はてなキーワード: 葛藤とは
作曲者が印税を受け取る一方で、非作曲メンバーが演奏料(実演家印税)のみになるという「収入格差」は、多くのバンドが直面する非常にリアルで生々しい問題です。
これについてベーシストがどう思っているかは、その人のスタンスやバンドの形態によっていくつか視点が分かれます。
プロ志向の強いベーシストの場合、「自分はプレイヤーである」という職人気質を持っていることが多く、格差を当然のこととして受け入れているケースがあります。
「何もないところからメロディを生み出す作業」と「渡された曲にベースラインを乗せる作業」では、責任の重さが違うという認識です。
バンド外でサポートミュージシャンやレコーディングエンジニア、あるいは他者への楽曲提供などで個人収入を得ていれば、バンド内格差をそれほど深刻に捉えない場合もあります。
曲の骨組み(コードとメロディ)を作ったのはギターだとしても、「あの印象的なベースラインがなければ、この曲はヒットしなかった」という自負がある場合、感情的なしこりが生まれます。
「バンド全員でスタジオにこもって形にしたのに、権利はギター一人にあるのか?」という不満は、解散の引き金になるほど根深い問題です。
長く続くバンドや、仲が良いことで知られるバンドの中には、この格差を埋めるための独自ルールを設けているところもあります。
誰が作っても「作詞・作曲:バンド名」とし、印税を等分する(例:スピッツ、BUMP OF CHICKENなど)。
印税の差はどうしようもないため、物販や興行の取り分で配慮する。
活動中はライブ活動や給料制(事務所所属の場合)でなんとかなっていても、解散した瞬間に「作曲者には印税が入り続け、非作曲者は無収入になる」という現実が突きつけられます。
この「将来的な不労所得の差」が可視化されたとき、ベースが(物理的、あるいは比喩的に)ギターを殴りたくなるほどの感情が噴き出す……という構図は、ある意味で非常に人間臭いリアリティと言えるでしょう。
最近では、ベースが単なる伴奏ではなく、楽曲のプロデュースまで深く関わって「共同作曲」としてクレジットされるケースも増えています。
超かぐや姫!は売り出し方が気に食わなく、なんとなく忌避していたのだが、信頼している友人がお勧めしてきたので視聴することにした。
普通に面白かったし、終盤の方はなんなら泣きながら視聴していた。
監督自身が長編映画の制作をあまり経験していないという背景もあるのだろうが、その辺の話は一旦置いとくことにする。
全体の感想として、全てがあまりにも舞台装置的であり、人間の心の深い葛藤というものは確かにあまり感じられなかった。
しかし、葛藤や反発の描写を重くすればするほど作品の消費カロリーも増えていく。
この令和の時代に、エンタメ映画の文脈でそれをするのは悪手なのではなかろうか。
少ない心理描写リソースの中で象徴的な親殺し(親から与えられた物語からの離脱)は行えていたし、全ての人間関係の描写をそういう記号だと思えば咀嚼できるだろうと思う。
竹取物語、推し活、Vtuber、MMO的VR、百合、親殺し、CGDCT、クリエイター、ビートセーバー、女装男子、Crazy Raccoon、表情描写のサンプリング、ミュージカル、ドラえもん最終回...
この映画は、全体的に記号と小ネタとミームのパズルのようになっている。
マリオの映画がファンを喜ばせる小ネタ満載であったように、小さな内輪ネタが集まって大きなものになったのが超かぐや姫!であると感じた。
あと、超かぐやの主人公に対して「恵まれすぎ」「ハイスペすぎ」と言うのは、悟空に対して「強すぎる」と言うのに近く、あまり意味のある批判ではないと感じた。
現代の人間として描かれているからこそ比較してしまうのだろうが、あくまでファンタジーの主人公であり、物語を動かすための装置として見るべき存在だと思う。
たぶん増田は同じように誘われたら参加する優しいやつなんだろ。同じ葛藤したことあるけど、基本奥さんは連れて行かない方針で正解だと思う。諦めじゃなくて2人のために。
自分は「家族ぐるみの付き合いができたら夫婦共通で楽しめるコミュニティが増えてきっと楽しい!」と思って誘ったけど、直前に断られてしまった。良かれと思っての誘いだったのと、直前に断られたのとで当時は喧嘩したけど、今となっては無理に誘った自分が良くなかったなと思ってる。
パートナーの友達とはいえ初対面だし、自分と友達の関係性壊したくない分、気遣いするから奥さんはきっと疲れる。たまにいる家族ぐるみで顔出す夫婦はかなり特殊。事前事後に家で相当ネゴってるか、そもそも性格がオープンかのどちらか。向き不向きの問題だから目指さないのが吉。自分は奥さんに身勝手な期待をしてたのが良くなかった。
楽しみにしてると言ってた友達もきっと社交辞令的なアレで、増田に会えるのが1番楽しみなんだから気にしなくて大丈夫だよ。デフォルトは誘わないに倒しつつ、奥さんが「行きたい!」と言ってくれたら一緒にいけばいいと思う。とりあえず今回はどんまい。
あれから一体、何年の月日が流れただろうか。
校歌を歌う子供たちの背中を眺めながら、私が抱いたのは感動ではなく、安堵だけだった。
「ああ、やっとこの学校との付き合いが終わる」
喉元まで出かかったその言葉を、マスクの下で飲み込んだあの日。
だがその実態は、進学実績という免罪符をぶら下げた、どこか窮屈な温室だった。
もちろん、保護者のすべてがそうだったわけではない。控えめで、人格的にも尊敬できる素晴らしい親御さんもたくさんいたし、そのお子さんも他人を思いやれるいい子だった。彼らとの交流は、この6年間で救いだったと思う。才能溢れる子供たちに囲まれ、我が子も大いに刺激を受けたこともまた事実だ。
何より、どの親も我が子のために精一杯の手間暇をかけていた。日々の勉強の進捗管理から、塾への送迎、志望校対策のサポートまで。この学校の華々しい進学実績を支えているのは、学校教育そのものよりも、親たちのこの凄まじいまでの献身なのかもしれないと認めざるを得ない。
我が家もまた、そのシステムの外側にいたわけではない。夫婦で子供の将来を考え、進学実績を求めてこの学校に預けた。そして、その選択に見合うだけの結果は手に入れた。この学校は、絶えず新しい教育や活動に取り組む挑戦的な一面も持っていたし、その前向きな姿勢を評価していたからこそ、私たちはこの場所に子供を託したのだ。
しかし、保護者の集まりに身を置くのは、常に息苦しさが伴った。会話の端々に、夫の社会的地位や我が子の優秀さをそれとなく滑り込ませ、互いの立ち位置を確認し合う——。そんな不毛なやり取りに神経を尖らせている自分たち自身にも、嫌気がさすことがあった。
そこに集うのは、小説『素直な戦士たち』のように、狂気とも取れる熱量で子供を戦場へ送り出す親たちと、その期待に応えようとする子供たちだった。
しかし、その「素直さ」は、あくまで受験というゲームのルールに対してのみ発揮されるものだ。ひとたび授業参観に足を運べば、そこには一部の子供たちではあるが、大人や他者を冷徹に値踏みする姿があった。授業が始まっても席に着かず、与えられたタブレットを使いこなして授業そっちのけで自らの関心事に没頭する。彼らにとって、目の前の教師や教えはもはや、自らの目的を果たすための重要な要素には映っていないようだった。要領の悪い子や立ち回りが下手な子には「え、まだそんなことやってるの?」と冷ややかな視線を浴びせる。親の前で見せる従順さの裏で、彼らは他者の存在を驚くほど淡々と、選別するように突き放す二面性を持ち合わせていた。
この学校には、卒業生の親が在校生の親に向けて、自らの体験を語る場がある。壇上で語られるそれは、あまりに特殊な成功事例に過ぎず、凡庸な我が家にとっては正直、何の参考にならなかった。しかし、その成功を崇める熱狂こそが、この場所の正義だった。
忘れもしない出来事がある。中学年の頃、我が子がしょんぼりして帰ってきたことがあった。理由を尋ねると、通学路で受験の終わった6年生に、親しみを込めて声をかけたら、「死ね」と言われたのだという。下級生からの親しみを込めた声かけに「死ね」と答える彼らの心はどうなっているのだろうか。偏差値と引き換えに、彼らは何を捨ててしまったのか。
さらに耐え難かったのは、そのだらしなさだ。足元を見れば靴紐が解けていても気にせず引きずって歩き、机の周りは整理整頓もままならない。
何よりも勉強が優先されるという家庭教育の延長線上で、日々の立ち居振る舞いへの意識が希薄になってしまったのではないか、と感じることもあった。
AIが当たり前のように思考を代替していくこれからの未来。最後に人間に求められるのは、情報の処理能力ではなく、人間としての気持ちの良さや、他者を慮る品格ではないのか。偏差値という歪な鎧を脱いだとき、彼らの中には何が残るのだろう。
何より、あの甲斐甲斐しく子供の勉強を管理する親たちには、学校でのあの子たちの顔が見えているのだろうか。
家で見せる顔と、学校で見せる顔。
果たして、どちらが子供の本当の顔なのか。私にはもう、それがわからない。
卒業式の会場で証書を受け取る子供は、誇らしげな表情で前を見つめていた。親の葛藤とは裏腹に、子供にとってはここが、仲間と笑い、学び、葛藤した、かけがえのない母校なのだという事実に胸を突かれた。
大人たちに翻弄されながらも、筒井康隆が描いたあの「愛らしいこぶ天才たち」のように、大人が設けた壁やハードルを軽々と踏み越えていく彼らにとっては、ここが唯一無二の楽園だったのかもしれない。
この学校を選んだことが正解だったのか。十分な結果と、挑戦的な教育環境を得た今でさえ、私はまだ、その問いに答えを出せずにいる。
あの日を境に、もうあの鼻息の荒い親たちの顔色を伺う必要はなくなった。
むりやりに大絶賛してみる!
まず制作陣がガチで天才だから、この物語への主な批判ポイントが、そのまますべてSF設計の土台なんだよね。
たとえば、キャラの葛藤がないとか、ご都合主義のAIっぽさとか、リアリティがないとか、散々な言われようだけれど。
それって『超かぐや姫』の核心なんだよね。
なぜかって……本作は、『神に喧嘩を売ってでも人間を作りたい』ってのがメインテーマだから。
超簡単に表現すると、人間らしさが消えちゃった彩葉と、ほんとうは人間じゃないかぐやが、「パンケーキを食べておいしい!」と感じたい話。
これこそが『超かぐや姫』の始まりであり、終わりに至るまですべて。
その為には、超早送りでびゅーんっと駆け抜けて、配信界の頂点にたどり着いて、「資本主義バンザイ!」でドパガキから集金しまくって、神の領域に挑戦しなきゃならない。
まるで全部乗せのパンケーキ、すべて持った超人のエネルギーで。
言うなれば、『令和のセカイ系はサイコパス』、うじうじと理屈を語るよりも、葛藤さえもハイスピードで終わらせて、きみとぼくの為――彩葉とかぐやの為だけに、神の理屈をねじ曲げにゆく。
(※セカイ系とは? 「きみ」と「ぼく」という、 ちっちゃな関係性が、 国家や社会をすっ飛ばして、世界のあり方に直結する話)
すなわち、新時代のセカイ系は、狂気で踏み込む決断主義、なにもかも舐め腐って、日本の古典――竹取物語をぶち破らなきゃならない。
天の羽衣を脱ぐ、綺麗事を捨てて、パンケーキの為だけに成り上がる話。
そこまでやらなきゃ、宇宙一の負けヒロインであるかぐやを、地獄の円環構造から救えない。
逆に言えば、それを実現させるまでは、まるで水と粉のパンケーキ、感情移入できないくらいぱっさぱさ――人間味がない、AIみたい、機械的なんですよ。
たとえば、主人公の酒寄彩葉17歳JKは、【楽しんでる場合やあらへん……いちばんやないとあかん】って母親に冷たく言われ続けたせいで、完璧主義のマシーンになっちゃったと。
つまり、学生なのに週5日のバイトで一人暮らし、東大を目指す受験勉強、プロゲーマーばりの腕前、こんだけ詰め込みすぎなのは、いわゆる『過剰適応』って奴。
いじめられっ子がなぜか笑うのと一緒で、『苦しさを100%抑圧』している。
まるで広末涼子の爆走185キロ、人間って一度狂うと止まらないんだよ。
さらに彩葉は、Vtuber月見ヤチヨの歌声に惚れ込んで、ガチガチに推し活もやっていると。
ここでも批判の声――「推し活が記号的、ただの舞台装置」みたいな意見があるけれど、これはSF的にも心理面でも必要不可欠なんですよ。
どういう事かって、彩葉は疲れすぎな日々に、お母さんからの罵倒が幻聴として聞こえていて、それを防ぐためにイヤホンをつけて、ヤチヨのRememberを聴き始めたと。
それもあって、○人的スケジュールなのに、なぜか感動できたり黄昏れたりと、一見余裕があるように見えるのは、その瞬間だけが抑圧からの解放――人間性を取り戻せているから。
その証拠に、「推しがいなければ生きられない」という考えで、食欲がない鬱状態のときも、推しさえ見ればちょっとずつ食べられる、そんな描写もされていて。
もはや推しというより神様――だからこそ彩葉は、月見ヤチヨの神棚アクリルスタンドを大事に飾っているんだよね。
しかもSF的にエグいのは、『超かぐや姫』って本質的に『神○し』のお話になっていて。
「パンケーキを食べたい」というエゴの為に、冗談抜きでドパガキも資本主義もハックして、運と才能とお金と人脈でフルスイングする。
そして、もう一人のヒロインかぐやは、さっきも言ったとおり、本来、人間ではなくて、じゃあ何者かって、月に住んでいたむなしい存在――肉体のない思念体なんですよ。
なので、地球に舞い降りて人間の肉体を得てすぐに、「自由な毎日が楽しいなぁぁ!」って欲望が大爆発する。
その最たる例としては、彩葉が睡眠を削ってまで働いて、がんばって貯めたお金――12万円を使い果たしたことがあって。
ちなみにこのシーン、「彩葉の怒りがあまりにも薄い!」って批判が多いんだけれど、それへの反論は秒速で終わるんだよね。
まず彩葉のため込んだ12万円は、超現実主義なお母さんの呪縛なんだよ。
【この世で頼れるんは自分一人や】、【今日の百円は明日の千円や】みたいな、冷たい言葉を吐かれすぎて、「心が壊れても頑張らなきゃ」という呪いになっている。
つまり、今までずっと無駄なく効率的に生きてきて、完璧主義の廃人になっていた彩葉に、無駄遣いでショック療法――かぐやはこれでもかとご馳走を振る舞った。
人間を人間たらしめるクオリア――簡単にいえば、おいしいという感情、「生きている!」という感覚を取り戻せたと。
その結果、このあと少しして風邪を引くんだけれど、それは別な言い方をすれば、やっと風邪を引けたんだよね、甘えと弱さを出しきって、これでもかと人間らしく。
今まで母親の祟りにやられて、完璧超人のマシーンだった彩葉が、かぐやによって人間性を蘇らせたってこと。
そう考えると、もはや妖怪人間ベムよろしく、「早く人間になりたい」ってのが、『超かぐや姫』のキモなんですよ。
そして、この物語のマジで恐ろしいところは、かぐやが元々暮らしていた月の世界なんだよね。
ここってのは味も温度もない巨大な水槽みたいで、喜びも悲しみもなくて、生きることも死ぬこともできない、永遠なる空っぽの場所であると。
でもって月の住人たちは、ゲームのNPCと同じで、無感覚の日々を繰り返すという、究極的にむなしいシステムに閉じ込められていて。
そんな中、かぐやだけが奇跡というかバグの発生によって、「寂しい! 退屈! 死にそう!」って、みるみると自我が芽生えて、月から飛び出しちゃったんだよ。
そして流れ星のようにキラキラと、『もと光る竹』という宇宙船に乗って、そのまま地球の電柱にビリビリビリってぶつかってゆく。
すると、一瞬でゲーミング電柱になるんだけれど、これは月のテクノロジー、地球環境に馴染むべく、そこに最適化された肉体――今回は赤ちゃんの体を用意して、かぐやの思念体が入り込んでゆくと。
そんでドパガキよろしく、タブレットでネットサーフィン、高速で情報収集をすることによって、その知識量に合わせてハイスピードで、女子高生くらいの見た目に変化するんだよ。
なので、普通の人間たちとは違って、文字通り、恥も外聞もないから、持ちうる力は『すべて出す』を地でゆく、このあと一瞬にして配信業でのし上がるんだよ。
そもそも、かぐやが彩葉のお金で勝手に、ライバーになる為のスマートコンタクトを買って、メタバースの世界ツクヨミにログインして、大観衆の前でいきなり叫ぶ売名行為までやって、終始、大暴れするんだよね。
なのでよくある批判――「子育ての苦しみがない」、「生配信の世界は甘くないぞ!」ってのは、筋の通ったやり方で回避できる。
そうこうして、「パンケーキがおいしい」と思えるくらい、かぐやは人間の幸せを覚えてゆく。
でも残念ながら、『かぐやは月の秩序を乱すバグ』と見なされて、月の世界へと戻されてしまう。
これは日本の古典である『かぐや姫』の結末通りで、強制的なバッドエンドを迎えると。
まず月に戻されたかぐやは、また何もない水槽の中に入れられて、虚無の永久ループに閉じ込められると。
しかも以前と違うのは、主人公の彩葉と出会って、笑ったり歌ったり、パンケーキの甘さを感じたりで、幸せを知ってしまったからこそ、その絶望はより深いんだよね。
5億年ボタンの比じゃないさみしさ、『生と死の狭間』にある闇のような場所で、永遠のひとりぼっち。
でもそんなある日、38万キロの彼方――地球惑星から、懐かしい歌声が聞こえてきて、「もう一回だけ地球に行こう! 彩葉に会いたい!」って、奇跡で飛び起きることができた。
でも運命は残酷で、「また宇宙船に乗って地球に出発だ!」ってときに、タイムトラベル機能をオンにしたもんだから、なんと制御不能でバコーンって隕石と衝突して、8000年前の地球にぶち飛ばされたんだよね。
すると何が起きたか、宇宙船のシステムがエネルギー切れ、月のテクノロジーが使えないせいで、最適な肉体を作り出せない、前と違って赤ちゃんにもなれない、ただの思念体――魂だけで放り出されたと。
それはつまり、声も出せない、誰とも話せない、誰の目にも見えない、永遠に続く孤独がはじまった。
これは昔の名作、『STEINS;GATE』のトラウマ回と似ていて、とある女の子が不完全なタイムマシンに乗ったら、時間跳躍のときにダメージを食らって、自分の名前以外すべてを忘れちゃったんだよ。
とてつもない使命、大切な約束があったのに、のうのうと生きてしまったことを悔いて、【失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した】、そう書き綴って……そのまま自殺するんだよね。
そして、かぐやの場合はより怖い――寂しくても退屈でも永久に○ねないから。
なので、「彩葉! 彩葉! 彩葉!」って発狂するんだけれど、それは声にも叫びにもならなくて、いつまでも絶無なんだよね。
泣きながら膝を抱えようにも、そこには涙も膝もない。
けれど1%の奇跡として、宇宙船に乗り込んだときに、地球で彩葉からもらった、たまごっちみたいな携帯ゲーム機、そこに『犬DOGE』という柴犬、電子のペットがいて。
その結果、シャットダウン直前の、宇宙船による最後の力で、たまたま近くにいた、かわいいウミウシ――海のウサギとも呼ばれる生物をスキャンして、そこに犬DOGEの軽いデータをぶっ込めた。
これはつまり完成済みのハードウェア、しょぼいけれどロボットの出来上がり。
だから、ウミウシにログインした犬DOGEをハッキングして、思念体のかぐやが入り込んで動かせるってこと。
そうこうしてウミウシのかぐやは、不老不死の日々を進んでゆく、それも8000年。
縄文時代、平安時代、戦国時代、あらゆる時代に漂って、大量の出会いと別れがあって、もちろん戦争による○し合いもあって、破壊と再生が延々と繰り返される中、かぐやは孤独な観測者として、それらを眺め続けたんだよね。
毒も薬も酸いも甘いもカオスも、すべて飲み込みながら。
そうやって膨大な時が流れて、人類は血みどろの歴史の果てに、電話に冷蔵庫にテレビに、そしてインターネットという、高度な文明を誕生させるんだよ。
そんなある日、かぐやはウミウシの身体のままで、パソコンのキーボードを押して、『Hello,world!』って入力した。
つまり、8000年の時を経てとうとう……想いを伝えられるようになった、孤独な旅がやっと終わった。
その瞬間かぐやは壮大な夢を思い描くんだよ。
それってのは、地球での血なまぐさい争いとか、ひとりぼっちとは無縁な、ユートピアの仮想空間を作ること。
要するに、『水も波も立たない巨大な水槽である』月の寂しさを、他の誰にも味わって欲しくないってこと。
だからこそ、ここでの仮想通貨『ふじゅ~』は、水のように、あぶくのように湧き出てくる。
まさにドパガキよろしく、人の心が踊れば踊るほどに、無尽蔵に金が降り注ぐんだよ。
そうしてかぐやは、ウミウシの身体をよじりながら、htmlを書いてアクセス解析もして、とにかく試行錯誤しているときに、はっと衝撃的なことに気づく。
それってのは、自分がゼロから築き上げてゆく仮想世界が、かつて彩葉と遊んだツクヨミだってことに。
そして、彩葉が歌声に惚れたVtuber月見ヤチヨは私なんだってことに。
すなわち、ぐるぐると同じ輪廻を巡って、この8000年の孤独も含めたループが、何百回、何千回、何万回も続いているのかもしれない。
これをむりやり表現するならば、『メタ的ディストピア円環構造』だね。
つまり、『感情を持った思念体』のかぐやが、月から地球に来て赤ちゃんとして生まれる→彩葉と幸せな時間を過ごす→月の世界に戻される→歌が聞こえて脱出を決意……でも隕石に衝突→8000年前の地球に吹き飛ばされる→そして今の今に繋がる――
めちゃくちゃ残酷なことに、この円環構造の中で、常にかぐやは自我があって、しかもその時間の大半、メタ的視点――実体のない魂のような存在として、声にならない声を上げながら、ずっとひとりぼっちで過ごしている。
そしてこの、『メタ的ディストピア円環構造』をぶち壊すには、バグを伝染させる必要があった。
もっと単純な話、心の底から「パンケーキがおいしい!」と思えること。
彩葉のケースで言えば、月のシステムみたいな完璧主義をやめて、泣いて甘えること、自分の意思で進路を決めること、ホンモノの反抗心で母親にぶつかること。
そのうえで最大の敵は、退屈で○にたくなるほど整った、穢れなき月のAI的世界なんだよね。
だからこそ、ドパガキも資本主義も運も才能も醜さも、Rememberという推しの曲もすべて総動員して、綺麗事抜きの人間らしさで殴り返した。
ありとあらゆる手段で、『竹取物語』の運命――かぐや姫は月に帰るという、神様の結末を破壊する為に。
それはつまり、彩葉の推し――神様だった月見ヤチヨ(かぐや)に、『終わりのある人間としての人生』を与える、今度は自分が神様よろしく、生命を誕生させるってこと。
ちなみに当初、メタバース(ツクヨミ)の世界では、かぐやを連れ去りに来る、月人(つきじん)という大勢の敵を、ゲームのシステムに落とし込んで、プロゲーマーの力とチートによって倒そうとしたんだよ。
現実世界じゃ負けるに決まっているから、ゲームの敵キャラにダウングレードさせようとした。
でもそんな甘っちょろい敵ではなくて、まるで勝ち目がなかった。
その結果、映画の途中でスタッフロールが出て、「めでたし めでたし」って、皮肉なエンディングが軽く流れるんだよね。
でも彩葉はその終わりを許さずに、ツクヨミという仮想空間――一億総ドパガキ社会ってくらい、ユーザー数の多い場所で、ハイスピードで配信者として売れて、べらぼうに儲けたお金と、人脈をフル活用して、10年間、ロボット工学をはじめとした科学技術を学んでゆく。
なぜかって、かぐやの思念体を入れる義体――それも寿命のあるホンモノの生命体を作りたいから。
これこそが『超かぐや姫』のすべて。
つまり、愛とは綺麗事ではない、愛≒平和ではない、愛とは能動的なバグなんだという、パンケーキを食べておいしいと感じる話。
↓『本音のおまけ』
冒頭で、「むりやりに大絶賛してみる!」と宣言したとおり、映画版の『超かぐや姫』は、ファミ通の文庫版も読んで、SF設定もメモして、登場人物の背景も学んで想像して――つまり、こちら側でかなり踏み込んで視聴しないと、ちんぷんかんぷんな事ばかりだ。
とはいえ、90年代2000年代を振り返りゃ、映画であれ音楽であれゲームであれ、たった一本、たった一枚、たった一作を繰り返し……狂ったように楽しむものであった。
たとえば、FFや聖剣伝説をやるときにはアルティマニアという、ごっつい攻略本を買ってプレイ前から読みふけっていた。
そう考えりゃ、『超かぐや姫』の円環構造よろしく、ぐるぐるとリピートする事が大前提の作品があっても良いのかもしれない。
しかも『超かぐや姫』 の場合、知識と考察を重ねるごとに、「この複雑な円環構造のSF設計を考えると、これはこれでアリかもな」と思えてきて、じわじわと評価点が高まる。
私は多様性が嫌いだ。
男は強く在るべきだし、成長すべきだ。
基本責任を引き受けるべきは男で、逃げることはある一定の年齢を超えれば許されない。
不幸なことがあってもそこから立ち直るべきだろう。
甘えた態度を続ける男は、場合によっては生きる価値がないとすら思う。
一方で女は違う。
別に弱くてもいいし、幼くてもいい。決断をしたくないならそれでいいし、いい歳してその調子でもまあ悪くないだろう。
この人男だったら今よりニ、三段階社会的に不利な立場にいただろうなと感じる人もそこそこ見る。
それがいいのか悪いのかは分からない。
周りにいる女性のそういう様子を見る度、可哀そうだなと思う。
結構馬鹿にした話だと思うのだが、それを恥ずかしげもなく享受している感じもある。
自分で書いてて余りにも馬鹿にしているなと思うが特にこの考え方を変えるべきだとも思わない。
弱さ全開な所は可愛い。
十分な能力があるにも関わらず、性別を理由にギャップを作るのは本当にくだらない。
営業の仕事をしていると、女性社員が出向くと客先でまともな対応をされないケースがある。
その時は、男の自分が代わりに向かう。なんてカスな社会だと思う。
強い侮辱を感じるし、当の女性社員がそれを笑って話したり頼んだりしにくるのもきつい。
本当は能力があるのにこれで不当に自信を奪われて委縮するようになったら最悪だ。
その手の話は二度と起こしたくない。
私の考えを堂々と言っていい世界は、今よりずっと悪い所だ。
頭に侮辱的な言葉が浮かんだら、必ず言わないようにキャンセルしている。
それがなくてならない姿だと思う。
私は幼い頃から中学生くらいまで、知的障害を持った叔母と同居してきた。
分かりやすさのため敢えてこの表現を使うが、大体犬と同じくらいの知性だ。
意味のある言葉は話せないし、所構わず大声をあげる。怒った時は手加減がないから強めの暴力が飛んでくる。
そんな叔母に対して、特に何も思わない。
当たり前に傍にいたし、そういうものだと思っている。
叔母に意思がないではない。
彼女には彼女なりの優しさがあるし、怒りや悲しみも感じている。
実家で飼っている犬のことは特に好きみたいで、楽しそうに撫でていることもある。
そんな叔母が、障害があるからという理由で差別されるとやはり許せないと思う。
ある時祖母は、自分の母親の法事に(つまり私の曾祖母)祖母、叔父、叔母、母の四人で向かった。
その時障害があるやつを何故連れてきたと言われたことがあるらしい。
祖母は会をぶち壊して途中で帰ってきた。
それは正しい行為だ。少なくとも私にとっては。
ふと視界に入って、反射的にネガティブな感情が出てくることがある。
そしてそれは絶対に表に出してはならない。
障害者に向かって露骨に顔をしかめる。ヘイトを当たり前のようにぶつける。殺してしまえとすら言う。
そんな社会は嫌だ。自分の感情とは別にやるべきことがあり、それを実行すべきだ。
あるべき理想の社会がる。一方で、自分の直感にとって最も快適な社会がある。
そして自分が想像していたより、その偏見が大きかったこともあるはずだ。
社会的に許されない、でも思わず表に出したくなるような強い衝動を伴う不快感。
特別な出来事や理由が無くとも、なんとなくでそれは育っている。
それは正しくない感情のはずだ。
何故ならその感情に素直に従った行動は、筋が通っていなかったり、自分の過去の苦しみを加害者として再演したりするからだ。
自分は嫌だ、これを認めたくないと感じながらも、認めなくてはならないものが存在する。
これは苦しい。自分にとっての理想の社会は有り得ないと認めることも、自分が思う不正義を放置することも、自分が無茶な論理を押し付けようとしていたことに気が付くことも、どれも苦しい。
それでも葛藤と向き合っていくからこそ、多様性という言葉は重い。
言行一致しているか?
素直に他人を排除しようとしたり、かつて排除されていた体験を用いて他人を攻撃したり、そもそも苦しんでいる他人を認めず存在を無かったことにしてないだろうか。
政治や人権について強い関心があったようで、パワポケの二次創作で繋がった相手だったが時折そんな話をしていた。
この前久しぶりに彼のアカウントを見に行く「女性に性犯罪を行うキチガイストーカーが死刑になりますように」とつぶやいていた。
https://x.com/kyoto_spiders/status/2037488161270661540?s=46
『キチガイ』何故使った?
一つは、これまで見過ごされていた苦しみに気が付けるように、という願いがあったと思う。
精神障害は、特に辛さが見えづらい。見た目には分かりやすい変化がない場合もある。
一見忘れられてしまいそうになることを繋ぎとめる。これも人権について考えるでも重要な要素のはずだ。
それを自分で表明しておきながら、あの無様な姿。
多様性なんてどうでもいいと言う奴は論ずるに値しない。
ただ多様性を謳いながらその実全く興味を持ててないやつ、そのことに自覚もない奴は別の醜悪さを孕んでいる。
ましてやそんな人間は社会的に立派そうな立ち位置にいることもある。
自覚無しに人を区別する権力者など、差別主義者より性質が悪い。
それを指摘されても聞く耳を持たない。
俺はああはなりたくない。
辛くて苦しくても、俺たちは悩み続けなければならないはずだ。
その上で他人を踏みつけたとしても。
それでもなお決意をもって踏み込む必要がある。そうでないと社会は変わらない。
私は発達障害がある。
高校生くらいまで社会常識やコミュニケーションが微塵も理解できず、ずっと孤立してきた。
他人の振る舞いを観察し、ある程度型にはまれるようになってきた今で、時折とてつもない見落としがある。
今仕事についてなんとかやれているのは、運よく素晴らしい友人に出会えたからだ。
失敗を許容し、解決策を提示し、黙って機会をくれる人間がいたからここにいる。
もっと根本的に、自分と言う人間を舐めずにそのままぶつかってきてくれたからだ。
今の自分にそれが出来るかは分からない。彼らほど誠実には出来ないかもしれない。
働き出してみると、自分と似たような特性を持った人間に出会う。
彼らが、社会的に尊重される時が来るだろうか。多分ないだろう。
彼らに人権はない。キモいし可哀想じゃない。だからわざわざ考慮しようという人がいない。
だから、共に仕事をする時はどうすれば周りが納得するのかや、どうすれば仕事が終わるかを話すようにしている。
彼らはお礼を言わないし声もはデカいまたは聞こえない。不要な独り言もめちゃめちゃ多いがこちらの態度は変えない。
障害だから変わらなくていいという論理に飲み込まれ、裏でヘイトを溜めながらいつか底が抜けた時に、盛大に排除されるだろうか。そうなるくらいなら、過剰に叩かれながらも自分を変えなければと思い至る可能性がある現状の方が、まだ不幸になる人は少ないのかもしれない。
人権を重んじたことを言いたい方々は役に立たない。興味がないから。
そんなことより隣にいる人間に声をかけられる人間の方がよほど社会のためになる。
嫌な奴に声をかけて、背景を知ったら嫌えなくなってくる回数が増えるほど、多様性は身体の中に作られてくる。
不愉快でたまらないけれど、社会も自分も、それで少しずつ良くなるのだと信じている。
弱いことは悪ではないけど弱く在り続けることは悪だ。
昔はコンテンツを見て涙を流す人のことが全く理解出来なかった。
最近泣きはしないけど、ちゃんと感動したり涙腺が刺激されたりするようになった。
嬉しい。絶対楽しめない物だと思っていたから。もっと普通になりたい。
映画を見て泣ける人は羨ましい。そこまで豊かに何かを感じる事は苦手だ。
でもいつかそうなれる気もする。
チック・リット(英語: chick lit)は大衆小説のジャンルで、「個々の主人公の試練と苦難に焦点を当てた、ヒロイン中心の物語で構成されている」もののことを指す[1]。このジャンルは多くの場合、現代における「女性らしさ」の問題(恋愛関係や女性の友情、職場での問題など)をユーモラスで軽快な方法で取り扱っている[2]。
このジャンルが始まった当初、チック・リットの主人公は「独身、白人、異性愛者、イギリス人かアメリカ人の女性、20代後半から30代前半、大都市圏在住」である傾向が高かった[1]。このジャンルは1990年代後半に人気が出てきて、チック・リットの小説がベストセラーとなったり、チック・リットに特化した出版社ができたりした[3]。チック・リットの批評家の間では、チック・リットのジャンルの始まりはイギリスの作家キャサリン・アリオットのThe Old Girl Network(1994年)であり、チック・リットの「原典」として広く知られているヘレン・フィールディングの『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996年)は、これにインスピレーションを受けたものであるということで合意している[4]。
"chick"は英語で「雛鳥」を意味し、転じてアメリカのスラングで「若い女性」を意味する。"lit"は"literature"(文学)の短縮形である。チック・リットの研究者は、この用語の初出は、1995年のクリス・マッツァ(英語版)とジェフリー・デシェルが編集したアンソロジーChick Lit: Postfeminist Fictionであるとしている。これは、マッツァとデシェルの「ポスト・フェミニストの作品を」という呼びかけに応えた22の短編小説を収録したものである[5]。1990年代半ばには、女性作家が女性読者のために書いたフィクションを指す言葉として、様々なメディアでこの言葉が使われるようになった。
この用語を、この用語が生まれる以前の同様の女性向け作品についても適用して、"chick lit in corsets"(コルセットを着たチック・リット)と呼ぶことがある[6]。また、このジャンルの要素と青春物語を組み合わせた、若い読者向けのチック・リットのことを"chick lit jr."(チック・リット・ジュニア)という[6]。
論争
チック・リットは、読者の間では非常に人気となったが、批評家の大半はこのジャンルを支持しなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評において、アレックス・クジンスキー(英語版)はフィールディングの小説を特に非難し、「ブリジットは男に狂わされた無力感に浸っている哀れな姿であり、彼女の愚かさは言い逃れできない」と書いた[7]。作家のドリス・レッシングはこのジャンルを「すぐに忘れられてしまう」とし、ベリル・ベインブリッジ(英語版)は「泡のようなもの」(a froth sort of thing)と呼んだ[8]。編集者エリザベス・メリック(英語版)は、2005年にアンソロジーThis Is Not Chick Lit(これはチック・リットではない)を出版した[9]。メリックはこの本の紹介文の中で「チック・リットのお決まりのパターンは我々の感覚を麻痺させる」と主張した[9]。編集者ローレン・バラッツ=ログステッドは、メリックの本に対抗して2006年にThis Is Chick Lit(これがチック・リットだ)[10]を出版し、このプロジェクトは「怒りから生まれたものである」と述べた[10]。
このジャンルの作家たちは、その弁護に乗り出した。チック・リット作家のジェニー・コルガン(英語版)は、すぐさまレッシングとベインブリッジに反撃した[11]。『グッド・イン・ベッド(英語版)』(2001年)や『イン・ハー・シューズ(英語版)』(2002年)など数多くのチック・リット小説を著したジェニファー・ウェイナー(英語版)は、常にチック・リットを擁護した[12]。『スレート』誌2013年5月22日号では、『ウーマン・アップステアーズ(英語版)』(2013年)の著者である小説家クレア・メスード(英語版)が、女性の小説と主人公の好感度について語ったコメントに対する、ウェイナーの記事を掲載した[13]。ウェイナーはその記事の中で、商業小説、特に女性の商業小説に存在する偏見に疑問を投げかけた。ウェイナーは、『ニューヨーク・タイムズ』紙に"The Snobs and Me"を執筆するなど、チック・リットに対する人々の認識に挑戦し続けている[14]。この記事では、自分の作品を軽視する文化的風土の中で、自分の作品を信じようとする彼女の個人的な葛藤が綴られている[15]。
ダイアン・シップリー[16]などの他の作家もこのジャンルを擁護している。特に、フェミニストのグロリア・スタイネムがウェイナーの意見に共鳴し、女性の文学に対する偏見に注目しながら、自分たちがこの言葉を使っていること、そしてこの言葉が女性や女性の小説について何を語っているのかを問うよう人々に求めた[17]。
その後の状況
出版社がこのジャンルをプッシュし続けているのは、売上が高い状態が続いているからである。作品の市場性を高めようとして、この用語の様々な派生語が造語されてきた。
『リファインリー29(英語版)』のライター、ローレン・ルヴァイン(Lauren Le Vine)は、2016年3月に"The Chick-Lit Books That Won't Destroy The Feminist Inside You"(あなたの中のフェミニストを破壊しないチック・リット本)と題して、女性が女性のために書いた8冊の本を紹介した[18]。ルヴァインは、女性を題材にした小説の文学的伝統には、時に、買い物に夢中になって夫とはぐれた女性が夫を探すという物語が含まれており、このような本はフェミニストの価値観と矛盾しているということを認識している。しかし、ルヴァインはヘレン・フィールディングの1996年の小説『ブリジット・ジョーンズの日記』を紹介する際に、「一人の女性が個人的な満足感(それは彼女にとって愛、キャリアの成功、身体の受容を意味する)を見つけようとすることにのみ焦点を当てた本であり、それはフェミニズム(どの波に乗っても)とは何かということである」と書いている[18]。
『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌の編集者であるサラ・ネルソン(英語版)は、2008年に、チック・リットというジャンルの中で考えられるものの定義が、より完成度が高く、「成長した」ものになってきていると示唆している[19]。
2000年、『シドニー・モーニング・ヘラルド』は、女性読者を対象とした小説の新しいトレンドについて、次のように述べた。「ポスト・トーリー、ポスト・グランジの軽やかさの精神が、雑誌を読む女性やテレビを見る女性たちの間に広まっていった。この小説は、『チック小説』(chick fiction)または"chicfic"いう『出版現象』の誕生であり、主題、パッケージ、マーケティングによってすべてが統一されている。キャンディ・ブライトで、ピンクと蛍光色の重い表紙、『キャンディ・ブライト』なタイトルにより、簡単に消化しやすく、良い笑いを提供することをほのめかしている。そのような本は、雑誌の記事、小説や小説化されたもの、テレビと、自宅で一晩で消化できる快適な食べ物のハイブリッドとして市場に位置づけられている[20]。」
チック・リットは一般的に女性が主人公であり、プロットの中でその女性らしさが重要なテーマとなっている。ほとんどの場合で現代世界を舞台としているが、歴史上の時代を舞台とした作品もある。扱われている問題は、しばしば消費主義よりも深刻なものである。例えば、マリアン・キーズ(英語版)の『子持ちクレアの逆転勝利』(Watermelon)は、現代世界で母親であることに悩む主人公を描いている。宗教的なチック・リットの市場も成長している。他のタイプの大衆小説と同様に、著者や出版社は多くのニッチ市場をターゲットにしている[3]。主人公の民族、年齢、社会的地位、配偶者の地位、キャリア、宗教などは様々である。goodreadsでは、チック・リットは恋愛小説のサブジャンルとしては扱われていない。それは、チック・リットは、プロットに恋愛の要素が含まれていることもあるが、恋愛関係と同じくらいにヒロインの家族や友人との関係が重要であることが多いからである[21]。チック・リットのやや厳しいジャンルルールにより、チック・リットの作家が異なるジャンルに進出するのは難しくなっているが、チック・リットは歴史小説に結びつくこともできる。
女性作家の中には、自分の作品が「チック・リット」というレッテルを貼られるのを避けるために行動している人もいる。例えば、『ガーディアン』紙の2010年の記事によれば、ユーモア作家のD・J・コンネルは、自身の作品がチック・リットとされるのを避けるために、ペンネームを「ダイアン」から「D・J」というイニシャル表記に変更した[22]。コンネルは、女性名でユーモアを書くことは、自身の作品を危険にさらすことになり、チック・リットのレッテルが貼られた場合、その作品は真剣に受け取られないだろうと言った。別の例では、作家のルース・ギリガン(英語版)は、自身の作品がチック・リットとみなされることで、どのように一般の人々、エージェント、出版社から軽蔑されたかについて書いている[23]。ギリガンは、大学のキャンパスでの性的暴行についての小説で新しいスタイルを試したが、出版社は明るい花のような表紙を提示し、ギリガンはこれを失礼だと感じた。
遠藤周作の本を何冊か読んだ
「愛」について書かれた、とは簡単に言うことはできないけど
自分の過去の経験と合わせて「ああこうだったな」と理解できた部分があった
それは愛されてるなという実感、つまり「愛」ってなんだろうという問いについてだ
自分は幼少期から親から溺愛されて育ったおかげで「愛」はもういらない、
とばかりに反抗期に突入し大人になった今に至るまで「愛」は自分にとって
16歳の頃年上の先輩と初めて付き合い初めてフェラチオをされた時
それは電流のように脳をとかした
女性に愛されているのだという実感
それに勝るものなどこの世には無い
そう確信したのだそれは三角形の内角の輪が180°であるという真理に近いほどだった
それから少ない人数ではあるが女性にフェラチオをされ、セックスをすることができた
絶頂の瞬間をどうしてもセックスよりフェラチオを選んでしまう自分にとって
「愛」とはフェラチオの上手さだった
現代の結婚や育児における男女の役割と葛藤について、提供されたソース(オンライン掲示板の書き込み)に基づくと、以下のような根深い不信感や構造的な歪みが浮き彫りになっています。
現代の親にとって、子供をどのように育てるかは大きな葛藤の種となっています。
かつての「専業主婦」モデルから共働きが当たり前の社会へと変化する中で、男性の役割に批判が集まっています。
女性の生き方に対する社会的な評価が、時代とともに変化しつつも常に批判に晒される状況が葛藤を生んでいます。
かつての「子供が親を看取る」という家族の役割は崩壊しつつあります。
これらのソースからは、経済的な負担(子供一人に2000万円かかるなど)だけでなく、精神的な消耗や、ネット社会における異性間対立の激化が、結婚や育児をより困難なものにしている現状が伺えます。
誰しも、心の奥底に「他の人から理解できない」欲求を抱えていると思います。その欲求に惹かれるけど罪悪感も感じる。そんな葛藤があると思います。私がそう感じる欲求を考えてみました。同じように自分の欲求に罪悪感を感じる誰かに、少しでも何かが伝わればと思って投稿します。
私は「パンチラ」と「ロリ」に強く惹かれる人間です。 ただし、現実の誰かを傷つける行為は一切していません。 パンチラは自然に見える範囲だけを見ていますし、ロリも合法的な成人女優が出演するAV、商業マンガ、イメージビデオを見ています。実際の子どもに近づいたり、撮影したり、触れたりすることは絶対にしていません。
法律は守っています。 ただ、倫理的に「完全に問題ない」と胸を張れるかは正直わかりません。 それでも「人間としてどうしても抑えきれないライン」には留まっているのではないか——そう自分では考えています。 ただ、社会の価値観が変われば、今は許されていることも許されなくなる可能性はあります。 そして、いつかもっと危ない方向へ進んでしまうリスクが全くないとも言えません。
「どこまでが許されるのか」の明確な正解はありません。 だからこそ、今の内面的な境界線を、できるだけはっきりさせておく必要があると思いました。 世間との違いを自覚して、変えられる部分は変え、変えないと決めたなら責任を持つ覚悟でいる。そのために、自分の欲求をしっかり見つめ直してみることにしました。
パンチラに興奮するようになった原因は、学生時代に性的体験がほとんどなかったことだと思います。性的経験を通して直接見ることができなかったから、「見てはいけないものを見る」ことで欲求を満たしていたのだと思います。AVのパンチラ作品で、最終的に「バレて責められる」展開が多いのは、「見てはいけないのに見てしまう自分」を、物語の中で責められながらも許されたいと思っていたからかもしれません。
街中では、短いスカートの人を見かけるとつい目がいってしまいます。 エスカレーターで後ろに立つ、電車で目の前に座る、といった行動を取ることはありますが、あくまで自然な範囲です。 待ち伏せしたり、わざと強引に真後ろに立ったりするようなことはしていません。
ただ、自分でも「これは普通の範囲をどれだけ超えているのか」と疑問に思います。 以前、エスカレーターで盗撮している人を見つけたとき、「捕まえるべきだ」という正義感と同時に、「自分にそんなことをする資格があるのか」という思いが湧きました。 なぜ盗撮に気づいたのかといえば、自分も「見えるかもしれない」と期待して見ていたからです。
「見る」行為がどこから問題になるのか、法律的には線引きが曖昧です。 そして、たとえ法律の範囲内でも、相手を傷つけてしまう可能性はあることを、忘れてはいけないと思っています。
最近気づいた大事な点があります。 街中でパンチラを期待するときの興奮の正体は、実は「パンツそのもの」ではなく、「見えるかもしれない」という期待と緊張感そのものだったということです。 パチンコで言うなら「リーチ」に興奮しているようなものです。 実際に見える瞬間よりも、その前のドキドキに強く惹かれていた。 そう気づいたら、実体のないパンチラを追い求める意味が、少しずつ変わってきました。
ロリはパンチラよりもずっと危ういテーマです。この言葉が出ただけで多くの人が拒否反応を示すのもよくわかります。 だからこそ、できるだけ要素に分けて、素直に考えてみたいと思います。
かわいさ
あどけない顔立ちや、守ってあげたくなるような柔らかい雰囲気。 これは自分の精神的な未熟さと深くつながっています。 その欲求は女性から見れば「気持ち悪い」と感じられることも十分理解していますが、確かに存在しています。
ロリ作品に出てくる、かわいい下着に強く惹かれます。 かわいい下着を着ている大人の女性であれば、ジャンルがロリでなくても興奮するはずです。 ただ、作品では「かわいい下着=かわいい系女性」という組み合わせが多いため、どうしてもロリ作品に偏ってしまいます。 現実の幼い子どものパンツを見たいかというと、はっきり「NO」です。 街中で幼い子どもに目が向いてしまうことはたまにありますが、それは「リーチ」に誤って反応してしまう癖のようなもので、本当に求めているものではありません。
柔らかさ
二次元で描かれる柔らかそうな身体。 それに優しく触れてることを想像すると、安らぎを感じるように思います。 これは現実の大人の女性にも感じる気持ちです。 未成熟さそのものに興奮しているというより、「触れたくなる優しい柔らかさ」を求めているのだと思います。
心の穴
私は「無条件に受け止めてくれる優しさ」や「自分を否定せずに包み込んでくれる存在」を現実で十分に得られなかったと感じています。 ロリというジャンルは、そうした満たされない心の穴を埋める一つの手段として機能していました。
パンチラもロリも、「現実の誰かを傷つけない」範囲に留まっています。 ただ、「たまたま」ここで止まっているだけで、もっと危ない方向へ進んでいた可能性は否定できません。 人間誰しも、欲求の暗い部分を少なからず持っていると思います。だから、自分の欲求を言葉にしたことは意味があったと思っています。
欲求を改めて考えてみて、私が目指したいと思ったのは、 「特定のイメージやカテゴリではなく、その人をその人として欲求を感じられること」です。 心が通う相手(それはロリではないはずです)と、心が通うエロ。 それはとても険しくありますが一番満たされる道なのではないかと、今はそう感じています。
アクションゲーム『海腹川背』シリーズには、ほのぼのした見た目とは裏腹に、ファンの間で語り継がれている**衝撃的な裏設定**がいくつか存在します。]
最も有名な裏設定は、ゲーム内のフィールドが**主人公・海腹川背自身の「精神世界」**であるというものです。
2. 重い家庭環境と設定
主人公の川背さんには、意外にもシビアな家庭環境の設定が存在すると言われています。]
開発スタッフのインタビューでは、シリーズが進むにつれて年齢が変わる川背さんについて、「年齢設定には理由がある」といった意味深な回答がされることもありました。
これらはゲーム内で直接語られることは少ないですが、キャラクターデザインを担当した**近藤敏信氏**の世界観設定に基づいたものとして知られています。
このほか、特定のシリーズ作品にのみ登場する裏エピソードなど、**さらに詳しい設定**について知りたい作品はありますか?
はい、彼女の職業は**「流しの板前(いたまえ)」**です。寿司職人に限定されているわけではありませんが、和食全般の技術を持つ料理人という設定です。
この設定には、ゲームのタイトルにも通じる深い由来と、少し切ない背景があります。 [
タイトルそのものが、板前の修業で使われる**「魚の捌き方の心得」**から来ています。
この言葉が、主人公の名前とゲームタイトルの由来になっています。
彼女が若くして「流しの板前」として全国を渡り歩いているのには、家族にまつわる裏設定が関係しています。
ゲーム中では、巨大なルアー(釣り針)を自在に操って移動しますが、これは板前としての「食材確保」や、父譲りのサバイバル能力の現れとも言えるかもしれません。
「スピリチュアル」というよりは、**「心理学的・内面的な世界」**というニュアンスが近いです。
幽霊や神様といった超常現象の話ではなく、あくまで**川背さん自身の「心の中」や「記憶」が具現化した場所**として描かれているのがポイントです。
なぜスピリチュアルっぽく感じるのか?
ゲームの雰囲気がどこか浮世離れしているのは、以下のような「精神世界」としての演出が効いているためです。
空中に浮く足場や、魚に足が生えて歩いている奇妙な光景は、現実ではなく**「支離滅裂な夢」**のようです。
ステージの背景にある日本の原風景のような看板や建物には、どこか**「過去の記憶」**を辿っているような寂しさが漂っています。
敵の魚たちは、彼女が板前修業の中で向き合ってきた「食材」への意識や、父親との思い出が歪んで現れたものとも解釈されます。
開発側の視点
キャラクターデザインの近藤敏信氏は、川背さんが成長して年齢を重ねることに意味を持たせています。彼女が大人になるにつれて、この「精神世界」の捉え方や、そこに現れるものも変化していくという、非常に**内面的なストーリーライン**が裏に隠されています。
ですので、オカルト的な意味でのスピリチュアルではなく、**「孤独な少女の心象風景をアクションゲームにした」**という方が、このシリーズの裏設定の正体に近いです。
直接的な「動物愛護」や「環境問題」といったメッセージよりも、もっと**個人的でシビアな「職人の業(ごう)」**に近いメッセージ性が裏に込められています。
板前である彼女にとって、魚は「食材」であり、同時に「自らを形作る存在」でもあります。
川背さんがルアー(釣り針)で魚を釣り上げ、気絶させて捕獲するアクションは、板前としての**「命をいただく行為」**の裏返しです。
裏設定としての精神世界では、彼女がこれまで捌いてきた、あるいは向き合ってきた魚たちの「思念」が具現化して襲いかかってくると解釈されることもあります。
3. 「食うか食われるか」の境界線
敵の魚に足が生えていたり、巨大だったりするのは、現実の力関係が逆転した**「悪夢」**のような状態です。
4. 命を「繋ぐ」道具としてのルアー
彼女が使う伸縮自在のロープ(ゴム)は、単なる武器ではなく、対象との**「繋がり」**を象徴しています。
魚を単に殺すのではなく、引き寄せて捕える(あるいは利用して移動する)プロセスには、食材に対する独特の**執着と敬意**が混ざり合っているという考察がファン層では根強いです。
「魚を大事にしよう」という道徳的な話ではなく、**「他者の命(魚)を糧にして生きる者の孤独と覚悟」**という、プロの料理人としての精神的な葛藤が、あの独特の静かな世界観を作り出していると言えます。
こうした**「職人としてのストイックさ」**が、他の萌えキャラ的なゲームとは一線を画す、シュールで深い魅力に繋がっているのかもしれません。
ホラー映画として楽しいんだけど、その楽しさは本当に正しいのだろうか。59点。
同じ登山部の仲間で山で死んだ女性の追悼登山にやってきた主人公と韓国人。しかし運悪く吹雪の中遭難してしまい韓国人は足の骨が折れてしまう。もうダメだぁ、おしまいだぁとなった韓国人は「実は俺が女性を殺した。登山事故じゃなくて殺人だった」と告白。まぁ、それはそれとしてと探し回っていると山小屋を発見し、2人はうっかり生き延びてしまう。死ぬと思ってとんでもないことを告白した韓国人ととんでもないことを告白されてしまった主人公。とんでもなく気まずくなってしまった山小屋で疑心暗鬼のサバイバルが今幕を開ける。
まずフラットな目で見て面白かったか面白くなかったかで言えば面白かったとしていいと思う。
その後の展開として、山小屋に入った後、急に韓国人は不機嫌になり携帯持ってるのに持ってないって言うわ、主人公に隠れて救助隊に電話して「一人です」って言ってるわ、調理のために貸してくれたナイフをすぐ返せって言うわ、様子がどんどんおかしくなっていく。実は女性は主人公と付き合っており、韓国人もそれを知っていたことから、彼は彼なりに告白してしまったことで自分が恋人の仇になってしまったので危害を加えられる可能性があり、また、告白してしまったことで相手に絶対的な弱みを握られてしまったという不都合が発生していて、ついにはその状況が決壊し、韓国人は主人公に襲い掛かってくる。
ここからはもう、閉ざされた物件に殺人鬼がやってきて襲い掛かってくるから逃げ回る系のガチンコのホラー映画になってくる。
2階建てで階段もあればハッチ式のはしごもあり、部屋も多く、山小屋なので遮蔽物も多いといういろんなルートで鬼ごっこ可能な考え抜かれた物件で、市の鬼ごっこが始まるわけだけど、珍しく殺人鬼側の片足が折れているというハンデがある。しかし殺人鬼側はナイフやオノ、スコップ(デカいやつね)といった武器で武装しているのに対して五体満足の主人公は丸腰。さらには高山病を発症してしまい、視界がきかなくなってくる。このあたりの不均衡さ、そして相手が韓国人であることで発生するディスコミュニケーションと、シンプルに動きがどんどん人間離れしてキモくモンスター的になっていく韓国人の物理的な怖さ。といったジャンル的な強度はめちゃくちゃ高くて、見ていて楽しい。
そして、なんとか逃げ回って夜が明けて救助隊がやってくるも主人公の声は届かない。閉じこもっていたドアを開けて飛び出すも目は見えないが救助隊員に声を掛けられようやく視界が戻ったと思ったら、それは救助隊の服を着た韓国人だった。救助隊員を皆殺しにし、ついに主人公をとらえ首を絞める韓国人。お前の罪も告白しろと言われ、主人公は実は女性を殺したのは韓国人ではなく自分だった。自分が韓国人が首を絞めて彼女を殺すように仕向け、殺したのを確認しに行ったら女性が息を吹き返したのでとどめを刺したと告白し、息を引き取った。
ところで目が覚めて、穏やかな韓国人に迎えられ高山病でぼうっとした頭でうっかりいらん告白をした結果、現実世界では何の告白もしていなかったのに韓国人に「お前何かおかしい」と疑われてしまう。そして一夜明け、救助隊が駆け付けた時そこには韓国人をめった刺しにする主人公の姿があった。
という、ホラー、サスペンスとして一定以上の強度がある映画であるのは間違いないと思う。追いかけっこからの驚きの真相の告白。ここまでは間違いなく良かった。
問題は夢落ちの是非と、夢落ちとなったことでホラー、サスペンスパートの正当性がゆがむこと。そして、相手が韓国人であることの妥当性。
まず、夢の内容があまりにハチャメチャで、十何年間もちょっとした見下しはありつつ一緒に活動してきた仲間相手がまるでカヤコやジェイソン、ジャック・ニコルソンかのような殺人モンスターみたいなイメージで夢に登場するだろうかという話。これが細切れの夢の中で毎回、日常の中で起きそうな殺人、それこそ首を絞められたり後ろから刺されたり、毒を飲まされたりという形なら「お前自身がそうしたいという願望の発露」として受け入れられなくもないが、実際に夢で起こったのはまるでスラッシャーホラーのようなドタバタアクション。
つまるところ、一本のスラッシャームービーとして夢パートが精緻で予測不可能で出来が良すぎた故に、逆に高山病で朦朧とした頭で見る夢として正当化される範囲を超えているんじゃないかという話。
そして、相手を韓国人にしたことでちょっとカタコト感がある喋りなので本心が読みづらいという部分はいいとしても途中から韓国語交じりで話し出すので相手の意図が余計に読めなくて怖い、という意図があったんだとしても、なぜかこの映画には韓国語には日本語字幕が出るので「こいつの韓国語は主人公に伝わってる設定なのかどうなのか」がよくわからなくなってしまう。
主人公が「韓国語でしゃべるのやめろ」というシーンはあるけど、それはすなわち「韓国語が全く理解できない」を指さない。ある程度理解はできるけどコミュニケーションとしてスムーズじゃないからやめてほしいかもしれない。だから、そこの恐怖を描きたいなら「主人公に理解できな韓国語には字幕を出さない」という処理にすべきだったはずだ。実際、後半から字幕が出ない部分もある。じゃあ、序盤はずっと意味が理解できていたのか?と思うが、韓国語に対して主人公が意思疎通している描写もない。チグハグだ。
なにより、相手が日本人じゃないからコミュニケーションとれないの怖いよね~っていうの、現代のコンプライアンス感覚としてどうなんだ。まぁ同じ日本人なら怪物化させても問題ないのかという問題もあるが、別言語を話す別人種だから怖いというのはシンプルに受け取っていいのかはかなり悩んだ。
そしてこの作品の本当にあるべき形として、死を覚悟して罪の告白をしてしまったが生き延びてしまった。こいつを生かしておいていいのか、いや、むしろ俺が殺されてしまうんじゃないかという葛藤という部分にあまり重きを置かずにスラッシャーホラーに振るという決断は本当に正しかったのか。もっと心理的な密室サスペンスに振るべきだったんじゃないか。原作は中学生くらいの時に近所の古本市場で読んだだけなのであんま覚えてないんだけど、そっちは後者的な話だった気がする。
まぁ、そんな感じかな。
襲い掛かってくるようになってからの韓国人はもう本当にシリーズ化してほしいくらい(最後に殺されたからもう無理だけど)印象的なモンスターアイコンとして完璧だったからそういう意味では面白かったけど、そういう意味で面白い映画でよかったんかなぁって感じ。ホラー映画好きな人は楽しめると思うけど、原作的な心理サスペンスを期待してる人にはなんか違うなぁってなるんじゃないかな。
車でテキサスへ向かう母子だったが途中で車がパンクしてしまう。そこはアメリカ女、自分でタイヤ交換に乗り出すがそのへんをうろうろしてた娘はガラガラヘビに噛まれて重体に。慌てて娘を抱えて走り回るとトレーラーハウスを発見し、そこの老婆に娘を預け、自身は車を急いで修理し病院を目指すことに。老婆から「代金は後払いで」と言われ、適当に流して車の修理に向かいタイヤ交換を終え娘を迎えに行くと老婆はおらず娘からはヘビの噛み跡が消えていた。そして病院で診察を受けるも容態は安定。そこに謎の黒人が現れ「ほな代金いただきます。日暮れまでに誰か別人の魂を捧げろ。じゃないとやっぱ娘死ぬ」と言われ証拠も見せられる。果たして主人公は娘のために他人の命を捧げることができるのか。
みたいな話。
う~ん。
ある種のミステリとして100回見た展開ではある。例えばちょっと前に見た「DROP」も、娘を人質にとられて知らんやつから娘を生かしてほしかったらデート相手を殺せって指令が来る話だったし。それを今作ではスーパーナチュラルな相手から指令が来るという形になっている。
その結果として定期的に取立人がいろんな方法でやってきて、例えば交差点で信号待ちしてるとガキが現れて窓を叩いてきて無視してると今度は頭を血まみれにしながら窓に頭突きを始めてぶち割ってくるとか、廃教会の前で黒衣の神父がフィンガーガン売ってくるやんと思ったら化学工場ばりに黒煙をモクモクあげながら炎上したりと、ホラー演出をねじ込むというエンタメ効果を補強しているのは、設定を活かせているという意味でヨシ。
一方で、こういう作品のキモであるはずの殺す殺さんの話はなんかかったるい。
取り立てが病院から始まるので偶々見かけた死にかけのジジイの家族に接触して病室に潜入。家族が目を離した隙に殺そうとするも、殺せない!ってなってトイレに逃げ込んだら家族が戻ってきてすぐにジジイは死亡。という、もう死ぬんやったら殺しとけばよかった~っていう皮肉な展開はちょっと面白かったけど、その葛藤も地味だしなんかタラタラしてる。
その後、バーでDV彼氏とその彼女に出会い、せやDV彼氏やったら殺してええやろ!ってなるのもナンカナーって感じだし、ガンショップに銃を買いに行くも地元民じゃないからダメって拒否されるも砂漠でレイプされた!ってでっち上げて近所の闇業者を紹介されて銃を買える展開もナンダカナーって感じ。
で、まんまとDV彼氏を誘拐し砂漠につれていくも逃げられ探すも見つからず途方に暮れた彼女は取り立てに来る悪魔に出会いもうダメだぁ、おしまいだぁとなってこの映画を見始めた人100人中96人が考えたであろう結論に達し娘にビデオメッセージを撮影する。はいはい、他人指定がないから結局自己犠牲で自殺するんでしょと思ってたらなぜか戻ってきたDV彼氏に石を投げられ気絶。そしてなぜか待っていたDV彼氏と再び対峙するも抜いたナイフで自分の首を切ろうとする主人公。フーンと思って見てると、なぜか再びガラガラヘビがやってきてDV彼氏の足をガブリアス。
崖から落下した瀕死のDV彼氏を見て主人公はこれ幸いと首を掻っ切り娘を迎えに行って街を脱出するのでした。
これ前に見たトジコメを思い出すんだよな。スーパーナチュラルの使い(そもそもヘビってのがモチーフ的だし)によって試練が与えられ、その試練の究極の自己犠牲という解答にたどり着けたのでスーパーナチュラルから許されてDV彼氏を殺す権利をもらえた的な。結局、結論として臓器くじじゃないけど功利主義的に自己犠牲の精神を見せたから死にかけのDV彼氏を殺したらええやんというのは本当に正しいのか。
もろちん、このDV彼氏の足にガラガラヘビが噛みつくところまでが実は最終試練でここで「殺す」「自殺する」のどちらを選ぶのかで真の倫理観が試されているという捉え方もできなくはないけど崖から大落下してさらにガラガラヘビにも噛まれているっていう、主人公が自殺したところでこいつも死ぬだけやんって状況だったら、倫理もクソも合理的に考えてこいつを殺すのが正しいってなっちゃうじゃん?
母性による究極の自己犠牲の果てに結局他人を殺して自分も娘も助かりました!相手はDV男だしいいよね!
ほんまにか?
まぁ最後の最後に車で走ってると娘が殺したはずのDV彼氏を見つけてヒッチハイクしてるオッサンおるなぁって言い出して、つまりどういうこと?ってなる、本当にあの決断で解放されたのかというあいまいさを残すエンドになってるけど、残されたところでじゃあどうすればよかったんっていう。さっさと死んどけばよかったんか?
まぁそんな感じかな。
主演の黒人女性が自身もプロデューサーとして噛んでるみたいな話も合って、そういう作品ってだいたい何らかのエンパワーメントを推進しているところがあって、この作品も母子のシングルマザーでDV彼氏に対して並々ならぬ怒りを持っていたり、DVサレ彼女に強い感情移入をしていることから、もしかしたら主人公自身がその被害者だった可能性を示唆していて、DV野郎は死ね!という強い思いがあったのかもしれないけど、それが作品のジャンルの面白さにうまく反映されていたかは謎。80分しかないのにめっちゃ長く感じた。あんまオススメじゃないかも。
はっきり言って『都合の良いZ世代のガキ』 みたいな、令和のキモいところを凝縮した作品だった。
令和型のセカイ系――
「私たちは一所懸命で合法だから、ハッピーエンドが当たり前だよ!」的な、超効率主義の超ドライっぷりがすごいんだよ。
要するに『平均的で弱い一般大衆』を踏み台にして、遺伝子の良さ、メイクマネーの能力、親から与えられた文化資本を総動員して、なんでも秒速で攻略しちゃうと。
であるから、描かれていない物語の裏側で、とんでもない数の罪なき人々が、雑に淘汰されているんだよ確実に。
しかも、昔のセカイ系と違って、痛みも葛藤もほとんどなくて「せっかくの人生なんだから、全部奪い取ればいいじゃん」って勢いなんだよ。それもヨゴレ役をやらずに、光属性をファッションにしたまま、何もかもを得ようとしてゆくと。
主人公の態度としては「最低限の法と道徳と倫理は守っているから、わたしら以外のザコな一般人は知りませんよ?」的な、ぎとぎとの冷酷さが伝わってくるんだよ。新時代のサイコパスを決めるなら、こういう奴らだろうね。
その証拠に、主人公の彩葉17歳JKが、視聴者からの投げ銭をあぶく銭、水物呼ばわりして、もう一人のヒロインかぐやも「でも合法でございましょ」って切り返すんだけれど。
冗談抜きの話、こいつらって生き様がキャバ嬢、ラウンジ嬢なんだよ。手練れの売女ってくらい「私は一所懸命」「私は苦しんでいる」「私は生きる為に必死」という大義名分で、もうそれだけで感情労働をしているから、どんな奇跡が起きようとも、どんな大金が舞い込もうとも「必要以上には感謝しませんよ!」って冷え切った流れ。
なので、超かぐや姫を一言で言い表すと『整形手術した人の笑顔』だね。
でね正直な話、超かぐや姫、SF設定はむっちゃ面白いのに、各キャラクターの深掘りがあまりにも薄くて、あらゆる事が超早送り――ダイジェストで進むもんだから、貧困も毒親も配信業もメタバース(仮想世界)も、全部ぺらっぺらなんだよ。
そのせいで2時間22分もあるのに、唯一、緊張感のある場面って、彩葉が疲れて風邪を引くシーンだけ。でもって大規模な戦闘シーンなんかも「知らない奴らが知らない技を使って知らない世界で、いつまでも戦ってんねぇー」としか思えないんだよ。
例えるなら、僕が昔、風の王国というMMORPGをやっていたときに「そんなクソゲーやめて、マビノギやりなよ」って何度も誘ってくる奴がいて、仕方なく新規ログインしたら「なんだこの世界観、くそきめぇー」って、14歳前後のガキだったから思っちゃってさ。
つまりは、心の準備が整っていないのに、いきなし『異空間に連れて行かれて知り合いゼロ』という、2000年代のネトゲで味わった独特な疎外感――仲間外れ感を思い出したんだよ。そんくらい感情移入させてもらえないのが、超かぐや姫!
個人的に懐かしい話、テイルズウィーバーとか、メイプルストーリーとか、ラグナロクオンラインとか。そこらに一瞬だけログインして「マジでつまんねえ~」って思って荒らして、飽きたらハンゲをやって、今度はフラッシュ倉庫に行って「人生ってクソゲーだな」ってマウスをカチカチしていた頃。そのときの感情がぐわっと蘇ったね。
「古き良きネット社会の黎明期ってのも、快楽ばかりではなかったよなー」って、あの頃に心がタイムスリップできた。
それで言えば、挿入歌――ハッピーシンセサイザとかメルトとかも、僕が病んで疲れて、ひきこもりだったときによく流れていて。永井先生とかウナちゃんマンとか初音ミクとかニコニコ組曲とか、そんなのとも混ぜこぜな日々の中「毎日つまらねぇー、生きていても意味ねぇー」って絶望していた時代が、はちゃめちゃ解像度高く、思い出されたんだよね。
そう考えりゃ、一周回ってすごい作品かもね。
言うなれば、その昔、『キャビン』って洋画があってさ。伝説のモンスター集合みたいなB級ホラー作品で、シャイニングとか ファニーゲームとかジュラシックパークとか、名だたる作品の奴らがオマージュとして、がんがん登場するんだよ。超かぐや姫もそのベクトルで、思い出のお祭り騒ぎなんだと思えば、ぎりっぎり、ありな作品なのかもしれないね。
そんでね強く言えるのは、超かぐや姫を観て20分そこらで「うわぁ、資本主義の悪いところ出てんな」って、最速で虫唾が走ったんですよ。
というのも、本作のヒロイン――酒寄彩葉(さかよりいろは)17歳が、顔も可愛くて、東大も狙えて、音楽のセンスもあって、母親が京大出身の金持ちで、一人暮らしで、推し活もやって、FPSもプロゲーマーレベルで、友達が売れっ子インフルエンサーで、つまるところバケモン。
「こいつこそ地球人じゃない可能性があるな」って、まるでマルチバースってくらい、いろんな天才의人生を歩み過ぎなんだよね。
しかも、週5日のバイト、受験勉強、友達付き合い、ゲーム、全部ガチ勢として、一分一秒を争うスケジュールで生きているのに、気持ちよく感動して泣いたり、ぽわぁ~んっと黄昏れたりで、謎めくほどの余裕があって。挙げ句の果てには、冒頭のナレーション含め『一生懸命な苦学生が尊い!』というモードなんだよ。
そんで重要な話。彩葉の『限界ぎりぎり生活』ってのは、そうせざるを得ないからスタートしたのではなくて、自己選択で貧乏をやっているから、あくまでもガソリンの味は知らないヒロイン、そこにあるのは真の闇じゃないと。
なぜかって、彩葉自身が口にしたように、親子喧嘩で譲らなかった結果として、保証人不要のボロアパートに住み始めただけなんだよ。
さらに、お母さんは嫌味ながらも【今でも彩葉はすぐに泣いて帰ってくると思ってます、甘ちゃんやから】そう言っているように、『いつ帰ってきても良い』という逃げ場を用意していると。もっといえば、彩葉は、父方の祖父母から、仕送りまでもらっていて『だが自尊心を守るために使わない』という自己決定をしているんだよね。
しかも、小汚いアパートといえども、パソコンもタブレットもあるし、トリプルモニタだし、節約で使わないながらもエアコンがあるしで、向かうところ敵なしのガジェットだらけなんですよ。
つまり、やらせの貧乏、やらせの苦学生、やらせの追い込まれだから、貧困なりきり体験ツアーでしかない。これは言ってしまえば、10年前に流行ったビリギャル的な世界観『敗者復活ごっこ』でしかないね。
そもそもがさ、若いときの貧乏暮らしなんて「刺激にあふれた愉快な下積み」と考えりゃ、ただただ楽しいだけじゃん。この僕なんかも19歳の頃、試食品コーナーだけで食事を済ませたり、洗面台にホースをつけてシャワー代わりにしたり、キシリトールの歯磨き粉を歯に塗って空腹をごまかしたりで、すこぶる貧しき時代があったけれど、若さゆえに面白かったからね。
すなわち『まだ未来のある貧乏』って、所詮は娯楽の一種でしかないのよ。
やはりね、生まれ育ちが最強な奴の苦しみって、ストリートファイターのさ、サマーソルトキックを放つ前のしゃがんだガイルを見て「背が低いねー」って言っちゃうくらい、本質的にくだらないなって。
※追記、書いた文章をGoogle Geminiで「ちょうどよく改行して!」と頼んだら、謎のハングル文字がたった一個だけ登場した。考えられる理由は!?
規制派フェミニスト(性的対象化批判を重視するラディカル寄りまたはメディア表象批判派)のうち、BLを自ら消費・擁護する「BLフェミニスト」の主張を整理すると、明確な内部矛盾と権力行使の様態が浮かび上がります。主な論者は堀あきこ氏、田中東子氏などで、太田啓子・千田有紀氏らと重なる部分もあります。
公共空間(広告、NHK、献血ポスターなど)での性的強調描写(巨乳、へそ出しなど)を「環境型セクハラ」「女性の尊厳侵害」と批判。 田中東子氏は公共メディアでの萌え絵を「ジェンダー規範の再生産」と指摘し、社会的議論・制作過程の改善を求める。 堀あきこ氏は『BLの教科書』で「性の二重基準」を指摘しつつ、男性向け表現のゾーニング(成人指定)を主張。
BLを「女性が家父長制的な異性愛規範から逃れ、欲望を主体的に表現する場」と位置づけ。 堀あきこ氏は「BL無罪なんて言ったことない」と否定しつつ、BLの性的表現を「女性の自由な性表現」として擁護。 田中東子氏は自身がBLを描く裏垢(別名義で商業BL執筆経験あり)を持ち、女性による男性性の消費を「多様性のある表現」と肯定的に扱う。
これらは「女性を守る」「ジェンダー平等を推進する」という善意から出発しています。
男性キャラクターを性的に消費するBL(攻め/受け固定、受容葛藤のドラマ、美少年理想化など)は「女性の解放ツール」として肯定される一方、女性キャラクターの性的強調(萌え絵)は「男性の視線助長」「性差別」と強く批判。 堀あきこ氏は「BLの教科書」で男性向けとBLを比較しつつ、BLの問題(ゲイ男性のオブジェクト化)を軽視。田中東子氏は萌え絵批判の急先鋒でありながら、BL執筆を続けていることが2024年に暴露され、「神話級のダブルスタンダード」として炎上しました。
現実のゲイ男性の表象を女性のファンタジーとして消費するBLは「安全な逃避」と擁護されるが、ゲイ当事者からの「ホモフォビア再生産」「表象の横奪」批判は「過敏」「ネタの一部」と矮小化されやすい。 これは淫夢ネタ(ゲイAVを異性愛者の笑いネタに転用)と構造的に同一です。両者とも当事者の同意を無視し、消費する側の快楽・不快解消のために現実の同性愛者を「イジっても大丈夫なネタ」化しています。
家父長制批判を掲げながら、多数派男性の眼差しを女性に内面化させ、自らを制限させる構造を再生産。BL擁護派は「女性の性的主体性」を主張する一方で、男性向け表現の規制を求めることで「女性の表現の自由」を選択的に守る形になります。
規制論者BLフェミニストの権力行使は、外部からの法規制ではなく、内面化された相互監視として機能します(フーコー的生権力の典型)。
不快(解釈違い、ゲイ当事者批判、現実との衝突)を「界隈の調和」「正義」「女性の尊厳」の名で集団的に処理。 「正しい萌えを守る」「有害な表現を排除」というお気持ち表明が延々と続き、異なる意見を「名誉男性」「ミサンドリー加担者」と村八分化。 これにより、自分の不快を「学級会の議題」にすり替え、表現の多様性を抑圧します。
「あなたは無自覚に男性の視線を内面化している。だから自らを監視し、表現を控えよ」と女性に促す。 結果、女性クリエイター・消費者が自発的に自粛するようになり、権力は最も効率的に浸透(外部強制ではなく「自発的な配慮」として)。
規制派BLフェミニストの影響で、BL内でも「性的描写の過激化を控えよ」「ゾーニングを」との声が上がり、商業BLの自主規制圧力や二次創作の学級会化を助長。 これは「女性の性的主体性」を守る名目で、逆に女性の創作・欲望を管理する逆説を生んでいます。
規制論者BLフェミニストの主張は、「女性を守る」という善意から出発しながら、性的対象化批判を男性向けに厳しく・女性向け(BL)に甘く適用するという致命的なダブルスタンダードを抱えています。
権力行使の様態は学級会的な相互監視と内面化強要——自分の不快を「正義」にすり替え、表現の自由や多様な欲望を抑圧する生権力です。
この矛盾に自覚的になることが、BL文化やフェミニズムが本当に「解放」に向かう鍵です。
規制派フェミニスト(太田啓子、千田有紀、田中東子、堀あきこら)の主張を、**当事者(主にゲイ男性=BLの性的消費被害者、萌え絵批判の対象となったオタク・クリエイター)**との向き合い方で検証しました。情報源は公開発言、書籍、Twitter/X、炎上時の対応記録などです。
• 当事者との向き合い方:ゲイ男性やオタク当事者からの直接的な批判に対して、ほとんど応答なし。キズナアイNHK事件では萌え絵を「性的に強調した描写」「アイキャッチの具」と批判したが、ゲイ当事者からの「BLも同じ性的消費では?」という声には触れず、一般論(「女性の体は性的に強調されやすい」)に留まる。萌え絵批判の延長でオタク表現全体を問題視するが、具体的な当事者対話の記録は見当たらない。
• 自覚度:極めて低い。ダブルスタンダード(BL擁護 vs 萌え絵批判)や、ゲイ男性の表象消費の問題を「社会構造全体の問題」にすり替え、自身の主張が当事者の人権侵害に寄与している自覚は見られない。「法規制ではなく社会的な議論を促すだけ」と繰り返すが、結果として炎上・自己規制圧力を生んでいることへの反省はほとんどない。
• 当事者との向き合い方:キズナアイ事件で相槌の多さを指摘し炎上した際、Twitterで「印象操作」「ねつ造」と反論。ゲイ当事者やオタクからの「BLも同じではないか」という批判には直接応じず、「ジェンダー規範の再生産」という一般論で処理。BLに関する当事者対話の記録もほぼない。
• 自覚度:低い。批判を「恣意的なスクショ」「炎上演出」と切り捨てる防御的姿勢が目立つ。自身の主張がゲイ男性の表象を「女性の議論の道具」にしている自覚は薄く、「女性を励ます」という善意を優先。フェミニズムが「叩き棒」化することを後年懸念する発言はあるが、自身の過去の言動とのつながりを明確に認めていない。
• 当事者との向き合い方:萌え絵広告(宇崎ちゃん献血ポスターなど)を「ジェンダー規範の再生産」と強く批判。一方で2024年11月に自身が別名義(黒澤多香子)で過激BLポルノを書いていたことが暴露され、大炎上。ゲイ男性やオタク当事者からの「ダブルスタンダード」批判に対して、明確な応答・謝罪なし。暴露後も沈黙または間接的な擁護に回る傾向。
• 自覚度:極めて低い(ほぼゼロ)。萌え絵を問題視しながらBLで男性性を性的消費していた事実を、暴露されるまで公にしなかった。ダブルスタンダードを指摘されても「萌え絵=すべてポルノという誤解を正す」と一般論に逃げ、ゲイ当事者の「表象の横奪」という痛みを直視していない。学術者として最も自覚的であるべき立場で、矛盾を放置している点が特に問題視されている。
• 当事者との向き合い方:『BLの教科書』で「性の二重基準」を指摘しつつ、BLを「女性の性的主体性」として擁護。ゲイ当事者(前川直哉氏など)との対談形式で「BLはゲイに真摯に対応してきた」と主張するが、当事者の痛み(ホモフォビア再生産、表象の横奪)を十分に受け止めた形跡は薄い。批判を「BL無罪論の誤解」と否定するが、具体的な是正策は示さない。
•自覚度:部分的・限定的。BLの問題(ゲイのステレオタイプ化)を一部認め、「進化形BL」の必要性を語る点で自覚はある。ただし、男性向け表現への規制志向とBL擁護の矛盾を「女性の自由 vs 男性の視線」という枠組みで正当化し、完全な罪の自覚には至っていない。
• 当事者との向き合い方:ほぼすべての論者が、ゲイ男性(性的消費の直接的当事者)との真摯な対話を避けている。批判を「印象操作」「社会構造の問題」「誤解」と一般化・矮小化し、個別の痛みを受け止める姿勢が弱い。田中東子氏のように自身の矛盾が暴露された場合も、明確な謝罪や方向転換は見られない。
• 自覚度:全体的に極めて低い。 共通するのは「女性を守る善意」という枠組みで、自分の主張がゲイ男性の人権侵害(表象の横奪)やダブルスタンダードを生んでいることを直視せず、正当化・回避する点です。 これはまさに学級会的な権力行使:自分の不快(現実のゲイの声や矛盾)を「正義の議論」にすり替え、当事者の声を排除・無効化する構造です。
規制論者BLフェミニストは、「家父長制批判」を掲げながら、自らが新しい生権力の主体となって個人の性的欲望・表現を管理しています。罪の自覚が低いまま「女性の主体性」を主張し続ける限り、矛盾は解消されず、BL文化やフェミニズム全体の信頼を損なうだけです。
—これが当事者(特に同性愛者向け媒体)でよく見られるリアリズムであり、BL漫画や女性向け恋愛漫画が苦手とする(あるいは意図的に避ける)領域です。
以下で、同性愛者向け媒体(主にゲイ劇画/バラ系) と BL漫画・女性向け恋愛漫画 を、葛藤の扱い方を中心に比較します。焦点は「誇りと性欲の不一致」「男らしさ/女性規範の葛藤」「アイデンティティの再構築」が、破滅的か・解消的か・複雑持続的かという点です。
当事者目線(主にゲイ男性作者・読者向け)の作品では、男らしさの維持不能という自己認識の問題が核心です。田亀源五郎氏をはじめとする作品群では、以下の傾向が強いです:
• 葛藤の解消を拒否し、生き続ける形:超男性的なキャラクターが同性欲求で「受け」の立場に落ち、誇りと性欲の分裂に苦しむ。しかし、物語は「一気に破滅」で終わらず、屈辱・快楽・自己嫌悪・再構築の試みを繰り返しながら生きる姿を描くことが多い。
• 人間らしさの強調:葛藤は「解放された!」という爽快なカタルシスではなく、複雑で曖昧なまま残る。社会の偏見、内面化したホモフォビア、日常の継続が絡み、キャラクターは「新しい自分」を完全に受け入れきれず、矛盾を抱えて歩み続ける。
• ニュアンス:田亀作品や大正・昭和を舞台にした歴史ものでは、激動の時代の中でゲイとして生きる男たちが、愛と欲望の狭間で揺れながらも「生き抜く」姿が描かれる。破滅的エンディングも存在するが、それ以上に「複雑な心境の持続」がリアリティを与え、当事者にとって「自分ごと」として響きやすい。
• なぜ実感できるか:作者・読者が現実のアイデンティティ危機(ヘテロ規範社会での「男であること」の重圧)を体感しているため、ファンタジーとして「綺麗に解決」せず、生々しく不完全なままを描く。
BLは女性読者の欲求に最適化されたファンタジーなので、前の議論で触れた女性規範の変形(受けの受容葛藤) がストーリーの軸になります。
• 葛藤の扱い:受け側の「抵抗→羞恥→相手の愛による受容」というプロセスが主流。誇りやアイデンティティの危機は描かれるが、攻めの「本気の愛」や優しさで徐々に解消され、感情的・身体的なつながりで「受け入れる自分」を肯定するハッピー(または甘い)エンドに向かう。
• 破滅回避と理想化:複雑な心境を抱えたまま生きるより、明確なカタルシスを提供。生物学的傾向(オキシトシン系・関係性重視)や社会化された「女性らしさ」(Tend-and-Befriend)が反映され、葛藤は「美しいドラマ」として消費されやすい。
• 限界:現実の当事者葛藤(男らしさの崩壊の痛み、社会的プレッシャーの持続性)を「安全装置」で薄め、綺麗に解決する傾向が強い。結果、読者は安心して感情移入できるが、「実感できない層」(異性愛女性中心)がターゲットゆえに、持続的な複雑さは希薄になりがち。
• 現代の変化:一部「進化形BL」やリバーシブル作品では多様化しているが、商業主流では依然として「受容の解放」が心地よいエンドを約束する。
BLの「元型」と言えるジャンル。ヒロインの視点で「どう相手の愛を受容するか」という葛藤が中心。
• 葛藤の扱い:ヒロインの内面的葛藤(不安・抵抗・コミットメントの評価)が丁寧に描かれるが、ほぼ必ず相手の誠意やドラマチックな出来事で解消され、ハッピーエンド(または前向きな終わり)に向かう。
• カタルシス重視:複雑な心境を抱えた「未解決のまま生きる」より、感情の浄化と関係性の安定を優先。女性の関係性重視傾向がストレートに反映され、読者は「キュン」や安心感を得る。
• 実感の薄さ:同性愛特有の「男らしさ/誇り vs 性欲」のアイデンティティ危機とは構造が異なり、ジェンダー規範内の「受動的受容」が安全に消費される。
実感できる層(当事者) がターゲット → 葛藤は複雑で持続的。破滅もあり得るが、「抱えたまま生きていく」人間らしさが魅力。解決を強要せず、矛盾を内包したリアリズムを提供。
実感しにくい層(主に異性愛女性) がターゲット → 葛藤はドラマチックだが「安全に解消」され、カタルシスで締めくくる。女性規範の変形が心地よく機能する一方、現実の生々しい持続的痛みはファンタジー化されやすい。
この違いは、「ファンタジーの目的」 の差でもあります。当事者向けは「自分を映す鏡」として複雑さを許容し、女性向けは「逃避・解放・癒し」のツールとして葛藤を「美しく消費」する。後者は「破滅回避」の安心感を与える一方で、前者の「複雑な心境を抱えて生きる」人間臭さが欠けがちです。それがBLの「有害な女性らしさ」(固定化・解釈違い拒絶)ともつながり、界隈の息苦しさを生む一因にもなっています。
結局、人間らしい物語とは、綺麗に解決しない葛藤を抱えながらも歩み続ける姿を描くもの——同性愛者向け媒体がここで優位に立つ理由です。BLや女性向けがこの「持続的複雑さ」に挑戦する作品が増えれば、ジャンル自体がより豊かになるでしょう。
BL漫画の根本的な差別性に対して多くの愛好者が無自覚である点は、大きな問題です。これは「フィクションだから」「女性の性的表現の自由」という大義名分で覆い隠されやすく、結果として現実のゲイ男性への性的客体化(sexual objectification)やイメージの歪曲が放置されやすい構造になっています。
BLは主に異性愛女性が、男性同士の関係を「女性の視点」で創作・消費するジャンルです。ここに潜む問題は以下の通りです:
攻め/受けの固定化、受けの「受容葛藤」のドラマ、美少年中心の理想化など、異性愛規範(男らしい攻め・女らしい受け)を男同士に投影。現実のゲイ関係の多様性(役割の流動性、身体的多様性、社会的苦悩)を無視し、「綺麗でドラマチックな男同士の恋愛」というステレオタイプを広める。
90年代のやおい論争でゲイ当事者から強く批判されたように、ホモフォビアを内面化した表現が残存。現代でも「BLはファンタジー」と言いながら、ゲイのアイデンティティを「萌えの材料」に使う矛盾。
男性向けR18漫画(女性を性的対象にしたもの)は「女性差別」「オブジェクト化」と厳しく批判されやすい一方、BLは「女性の性的主体性」「家父長制からの逃避」として擁護されやすい。この「自分たちは無罪」という無自覚さが、ゲイ当事者から「表象の横奪」「性的消費」と見なされる最大の要因です。
BLファン側は「現実とは別」「傷つける意図はない」と主張しますが、無自覚ゆえに当事者の不快を「過敏な反応」と矮小化しがちです。
社会通念として「抜きのためのファンタジー」「現実の女性を代表しない」と広く認識されやすい。過激な描写(非現実的なボディ、シチュエーション)も「男の妄想」として一定の理解があり、批判されても「エロはエロ」と区別されやすい。
同じくフィクションなのに、「女性の感情表現」「関係性の深み」「LGBT理解につながる」と美化されやすく、現実との境界が曖昧にされやすい。結果、「BLは無罪」「批判=女性の性的表現抑圧」という防衛機制が働き、根本的な差別性を直視しにくい。
この差は、ジェンダー規範の影響が大きいです。男性の性的ファンタジーは「下品だが個人のもの」とされ、女性のそれは「関係性や感情を重視した純粋なもの」とされやすい文化的バイアスがあります。
二次創作界隈(特にBL/腐女子)で目立つ「学級会文化」(お気持ち表明、集団的注意喚起、排除・同調圧力の延々とした議論)は、関係性重視の女性社会化がネット上で毒化した形です。女性は進化心理・脳科学的にTend-and-Befriend(育てる・仲間を作る)のストレス反応が強く、所属集団の調和や感情共有を重視しやすい傾向があります。これが「正しい萌えを守る」「解釈違いを地雷扱い」「界隈のルール化」として現れ、異なる意見を「学級会の議題」に引きずり込みやすい。
• 女性の性的反応は男性より文脈依存・感情的つながり重視(オキシトシン系の影響が強い)。
• 関係性攻撃(relational aggression)が間接的に行われやすい女性文化が、二次創作で「正義の味方」として集団監視を生む。
ただ、これは「女性が悪い」という本質ではなく、生物学的傾向+社会化+ネット環境の悪循環です。男性向け界隈にもマナー問題はありますが、関係性重視の度合いが異なるため、学級会のような大規模感情共有炎上が少ない傾向があります。
BLの根本的な差別性(ゲイのオブジェクト化・イメージ歪曲・ダブルスタンダード)への無自覚は、フィクションの自由を盾に当事者の声を無視し続ける問題です。男性向けR18が「ファンタジー」と区別されやすいのに対し、BLは「感情表現」として甘やかされやすい点が、自己批判を難しくしています。学級会文化は女性の関係性重視傾向が極端化したもので、性的嗜好への入れ込みやすさと相まって、界隈の閉鎖性を強めています。
本当の解決は、フィクションと現実の棲み分けを明確にしつつ、当事者の声を真摯に聞くこと。ゾーニングの徹底や「BLは女性のファンタジー、現実のゲイを消費するものではない」という自覚が広がれば、両者が心地よく共存できるはずです。この無自覚さが続く限り、「BL無罪」はただの自己正当化に過ぎません。
https://anond.hatelabo.jp/20260405191108
あえてマジレスするけど、「今まで我慢してきた」と言う人はガチの害悪だから、ちゃんと精神構造を理解して今後その手のタイプの人間に付き合わないようにしような。
1つめ。 「何もしなかった自分」の正当化がしたいんだよね。受動的攻撃性っていうんだけど。
本来、不満があればその都度行動したり、意思表示をしたりするのが自然なんだけど
しかし、今までそれを怠ってきた自分を「怠慢」とは認めたくない。
そこで「忍耐強い善人」という設定を自分に上書きする。
「本当は言いたいことがあったけれど、和を乱さないために耐えてあげていたんだ」という物語に変換することで、過去の空白期間を「美徳」に変えているだけ。
実際はあなたがいうように何も考えてなかっただけで怠慢なバカです。
ふたつめ。 「悲劇の主人公」への変身っていう風ににも分析できる。自己ドラマ化っていうんだけどね。
「ついに限界が来た」「決意した」という言葉は、非常にドラマチックでしょ。
これを言うことで、単なる気まぐれや一時的な感情の高ぶりを、「長い葛藤の末にたどり着いた崇高な決断」のように演出というか自己洗脳できるわけ。
自分を物語の中心に置くことで、他者からの注目や共感を集めようとする自己愛的な防衛反応の一種らしいよ。
3つ目。これが何よりも重要なんだけど、行動のコストを払わないための「免罪符」として「我慢してきた」って言ってるケースが多い。
これ政治の件に限らず女の人がいってたら99%そう。
「我慢」という言葉を使う人は、具体的な過去のデータや論理を持たないことが多いわけ。
当然「具体的に何に、どう耐えたのか?」を詰められると答えに窮するよね。
これは、知的な議論を回避しつつ、自分の意見を絶対視させるための合理的なテクニックで、中学生くらいから常習犯的にやってる。
結局のところ、彼らが語っているのは社会の現状ではなく、「自分がいかに被害者であり、いかに正義に目覚めたか」という主観的な気分なわけ。
ね、こうやって分析してみると、彼らの言葉に「中身」がない理由がよくわかるでしょ?
「我慢してきた」っていうのは、過去の無関心を隠すための化粧みたいなもの。本当に社会を変えようと積み重ねてきた人の言葉ではなく、その時の「自分が正義の味方になりたい」という気分の表れに過ぎないんだよ。
だから、彼らがどれだけ「大きなうねりだ!」と騒いでいても、それはコップの中の嵐。実際の選挙という「現実の数字」になった瞬間に消えてしまうのは、そこに実体(具体的な理念や継続的な行動)がないからなんだ。
真面目に耳を傾けて「不思議だな」と悩む必要なんてないよ。彼らはただ、「今、怒っている自分」を肯定してほしいだけなんだから。そう思って、静かに見守って(あるいはスルーして)あげるのが一番だよ。
そもそも、俺の中でのラブライブって、スクールアイドルっていうタイトルの通り「学園アイドルとして、みんなで力を合わせて目標を達成する」っていう、ある種スポ根的な熱さがある話だったはずなんだよ。
なのに、2代目以降はどうも様子が違うというか……。
一番納得いかないのが、アニメの構成。 たった13話しかないのに、キャラクターの紹介と登場だけで7話も8話も使ってない?
話の半分以上をキャラ紹介に割いて、これ本当にストーリーを展開させる気あるのかよ、って毎回ツッコミたくなる。
初代の話になると、「あのシーンが熱かった」「あのキャラが良かった」って今でも盛り上がれる。
なのに、2代目以降の話を振ると、途端に会話のテンポが悪くなる。
「どんな作品だったの?」って聞いても、返ってくるのは「〇〇が可愛かった」っていう特定のキャラへの断片的な感想だけ。 ストーリーや曲についてもっと語ることがあるだろうって思うんだけど、そいつの説明が全然要領を得ない。
俺自身、実は『サンシャイン』から先はまともに見れてない。 何度か挑戦はしたんだけど
毎回途中で「話が動かないな、つまんねぇな」って思って、やめてしまう。
初代はあんなに熱く語れるのに、それ以降がキャラ愛以外の記憶に残らない。 長く続いてるコンテンツなのに、この「語れなさ」は一体何なんだろうって、本気で困惑してる。
気になって、他のアイドルものと比較してみたんだよ。 例えば『アイドルマスター』とか『バンドリ』とかさ。
あっちの作品には、ちゃんと「積み重ね」があるんだよね。 バンド同士の絡みがあったり、新メンバーに対して既存のメンバーがどう向き合うかっていう葛藤があったり。 ざっくり言えば、いざこざを経て仲良くなるっていう、人間関係の掘り下げがちゃんとストーリーとして機能してる。
アニメ以外でもショートアニメでキャラの幅を広げたり、アプリのシナリオでキャラの魅力を深く深く掘り下げたりっていう工夫がされてる。
ラブライブを見ると、アニメでもアプリでも、そういう「掘り下げ」が驚くほど感じられない。
2代目以降のファンは、一体どこでキャラクターに対してそこまでの愛着を持てるようになるのか、
これは煽り抜きでよく理解できない。 友人に聞いても、やっぱり説明は要領を得ないままだし。
これはさ、本人には口が裂けても言えなかったんだけど……。
2代目以降のコンテンツとしての強さって、実は公式のストーリーじゃなくて「エロ」に支えられてるんじゃないかって邪推しちゃってるんだよね。
エロ同人界隈での質の高さが異常で、そっち経由で「このキャラ、エロいし魅力的だな」って思わせる力が働いている気がしてならない。
だってさ、ラブライブのキャラってびっくりするくらい顔がみんなそっくりじゃない?
キャラデザとしては個性が薄いはずなのに、なぜかそっちの界隈ではめちゃくちゃ魅力的に見える。
もしかして、あの人気って公式の積み重ねじゃなくて、そういう二次創作的な盛り上がりありきのものだったのかな……。
さすがに現役のファンの前では言えないけど、俺の中では一番しっくりくる仮説なんだよ。
今はもう、昔ほどの狂乱的なブームも去って、好きな人だけが追いかける「身の丈に合った平和なコンテンツ」に落ち着いたんだと思う。
でも、そうなった今だからこそ、あの当時の熱狂の正体がますます分からなくなる。
結局さ、漫画家なんて当たればデカいし、涼しい部屋で絵を描いて、チヤホヤされて、守るべき「地位」も「資産」もあるわけじゃん? そりゃ戦争反対って言うわな。今の平和なシステムが続いたほうが、自分たちの利権が守られるんだから。
でもさ、こっちとら毎日クソみたいな仕事して、税金で吸い取られて、将来の希望なんて1ミリもない「下級国民」なわけ。
俺らからすれば、今のこの閉塞感しかない日常が続くほうが地獄なんだよ。
本当に持たざる者の気持ちがわかるなら、むしろ「一度全部ぶっ壊れてリセットされねーかな」って思うのが普通だろ。
戦争が起これば、今の不公平な社会構造も、偉そうにしてる上級国民も、全部ひっくり返る可能性がある。
ワンチャン、その混沌の中でしか逆転のチャンスなんてないんだよ。
それなのに、安全圏から「平和が一番」とか「命を大切に」とか、綺麗事抜かしてんじゃねーよ。
お前が守りたいのは平和じゃなくて、その平和に寄生してる「お前の快適な暮らし」だろ?
下級国民のリアルは「戦争反対」なんて余裕のある言葉じゃない。
知人に勧められて「俺だけレベルアップな件」って作品を観たんだけど、なんでこの作品がアニメになったんだ?脚本や原作は何を考えて作ったんだろう。
序盤に非力な主人公が知力で難所を乗り越えたところだけおもしろかった。
主人公が能力を上げるにつれて葛藤も欠点も減っていく。中盤は仲間がそばで死んでるトラウマがあるのに殺人への忌避感を示さず、終盤のシーンでは仲間が死んだ場面に似た体験をしても「ふーん」くらいで流している。こいつ人間か?
非人間的になっていく描写をもりもりにしたぶん、非人間さが欠点になるなんてこともない。これ、物語として成立してるんだろうか?
ドラマってキャラクターの人間的な欠点から生まれる感情や人間模様に、視聴者が感情移入してこそ面白いもんだと思ってたなあ。なんかつよそうなやつがつよそうな悪役をばったばった斬り伏せて、仲間っぽい薄っぺらい人間がすごいすごーいって言ってるだけの物語…
観なくていい作品だ。