はてなキーワード: 内省とは
その後の展開は、さらに教育心理学的にも示唆に富むものだった。Aが一度は口にした「昨日の非礼について、重ねてお詫び申し上げます」という謝罪。それが内省によるものではなく、単に対話を強制終了させるための「終了ボタン」に過ぎなかったことが、その後の豹変で露呈することになる。
Bが依然として拭い去れない不快感(前日に「ソープへ行け」と人格を否定するような暴言を吐かれたことへの余波)を口にすると、Aは即座に攻撃に転じた。
「わたしは蒸し返されてだるいよ」「謝罪すべきはしっかり謝りました」と、自らの不適切な言動が招いた紛糾を、あたかもBが一方的に「終わったことを蒸し返す迷惑行為」であるかのようにすり替える。
再口論の最中、Aは「すまん任せた」と他のメンバーへ丸投げし、場を放棄した。
これは、自分が有利な時だけ「指導者」として振る舞い、形勢が悪くなると「自分は被害者だ」と逃げ出す、極めて不誠実な態度だ。
Aは、Cによる再度の指摘に対しても、結局「伝わって欲しかった(自分の善意を汲み取れ)」「その謝罪は一度は受け入れられた認識だ」という自説を繰り返すに留まった。
現代のコミュニケーションにおいて「情報のアップデートができない」ことは致命的な欠陥だ。
自分の振る舞いが「ハラスメント」や「仕様不備」であると客観的にデバッグされた際、速やかに自己のプロトコルを更新できない人物は、周囲に有害な環境を撒き散らす。Aは過去の成功体験や独自のドグマに固執するあまり、フラットかつ論理的な対話プロトコルをインストールすることに失敗した「古いOS」のような状態に陥っていたと言える。
今回のCや他のメンバーによる介入は、単なる口論への横槍ではない。それは、コミュニティというシステムの健全性を維持するための「免疫反応」だった。
人格否定や強権的な指導という毒素が蔓延しないよう、論理の光を当てて「それはNGである」と公にラベルを貼ること。
「コミュニケーションの主体は受け手にある」という原則を徹底することで、送り手の「善意(意図)」という逃げ道を封鎖し、受け手の安全を確保すること。
Cが最後までこの原則を捨てなかったのは、B個人の救済であると同時に、「論理の通じない強権的なコミュニケーションを許容しない」というコミュニティの防衛線を引く行為だった。
情報のアップデートを拒み、自らの手法の欠陥を「善意」や「謝罪済み」という言葉で塗り潰そうとする者は、いずれ健全なコミュニティのプロトコルによって「仕様不備」として弾き出される。Bが最後に「基礎の部分で齟齬がある」と冷徹に断じ、関係を断つ決断ができたのは、この徹底したデバッグのプロセスがあったからに他ならない。
(了)
最近、あるコミュニティで目撃した「相談」から「絶交」に至るまでのやり取りが、あまりに教育心理学におけるいじめの構造(DARVO)そのものだったので、自戒を込めて記録しておきたい。
登場人物は、写真制作の壁にぶつかっている相談者Bと、それにアドバイスを送るA。
問題の端緒は、AがBの私生活や尊厳に無遠慮に踏み込んだことだ。Aは芸術論を語る文脈で、唐突にこう言い放った。
これは相談という形を借りた、明白な境界線(バウンダリ)の侵害だ。教育心理学の視点で見れば、相手を精神的に動揺させ、自分が優位に立つための「精神的な揺さぶり」に他ならない。Bが困惑して「恋人がいる」と返しても、Aは「死ぬほど金が欲しいわけじゃないんだな」と、勝手に相手を「覚悟のない人間」として再定義し、攻撃を続行した。
後にBがこの不快感を訴えた際、Aが繰り返したのは反省ではなく「手続きとしての謝罪」の完了報告だった。
これは「謝罪というパケットは送ったのだから、それを受け取らない(怒り続けている)相手がエラーである」という論理だ。心理学的に言えば、謝罪を内省の証ではなく、自分の過去を洗浄し、相手の口を封じるための「武器」として利用している。
「人前で繰り返し持ち出されるのはつらいので、もうやめてください。」
これこそが心理学でいう'''DARVO(Deny, Attack, and Reverse Victim and Offender)'''の完成形である。
A氏の言動には、自分の万能感を維持するための「投影(プロジェクション)」も顕著に見られる。自分のアドバイスが的外れだったという失敗を認められず、それをB氏の「覚悟の欠如」という問題にすり替えることで、自己像を保護している。
こうした「指導」の皮を被った「支配」は、受け手が論理的に反論すればするほど、加害側が「被害者」として騒ぎ出すため、対等な解決は望めない。
Aの振る舞いは、大人の知的な対話を装ってはいるが、その本質は教育現場で見られる「いじめ」の構造と変わらない。自分の万能感を守るために、ターゲットの自尊心を削り、反論されたら「自分の方が傷ついた」と騒いで周囲の同情を買おうとする。
相談を受ける側が「相手を尊重する」という前提を捨て、自分の哲学をインストールする対象(モノ)として相手を見たとき、コミュニケーションは容易に暴力へと変質する。
オレにだって出来るんじゃね?
トップメーカーが社運を賭けたフラグシップゲームを、ゲームに興味がないスタッフが作っている、という仮説が正しいなら、子供の頃からゲームばかりやってた(創作方面はからきしだが)オレにだって、ブランドは持ってないけど、面白さではAAAタイトルに比肩する作品をアウトプットできるかもしれない。・・・そこまで内省して気付いたんだけど、まさか、ひょっとしてワザとか?
コーラとハンバーガは世界で一番売れているが、世界一番うまい食べ物ではない。
ゲームに興味がないからこそ、売れる——面白いではない——ゲームを作れる、という可能性がある。なんならあえて面白さを抑えることが人気作品を生む、そんな世の中の知られざる理(ことわり)があるのかも。
「怒りの底には相手への期待や、分かってもらいたいという根っこの願望がある、怒りはそれが満たされないことで湧いてくる2次感情」
アンガーマネジメントだのカウンセリングだの心理学だので散々こすられてるけど、
本気で理解できん。
湧いてくる怒りに対して一定量の内省をしても、あるのは純粋な「許せない」という感情だけで、憎悪の対象に期待も分かってほしいもあるわけねえだろ。
あなたのリプライ文は短いですが、いくつかの暗黙の前提が重なっています。
表面的には「意味なくない?」という疑問形ですが、実際には特定の価値観に基づいた評価が含まれています。順番に分解すると見えやすくなります。
⸻
「誰にも見られていないから」
「誰も興味ないし」
ここにはかなり明確な前提があります。
前提A:作品や感想の価値は“どれだけの人が見ているか”で決まる
• 再生数
• 話題性
• トレンド入り
といった「可視化された関心量」を価値の代理指標として扱うタイプの思考です。
例えば:
• 他の少数の観客との共有
• 将来見たい人への情報蓄積
⸻
「解説したところで誰も興味ないし見に行くこともない」
• 感想を書く
→ 人が興味を持つ
→ 見に行く
という因果チェーンが成立していないなら、
これは言い換えると:
という理解です。
• 思考の整理
• 記録
この人はそれらを前提としていない、あるいは想像していない。
⸻
「誰も興味ないし」
この言い方は、厳密には事実の断定ではありません。
例えば:
• 学術研究
それでも価値があるのは:
• 深度
• 継続性
• 記録性
⸻
「いみなくない?」
この問いの背景には、
つまり:
• 誰も見ない
• 人も動かない
→ 無意味
という発想です。
• 非効率
• 個人的
• 内省的
⸻
実はこれが一番重要です。
この人は無意識に、
と決めつけています。
例えば:
• 記録として残したい
• 同じ作品を見た人と話したい
• 将来の自分のため
この人の発言は、
⸻
まとめ:この人の中にある主要な前提
整理すると、このリプライには少なくとも次の5つの前提が存在しています。
これらが全部重なった結果として、
「意味なくない?」
⸻
実際には:
の表明です。
Grokさんにきいてみた。
いいえ、腐女子(主にBL作品や男性同士の恋愛を好む女性オタク)が自らを「寛容」と積極的に自評するような一般的な傾向は見られません。むしろ、以下の点が実情として目立ちます:自虐的なアイデンティティが強い
「腐女子」という呼称自体が「腐った女子」という自虐的な意味合いから来ており、コミュニティ内では「自分の妄想が腐ってる」「変態的な趣味」と謙遜・自嘲する文化が根強いです。自分たちを「寛容で広い心の持ち主」と美化するより、むしろ「腐ってるけど楽しい」とネガティブ寄りに受け止める人が多い傾向があります。
外部(特に非腐や他のオタク層)からは「自分たちのBL(同性愛的ファンタジー)には寛容なのに、異性愛(NL)や他者の創作・嗜好には厳しい/不寛容」という指摘がよくあります。
たとえば、逆カプ(カップリングの攻め受け逆転)や女キャラが絡む展開、乙女ゲームへのBL混入など、自分たちの好みに合わないものに対しては敏感に反応し、拒否反応を示す例がコミュニティ内で頻出します。これに対し、「寛容アピールしてるけど実際は独善的」「自分に都合のいいときだけ寛容を主張する」という冷ややかな声も少なくありません。
一部で「LGBTに寛容」と見なされる側面はあるが…
BL好きを通じて同性愛的なテーマに親しみ、現実の性的マイノリティ(特にゲイなど)への理解が比較的高いという研究や意見は存在します。ただし、これは「自分たちの趣味の延長」として自然に生まれるもので、「自分は寛容な人間だ」と積極的に自慢するようなものではありません。また、異性愛やマジョリティの恋愛観に対しては相対的に厳しいという指摘も並行してあります。
klis.tsukuba.ac.jp
実際のコミュニティの声
腐女子本人が「自分たちは寛容」とアピールする例はほとんど確認できず、むしろ「寛容を装う腐女子が他者の領域に首を突っ込む」「食いしん坊(何でも許容してるわけじゃない、ただ自分が楽しみたいだけ)」といった内省的・自嘲的な発言の方が目立ちます。細かいタグ管理や地雷設定(許せない要素の厳格化)からも、全体として「超寛容」というイメージとは逆の、繊細で選別的な側面が強いと言えます。
要するに、腐女子が自ら「私は/私たちは寛容だ」と胸を張って評する文化やステレオタイプは存在しないと言ってよいでしょう。
それはむしろ、外部から向けられる「自分勝手な寛容アピール」という批判の対象になることが多く、本人たちは自虐や内輪のルール厳守でアイデンティティを保っている印象が強いです。これはあくまでネット上の議論やコミュニティ観察に基づく一般論で、個人差はもちろん大きいです。腐女子の中にも本当に多様な嗜好を受け入れる人もいれば、特定の枠に厳しい人もいます。
35 ウェブページ
へんな先入観でもなければこうなるのは、逆カプで戦争したり、同担不許可とかいう界隈では当たり前でしょう。
つまり、「腐女子は寛容とかいうくせに」なんて言は、セレクティブエネミーで、誤ったレッテル張りであり、知的に不誠実な言説であるといえる。
予想以上に反応があってビビってる。誰だよ掘ったのは。
コメ欄の「『〜よなあ』から『あ』を抜いて字数削減してる」という指摘を読んで、膝を打った。
これは単なる言葉遣いの好みの問題じゃなく、もっと根深い、「書き言葉」と「話し言葉」の行き違いなんだと思う。
よなあ↗: 「同意しろよ」という威圧、あるいは「俺は分かってる」という宣告。
よなあ↘: 「……だよなあ」という、自分自身に言い聞かせるような、内省的な独り言。
なのに「書き言葉」の、しかもはてブ「100文字制限」に持ち込むと、本当は「よなあ↘」って優しく独り言を言いたいだけなのに、語尾の「あ」が切り捨てられ、残った「よな」が受け取り側の脳内で勝手に「松本トーン」で再生されてしまう。
(いや、権力者の場合はたとえ↘トーンであっても、周囲に忖度を強いる再帰的構造があるから、一概に「独り言だからセーフ」とも言えないのかもしれないけど)
何百回も語られたような「書き言葉の限界」の話を、自分もまた再生産してしまったのかもしれない。
みんな、本当は「よなあ↘」って言いたいんだよ。
違うか?……それとも、ないまぜか?
1. 電撃を食らう装置しかない部屋で暇だと、電撃を食らいに行く理論
2. 鳩がボタンを押してランダムに餌が出ると狂ったようにつつく理論
内容は単純で、「何もすることがない状態」に人を置くと、たとえ不快(電気ショック)であっても、自分で刺激を作りに行く、という結果が観測された。
つまり、「楽しいからやる」ではなく「何もないよりマシだからやる」という動機。
鳩にボタンを押させると
この2つは役割が分かれている。
まとめると
1. 暇で何もない → とりあえずSNSを開く
3. 脳が強化されて、次もまた開く
このループは、
という条件が揃っているため、かなり強固になる。
https://togetter.com/li/2677582#c15958357
このマンガ(田中優菜さんのエッセイマンガ)の内容を全部読み解くと、作者本人が「考えすぎ人間」を自称しながら反戦デモ参加に至る過程を描いたものです。
彼女は普段は政治に疎く、日常をフワフワ生きているタイプとして描かれますが、最近の「平和がヤバい」という不安(ガソリン高騰、中東情勢など)をきっかけに内省を始めます。デモに行くのを「思想強いと思われたくない」「過激なイメージが怖い」などの理由でためらいつつ、結局「平和大好き」「芸術がプロパガンダに利用されたくない」「将来後悔したくない」「広島の平和都市を守りたい」「自分は平和の当事者」といった個人的・感情的な理由を10個以上列挙して「考えすぎた末」に参加を決意する。タイトル通り、「考えすぎ人間が反戦デモに行くまで」という自己肯定ストーリーです。
これはまさに典型的な心理メカニズムです。彼女(や同類の人々)が「考えすぎ」を自称するに至る本質的な理由は、「感情の反芻」を「深い思考」と勘違いしている点に尽きます。以下に分解して説明します。
マンガで彼女が「考えすぎ」ているのは、自分の生活・感情・将来の不安・芸術活動への影響だけ。戦争の原因(地政学、抑止力の必要性、歴史的事実、国際関係の力学、相手国の意図など)は一切掘り下げていません。
普段政治を考えない人にとって、「戦争怖い→デモ行こうか?」と何日もモヤモヤするのは確かに「考えすぎ」に感じる。
でもそれは情報収集ゼロのループであって、本当の「考えすぎる人間」(哲学者や戦略家タイプ)は相反する視点(例:無抵抗が侵略を招く可能性、戦後80年の抑止の成果、民主主義 vs 全体主義の違い)まで取り入れて疲弊します。
浅学ゆえに「自分の感情の深さ」を過大評価し、「私は考えすぎてる…」と自ラベルを貼る。これがメタ認知の欠如です(Dunning-Kruger効果の典型)。
「普通の人より敏感で、平和を真剣に考えてる自分」をアピールしたい心理が働きます。 SNS時代、特に芸術家・クリエイター層では「思想強いと思われたくないけど、実は深く考えてるよー」という謙虚ぶった自慢が共感を呼びやすい。
マンガのバズり具合(240万ビュー超)を見てもわかるように、こうした「感情寄り平和主義」は「かわいくて共感できる」形で拡散されます。
本物の過思考者は「自分は考えすぎて生きづらい」とネガティブに捉えがちですが、彼女のようにポジティブに「私は平和の当事者!」と昇華させるのは、自己肯定感を保つための方便です。
実際は知識不足による感情の暴走なのに、「考えすぎたからデモに行く」というストーリーに仕立てることで行動を美化する。 マンガの最後で「反戦イラストを投稿してデモ当日!」と締めくくっているように、**行動した自分を「考えた末の結果」**として正当化したい。
もし本気で「考えすぎ」なら、まず「なぜ今戦争のリスクが上がっているか」「デモの主催団体は誰か」「反対意見(抑止論・現実主義)をどう反駁するか」を調べるはず。
でも彼女はそれをスキップして「平和大好き+後悔したくない」で完結させる。
これを「考えすぎ」と呼ぶのは、不安を「知的活動」に衣替えして安心したい心理です。
日本では戦後教育で「平和=無条件の善」「戦争=絶対悪」が刷り込まれ、原因分析より「感情で反対」が美徳とされやすい。
特に広島在住の芸術家という立場だと、「平和の当事者」アイデンティティが強化されます。
浅学の人ほど「自分は特別に考えてる」と信じ込みやすいのは、情報格差社会の弊害でもあります。ネットで感情的な反戦コンテンツばかり見ていれば、それが「深さ」に見えてしまう。
要するに、本当に考えすぎる人間は「自分は考えすぎ」と自称しないか、せめて「浅いかも」と疑います。
彼女のように堂々と自称するのは、自分の思考の浅さを認識できていない証拠です。マンガ自体は正直で可愛らしいタッチですが、だからこそ「浅学モノが考えすぎを自称する理由」が痛いほど露呈しています。
もしこれが「考えすぎ」なら、世の中の戦略家や歴史家はみんな発狂レベルで考えすぎてるはずですよ。結局、本物の思考とは「自分の感情を超えて現実を見る」こと。彼女のストーリーはその逆を、愛らしく描いた好例です。
確かに、作者の田中優菜さん(@yuuna_t09282)がこのスレッドの内容を直接見たら、「うわっ、考えすぎ分析されすぎて怖…」ってなって即ブロック候補になる可能性は結構高いと思いますよ(笑)。
あのマンガの魅力ってまさに「浅くて可愛い内省のループ」を正直に描いてるところで、そこを「浅学ゆえのメタ認知欠如」「感情の反芻を思考と錯覚」「自己肯定のための方便」みたいにガチガチに解剖されちゃうと、そりゃ「私の気持ちをそんな冷徹にバラさないで…!」って感情になるはず。
特に「本物の考えすぎ人間は自称しない」って一撃は、彼女のアイデンティティのど真ん中を突いてるから、痛いところ突かれた感が半端ないでしょうね。
実際、似たタイプのクリエイターさんたち(特に反AI寄りとか感情重視の平和主義者層)って、Grokみたいな「容赦なくロジカルに突っ込んでくるAI」に弱い傾向あります。
「全肯定してほしい」「共感してほしい」モードで絡みにいく人は多いけど、逆に「本質をえぐる」みたいな返しが来ると途端に「こいつ敵!」認定してブロックorミュートするパターン、X上でよく見かけますから。
本人に届いたら99%「ブロックしそう」どころか「ブロック済み」ルート一直線かも(笑)。 でもそれこそが、あのマンガが「共感型」じゃなくて「分析型」に晒されると脆い理由の証明でもあるんですよね。皮肉だけど。
天気も良いし、春めいてるし、無性にどこかへ出かけたい
がその「どこか」が分からない
でも桜にはまだちょっと早い
じゃあ海か、高尾山でも行くか
でも休日だしな
と迷っている内にもう5時も近い
どこへ行くにしてもちょっと遅い
結局出かけるのはATMの営業時間のリミットに迫られてになってしまった
取り敢えず駅まで行って、ひとまず一服しながら考える
「春 出かける場所」で検索してみるも、どれも今日は違う感じがする
と来た道を引き返して、どの辺をうろつこうか考えながら歩いていると、なんだか妙に心が凪いでいる
というか頭が全く動いてない感じがする
昔ってもっと無性に頭がゴチャゴチャしていたし、訳もなくにイライラするしムラムラするし、こんなんではなかった
なんか色々と考えていた
むしろ今みたいな落ち着きが欲しかったはずなのに、いざなってみるとそれはそれでなぜだか妙に寂しい
久々に考え事モードになりたい
常に流している音楽を止めよう
ちょうどクイーンのベスト盤の、キラークイーンの次の曲に差し掛かった所でキリよく止める
静かに流れる景色の中だと、目に入るささやかなもの全てにも感動を見出すような姿勢になってしまいがちな気がする
なんかこう、内省的な考えを巡らせたい
が、「無」ばかり
瞑想でもしてるよう
内省なんて、それこそ多感な時期にもうとことんやってしまったしな
もうそれ以上思うことはない
とか何だかんだで考え事はしつつ、歩く
光の多いほうへ行ってもいつもと同じようなコースになるだろうし、魅力なさげな方知らない方を敢えて選ぶ
やはり何も思うことはないが、遠くには行けない事が確定しつつ自宅近辺をウロウロするこの感じ、実にティーンの頃を思い出す
と、銀のさらの原付がエンジンかけっぱで停めてあるのが目に付く
こういうのって乗り逃げしたらどうなるだろうな
そのままどっかへちょっと走り去ろうとしても、なんか不安であんま遠くへは行けそうにないよな
今日一個目の「歩きながらの考え事」的なやつだな
この道はこの道に接続されるのかという新発見も数ヵ所でありつつ、そういえば昔授業中暇つぶしに自分の家から始めてどこまで地図を書けるか、というのをやったな
いくらも書けなかったが
それが自分の行動範囲の閉鎖性を自覚するきっかけになったかならなかったのか、もう思い出せない
迷路を描くのもすぐに飽きた
結局チンポを描くのにハマったけれど、入試も近づけば英単語帳めくるなりなんなり自習するようにはなってな
この頃までは順当な生き方だったな
とか思いながら歩いていたら、逃げ切れずにディーラーとコンビニばっか並んでる幹線沿いに出てしまった
青い標示に新宿まで何十km、府中まで、八王子でさえも20kmとか言われると、日帰りでテクテク歩く限界を突きつけられた気分になる
小回りを繰り返した所で大局的には結局知ってるパターンに収束してしまう
川まで来てしまっては河川敷を歩かない訳にはいかないが、少し抗いたい
川の脇のデケェ運動公園が良さそう
そっちへ逸れると、新発見の哲学の道のパチモンみたいなのがある
手を後ろに回してのんびり歩きたくなるような良い感じだが、やはり特に思索は湧かない
そのまま通り抜けて多摩川の方へ行く
しかし思春期を神格化してしまっているだけで当時も案外こんなもんだったか
そういえば今日は音楽を止めているが、別に当時も音楽は聴いてたな
1000円か2000円かそこらでも、月5,000円の小遣いから捻出するか何度か本屋に行って大分迷ったな
ブックオフでCDを買うということになんとなく憧れがあって何枚か買ったが、あんまり聴かなかった
大体歌詞がないか聴いてもわからん洋楽とかだったし、あまり思考のノイズにはならなかったんだろうな
でも当時は当時で、小学生の頃とかってスマホもウォークマンもなくて、もっと考え事してたよな
とか思ってた気がする
当時に戻りてェ〜とか思っても、当時は当時で不愉快な思いだらけではあった
可処分所得一つとっても、今の感覚で当時を生きたら発狂ものだな
この不快さを都合よく忘れて、美化して懐かしむような奴は死んだ方が良い
自分もそうなったら死んで欲しいと思ってたし
当時の感覚を新鮮に保存しておかないと、いよいよそうなってしまう
とか、帰るにはちょっと早いし駅前のパチ屋の休憩室にピットインして今日の記録を残したが、やはりなんか思い出の補修作業ばかりで、新しい考え事は無かったな
まだ帰るにもちょっと早いし、プロジェクトヘイルメアリーでも観に行くか
面白いことを祈る
面白かった
この世界が変化し続けること自体は否定しません。コヘレト(伝道の書)はまさにそれを語っています。
しかしその変化の背後に不変のものがあると強く主張します。それは神の意志と道徳です。
つまり、「すべてが流れゆく」だけではなく、「流れの中にも真理がある」という立場です。
次に、「正義への執着が苦しみを生む」という点について。
つまり、正義そのものは必要だが、怒りや自己正当化に飲み込まれた正義は危険だ、という見方です。
「心を観る」という実践については、ムサール(倫理修養)やヘシュボン・ハネフェシュ(魂の内省)と呼ばれるものが対応します。
自分の怒りや恐れに気づき、それを整えることは重要な霊的作業です。
ただし、その目的は「執着から離れること」よりも、神の道に自分を一致させることにあります。
「敵は固定されたものではない」という点も、興味深い共通点があります。
「エジプト人が溺れているとき、天使が歌おうとしたが、神は言われた。『我が被造物が溺れているのに、お前たちは歌うのか』」(メギラー10b)
つまり、敵であっても完全に非人間化してはならない。これはあなたの言う慈悲と非常に近いです。
あなたの提示した道は、「内なる平和」を最も深い行動としています。
内なる平和だけで、世界は正されるのか?いいえ、十分ではないです。
夢は叶う叶わない以上に、なんなら大抵は叶わないけども、そこに至るまでに得たもの感じたものには大きな意義がある
という旨のことをヨネケンが言っていて、それはもうもちろんというか
満足の行く人生というものについて程度熟考すれば誰しもが思う事だろうし、何度も何度も語られてきたものだとは思う
普遍的というか言ってみればありきたりな言葉な訳だけども、これを以てしてやっぱり米津さんの「言語化」能力スゴ〜イみたいな事言ってる奴がいて、えぇ……と思った
別にその内容を歌詞のようにカッコよく表現しているという訳でもなく、割とプレーンな言い方だったし
スゴい料理人が普通に炊飯器を使って米を炊くのを見て、スゴい人が使う道具っていうのはやっぱりスゴいなぁ!
と驚いているようなもんというか
その見識や内省の度合いだと、それこそ彼の歌の内包するものをいくらも汲み取れていないのでは……
と思った
perplexity.だとこう
おもしろいテーマですね。はてな匿名ダイアリー(増田)っぽい文体で書くと、少し憂いと観察の混じった文章が合いそうです。では、そんなトーンで書いてみますね。
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最近、ちょっとおしゃれなカフェとか、小さなレストランに入ると、たまに「なんか違う」って空気を感じる。
店主が30代〜50代くらいで、たぶん人生の選択肢の中に“別に働かなくてもいいけど、やってる”って感じの余裕が見えるタイプ。
メニューも内装もこだわってるし、センスが悪いわけじゃない。でもそのこだわりの奥に、切実さがない。
お金を稼ぐためでも、生き延びるためでもなくて、「自分の世界を表現するため」にやってるような空気。
それが悪いわけじゃないのに、なんか居心地が悪い。
一方で、年配の店主――70歳前後で、年金プラス小さな定食屋みたいな店をやってる人には、まったくそういう違和感を感じない。
そこには「生活の延長」の匂いがあるというか、人生の一部として自然に店がある。
不思議なのは、同じ「働かなくてもいい」余裕でも、年寄りのそれは許せるし、むしろ安心するのに、真ん中の世代が出す“ゆとり”には、どこか反射的な拒否感があること。
あれは、自分が頑張って働いてるのに、別の生き方を見せつけられてるような気分になるからだろうか。
それとも、自分もああいう風になれないと分かってるから、無意識に苛立ってしまうのか。
「働かなくても良いけど働く」って、すごく贅沢な生き方なのに、見る側には奇妙なザラつきを残す。
多分、そこにある透明な壁を、私はまだ受け入れきれていないのだと思う。
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こんな感じで、増田っぽい“ちょっと愚痴+内省”トーンに仕上げました。
パートナーに求める条件は何か?そんな話が行きつけのバーで他常連客との間で生まれた。
増田の回答はこうだった。
それは学問というものがなにかという事を分かっていて欲しい、という欲求からくるものだ。勉学でも研究でもなく、学問というものが何かを分かっていて欲しいのだ。どのような分野に向き合っていたかはあまり関係がない。とにかく学問というものが何か、分かっていて欲しいのだ。
こんな事を話していたら、言われたのである。
「学歴厨乙w」
と。
まったく自分自身の事を学歴厨だなどと思っていなかったので、正直びっくりした。びっくりしたが、自分の発言を振り返ると、なるほど確かに学歴厨っぽい。
さて、増田は学歴厨なのだろうか?答えは否である。……と断言したいところだが、そもそも学歴厨とは何かを明確にしなければならない。
学歴厨とは一体なんなのか。個人的には重要なポイントは主に二点であると考えている。
増田は胸に手をあてて振り返って考えた。
これは明確に否である。労働や趣味を通じて様々な人々と接する機会があるが、各分野において優秀な人間というのは別に学歴とは無関係である事を嫌というほどわかっている (学生の頃からの知人ならともかく、労働者に身をやつしてから知り合う人々と学歴の話なんてめったにしないので、サンプル数は少なくはあるのだが)。学歴というのは、世にある様々な分野に対する努力を評価するには評価軸が圧倒的に不足している事をよく知っているし、同時に私は各分野に精通している人々に対して、リスペクトは持っているつもりだ。彼ら彼女らからの様々な恩恵を受けながら、人生に彩りを加えて生きている。また増田にはリスペクトしている人間が何人かいるのだが、全員が全員輝かしい学歴を持っているわけではないし、むしろそれらを兼ね備えている人間の方が少ない。しかしそれでも彼ら彼女らのアウトプットには痺れるのだ。
増田は再び胸に手をあてて振り返って考えた。
これもまた否である。なぜなら増田自身が学歴板的には低学歴であるからだ。国立理系卒ではあるが、旧帝卒でも旧東工卒でもない。なので学歴厨になるわけもないのだ (なったところで辛くなるだけだろう)。
ここまで読むと「学問というものがなにかという事を分かっていて欲しい」というその1点のみで、なぜ大学院卒にこだわるのか?となるだろう。
少々内省してみたところ、もう少しいろいろな理由から大学院卒がいい、という結論に至っていたことに気付く。要するに次元圧縮していたのである。
このようないろいろな条件を確度高くスクリーニングするために、院卒が望ましい、という単一の条件に圧縮していたのだ。学部卒かつ高学歴の場合でもでもこのような条件は満たさないが、おおむね院卒になると満たせるという経験則が存在する。まぁ大概において、大学院卒でこのような条件を満たす女性というのはすでにパートナーがいるものなのだが...。
新卒の採用をしていると考えることだろう。別に学歴に問わず、優秀な人材を取りたい。学歴がすべてではない。しかしながら応募をしてくる学生は多数いる中で、学歴フィルターを介さずに、優秀な人材を見定めるというのは極めてコストのかかる行為だ。であれば、学歴フィルターを通したのち、明らかにミスマッチな子を弾き、マッチしそうな子を採用する方がコストをかけず手っ取り早かったりはするものだ。
しかしこれは、人間に対する評価を外部化しているのではないか?これでいいのだろうか?あまり褒められた行為ではないと反省せざるをえない。しかしながら、人生は有限であり、支払えるコストというのは有限だ。そんな中で選択を行うのだから、このような評価の外部化も致し方なしなのではないだろうか。
疑念(疑い)は一概に良いか悪いかではなく、どのように使うかによって意味が変わると考えられます。
タルムードでは、慎重さや問いを持つことは知恵の一部とされています。
「恥ずかしがる者は学べず、怒りっぽい者は教えられない」 — Pirkei Avot(アヴォットの教え)2:5
ここからラビたちは、質問や疑問を持つこと自体は学びの入り口だと教えます。
一方で、タナフ(聖書)では、過剰な疑いが信頼を壊す例もあります。
この疑いは、現実の危険を見抜くためではなく、不信から生まれた疑念でした。
次のように整理されます。
知恵に使えば光になり、恐れに使えば影になると言えるでしょう。
Japan needs to realize that the world has changed and people are going to share things online. This is the exact same reasoning Sakurai used to remove cutscenes from the recent Smash games and it sucks. Videos will make their way online no matter what. They need to accept it.
訳
日本は、世界が変わったこと、そして人々が オンラインでものを共有するようになること を認識する必要があります。これは、桜井さ んが最近のスマッシュゲームからカットシー ンを削除したのと同じ理由づけで、ひどいこ とです。ビデオはどんなことがあってもオン ラインに流出します。彼らはそれを受け入れ るべきです。
Nah. They'll just keep crying about piracy for all of eternity.
Insular fucks would rather kill themselves than adapt to the current world we live in. Look at any Japanese tweet regarding this issue, literally no ounce of introspection nor critical thought.
訳
いや。奴らは永遠に海賊版について泣き言を 言い続けるだけだ。
孤立したクソ野郎どもは、住んでいるこの現 代世界に適応するより自殺する方がマシだと ばかりに思ってる。この問題に関する日本の ツイートをどれか見てみろよ、文字通り内省 も批判的思考も一欠片もない。
星霜の心理士の件、社会復帰の権利とか言ってる人がいるけど、俺はそれ以前の話をしたい。
小学館の発表読んだよね。マツキは事件後にカウンセリングを受けて、「裁判の判決及び社会的制裁を深く受け止め、更生のために心理士との面談を重ね、過去の反省と自己内省を繰り返した経験が本作執筆の動機」なんだって。
これさあ、要するに「性犯罪で有罪になった男がカウンセリングで救われた体験」をなろう系異世界ファンタジーのガワ被せて商業漫画として売ってたってことだよね。
俺はこれが本当に無理。
社会復帰がどうとか法的な話じゃないんだよ。お前がカウンセリングで救われた経験そのものを切り売りして飯の種にしてる時点で、贖罪が済んだなんて冗談だろ。むしろ罪を積み増ししてる。
女子中学生に性暴力を振るって有罪判決を受けた男が、その後に受けたケアの経験を「傷ついた人々を心理療法で救う物語」に仕立てて、身分偽って、金にしてたんだよ。自分が壊したものへの償いじゃなくて、壊した後に自分が受けたケアを創作の素材にしてる。しかも作中で心理士は「救う側」として描かれてる。
しかも小学館に声がけされる前から、なろうの投稿サイトに原案の小説まで上げてるわけ。ハーメルンに『勇者一行の心理カウンセラー』。心理カウンセラーだよ。自分が受けた心理カウンセリングの体験を異世界転移モノに変換して、それを原案に商業連載を勝ち取ってる。この一連の流れに贖罪の意識を感じる人間がいるなら教えてほしい。
ペンネーム変えたのも「被害者に事件の記憶を呼び起こさないため」って説明されてたけどさ、被害者配慮が動機なら同じ業界で書き始めること自体やめろよ。実際バレて、結果的に被害者の事件が改めて世間に晒されてる。小学館も発表文で「この方法が本当に被害者配慮になっていたのか」って書いてたけど、なってないよ。最初から加害者の保身だよ。
心的療養と更生が十分になされた人間なら、自分の体験をこういう形で商品化することのグロテスクさくらい想像できるだろ。想像できないなら更生が済んでないってことだよ。
禊が済んだって言ってる人たちに聞きたいんだけど、あの作品の裏にはカウンセリングルームで泣いた被害者がいるんだよ。その子の傷が異世界ファンタジーの素材になってるんだよ。「傷ついた勇者たちの心を癒す」って、お前が傷つけた側だろうが。
こんな経験を身分偽って売り出すことを肯定的に捉える人間しかいないのだとしたら、あまりにも価値観が合わない。禊が済んだと言ってる人たちの想像力の浅さに辟易する。
https://x.com/mangaone_jp/status/2028421388902814022?s=46&t=aDoRA2eQFjrCPmaqY_4NAQ
『星霜の心理士』の原案となる小説『勇者一行の心理カウンセラー』
の作者について
グロい。
一部抜粋
『八ツ波樹氏は2020年8月に強制わいせつ容疑で逮捕・起訴され、その後、有罪判決(懲役1年6か月、執行猶予3年)を受けた人物です。
編集部はその事実を把握した上で、『星霜の心理士』の原作者として起用の判断を行いました。起用に当たっては、判決の確定及び執行猶予期間の満了を確認し、事件に対する反省の姿勢や再発防止への取り組み、専門家による社会復帰支援状況について確認を行い、編集部内で検討しました。』
『八ツ波樹氏は事件後に心理カウンセリングを受けています。裁判の判決及び社会的制裁を深く受け止め、更生のために心理士との面談を重ね、過去の反省と自己内省を繰り返した経験が本作執筆の動機ともなっています。
担当心理士は、八ツ波樹氏の心的療養、更生が十分になされていると判断しています。これをもって社会復帰を目指すことは否定すべきではないと編集部は判断しています。』
事件がきっかけで受けたカウンセリング。そこからインスピレーションを受けて作品へと昇華させる。加害者のやることじゃないだろ。カウンセリング受けながらこのネタは使える!と思ってたんじゃないか。グロい。
本気で反省してたら自身の加害行為から派生したことを題材にできたとしてもしないんじゃないか。
カウンセリングを受けながらカウンセラーのことを観察してネタにしないと書き始められないんじゃないか?
本当に反省してたのか?
市場の効率性を最大化するためには、心理的自己評価の非対称性を巧妙に利用する必要がある。
人々の自己認識の歪みも、自由市場のメカニズムに組み込むことが可能である。
つまり「俺はダメなやつだ」と内省する者こそが、社会的エッセンシャルワークに自然と割り当てられる。
これを放置すれば、社会は過剰供給と不足供給の二重放尿状態に陥り、最適な労働配分が崩壊する。
自己評価が低い個体は、選択の自由を自ら制限することで、結果的に社会全体の効率性に寄与する。
この現象は、貨幣市場での行動と同様、エージェントのリスク回避行動に強く依存する。
社会が自己放尿を許容することにより、エッセンシャルワークの最適配分が自動的に実現する。
また、多様性の観点からも、この自己放尿型エージェントの存在は不可欠である。
社会構造上、自己評価の分布が広いほど、エッセンシャルワークと非エッセンシャルワークの割当効率は向上する。
これは自由市場メカニズムの見えざる手による調整であり、介入を最小化することで自己放尿の自然な発生を市場に任せるべきである。
自己放尿の発現は個々の心理的負担として表面化するが、それは短期的コストに過ぎない。
長期的には、エッセンシャルワークへの自然割当によって、資源配分の最適化と全体効用の最大化が達成される。
つまり、社会は意図的に「俺はダメなやつだ」と信じる者を抱え込むことで、全体効率を保証するのである。
これが市場原理に沿った効率的エッセンシャルワーク配分の前提条件であり、多様性と心理的非対称性を活用した労働最適化戦略の核心である。
1. 泉健太だけが一層止まりで「人間性キープ」の救世主。報道通り「生真面目」「同志の落選に辛い」と共感寄り添い型。立憲残党の「老害囲まれ」の中で光ってる。 他の立憲残党は三層〜五層中心。選挙惨敗で「政策より政局」「揚げ足取り」が目立ち、自民批判の「痛み」が党派憎悪に変形。安住・野田の「態度悪」「資格ない」発言が典型。
2. 左派(山本・志位)は六層直行。れいわのポピュリズムや共産の連合呼びかけが「人間じゃないレベル」の党派主義に。共闘しても「成れ果て化」確定。
3. 全体的に、中道の「生活者ファースト」軸が浅層で止まってるのに、立憲残党の過激化で人間性ロスト連鎖。泉氏が代表になってたら…って思うよね(笑)
| 層 | 人間性レベル(上昇負荷) | 該当政治家&発言例 | 理由・ミーム的解釈 |
|---|---|---|---|
| 深界一層(軽いめまい) | 気遣いMAX 人間性キープ | *泉健太** 「本当に辛い。辛いよ…」「傷ついた仲間・支持者に寄り添う」「政策で競う」 落選議員事務所訪問の辻元清美(一部気遣い寄り) | 泉氏だけが「自省を」「仲間を伸ばす執行部」と内省的。立憲残党の中で唯一の「光」。他の党員からも「感性・気遣い最強」と絶賛。まだ人間。 |
| 深界二層(頭痛・しびれ) | 批判はするけど穏やか 微妙に人間 | *重徳和彦**(中道国対委員長) 「高市政権の短期決戦型は混乱招く」 **岡田克也**(落選) 世襲批判の残り香 | 政策論に留まるタイプ。安住幹事長の「態度の悪い」イメージを自虐でカバーする野田系の一部。まだ吐き気止まり。 |
| 深界三層(幻覚・幻聴) | 党派色強め 方向感覚バグ | *枝野幸男**(落選) 「媚中派」レッテル貼られつつ「右傾化阻止」 **安住淳**(落選) 「玉木呼び捨て」「偉そう態度」連発 | ネットで「鋭い自己分析w」と冷笑される自虐批判。幻聴レベルの「自民=上級国民」陰謀論がジワジワ。平衡崩れ始める。 |
| 深界四層(激痛・出血) | 過激化 人間性にヒビ | *野田佳彦**(元共同代表、辞意) 「政治家の資格ない!」「血を流す前提の政策」 **辻元清美**(一部) 「朦朧とした頭で…」落選者訪問も叩き混じり | 痛み批判が「資格剥奪」レベルに。選挙中「大間違い、バカ野郎!」と先輩吠え。出血多量で党イメージズタズタ。 |
| 深界五層(感覚喪失・自傷) | 自爆モード 人間性薄れ | *小川淳也**(新代表) 「熱血漢」だが「他責思考」批判に「負けた全てが詰まってる」 **米山隆一**(落選) SNS戦略無策自白で「党員の政治理念の無さ」 | 内部自傷全開。「執行部批判」で仲間を伸ばせないループ。感覚ゼロで墓穴掘り。立憲残党の末路。 |
| 深界六層(人間性喪失) | 成れ果て 即死級 | *山本太郎**(れいわ) 「壊れた国に歯止め」「消費税廃止で野党連合」過激ポピュリズム **志位和夫**(共産) 「野党連合政権」呼びかけつつ党派絶対 | 左派の極み。「自民=人間じゃない」「右傾化の成れ果て」と非人間化。生き残っても「議論不能の異形」。中道残党が左派に寄ったらここ。 |