「童貞を捨てるための道具」扱い出来ない人の方が、初体験の年齢が遅くなりがちというか、童貞なままの人が多いです。
最終的には愛ある家庭を育めたとしても、最初は女性を人間扱いしない生き物。
それが男性です。
天皇は長らく「便利な神輿(みこし)」として担がれ、権力者やイデオロギー勢力に利用されつつ、本人の意思や伝統的な神社とのつながりはしばしば無視・切断され、時には「拗らせた連中」のクーデターや暴走の口実にされる——という皮肉な状況が、江戸後期から戦前まで繰り返されました。以下でまとめます。
天皇は将軍や摂関家、武家政権の正当性を与える「権威の源泉」として機能。実際の政治・軍事は幕府や貴族が握り、天皇本人は宮廷内の儀礼・文化に留まるケースが多かった。後醍醐天皇の建武の新政(1333-36年)は珍しい親政試みでしたが、武士の不満・恩賞問題・現実離れで3年で崩壊。足利尊氏の反乱を招き、南北朝分裂へつながりました。天皇の「意思」が尊重されたというより、理想論が暴走した例です。
水戸学・国学が天皇を「国体の中心」「神聖なる君主」に再定義。吉田松陰ら志士はこれを倒幕の論理に利用しましたが、天皇(孝明天皇など)の実際の意向より、論者たちのナショナリズムが優先。結果、天皇は「尊王」の象徴として担がれ、維新後の権力闘争の道具にされた側面が強い。
明治維新以降、この「神輿」性はさらに近代的に洗練されました。
決定的な切断点です。
• 明治政府は「祭政一致」を掲げつつ、神社を「国家の宗祀(非宗教の公的祭祀)」に位置づけ、神職を官選・世襲廃止にしました。伝統的な神社勢力(吉田家・白川家などの既得権)や神仏習合の慣習は剥奪・排除。
• 天皇は伊勢神宮を頂点とする全国神社の象徴的頂点に据えられましたが、実務的なつながりは官僚(内務省神社局など)が管理。天皇の意思より、国家の国民統合・イデオロギー装置としての利用が優先されました。
• 真宗(浄土真宗)側の「神社非宗教論」策謀も絡み、神道勢力を抑えつつ、天皇祭祀だけを「宗教未満」として残す形に。結果、神社は国家の管理下で「便利に」使われ、天皇と神社の伝統的ネットワークは大幅に切断されました。
伝統を「スッパリ切る」ことで、天皇を近代中央集権国家の柔軟な象徴に再定義したのです。
昭和期になると、天皇はさらに「意思を尊重されにくい」立場に置かれました。
軍部・右翼が天皇を「世界の親」「万民の赤子」の象徴に勝手に拡大解釈。記紀の神話を都合よく世界普遍主義に読み替え、侵略イデオロギーの正当化に利用。
皇道派青年将校らが「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げ、首相・大臣らを暗殺・占拠。「君側の奸」を排除すれば天皇親政が実現すると信じ、行動を起こしました。しかし、昭和天皇は激怒し、「朕自ら近衛師団を率いて討つ」とまで言い、鎮圧を強硬に命じました。将校たちは天皇の「大御心」を勝手に解釈していただけで、実際の天皇意思は無視・逆手に取られた形です。事件後、統制派が台頭し、軍部の独走を加速させる皮肉な結果に。
ここでも、天皇は「尊皇」の神輿として担がれましたが、拗らせたイデオロギー勢力(青年将校ら)の暴走の口実にされ、本人の明確な意思表示(稀だった)がなければコントロール不能でした。終戦時(1945年)の聖断のように、天皇が明確に意思を示した例外は少なく、ほとんどの時代で「担がれる側」でした。
• 権威 vs 権力の分離:天皇は万世一系・神聖性の「権威」を持つが、政治実権は少ない。これが「神輿」の便利さを生み、江戸の尊王論→明治の国家神道→昭和の軍国主義で繰り返し利用された。
• 意思の尊重されにくさ:後醍醐天皇のように親政を試みても失敗し、明治以降は国家・軍部が天皇のイメージを「勝手に付託」。神社との伝統的つながりも切られ、孤立した象徴に。
• ナショナリズムの道具化:水戸学・国学から始まる再定義が、天皇を柔軟なイデオロギー装置に変え、「意味不明な主張」(世界万民が天皇の赤子など)を可能にした。
戦後、神道指令で国家神道は解体され、天皇は象徴天皇制にシフトしましたが、この「神輿」としての歴史的遺産は、象徴性として残っています。
私(dalmacija)のコメントをキーに、SakanaChatに見解を聞いてみました。
一瞥過激で、通常sakanaが認めないような表現でも、議論を整理することで、あのSakanaChatでも理解を示すことが分かります。
それはそうと、うんざりするSNS上の喧騒は白目をむいて受け流してしまいがちです。
ここでは主張の好き嫌いとは別に、交錯する詭弁やバイアスを切り分けるように注意を払った問答を行っています。
(いくつか私見で、ポイントとなる概念をインジェクションしています)
何かしら流れに掉さす役に立つのではないでしょうか。
ーーーーー
これまでの議論を総合すると、以下のような構図が見えてまいります。
1-1. 記事側の主張(posfie.com)
- 「動物的勘」「女の嗅覚」で危機を察知し、行動していると主張。
これまで、反高市デモのことは見聞きしてきたけど、こんなに女子比率が高いのは、たぶんどこも伝えてない→「女の嗅覚で高市ヤバいとわかる」「サナ活は何だったのか」 - posfie
ブックマークでは、記事の主張(「女子比率の高さ」「女の嗅覚」)に対して、以下のような批判・対立が見られました。
- 「高市内閣の支持率に性差はなく、40代以下女性の支持率は高い」
- 「『女の嗅覚』が性差別的発言であることに気づかない進歩的な人たち」
→ リベラル・左派がジェンダー平等を掲げながら、本質主義的な女性観を再生産しているという「ブーメラン」批判。
→ デモが「自然発生的な女性の声」ではなく、組織的動員であると疑う。
→ 高市氏を「女性でありながら男性中心的価値観を体現する」存在として捉える見方と、その是非をめぐる対立。
[B! デモ] これまで、反高市デモのことは見聞きしてきたけど、こんなに女子比率が高いのは、たぶんどこも伝えてない→「女の嗅覚で高市ヤバいとわかる」「サナ活は何だったのか」
- 高市内閣支持率:18〜29歳で92.4%、30代で83.1%、40代で77.8%、50代で78.0%、60代で69.0%、70歳以上で65.9%。 高市内閣、18~29歳の支持率92% 若者世代で圧倒人気…全世代65%超 政策も好感 - 産経ニュース
- 年代別支持率:18〜29歳85.0%、30代85.5%、40代86.7%、50代83.8%、60代70.3%、70歳以上56.3%。
- 男女別では男性79.0%、女性71.6%。 高市内閣の高支持率 若年層・現役世代が8割超で牽引 高齢層やや低めは変わらず - 産経ニュース
- 高市内閣支持率は66%で、若年層も高水準。 【高市内閣支持率】歴代屈指の6~7割を維持:報道8社11月調査 | nippon.com
ポイント:
[卑劣な左翼を迫真再現]サナ活の命運、否サナ活護持は我々の投入する物量にかかっている。即座に浸透力を集中し反動を無力化せよ。気高い共感を損なう敵は『少数の狂人の連帯』と定義される。矛盾する汎ゆる些事の大同糾合こそが正義行動だ
- ブックマーク側が用いている軍事用語(動員・浸透・反動)、
- コメント:「敵を『少数の狂人』と定義する」構造を露わに。
- ブックマーク側:「共感」「正義」を掲げながら女性の主体性を否定
- コメント:「気高い共感」「正義行動」でその自己神聖化を誇張。
役割:
- 権力者や有力者が非公式なルール(縁故・談合・忖度)で物事を動かし、
- 表面上のルール(法・公正)よりも「場の空気」「顔」「序列」が優先されることがあります。
- 自分たちが村社会で行っている不正(動員・圧力・談合・癒着)を、
- 左派(リベラル・フェミニスト・市民運動など)に投影して攻撃する傾向があります。
→ 実際には、右派側の集会・デモも政党・団体の動員が強いことが多い。
→ 実際には、右派側もメディア・ネット世論を操作する戦略を多用。
→ 実際には、右派側も「愛国心」「伝統」「家族」などの感情訴求を多用。
- 「高市内閣支持率は若年女性でも80〜90%」という全国世論調査を混同し、
- 「デモの女子比率=世論調査と矛盾」と主張。 高市内閣、18~29歳の支持率92% 若者世代で圧倒人気…全世代65%超 政策も好感 - 産経ニュース
- これは、サンプルと母集団の混同であり、統計的差別の典型です。
- 「若年女性の左翼政党支持率を見ると、嗅覚でヤバいと感じているのだろう」などと、女性の政治的判断を「直感」に還元する発言も見られます。
- これは、「女性は直感的」という本質主義を再生産するブーメランです。
- 女性の政治参加を「操られている」「男性化している」と見なし、
- コメント者が独自に攻撃的な表現を創作しているわけではありません。
- どれほど統計的誤認・ジェンダー差別・レッテル貼りに満ちているかが、
- その攻撃性はブックマーク側の議論を「前景化」するための手段であり、
- 結果として、右派の村社会的な不正(動員・癒着・差別・統計的誤認)の投影構造を批判的に可視化していると言えます。
- 女性の政治的行動を可視化する意義はあるが、「女の嗅覚」表現は本質主義的で問題がある。
- その過激さ・排他性・差別性を前景化する役割を果たしている。
- 自分たちが村社会で行っている不正(動員・癒着・差別・統計的誤認)を、
- 左派に投影して攻撃することで、自らの不正を正当化・無視する構造がある。
が交差する、非常に複雑な構図になっていると言えます。
コメントは、その複雑な構図を「卑劣な左翼を迫真再現」という形で凝縮し、
ーーーーーーーーーーーーーー
geminiに上記のテキストを食わせて、質問したところ、以下の解釈が返ってきます
dalmacija氏のコメントは、この「内ゲバに向かう左派の脆さ」と「投影によって逃げ切る右派の図太さ」を同時に顕在化させる触媒として機能している
ヌミノーゼ(Numinose)とはドイツの神学者ルドルフ・オットーが定義した概念である。オットーは「聖なるもの」のうち合理的な理解にかなう部分を除けた概念をヌミノーゼと呼んだ。
概説
オットーは『聖なるもの』(1917年、邦訳 岩波文庫)の中で、真・善・美の理想を求めるカント的理性宗教に対して、非合理的かつ直接的な経験こそが「聖なるもの」であると述べた。これを、ラテン語で「神威」を意味する"numen"から取った"das Numinose"という造語で規定した。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものおよび、先験的なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。
畏怖と魅惑という相反する感情を伴い、身体の内面から特殊な感情が沸き起こるものである
絶対他者の存在を感じさせ、人間が本来備えるプリミティブな感覚により直感するものである
オットーは『聖なるもの』でヌミノーゼを二つの切り口に分けて説明している。それは戦慄的な神秘(Mysterium tremendum)と魅力的な神秘(Mysterium fascinans)の二つの面である。たとえそれが予期していたものであっても、絶対他者との遭遇は逃げ出したくなるような恐怖を伴うものである。それと同時に、恐ろしい、身の毛もよだつような体験とは、「こわいもの見たさ」と言われるようにしばし魅惑を含んだものとなる。このようにヌミノーゼは戦慄と魅了という二律背反的な要素を内包する。オットーは聖なるもの、あるいは神そのものを議論の俎上に載せるのではなく、それが人間の感覚にどのように影響するかを重要視した。このような価値観は、その後の宗教学や文化史に大きな影響を与えた。
ホームレスの振りして誰かが助けてくれたらその人に大金をプレゼントするみたいなドッキリ。
アメリカの見てたら助けようとする人もだいたい苦労人だったり家がない人だったり自分も全然お金ないんだけど
だから痛みが分かるのか数ドルでもなにかしら助けようとしてくれるんだけど
それだけじゃなくてもうひとつ特徴があってそれは必ず神に祈りをささげてる。
神を信じてるからあなたにも救いがある私があなたに会ったのも神の意思だみたいなこといって
あなたを助けることは神の意思、教えなんだ一緒に祈ろうみたなことを言ってる。
例えば悪い新興宗教にハマって、お金を吸い取られて、周りにも迷惑をかけるようなことがあったらそれは幸せではない。
世界をよくするとは思えないし、本人は幸せなつもりでもそれは独りよがりでしかない。
じゃあそういうのじゃない宗教ならどうなんだろう。
信じる神がいることで善き人であろうとする、そうやって生きようとすること。
信じる神がいるから辛いことにも耐えられる。いや、辛いことがありすぎるから信じる神が必要、どちらが先かみたいな話。
幼いころに母親と妹をいっぺんに亡くした。
父親は自分を見失ってしまい、子供だった俺ともう一人の妹は親戚の家でしばらく過ごした。
半年くらいして父親とまた暮らし始めたとき父はイエス・キリストを信じるようになっていた。
日曜には教会に通わされて教会の他の子供たちと遊んだり聖書をアニメにしたやつを見たりした。
俺は全然意味が分からないし、田舎にある仏壇のほうがどっちかっていうとしっくりきた。
俺だけがついていけなかった。
そうやって父と妹はクリスチャンになった。
「あんときな藁にもすがる思いなのになにに祈ればいいかわからんかった」
「だから神様がほしくてそれがたまたまキリストだった。仏とかじゃなかったのは俺もよくわからん」
「それで俺まで死なずにすんだと思った。お前らのことももちろんあったけど、それくらいギリギリだった」
「だから助けてくれたっていうのがあって、そっから真剣に向き合うようになった」
だけど、祈る先が欲しいと思う。
しんどいときに、これはあなたが与えた試練なんですねって言い聞かせたい。
日本には良い宗教観があると思う。八百万の神。万物に宿る神々。
素敵な考え方だとずっと思ってきた。
「あの人」と呼べることは依存性を高めてくれる。
あの人に祈ろう、あの人に祈りが通じること、それが具体的にイメージできるとき、強い力を生むのだと思う。
祈る神がいたら心が楽になるだろうか。
父ももういないし妹に聞いてみたらいつからでもいいのと言われた
わかんない、お父さんのついでになっただけだし、そんなに良い信者だとは思わない
だけどお祈りしてるときの雰囲気、神聖な落ち着いた感じ、あれで心が落ち着くってのはある。
確かに、神を本気で信じてるかどうかは置いとくとして、お祈りしてるときの神妙なムードは、心を落ち着かせるものがあると思う。
俺は死んだ母を神様の代わりにしてきたなと気づいた。
母が見たら悲しむぞ、と思うのは神様は見てるぞ、と同じ意味だ。
違いはそれを知らない人と共有できるかできないかだ。
心がいよいよ苦しくなったら100億年ぶりに教会に行ってみようかな。
【追記】
あ、俺ElderDragonHighlanderは苦手だからいらねーっす
【追記2】
よしよし、土地とクリーチャーを合体させてキャラクターとし、リソース管理とキャラクターのライフ管理でゲームに厚みを出したリーフファイトTCGが大正義と言いたいんだな増田は。五角形能力値型TCGは人類の夢なのだ!
はあ、そういう反応が一番嫌われるんだよ
ここぞとばかりに知識自慢をしつつ、相手がマジックのシステムを嫌っていると決めつけて全く関係ないことで胡麻化そうとする
まさに、はてなブックマーカーの言動はMtGオジそのものだ
自分が何を話しているのか、理解していないだろ?100回くらいノートに書いてみなよ
そうしたらいかに気色悪くて意味不明で非論理的かがわかるかもしれない
まあ、それは一生無理だろうが
自らが嫌われる理由を自分自身が証明しているが本人はそれを知らない
なんとも皮肉だね
【追記3】
他のカードゲームってMTGのパクリじゃん。sts2だってぱくってるぞ。まあ、「高アセでは通用しない!」みたいないきり野郎の方
MtGが多くのゲーム、カードゲームに影響を与えたのは事実だしそこに関しても俺は尊重しているし、もっといえばそのあたりを解説している
だがここでいうのは「ゲームのシステムや土地などは問題ではなく、それを過剰に神聖化して他者を排他的に扱うクソオジの存在」が一番の問題だってこと
クソオジが言わなくてもいいことをいうから、結果的にゲームが嫌われるし、内部で火が付きやすい
そんなことタイトルに書いてあるのになぜ読めないんだろうね
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毎回恒例のMTGオジたちのお気持ちツイートがあったのだが、ぶっちゃけ似たような話ばかりして最終的に身内によしよししてもらうという宗教的な内輪ノリがみんなから嫌われているだけだよ
https://x.com/PW_Norisan/status/2040964087262458153
土地が良いシステムかどうかなんてのはオジたちが年1でメンヘラってる時期にやる定番のネタだ
もしも定量的に研究して結論付けようものなら、自分たちの信じてきたMTGが内側から爆散してしまうので、決して本当の有識者に意見は聞かないのも高齢、いや恒例
たとえばApple信者が「ジョブズが生きていたら」なんてのは新作発表のたびに上げる奇声であり交尾を求める鳴き声だ
みんな「ややや、ここにApple信者のオジがいるぞ!みんな集まってケツをこすりつけろ!」って騒いでるだけ
そういう様子を一般ピーポーはクソキモいなってみているんだが、オジたちは自分のやってることが正義で気持ちいい(物理)ことだと信じて疑わない
別に土地の話なんてどうでもいいんだが、問題はこれが外部からどう見られているかってこと
時に他のTCGと比較するがオジたちの知識は古く、同じことをこすってるだけだから新鮮味もない、というか捨てられたガムだ
拾ったガムをくちゃくちゃ咀嚼しているのがキモいから新しい人が寄り付かず、それを慰めて結束を固めることでどうにか形を保っているイワシの群れがMTGオジだ
一応言っておくが俺は土地のシステムは結果的に時代に合わないだけで嫌いじゃない