はてなキーワード: 資格とは
https://togetter.com/li/2637029
オーム電機の発煙ガード(温度監視もしている)搭載タップだとやすいよ
でっぱるのが難点か
山上徹也被告の裁判について報道が見られるようになった。彼の生い立ちを含め他人事だと感じない。メディアでは、山上徹也被告はまじめな人物だと報じられている。私も同じ印象を受けた。
「兄の自殺への責任感、経済的な困窮が重なり、本来の標的ではない安倍氏につながった」
「私も肉親を亡くしたので、弁解の余地はない」
(出典:https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20251205-GYO1T00008/)
他にも、個人のNote記事を拝読した。彼の家庭環境についてまとめられている。
山上徹也被告の父が幼少期に自殺。これを契機に母親が統一教会に入信し、多額の献金。父の遺産まで失い、破産するほどの貧困状態に陥った。
彼は複数の資格を保持しており、努力家であることは十分に伺える。(出典:https://note.com/fukushimatakuya1/n/n894a829add3f)
すまないと思ってる。
ただ、彼と似た家庭環境に置かれた身として彼の気持ちがよくわかる。他人に機会を奪われ続ける人生、身を結ばない努力、大事にしていたものの喪失。俺も「なぜこんなにもうまくいかないのか」を考えると憎悪ばかりが募り、正気を保つのに苦労している。
山上徹也被告やその母親、統一教会。誰が悪い、誰が善いのような二元論では語れない。世の中にはそういう悲劇があると思う。
彼も自分がやっていることがまともじゃないことくらい、とっくに自覚していただろう。それでもなお実行に移すに至る動機が彼の生い立ちから垣間見える。
俺には嫌いなものがたくさんある。
「自分のふるまいが他人の人生を苦しめている可能性、加害性への自覚の薄さ」
「自分が理不尽なことをしている自覚がありながら、それを正当化する行為」
世の中には「そんなこと気にしなければいいじゃん、前向きに行こうぜ」とお気楽に言う人がいる。それは確かに正しい。理解されるなんて期待したところで無駄、気にする時間が無駄なんだ。
けれども。
それでも俺は時折許せなくなる。自分が、他人が、それを取り巻く全てが。その苦しみは「気にしなければいいんだよ」なんて言葉では片付けることができないほど、重く、正気を奪うほどドロドロとした汚泥なんだ。
びっくりなことに同じように福島瑞穂氏がでてきて、それに対しての罵詈雑言。
なんだかです。ちなみにうそもあって、健康保険証12月2日以降いった病院で使えてますが。(結構有名なところ)
高額なものを買えるとか贅沢ができることではなくて、「日常的に、あまり意識せず少額のモノを買えること」だと思ってて。
そういう少額の無駄遣いを「ラテ・ファクター」だの「ラテ・マネー」っていうらしくて、有名なファイナンシャルプランナーの人が書いた本に載ってる概念なんだとか。
正直なところ、第一印象は「有名なFPというわりには、こじんまりとした理論だなあ」と思った。
QOLを下げてまでラテ一杯レベルの端金をケチる意義は薄いだろって当時は思ってた。
そういやFPで思い出したけど、サバンナの八木もFP資格とって、それを活用した営業とかしてるよな。
そこでの鉄板ネタで、高級の酒瓶に安酒を補充して自分自身を騙すってのがある。
そうすることで自分は生涯かなり儲けてるって、ハチャメチャな概算しながら強弁するんだよ。
その他にも様々な節約術というかケチというか、FPとか関係ないような侘しいノウハウを披露していく。
ネタでやってるんだろうけど、つまりこれってラテマネーの切り詰めなんだよな。
有名なFPの人ですら言ってたことも踏まえると、マジでそういう細かな支出って侮れないんだろう。
個人的にも、近年の色んなものの値上げは実感してて、ラテマネーも甘く見積もれなくなってきたなって感じる。
でも、そういうことをいちいち考えないで済むのが“豊かさ”なんじゃねえのって、俺が最初に書いた結論に行きつくわけなんだけど。
逆にいえば、そういうことを気にする日々を送ってること自体“貧しさ”の証明にもなってる。
現状、生活的に何かを我慢してる実感は薄いけど、以前より俺は”貧しくなってる”んだと思う。
そういえば、最近はてブのホッテントリにもスーパーとコンビニの商品の価格差を調べるって記事あったよな。
結構なブクマ数になってたけど、あれも要はラテマネーの一環なわけで、それを意識してる人が多くいるってことだろ。
スーパーで買えば数百円ういて、三日に一回買い物するとしたら一か月で数千円、一年で数万円。
そもそも不必要だから買わないって選択をとれるなら更にいくし、それを投資に回せるならって……考えだしたらキリがないわけだが。
考え出したらキリがないのに、考えざるを得ない。
確かに図書館にも自習スペースはある。けど正直、数が足りなすぎる。席の取り合いみたいになってて、勉強したいだけなのに無駄に早起きしたり、席確保のために張り付いてる人までいる。
民間のコワーキング行けばいいって意見も分かるけど、気軽に使える場所が公営にももっとあっていいんじゃないのって思うんだよな。学生も社会人も、なんなら資格勉強してる人もみんな使うのに、この需要に対して明らかに供給が足りてない。
スマホの使い方にはめちゃくちゃ細かく規制入れるくせに、勉強したい人がちゃんと勉強できる場所については後回し。なんでそこは整備しないのか不思議で仕方ない。
別に否定はしないけど、そうやって自分の思い込み・自分の願いを起点に根拠めいたことを一切言わずに論を展開するのがいかにも典型的って感じ。
全国の女子大7校がトランスジェンダー女性の入学認める 16校が検討
出生時の性は男性で、自認する性は女性のトランスジェンダー女性(トランス女性)の学生について、全国の4年制の女子大を対象に毎日新聞が調査したところ、6校が入学資格を認めていることが判明した。
また1校が今後入学を認め、16校が受け入れを検討していることも明らかになった。トランス女性の受け入れに前向きな女子大が2020年度以降、徐々に増えている。
日本が正しい方向に発展している実感が湧いて嬉しい
「恋愛をしてみたい」じゃねえんだわ。
まずおとぼけビ〜バ〜の『ジジイ is waiting for my reaction』を聴け。
聴いたか?
じゃあ話を始めよう。
あのな、お前が中学の頃どうだったとか高校の頃どうだったかとかどうでもいい。
死ぬほどどうでもいい。
お前の恋愛に対する憧れもどうでもいい。
そんなもんはない。
毎日仕事をし、生活をしている人間が、「この人といるのは楽しい」「会えると嬉しい」「尊敬できる」と感じるのはどんな人間だ?
少なくとも、ただでさえ毎日忙しいのに相手をするのがめんどくせ〜奴や、こちらからの気遣いを要求してくる奴ではないよな?
会う時にいつも感じがいい。
機嫌が一定している。
人の事を悪く言わない。
デリカシーがあり、言いたくないことに突っ込んで来ない。
ふとした時に気が利く。
こういう人間との単純接触を繰り返していくうちに、人としての好感は確実に積まれていく。
要するに人望だ。
人望のある人間は人として好かれる。
一緒にいたい、遊びたい、話をしたいと思われる。
それだけの単純な話なのだ。
そういう人間的成長のための努力をせずに、「初期コストが〜」とか言ってるのかお前は?
バカか??
アルマーニのスーツを着ろとかロレックスの腕時計をしろとか表参道の美容院へ行けとか言ってるんじゃない。
周りの人間に対して能動的に善意を向けられる人間であれと言ってるんだ。
うちの職場は薄給だが、家庭のある人間、彼女のいる人間は多い。彼らは別にイケメンでもオシャレでもない。
たとえ地味な人でも「あの人を選んだ奥さんは見る目あるよね」と言われているタイプは一定数いて、そういう人たちは総じて普段から利他的な行動を取っている、人望の厚い人たちだ。
外向的な人もいれば無口で内向的な人もいる。
問題はそこではないのだ。
だから会話が下手とか口下手とか共通の話題が〜、とかしょうもない言い訳をするな。
お前がフッ軽な陽キャだと思っている人間の中で、自分に自信があって喋るの大好きな、生まれついてのムードメーカーなんて半分もいない。
残りの半分以上は(というかほとんどの人間は)「自分から話振ったりするのは面倒だけど、誰かがやらなきゃ場が回らない」「疲れてるけど顔に出したら場が暗くなるから」という義務感(善意)で、場を回したり自分なりの笑顔でリアクションしたりしてる、普通の人間だ。
コミュニケーションにおいて、見返りを求めずにそういう努力を継続したことはあるか?
口下手でも口下手なりに、黙々と誰かの役に立つことはできる。
見ている人は見ているから人望は必ず付いてくる。
この人になら相談できると思って異性から相談を持ちかけられたりすることもあるかもしれないし、そこでも変な下心を出さずに真摯に振る舞えば、そこからまた親密になるかもしれない。
そんな事は起こらないかもしれないが、起こらなかったからと言って誰も損はしないだろう。
お前が周りからうっすらと「良い奴だな」と思われ続けるだけだ。
それでも同性から人望を集めれば、出会いのきっかけも増えるだろう。
女を口説こうとするな。
自分のことばかり考えるな。
時には割を食ってでも人を助けろ。
ごくごく当たり前の、こういう心構えなんだよ。
お年寄りを助けろ。
道を譲れ。
店員にお礼を言え。
人の話を興味を持って聞け。
相手が興味があることに興味を持ち、相手が大事にしていることを大事にしろ。
それが人を尊重するということだ。
「女だから荷物を持ってあげる」とか「女だから歩道側を譲ってやる」とかじゃないぞ。
男だろうが女だろうが大変そうなら手伝ってやり、そうじゃないなら余計なことはするな。
人として当たり前のことだ。
ここまでやっても好かれないかもしれないんでしょ?僕ちゃん傷つきたくないよぉ〜と言っていたいなら一生やってろ。もう知らねえ。
だがな、40代独身だけどデートして連れ回してほしいみたいな事を書いてた増田もいたが、お前らがやりたいデートだの恋愛だのにおいて「相手が払っているコスト」という概念を忘れてないか???
遊園地で手作りのお弁当食べてイチャイチャしたいと言うとき、相手の女(別に男でもいいが)は、お前と遊ぶために休日の時間を割き、前の日から準備をし、その日やる予定だったことを別の日に回し、何を着るか、何を話すか、何を食べるか考え、楽しい時間を過ごすために気を遣い、頭を遣い、金を使うわけだ。
人生のために大事な資格の勉強とかを後回しにしてお前との時間を取るかもしれないのだ。
そのことをスッポリ考えから抜かして、「女の子に好きなように連れ回してほしいよぉ〜」じゃねえんだわ、甘えん坊か?
タクシー代全部払わされて道中無言でスマホいじっててもいいならともかく、お前らは自分と過ごしてニコニコ楽しそうにしていてほしいんだろうが。
会話を弾ませ、素敵な服を着て、機嫌を悪くすることもなく。
相手にそれを要求していることに全く無自覚なまま、自分は受動的でいいと思ってるのか?
王様かお前らは。
私がどういう立場からこれを書いているのかも表明しておこうと思う。
会社員として、どちらかと言えば男が多めの職場で働くミドサーの女である。
若い頃は別にモテる方でもなかったが、この年齢になって「手近なところでワンチャンいけそうな、レベルの高すぎない独身の女」としての需要が出てきてしまい、下心ありありの非モテのおっさん(同世代〜50代)によく絡まれている。
奢ってあげるから飲みに行こうだの、ご飯食べに行こうだの、チケット取ってあげるから◯◯行こうだの、今暇?だの
うるっっっっせええええんだよ
黙れ。散れ。こっちの反応を横目に窺うようなその気色悪い顔をやめろ。
ワンチャンねえんだよ。
お前らにとっては私はキャバクラのお姉ちゃんやP活より金のかからなそうな手近な女かもしれないが、私はお前らと出かけるために化粧をしたくないし、十年くらい前で時代が止まってるつまんね〜話をニコニコ聞きたくねえんだよ。
それと総じて「◯◯してあげる」って上から目線だけど、どうしてこっちから望んだわけでもないのに実費さえ出せば感謝されると思ってるんだ。
大体、なんにも努力はしたくないけど恋愛はしたいよぉ〜、セックスはしたいよぉ〜、なんつ〜のは、すね毛も乳毛もボーボーに生やした女が鼻くそほじりながら「イケメンにクンニされてえなあ〜ありのまま愛されてえ〜」とほざくようなもんなんだよ。
嫌だろそんな女。
目の前の相手に、「女」という幻想や幻覚ではない、人間としての興味関心を持ち、相手が嫌がるだろうなとか、困るだろうなと思うことはやるな。
なおワイ自身は実際に試していない。いろんな記事とかgeminiに壁あてしてまとめた。
【年間で得する金額】
年間で約100万円ほど得する。
【手順】
失業給付の取得、国民年金(全額免除)、住居確保給付金の取得、国民健康保険(減免)を組み合わせた手順です。
【今回省いた給付など】
あれだけ CM とか出してたし、オンライン英語コーチング業界の先駆けのような存在だったので、もうちょっと話題になったりするのかな と思ったけど思ったよりずっと 静か。
そんなもんかと、苦笑する。
私の中ではなんか1つの時代が終わったような感覚だったんだけどな。
実はこの発表を私は1ヶ月前に聞いた。
何が悲しいって、入院中に手術した翌日に痛む腹を抑えながらパソコン開いてslackみたら全員閲覧必須の資料が配布されていて、何だろと思いながら見て知った。
もう1回 麻酔かけてほしいなって思ったよね。
ただそれを 複数社掛け持ちしてフリーランスで本業としていたのが私。
フルリモートで田舎ではいかせない 英語力を活かせるこの仕事は天職だと思ってた。
私がこの仕事を始めたのは7年前で、前職で心を病みかけて退職してから 途方にくれてた時に、たまたま 個人でされてた 英語コーチの方に出会って、これだ!と思ったのがきっかけ。
当時は個人で高額の授業料で引き受けるコーチしか居らず、その人たちの経歴もすごかったので、私はとても入り込めないと諦めてたところに、偶然 冒頭の大手企業が 業務委託の英語コーチ募集をかけていて、その場で応募して翌週には東京まで夜行バス 乗って面接受けに行ったのだ。
人手が足りなかったのか、英語コーチとして採用された時は本当に嬉しかった。
ただ 一社だけではさすがに食べていけないので、バイトを掛け持ちしたり、英語コーチの需要が高まるのに合わせてToeic以外にも英会話や別の資格のコーチングスクールと兼業。
コロナも問題なく 乗り越えることができたのも この仕事だったからだと思う。
これからずっと なくなることがない仕事だと思ってたんだけど、この数年の生徒数の減少(需要と供給が逆転した)やブラックよりのコーチングスクールの噂も 聞くことが増えてきて、これ以上伸びることはないなと感じていた。
そこに来て 私の恩社の撤退。
関係ないけど、その前日に手術で子宮を取ったのもあり、なんか幕が降りたなと思った。
この会社でも他の2社でもまだ担当している生徒はいるし、卒業まで まだ時間がかかる人もいるから 続けはするけど、退院してからすぐに 履歴書 書き直して、仕事探し始めたよ。
やりきったなっていう感じ。
あんな 大手企業と自分を重ね合わせるのはおこがましいんだけど、英語コーチとしての仕事とあのサービスは私にとっては切り離せないものだから。
初めて社会人として生きてていいんだって思えた仕事だったから。
今更 外で働くのは絶対嫌だったので、フルリモートでこれまでの経験がいきるような職種をぼちぼち 探してるところ。
それしかなかったらやるけど、あんなに好きだった 英語を見るのも嫌なぐらい勉強して、挫折して、英語コーチになってやっと英語をただの道具と思えるようになった。
もう 執着しなくていいんだって思うとすごく楽でもある。
そんなわけで、英語が大好き!って言ってる 英語コーチのこと 私は嫌いですw
なんかどこに 吐き出していいのかわからなくて 匿名なら大丈夫かなと思ってここに書いてみた。
読んでくれてありがとう。
そもそも是正される前は男性が下駄を履いてきただけなので、下駄を脱がされただけで被害者面されてもという感じ。何ならこれは女性に歩きやすい靴が与えられただけで、男性は下駄を脱がされてすらいない。
そしてこの下駄は、京都大や東京科学大を受験しようとしている、今の男子高校生たちも履かされてきたものだ。中高年の男性達と変わらず、彼らも生まれ持っての特権の中で生かされてきたんだよ。
未成年だからといって彼らに被害者ぶる資格はないよ。恨むなら自分の性別とその性別に産んだ親、それと過去の同性達を恨んでほしい。
さてまずは事の経緯から。
娘が中学生となり第一子の息子が中学生となった際にそうであったようパソコンを買い与えることになりました。ここまでは良いです。私も了承してます。
何故なら夫はプログラマー、情報技術者であり、私はそこまで詳しくはありませんが、相応の資格や会社での立場を持っているようです。生活に困らない程度には稼いで下さっているので収入面では大いに感謝しています。
しかしながら今回の娘のパソコン導入という問題から私たち夫婦は喧嘩をしてしまいました。夫は「娘に買い与えるパソコンOSをLinuxにする」と言うのです。
実は息子が使っているパソコンのOSもLinuxであり、何なら我が家にあるパソコンはすべて中身がLinuxです。その理由が夫の言葉を借りるなら「俺はLinuxフリークだ」そうです。意味がわかりません。
娘が欲しいと言ったパソコンはMacBook Air。デザインも可愛くてお洒落でデザイナーさんも使っているし、はてなーにも愛されています。夫は言うのです「いや一般目線でWindowsへ行きたいって言うならまだしもMacって意味わからなくないか?」と疑問の表情を隠さないんです。
そもそも我が家でiPhoneを導入するか?Androidを導入するか?となった際も私は言い負かされてAndroidになっています。「様々な形のデバイスへ触れることが大事で単一のデバイスの何処に多様性があるのか?」らしいです。
もう何を言ってもダメなんです。「固有機能を使うなら別だがユニックスと見てもリナックスと出来ることにそう大きな違いはない」とか、「Chromeが使えるからWebも問題ない」とか、「学校のタブレットはLinuxであるChromeOSだろ」とか、「アドビは無いがアドビ今まで我が家で使ってない」とか、「不具合があっても俺が居る」とか、「そもそも俺が買い与えようと思ってたのはデスクトップ。GPUも付ける。何で処理性能的に不利なラップトップ?」とか。
新築立てるときとか家電とかでは私の意見を聞いてくれたしいろいろ買ってくれるのに、何故かパソコンだけは譲らないんです。
頼みの息子も「言うほど不便じゃない。まぁ動かないSteamのゲームがたまにあるけどSwitchゲー動かないみたいなもんだし慣れたわ別ゲーやりゃ良いし」とそっけない感じ。そもそもこの子は小学生の頃からラズベリーパイで夫と電子工作やゲームして遊んでて、この子にとってパソコン=Linuxなんです!味方として頼りにならない!
別にMacBook Airで良いと思いませんか?Linuxなんて使ってる人見たこと無いじゃないですか!そんなに処理性能が大事ですか!?どうやったら夫を倒せますか教えて下さい!!!!!
お金の知識を増やそうと、ちょっと勉強したいなって思う。独学で投資やら株式やらやってきたけど構造的に学ばないとね。
Amazonで資格系テキストを眺めてたんだが、ふと、テキスト買ってイチから勉強って効率悪くね?と。
つーわけで今回はWebコンテンツ+AIで学習コンテンツ組んでみた。
やったことは
・Geminiに「某資格を解説してる動画教えて」と「解説軽Webサイト教えて」と指示
・動画とサイトURLを抽出してNotebookLMに食わせる
・カテゴリごとに学習したいのでGoogleスプレッドシートでカテゴリごとの学習ステータス管理できるようにシート改修
・カテゴリごとに「要点」と「間違えそうな点」を中心にNotebookLMにまとめてもらって、メモを作成。ついでに音声概要も生成して流し聞き。
・最後は、コンテンツごとのメモ(≒カテゴリの章ごと教材)をMS onenoteにアップして、タブレットで学習 ←いまここ
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1. 歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3. 格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4. 結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義: テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点: 共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A 現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B 社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放): 大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入: 問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保: 大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資: システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定: 選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み: 共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜: 難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果: テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論: 現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
早慶の就活生です。将来的には事業会社でのコーポレートファイナンス関連のマネジメント職に就きたいと考えています。 新卒でメガバンク(財閥系の2つ)に入って30歳くらいで事業会社財務部に転職するコースと、新卒から事業会社に入って経理部から財務部に異動するコースのどちらかで悩んでいるのですが、どちらの方がおすすめでしょうか。 なお、おそらく耐性がないだろうと自覚しているため外資系金融機関や日系証券会社などは考えていません。
貴方の質問には、将来の目標に対して根本的に理解が欠けている、いくつかの致命的な欠陥が見受けられます。
貴方が目指す「事業会社でのコーポレートファイナンス関連のマネジメント職」とは、単なる経理や財務の実務担当者ではありません。M&A、資金調達戦略、事業ポートフォリオ管理といった、経営の根幹に関わる意思決定を行うポジションです。
メガバンクでの経験は、融資側の「業者目線」は身につきますが、事業会社側の「当事者目線」での意思決定経験は、基本的に積めません。「30歳で財務部に転職」したところで、貴方は単なる金庫番の延長線上からのスタートを切ることになるでしょう。
「外資系金融機関や日系証券会社は考えていません」とのことですが、それらで培われる極限のスピード感、高度な分析力、そしてプロフェッショナルとしての緊張感こそが、コーポレートファイナンスのマネジメント職に必須の資質です。
その「耐性がない」という自覚は、裏を返せば「私は楽な道を選びたいが、最終的な地位だけは手に入れたい」という甘えでしかありません。マネジメントとは、耐性が問われる最もタフな仕事であるという事実から目を背けているに過ぎません。
事業会社において、経理と財務は役割が大きく異なります。経理が過去の数字を正確に報告する守りの機能だとすれば、財務は未来に向けて資金を動かし、資本効率を最適化する攻めの機能です。
新卒で経理に入り、そこから財務への異動を待つコースは、最も時間の浪費となる可能性が高いです。なぜなら、異動の確約はありませんし、経理で培うスキルセットは、必ずしも高度なコーポレートファイナンスに直結しないからです。回り道をしている間に、貴方の同期は外部で遥かに専門的な経験を積むでしょう。
真にコーポレートファイナンスのマネジメントを目指すのであれば、貴方が考える二つのコースは、どちらも二流の選択肢です。
これは共通ですが、入社するのは「コーポレートファイナンスが経営戦略の核」となっているグローバルな大企業、またはM&Aを繰り返す成長企業を選ぶべきです。
最初からファイナンス戦略、事業評価、リスク管理に携わる部署に入り、経営者視点を鍛える必要があります。
30歳までに、国内の異動頼みでなく、自分の市場価値を客観的に高める資格や学位を、自己投資で獲得しなさい。
本当にマネジメント職を志すなら、最初からその専門性と経営への影響度が高いポジションを、臆病な選択肢を排除して狙うべきです。
「教育虐待ガー」とか言ってる層って、マジで日本の教育システムを単なるブラックボックスとして捉えてるんだよね。
でも実際は、日本の教育は 競争アルゴリズムに基づく階層ソートシステム なんだよ。
入力パラメータ(学習量)を下げれば、アウトプット(進学・所得・婚姻市場ポジション)が劣化するのは 仕様 であって感情論じゃない。
だから「可哀想だから詰め込みやめろ」と言うのは、システムの根幹ロジックを理解せずに設定値を勝手に下げる危険なパラメータ変更なんだよ。
日本社会は
つまり教育を削るという行為は、スコアリング関数の入力値を意図的に下げるのと同義。
当然、最終アウトプットは弱者男性という低スコア領域に落ち込む可能性が跳ね上がる。
これを下げた瞬間、
進学機会が減少(選択肢のサブセット化)
という 不可逆なデグレードが発生する。
これを回避するには、インプットを削らないのが最も効率的なんだよ。
まるで、性能要件を理解しない非エンジニアが、「その処理重くない?」とだけ言ってくる感じ。
それは 数千万〜数億円規模の長期的機会損失 という隠れたデフォルト・リスク。
でも外野はただの**無責任ノイズ(noise)**を発してるだけで、何ひとつ責任領域を持たない。
損失補償者(compensator)
意思決定権者(decision owner)
が一致している必要がある。
しかし「教育虐待ガー派」は意思決定に関わるくせに、リスクも損失も負わない。
これ、システム開発なら完全に アンチパターン(責任分離の破綻) なんだよ。
「サラリーマンの平均生涯年収3億円」はよく語られるけど、教育量の削減によって階層ダウンした場合、これは普通に大きく失われる期待値なんだよ。
つまり外野が無責任に発する「可哀想」って言葉は、他人の将来資産を数億単位で毀損するトリガーになり得る。
そのリスクを認識していない時点で、教育議論に参加する資格がない。
最終的に問うべきなのはこれ。
当然、誰も取らないし、払わない。